漱石の家計簿  山本芳明  2018.11.29.


2018.11.29.  漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品

著者 山本芳明 1955年千葉県生まれ。86年東大大学院博士課程人文科学研究科単位取得退学。学習院大文教授

発行日           2018.4.18. 初版第1刷発行
発行所           教育評論社

はじめに
夏目漱石の文学活動を経済的な視点から捉え直し、併せて、死後に生じた経済的効果と文化資産としての動向を明らかにすることを目的とする
文学を経済活動として捉えることは敬遠されがちだが、市場社会で活動せざるを得ない文学者の姿を考察することで新たに見えてくることの意義は大きい
『カネと文学』では、貧乏分子の文学活動が経済的成功を収めるまでの軌跡を辿ったが、彼らと同時代の金持ちたちとの接点がほとんど見当たらない
日本近代文学を中心に研究していると、金持ちが何をしていたのか分からなくなってしまうところから、注目したのが漱石
漱石は三井・三菱批判をよく口にしたが、彼自身も金持ちだった
本書が取り上げるのは漱石と没後の夏目家の経済的な活動であり、同時期の高額所得者層の様々な分野の諸成果と漱石を相互参照したのが本書の特色
漱石の作品は死語に遺族に巨額の印税をもたらしたが、それをどう使ったのかも追求すべき課題となっているのは、近代日本の文化資産としての漱石がどのように形成され、運用されたのかを考える上で重要な視点


序章 「経済人ホモ・エコノミクス」としての小説家
1.    金銭が小説家を解放した!
日本近代文学において、経済行為としての文学活動を語ることはタブー。文学者としての堕落に繋がる
小説家の発言が社会的にも注目されるようになったのは、彼らの経済力が向上したからだとは、エミール・ゾラも言っている
小説家は経済力を得た代償に、市場の中の商品生産者として活動せざるを得なくなり、自由なはずの文学活動がジャーナリズムの動向や消費者である読者の欲望に左右されるようになった
ゾラは、小説家と言えども、経済的な合理性を目指し、自己の利益を追求するという点では「経済人」の一員であることを自覚して活動すべきと主張しているが、それが日本で実質的な意味を持ち始めるのは、昭和20年代後半に文壇黄金時代が始まってから

2.    漱石は「御大名」?
漱石は権力や金力による支配を嫌っていて、そのことを作中でも実人生でもしばしば表明していた
明治40年には西園寺首相の招待を断り、44年には博士号を辞退
金には執着が少なく、金のないこともよく知っていたが、根が「御大名」なので、本は買いいいものを食べたし、子供たちにも貧乏たらしい思いはさせなかった
さすがに『猫』が増刷が続くので、印税の処置を鏡子に尋ねると、鏡子が質屋から出すのに使うと言われて、初めて家計の苦しさに気付く

3.    漱石は「金持ち」が嫌いだった!
小説では「権門富貴」に対する批判や嫌悪感を、あるいは金銭によって換算されることへの違和感を度々表明 ⇒ 『二百十日』や『野分』
金持ちに、「趣味」「文学」「人生」「社会」などについて語る資格はない、と断言

4.    漱石は市場をどう見ていたのか?
市場社会の発展とともに必然的に発生する経済的格差の拡大がヨーロッパの社会問題となっているが、近代教育やキリスト教の信仰などが安全装置として機能しているとし、日本も将来的には、同じ道を進むことを想定
市場社会において時間を獲得するためには金が必要であることを認めている

第1章        漱石の収支計算書
1.    漱石の原稿料収入
ホトトギスは1ページ1円、中央公論は120銭、春陽堂は1
明治38年の原稿料収入は約318円、400字換算で667枚、うち有料が625
39年は、約754円、1,178枚、うち有料1,078
田山花袋の小説の38年は、160円、254枚。他に紀行文など339
39年は、130円、187枚。他に175
大先輩の花袋の小説1枚あたりは、47銭~130銭なので、漱石より低いわけではない
漱石の年間1,000枚は、中間小説全盛期の流行作家の笹沢左保や川上宗薫の月間1,000枚の足下にも及ばない

