占領都市 TOKYO YEAR ZERO II David Peace 2012.11.26.
2012.11.26. 占領都市
TOKYO YEAR ZERO II
Occupied City 2009
著者 David Peace 1967年ヨークシャー生まれ。現在日本在住。1999年『1974 ジョーカー』で作家デビュー。2003年イギリス文芸誌「Granta」の選出する若手イギリス作家ベスト20の1人に。04年『GB84』でジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞。本書は07年発売の『TOKYO YEAR ZERO』に続く《東京3部作》の第2作で、同3部作は下山事件を描く次作により完結する予定
発行日 2012.8.25. 第1刷
発行所 文藝春秋
1948.1.26. 雪の残る寒い午後。帝国銀行椎名町支店に白衣の男が現れた。男が言葉巧みに行員たちに飲ませたのは猛毒の青酸化合物。12人が死亡、4人が生き残り、銀行からは小切手と現金が消えた。悪名高い〈帝銀事件〉である
苦悶する犠牲者たちのうめき、犯人の残した唯一の物証を追う刑事のあえぎ、生き残った若い娘の苦悩、毒殺犯と旧陸軍のつながりを知った刑事の絶望、禁じられた研究を行っていた陸軍七三一部隊の深層を暴こうとするアメリカとソヴィエトそれぞれの調査官を見舞う恐怖、大陸で培養した忌まわしい記憶と狂気を抱えた殺人者
史上最悪の大量殺人事件を巡る12の語りと12の物語――暗黒小説の鬼才が芥川龍之介の『藪の中』にオマージュを捧げ、己の文学的記憶を総動尾員して紡ぎ出す、毒と陰謀の黒いタペストリー。アラン・ムーア『フロム・ヘル』に比すべき呪われたアンチ・ミステリ大作―――本書はフィクション
1948.1.26.(月)15:20pm犯人が帝国銀行椎名町支店を訪問
支店長は腹痛で14:00pm早退。代理が面談
類似事件 ⇒ 48.1.19.三菱銀行中井支店(金庫が閉まっているのを見て立ち去る)、47.2.14.安田銀行荏原支店(薬を飲まされたが未遂に終わる。名刺の印刷が3月となっていることから、Wikipediaにある10月の方が正しい? 324ページの平沢の自白では8月になっている)
安田銀行事件で残された名刺を1枚1枚追跡して、3月7日人格者として知られた有名な画家(水彩画を皇太子に届けたりするほど)の平沢貞通に辿り着くが、写真がモンタージュに似ていなかったり、アリバイもかなり確実だが、1月末に家族に8万もの金を生活費と言って渡して北海道にいる父の看病と付添に行っているし、他にも犯行直後に相当額の預金をしている
8月19日 平沢に逮捕状発布、21日小樽で逮捕
48.1.26. 16人が薬を飲まされ、女性が一人外に転げ出して事件が発覚
女性は病院に運ばれ胃を洗浄、薬を飲まされたのが分かって殺人事件となる
何度も容疑者に面通しをさせられるが、平沢も含め、真犯人とは違う ⇒ 平沢は年恰好も違うが、同僚の1人が犯人だと証言し、平沢が自白を始め、女性は目をつぶることに
取材に来た讀賣の社会部記者と結婚
終戦直後の9月アメリカ軍の将校が、日本の生物戦プログラムについての情報を集めるために、占領軍の一員として日本に派遣される ⇒ 七三一部隊の存在と、生物兵器の実用化に向けた人体実験が捕虜を使って行われたことを突き止めるが、占領軍の上層部は既にその事実を知っていた。千葉に潜んでいた石井中将を探し出して訊問するも埒が明かず
密告者から、GHQが実験成果の情報と引き換えに石井以下七三一部隊の免責を与えたという情報を得る
GHQの陰謀を暴こうとしたが、結核に罹り闘病生活を余儀なくされ、48.2.まで留まる
事件現場に近い長崎神社の裏に目白治安協会を立ち上げ、民間捜査本部として独自に犯人を追いかける ⇒ 地元から寄附を募るので嫌がられていた
讀賣の記者は、当日同時刻に警視庁記者クラブにいて食中毒事件と知らされたが、本社から大量殺人事件だと知らされ、現場に急行した同僚からの情報に従って翌朝の記事を書く
GHQからメディアに対し、張り込みの中止や帝銀事件との関連で捜査中の陸軍毒物学校について言及のある記事の差し止め等の圧力がかかり、記事を控える
8月に毎日が、平沢逮捕をスクープ
警視庁で直接尋問が行われた重要な容疑者としては4人目だったが、11名の目撃者のいずれも容疑者と犯人との類似点を見いだせないのみならず、面通しでも犯人と断定した者はおらず、6人までが犯人でないと断言 ⇒ 釈放される可能性が高くなったが、本人の自殺未遂、自白、被害者4人の間違いないとの証言により、9月に私文書偽造と詐欺で起訴
