田中角栄 同心円でいこう  新川敏光  2018.12.13.


2018.12.13. 田中角栄 同心円でいこう

著者 新川敏光 1956年生まれ。トロント大大学院政治学研究科博士課程修了。Ph.D. in Political Science。現在法政大法教授、京大名誉教授

発行日           2018.9.10. 初版第1刷発行
発行所           ミネルヴァ書房(ミネルヴァ日本評伝選)

田中角栄 日中国交正常化や日本列島改造論などの政策への再評価が進む一方、ロッキード事件などで金権政治の権化とも批判される。昭和という時代を駆け抜けた田中が目指した政治とは何だったのか。本書は、田中政治の軌跡を辿りながら、戦後民主主義を再考する

同士円でいこう:創政会発足に際し、田中邸を訪れた竹下や橋本らに対して角栄が発したと言われる言葉。対立関係を先鋭化させず、大きな円の中にすべてを包み込もうという田中の政治観をよく表す言葉である

蘇る田中角栄
生前は日本政治の元凶、悪の権化として轟々たる非難を浴びた角栄は今や称賛の的
石原慎太郎のような田中政治批判の先頭に立った人までが称揚、石原とは政治スタンスを異にする政治評論家の佐高信も高く評価クリーンなタカ派よりダーティーなハト派のほうがいいと言ったり戦後民主主義擁護という観点から丸山真男とひとくくりにする
周囲の人たちが彼の恩を忘れず官僚たちが従ったのも彼のアイディアに心服したからでありそのアイディアを実現する決断力と実行力が備わっていた
角栄の天才は与えられた文脈の中で最大限の効果を引き出す選択をするところにあった
高度経済成長の成果を地域間格差是正に振り向けたところに、そしてそのことによって戦後民主主義の潜在力を1つの極限まで引き出したところに角栄の天才が見られる
本書では田中政治を通して戦後民主主義というものを改めて考れば、角栄と言う存在が戦後日本政治にとって持った意味がより鮮明に浮かび上がる

第1章        草創の時代
16歳の時理研の総帥大河内正敏を頼って上京をするが話が通っておらず体よく追い払われ、その後勤めた先が理研の取引があり大河内と偶然エレベーターで乗り合わせるその後偶然が重なりそのうちに自ら立ち上げた会社と理研との取引が始まる
太平洋戦争開戦直前に27ヶ月の軍隊生活を病気で除隊、飯田橋近くの主人が亡くなった坂本組の娘と結婚して事務所引き継ぎ、田中土建と改称して仕事を始める
44年企業整備措置法によって零細業者を吸収合併し瞬く間に大きくなる
終戦直前理研の工場を朝鮮に移転する大仕事を請負い大金を手にする
終戦の時東京の家も事務所も全て無傷でに残る

第2章        若き血の叫び
戦後初の選挙で進歩党党首選に大金を寄付、選挙で勧められるままに出馬したが落選
47年第2回選挙で初当選、徹底的に地元を回って票を掘り起こした草の根民主主義の始まり
各地の田中党はやがて越山会という後援組織に一本化 ⇒ 南魚沼郡が最強
当初の草の根民主主義的色彩は弱まり、陳情と利益誘導の団体へと純化していく
​48年幣原喜重郎と共に自由党に移籍、吉田茂の懐に飛び込み、保守本流に潜り込む
疑獄事件で崩壊した芦田内閣の後継を、GHQが吉田を嫌って幹事長の山崎猛を推してきた際、角栄が内政干渉だと反発、第2次吉田内閣誕生に貢献、法務政務次官に抜擢
48年末収賄容疑で逮捕され、獄中から立候補し当選
収賄容疑は50年一審では有罪となったが、51年二審で無罪 ⇒ 弁護士が正木亮、国際興業小佐野の弁護士も務めており、角栄を引き合わせ、以後刎頚の友に
角栄の豊富なアイディアは、その議員立法によく表れて(ママ)いるし、若き角栄が中央政界で頭角を現すことになったのも議員立法によって ⇒ 生涯で33本成立、うち25本は最初の10年、しかもそのうちの21本は5052年の最初の3年間に集中
国土総合開発の重要性を説き、建設行政の一元化を主張 ⇒ 総合開発小委員会委員長に
議員立法のハイライトは道路3法 ⇒ 道路法、ガソリン税法(道路整備緊急措置法→大蔵省の税配分権を阻止し、道路整備の特定財源に)、有料道路法(道路整備特別措置法)
ガソリン税は建設省官僚が角栄に知恵をつけて悲願を実現させ、逆に成立の1年後には角栄が建設省の支援を得て、三国峠を取り崩しで関東に偏西風を通り抜けさせ新潟の豪雪問題を解決するといった大言壮語の実現に成功
奥只見の電源開発では、自然の水の流れに沿って圧倒的に有利な福島案に対し、吉田茂も巻き込んで新潟案をごり押しし、最終負けはしたものの莫大な公共事業と補償金を新潟県にもたらし、角栄は人脈を得たのと県内土建業界育成に成功

第3章        実力者への道
57年岸内閣の郵政相として初入閣(39歳、当選5) ⇒ いきなり郵政省に架けられていた、国労と共に「戦う総評」の代表格だった全逓の大きな看板を外させるが、直後に亡くなった秘書の代わりに全逓の大出俊書記長を採用しようとさえした
テレビの大量免許発行に踏み切るとともに、積極的にマスメディアの政治的有用性を理解して利用。郵便局の増設も進め、特定郵便局は長期にわたり田中派の強力な支持基盤に
61年政調会長 ⇒ 診療報酬見直しで武見太郎医師会長と渡り合い、自民党の提案書を白紙のまま著名して武見に渡して、武見に一任したので、武見も原則論に留めた
62年池田内閣の蔵相 ⇒ 池田も車夫馬丁には蔵相は務まらないと言い、大野伴睦、河野一郎、藤山、川島も4者会談で反対したが、盟友で首相秘書官だった大平のバックアップで実現
19億ドルのガリオア・エロア資金の返済問題、IMF8条国移行とOECD加盟を実現
64年のIMF総会東京招致実現も田中の功績 ⇒ オリンピック開催を梃子に、ヤコブソンIMF専務理事、ブラック世銀総裁の支持を得て成功
65年の山一救済で手腕発揮 ⇒ リスクテイクを渋る都銀、日銀を一喝、特融に踏み切る
65年佐藤内閣の幹事長 ⇒ 54年半務め、当時の在任最長記録
日韓基本条約批准問題 ⇒ イデオロギーや観念論を切り捨て、善隣外交として押し切る
6668年黒い霧恐喝詐欺事件で、小佐野も絡んで追及を受け幹事長辞任 ⇒ その間に国土総合開発の構想を練ったのが、後に日本列島改造論に繋がる
68年大学運営法を巡り安田講堂一時占拠、機動隊投入。日大では使途不明金問題で紛争
69年学生の反乱に対し、角栄の陣頭指揮により国会を強行突破、師走選挙で国民の信を問い、小沢、羽田、梶山、渡部など田中チルドレンを多勢誕生させ大勝利を収め、佐藤首相は70年の安保条約自動延長を乗り切り沖縄返還に道筋をつけ総裁4選を果たす
71年の参院選で伸び悩みの責任をとって幹事長辞任、首相の同郷の盟友重宗が議長として参院を仕切っていたが、年功序列を無視して首相の親友だった鹿島建設会長の平泉を科技庁長官に抜擢したことから、田中シンパの河野謙三を中心に重宗追い落としが始まり、田中の前に立ちはだかっていた参院自民党の壁が崩れる
71年佐藤改造内閣で通産相就任 ⇒ 暗礁に乗り上げていた日米繊維交渉を3か月でまとめる。沖縄返還の見合いに大幅譲歩を約束していたこともあり、その線に沿って国内業者に2,000億ドル(ママ)を損害補償として確保。秘書官の小長啓一(のちの通産事務次官)が政官の役割分担の典型として絶賛
72年自民党総裁選に向け『日本列島改造論』発刊、90万部のベストセラーとなり、具体的地名が入っていたこともあって地価の急騰を招くが、73年の第1次石油ショックで葬り去られたものの、内需拡大による経済成長を目指す「大きな政府論」、更には福祉国家論迄盛り込まれていた

第4章        田中政治のアイディアの源泉
経験主義(具象思考)に基づく ⇒ 国民が飢えずに生活できることが最重要課題。発想自体は独創的とは言えないが、政策として実現してしまうところに誰にも真似のできない独創性があった
発想の原点は理研時代 ⇒ 農村経済の立て直しや農村振興の方法として農村の工業化、農工一体論は大河内理論そのもの
新潟県初代民選知事の岡田正平にも私淑 ⇒ 郡内きっての名望政治家。農工併進を訴え、資源開発とりわけ水力ダムの開発に注力、暖国政治(寒冷積雪地帯を軽視)の打破に邁進したことが田中政治の原型となっている
南の岡村貢初代南魚沼郡長 ⇒ 私財を投じて上越線開通に生涯を捧げるが、日清戦争後のインフレで倒産、大正期に安田財閥が実地調査開始に及んで漸く国が動き出し、清水トンネルが貫通して31年完成。角栄も岡村の遺志を継ぎ、上越線を複線化、上越新幹線敷設、国道17号線の大改修、高速自動車道を開通させ、広域経済圏確立によって生まれる経済効果を強調
北の大竹貫一 ⇒ 日露講和条約反対など典型的な国士だったが、普選実現に尽力。新潟3区の信濃川の支流による水害回避のため大河津分水工事に財産を使い果たす
初代秘書の曳田照治(191757) ⇒ 角栄の1学年上、復員後戦友の紹介で田中土建に入り、角栄が政治に足を入れてから10年の間二人三脚で走り抜けた。選挙の基盤を作り、演説を教え、政策を立案。郵政相就任を機に独立して、同じ選挙区から立候補しようとして険悪になりかけるが、直後に急逝。角栄は勲6等叙勲に尽力
戦後日本の民主主義とは、農地解放によって名望家階層を解体し、「名もなき貧しい」庶民たちを政治の主体とするところから出発 ⇒ 田中もその1人で、私財を投じて政治を行う(⇒井戸掘り政治家)のではなく、社会の中にある潜在的資源を集約動員して、政治に打って出る、政治的事業家と呼ぶことが出来る。自らが代表する部分利益を組織化し、政治舞台で効果的に実現する能力に長けていた