2.    漱石の印税収入(1)
花袋の場合、出版ビジネスが不調で単行本を出しても増刷されることは稀だったので、著者は印税よりも原稿料を前払いしてもらった方が有利だったが、博文館の社員としての月給50円を加えて年収1,000円くらい
漱石は、印税率の高い契約を結び、初版3,000(後に1,000部に変更)15%、25版が1,000部以内で20(後に4版以降は30)6版以上が500部以内で30
『猫』上中下篇の重版計6,000部の印税は99750銭、印税率は18.3
原稿料と印税の合計は、38年で1,013円、39年で3,119
それに第一高等学校英語嘱託として年俸700円、東京帝大英文学科講師で年800円、明治大非常勤講師として月30円。朝日入社後は、月給200円と賞与で年収3,000

3.    漱石の印税収入(2)
朝日入社後の年収は5,000円。官吏の俸給でいえば次官クラス
鏡子の回想では、夏目家の家計が楽になったのは、岩波から『心』を自費出版する大正3年頃から
所得税額比較:  (単位:)

明治41
44
大正4
漱石
62
93
68
鈴木禎次(義弟、教授、建築家)
64
78
53
森鷗外
194
383
279
幸田露伴
34
34
26
野間清治(講談社社長)
21

4.    漱石の家計簿
あまりの支出の多さに、大正312月から自ら家計簿をつけ始める
翌年3月までの4か月間の支出合計は2,401円、年換算で7,203

5.    「経済人」としての漱石
大正3年頃、岩波が台湾総督府図書館のために1万円に及ぶ図書購入に際し、株を担保に銀行借り入れし3,000円融通している
漱石死の直前の全財産は、鏡子によれば30,000円。主として株で運用
漱石の実生活と作品世界のギャップは、『道草』において最も大きかったろう

第2章        文化人としての「金持ち」
1.    「金持」は数寄者だった!
漱石が目の仇にしたのが三井・三菱財閥だが、漱石の嫌悪する「金持」は単に金儲けを趣味とするのみならず、彼らなりの文化的な活動も展開。代表的なものは、建築及び作庭、能楽、茶の湯 ⇒ 大邸宅を建て、庭を造った他、維新で多くのパトロンが没落した能楽や茶の湯の新しい後援者として関わる

2.    漱石と「金持」の文化的接点をさぐる(1)
能楽について、漱石は熊本時代から謡を始め、自分の趣味のネットワークが「権門富貴」の世界と繋がっていることに気付く機会はあったはずだが、本音では能には全く関心がなく、謡だけが好きだったようで、「権門富貴」と自分が共通の地平にあるとは思っていない
茶の湯については、漱石が茶の湯を好まず、茶事の作法すら知らなかった
漱石が欲しかったのは中国の文人画。書画や骨董は好きで、よく散歩の時には古道具屋を覗いて安物を買っていた ⇒ 現在よく使われる、美術品購入の支払い上限価格とされる総資産の1%という目安に照らせば、100円程度の書画の購入は無理なくできたはずだが、一桁少ない額で我慢していた

3.    漱石と「金持」の文化的接点をさぐる(2)
漱石の文人趣味が江戸後期から明治期にかけて流行した煎茶と関係していることはすでに指摘されている ⇒ 『草枕』に、茶の湯を批判しつつ、文人趣味の煎茶を好意的に描く
文人趣味は、明治45年ごろから書画の制作を始めたことで本格化 ⇒ もともとの原点は『思ひ出す事など』に描かれた子どもの頃の体験にある。幕末から続く「南画」の隆盛という時代背景の影響を受けていた
すべてに通じることが必須だった文人の手を離れた漢学・漢詩文・書画は学問世界に、書は絵画と解体されてそれぞれの展覧会に生産と消費の場を移すなど、漱石の文人趣味は分断された世界の中での孤立した営みだった可能性がある。興味深いのは、分断された世界を繋ぐ存在となり得たのが「金持」だったことで、彼ら近代数寄者たちは煎茶や文人画にも関心を持っていた

