藤田嗣治 旅する画家  林洋子  2018.12.21.


2018.12.21. 藤田嗣治 旅する画家

著者 林洋子 文化庁芸術文化調査官。1965年京都市生まれ。東大大学院修士課程修了。パリ第一文化大学文学博士。東京都現代美術館学芸員。京都造形芸術大準教授を経て現職。『藤田嗣治 作品をひらく 旅・手仕事・日本』でサントリー学芸賞、渋沢・クローデル賞、ルイ・ヴィトン・ジャパン特別賞他受賞。監修を手掛けた展覧会《没後50年 藤田嗣治 本のしごとー文字を装う絵の世界―》(201819、西宮市大谷記念美術館、目黒区美術館ほか)

発行日           2018.9.25. 
発行所           新潮社(とんぼの本)

「乳白色の裸婦像」や「戦争画」で知られる画家・藤田嗣治は、生涯にわたり世界各地を旅し、移動を続けた画家でした
191020年代のフランス・パリを皮切りに、30年代には中南米を2年かけて遍歴。戦前の日本では東北から沖縄まで各地を巡り、母国を再発見します。40年代に入ると、戦争画制作のために従軍画家として「極東アジア」各地へ、戦後はニューヨークにも1年ほど滞在したのち、パリとその郊外で晩年を過ごします
投じ、これほどの多文化を自らの中に吸収・蓄積し、多様な土地を舞台に捜索を行った日本人画家は他に類を見ません。本書は、旅人・藤田の足跡を辿り、その経験が幅広い画風にどのような影響を及ぼしたのか、10の土地と時代を切り口に解き明かしていきます
時代に先駆け、世界を舞台に活躍した画家と共に、航海に出ましょう

1949年、62歳で日本を出国した際の日本国パスポート。名前の欄にはMr. Tsuguji Foujita と記載がある。藤田自身は公には、「つぐはる」と名乗り、家族間では「つぐじ」と呼ばれることが多かったという。渡航理由は「ブルックリン・ミュージアムのアートスクールで教鞭をとるため」とあるが、実際に教壇に立つことはなかった。本籍は藤田本家ではなく、姉の嫁ぎ先で、藤田も一時寄寓した中村家に置かれている


はじめに
従来藤田(18861968)は、日仏間を行き来しながら2国をベースに創作する存在として語られがちだったが、つぶさにその画業や資料を追っていくと、その2拠点だけでは語り得ない部分が多く出てくる。特に30年代や戦時下での仕事を踏まえると、藤田の創作に影響を与えた場所やその文化風俗はずっと幅広いことがわかる ⇒ 藤田の本質は、住まいの移動も含めた「旅」によって獲得した「多重性=多文化の蓄積」にあると言える
本書では、その多重性を明らかにするため、藤田の「旅」が各年代の作品にどのように結実したかを追っていく
留学先のパリでは一方的に吸収するだけでなく、自ら積極的に制作・発信、現地の美術界に受け入れられ、現地の人々を鑑賞者・顧客にすることを目指し、それを実現したのは日本人としてはもとより、アジア人としても初めて。それでありながらパリに定住したわけでもない
パリで成功してからも、特に中南米やアジアといった「非西欧圏」への旅を続け、匿名の旅行者ではなく、画家・藤田として異文化に接して制作し、発表・販売まで行い、作品や本人の痕跡を残しているが、それは異国の社交界でも活かされた語学力やコミュニケーション能力、異文化理解力の賜物であり、「地球を3周した」という本人の言葉通り、頭の中で地球儀を描いて世界を認識することが出来る国際人だった
空間的な移動に加え、近過去―古き良き風景、骨董工芸の蒐集品、そのノスタルジックな表象への興味を持ち続けた ⇒ 時間的な旅であり、戦争を挟んで画家自身のコンテクストが複雑になるにつれ、歴史上の美術、記憶上の風景、宗教などのフィクショナルな旅にも飛び込んでいく
没後50年を迎え、関係記録・資料の公開や再編が進み、画家にまつわる神話やタブーと距離を置くことが出来るようにもなった