第5章        首相時代
72年田中派旗揚げ、81人が集結
佐藤首相は71年の内閣改造で中曽根を総務会長に抜擢し、次期総裁選への出馬を要請、中曽根の田中支持を止めようとしたが、中曽根は出馬を見合わせ、同郷の先輩福田を裏切って勝ち馬に乗ろうと田中支持に回る。第1回投票で田中は福田を6票差で上回り、決選投票では3位の大平票を加えて圧勝。110百万円といわれ、金の力で勝ち取った
72年大平を外相に据えて、一気に日中国交正常化を図る
資源外交 ⇒ アメリカからの自立を目的とした石油スワップ協定と原子力発電の推進
東南アジアとの新しい関係の構築 ⇒ 東南アジア青年の船スタート
日本列島改造計画は、ニクソンショック後のインフレで挫折、都市の過密を放置したまま土地への投機を煽る結果となり、総需要抑制策へと180度転換
社会保障関係支出の急増 ⇒ 厚生年金の支給額が平均標準報酬の60%と3倍増となり、年金が老後生活の支柱として生まれ変わった。老人医療の無料化も実現し高齢者医療費の伸び率は年55%に達し、高額療養費支給制度も新設
72年末の衆院選で、最も得意としていた選挙で、現有勢力を下回る ⇒ 保守の乱立、日中国交正常化よりも列島改造論を前面に押し出し大資本優先の不評を買う
選挙制度改革で小選挙区制を提唱、与野党からの反対を押し切って強引に進めようとしたことが墓穴を掘る結果に ⇒ 支持率の急降下(発足当時62%→27%、不支持率44)
737月の参院選では、金権選挙に加えてタレント候補の擁立、企業ぐるみ選挙の実施と、史上最悪の乱戦の中、自民党は選挙前を下回る
日中国交回復で提携した三木を冷遇したことが、三木・福田連合による反田中体制強化に繋がる ⇒ 徳島で三木派の現職候補に対し田中派から後藤田を立てたのが決定的分裂

第6章        目白の闇将軍
7411月『文藝春秋』掲載の立花隆の論考『田中角栄研究―その金脈と人脈』と児玉隆也の『淋しき越山会の女王』が田中退陣の引き金 ⇒ 11月末に党総裁を辞任
76年ロッキード問題浮上で、レイムダックの三木政権が蘇生 ⇒ 田中が状況を甘く見て、三木おろしを画策したために、窮鼠猫を噛むかたちで元首相逮捕へと進む
76年末福田内閣誕生 ⇒ 大平を幹事長として蜜月、禅譲まで示唆したが、福田の驕りから禅譲を反故にしたことが不和を招く
78年末の総裁選では、予備選で不利を伝えられていた大平が、田中と後藤田の支援で2位の中曽根どころか1位の福田にまで圧勝、大平総裁が実現するも、直後の衆院選では大蔵省から進言された一般消費税導入に対し、自らが蔵相時代に福田内閣の内需拡大策によって赤字財政への道を進んでしまったという自責の念を持っていた大平が、きちんと説明すれば国民の理解を得られると判断して選挙前に新たな負担を求めると明言したため、国民はもとより党内からも反対の大合唱となり、選挙では惨敗 ⇒ 福田派以下の反主流派から退陣要求が強まり首班指名では大平と福田が並立するという醜態を演じ、更に社会党の内閣不信任案は反主流派の欠席で可決。衆参同時選挙となり、大平派選挙中に急逝、弔い合戦となって圧勝
新首班に大平派から総務会長を10期務めた党務の人鈴木善幸が田中の推薦で就任し、田中の院政(角影内閣)が確立。党運営の実権は田中派が握る
82年の総裁選では、鈴木が田中の干渉を嫌って突然の不出馬を宣言、田中派内の軋みもあったが田中は10年前の総裁選で応援してくれた中曽根に恩義を返すべく総裁に擁立
1次中曽根内閣は、後藤田を官房長官に取り込んで、行政改革を目論む
83年田中に懲役4年の実刑判決が下り、翌々月の「田中判決解散」では自民党が大敗、中曽根も反主流派からの退陣要求に対し、「田中の政治的影響力を一切排除する」との声明を出さざるを得なくなる
85年金丸・竹下を中心に政策グループ「創政会」発足 ⇒ 田中は一度了承したが、世代交代の危機感から断固阻止に動くも、一旦加速した動きは止まらず、結局「同心円でいこう」と態度を軟化、翌月脳梗塞で倒れる。田中の勝負勘の鈍りが出た結果
田中派は事務所を閉め、二階堂が木曜会の会長となって派閥を統率しようと走るが、田中家の反感を買って、同年の選挙では衆参同時選で自民が歴史的大勝、中曽根が続投
87年の総裁選では、ようやく二階堂が田中からお墨付きをもらって立候補するも、党内も田中派も「経世会」を立ち上げた竹下幹事長支持へ雪崩を打って傾斜、竹下は田中派を一気に取り込んでしまう
田中の磁力は田中派を越えて働いていた。三木、福田、鈴木といった長老が首相退陣後も第一線に留まっていたのは、田中のお陰。ニュー・リーダーたちでは到底田中に太刀打ちできないと考えられたからこそ彼らが必要とされた。田中の存在によって長老たちが生き長らえた。田中が倒れても田中が作り上げた磁場はしばらく残存。田中の不在はロッキード事件以来常態化していたが、不在が非在であることを悟り、行動パターンを変えるまでにはそれなりの時間を要した
89年角栄政界を引退
92年最後の中国訪問 ⇒ 眞紀子出馬へ向けた大デモンストレーションで、翌年当選
94年逝去
田中の生い立ちを見ることで、田中の政治家としての個性が、、実は政治家になる遥か前に形成され、周りへの強力な磁力になっていたことがわかる
高邁な理念はなかったかもしれないが、少なくとも明確な総合開発ヴィジョンを持ち、それを次々と実現していった的確な判断と素早い行動は「田中ならでは」のもの
首相になって初の総選挙に敗れたことが、大きな転機となり、敗北から学ぶことが出来なかった。逮捕後もまだツキがあったが、派閥を個人の所有物をする考えが抜けなかった

第7章        田中伝説
1期は立身出世物語
2期がロッキード事件以来、田中という政治家に悲劇性が生まれてからで、早坂の創造によるところが大きい ⇒ 田中事務所閉鎖後、絶妙な筆致で角栄像を美化
庶民宰相 ⇒ 欠陥の多い人間であり「悪党」であったが、終生庶民の視点を失わなかった
金権政治家 ⇒ 情と懐の深さを示すものとして再提示。立花隆によれば、「自らの手を汚して金を作った人が総理大臣になってはいけない」というが、角栄の金の配り方への配慮が、金銭の価値というものが心理的なものであることを知り尽くしたしたたかな計算に基づいていたことは間違いない。恩義を感じて受け取ってもらわなければ価値がない
ロッキード謀略説 ⇒ 田中が進めた資源外交を快く思わなかったメイジャーとアメリカが仕掛けた罠に嵌められたというもの。確たる証拠はないが、田中がタイでもインドネシアでも激しい反日暴動にあったことと併せて、エネルギーで自律(ママ)を図る田中政権の政策がアメリカの逆鱗に触れたことは十分考えられる

第8章        田中政治とは何だったのか
敵味方の隔てなく、一目置かれる存在であった
金丸信 ⇒ 任侠道。血も涙もある男だからこそ本当の政治が出来た。理屈じゃない
後藤田 ⇒ 理知派だが、情や恩の重要性を強調、田中への恩義から創政会には与せず
福田赳夫 ⇒ 優れた人と言いながら、派手な「昭和の藤吉郎」と見下している
中曽根 ⇒ 敬意を表してはいたが、「政治=生活」論には与せず
平野貞夫 ⇒ 熱い思いを告白、「集金マシーン」として利用され捨てられたことに憤り
竹入公明党委員長 ⇒ 政策マンであり、政治的にも人間的にも素晴らしいと絶賛
石橋社会党委員長 ⇒ 裏切られたことだけは一度もなかった
不破共産党委員長 ⇒ 質問していて一番面白かったのは角栄、自分で仕切る実力者
塚本民社党委員長 ⇒ 7割の功は褒められても3割の負を軽視しては危険、負を強調、日本人の倫理観を麻痺させ、その後遺症が今も日本を深く蝕んでいる
民間では、早坂茂三と立花隆が両極だが、立花は歳月とともに大きく変わった
伊藤昌哉(政治評論家、大平の知恵袋) ⇒ 田中政治の根底を「恐怖」と切り捨てて警戒
越山会会長 ⇒ 角栄の欠点は、イヤな話を聞くことが苦手であり、「人のよさ」
小沢一郎 ⇒ まじめで人が良く、権力主義的な割り切りが出来なかった
田中の考える権力とは、敵を抹殺することではなく、同心円こそが田中の考える政治のイメージであり、権力とは円の中心から放射され、円を形作るもの
近代国家は主権を持つことによって生まれるが、主権とはまず境界線を設定し、外部の侵入を撥ね退ける力であり、その内部で唯一無二の力
円としての権力のイメージは、明らかに前近代的な家意識から生まれた。家長が率いる伝統的な家であり、絶対的な友敵関係にはならない
当初こそ、他を容れざるは民主政治家にあらずとして民主主義擁護論をぶったが、60年代のイデオロギー対立の激化を考慮したとしても、角栄の数の力で押し切る剛腕ぶりから異見に耳を傾けようとする謙虚な姿勢は見出だせない
選挙ですべてを押し切るという選挙民主主義は、古代ギリシャの民主主義とは無縁
本来の民主主義とは、統治者と被治者が対等な政体を意味するが、現代の民主主義は選挙という便法により両者が対等という擬制をとる。シュムペーターはこのような便法を民主主義そのものと定義したために、政治的決定を選挙から切り離した。しかもわが国では有権者が市民ではなく庶民であり、田中は生活の向上を求める庶民の私的欲望を最もうまく動員した政治事業家といえる
田中を自由主義から遠ざける最たるものは、自由主義にとって最も重要な価値である言論や出版・報道の自由に対する無理解であり、田中政治はリベラル・デモクラシー(自由民主主義)というより、パターナル・デモクラシー(家父長的民主主義)と呼ぶのが相応しい