4.    漱石と2人の近代数寄者
知人の紹介で大阪の「金持」加賀正太郎を紹介され、彼の新しい別荘の命名を依頼
加賀は、家業の証券会社を継いだが、すぐに激務から健康を害して静養のための別荘を山﨑に建てたが、英国留学中に気に入ったウィンザー城からのテムズ川の眺めに似た場所を物色し、それに近いと思われる場所を見つけたのが山﨑で、同じ英国留学をした英文学者の漱石に期待して依頼したものと思われる
加賀に好印象を抱いた漱石がいくつか候補を書いて送ったが、加賀は提案を採用せず、しかも諾否の返事をしなかったため、後に印を送ったが漱石は「金持から印など貰いたくない」と言って受け取ろうとしなかった ⇒ 博士号を拒否した頃と重なる
一方で、弟子の和辻哲郎が三渓園に文人画を見せに連れて行ったときに会った原富太郎には自然に接し、晩餐の歓待を受けて帰って来た ⇒ 「為にする気持ちがなければ、相手が誰であろうと変わりない」という日頃の自らの信念を実践した

第3章        表象としての「金持ち」
1.    漱石と市場社会
一般に、漱石ほど、作品や他の文章の中で金銭のことに言及した作家はいない、とされている ⇒ 物質的状況と人生乃至は文学の繋がりを極めて重く見ていた
一方で、漱石の描く作品世界では、「すべては金銭に置き換えられ、貨幣がすべてを表象する時代」にふさわしく、「互いに命を投げ出し合うような男同士の愛情を表現する手段、表象する形式は最早存在しない」という特徴を指摘する説もある

2.    描かれた「金持」(1)――『虞美人草』『坑夫』『三四郎』
『虞美人草』は最初の新聞小説で、遺産相続を巡るお家騒動の話だが、「金持」のはずではあるが、経済活動とは無縁で、漱石が嫌悪していたほどの財力はなかったようだ
『坑夫』も、語り手が相当の地位を有つたものゝ子という設定だけで、「金持」はいない
『三四郎』でも「金持」への言及はない

3.    描かれた「金持」(2)――『それから』『彼岸過迄』
『それから』では、「金持」の文化的な方面での活動や貢献を無視して、批判されるべき形象として主人公を描いている
『彼岸過迄』の主人公も同じような「金持」として描かれる

4.    描かれた「金持」(3)――『門』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』
これらの作品でも、謡や書画の話は出てくるが、『明暗』になって漸く「金持」体験の反映を見ることが出来る

5.    市場原理を超越する人々
市場原理を嫌悪し批判する漱石の立場は一貫していて、実業家の文化的活動は視野に入ってはいたものの軽視されていた

第4章        漱石は市場原理を越えられたのか?
1.    漱石は自らをこう語った
「金持」を嫌悪する漱石は、「金持」となってしまった自分をどう見ていたか
小説家として活動し始めた段階で、上位2%の中に入っていたが、自分の経済的成功を誇らしげに語ることはないどころか、逆だった
子どもが多く、家賃も高く、仕方なしに2,3軒の学校を掛け持ちしてその日暮らしをしていたために、神経衰弱に陥った、と語っているが、決して低収入とは言えない
「巨万の富」を持つ富豪たちと比較して、自分の収入の少なさを強調するとともに、清貧さを証明しようとして、多額の収入を過剰に低く印象付けようとしている
著書で生計を立てることからくる商業主義に毒される嫌悪を語り、自費出版によって「同好者に只で頒つ」ことが「理想」で、その「理想」を妨げているのが貧乏、そのために「衣食住」でも「理想」が実現できないと明言。「その日暮らし」をする「清貧」な小説家として自らを語る発言は、印税と株の運用によって実現している豊かな生活を隠蔽する自己欺瞞

2.    好意を金銭に換算するな!
『硝子戸の中』では、自分の職業以外のことに掛けては、成るべく好意的に人のために働こうと考えているので、好意が先方に通じるのが自分にとって何よりも尊い報酬であり、金を受け取るのは労力を金で買われているようで潔しとしない、と自説を主張
漱石の反動性は明らかで、自分が市場社会で成功していることと、市場社会の批判をしていることとは論理的に切断されている ⇒ 論理的な分裂は様々な言説で発見できる

3.    芸術家と市場との関係とは何か?
当時の文学市場が、購買者が少なくて市場が小さいために、文士が食えないし育たないと、同じ文士でありながら、高みから彼らの市場的な苦闘を批評している
市場社会では「芸術家」であっても、「他人本位」で働くしかないという現実的な諸問題には深入りせずに無視している
「金の力で支配できない真に偉大なもの」を掴むことはできなかったのではないか

4.    天才の証とは何か?
漱石は病気によって、自らが印税成金や株成金になる姿、他の小説家が自分と同じように印税成金になる姿、「金持」たちが没落する姿を目撃する機会を与えられなかったのは残念

