なかのとおるの生命科学者の伝記を読む  仲野徹  2012.11.12.


2012.11.12. なかのとおるの生命科学者の伝記を読む

著者 仲野徹 1981年阪大医学部医学科卒。内科医として勤務の後、84年阪大医学部助手。ヨーロッパ分子生物学研究所EMBL客員研究員を経て、91年京大医学部講師。95年阪大微生物病研究所教授。04年より阪大大学院生命機能研究科・医学系研究科教授

発行日           2011.12.20. 第1版第1刷発行
発行所           学研メディカル秀潤社

081月~113月 『細胞工学』(生命科学の専門誌)20回にわたって連載

第1章     波瀾万丈に生きる
1.    野口英世(18761928)                       1個の男子か不徳義漢か
『野口英世』イザベル・R・プレセット著 ⇒ 野口に進行性麻痺患者を紹介した医者の娘が書いた伝記
主な業績:進行性麻痺と梅毒スピロヘータの関係
野口の伝記には、大多数を占める褒め系と、渡辺淳一の『遠き落日』に代表される貶し系がある
最大のパトロンはサイモン・フレクスナー(ロックフェラー研究所の初代所長) ⇒ 来日時に野口が通訳した縁だけを頼りにフィラデルフィアに来たのを困惑しながらも受け入れ、後の研究所創設の際の業績として研究成果を利用
渡米前のパトロンとしては高等小学校時代からの恩師小林栄と、後の歯科医師会会長の血脇守之助が双璧。野口の記憶は主として小林が作った民族伝説の主人公として保存されたというほど「日本の偉人」として記録されるのに果たした小林の役割は大きい
血脇は、20代の若い頃に金銭面で野口を支え続けた
SF作家星新一の父で星製薬の社長星一も、野口の実家に仕送りを続ける
何度もノーベル賞に推薦したアレキシス・カレルと、自分の研究所で雇用した北里もパトロンといっていい
最大の業績は、当時精神疾患とされた進行性麻痺の患者神経病巣における梅毒菌の発見
精神疾患にも器質的な原因が存在することを明らかにした最初の例
最大の誤りが黄熱病研究 ⇒ スピロヘータを病原体としたことで、10年後には覆される
梅毒の研究で、陳旧感染(感染から長い期間経過していること)し、精神水準が低下
「検鏡できないような微生物はない」という信念を持っていたが、40年後に電子顕微鏡で初めて証明されるような構造が見えていたのかもしれない
渡米する野口に血脇が「1個の男子か不徳義漢か、運命を決める大事な首途だ」と迫る
研究上の誤りはあったがあの時代に渡米した日本人の生き方としては「1個の男子」に相応しかったが、パトロンに対して或いは科学に対して「不徳義」であった

2.    クレイグ・ベンター(アメリカ:1946)     闘うに足る理由
『ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝』
主な業績:ヒトゲノムの解析
生きる目的を持たずに無茶苦茶な生活をしていた若者がある日生命の本質を理解せずにはいられなくなって医学の勉強をし直し、生化学者ネイサン・カプランの下でゲノム研究に没頭

3.    アルバート・セント=ジェルジ(ハンガリー:18931986) 
                                                             あとは人生をもてあます異星人
『朝からキャビアを 科学者セント=ジェルジの冒険』ラルフ・W・モス著
主な業績:ビタミンCの発見、アクチン・ミオシン(筋収縮を起こす筋繊維に多量に存在する蛋白質)の重合
解剖学から入って生物学に移り、軍医として従軍、第1次大戦後研究を始める
ビタミンの大家ホプキンスの研究室に職を得て、偶然からビタミンCを発見 ⇒ 危うくアメリカにその結果を先取りされそうになるが、激論の末37年のノーベル賞に決定 ⇒余りのストレス故か選考委員長が発表会場で心臓麻痺により急逝というおまけつき
2次大戦中は地下活動に入り、英米連合国側に密使として出向き、終戦時はソ連を熱烈に支持、2か月間ソ連政府に招待された時は朝からキャビアが供されるという最高レベルの賓客だったが、ソ連軍の侵攻とともに共産主義に嫌気してアメリカに移住、アメリカでは共産主義者のレッテルを貼られるが、ウッズホールやNIHで筋収縮の研究に没頭
「ハンガリー人異星人伝説」 ⇒ ハンガリーのSF作家・生化学者アシモフによる
www.bbc.co.uk/sn/tvradio/programmes/horizon/broadband/archive/gyorgyi/

