楚人冠  小林康達  20120.11.6.


2012.11.6.  楚人冠 百年先を見据えた名記者 杉村広太郎伝

著者 小林康達 1942年宇都宮市生まれ。教育大文卒。千葉県公立高校教員。現在我孫子市教育委員会文化課嘱託。杉村研究のほか、我孫子や柏、三郷の市史、メディア史、大逆事件と杉村、等の著書がある

発行日           2012.7.10. 第1版第1刷発行
発行所           現代書館

杉村楚人冠研究の集大成が本書
基礎資料 ⇒ 本人の日記(1892~0203~26)、我孫子市杉村家所蔵資料、楚人冠執筆の新聞記事の「スクラップ・ブック」、社史センター資料、日刊『アサヒグラフ』ほか

楚人冠の前半生(1872~1902)
1937年 現役のジャーナリストとしては異例の個人全集が刊行され、全18巻を重ねた
その広告文には、「新聞を読むほどの人で楚人冠先生の名を知らぬ人はなかろう」と書かれた
楚人冠の名は、新聞社の前に勤めていた米国公使館で使ったのが始まり ⇒ シルクハットの箱に自分の名前の代わりに記した
筆名としては1903年の『新仏教』への寄稿で使ったのが最初
楚人冠とは、楚人の冠。楚の項羽と漢の劉邦が中国統一を争っていた時、秦の都を焼き払って秦を滅亡させた項羽が、「ここを都にすれば天下に覇を唱えられる」と忠告するのを聞かずに軍を引き上げて故郷に帰ろうとしたところ、ある人が「楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ」、楚人は猿が冠をつけているようなものだと嗤い、それを聞いた項羽が釜茹での刑にして殺してしまったという『史記』の『項羽本紀』の故事に拠る。自分がシルクハットを被るのは、「草莽(そうもう)の野人」が冠を被るようなものだと卑下
朝日入社5年目で初めて『七花八裂』を刊行したときの「著者自伝」 ⇒ 縦横と号す。楚人冠はその別号。身の丈567分。医を心ざして遂げず、法を学んで得ず、政治経済を修めて達せず、文学宗教を究めんとしてその業をお卒へず。学校に入るもの前後18、其中辛く所定の学課を卒へたるもの僅かに1。新聞記者となり、学校教師となり、俗吏となり、また記者となる。五たび洋行を企て四たび成らず。五たび人を恋うて四たび敗る。もと和歌山市の出。いま東京大森に在り。くわしくは郵便切手封入にて尋ね合はすべし
七花八裂は、禅宗用語。「一の者が裂けて七にも八にもなること。七通八達と同意でどの方面にも自在に到達できる」の意
『和歌山新聞』主筆の頃、記事が当局に睨まれ、名義人が罰金や禁固刑になることも少なくなく、当局や経営者と対立することもしばしばで、こうした経験が新聞記者としての倫理を自覚させ、経営者から編集権を独立させることなど新聞のあり方について考える契機となった
96年 京都西本願寺の経営する文学寮の舎監兼英語・国語教師となる ⇒ 生徒だった三島海雲との生涯の交流の始まり。母との水入らずの生活も始まり、俳句も嗜む
98年 正則英語学校の校長だった斎藤秀三郎の薦めで教師
社会主義にも傾倒、幸徳秋水との交流が始まる
仏教改革運動にものめり込み、鈴木大拙とも知り合う
99年 恩師の推薦で米公使館に通訳兼翻訳として勤務。熱海伊豆山の旅館相模屋の娘蘭と結婚、子供もできるが、肺尖カタルとなり、療養のため荏原郡新井宿(現山王)に移る