第5章        夏目家、「印税成金」となる
1.    夏目家の当主とは誰なのか?
大正5年漱石病死。鏡子39歳。子供は筆子17歳を筆頭に6
友人・弟子たちが遺族の行く末を心配したが、鏡子は彼らの援助、干渉、管理を拒絶
株運用の成功が自信となっていた上に、死後著作が急激に売れ出した

2.    急増する印税収入
大正8年がピークで117,797
普及版全集全20巻が延べ160170万部のほか、円本(11円の安い全集)の「文学全集」などへの収録が推定40万部 ⇒ 死後7年間の印税収入は推計で16万円くらい。大正8年は6.7万円

3.    夏目家の経済力
大正10年の文士所得調べでは、漱石が1位で7,000円、逍遥が2位で6,000円としているが、鏡子が動かしていたのは、ピーク時では年間10万円に近い金ではなかったか

大正8
大正13
昭和6
昭和13
夏目鏡子
x
145
x
x
夏目純一
x
244
16,618
9,825
鈴木禎次
66
339
1,313
1,540
坪内逍遥
57
167
x
x
菊池寛
x
304
2,876
17,785
野間清治
2,161
26,290
72,310
337,821

4.    岩波書店の収支計算
古書販売から出版ビジネスに進出した新興出版社 ⇒ 夏目家の自費出版による『心』が初刊本。作家の死後『漱石全集』を出したり文庫本その他で刊行したことが書店に幸い
商品としての漱石は「信頼」と「権威」の証として機能し、岩波書店というブランドを確立するのに有効に働く
『哲学叢書』全12巻の発行(大正46)は、岩波に哲学書肆としての名を肆(ほしいまま)にさせるほどの成功
多くのヒット商品を握っていたので、小規模だが成功していた

5.    漱石の顕彰運動
大正9年には夏目家主催の遺墨展覧会開催
翌年?漱石の書斎一般公開 ⇒ 図書館設立への第1
「低徊趣味」の作家であり、作品は出せば売れたが、評価は分かれる

第6章        夏目鏡子の収支計算書
1.    鏡子のライフスタイル
まずは住んでいた土地建物を購入 ⇒ 大正7年に2万円で土地を買い、4万円で新築
元貴族院議員の娘として裕福に暮らしていた鏡子は、結婚生活の苦労を一気に取り戻すかのように、一家を挙げての豪勢な生活と生来の気前の様さからくる放蕩にふけり、弟子たちはいい顔をしなかったが、そのうち見事に印税を蕩尽して、税務署から差し押さえにまで来た

2.    夏目家のアキレス腱
大正9年の恐慌が契機 ⇒ 最初は炭鉱株での大損、詐欺にかかった可能性大
次いで大正9年に開業した美久仁真珠 ⇒ 真珠バブルに乗った人造真珠の会社への出資(7.5万円)で、筆子の夫・松岡が社長となったが、業績不振で会社詐欺に引っかかった可能性もある

3.    夏目家の経済危機(1)
大正12年の野上弥生子の日記には、「鏡子が(命日の9日会に集まった)弟子たちに窮状を告白した」とある
安倍能成、和辻、野上豊一郎、内田百閒、鈴木三重吉、岩波茂雄、松音東洋城、阿部次郎、森田草平、寺田寅彦などが寄って、書斎の保存と、不動産の処分を話し合うが、第3回『漱石全集』の成功により23.5万円が入り、問題は一時的に解決

4.    夏目家の経済危機(2)
大正15年美久仁真珠倒産、30万を超える債務に加え、持ち株を譲渡したが、当初の資本金100万円の未払い込み分の請求を受け、鏡子に対する破産申請が出される
普及版全集を出しても追いつかなかった
昭和6年早稲田を引き払って戸山が原脇市外西大久保に転居