4.    ルドルフ・ウィルヒョウ(ドイツ:18211902)      超人・巨人・全人
『ウィルヒョウの生涯 19世紀の巨人=医師・政治家・人類学者』アッカークネヒト著
主な業績:細胞病理学
細胞生物学の金科玉条「すべての細胞は細胞から」は、ウィルヒョウの言葉
ベルリンの軍医学校卒。血栓と白血病の研究を開始、現在にまで通用する概念を発見
従来の経験主義を排し、臨床観察、動物実験、病理解剖の3本立てを基礎として研究を進めるべきと説く
1858年 「細胞病理学」の概念を作り上げる ⇒ 古来採られた体液説(病気は体液のバランス異常から生じる)を覆したため、強烈な敵を作る
その後の細菌学隆盛に対しては、細菌学の考えに反対し後半生を穢す ⇒ コッホの発見した結核菌を否定したり、産褥熱が感染症によるものであるとの発見も否定
ベルリンの下水道計画を始め多くの公衆衛生学的な解析や改革をした功績は大きい



第2章     多彩に生きる
1.    ジョン・ハンター(イギリス:172893)     マッド・サイエンティスト 外科医
『解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯』ウェンディ・ムーア著
主な業績:実験医学の父、リンパ管系の解剖学
ヨーロッパ一の腕を持つとまで言われた天才外科医、自らの経験と考えに立脚した治療法を行うとされ、あくまで実証的で初めて外科を科学のレベルにまで高めた

2.    トーマス・ヤング(イギリス:17731829)  Polymath――多才の人
The Last Man Who Knew Everything』アンドゥルー・ロビンソン著
主な業績:視覚生理学、光の波動説、ヒエログリフ(エジプト神聖文字)解読
レンズの形が変わることによって視覚の調節が行われるというデカルト説の正しさを証明
光の三原色説 ⇒ 1850年代にドイツのヘルマン・ヘルムホルツによって再発見され、ヤング=ヘルムホルツの三色説として受け入れられる
光は、ニュートンの言う粒子ではなく、波であると結論付けたが、ニュートンの名声に押されて相手にされなかった
1799年発見され3年後にロンドンで公開されたロゼッタ・ストーンの解読に興味を示し、いくつかにアルファベットを当て嵌めて成功したが、基本的に象形文字と見做したのが誤りであり限界であった ⇒ シャンポリオン(1790)がストーン上のヒエログリフもディモティックも表意文字だという決定的間違いを犯したが、翌年直ぐにヒエログリフは表音文字だと意見を翻し、解読に成功したことを発表。ヤングの研究成果の影響を受けたとは認めないが、ヤングは自分の説を読んで剽窃したに違いないと怒った
Polymath ⇒ ダ・ヴィンチ、パスカル、デカルトなどをいう