絵具を混ぜる際に青酸カリを使用
出所の疑わしい大金を動かしていた
平沢がすべてを自白 ⇒ 被害に遭った女性は、犯人でないことを知りつつ、新聞記者の男と結婚して、犯人であると信じるふりをすることに
ちょうど東京裁判の判決が出たころ。男は記者を辞めコピーライターに転身
47.1. ハバロフスクでの裁判でも日本の生物戦計画を戦争犯罪として起訴し得ることが確認されており、東京でGHQに対し七三一部隊の石井他主要人物の尋問を申請 ⇒ 5か月後にアメリカ人立会いの下で訊問
平沢の回想 ⇒ コルサコフ症候群(脳機能障碍に起因する健忘症)とも言われていた
父は憲兵から札幌市役所職員に転身。平沢は小学校の頃から美術に目覚め、熱中したために父親の期待を裏切り、家族関係の悪化から神経症となって中学で2年休学。復学後も母のお蔭で美術の勉強を続ける。小樽で妻と出会い駆け落ち同然で結婚、小樽に戻って絵画を教えて生計を立てるが、また東京に舞い戻る。作品が認められるようになり家も新築したところで火事に遭い、放火容疑で逮捕
帝銀事件の前年、銀行で他人の番号札を拾い現金と通帳を詐取、テンペラ画家協会から横領していた金の穴埋めのため、残高を改竄し街の金貸しから小切手を振り出させて銀行から金を騙し取ろうとしたが、不審に思われ逃げ出した
一連の事件とは無関係だが、検察官に「自白することが正しいことだ」と思い込まされて自白した、今は後悔している。3件の事件の当日のアリバイも、尋問当時は全く混乱していたが、今でははっきり思い出せる。愛人がいたため妻子に嘘をつき続けていたり、横領や後援者からの寸借も含めたかなりの金を持っていたところから疑われたし、逮捕後に自白を迫られた時も、日頃の違法行為への懺悔もあって、自殺か自白しかなくなり、何度か自殺を試みるが果たせず、自白を撤回したにもかかわらず50.7.24.死刑の宣告
家族は絶縁し、名前も変えた
これ等の事実を語ったのは、帝銀事件は無実だが他にあまりに多くの罪がある故に、諦めて運命を受け入れることで、家族の名誉が回復されるかもしれないと思ったから
ハルビン郊外の平房(ピンファン)に七三一部隊がいて、村や農場、住民が退去させられ、日本特殊工業が工場(死の工場)を建設 ⇒ その当時勤務していた犯人であっただろう人物による追憶。帝銀事件と同様の手口で実験が行われていた
占領都市 TOKYO YEAR ZERO 2 [著]デイヴィッド・ピース
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■帝銀事件の虚実描く長大な詩
奇妙な小説である。いや特異なノンフィクションだ。いやいや長大な詩というべきかもしれない。
占領下の1948年1月に起こった帝銀事件。松本清張の小説などでよく知られているこの事件を、イギリス人作家がまったく新しい表現形式で虚実を交えて書きおろした作品である。著者は当時の東京が魔界のような空間だったとの視点で、多様な形容詞を用いて表現する。虚構の都市、邪宗の都市……こうした形容詞が実は、帝銀事件の背後に垣間見えるというのがモチーフとなっている。
著者は「単一の人物による単一の語りでは絶対に捉えられない」との思いから、この事件を12人の目を通して描いていく。厚生省技官と称する男に毒薬を飲まされるものの死なずにすんだ女性行員、事件を追う新聞記者、2人の刑事、正体不明の政治屋、探偵、さらに米ソの医師や検察官僚、事件の死者、その家族、犯人とされた平沢貞通、そして真犯人とおぼしき人物などの独白や心情吐露が独特の言い回しで語られるのだ。
著者の意図は読み進むうちにしだいに明確になる。10人目に語られる平沢の独白は、彼自身がその生涯をなぞり、刑事に責められて偽りの証言をする心情を明かす。「わたしは帝銀事件に関しては無実だが、他にあまりに多くの罪がある」と言わせ、私生活で家族に迷惑をかけた罪を挙げる。しかし著者は七三一部隊の石井四郎とその研究班の罪禍を冷静に問い続け、その細部を知り、医師として罪の意識を持つアメリカ人将校の書簡を紹介しつつ、ソ連の検察官の複雑な心境とその立場も意外なストーリーで語る。
11人目に登場する石井部隊の衛生兵は中国で帝銀事件の状況と同様に特務機関の命じるまま赤痢の予防と称し薬を住民に飲ませている。戦後の彼の寒々とした心象風景とその死の姿。この事件の底深さに気づかされ愕然となる。