²  藤田嗣治の世界地図
パリとフランス ⇒ 第2次大戦まで度々転居を繰り返したが、ほとんどの家が左岸のモンパルナスから半径1㎞以内に集中
中南米 ⇒ マドレーヌ・ルクーを伴い各地を遍歴。まるで旅絵師のような日々。画風に大きな変化をもたらした収穫の多い旅
東京と日本 ⇒ 生まれも育ちも「山の手」。江戸情緒が残る明治東京では26歳までを過ごし、46歳で帰国した昭和初期の東京では、壁画、戦争画など"の仕事を多く手掛ける。住まいは新宿、千代田、文京付近に集中

²  東京 18861913
生まれは牛込・大曲。美校の卒業制作のうちの1点に不遜な表情をたたえる自画像があり、学科主任の黒田清輝が、皆の前で悪い例として説明 ⇒ 色々やってみたいことも先生の通りに従わねばならぬのでなかなか苦しくて、一日も早くフランスへ行きたいを思ったと振り返る
高師附属小・中の同級生に宛てた絵はがき ⇒ アール・ヌーヴォー風、藤島武二風、アルフォンス・ミュシャ風などさまざまなスタイルを用い、デザイン性の高い画面を構成。1900年に私製はがきの発行が許可されて以降、「絵はがき」は描くのも収集するのもブームに
幼少期から転居の繰り返し ⇒ 皮切りが4歳の時熊本へ、母が同地で急逝
父は鷗外の後任の陸軍軍医総監。4人兄弟の末っ子(姉、姉、兄)
北斎の版画が良い教師
江戸の気配が残る明治・東京での記憶が、後年の藤田作品に表象される「日本」を形成
父は医者になることを望んだが、藤田は13歳ですでに画家を志望、開明的な父も理解を示した。画塾にも通い、暁星中学の夜学ではフランス語も学ぶ
美校では入学前に全学生が日本画、洋画、彫刻の基本的な手ほどきを受けるが、洋画の教師からは「クラシック過ぎる」と酷評、日本画の教師からは「洋画の水彩画」と批判、卒業後の登竜門「文部省美術展覧会(文展)」では3度連続で落選
美校在学中に房総への写生旅行に出、同じ年の女子美校出の鴇田とみと出会い、結婚。大久保にアトリエ付きの新居を借り、新婚旅行も兼ねて父の赴任先京城・平城を訪ね、異文化に触れる旅の原点となる
12年単身私費で渡仏

²  パリ 191320
モノクロームの「パリ周縁」と城壁
アメリカで美術教育を受けた川島理一郎と意気投合
ピカソやディエゴ・リベラの知遇を受け、アンリ・ルソーの絵画に目が釘付けになる
1次大戦でも帰国せず、オリジナルの画風を確立しつつある
16年ロンドンに疎開、古道具の修繕や裁断の仕事で糊口をしのぎ、背水の陣を敷くため父やとみとの縁を断って自力での残留を決意、独自の画風の創出を目指す
17年パリに戻って姉御肌のフェルナンド・バレーに出会い、本格的なフランスへの同化が始まる。高い評価を受けたのが風景画で、モティーフはパリの歓楽街や名所旧跡、パリ周縁で、先行者にはルソーや写真家ジェーヌ・アジェ
18年終戦とともに、5年ぶりにサロン・ドートンヌ再開。藤田は出典6点全部入選、パリ美術界に公式デビュー。翌年も併せ相当数が油彩の宗教画だったのは、大戦中に訪れた郊外の古い教会に接しキリスト教への関心を高めていたから
モディリアーニ、スーティンらとも南仏カーニュで過ごす
10年代末は女性像や子供が主題の作品も多く、奥行きの浅い背景に不安げな表情で描かれている。面長な貌、メランコリックな表情、抑えられた色調などモディリアーニ風