3.    森林太郎(鷗外)(18621922)                石見(津和野)ノ人 鷗外と脚気論争
『鷗外最大の悲劇』坂内正著
主な業績:陸軍軍医総監、小説家
自分に起こったことを都合よくデフォルメした小説をいくつも発表したり、友人の好まれざるであろう行動を公表を前提として日記に平気で書いたりしているのに、母に勧められて妾を囲ったことや脚気論争について、など、自分についてちょっとまずそうなことについては殆ど書き残していない。「自分を伝えようとして、自己を語ることが少ない」矛盾に満ちた作家
脚気について、西洋医学の見地からベルツは西洋にはない地域特有の風土病であり、伝染病説を唱え東大医学部中心の医学界に受け入れられた
他方、海軍軍医でイギリス医学を学んだ高木兼寛は栄養障碍説を唱え、長期練習航海で脚気による大量の死者を出した教訓から、麦飯を混ぜて脚気撲滅に成功 ⇒ ビタミンの概念のない時代に、食物の蛋白質と炭水化物の定規比例が失われることに原因すると発表
陸軍では、白米食に拘泥したため、日清戦争では戦死者1000名足らずに対して脚気による死者が4000名、その後の台湾平定では兵員の90%が罹患しそのうち10%が死亡するという大惨事に発展、更に日露戦争では脚気患者が兵員総数の1/4に上り死者がその1割以上の27千にもなり深刻な問題となる
台湾平定時の台湾での陸軍局軍医部長の森林太郎は小倉へと左遷。日露戦争でも第2軍医部長として従軍、麦飯給与の意見具申を無視
最終的には、脚気の動物実験や、ビタミンの研究が進められて、ビタミンの欠乏であることが確定
林太郎の3つの特質 ⇒ 連戦連勝の議論好き、決断を導く原理の喪失、高い仕事能力
自然科学の研究には、進んでいくと、万人が納得するような結論に着地するだろうという漠然たる期待感が漂っているが、生物学の場合は、ほぼ同じ条件で実験が行われたにもかかわらず違った結果と結論が導かれることもよくおこる ⇒ 激しく厳しい議論をしてお互いを高め合って行きたい

4.    シーモア・ベンザー(アメリカ:19212007)         「オッカムの城」の建設者
『時間 記憶の遺伝子を求めて 生物学者シーモア・ベンザーの軌跡』ワイナー著
科学ノンフィクションでピュリッツァー賞を受賞した著者の書いた泰斗の伝記
主な業績:遺伝子の構造決定、行動の分子生物学
一大ブームだった半導体研究でいくつもの特許を提出した将来有望な物理学者が、デルブリュックやルリア(後出)に出会って突然生物学に転向
1つの遺伝子の構造を初めて決定 ⇒ 95年になってこの功績によりノーベル賞
古典的な遺伝学を早々に見切って、人間の行動や生態を分子生物学的に解析しようと考える ⇒ 「行動の原子論」として、遺伝子を道具に行動を解析しようとした
「オッカムの剃刀」というルール ⇒ 研究を進めるうえで知っておかなければならないルールの1つで、あることを説明するために幾つかの仮説が可能な場合最も単純なものを採用すべきであるというルール
新しい科学を打ち立てるべき複数の競合する場所があるときは、最も単純な場所を選ぶべし ⇒ 「オッカムの城」とよぶ。ベンザーこそその城を建てた人。素人らしい好奇心と行動力を持つ研究者だった

第3章     ストイックに生きる
1.    アレキシス・カレル(フランス:18731944)         「奇跡」の天才医学者
『カレル この未知なる人』J.J.アンチェ著
主な業績:輸血法の確立、細胞培養法の確立
1908年 ロックフェラー研究所のフランス人研究者カレルが、生後間もない子を助けるために父親の手首の動脈と子の膝窩(しっか)静脈を縫合して人類史上初の輸血を行う
並外れた器用さで、血管縫合の技術を確立
野口の師だったフレクスナーに見いだされロックフェラー研究所で臓器移植の研究 ⇒ 39歳でアメリカに初のノーベル医学・生理学賞
全臓器培養を発表してセンセーションを巻き起こす
キリスト教の聖地フランスのルルド(聖母マリア降臨の地、湧き水を飲むと病気が治癒)で患者の瘻孔が塞がるのを目撃し、奇跡を素直に認め科学との矛盾を受け入れる