終 ポスト田中政治の行方
田中の弟子たちが田中政治を乗り越えられるか
竹下 ⇒ 田中の情の政治を一歩も出るものではない。消費税導入は官僚に乗っただけ
金丸 ⇒ 世代交代はしたが、金権問題で失脚するのは、田中の盛衰をなぞるようなもの
小沢一郎 ⇒ 田中政治の限界を知り、権力の集中によるリーダーシップ発揮を画策
小泉 ⇒ 構造改革により古いパターナリズムを破壊したが、格差問題を放置
情を金で表す政治はもはや通用しないが、手段は違っても、情を重んじる田中政治が、この国ではなお多くの人々の共感を得、愛されている。過度なパターナリズムを抑制し、民主主義を擁護するためには、庶民を権利主体である市民へと彫琢し 、彼らの活動=生活を充実させる視点、言い換えれば、個人の自由と自立の可能性を花開かせるような方向へと同心円の政治を発展させる必要があり、それこそがポスト田中政治には望まれ、田中政治の遺産を過去から現在、そして未来へと引き継ぐ一筋の道であろう

あとがき
歴史家でもない、伝記作家でもない私が角栄の評伝を書くことになったのは全くの偶然
長年にわたる研究の成果として、『福祉国家変革の理路』を上梓したあとの祝宴で、自ら名乗りを上げてしまってから4年後に実現。当初は、丸山眞男の戦後民主主義論の補助線としての角栄論が書けると思ったが、丸山の民主主義論を1つにまとめて提示することなど手に余った

田中に会ったこともなければ、新たな資料を掘り起こしたわけでもなく、既刊書が伝える角栄像に大きく依存した上で、田中政治こそ戦後民主主義そのものではないかと思う



(書評)『田中角栄 同心円でいこう』 新川敏光〈著〉
2018.10.20. 朝日
 敵みつけ排除しない包摂の政治
 田中角栄と聞いて思い浮かぶのは、「カネの政治」だろうか、それとも「情の政治」だろうか。政治は数と見切り、数をカネで購(あがな)う金権政治だろうか、それとも「政治は生活」を信条とし、庶民を置き去りにしない政治だろうか。「カネの政治」のベースには「情の政治」があり、再来する角栄ブームにはそれへの郷愁がある、と著者は見る。
 本書は、田中の政治を適切に特徴づけて「パターナル・デモクラシー(家父長的民主主義)」と呼ぶ。それは、人々を庇護(ひご)されるべき存在とみなし、その境遇の向上に心をくばる政治である。エリート主義や、体制選択に固執するようなイデオロギーの政治は、田中にはほど遠いものだった。
 後の政権と比較しても、田中の政治には、規制緩和を推進する新自由主義や「国を愛する心」を鼓吹するような新保守主義の要素はきわめて薄いように思う。『日本列島改造論』(1972年)は、「平和国家の生き方を堅持し」、「生産第一主義、輸出一本ヤリの政策を改め、国民のための福祉を中心にすえ」ることを政策の根幹として掲げる。実際、日中国交正常化や年金制度の拡充などはそれに沿った田中の功績と見られるし、「均衡がとれた」国土の発展という構想は顧みるべき価値を含んでいる。
 抑制が利いているとはいえ、著者は田中への共感を隠してはいない。「同心円でいこう」という彼の言葉にも、敵を見出(みいだ)し、排除するのではない「包摂の政治」が読み取られる。
 だが、田中流の「パターナル・デモクラシー」は立ち返るべき政治ではないだろう。本書も強調するように、そのもとで人々は「市民」ではなく「庶民」、つまり自分たちの生活の改善と引き換えに利益誘導の政治に依存するクライアントにとどまるからである。
 市場でも、国家のためでもない政治。本書が田中角栄の生涯を通して展望するのはそうした政治である。
 評・齋藤純一(早稲田大学教授・政治学)
     *
 『田中角栄 同心円でいこう』 新川敏光〈著〉 ミネルヴァ書房 2592円
     *
 しんかわ・としみつ 56年生まれ。法政大教授(政治学)。『福祉国家変革の理路』『幻視のなかの社会民主主義』。