5.    ライフスタイルはどう変わったのか?
今の貨幣価値に換算すれば10桁にも及ぶ印税を、まったく無計画に蕩尽したあとも、鏡子の生活スタイルは変わらなかった
子どもたちも、女性はモガ娘、純一は才能もないままにベルリンに留学してヴァイオリンをやっているが、落ち込んでいる。伸六は30になりながら無為徒食でカフェの見習いで住み込みをしながら小説家への道も模索
漱石山房を残す計画は弟子たちによって進められていたが、結局実現したのは平成29
昭和16年には隣組新年会が開かれ、18年には陸軍将校の宿舎として使用され、蔵書は東北帝大の図書館に収まったので、20年の空襲で全焼したが、蔵書だけは残った
夏目家の負債が巨額だったこともあるが、漱石の文化遺産としての価値がそのマイナス面を補って余りあるほど高くなかったということ

第7章        夏目家と岩波書店
1.    高まる緊張
昭和5年夏目家が岩波の全集出版独占権を飛び越して改造社による全集出版を企図、最終的には出版されなかったため、夏目家の経済危機は続き、岩波が高利の借金の肩代わりをする
昭和14年頃から好調になった出版ビジネスのお陰で、夏目家にも印税が入るが、相変わらず贅沢な支出を抑えられず、経済的な危機に陥ればすぐ岩波を頼ったはず
筆子を巡る「破船」事件で、夏目家を出入り差し止めになっていた久米は、松岡と和解し、松岡から漱石山房を残す相談を受けた際、久米が事務局長をしていた日本文学報国会の「国内文化的遺跡の顕彰」の企画に載せようとしたが、肝心の岩波が難色を示したので頓挫
昭和21年岩波死去の際、安倍能成は追悼文で夏目家を批判、「漱石全集の刊行で得た利益は莫大だが、岩波が漱石遺族に捧げた利益、親切、尊敬、誠意に対し、夏目家の感恩の念が薄いのは遺憾」

2.    ビジネスとしての漱石
昭和3年円本の普及版全集は、延べ160170万部出て、印税が2割として夏目家が得たのは22万円 ⇒ 他の円本と比較しても決して多いとは言えず、岩波書店の経済的苦境の解消にはならない
昭和3年には、岩波は労働争議にも悩まされていた
昭和10年から刊行の決定版全集、全19巻定価150
昭和1418年は軍需景気、購買者層の拡大、購買力の上昇によって出版ビジネス全体が好景気に ⇒ 業界の主力商品は文学書だが、岩波は「哲学」と「科学」で稼いだ
岩波は、寺田寅彦を重視 ⇒ 科学書肆岩波書店の中心的アドバイザーだった

3.    全集問題の勃発
昭和21年未曽有の好況の出版界で、桜菊書院(戦時中軍部に近い明治天皇桜菊会の傘下)と岩波の双方から「漱石全集」発売 ⇒ 同年末著作権切れを前に、前者は著作権者純一との共同申請で著作権法に基づき出版権を登録し、伸六が同書院に入社して編集に携わり、岩波には事後承諾を求めただけで発行を進めたため、岩波は大正6年締結の出版占有権設定契約に基づき出版権を登録し、双方が異議申し立てを行う泥仕合に発展したが、内務省次官の仲裁により、正規の手続きを踏んだ桜菊書院側に圧倒的有利な裁定となり、岩波は刊行を翌年に延期 ⇒ 夏目家が岩波と漱石という30年にわたる恩愛の絆を出し抜き、出版権の設定登録という近代的な法の城砦を構築したからだと説明された
岩波は翌年以降刊行予定の全集の印税支払い義務を否定、著作権の切れたものについては印税支払いをストップ ⇒ 鏡子は、ほとんど無収入の状態になった自分の生活に対し、岩波の不実を詰っている
著作権切れを前に桜菊書院が約束した500万円は、昭和23年の作家高額所得者番付1位の吉川英治の250万円に比べても大金だったが、インフレで急速に価値が低下、さらに定価を固定した予約出版だった為に経費高騰に打撃を受けた桜菊書院は24年に倒産し、全集も中絶、夏目家も当初思惑通りに印税を入手できたとは思えない