第1章     東京朝日新聞入社(1903~04)
1902年 敬愛する米公使が鴨猟の最中に脳溢血で死去
03年 東京朝日入社、外国人係配属 ⇒ 過激な文章が社主に問題視されたが、主筆の口添えもあり、自らも激しい筆法を押さえることを条件に採用が決まる。単なる英語練達の記者ではなく、外国公使館や外来の賓客訪問等を通じての海外情報の把握、更には宗教や社会一般の道徳論での素養も期待された。その年のうちにペルシャ前首相訪日をスクープ
入社当初から文語体に代わって言文一致体を模索していた形跡あり
日露戦争開戦 ⇒ 朝日は、他紙の先頭をきって主戦論を展開
04.8.1.英紙『タイムス』に掲載されたトルストイの『トルストイ伯日露戦争論』を16回にわたって翻訳・連載 ⇒ 開戦後半年、戦闘の真っ最中に非戦論を掲載した理由は不詳だが、当時の朝日では全て各自の自覚と良心の指示に従い、極めて自由に自主的に取材していたという。社内のみならず当局の干渉もなかったことが幸い
楚人冠は『タイムス』の原紙を幸徳秋水の『平民新聞』にも渡し、全文が掲載された
与謝野晶子が旅順港包囲軍にいた弟を思って歌った『君死にたまふこと勿れ』が、大町桂月によって批判され世間の非難の声も増したが、98年に楚人冠の後輩の記者が、この詩はトルストイの『日露戦争論』への返歌であり晶子は『平民新聞』ではなく『東京朝日』の連載を読んだと指摘。晶子の出身地堺の研究者岩崎紀美子が三者を丹念に比較検討した結果、この詩のキーワードともいえる「獣の道に死ねよとは」と「思ひみよ」とが楚人冠訳からきているとし、さらにトルストイの思想的影響を大きく受けていると分析、新たに1世紀前の楚人冠の業績が蘇った

第2章     日露戦争の終結(1905~06)
05年 講和条約を激しく糾弾 ⇒ 楚人冠は投書係として膨大な投書の山と格闘。日比谷で暴動が勃発。戒厳令施行。新聞雑誌の取り締まりが強化され発行停止が相次ぐ。東京朝日も17日間停止
06年 日清日露の戦跡を巡る満韓巡遊船を企画(初の海外観光旅行)、責任者として添乗 ⇒ 定員375人は瞬く間に満員となり、満州韓国への修学旅行のブームの引火線ともなる
32日間、海路3千海里、陸路600哩、関係者総員550。報告書も成果については触れず、「木の実熟すれば則ち落つと」だけ述べる

第3章     国際記者を目指して(1907~08)
07年 ロンドン特派 ⇒ 前年の明治天皇のガーター勲章授与への答礼使節団(伏見宮と山本権兵衛大将)の英国での取材と同時に、独占をいいことに値上げを強要するロイターとの関係を切る代わりとしてロンドン・タイムスとの特約成立が主たる目的
シベリア鉄道経由でサンクトペテルブルク、ベルリン、パリ経由でロンドンに入る
当時世界一の新聞社タイムス社を見学、最先端の技術を学ぶ ⇒ 索引部(エンサイクロペジア・ブリタニカの編集を機に創設されたもので、過去の新聞記事、公刊の書物、官報・青書を網羅)に驚きのちの「調査部」創設と独自の分類方法考案に繋がる。世界初の索引を付した縮刷版の刊行も実現
デーリー・メール社の創始者で後に『タイムス』を買収して新聞王となったノースクリフ(本名ハームズワース)と面談、同紙に「日本人のロンドン感」を書く ⇒ 伏見宮使節団の訪英中上演が禁止されその是非をめぐる論争を巻き起こしていたギルバートとサリヴァンの喜歌劇『ミカド』を観劇し、「日本人全体を侮蔑したとの批判は当たらない」と論評。全7回の連載で、日英双方の基本的道徳の切解線の違いを指摘(英人は権利を主張し愛を論じる、日本人は義務を語る
1908年 初の自著2冊刊行 ⇒ 『七花八裂』(前半生の総括)と『大英游記』
朝日の企画で日本初の世界1周団体旅行 ⇒ 楚人冠の発案

第4章     漱石、熊楠と楚人冠(1909~11)
07年 東京朝日が初めて10万部を越える ⇒ 社会面の改革(花柳界や芝居の話中心だったものを、社会全体の動きを伝える方向に転換)・充実が貢献
二葉亭四迷 ⇒ 04年大阪朝日に入社、09年任地ペテルブルクで病に倒れ、帰国途上で客死
夏目漱石 ⇒ 07年朝日入社、社内問題や健康問題などで悪戦苦闘しつつも16年に亡くなるまでの約10年間を専属社員として、『虞美人草』を始めとする超短編小説や随筆・紀行などを書き続けた
石川啄木 ⇒ 09年校正係として朝日入社。仕事は速く正確。社内で短歌の才能を認められ、朝日歌壇の選者に抜擢。楚人冠に対して敬愛の念を持っていた。12年結核で母、妻ともども死去(楚人冠も困窮した生活を助けるために募金等で奔走したが虚しかった)
熊楠 ⇒ 09年 和歌山県田辺で1町村1社とする神社合祀令に反対の声を上げる