◇
酒井武志訳、文芸春秋・2100円/David Peace 67年、英国生まれ。現在は日本在住。作家。
奇妙な小説である。いや特異なノンフィクションだ。いやいや長大な詩というべきかもしれない。
占領下の1948年1月に起こった帝銀事件。松本清張の小説などでよく知られているこの事件を、イギリス人作家がまったく新しい表現形式で虚実を交えて書きおろした作品である。著者は当時の東京が魔界のような空間だったとの視点で、多様な形容詞を用いて表現する。虚構の都市、邪宗の都市……こうした形容詞が実は、帝銀事件の背後に垣間見えるというのがモチーフとなっている。
著者は「単一の人物による単一の語りでは絶対に捉えられない」との思いから、この事件を12人の目を通して描いていく。厚生省技官と称する男に毒薬を飲まされるものの死なずにすんだ女性行員、事件を追う新聞記者、2人の刑事、正体不明の政治屋、探偵、さらに米ソの医師や検察官僚、事件の死者、その家族、犯人とされた平沢貞通、そして真犯人とおぼしき人物などの独白や心情吐露が独特の言い回しで語られるのだ。
著者の意図は読み進むうちにしだいに明確になる。10人目に語られる平沢の独白は、彼自身がその生涯をなぞり、刑事に責められて偽りの証言をする心情を明かす。「わたしは帝銀事件に関しては無実だが、他にあまりに多くの罪がある」と言わせ、私生活で家族に迷惑をかけた罪を挙げる。しかし著者は七三一部隊の石井四郎とその研究班の罪禍を冷静に問い続け、その細部を知り、医師として罪の意識を持つアメリカ人将校の書簡を紹介しつつ、ソ連の検察官の複雑な心境とその立場も意外なストーリーで語る。
11人目に登場する石井部隊の衛生兵は中国で帝銀事件の状況と同様に特務機関の命じるまま赤痢の予防と称し薬を住民に飲ませている。戦後の彼の寒々とした心象風景とその死の姿。この事件の底深さに気づかされ愕然となる。
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酒井武志訳、文芸春秋・2100円/David Peace 67年、英国生まれ。現在は日本在住。作家。
Wikipedia
事件発生 [編集]
1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物[1]を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は現金16万円と、安田銀行板橋支店の小切手、額面1万7450円を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できなかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。
§
全員に飲ませることができるよう遅効性の薬品を使用した上で、手本として自分が最初に飲み、さらには「歯の琺瑯質を痛めるから舌を出して飲むように」などと伝えて確実に嚥下させたり、第一薬と第二薬の2回に分けて飲ませたりと、巧みな手口を用いたことが生存者たちによって明らかにされた。男が自ら飲んだことで、行員らは男を信用した。また、当時の日本は、上下水道が未整備で伝染病が人々を恐れさせていた背景がある。16人全員がほぼ同時に第一薬を飲んだが、ウィスキーを飲んだときのような、胸が焼けるような感覚が襲った。約1分後、第二薬を男から渡され、苦しい思いをしていた16人は競うように飲んだ。行員の一人が「口をゆすぎたい」と申し出たが、男は許可した。全員が台所の水場などへ行くが、さらに気分は悪くなり、やがて気を失った。内の一人の女性が失神を繰り返しながらも外へ出たことから事件が発覚。
未遂類似事件 [編集]
1947年(昭和22年)10月14日の閉店直後、『厚生技官 医学博士 松井蔚 厚生省予防局』という名刺を出した男性が訪ねてきて、「赤痢感染した患者が、午前中に預金に訪れていることが判明したので、銀行内の行員と金を消毒しなければならない」と言った。支店長は相手を待たせて、巡査を呼びにやって赤痢発生について聞くと、当の巡査は「まったく寝耳に水の話だが署で確認する」と言って出て行く。巡査が戻る間に、帝銀事件とまったく同じような手口で薬を飲ませるも、死者は出ず。名刺自体は本物だったが、松井はアリバイがあったため犯人ではなかった。