Wikipedia
田中 角栄(たなか かくえい、1918大正7年)54 - 1993平成5年)1216)は、日本政治家建築士
衆議院議員(16期)、郵政大臣12)、大蔵大臣(第676869代)、通商産業大臣33)、内閣総理大臣(第6465代)等を歴任した。
来歴・人物[編集]
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。大正生まれとして初の内閣総理大臣となり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、後にその政策は不動産投機に伴う地価の暴騰や狂乱物価と呼ばれるインフレーションを招いた。その後の田中金脈問題への批判によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件(ロッキード事件)で逮捕収監され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。また、高等教育を受けていない学歴でありながら、首相にまで上り詰めた当時は「今太閤」とも呼ばれた。ただし中央工学校専門学校の卒業生である。 さらに次世代のリーダーの一人として総理総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識とやるといったら徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた[1]
道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議の嚆矢となった。若い頃の夢は「文士(小説家)になる事」と大蔵大臣時代のインタビューに答えていた。
197287日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めた事を反映している。」とある。
ロナルド・レーガンの大統領補佐官リチャード・V・アレン英語版)は「したたか者」と評している。
経歴[編集]
小学校卒業まで[編集]
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現:柏崎市)に父:田中角次、母:フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[2]。田中家は農家だが父:角次は牛馬商、祖父:田中捨吉田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[3]。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[4][注釈 1]浪花節を練習して矯正した。
1933昭和8年)、二田高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かった。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが[5]、専門学校を含める専修学校1976(昭和51年)に創設された学校制度であるため[6]、彼が学んだ当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[7]。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ[8]
上京[編集]
卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた[9]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[10]
1934(昭和9年)3月、「理化学研究所大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[11][注釈 2]。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う[12]。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた[13]。一時は、海軍兵学校入校を目指して研数学正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた[14]
1936(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[14]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[14]。この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校1936年商業4年修了)[15]にも籍を置き、商事実務を学ぶ。
1938(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役たる騎兵として陸軍騎兵第24連隊への入営が通知される[16]1939(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[17]。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む[18]。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[19]1940(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[20]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(19479月、4歳で死亡)が、1944(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
1943(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し[21]、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[21]
1945(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る[22]89日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した[22]。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた[23][24]。田中土建工業は戦災を免れる。
国政進出[編集]
194511月に戦争中より田中土建工業の顧問だった代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により19464月の22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する[25][注釈 3]。田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した[27]。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説をした[27]
19474月、日本国憲法による最初の総選挙となった 23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する[28]。民主党は日本社会党国民協同党3党連立による片山内閣与党となったが、194711月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に1128日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは19483月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た[29]。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く[29]
194810月、芦田内閣昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、2次吉田内閣が発足する[ 4]。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、1123日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される[30]1212日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された[31]。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。
直後の19481223日に衆議院は解散し、24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949113日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、123日の選挙では2位で再選を果たした[32]。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした[32]。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した[33]。炭鉱国管疑獄は19504月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、19516月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった[34]
再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ[35]。その主なものとして建築士法[注釈 5]公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し[36]、後に日本住宅公団が設立された[36]。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952に成立した[37]二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた[37]1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした[37]
民主自由党は19503月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった[38]19553月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党する。
政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、195010月に同社の社長に就任した[39]。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OB佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、195112月に電化を実現させる[39]。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが[40]、これは大臣だった勇人が一肌脱ぎ[40]、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った[40][41]。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった[39]。この効果も寄与する形で、田中は195210月の25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
このほか、19534月には、母校の中央工学校の校長に就任している(1972年に退任)。
閣僚・党幹部を歴任[編集]
1957年(昭和32年)7 - 1次岸信介改造内閣郵政大臣に就任。戦後初めて30歳代での国務大臣に就任した。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方テレビ局の無線局免許状交付の可否)を郵政省の影響下に置いたことは、その後の田中に飛躍の原動力になった。
1961(昭和36年)7 - 自由民主党政務調査会長
1962年(昭和37年)7 - 2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。雪は春に溶けるからと災害に認められていなかった豪雪サンパチ豪雪に、田中角栄大蔵大臣が初めて災害救助法を適用させた[42]1次佐藤栄作内閣まで留任。
1965年(昭和40年)6 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
1966(昭和41年)
6 - 社団法人日本空手協会会長に就任。(19685月辞任)
12 - 幹事長を辞任。
1968(昭和43年)
5 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
11 - 幹事長に復帰。
1969(昭和44年)
4 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は田中姓に婿養子入り。
8 - 大学の運営に関する臨時措置法(大学管理法)成立を働きかけ、大学紛争を収束に導く[43][44]
1970(昭和45年)9 - 産経新聞の購読を通じた党への支持を求める幹事長通達を、「取扱注意・親展」で全国の県支部連合会と支部(党所属衆議院議員)に出していたことが発覚。114日の参議院決算委員会で和田静夫に取り上げられた。
1971年(昭和46年)
7 - 3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
10 - 日米繊維交渉が決着。