第5章     明治の終焉(1910~12)
1910年 大逆事件
『七花八裂』が発禁処分に ⇒ 理由不詳なるも、記述の中に忠孝に関する記述や社会組織の理想について述べた部分、或いは、大逆事件に関連して被疑者を弁護するような公開状を出したことへの報復等が考えられる
販路拡張に向け、地方取材が増える ⇒ 日本人記者として初めての高田のスキー取材に繋がる(「スキ」として紹介)。福島県岩瀬牧場を取材した時の印象を連載記事にしたのが小学唱歌『牧場の朝(ただ一面に立ち込めた・・・・・)』となる(当時文部省唱歌の著作権は文部省にあり、作詞者不詳だった)
大逆事件が為政者に大きな衝撃を与え、学校教育だけでなく、社会教育(当時の公的用語では「通俗教育」)においても国民の「健全なる思想」の涵養を目指すことが急がれ、11年文部大臣のもとに通俗教育調査委員会が設置され、メディアからもその力を利用すべく委員が選ばれ、新渡戸稲造らとともに楚人冠もかたや発禁処分になりながらも委員に就任
1910年 楚人冠が白瀬の南極探検支援を提案 ⇒ 衆議院が賛成したが貴族院で減額、政府は議会決定を無視して経費を払わず、朝日が募金を開始、楚人冠が後援会幹事
大隈との行き違いから朝日は手を引く ⇒ 探検目的が変遷、最初は領土、次は商工業、楚人冠は一貫して学術探検を主張
1012月出航、3月に氷に阻まれ帰国、11年末に再度挑戦、11.12.14.にはアムンゼン隊が極点に到達。楚人冠はその後も南極探検の情報を伝える
29年 白瀬から楚人冠宛に書簡 ⇒ 英米の領土権主張に対し日本政府にも働きかけ、楚人冠の意見を求めてきたが、その中に、以前の協力への感謝の念が込められ、宛名も「南極探検の恩人 楚人冠殿 侍吏」とあった
池辺吉太郎(:三山)の退社 ⇒ 東京朝日の主筆として15年牽引してきたが、文芸欄重視路線への反発に起因する社内抗争に嫌気、南極支援を巡る社主との対立が主因
12.7. 天皇崩御 ⇒ 諡()号を明治天皇とし、元号と一致させる案に賛意

第6章     手賀沼から大戦下の欧州へ(1912~16)
11年 東京朝日に索引部創設(調査部の前身) ⇒ 初めての客が来たのは1か月後
調査部は、西洋では俗称ラ・モルグといい、素性の知れない変死人の死体を並べて置き、親戚友人が見分けて引き取りに行くための場所のこと
11年 手賀沼に別荘地購入 ⇒ 加納治五郎と同じころで、湖畔を見下ろす高台に別荘族が移り住み始める。加納の甥で民芸運動の柳宗悦が新婚家庭を持ち、柳に誘われて白樺派の志賀直哉や武者小路実篤が移り住み、文化村・文学村の様相を呈した。当時から農地造成のための干拓計画があったが、楚人冠は湖沼としての役割を重視して反対
14年 大戦勃発で急遽ロンドンへ特派員として赴任 ⇒ ドイツ軍を迎え撃ったベルギーの勇敢な戦い振りに朝日本社から国王に太刀を贈ることになり楚人冠が動く。ベルギーからは日本の支援に対しレオポルドII 世章が授与されることになり、25人の対象者に徳川家達、渋沢栄一、朝日の村山龍平社長に交じって楚人冠も含まれた
15年 サンフランシスコでの第1回世界新聞大会に出席 ⇒ パナマ・太平洋万博の一環。楚人冠も主講演者として登場、「新聞紙上の匿名主義」批判を展開。日本を代表して国際委員に加わり、その後の大会運営に参加
新聞紙界の新しい傾向を洞察 ⇒ 政治論に傾いていた議論本位の新聞から、新事実本位すなわちニュースの時代を導き出す。社説の権威を高める。営利事業としての品位を維持
10年 中央大学に新聞記者教育を目的とする新聞研究科新設、楚人冠も協力 ⇒ 早稲田、慶應でも新聞科が設置され、それぞれ講師として出向く。いずれも短期で廃止となる