²  パリ 192126
モンパルナスの乳白色の裸婦たち
2627年頃、乳白色の裸婦像で一世を風靡、絶頂期に
一緒に描き込んだ猫も藤田的なモティーフで、裸婦や自画像に描かれることが多かった
真正面から描いた自画像(21)はゴッホの《タンギー爺さんの肖像》を彷彿とさせる
パリの20年代は「狂騒の時代」と言われ、派手な仮装で夜毎のダンスパーティーに参加していた藤田は、作品の代名詞となった「乳白色の下地」に加え、おかっぱ頭と丸眼鏡の東洋人として大人気
大戦後パリでは裸婦像が一種の流行となったが、藤田にとっては裸婦こそが西洋美術の王道で、藤田の構図は西洋美術の伝統的図像や同時代の文脈を踏まえて描かれていて、独創性を発揮したのはその肌の質感。黄味がかった灰色で、鉛白と石膏又は炭酸カルシウムを混ぜたもの、その上に面相筆を巧みに滑らせた墨線を描き、少量の油絵具をたっぷりの乾性油で溶いて色を塗ると下地が透ける。この乳白色の下地を活かすのが裸婦の肌
同時代のマティスやドンゲンなど、表現主義的な画家達とは対照的な薄塗が個性となり、「藤田ブランド」が確立
背景となる「地」に布を多く使ったが、藤田は産業革命以前の「民衆芸術」「職人仕事」「手しごと」に関心が高く、自ら蒐集・愛好しては作品に描き込んでいて、よく登場するのがこの時代の主要モティーフの「室内・静物」の画
この時代の裸婦像と室内・静物画に通底するテーマが、歴史化した過去ではなく、近過去の、ささやかで身近なものへのノスタルジーで、異邦人である藤田がフランス人自身が見逃してきたものに目を向けて掬い上げたことは高い評価を受けたし、それを可能にしたのは徹底したフランスへの同化と、対象を精緻に描き出す表現力
24年フェルナンドと別れ、ユキと住み始め、レジオン・ドヌール勲章を授かる
白い裸婦像の量産

²  パリ 192730
壁画の中の日本 ⇒ 10年代後半から日本美術の研究を開始、20年代後半になるとパリのサロンからは遠ざかり、本格的に油彩で「日本」に関わる主題に取り組む
在仏のまま帝展に出品し、日本での知名度も上昇。薩摩治郎八をパトロンに、在仏の日本人画家が結成した「フランス日本美術家協会」にも参加、日本人留学生のための下宿「日本館」の内装壁画完成。一躍在仏日本人コミュニティの中心人物に
29年パリ開催の「日本美術展―現代の古典派」では陳列委員長として参加、《争闘》を出品、男女の裸体群像を描いたもので、日本の伝統文化を強調した展覧会の中では異質なものだったが、パリ美術界でますます「日本」を背負った存在になる
派手な生活から財政難に陥り、税金滞納から注文壁画の仕事を受けるがそれでも追い付かず、日本での展覧会開催を決断、29年にユキとともに帰国、パリで成功した画家の凱旋とあって日本で大々的に紹介され、日本の美術界初のメディアスターとなる
3か月の滞日中に各地で行われた藤田展の成功は後の大衆的な展覧会のシステムの成立に大きな影響を与えるとともに、エッセイ集なども出版、「パリの藤田」のイメージが定着

²  中南米 193033
色彩と非西洋との出会い
10年代の「風景」、20年代の「室内」を経て、再び外、今度は「路上」に出る
30年アメリカ経由でパリに戻るが、大恐慌下のパリ美術市場は低迷、ユキとは別れ傷心のまま新たな恋人で赤毛のダンサー・マドレーヌ・ルクーと中南米に向かう
パリでは、ラテン・アメリカへの関心が高く、ブラジル、アルゼンチン、ボリヴィア、ペルー、キューバ、メキシコを訪問、各地で制作をしながら展覧会も開き即売していった
行く先々で、現地人の陰影に富む容貌と色彩豊かな風俗に魅せられ、造形的に獲得したものは、「非西洋」のモティーフと「色彩」表現であり、有色人種を色彩豊かな画面に描くという大きな変化が起きる。カメラとムーヴィーを多用、詳細な日記と共に多くの記録を残す
中南米からアメリカ西海岸に向かい、太平洋航路で日本に帰る