2.    オズワルド・エイブリー(アメリカ:18771955)   大器晩成 ザ・プロフェッサー
『生命科学への道 エイブリー教授とDNAR.J.デュボス著
主な業績:遺伝物質の研究
肺炎双球菌という危険度の高い病原微生物をテーマに研究を続け、最後に遺伝物質がDNAであるという生命科学研究における不滅の金字塔を65歳にして打ち立てた
一生独身、ロックフェラー研究所のフレクスラーの下で定年まで勤務
肺炎双球菌の培養過程で、1つの菌が生体内で別の菌に遺伝的に引き継がれる(形質転換)ことを発見、52年にハーシー=チェイスの実験によってその形質転換物質がDNAであることが確認
エイブリーのモットー:「仮説は大胆に、真実には謙虚に」
生命現象を1つの概念で割り切って普遍化することは間違いだとして、爆発的な発展を遂げつつあったデルブリュック等の分子生物学には批判的
ノーベル賞の選考対象にはなったが、形質転換の機構がもっと明らかになるまで延ばされたため、先に死去してしまった ⇒ ウィルス発がんを発見してから55年後の87歳で受賞したペイトン・ラウスのように長生きでいたら当然受賞していただろう
ロックフェラー研究所 ⇒ アメリカでの医学研究のためにロックフェラーが創設した医学研究所。その最大の特徴は、当時主流だった微生物や病理学だけでなく、生化学や生理学も重視し広い分野からの総合的研究を目指したこと。その成果として学際的研究が次々と生まれたが、研究所の方向性を決定づけた研究者は発生学者のジャック・ロエブで、「すべての生命現象は究極的には物理化学的に説明できる」という先進的な思想を持ち、医学にも物質的な考えを当て嵌めるべきと主張、その還元論的な考えこそがロックフェラー研究所の基礎を作った。エイブリーもその影響を強く受けている

3.    サルバドール・ルリア(イタリア:191291)         あまりにまっとうな科学者の鑑
『分子生物学への道』自著
主な業績:「分子生物学」の創始者
ナチスに追われるようにアメリカに渡り、デルブリュックと出会い、後に「ファージ・グループ」と呼ばれる分子生物学を作り出す集団の種を蒔く
ファージ:正式には「バクテリオファージ」、細菌に感染するウィルスの総称
ファージの電子顕微鏡写真の撮影に成功して一躍有名になった後、インディアナ大学に移って最初に受け持った大学院生がジェームズ・ワトソン

4.    ロザリンド・フランクリン(イギリス:192058)   「伝説」の女性科学者
『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』
ブレンダ・マドックス著
主な業績:DNAの構造解析
ワトソンとクリックが、有名な「二重螺旋」を発見したのは、がロザリンドのデータを盗み見ることが出来たから
51年 キングスカレッジで生物高分子のX線解析に挑戦、DNAの構造解析へと進む。ロザリンドはDNA結晶にA型とB型の存在を発見したが、同僚のウィルキンズとの協定で、彼女はA型を選択し世界中で一番有名なX線回折像写真(「写真51)の撮影に成功、ウィルキンズはB型を選択したが、旧式の用具だったために研究は頓挫。ロザリンドはこの成功によってかなりの確度でB型が螺旋であると考えたが、協定に従ってA型の解析に戻る
ロザリンドと険悪の関係にあったウィルキンズが、8か月後にこの写真を見て、53年親しくなったワトソンに見せたため、ワトソンがB型が螺旋構造であることを確信、更にロザリンドの部外秘の報告書を内密に入手し、螺旋の2本が逆方向に平行であることを見てとり、その構造が示す決定的な生物学的意義にも気づき、間もなく二重螺旋の最終模型を完成 ⇒ ワトソン・クリックの短い論文には、データをどうして得たのかの記述はなく、モデルだけが提示されるという不思議な論文
ロザリンドは気付いていたに違いないが、ほどなくキングスを出てDNA解析から遠ざかったこともあり、生前その疑いについて誰にも愚痴をこぼすことはなかったし、その後ワトソンやクリックとも親しくなり、研究の相談などもしていた
ロザリンドを有名にしたのは、死後10年経ってから公にされたワトソンの『二重らせん』の刊行。若い女の子に異常なまでの興味を示すワトソンがライバル女性研究者を貶めるように書いた内容が、フェミニストからの攻撃対象となり、その反作用として悲劇のヒロインというレッテルがまかり通るようになったのは新たな悲劇