第7章     新たなる挑戦(1917~23)
18年 白虹(はっこう)事件 ⇒ 寺内内閣の言論抑圧に抗議して関西新聞社大会開催、その後の大阪朝日に、「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉の兆しが頭の中に閃く」との記事が掲載され、皇室への反乱を意味すると解され、新聞は発売禁止、即日新聞紙法違反で告発され、新聞社そのものの存立を揺るがし兼ねない筆禍事件へと発展
白虹とは兵を、日は君主を表し、国に兵乱のある凶兆とされた
直前に米騒動の報道が禁止されたことに起因、大正デモクラシーの風潮を代表していた大阪朝日が寺内内閣の新聞政策への反発の先頭を切っていた ⇒ 後藤新平内務大臣による「新聞が国家の第四権力と称されるようになった」との発言もあったが、新聞側が折れる形で発行禁止は免れた。楚人冠も辞職を申し出たが慰留
19年 朝日が統一して株式会社に改組 ⇒ 村山龍平社長、上野精一専務体制、楚人冠が監査役に。現職の部長を兼任
197月号縮刷版発行 ⇒ 楚人冠の発案、世界に例を見ないこと、索引に苦心
22年 記事審査部の創設に寄与 ⇒ 正確な報道と、報道による人権侵害の防止を目指す。若い頃、後に妻となる人の事実無根のスキャンダルを取り消すために奔走したことが伏線としてあった。社長直轄の部として、楚人冠が初代部長
20年 アメリカからグラビア印刷機輸入、写真を多数使った定期出版物発行が可能に ⇒ 朝日は、日曜版の付録から始め、『旬刊朝日』、日刊写真新聞『アサヒ・グラフ』へと発展。楚人冠は『グラフ』の局長となる
21年 文部省臨時国語調査会の委員に就任 ⇒ 鷗外が会長。漢字制限と仮名遣いの統一を目的とし、常用漢字表を作ったが、直後の関東大震災で実施見送り

第8章     手賀沼から(1923~30)
23.9.1. 関東大震災 ⇒ 長女、長男に続いて入院中の2児を失う。調査部のモルグも全て焼失。2日から11日まで東京朝日休刊。『グラフ』は日刊から週刊に
24.4. 手賀沼に転居、終の棲家となる ⇒ 構造的な米不足から手賀沼干拓計画が再燃、26年加納らと図って手賀沼保勝会結成。運動がどこまで役だったかは不明だが、楚人冠の生前に干拓事業が行われることはなかった
27年 編集局長緒方竹虎から、朝刊小説執筆依頼が楚人冠に来る ⇒ 漱石や二葉亭四迷等作家にとっての大舞台。『うるさき人々』の題で120回。社会の分列や対立の顕在化という時代背景を散りばめつつもハッピーエンドのコメディ。演劇化もされた
28年 昭和天皇即位に際し、全国の言論界の貢献者として楚人冠始め9人に金杯下賜
この頃ゴルフに熱中、六実に移転してきた武蔵野カントリーに通う傍ら、我孫子と柏のゴルフ場建設にも貢献 ⇒ 武蔵野は藤ヶ谷にも増設したが戦時中に接収され閉鎖。柏は競馬場の有効活用

第9章     軍国主義台頭の中で(1931~35)
30年暮れ 我孫子で地元の青年たちと俳句結社湖畔吟社を結成 ⇒ 寄席も活動写真もなく無趣味な水郷に何か1つ娯楽を与えたいというのが趣旨
ホトトギス派との交流復活
教科書の著作権問題 ⇒ 99年の「著作権法」では、「修身」と「読本」のためであれば、無断で掲載、字句修正も可能とされていたが、山本有三がこれを批判、楚人冠も多くの著作を無断転載されていたこともあり批判に同調。呼応するように中里介山が楚人冠に手紙を送ってきたが、介山は3年後に『大菩薩峠』の挿絵を描いた石井鶴三が無断で内容を複製した本を出したことに対し告訴している
勤続30年の表彰 ⇒ 監査役、編集顧問、論説委員、記事審査部長、用語調査会委員長兼任。身近な人の死が相次ぐ(吉野作造、堺利彦、村山龍平)
3435年 村山の死を契機に楚人冠も公職から徐々に身を引く ⇒ 相談役に
『鉄箒(てっそう)』欄(読者投書も含めた記者執筆のコラム)の後任は土岐善麿