²  日本 193338
東北から沖縄まで、母国再発見の旅
パリの経済基盤は処分しており、ヨーロッパで進む排外主義もあって、結局戦後まで日本で暮らす
高田馬場の姉の嫁ぎ先の家の敷地内にアトリエ兼自宅を新築
日動画廊で最初の個展開催、二科会会員、34年銀座にオープンするブラジル珈琲宣伝所や、大阪十合、銀座コロンバンなどの壁画を受注。36年妻急逝。24歳下の君代との生活が始まる
30年代の藤田作品の最大のコレクターが秋田在住の素封家・平野政吉。37年彼の依頼で秋田に完成させた《秋田の行事》は最大規模の作品。僅か15日で仕上げる
38年沖縄へスケッチ旅行。銃後の生活を描くところから、藤田の戦争画が始まる
日中戦争開戦で壁画の需要が激減、新たな受容層獲得のため、街頭風俗表現と壁画によって「大衆のための奉仕」を試みるが、それを実現したのは次の時代の「作戦記録画」

²  極東アジア 193849
戦地に赴く、戦争を描く
《哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘》(41)、《アッツ島玉砕》(43) ⇒ 陸軍作戦記録画(=陸海軍の依頼により公式に制作された戦争画)
軍からの注文を受け、戦地を取材し記録するための旅が30年代末から始まり、東アジアと東南アジア ⇒ 最初の従軍が38年の中国南部。卓越したデッサン力や構成力で秀でる
41年二科会退会、帝国芸術院会員を拝命、文化使節として仏領インドシナに派遣
《シンガポール最後の日》《211(ブキ・テマ高地)》《128日の真珠湾》の3作は、戦勝図にしてはどこか翳があり、日米開戦によって藤田が築いてきた東西のネットワークが破綻、藤田が知る両者の国力の差への絶望感もあったかもしれない
神奈川県小淵村藤野に疎開して描いた《サイパン島同胞臣節を全うす》では、非戦闘員中心に、ドラクロワの《キオス島の虐殺》を思わせる
プロパガンダ的な文章も多数発表。「作戦記録画」は戦意高揚というより戦争の残虐性の告発にも見えてしまうことが、評価を難しくしている
藤田は、日本にもドラクロワやベラスケスのような戦争画の巨匠が必要と述べ、記録画というより西洋絵画の図像と古典の巨匠を範にフィクションとして生み出される「芸術的」な「戦争画」を目指した ⇒ 《アッツ島玉砕》は大画面群像表現の到達点と言える
43年亡くなった藤島武二の後任として陸軍美術協会の副会長就任するが、44年の美校や帝室技芸員の「戦後」を見据えた人事では美術界から排除されつつあることも露呈
45年の終戦では疎開先で戦争画関係資料やスケッチを焼却、麹町の家は焼失、板橋区小竹町に引き揚げ、画壇の戦犯と非難が集中し、何も語らないまま日本を離れる決意をする
戦争画は、戦後GHQに接収、51年にアメリカに行くが、70年「無期限貸与」として日本に返還され、うち153点の「戦争記録画」は東京国立近代美術館の所蔵に。14点が藤田の作品

²  ニューヨーク 194950
みじかくも、実り多き滞在
49年単身ニューヨークへ ⇒ アメリカでは猫や子供を描く画家として知られていた
すべて新作の個展開催 ⇒ 繊細な線描が甦り、ダ・ヴィンチを想起させる
50年藤田を追ってアメリカに来た君代と共にパリに出発