1972年(昭和47年)
5 - 佐藤派から田中派が分離独立。
6 - 日本列島改造論』を発表。
75 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
76 - 1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘
首相在任時[編集]
1972年(昭和47年)
9 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。929、両国の共同声明により日中国交正常化[45]が実現し、日華平和条約の終了を確認。この際、田中は周恩来から一枚の色紙を渡され喜んでいる写真が新聞に掲載された。色紙の言葉は「言必信行必果」と書かれてあった。しかし、この言葉は論語から引用したもので、この言葉のあとに「硜硜然小人哉」と続く。この記事を見て安岡正篤は、この言葉の真の意味も知らないで喜んでいる田中を見て、田中の教養のなさと中華人民共和国のしたたかさを周りの人にと指摘したと言われる。諸橋轍次『中国古典名言事典』(講談社刊)では、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやりとげる。それは士として持つべき資質だ。しかしながら、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されている[46][47][48][49]。同日、中華民国が対日国交断絶を発表[50]
12 - 33回総選挙。自由民主党は過半数確保も議席減、日本共産党が躍進[51]12222次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
1973(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。
5 - 小選挙区制導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。
8 - 金大中事件発生。東西冷戦下において当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた[52]
9 - 西ヨーロッパ訪問。
10 - ソビエト連邦訪問[53]日ソ共同宣言時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフソ連共産党書記長との会談において、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」ということを確認する日ソ共同声明を発表したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。
1016 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換するとともに中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた[54]
11 - 内閣改造愛知揆一蔵相の急死で、福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ充てる。
1974年(昭和49年)
1 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタ反日デモ(マラリ事件)に遭遇する[55]
7 - 10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説等の選挙活動を行うが、議席は伸び悩み、参議院は伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る[56]
9 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。
10 - 月刊誌『文藝春秋』(197411月号)が、立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し田中金脈問題を追及、首相退陣の引き金となる[41][57][58][59]
11 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け[59][60]2次内閣改造後に総辞職を表明。フォード大統領(当時)が来日して会談。現職アメリカ合衆国大統領の訪日は初めて。
129 - 内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足[61]。首相在職通算日数は886日。
首相退陣後[編集]
1976(昭和51年)
2 - ロッキード事件発生。アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。727に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。また全日本空輸とロッキードの販売代理店の丸紅の社長以下数人の社員も逮捕された。なお首相経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。
8 - 保釈。
12 - 34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。
1978(昭和53年)12 - 1次大平内閣発足。田中が強く支持。
1979(昭和54年)10 - 35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
1980(昭和55年)6 - 36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元越山会青年部長の桜井新が自民党公認で初当選。
1982(昭和57年)11 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
1983(昭和58年)
10 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。
12 - 37回総選挙1128に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。直紀も福島3から初当選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
1984(昭和59年)10 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。
1985(昭和60年)
27 - 創政会が発足。
227 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
6 - 田中事務所が閉鎖。
9 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。
10 - 関越自動車道全通。
1986(昭和61年)7 - 38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
1987(昭和62年)
74 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
729 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告
10 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
11 - 竹下内閣が発足。
1989(平成元年)10 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
1990年(平成2年)
124 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
2 - 39回総選挙。元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
1992(平成4年)
8 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
12 - 経世会が分裂。
1993年(平成5年)
7 - 40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
1216 - 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物は正二位大勲位菊花大綬章以上に叙されることが慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。
没後[編集]
1995(平成7年)2 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
1998(平成10年)4 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。
2007(平成19年)716 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
2009(平成21年)3 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった[62]1位は31%昭和天皇であった)。
2012(平成24年)1216 - 46回衆議院議員総選にて角栄の地盤を受け継いだ娘の田中眞紀子が落選する(この日は角栄の命日)。
2016(平成28年)710 - 24回参議院議員通常選挙にて娘婿の田中直紀が落選し、角栄の当選から70年以上国会に存在していた田中家の議席が消滅した。
人間関係[編集]
田中内閣発足にあたっては三木武夫の支援を受け、この支持を恩義に感じた田中は三木を国務大臣として内閣に迎え入れ、後に副総理にも指名している。しかし、三木と田中は日中国交正常化という点では一致していたものの、金の力に物を言わせる田中と政治浄化を信条とする三木とでは政治姿勢が全く異なり次第に対立していくようになった。そして1974年の参議院選挙の徳島県選挙区での公認候補選定を巡り、三木が「現職優先の原則」通り三木派で現職の久次米健太郎の公認を申し入れたのに対し、田中が元警察庁長官で新人の後藤田正晴に公認を与えたことから二人の関係は抜き差しならないものとなった。選挙の結果久次米が当選し三木の面目は保たれたものの三木は閣外へ去った(詳細は阿波戦争を参照)。その後反主流派の福田赳夫が三木に接近し福田もまた閣外へ去り田中倒閣への動きを先鋭化していくこととなった。ただ田中は、小派閥を率いて永田町を器用に遊泳する「バルカン政治家」の三木を「政治のプロは俺と三木だけだ」と評価していたとされる。また、首相になる前には「自民党で俺と対で勝負できるのは三木だけだ」とも評していた。
福田赳夫とは「角福戦争」に代表されるように対立した関係ではあったが、田中は「福田君への怨念はない。ゴルフを13ラウンドやる人間に怨念なんかあるものか」と怨念については否定している。実際、知揆一大蔵大臣が急死した際、田中は福田に蔵相就任を依頼している。その際福田は、「日本列島改造論で、国際収支が大混乱に陥っている」「日本列島改造論を撤回するならば蔵相に就いても良い」と答え、田中は福田の意見を受け入れ、経済問題については全て福田に任せている。一方福田も、田中を「昭和の藤吉郎だ。いずれは太閤になる器」と常々評していた。田中を「今太閤」と名付けたのも福田である。対中政策をめぐっても両者はよく比較されたが、福田も田中も日中友好団体である日中協会の役員を務めた[63]
196272次池田内閣における、尋常高等小学校卒、44歳での大蔵大臣就任は、1890日本の帝国議会開設以来、後にも先にも例がないといわれる[64]。田中蔵相と書かれた閣僚名簿を見た池田勇人総理は「アレは車夫馬丁のたぐいだ。どこの馬の骨かわからん」と一蹴した[64]。田中は池田が大蔵事務次官の頃から、池田を未来の宰相と見込んで10年近く、何があっても離れず池田に近づこうと腐心した[65]。同じ吉田門下で異例の出世を遂げる池田を見て、池田につながって出世したいと策を巡らせ、遂に田中の妻はなの連れ子・静子と池田の甥との結婚を仕組み、池田と縁戚まで結んでいた[66][67]。ただし、1956年末の旧吉田派(丙申会)の分裂では、政権を取るのは佐藤栄が池田より先と読み[66]、池田派(宏池会)ではなく佐藤派(周山会)に寝返っている[66][68]。親戚関係とはいえ「高度経済政策」を推進していくにあたり、最も重要なポストである蔵相に国家財政に一度も携わったことのない素人を充てることはできない[66]。ところが大平正芳が「あの男ならやれます」と池田を熱心に説得、党内の反発を押し切って池田はこれを了承した[64][66]。慎重居士の大平が、なぜ意外なほどの強行策をとり、田中の売り込みに奔走したのかは謎とされる[69]。田中の蔵相抜擢は、時として反旗を翻すことのある大蔵省へ池田が打ち込んだ""という見方や[70]、金融や財政に素人の田中を据えて、事実上の実権を裏で池田自身が掌握する、総理と蔵相を自身で兼ねて自ら陣頭指揮を執り、田中を傀儡蔵相に仕立てた池田の策略という説もある[71]。当時の大蔵省は池田の直轄地ともいわれ[72]、実際には池田が蔵相を兼任している状態ともいわれた[72]野田卯一は「池田に対して田中を強引に蔵相に推薦したのは佐藤栄作」と述べている[73]。田中は池田内閣で24ヶ月大蔵大臣を務めるが「国民所得倍増計画」に代表される池田の経済主義路線は、開発政治の旗手である田中に絶好の機会を与えた[74][75][76]。一介の中堅議員に過ぎなかった田中が、池田によって政調会長1961年)、大蔵大臣1962年)という要職に抜擢されたからこそ、後の天下取りへの道が開かれたのである[77]。田中にとって池田は足を向けては寝られない恩人であった[77]