1948年(昭和23年)1月19日の閉店直後、『厚生省技官 医学博士 山口二郎 東京都防疫課』という名刺を出した男性が、安田銀行荏原支店を訪れた男性と似たようなことを発言。行員に薬を飲ませ、行内の金を消毒させようとするも、不審に思った支店長は、すでに現金はないと答えると、男性は行員たちがまとめている小為替を見つけ、消毒液と称して透明の液体を振り掛けただけで出て行く。名刺は偽物であることが判明。
捜査と裁判 [編集]
事件発生後、犯人から受け取った名刺を支店長代理が紛失していたことが判明(当時、支店長は不在)。彼の記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いを熟知した、旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者を中心に捜査されていた。陸軍第9研究所(通称9研)に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。
そんな中、捜査本部の脇役的存在でしかなかった名刺班の進めていた、類似事件で悪用された松井蔚の名刺の地道な捜査に焦点が当てられていく(この名刺班には伝説の刑事、平塚八兵衛がいた)。松井は名刺を渡した日付や場所や相手を記録に残していたため捜査も進んでいった。100枚あった名刺は松井の手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうち62枚を回収に成功し、紛失し事件に関係無いと見られた22枚を確認。そして、行方が最後まで確認できない8枚のうちの1枚を犯人が事件で使用したとされた。
平沢を逮捕した理由は、
などであった。
警察は平沢を被害者に面通ししたが、この男だと断言した者は一人もいなかった。逮捕当初、平沢は一貫して否認していたが、9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人容疑と強盗殺人未遂容疑で起訴された。だが12月20日より東京地裁で開かれた公判において、平沢は自白を翻し無罪を主張するも1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁で一審死刑判決。1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁で控訴棄却。1955年(昭和30年)4月7日、最高裁で上告棄却、5月7日、死刑が確定した。
なお、この取調べはかなり厳しいものであったと言われ、平沢は逮捕された4日後の8月25日に自殺を図っている。またその後も2回自殺を図ったとの事である。
死刑確定後 [編集]
支援者らは、平沢の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べと、狂犬病予防接種の副作用によるコルサコフ症候群の後遺症としての精神疾患(虚言症)によるものであり、供述の信憑性に問題がある、また、大村徳三博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書3通は、取調べに関与していない出射義夫検事が白紙に平沢の指紋を捺させたものである、として、再審請求を17回、恩赦願を3回提出するが受け入れられなかった。1968年(昭和43年)に再審特例法案が提出されて廃案になった後の1969年(昭和44年)に法務大臣が7人の死刑囚への個別恩赦の検討をした際には平沢も対象となったが、平沢の恩赦はされなかった。
§ 平沢は獄中で三度にわたって自殺を図ったが、すべて未遂に終わった。
§ 1962年(昭和37年)に「仙台送り」と言われる宮城刑務所に移送。この後支援者らの説得で平沢は恩赦を求めたが棄却。タイム誌は東北に送ることで環境を悪くし自然死を早めようとしているのではないかと報道[2]。
§ 判決確定から30年が経過した1985年(昭和60年)に、支援グループは刑法31条の時効の規定(刑の確定後、一定期間刑の執行を受けない場合は時効が成立する)を根拠として平沢の死刑が時効であることの確認を求める人身保護請求を起こしたが、裁判所は「拘置されている状態は逃亡と異なり、執行を受けられない状態ではない」としてこれを退けた。
毒物の謎 [編集]
遺体解剖や吐瀉物や茶碗に残った液体の分析は、東京大学と慶應義塾大学で行われたが、液体の保存状態が悪く、青酸化合物であることまでは分かったものの、東大の古畑種基と慶大の中舘久平の鑑定が食い違い、100%正確な鑑定結果は出ていない。