²  パリ 195061
郷愁の街と子供たち
パリでも、芸術家を含め戦時下のナチス政権への協力者が厳しい非難の対象となっており、藤田も戦争中の行動についてメディアの攻撃に晒される
20年ぶりにモンパルナスに戻るが、仲間達の多くが亡くなったり。パリを離れたりしていて、失望と落胆は大きかった
50年個展開催は望外の評価を得、順調な再出発となる
カラー写真に熱中、老年期の藤田の視線が、華やかのパリの暮らしから、街の片隅、街角の人々や路上生活者に注がれていることがわかる
50年代になっても、個展開催と宗教美術の取材を目的に、旅を続ける ⇒ 51年にはアルジェリアまで行く
55年夫妻でフランス国籍取得
西欧文明とキリスト教をセットで考える藤田にとって、国籍変更後の改宗は自然な流れであり、59年にはシャンパ-ニュ地方の中心地ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受ける
《フランスの富》(6061) ⇒ カンパーニュ・プルミエール通りの家の居間を飾ったパネル画より、47のテーマを選び出して再制作。フランス国旗をあしらったタイトルを加え、縦6枚横8枚の48のパネルで構成される。61年の「時代の証人の画家たち」展に出品。文化、スポーツ、食などフランスに古くからある様々なジャンルの職業人が描かれる

²  ヴィリエ=ル=バクルとランス 196168
手しごとの家と祈りの空間
61年戦後にパリの文化人の別荘地となっていた自然豊かな土地に転居、隠居に近い暮らしとなり、自らの意思で出品したのは同年のパリ市立近代美術館の展覧会が最後
長年フランス人に同化してきた一方で、晩年の暮らしは日本化を進める
洗礼以降、主に制作されたのは宗教画
66年設計から壁画、ステンドグラスまでを手掛けたランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂竣工。聖母子の壁画は、受胎告知から十字架降下までイエスの生涯の事跡を、このために習得したフレスコ画の技法で描く
《礼拝》(6263) ⇒ 集大成的な作品。聖母と天使に祝福される藤田夫妻、バクルの家と風景、少女、小動物と、各時代を代表するモティーフが集合、乳白色の下地と金箔を使いながら、鮮やかな濃彩で描いたもので、最後に自分のために取り組んだテーマ

²  年譜 旅して、描いた81

藤田嗣治を語る 林洋子  
日本経済新聞 朝刊 交遊抄
201915 2:00 [有料会員限定]
ときは1999年夏。「美術館受付です。ノミヤマさんという方が面会にいらしています」と連絡を受けた。当時、私は東京都現代美術館の駆け出し学芸員で、展覧会「銅版画憧憬 駒井哲郎と浜田知明の一九五〇年代」を立ち上げたばかり。転がるようにかけていくと、見知らぬ、ジーンズ姿の小父(おじ)さんと、後ろに駒井美子夫人が申し訳なさそうに立っておられた。「先生をご案内したら、どうしてもこの企画をした人に会っておきたいって」。それが野見山暁治先生との出会いだ。
20年も前に亡くなった駒井とは東京美術学校での同級生で、なにか叱られるかと固まる私に先生はにこにこされるばかり。学芸員と並行して藤田嗣治の研究をしていたので、先生の「四百字のデッサン」所収の藤田に関するエッセイは繰り返し読んでいた。藤田と同業、同窓で、生前を知る先生の、文字による「デッサン」は研ぎ澄まされ、限られた文字数で、対象のエッセンスを残酷なまでにつかみ取っている。以来、出版や展覧会の度に案内や本、感想を送りあう。藤田をはさんで向かい合ってきたのだ。

昨年は藤田の没後50年にあたり、国内で大規模な回顧展が開催され、今年1月からはパリでも開かれる。両展を企画した私は、パリのカタログを一番に先生にお届けするつもりだ。(はやし・ようこ=美術史家)












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