Wikipedia

ロザリンド・フランクリンは、ロンドンユダヤ人家系の銀行家の家庭に6人きょうだいの長女として生まれた。ハーバート・サミュエルを大叔父に、ノーマン・ベントウィッチを叔父に持っている。裕福な両親は、ロザリンド9歳のときから寄宿学校に入学させ、可能なかぎり最高の教育をうけさせた[1]。 
寄宿学校卒業後はケンブリッジ大学ニューナム・カレッジで学んだ。当時、ケンブリッジ大学は女子とユダヤ人の入学を認めてからそれほど時間が経過しておらず、いまだ女性が自由に研究に没頭する環境になかった。しかしロザリンドは研究にいそしみ、大学をトップクラスで卒業し、さらに大学院に進んだ[1]第二次世界大戦中は石炭結晶構造に関する研究をおこない、194525歳のときケンブリッジで物理化学の博士号を取得している。1947には、ケンブリッジ時代に親しかったフランス人エイドリアン・ワイルの協力を得てパリ国立化学研究所に移った。ここでは黒鉛の結晶学的研究をおこなった。
フランス留学後の1950ロンドン大学キングス・カレッジに研究職を得て、X線結晶学の研究に没頭した。X線結晶学とは、結晶へのX照射による物質の散乱パターンを逆フーリエ解析を用いて解き、当該物質の分子構造を解明していこうというものである。彼女にあたえられた研究テーマは、X線によるDNA結晶の解析であった。
ロザリンドは順調に研究を進め、着手後およそ1年で、DNAには水分含量の差によって2タイプ(A型とB型)存在することを明らかにし、それを互いに区別して結晶化する方法を確立させた。また、そこにX線を照射して散乱パターンの写真撮影に成功していた。さらに、これらについてはデータを公表せず数学的解析を自力で進めていた。1953には、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真を撮影している[注釈 1]
しかし、フランクリンはDNAの研究をめぐり、彼女が来る以前からDNAを研究していたモーリス・ウィルキンスとしばしば衝突していた。そして、ウィルキンスはケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に在籍していたジェームズ・ワトソンフランシス・クリックに彼女の撮影した写真を見せる。このことは、二重らせん構造解明の手がかりとなったものの、のちに大問題となった[1]
この時の事情について、ワトソンとウィルキンスの言い分は異なっている。ワトソンは、著書『二重らせん』で、ウィルキンスがフランクリンと険悪な関係に陥ったために写真を自分たちにこっそり見せた、と述べている。しかし、ウィルキンスは著書『二重らせん 3の男』で、あくまでフランクリンのデータを閲覧する権限が自分にあり、フランクリンもそれを認めていた、と釈明している[1]
また、フランクリンは1952年に自分の非公開研究データをまとめたレポートを年次報告書として英国医学研究機構に提出しているが、その研究レポートは、英国医学研究機構の予算権限を持つメンバーの一人でありクリックの指導教官にあたる立場の研究者であるマックス・ペルーツが入手し、そこからクリックの手に渡った。この非公開レポートには、DNA結晶の生の解析データだけでなく、フランクリン自身の手による測定数値や解釈も書き込まれており、DNAの結晶構造を示唆するものであった。この件についてクリックは何も語っていない[2]
1962にワトソン、クリック、ウィルキンスがDNAの構造解明によりノーベル生理学・医学賞を受賞したが、フランクリンは195837歳の若さで卵巣癌巣状肺炎により死亡したため、受賞の栄誉は得られなかった。一説には、実験のため無防備に大量のXを浴びたことが癌の原因だといわれている[2]
フランクリンは、ワトソンの『二重らせん』で「気難しく、ヒステリックなダークレディ」と書かれるなど長い間否定的な評価をされてきたが、1980年代に入ってようやく彼女の業績が再評価されるようになった[注釈 2]2008には、コロンビア大学からホロウィッツ賞が遺贈された。