第10章  一管の筆に託して(1935~45)
36年の随筆『楽勤め』 ⇒ 勤めを辞めて忙しくなるのは、人に雇われているときは勤務時間さえ無事に過ごせばのほほんで暮らしていけるが、自分で仕事を自由にやるようになると、働くほど自分の得になるので意気込みが違ってきて精一杯やってしまう
柳田国男とカワセミ論争 ⇒ 柳田は東京朝日時代に同じ論説委員だった。自分の庭の池にいる金魚を取ってしまうカワセミを楚人冠が悪い鳥といったのを柳田が揶揄。両者に縁のある我孫子市に全国唯一の鳥の博物館が作られ、山階鳥類研究所が移ってきたのも決して不思議ではない
我孫子風致会 ⇒ 我孫子市の振興策を地元の青年たちと共に考える
手賀沼の県立公園化 ⇒ 国立公園法施行に刺激されて、全国に先駆けて33年に県立公園として指定
36年 自著の総目次を作成、全12巻の全集刊行開始へ ⇒ 43年には全18巻が完結
トルストイ論文は時節柄削除
45.10. 心臓弁膜症で死去


楚人冠百年先を見据えた名記者 杉村広太郎伝 []小林康達
[評者]出久根達郎(作家)  [掲載]朝日新聞 20120916   [ジャンル]人文 ノンフィクション・評伝 
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明治・大正・昭和をリベラルに
 
 「楚人冠(そじんかん)」と聞いて何をした人か、答えられる者は多くないだろう。明治大正昭和の三代にわたるジャーナリストである。奇妙な号は、楚の将軍項羽が、猿が王冠をつけたようなものと嘲笑された史記に由来する。王者にふさわしくない、と卑下した意味だが、新聞記者を無冠の帝王と称する。それにも掛けているかも知れない。朝日新聞社に入社し、多くの業績を残した。記事の正確を期すため調査部を、誤報を防ぐための記事審査部を設けた。初めてグラフ週刊誌を出した。
 膨大な文業は、十八巻もの全集に集成された。特筆すべきは、稲わらに火をつけて村人を津波から避難させた豪商浜口梧陵(ごりょう)の伝記だろう。同郷人であり、梧陵の末子と親友のよしみから、大正九年にまとめた本書は、現在も梧陵伝の第一級資料である(全集の七巻に収められている)。
 楚人冠の足跡は、近代史であり文学史である。大逆事件の管野スガから、獄中より針文字の手紙をもらっている。昨年の「大逆百年」で現物が公開された。
 校正係だった石川啄木は、歌友の弁護士・平出修から、内密に大逆事件裁判資料を借り書き写した。それを楚人冠に貸した。啄木が病臥した時、楚人冠は社内に義捐金を募った。本人は「なけなしの20円」を出し、17名分の合計3440銭を、貧窮の後輩(14歳下)に届けた。
 仏教革新運動や動物虐待防止会、漱石や南方熊楠との交流ほか楚人冠の活動は広範囲に及ぶ。与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」は、楚人冠が訳したトルストイの日露戦争論に触発された(指摘したのは1998年・朝日の記者)。
 リベラルな名物記者の一生を、時局と共に語っているが、評者の望蜀の感を言えば、たとえば大逆事件や震災(二児を失う)の事など詳細に知りたい。何より彼の思想である。洒脱な文章の魅力をもっと紹介してほしかった。
    
現代書館・3360円/こばやし・やすみち 42年生まれ。千葉県我孫子市教育委員会文化課の嘱託職員。


Wikipedia(一部本書に基づき修正)
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん、明治57251872828 - 昭和20年(1945103)は、新聞記者、随筆家俳人である。本名は杉村 廣太郎(すぎむら こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。

生涯 [編集]