当時の大蔵省は別格の存在で[78]、大蔵大臣就任にあたり、大蔵省の役人から「大蔵大臣はたいへんな仕事ですから、しっかりやって下さい」と言われて、「俺だって一生懸命勉強してるのに」と悔しくて涙を流し必死に勉強した[78]。田中はこの大蔵大臣就任期間の間に、池田の勢威が行き渡る大蔵省内で[72]、得意の人心収攬術と政治力を操り、誇り高い大蔵官僚を押さえ込んだといわれる[74]。当時大蔵省銀行局検査部長だった庭山慶一郎は「池田さんも部下にカネを渡してました。田中さんは池田さんに可愛がられていましたから、その真似をしたんじゃないですかね。ただ池田さんは大蔵官僚出身だから節度というものをわきまえていました。田中さんの方は、出身のせいかドロ臭い。金額も配る範囲も派手だったです。他人の経歴をじつによく知っていて、入省年次はおろか、成績順位や係累までご存知でした。そのへんはものすごく気持ちの働く人でした。高級、下級官僚の別け隔てなく名前で呼びかける。最初は『田中なんて』と馬鹿にしていた連中も、次第になびくようになるんですね」と述べている[69]。田中は池田が進めた利益誘導政治の形成・展開に便乗したばらまき財政により政治基盤を固めていった[79][80]。岸、池田時代にまさか田中が将来総理になると思う人は党内にいなかった[73]
田中と大平の関係が密になるのはここからで[81]、その後も大平とは長く盟友関係にあり、頭角を現す切っ掛けとなった[82]。これは「大角連合」と呼ばれ[83]、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中の成長は佐藤派の参謀でありながら池田の側近でもあったからといわれる[75][76][84]。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが2人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた[85]。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り[50]、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた[86]。両者の関係は田中と大平の個人的関係にとどまらず、田中派大平派は兄弟派閥として議員の交流も盛んであった。
"自民党の黒幕"といわれた福本邦雄は「角栄は非常に無原則。思想がない。むちゃくちゃの典型。日中国交正常化をやったのは大平と木川田一隆です」と述べている[87]
党人派で副総裁を務めた川島正次郎と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、佐藤長期政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は2次大平内閣時に首班指名選挙での党分裂状態[88]や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした[89]四十日戦争ハプニング解散)。
正妻・はなとの間には11女をもうけたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみ。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。
東京・神楽坂芸者辻和子との間に21女がいる(1女まさは夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した[90][91][92]。秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
2,575坪(約8,500m2)の敷地を誇る東京都文京区目白台一丁目の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」といわれた。この当時、政界で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
中華人民共和国からは「日中国交正常化を決断した偉大な政治家」として尊敬され、鄧小平1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も江沢民など多くの中国共産党政府の要人が田中邸を訪問した。
経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業小佐野賢治は、田中を資金面でバックアップしたとされ、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については現在でも不透明な部分が多い。
国土強靭化論などから分かるように、公共工事に特に力をいれていた。自身の有力後援者だった福田正の福田組がゼネコンとして急成長を遂げる原動力となったのが、新潟県に地盤を持っていた角栄とのパイプで受注出来た数々の公共事業だった。小沢一郎の元妻・和子は福田の長女であり、田中角栄を仲人にして衆議院議員2期目の1973年に結婚した。なお、福田の次女も、竹下登の弟である竹下亘と結婚している[93]
派閥[編集]
小沢一郎(右)と
田中派は自民党内最大の派閥であり、特にロッキード事件以後は田中の「数は力なり」の信念の下で膨張を続け最盛期では約140人の国会議員が所属していた。その数の多さや華やかさなどからマスコミには「田中軍団」「田中親衛隊」等と評され流行語にまでなった。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜橋本龍太郎小渕恵三小沢一郎梶山静六奥田敬和渡部恒三、他に綿貫民輔野中広務(京都府議時代から目をかけていた)などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた「国家老」本間幸一、目白詰めの「城代家老」山田泰司、総理大臣秘書を務めた榎本敏夫などがいる。しかし、田中が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。
ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、マスコミは田中を「闇将軍」と呼んだ。田中自身が復権に固執(裁判で無罪判決が出た後に首相に返り咲くこと)したため、自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。眞紀子曰く派閥分裂後は見舞客も年を追うごとに激減し没後墓参りに訪れた元田中派若手議員も稀であったという。
典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
選挙区[編集]
自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設されたため、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げるとともに、業績を強烈にアピールした。
選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。
自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。それでも倒れた翌年1986年の総選挙では本人の肉声が全く伝えられない中で田中はトップ当選する。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
浦佐駅東口には、田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって、銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が、校内に銅像を立てようとした際には「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言い、これを断っている。
外交[編集]
田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。背景として、19721月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として、日中国交正常化を条件としたことがある(詳しくは日中国交正常化を参照)。これによって田中は、中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も、鄧小平が田中の私邸を訪問し敬意を表し、田中も晩年の1992年に再訪中してる。
田中は、ブラジル側に「セラード農業開発協力事業」という共同の農業開発プロジェクトを提案し、この事業推進の嚆矢となっている。この時期、米国の穀物相場暴騰による大豆の禁輸措置、第一次石油ショックなどを切っ掛けに資源の安定確保が日本の重大な外交課題となっていた事を背景に、ブラジルを訪問し共同プロジェクトを提案した。2001の終了までの21年間、3期に分けて実施され、国際協力事業団(現・JICA)を通じて多数の農業専門家の派遣や農家の入植などにより、21年間で約600億円の資金が投じられプロジェクトが遂行された。熱帯の約面積2億ヘクタール(日本の約5倍ほどの面積)の潅木林地帯で、酸性の赤土に覆った耕作には不適とされてきた土地の土壌改良による穀物栽培の開拓が行われた。セラード農業開発の成果もあり、今ではブラジルはトウモロコシや大豆の生産・輸出大国となっている。
北方領土交渉においてレオニード・ブレジネフに「未解決か?」と訊き、ブレジネフは最初はっきりと断言せずあいまいな回答をしたため、田中は顔色を変え「イエスかノーなのか、最高責任者としてこの場で今すぐはっきりと回答してもらいたい」と迫り、驚いたブレジネフから「ダー(そうだ)」という回答を引き出した。
北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一・五大綱領を評価した。当時の大平正芳外務大臣は、同年74日の衆議院法務委員会で、このことに関する日本社会党赤松勇委員の質問に対し、「案ずるに、朝鮮民族といたしまして祖国の統一ということが最高の念願である、それを具体的に提唱されたことに対しまして評価されたことと私は思います。」と答弁している[94]
アメリカ合衆国との関係では、初めてのアメリカ大統領(ジェラルド・R・フォード)訪日があり、日米首脳会談後の共同声明で「日米親善の歴史に新たな1ページが刻まれた」と発表した。昭和天皇香淳皇后主催の宮中晩餐会では日米から182名が出席した。戦後最大規模だった[95]
野党との関係[編集]
議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多く、国対政治の嚆矢とされている[96]
民社党との間では、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。また、民社党の衆議院議員であった和田耕作はロッキード事件の論告求刑の数週間後、「田中前総理と政治倫理」というパンフレットを作り、「角栄の功績を法律論で縛ってはいけない。政治家としての行動規範は検察的求刑には馴染まない。仮に5億円を授受していたとしても、私的に着服したものでも無かろう。政治家の政治倫理の問題を単なる法律違反の論議に矮小化してはならない」「私は政治倫理の消極面を過小評価するつもりはないが、それを必要以上に強調すれば、何もしないサラリーマン的政治家が立派な倫理的な政治家であるかのような重大な錯誤が起こるからである」という内容で、永田町周辺にばらまいた。
公明党とは「言論出版妨害事件」をめぐり公明党側に配慮した行動をとったため、田中と公明党との友好関係が生まれた。田中は社会党・共産党の革新勢力を相対的に弱めるために中道の公明党には融和的態度をとったとされ、田中派や竹下派(後の平成研究会)所属議員の中にも公明党議員や公明党の支持母体創価学会と親密な関係を持つ者が少なくなかった[注釈 6]。自公連立も田中派・竹下派に属した小渕恵三内閣期にはじまっている。
詳細は「ワン・ワン・ライス」を参照
19812月に、同じ選挙区で議席を争っていた社会党の小林進の永年在職(25年)議員表彰祝賀会が行われ、その会に田中も招待されたが、田中は「私は社会党の悪口はいうが、小林君の悪口は言ったことが無い。小林君も、自民党の攻撃はするが、田中角栄の攻撃はしたことがない」と挨拶した。
闇将軍[編集]
ロッキード事件発覚による受託収賄罪の逮捕、起訴されたことによって自民党を離党したが、すぐに保釈された上に受託収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定[注釈 7]にならないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠でありキングメーカーのポジションであった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派および田中に近い議員で多く占めた。また、田中が闇将軍として大きく影響力を与えた内閣は「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」とも呼ばれた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。
1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。
語録[編集]
三国峠ダイナマイトで吹っ飛ばせば越後に雪は降らない。そしてその土を日本海に運べば佐渡と陸続きになる」(初出馬時の演説)[97]
「ナニ言ってんだ、ジイさん。あんたたちはもう子供が全部でき上がっているから、そんな極楽トンボでいられるんだ。学生を子に持つ日本中の親たちは、一体どうするんだ。自分たちの食うものも削って、倅や娘に仕送りしているんだ。ところが、学校はゲバ棒で埋まっている。先生は教壇に立てない。勉強する気の学生は試験も受けられん。こんなことで卒業できるのか。就職できるのか。みんな、真っ青になっているんだ。気の弱い学生は大学にも行けず、下宿でヒザを抱えているんだ。だから、いいからジイさん、早くベルを鳴らせ。やらなきゃ、このオレが許さんぞ」(大学管理法成立に際して参議院法会議開会を渋る重宗雄三議長に対して)[44]