4.    商標となった漱石(1)
昭和22年夏目家は著作権消滅に対する焦りから、漱石商標登録事件を起こす ⇒ 商標登録することにより、著作権を失う代わりに、作者名・作品名などの使用者に対し商標使用料を支払わせようとした ⇒ 対象は「夏目漱石作品集」「漱石」「夏目金之助」など37
岩波と日本出版協会は、著作権の失くなった個人の遺作を個人的に独占するものであり、日本の普遍的文化財を私せんとする反文化的態度として異議申し立てを行うとともに、世論に訴えた
伸六は、あくまで生活上の問題として弁明。漱石の最も嫌悪することを、子が実行しようとしたとも、漱石の「経済人」としての一面を子が突出させたと見ることもできる
安倍能成の批判はもっと厳しく、「漱石先生は尊敬するが、その家族は尊敬しないし、門下生と言っても遺族から弟子扱いされる間柄ではない。岩波から出版書店という以上に厚意を受けていながら、岩波を差し置いて桜菊に許したのは道義的でない。漱石作品を商品並みに商標登録することよりも、漱石を愛せずして漱石を食い物にする遺族の心事を悲しむ」

5.    商標となった漱石(2)
久米正雄だけは夏目家を擁護、著作権の期間延長を主張
当局が、著者名や著作物名は中身に差異がないので普通の名称と見做すとの判断を示し、夏目家は不服を申し立てたが、最終24年に却下確定
商業主義を優先するはずの出版社が「文化」を擁護する側で、夏目家が「反文化的」な商業主義を徹底して優先する立場にあったのは興味深い
この時期、新しい漱石評価が生まれたことは見逃せない

6.    漱石、売れる「高級」作家となる
漱石は現実に迫らない「低徊趣味」の作家であり、明るいユーモア作家という評価から、国民文学ではあっても、「高級」とは見做されなかったが、「人生いかに生くべきか」と言う命題にも取り組む知識人の小説であり、漱石は「現代の読者」の「師表」とまで言われる
決して私小説を書かなかった漱石の小説意識の近代性が卓越化された
漱石の作品は「低徊趣味」から、「戦後社会の理念」を託されるような「高級」な作品となる
ただ、中学教科書から漱石がなくなったことを考えると、漱石の時代適合力の衰えが感じられるが、市場の中でどのような位置を占めることになるのだろうか

あとがき
本書は、科学研究費助成事業「195070年における文化資本・文化産業としての文学に関する総合的研究」(基礎研究C)の成果の一部



(書評)『漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品』 山本芳明〈著〉
2018.6.23. 朝日
 市場原理への嫌悪と偶然の成功
 近代日本の文学市場はいかに成り立っていたか。夏目漱石を通して印税の配分やその生活ぶり、そして作品での金銭の描き方を分析する。著者の視点は「漱石はいくら稼いでいたのだろうか」という点にあり、一見俗っぽくみえながら、その実、本質に迫っていく。
 たとえば、漱石の大正3年の家計簿を示し、その支出の多さから、贅沢(ぜいたく)な生活をしていたと指摘する。朝日新聞社の月給のほかに、出版社の印税収入がある。
 最も部数の多い新潮社の『坊っちやん』は定価が30銭で、大正3年と4年で8900部売れた。印税率30%として801円だ。他の出版社からも次々と本が出され、大正4年から5年にかけての印税収入は4千円近くあった可能性がある。大正5年、第一銀行の大卒者は初任給が40円という時代に、相当な額だ。それでも夏目家の支出は賄いきれず、鏡子夫人が株を購入して資産運用を始めていたのでは、と分析するのだ。
 漱石は経済学に通じ、マルクスの議論も知っていたようだ。その上で市場原理を批判し、嫌悪するのだが、そこには、良質のものは価格が高くても尊ばれるべきだとの信念がある。作品にもそれが反映していて、「金」が道徳的な労力と引き換えになり、「勝手次第に精神界が攪乱(かくらん)されて仕舞ふ」との自身の考えが込められていると、著者は主張する。
 これも重大なことなのだが、漱石は市場原理を批判しつつ、芸術家などが「自己本位」で活動しているのは、経済的不安を覚悟しているからともいい、自分の成功は偶然の産物という言い方もしている。漱石亡き後の鏡子夫人の贅沢な生活は「猫」ブームが起こったから、さらに漱石ブームと続いたためで、いかに作品が売れたかも表で示している。夏目家が提起した著作権の継承問題は、その後の作家の権益をめぐる問題の出発点といえる。
 著者の目配りに新しい文学論の誕生が感じられる。
 評・保阪正康(ノンフィクション作家)
    *
 『漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品』 山本芳明〈著〉 教育評論社 2592円
    *
 やまもと・よしあき 55年生まれ。学習院大教授(日本近代文学)。著書に『カネと文学』など。


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