幼少・青年期 [編集]

1872828和歌山県和歌山市にて出生。一人っ子。父は旧紀州藩士の杉村庄太郎。 2歳の時、父と死別。以来、紀州藩医の娘だったとみの手で育てられる。遺産を狙う遺族から離縁を迫られ、家屋敷を売却した金を騙し取られながら、離縁を拒否し実家を継いだ実姉のもとで暮らしたので、幼少の頃は貧しく育つ
16歳で和歌山中学校(のちの和歌山県立桐蔭高等学校)を中退し(校長の不適切な対応に怒りを爆発)、法曹界入りを目指して上京。英吉利法律学校(のちの中央大学)で学び卒業(同校学生時代のことについては、随筆の中で再三触れている)。校内最年少もあって難しすぎたため方向転換アメリカ人教師イーストレイクFrederick Warrington Eastlake)が主宰する国民英学会に入学し、1890卒業。彼の英語に関する素養は、ここで培われたと思われる。90年坪内逍遥や徳富蘇峰の肝いりで青年文学会が設立され楚人冠も国木田独歩らとともに発起人に参加機関誌に載せた評論が森鷗外の目にとまり、評価も受ける。1891心臓病治療のため帰郷9220歳にして創刊間もない『和歌山新報』主筆に就任するが、翌1892再び上京し、自由神学校(のちの先進学院)に入学。その後、本願寺文学寮の英語教師を勤めながら『反省雑誌』(のちの『中央公論』)の執筆に携わるが、寄宿寮改革に関する見解の相違から、1897、教職を棄て3たび上京。在日アメリカ公使館の通訳を経て、1903池辺三山の招きにより東京朝日新聞(のちの朝日新聞社)に入社した。

新聞記者として [編集]

入社当初の楚人冠は、主に外電の翻訳を担当していた。19048月、レフ・トルストイ露戦争に反対してロンドン・タイムズに寄稿した「日露戦争論」を全訳して掲載。戦争後、特派員としてイギリスに赴く。滞在先での出来事を綴った「大英游記」を新聞紙上に連載、軽妙な筆致で一躍有名になった。彼はその後も数度欧米へ特派されている。
楚人冠は帰国後、外遊中に見聞した諸外国の新聞制度を取り入れ、191161、「索引部」(同年11月、「調査部」に改称。1995、電子電波メディア局の一部門として再編)を創設した。これは日本の新聞業界では初めてのことである。また1924には「記事審査部」を、やはり日本で初めて創設した。縮刷版の作成を発案したのも彼である。これらの施策は本来、膨大な資料の効率的な整理・保管により執筆・編集の煩雑さを軽減するために実施されたものであるが、のちに縮刷版や記事データベースが一般にも提供されるようになり、学術資料としての新聞の利便性を著しく高からしめる結果となった。
その他、『日刊アサヒグラフ』(のちの『週刊アサヒグラフ』)を創刊したりするなど、紙面の充実や新事業の開拓にも努めた。
楚人冠は制度改革のみならず、情報媒体としての新聞の研究にも関心を寄せており、名著『最近新聞紙学』(1915)や『新聞の話』(1929)を世に送り出した。外遊中に広めた知見を活かしたこれらの著作により、彼は日本における新聞学に先鞭をつけた。1910に中央大学に新聞研究科が設置されたが、それは同校学員(卒業生)楚人冠らの発案によるものである。同研究科においては、自らも講師を務める。その際の講義案を下敷きに著された書物が『最近新聞紙学』である。
世界新聞大会(第1回は1915サンフランシスコで、第2回は1921ホノルルで開催)の日本代表に選ばれたこともある。

我孫子にて [編集]

関東大震災後、それまで居を構えていた東京・大森を離れ、かねてより別荘として購入していた千葉県我孫子町(現我孫子市)の邸宅に移り住み、屋敷を「白馬城」と、家屋を「枯淡庵」と称した。この地を舞台に、名エッセイ集『湖畔吟』など多くの作品を著した。 星新一福原麟太郎など、楚人冠のエッセイに影響を受けた作家や知識人は少なくない。
また、俳句結社「湖畔吟社」を組織して地元の俳人の育成に努めたり、我孫子ゴルフ倶楽部の創立に尽力し、『アサヒグラフ』誌上で手賀沼を広く紹介するなど、別荘地としての我孫子の発展に大いに貢献した。
1945103、死去。八柱霊園(千葉県松戸市)に埋葬された。
1951、楚人冠の指導下にあった湖畔吟社の有志により、邸宅跡地に句碑が建立されている。陶芸家・河村蜻山が制作した陶製の碑で、「筑波見ゆ 冬晴れの 洪いなる空に」と刻まれている。