「政治は数であり、数は力、力は金だ」(=数の論理
「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
「いままで政府が統一見解で述べておりますものは、自衛の正当な目的を達成する限度内の核兵器であれば、これを保有することが憲法に反するものではないというのが、従来政府がとってきたものでございます」(1973317日参議院予算委員会での答弁)
日の君が代国旗国歌として定着しているという認識を示した上で)「私はやはりある時期に、もうこの時期にでもいいと思いますが、国歌や国旗というものを明確にやっぱり国権の最高機関としての院の議決を得て法律として制定をすべきときが来ておると思います。そして制定をしたら、これは少なくとも、小中学校とか、国公立の学校においてこれを歌うということは当然でございます」(1974314日参議院予算委員会での答弁)
「よっしゃよっしゃよっしゃ」ロッキード事件の賄賂を受領した際に述べたとされる発言
「跳ねたが地面に落ちたら干物になるだけだ。魚の干物なら食うが、の干物は誰も見向きもしない」(中川一郎に『鯉は跳ねちゃいけませんか?』と、小派閥ながら自民党総裁選に出馬を決めたという報告を受けた際の返答)[注釈 8]
「私は、かつて日本と朝鮮半島が合邦時代が長くございましたが、その後韓国その他の人々の意見を伺うときに、長い合邦の歴史の中で、いまでも民族の心の中に植えつけられておるものは、日本からノリの栽培を持ってきてわれわれに教えた、それから日本の教育制度、特に義務教育制度は今日でも守っていけるすばらしいものであるというように、今度のASEAN五が国訪問で、しみじみたる思いでございました。これはかっての台湾統治の中でも、そのようなほんとうに民族的に相結ばれる心の触れ合いというものが、いまでも高く評価をされておるという一事をもってしても言えるものでございます。」(1974124日衆議院本会議答弁で。この発言が日韓併合を正当化するものだと南北朝鮮から批判を受けた。)
「政治家は発言に、言っていい事/悪い事、言っていい人/悪い人、言っていい時/悪い時、に普段から気を配らなければならない」(伊藤惇夫2013619TBSひるおび!』で政治家のブログ炎上に関して語った田中のエピソード)
「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」[98]
「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの。」(19831013日、ロッキード裁判で有罪判決をうけた翌日の言葉)[99]
「中曽根は象に乗っているのに、どうしてきつねやたぬきに乗り換えるのか。」(1983年ごろ、ロッキード裁判の判決直後に中曽根康弘首相が福田や三木に接触していることを聞いて)[100]
「物価とかね公害なんていうのは、大したこっちゃありませんよ。こりゃね、まぁ、雨漏りがするとか、雨戸が飛んだとか、下水が溢れるとかいう程度のもんだ。」(197477日の参議院選挙へ向けた街頭演説)[101]
エピソード[編集]
田中角栄といえば、金に対する大胆さ・豪快さ、そしてわきの甘さが世間で知られており、これに関連する話は枚挙に暇がない。彼は金を最大限に生かして相手の信頼を獲得するために、相手の予想(期待)より多くの金を渡すことも多々あったが、最終的に金が命取りとなった。
田中が初出馬の時、進歩党の大麻唯男から300万(現在の価値で15億)もの資金調達を頼まれ、用意した。以後大麻は田中に頭が上がらなくなり、次回の選挙のとき公認した。
田中派の一回生議員が美人局に遭い、解決のために多額の金銭が必要となってしまった。様々なツテに頼ったがどうしても100万円(現在の価値では3倍以上)足りない。選挙を終えたばかりで借金のあった議員は万策尽き、田中の事務所に電話をかけて借金の申し込みをした。事情を聞いた田中から「分かった。すぐに金を用意するから取りに来るように」と言われ、急いで事務所に向かうと、田中本人は急用で外出しており、議員は留守番の秘書から大きな書類袋を受け取り、その中身を確認すると300万円が入っており、同封されたメモには以下のように書かれていた。「トラブルは必ず解決しろ。以下のように行動しなさい。1. 100万円使ってトラブルを解決すること。2. 100万円を使って世話になった人に飯を奢る乃至、必ず御礼をすること。3. 残りの100万円は万一のトラブルの為に取って置くように。以上これらの金は全て返却は無用である」その議員は感涙し、後々まで田中への忠誠を守り通した。
派閥が違う上に田中とほとんど面識のない議員が資金繰りに窮し、田中の事務所に来て300万円の借金を申し込んだ。田中は、わざわざ派閥の違う自分にまで助けを求めねばならないほど追い詰められている相手の窮状を察し、その日のうちに金を用意し、「困ったときはお互い様だ。この金は返さなくていい。俺が困ったとき頼む」と言って、その議員に紙袋を渡した。後でその議員が紙袋の中を確認すると、申し込んだ額よりも多い500万円が入っていた。実は、その議員は田中に遠慮して、借金を申し込む際の金額を300万円としていたものの、実際には500万円を用意しなければならない状況であり、彼は田中の機転によって窮状を救われる形となった。その議員は感涙して田中に忠誠を誓った。
福田派に属していた反田中派の議員が入院した際、真っ先にお見舞いに訪れたのは田中で、挨拶もそこそこに議員の足元に紙袋を差込み帰った。中を見ると驚くことに300万入っていた。次に派閥のボスの福田が見舞いに来たが、一通りお見舞いの言葉を述べるとぎこちない様子で「こんな時、不自由するだろう。ほんの心づもりだ」と言って白い封筒を差し出した。その議員は不自然だったため礼儀として遠慮すると、福田は封筒を懐に戻した。最後に総理の中曽根が来ると見舞いの口上の後、機械的に茶封筒を差し出した。福田の時損をしているので遠慮せず受け取ると、中曽根は政治家の心得のようなものを説いて、いつまでたっても封筒を離さないので気が引けて議員から手を離すと、中曽根は封筒をしまいこんだ。この議員は以後も福田派に所属していたものの、ピンチの時は党派を超えて田中を支えた。
福田派の福家俊一が入院した時、いち早く見舞いに訪れ、分厚い袋に500万もの金を入れて足元に忍ばせた。その後4回ほど田中は見舞いに訪れたが、その度に500万を忍ばせていたという。福家は以後、田中の批判をしなくなった。
お金を渡すときは細心の注意を払い、相手によってプライドをくすぐり、あるいはプライドを逆なでしない枕詞を使用し、賄賂と取られないように細心の注意を払って渡していた。政治家に対しては「お金はいくらあっても邪魔になりませんから」「資金はあると思いますが、まげて収めてください」「党のため、国のため、あなたには当選してもらわなくてはなりません」等。官僚に対しては「このくらいの金で君は動く男じゃないだろう? 俺の気持ちだ!」「俺だって見返りを要求するほど愚かな男じゃない」等。また料亭で働く人々に対しては女将に「これを皆さんにお願いいたします」など徹底的に腐心してプライドを傷つけず渡していた。
田中は日本の官僚を極めて高く評価し、「歩く肥大した図書館」と呼んでいた。彼らに取り入るため以下のことを行った。田中が大蔵大臣時代に予算編成で休日返上で不眠不休で頑張っている彼らに、「大臣室に来てくれ」と一人ずつ呼び「いつもご苦労様。感謝している。これでタオルでも買ってくれ」と現金の入った封筒を渡し、驚く官僚に田中は「こんなことで影響を受けたりしないだろう?」「お前たちは日本最高のエリートだ。この程度で俺に配慮するはずないだろう?」「俺も見返りなど要求はしない。俺の気持ちだ受け取ってくれ」といった話術と迫力をもって黙らせた。ボーナスの時期になると、課長以上の人間に対して、総額2000万円以上ものポケットマネーをボーナスとして渡していた。しかし、お金を受け取らなかった官僚は決して信用しなかった。
大臣には、「大臣機密費」という自分の裁量で自在に使える機密費がある。しかし、田中は郵政、大蔵、通産大臣時代一度も手を付けず「部下の面倒も見なければならんだろう、自由に使ってくれ」と言って、大臣機密費のすべてを事務次官に渡していた。また、それだけではなく、特に課長クラスの人間には目をかけ、飲み食いできる金額を別に渡していた。
田中派ではない村岡兼造1976年に落選したとき、田中は、村岡にすぐに連絡を入れ「次の選挙まで俺の部屋を使え」と提案した。村岡は断ったが、田中は、「砂防会館の事務所を使え、すでに話は通してある」と再び提案した。村岡が話を受け入れると、間もなくして田中派の行政管理庁長官を務めた議員から秘書官の誘いが来た。「仕事できなくても肩書きだけでもいい」と、さらに30万の給料が支給された。これは、言うまでもなく、すべて田中が手を回しており、村岡は落選しても事務所を二つ持つことが噂になり、見事再選を果たした。彼も田中の虜になった。
郵政大臣に就任した直後、田中が郵政省を視察すると、職員は、昼休みとはいえ麻雀にふけったり、机の上に足を投げ出したりしていた。そして、こうなっている原因を調査すると、省内が二大派閥に割れていることが判明したので、二大派閥のボス同士を人事異動で勇退(更迭)させた。
郵政大臣時代の1957年に全国の民放テレビ放送34社・36局の一括免許交付に踏み切った際に、国会で野党から「テレビジョン受信機が90万台しかないのに、そんなに大量免許が必要か」と追及された。田中は「(1957年から)今後15年くらいでテレビジョン受信機は1,500万台を越えると見込まれます」と答弁した。その後、全国のテレビ局が開局し、テレビジョン受信機が大量生産されて各家庭に普及していったことから、田中は自分の決断が誤っていなかったことを語っている[102]
大蔵大臣時代の1962年に翌1963年度の所得税法改正の審議の際、担当官僚の大蔵省主税局税制第一課長であった山下元利のミスで、誤った税率表を使っていた。審議中であったために、訂正は不可能であった上、大事な箇所にも誤りがあり、その税率表を作成した役人たちは青くなっていた。これをマスコミや他の党が黙っているはずがなかったが、山下がこのことを辞表を忍ばせ田中の元に訪れると、笑いながら「そんなことで辞表は出さなくていい」と改定表を持ち、堂々と「先日提出の表には間違いがございます」と何食わぬ顔で訂正した。野党もマスコミも沈黙したままであった。もちろん田中が裏で手を回したのは言うまでもない。このように責任をかぶるということをためらわずし、想像もできないアイデアを出すため(たとえば、道路関係の法律。建設省は田中には頭が上がらなかった)、田中を慕った官僚は非常に多い。
山下元利の田中と師弟コンビを結びつけたのは池田勇人と堤清二[103][104]1964年、西武グループの創業者で衆議院議員だった清二の父・堤康次郎が亡くなり後援会は、父の秘書を務めたことのある堤清二(以下、堤)に「地盤を受け継ぎ政治に出てくれ」と頼んだ。話は自民党上層部に及び、堤は池田総理から「親父の後を継がないのか」と打診されたが、「自分は政治家に向かないと思います」と断り、池田から推薦された青山俊も堤が口説いたが断り、青山から山下を推薦され、池田も大蔵省時代の部下だった山下を知っていて「山下ならいい」となり、山下が堤康次郎の地盤を継ぐことになった[103][104]。しかしほとんど面識のない山下に地元から不平不満が爆発し、池田も亡くなったため、堤は佐藤栄作総理から田中幹事長を紹介され、田中が滋賀県県議10人を前に料亭の畳に額をこすりつけ、「山下元利を男にしてやってくれ」と頼み込み話がまとまった。田中と山下の師弟コンビはこのとき始まる[104]
田中がソビエト連邦(当時)を訪れる際、秘書から前もって「盗聴されるから気を付けて下さい」と忠告を受けた。しかし、田中はこの盗聴を逆手にとり、ホテルでわざと大声で「石鹸が悪い」「トイレットペーパーが悪い」と怒鳴った。すると、翌日には上等のものに変わっていた。帰国後、田中は、その秘書官に「盗聴されるのもいいものだ!」と言ったという。
田中は、中曽根とあまり仲が良くなかったが、協力したこともある。ある時、中曽根が外交のため中国訪問を希望しているという情報が田中に伝わってきた。すぐさま中曽根へ中国の要人への紹介状をしたためて送り、中曽根は大喜びした。
相手を説得させる時は極力一対一で会い、一対一での説得ならば誰にも負けないと豪語した。盟友の大平正芳は「田中とは一対一で会わずに複数で会うこと。一対一で会えば、必ず言うことを聞かされてしまう」と述べていた。福田も田中の意見に流されるのを嫌って一対一で会うことは極力避けていた。
決断が非常に早く、陳情等は1件約3分でテキパキこなした。できることはできると断言し、その案件は100パーセント実行され、信頼された。口癖は「結論を先に言え、理由を三つに限定しろ。それで説明できないことはない。」短気でせっかちで結論も早く、それでついたニックネームが「わかったの角さん」。そのため秘書や官僚は分かりやすく、要点をまとめることを心掛けていた。また、できないことはできないとはっきり言い、「善処する」といった「蛇の生殺しのような、曖昧な言い方」を嫌った。本人曰く『「できない」と断ることは勇気がいること』。
19651118日に千葉県富里村(現・富里町)で新東京国際空港の建設が内定した際には、幹事長である自分にも相談がなかったとして不満を表明した(田中自身は霞ヶ浦での建設を推奨していた。地元での反対運動により建設地は成田市芝山町に変更。)。首相在任時も佐藤内閣からの懸案であった成田空港問題について重要性を理解しており、担当していた佐藤文生運輸政務次官を毎月のように呼び出して報告を受けており、懸案となっていた航空燃料のパイプラインの敷設について自ら図面に線を引き専門的な指示を出したこともあったという。一方、田中は佐藤に「でも、君、成田は失敗だったよな」と語りかけ、佐藤が自分たちの施策に失敗があったのかと問い直すと「いやいや、そもそも計画がだよ。この二倍くらいのものを作っとかなきゃダメだったな」と言ったという(成田空港は、治主導により、収用地を最小限にするため運輸省の当初案から規模を半減させられた経緯がある)[105][106]。空港反対派について「真っ昼間から覆面をして成田の新東京国際空港あたりにいるが、アレは自民党の悪口ばかり言ってメシを食っている。ああいうのは4次産業だ」と茶化すこともあった[107]