当時、読売新聞の記者が、陸軍第9研究所でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止める。即座に威力を発揮する即効性の青酸カリに対して、アセトシアノヒドリンは飲んで1分から2分ほどで効果が現れる遅効性であり、遺体解剖しても青酸化合物までしか分析できないことが判明したが、突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で、報道も取材の方向転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。
§ 犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致
§ 犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致
ただし、アセトシアノヒドリンであっても事件の経緯からすると謎が残る(少なくとも5分は経過していると思われる)。
次にあがったのが、安定した(人間に毒性を持たない)シアン化物(シアン配糖体)と、その成分を毒性化する酵素の2薬を使用した、バイナリー方式と言うもので、ジャーナリストの吉永春子が自著の中で言及した。シアン配糖体は身近な食用植物に含まれている。また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の水分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。
この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後に米軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。
吉永の主張は、731部隊とは直接関係がない米軍による人体実験である、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器の研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。
ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、また、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、という疑問が残る。
その他 [編集]
§ 平沢の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビ出演して、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。
§ 捜査に携わっていた成智英雄は後の手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識を何も持たない人物には不可能で、真犯人は元秘密部隊にいた人物」とし、さらに「731部隊の内50数人を調べた結果、経歴・アリバイ・人相が合致するのはS中佐(事件時51歳、事件翌年に病死)しかいない」と書いている。しかし、731部隊に所属していた人物によると、S中佐と同姓同名の人物は確認できず、S中佐と同じ苗字で名前は似ているが異なる人物が二人いるとして、成智英雄は二人以上の人物を混同している可能性がある。さらに付け加えるなら陸軍軍医名簿の中にSという人物はこの2人しかいなかった。
§ 事件から6年後の1954年(昭和29年)、茨城県内で青酸を使用した大量殺人事件が発生した。この手口が保健所を名乗り毒物を飲ませるという帝銀事件と酷似したものだったことから弁護人が調査の為に現地入りしたが、逮捕された容疑者が服毒自殺してしまったため調査も進展しなかった。
事件を題材にした作品 [編集]
小説 [編集]
この事件を題材にした多くの推理小説が書かれている。
ノンフィクション [編集]
§ 「科学捜査論文『帝銀事件』-法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理-」中村正明(平沢犯人説・毒物青酸カリウム説を採用している)
§ 「そして、死刑は執行された」合田士郎 (死刑囚監房掃夫による本。帝銀事件の本ではないが、平沢とのエピソードがある)
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