筆名「楚人冠」の由来 [編集]

「楚人冠」の名は、項羽に関する逸話から採られたものである。『史記』の「項羽本紀」によると、咸陽に入城した項羽がの王宮を焼き尽くしたことをある者が嘲って、次のように語ったという。
「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」
(「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」:「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」)
杉村廣太郎は、アメリカ公使館勤務時代に、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けたことに憤り、以来「楚人冠」と名乗ったという。

逸話 [編集]

§  192471、アメリカで新移民法が施行された。同法には日本からの移民を禁止する条項が含まれていたため、日本では「排日移民法」とも呼ばれ、激しい抗議の声が上がった。楚人冠は「英語追放論」と題する一文を掲載して、同法を痛烈に批判した。
§  1933尋常小学校の唱歌として採用された「牧場の朝」(福島県鏡石町宮内庁御料牧場であった「岩瀬牧場」を描いたといわれる)は、長年「作詞者不詳」とされてきたが、楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」(『中学国文教科書 第二』(光風館書店、1918年)に所収)が1973に発見されたのを契機に、楚人冠が作詞者であるとの説が浮上。その後若干の曲折があったが、現在ではこれが定説とされている。
§  19095月、旧知の間柄であった方熊楠のことを書いた「三年前の反吐」を『大阪朝日新聞』に掲載。「熊楠の借家が異臭に満ちているのは、3年前に酔って吐いた反吐をそのままにしてあるからだった」という逸話や、中学時代、しばしば喧嘩相手に反吐を吐きかけて攻撃したという「武勇伝」を紹介。「好きな時に反吐を出せる」という熊楠の奇妙な特技は、この一文によって広く知られることとなった。
なお、楚人冠は熊楠の展開した神社合祀反対運動に賛同。新聞紙上に批判記事を何度も掲載している。
熊楠は、小中学の先輩。中学の頃、熊楠が和歌山に戻って来て知り合い心酔した
§  楚人冠は送別会や披露宴の類を毛嫌いしており、「世に結婚式または披露宴に招かるることほど災難なるはなし」として、進んで出席しようとは決してしなかった。それでも出席せざるを得ない時は、嫌がらせとしか思えない長文の祝辞を述べて、憂さを晴らしていたという。

年表 [編集]

§  1872 和歌山県にて生誕
§  1875 父庄太郎が死去
§  1890 国民英学会卒業
§  1891 和歌山新報社に入社
§  1892 自由神学校に入学。同時に国民新聞社で英文翻訳に従事
§  1896 自由神学校卒業。本願寺文学寮で英語教師を務める
§  1898 社会主義研究会に加入。幸徳秋水片山潜などの知遇を得る
§  1899 在日アメリカ合衆国公使館の通訳に就任
§  1900 「新仏教」創刊( - 1915
§  1903 朝日新聞社に入社
§  1904 『余は如何にして社会主義者となりし()』を出版
§  1908 世界一周会(朝日新聞社主催)の会員を引率して渡米(318 - 621)
§  1910 母校中央大学に設置された新聞研究科の講師となる
§  1911 索引部創設(同年11月、「調査部」に改称)、同部長に就任
§  1919 縮刷版の刊行を発案
§  1923 『日刊アサヒグラフ』創刊(同年週刊化: - 2000
§  1924 記事審査部創設、同部長に就任。我孫子に移住
§  1929 監査役に就任
§  1933 「牧場の朝」、『新訂尋常小学唱歌 第四学年用』に収録
§  1935 相談役に就任( - 1945
§  1937 『楚人冠全集』(全15巻)、日本評論社より刊行開始( - 1938
§  1945 死去。享年73
§  1951 邸宅跡地に句碑建立

著作等 [編集]

§  大英遊記』東京・有楽社、1908明治41年)1
§  『新聞の話』(朝日新聞社 朝日常識講座第10巻、1929




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