交渉をする時、余計なことを言わずに相手を呑んでかかるという手法を使っていた。通産大臣時代にケネディ特使とやりあったとき、「これが決裂したらあなたの責任になる」と恫喝し、ケネディを追い払った。翌年の対米繊維輸出は約十九パーセントの増額であった。ブレジネフの時も領土問題を避けようとすることに対し「入れろ!」と机を叩きながら恫喝。最後には「入れなければ、我々は共同声明を出さずに帰国する」とまでいい口頭で了解させた。
「時間を守れない男は何をやってもダメ」と、人を見る目安とした[108]。ことのほか時間に厳しく、自分も約束した時間は1分たりともおろそかにせず、他人にもそれを要求した。1970年、一年生議員・佐藤守良財界主流との付き合いがなく、田中に当時の日本商工会議所会頭永野重雄を紹介してもらい、引き合わせてもらった。六本木の料理屋で佐藤が約束の時間ギリギリに座敷に入ったら、田中が憮然とした顔で座っていて、田中より遅かった佐藤は『申し訳ありません』と畳に頭をこすりつけ、永野が現れるまでついぞ顔を上げられなかった。お前が先に来て、お客さんを待つ待つのが筋じゃないかと、田中の恐ろしい顔は、佐藤に無言で世の中の""というものを教えた。佐藤は以後、「時間の厳しさは私の人生哲学にもなった」と述べている[108]。さらに「悪口を言わない」というのも持論だった。
新幹線のグリーン車に乗っている時、批判的なある社会党の議員と支援の労組幹部と鉢合わせとなったが、田中は「いやー君にはまいったよ」と賞賛し、直後に支援の幹部に「彼が自民党にいたらとっくに大臣もしくは三役になっている」とおだてた。この話が労組に知れ渡り、「あの先生は本当にできる人なんだ」という噂が立ち、その議員は株を大きく上げた。この手の話法を政敵を取り込む際によく使っていた。
鈴木善幸が田中と埼玉県内でゴルフをしていたところ、ヘリコプターが飛んできた。秘書が田中に「ヘリが到着しました。新潟で後援会の皆さんがお待ちですから」と告げるとヘリで新潟の選挙区まで飛んで行った[109]
驚異的な記憶力の持ち主であることは衆目の一致するところであり、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していた。これらに関しては曰く「まあ美人の顔を覚えるようなものだ」。どうしても思い出せない時は「あなた誰だっけ」と聞き、相手が苗字で返すと「そうじゃない。苗字は知っているが、名前を聞いているんだ」と言っていた。
全盛期には、7,000 - 8,000枚の年賀状が届いていたとされる。差出人は、ほとんど面識のない選挙民が大半であったが、田中は、これらすべてに目を通していた。
秘書に対してはもちろんのこと、守衛の人間にも毎日労いの言葉をかけたり、自分の運転手にまで立派な医者を当てるなどしていた。
田中の秘書の一人が、小佐野と佐藤昭子を切るように辞職覚悟で忠告した。田中は、「前者は了解したが後者は無理だ」と言い、秘書は辞職した。後に、その元秘書が心筋梗塞で倒れたとき、田中は病院へ急行した。田中は当時総理の職を辞していたものの、当然のことながら病院は大騒ぎとなった。田中は、元秘書の担当医を見つけると、いきなり土下座の格好をして、「彼を助けてくれ」と懇願した。そして、手付けとして100万円渡し、その元秘書を励ました。
郵政大臣就任後に開かれたパーティーに、官僚を招き、夫婦同伴で来るように促した。行くと、田中は夫人たちを褒め、前例のないもてなし方に役人たちは田中を見直した。
自民党総裁選を控えた19721月、田中と福田赳夫は派閥の若手議員らとともに、佐藤首相とニクソン大統領による日米首脳会談(サンクレメンテ会談)に随行した。会談場から昼食会場への移動時、田中はニクソンが運転し佐藤首相が同乗するゴルフカートに割り込み、そのまま昼食会場でもニクソン大統領・佐藤首相と卓を囲った。本来その席には佐藤文生が指定されていたが、田中はそのまま居座って翌日の日米会談を伝えるニューヨーク・タイムズの写真に両首脳とともに収まり、「次期総理」をアピールした[110]。昼食会後、田中と福田のふるまいには大きな違いがみられた。相手国の閣僚らと談笑を続ける福田に対し、田中は自分が面倒を見ている若手議員を次々とロジャーズ国務長官コナリー財務長官といった閣僚の元へ連れて行き握手させ、その姿を写真に撮らせた。これらの写真は次の選挙を有利にし、後援会や地元の有力者に対する株を上げることができるもので、若手議員らにとっては非常に貴重なものだった[111]
若い青年団員たちが、新潟の田中邸を訪ねたことがあった。突然の訪問であったにも関わらず、田中は大いにもてなした。青年団員が、自分たちは田中のライバル福田赳夫の選挙区である群馬三区から来たこと、家族が福田後援会の重鎮であることを田中に伝えると、田中はなおのこと喜び、彼らに鯛を振る舞った。「俺は尻尾を食べるから、君たちは頭を食べなさい。今後おおいに出世し給えよ。」と終始上機嫌だったという。
冠婚葬祭、特に葬儀には細やかな心配りを見せ、そのエピソードは多数ある。
田中派の重鎮、竹下登の父が死去したとき、飛行機をチャーターして、田中派の議員とともに葬儀に訪れた。総勢69人の国会議員が、人口4,000人の村を訪れた。
河本派議員の渋谷直蔵の妻が死去したとき、田中はすぐさま花を贈った。本葬まで一週間あると知ると「花が枯れてはいけない」と言って、新しい花にその都度取り替えていた。
大手会社の社長が妹を亡くしたとき、田中は、誰よりも早く花輪を届けた。そして、「花が枯れたら故人もかわいそうだ」ということで毎日花を取り替えさせた。
反田中派の松野頼三の妻が亡くなったとき、誰よりも早く駆けつけた。それ以降、松野は、あまり田中を批判しなくなった。
政敵だった社会党委員長の河上丈太郎が亡くなったとき、田中は、わざわざ火葬場まで出向き、12月の寒さと雨の中、2時間立ち続けて野辺の送りまで行った。
社会党委員長の浅沼稲次郎が亡くなったとき、田中は、「考え方が違っても、お互い命をかけて国を良くしようと思っている仲間だ」と家族に言って、葬儀に列席した。
盟友の石破二朗が死去したとき、田中は、国会議員による友人葬において葬儀委員長を務め、鳥取県民葬より多くの弔問客を動員させた。友人葬が終わって、目白の田中邸に石破家を代表して長男である石破茂が訪れた。田中は、彼に対して「君がお父さんの遺志を継いで、衆議院に出るんだ。日本のすべてのことはここで決まるのだ」と説き、石破茂を政界入りさせた。
田中派議員の小林春一は、妻を亡くし途方に暮れていたとき、田中から連絡が入ったので、田中の事務所に向かった。そこで、田中からお悔やみの言葉をかけられ、さらに渡された封筒には100万円が入っていた。小林は、その金で立派な仏壇を特注し、田中に忠誠を誓った。
大石三男次という後援会の大幹部の父が亡くなったとき、田中は葬儀に出たかったが、別の葬儀が重なったため、大石に電話をして、葬儀は伸ばせないかと尋ねた。大石は断ったが、田中は、当時幹事長で激務であったにもかかわらず、何とか時間を割いて、葬儀場に駆けつけた。
ロッキード事件で田中が逮捕起訴された後であったにもかかわらず、田中の実母であるフメが亡くなったときには、葬儀参列者が3000人を越えた。飾られた花輪は、600本以上あったが、それでも実際に贈られた数の半分以下だったという(あまりにも多すぎて断ったため)。また、この葬儀の前夜には、国鉄のストライキがあったので、東京から6時間かけて車を飛ばして駆けつけた議員(当時は関越自動車道が全線開通しておらず、東京からの車での移動にはこれほどの時間が掛かっていた)や、飛行機で新潟へ行きそこから車を使ってまで来た議員もいた。なお、田中は、この日衆院本会議で財特法案の採決が行われるため、田中派議員を中心に、葬儀への参列を自粛し、「本会議への参加」「公務優先」を指示していた(当時は伯仲国会であり、欠席議員が増えると、法案が流れる恐れがあったため)。それでも、衆参両院で約30人の議員が参列した。もし、国鉄ストと財特法案の採決という2つの事情がなければ、相当数の議員が参列していたといわれている。
ロッキード事件に関して、東京地裁で169回もの公判等が行われたが、田中は、事前に届出をすませておけば必ずしも出廷する必要はないにもかかわらず、一日も休まず通った。これは、秘書の早坂茂三も同じである。田中は、絶対無罪だと確信していたという。結局、控訴審有罪に対して、上告中に死去したため公訴棄却となった。また、秘書も上告審で有罪確定となり、5億円収受が認定されている。
角栄節と呼ばれる、ダミ声で非常に癖の強い話し方で知られた反面、首相就任直前、田中事務所の裏金集めを騙る詐欺事件が発生した。犯人は、歌手崩れの若い女性で、対面では秘書を名乗りつつ、電話口では自ら物真似で田中本人を演じるという手口だった。なお、この事件の犯人は、後に逮捕され、服役後まもなく獄中死した(顛末は、佐木隆三「犯罪百科」などに詳述されている)。
軽井沢の別荘に番記者を呼び出し、俺の不都合なことを書くなという旨を言って恫喝したことがある。この暴言を書いたのは、『文藝春秋』と『週刊現代』だけで、他の番記者は記事にしなかった。なお、立花隆は、このことを猛烈に批判している。
幹事長時代に木村俊夫の選挙運動に際して、木村の後援会の宴会が催されたことがあった。しかし、木村自身がどうしてもその宴会に出席できなかったため、その代わりとして、木村の秘書が、田中に支援を要請した。田中は、快く了承し、『天保水滸伝』『杉野兵曹長の妻』などを歌って宴会を大盛り上げた。木村は当選し、田中派になった(ただし、表面的には無所属)。
田中が自民党幹事長を務めていたとき、田中にあやかって「角栄」と名付けられた田中姓の少年がいた。ところが、後に田中がロッキード事件で逮捕されると、この少年は学校でいじめを受けるようになり、少年は最終的に「角栄の名が与えられた精神的苦痛は大きい」として、家庭裁判所で改名を認められている(1983330日・神戸家庭裁判所)。
言うまでもないがこれらは、全て本等で簡単に判明している有名なエピソードであり、語られることもなく土に埋もれた人心収攬をみせたエピソードも多々ある。角栄はこういった有名な人々にのみ心配りをしたのではなく、名もない市民にも同様以上に心配りをしていることで有名だからで、その恩恵を受けた所謂小市民の数は計り知れない(彼ら、彼女たちも進んで風潮することもない)。特に新潟の人々はいうまでもなく、それゆえ開票と同時にトップ当選という驚嘆することが可能だった。[独自研究?]
評価[編集]
二階俊博 「国民にも政治家にも上から下まで、否、下から上まで気を配り、人心を引きつけていく。何に対しても、常に真剣勝負でした」
「田中さんが仕えやすかったのは、責任を持ってくれるから。『任せる』と言って、責任はきちっと負ってくれたもの。そういうことですよ」
「明快、簡略、独善的でも紋切り型でもない、ユーモアもまじえてそれでいて決して本質を外さない。国際レベルにおいても当代の優れた知識人の一人であった」
「明晰な国家ビジョン、世界情勢、経済動向の洞察力、政治哲学、信念、理念を持っていた」
堀田力 「いい意味でも悪い意味でも、極めて日本的な政治家でした。日本社会のいい面も悪い面も非常に拡大した形で持っていた。だから、善悪双方において比類なく傑出した人物だったと思います。頭もいい。理解力に優れている。それに人の気持ちをつかむ感性にも優れている。右脳も左脳も日本的に発達した人でした」
「私は32年間、それこそ二人三脚で過ごしてきた。もちろん人間だから数々の欠点はあったけれど、田中は本当に誇り高く、誠実な人間だった。私はいろいろな人たちにだまされ裏切られたけれど、田中にはただの一度も裏切られたことはなかった」
「田中角栄という政治家は、保守本流の中でも非常に柔軟な発想の持ち主であり、進歩的で従来の弊害を是正するに何のためらいも持たない政治家であった」
「田中角栄を語るときに、強烈なリーダーシップと共に挙げられるのが庶民性である。田中は庶民をこよなく愛し大切にした政治家だった。いつも目線は庶民に向いていた。モットーは主権在民。庶民の生命と財産を守るのが政治家の責務であり、それ以外に政治家に何が求められようかというのが田中の考えだった。どうしたら国民が裕福に暮らせるのかを第一に政策をつくり実行した。庶民宰相と呼ばれた所以である。だから演説では誰にでも分かりやすい言葉で語り続けた。このことで庶民の共感と理解を得て、政治にパワーと実行力が備わったのである」
「田中角栄という人は、ことを為すにあたっては常に大局観に立ち、問題の具体的な解決策を用意して、役人や仲間の政治家、スタッフに方針を示す政治家である。(中略)発想はオリジナルで、言葉は平易で明快、内容は簡明直裁である。道学者風の持って回った難解な説教は一切しない」[112]
「角さんの女性関係は数えたらキリが無い。親方が立派だと思うのは、反逆の旗を立てた女が一人もいなかったことだ」
山下元利 「田中さんは、常に全責任は俺に有りの姿勢で臨んでいた。度胸、着想のよさ、人間味、僕は完全に心酔してしまった。やがて、僕のところには政界入りの話があちこちからきましたが、僕の中には政治をやるなら田中さんのもとでしか考えられなかった」
二階堂進 「それまではブルドーザーのような政治力の人かと思っていたけど、実行力、自分のミスを認める素直さも身に付けている」
佐川清 「ひと言でいえば、すべての面でお手本になる男だったな。不断の努力、人一倍の優しさ、そして何よりの時代の先を見通した鋭い感性。どれをとっても一級の大人物だったな。船舶振興会の笹川(良一)はんも傑出した人物だったが、ワシにとってはやはり角さんが一番だな」[113]
一族[編集]
家族・親族[編集]
妻:田中はな - 旧姓・坂本
長女:田中眞紀子 - 131代外務大臣
長男:田中正法 - 4歳で死亡
長女の夫:田中直紀 - 入婿(旧姓・鈴木)、第10防衛大臣 鈴木直人の子
娘:はなの連れ子、池田勇人の甥と結婚
甥:山科薫 - AV男優監督 実際には辻和子の甥
もう一人の長男:田中京 - 音楽評論家、作家 辻和子との子
もう一人の二男:田中祐 辻和子との子



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