5.    吉田富三(190373)                          鏡頭の思想家
『癌細胞はこう語った 私伝・吉田富三』吉田直哉(長男、NHKプロデューサー)
主な業績:化学発がん
「吉田肉腫」に名を残し、癌研究をリード。顕微鏡を考える道具とした最初の思想家
府立一中を受験したが、口頭試問の試験官が吉田の東北訛りが分からず不合格になり、錦城中から一高・東大医学部へ。父親の急死で杏雲堂病院に勤務、発がんの病理実験を考えていた佐々木院長との出会いが将来を決定する
38年 長崎大学教授となり、腹水肉腫を発見、のちに「吉田肉腫」と呼ばれ研究材料として広く用いられる ⇒ 戦後は、それを使った癌の化学療法へと展開
癌にもそれぞれ個性があることが分かって、人間の社会も宿主と癌の関係の縮図だという考えに至り、国語政策と医療制度という、本業以外の2つの大きな問題に挑戦
国語審議会委員 ⇒ 国語表音化=漢字廃止論を抑止
医療制度改革 ⇒ 武見帝王に対抗して会長選に立候補
富三の時代、分からないことはとてつもなく広がったが、それを掘り下げる道具は極めて乏しかった ⇒ ほとんど顕微鏡だけだったので、実験には工夫に工夫を凝らした

第4章     あるがままに生きる
1.    リタ・レーヴィ=モンタルチーニ(イタリア:1909):ライフ・イズ・ビューティフル
『美しき未完成 ノーベル賞女性科学者の回想』自著
主な業績:神経成長因子の発見
神経学と精神病学を専攻、ファシスト政権下は1人で研究を続け、戦後アメリカに渡って研究を続け、最初は主要由来の神経成長因子を、次いで上皮成長因子を発見。30年後の86年ノーベル賞受賞
科学者の自伝でありながら、研究に関する記述は1/3程度で、家族のことや友人のこと、先生のことなどについて、仕事や研究と同じくらい、いやそれ以上に大事なこととして美しく書き綴っている。ノーベル賞よりも、生きていく間に出会った人たちと出来事の方が遥かに大事なのだろう。悪意を抱くことなく同情をもって他人を眺めたり、物事や人々を好意的に見たりする性質が、そこかしこに滲み出ている素敵な本

2.    マックス・デルブリュック(ドイツ:190681)      ゲームの達人 科学版
『分子生物学の誕生 マックス・デルブリュックの生涯』E.P.フィッシャー、C.リプソン著 弟子の1人とライターがインタビューなどを基にまとめた科学のあり方についての本
主な業績:「分子生物学」の創始者
ルリアや、ハーシー=チェイス実験のハーシー等とともにファージ・グループを形成し、分子生物学を創造
天文学から理論物理学に転向したが、量子力学が峠を越したと判断、生物学へと乗り込む
ナチスに反抗してカリフォルニアに逃避、戦後もドイツに戻らずにアメリカで研究を続けたことがルリアとの出会いとなって大きな成果に結びつく
大戦中、故国に留まらなかったことに対して自責の念を感じたことから、戦後ドイツの科学者を助け、ケルンには遺伝学研究所を設立

3.    フランソワ・ジャコブ(フランス:1920)とジャン・ドーセ(フランス:19162009) 
                                                             フレンチ・サイエンティスツ
『内なる肖像 一生物学者のオデュッセイア』自著
『生命のつぶやき HLAへの大いなる旅』自著
ジャコブの主な業績:オペロン説、アロステリック効果
ドーセの主な業績:HLAの発見
ジャコブは分子生物学者、ドーセは移植免疫学者と分野は異なるが、共通点が多い
ジャコブは、ナチスを逃れてドゴールの自由フランス軍に志願、医者だったことから衛星班に配属、戦傷を追って帰国、生物学の研究に従事
ドーセも、医学部に進み北アフリカの野営地で病院勤務に就く。戦後マーシャルプランの援助によってアメリカに留学、皮膚移植と白血球型の研究に従事しHLAの発見に辿り着く
HLA(ヒト白血球型抗原:最も重要な組織適合性抗原で白血球の血液型ともいうべきもの) ⇒ 白血球の型と組織移植の型は同一で、その型が移植において決定的に重要であることがドーセらの実験によって証明された。50万回以上の反応試験を通じてHLAには非常に複雑な多型性があり、移植免疫のみならず人類遺伝学研究のための道具にもなることが判明
80年 ドーセは、「免疫反応を調節する細胞表面の遺伝的構造に関する研究」でノーベル賞
戦後一時パリで画廊を経営していた縁で、富豪女性から絵画コレクションの遺贈を約束され、その女性の遺志によりCEPHヒト多型性研究センターが設立された ⇒ ヒトゲノム計画に先駆けて84年から「ヒトゲノムの遺伝的地図」作製に取り掛かり、疾患遺伝子の探索の国際的準拠材料となる
HLAの多様性から「人間ひとりひとりが唯一無二の存在である」ことを体感し、倫理問題においても重要な役割を果たす
モノー著『偶然と必然』 ⇒ 生命をどう定義できるかから始まり、進化そして文明論へと展開した生命科学者による名著
ド・ゴール好きのジャコブは、58年第5共和制の大統領として復活したド・ゴールが予算の重点配分を決断する際、12の科学分野の中から全くの未知の分野で自らも未知の世界であったにもかかわらず分子生物学を選択したことを、あのどでかい鼻による嗅覚が大統領をして自由フランス軍の創設という洞察に匹敵する見事な選択をさせたと持ち上げている
研究でもなんでも、自分の適した環境に身を置いて自分に適した仕事をできるというのは幸せ。しかし、自分のやっていることが本当に適しているかどうかは誰にもわからないし、どうやって探していいかもわからない。そこをどうあがいて生きていくかが大事なのだ

4.    北里柴三郎(18531931)                     終始一貫(研究編)
『北里柴三郎 熱と誠があれば』堀田眞人著            (図書館 08-11参照)
主な業績:抗毒素の発見
阿蘇に記念館
医学を志して上京、東京医学校卒後、内務省衛生局に入る(局長が東京医学校長の長與専斎、上司に後藤新平)。生涯「学術を研究してこれを実地に応用し、それによって国民の衛生状態を向上せしめる」と言い続けたがその第1歩。局長の指示で細菌の研究に従事
ドイツ留学も異例の追加選抜、天皇から下賜金1000円をもらっての留学延長も異例 ⇒ コッホに見込まれ、84年に発見されていた破傷風菌の純粋培養に成功、そこから毒素を発見、更に抗毒素の存在も発見し、それに基づいて破傷風の抗血清療法を発見
コッホの指示で破傷風と同様にジフテリア抗毒素の研究も行ったが、共同研究者のベーリングだけが01年第1回ノーベル医学・生理学賞受賞 ⇒ 人種問題が大きい
外国人として初めてプロシアからProfessorの称号を受け、世界の大学から招聘を受けるが、母国への報恩のため帰国
帰国後、脚気菌論争で、師を批判したとして集中砲火を浴び、国に代わって福澤の助けで92年伝染病研究所と93年結核専門病院を設立
94年 香港でペスト発生。ペスト菌を発見したが、直後にコッホのライバルであるパスツールの弟子イェルサンも数日遅れてフランスから派遣されペスト菌の同定に成功、両者の菌が同じかどうかという真贋論争が起こり、国内での脚気の恨みからくる執拗な攻撃に嫌気した北里自身が「エルザンの菌が正しいことに同意」したため決着、ペスト菌はイェルサンの名を取ってYersinia pestisと命名されている
志賀潔(18711957)は、ペスト菌発見の報告に感動して北里門下に入り、97年最初の研究として東京で大流行した赤痢の原因菌同定に成功 ⇒ 1年足らずで発見したにもかかわらず、北里は志賀1人の手柄として発表させ、Shigellaとして菌に名を残す

5.    北里柴三郎:                                    終始一貫(スキャンダル編)
「終始一貫」は北里のモットー
    コッホの来日 ⇒ 1908年 74日間全行程を同行。個人的にも公費とほぼ同額を出費して接遇。筆跡から立ち居振る舞いまで、コッホ夫人(糟糠の妻を捨てて30歳下と再婚)が驚くほど酷似していたという。2年後死去したコッホの遺髪を神体とした北里神社を伝染病研究所に建立、祥月命日には神式で例祭を行い続けた
    伝染病研究所移管問題 ⇒ 99年内務省の所轄、14年東京帝国大学へ移管。つんぼ座敷におかれた北里は怒って辞職、コッホ神社だけを持って北里研究所を設立、職員も皆移動。「帝大の青山」とまで言われた帝大医学校校長を長く勤めた青山の対北里の策謀と言われたりしているが、行政改革の一環として大隈が「サイエンスは大学に委ねるのが医政の常道」としてトップダウンで決断したというのが真相
    芸妓を巡るスキャンダル その1 ⇒ 96年時の宰相伊藤博文と競り合ってとん子を落籍、「一夫一妻を唱導し、畜妾を唾棄した福澤」に厳しく意見されたり、『萬朝報』には黒岩涙香が「畜妾」の例として挙げた490人の1人に挙げられたりした
    芸妓を巡るスキャンダル その2 ⇒ 25年 長男が心中で相手を死なせた事件。男爵まで叙爵された後だけに格好のターゲットとなり、即日すべての公職から退く決意をするが、慰留され留まる
毀誉褒貶相半ばし分かりにくい人物だが、半世紀にもわたる友人ですら、「真意を知る人は、一家、一族、一門、親友たりとも1人もなかったのではないか」と言っている
器量が何を指すかは難しいが、間違いなく器量の最も大きな人


第5章     番外編 知的文化遺産
『分子生物学の夜明け(上・下) 生命の秘密に挑んだ人たち』 H.F.ジャドソン著
The Eighth Day of Creation
第1部     スイスの化学者フリードリッヒ・ミーシャーによるDNAの発見からワトソンとクリックによる二重螺旋モデルへと至る物語
第2部     DNAの遺伝情報がいかにして蛋白質を作り出すのかを解明する過程、生命における情報という問題がモチーフをなす物語
第3部     蛋白質を巡る2つのトピックス、酸素を運搬するヘモグロビンの構造と酵素のアロステリック効果についての話

おわりに
プロセスの独創性と結果の独創性の両面で盤石なのは、カレルとエイブリー。北里やレーヴィ=モンタルチーニもそれに劣らぬ業績
ベンターのヒトゲノムやフランクリンの二重螺旋は多くの人にとって可能だったという点で少し違った印象をうける
着想的な独創性では、ベンザーやデルブリュック、ルリア
昔の人ほど多様なテーマに取り組んだように見えるが、一貫性という観点からはエイブリーや吉田が挙げられる
協調性という観点からは、フランクリンとドーセが両極端
偶然性、セレンディピティの観点からは、レーヴィ=モンタルチーニが落ち込んでいた時親しくもない友達が励ましてくれなかったら研究を止めていただろうし、ルリアの場合も停電で市電が停まらずに赤痢菌のファージ研究者と話をする機会がなければファージ研究に飛び込むことはなく、ベンターが衛生兵として生き延びることが出来なければヒトゲノム計画の完成は何年もあとになっただろうし、ジェルジもビタミンCの研究経験のある若者が研究室に来なかったらエイブリーに並んでノーベル賞に最も近かった研究者の1人に列せられていただろう
研究には、人生観とか性格というものも色濃く反映される。生き方は大きく2通りあって、享楽的かストイックか



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