ホロコーストの音楽  ゲットーと収容所の生  Shirli Gilbert  2012.11.27.


2012.11.27. ホロコーストの音楽  ゲットーと収容所の生
Music in the Holocaust, Confronting Life in the Nazi Ghettos and Camps 2005


著者 Shirli Gilbert 南アのヴィットヴァータースランド大学卒、英国オックスフォード大学で現代史を専攻、博士号取得。音楽学の修士号も持つ。現在ユダヤ史やユダヤ文化研究で夙に知られる英国サウサンプトン大学バークス研究所の上級専任講師(教授格)。ユダヤ・非ユダヤ関係論、ホロコーストと音楽の接点に関する研究やナチズムが南アのアパルトヘイトに及ぼした影響などについて調査研究を行っている。本書は米国州立ミシガン大の助教(200407)の時に上梓した研究書であり、ホロコーストとその犠牲者を記念するために設立されたイスラエルの公的機関ヤド・ヴァシェム記念館によって、ホロコーストに関する基本参考文献に挙げられている
祖父母はユダヤ系ポーランド人で、ワルシャワ・ゲットーを生き、ソ連での収容所生活を経て、戦後イスラエルに移住、更に南アへ。その一連の家族史がホロコーストとアパルトヘイトに対する著者の関心の背景をなす

訳者 二階宗人 1950年生まれ。早大卒。NHK記者。特派員としてローマ、パリ、ジュネーヴ、ロンドンに駐在。ヨーロッパ・中東・アフリカ総局長。NHKエンタープライズ・ヨーロッパ社長。現在日本宗教学会会員、チェコ音楽コンクール顧問、ホロコーストを巡る思想と宗教間対話をテーマに研究


発行日           2012.8.31. 印刷               9.10. 発行
発行所           みすず書房

音楽はナチ支配下のユダヤ人ゲットーと強制収容所において、どのような役割を果たしたのだろうか。本書は音楽を手掛かりに、ホロコーストの深部と個人の内面への窓を開く
ナチズムの犠牲者をめぐる戦後の証言は生存者によるものだが、歌は生きて還らなかった人々の声を伝える。ナチに協力するユダヤ人当局への怒り。宗教への不信。不安と恐怖。従来のユダヤ人の受難と抵抗の「物語」には収斂されない、多様で複雑な人間の生と経験がよみがえる
ゲットーも収容所も他の社会と同じく、階層化された社会だった。音楽は格差を表し、格差を作った、飢餓に苦しむワルシャワ・ゲットーで、音楽会や舞台演芸が隆盛をみる。ユダヤ人パルチザン、ドイツ人共産党員、ナチ親衛隊は、それぞれ組織の喧伝と結束のために歌唱を利用した
アウシュヴィッツでは音楽「産業」が空前の活況を呈していた。移送されてきたものの「選別」にも、労働への行進にも処刑にも、オーケストラが伴奏した。収容所では音楽は異質なものではなく、むしろ運営に不可欠な一部であった
戦争と収容所を経験した祖父母を持つ若き研究者による新しい社会史である
譜面34点やザクセンハウゼン収容所のオーケストラの演奏曲目一覧も収載

本書は、ナチのゲットーと収容所で収容者たちが営んだ音楽活動の歴史を専ら綴ることから生まれたもので、ナチが占領したヨーロッパの最も重要な隔離収容施設に存在したオーケストラや室内楽団、合唱団、劇場公演、集団での歌唱、あるいは舞台演芸に及ぶ幅広い領域の活動に関する資料となっている
同時に、ナチズム体制下で囚われた個人と共同体の生活に焦点を当てた社会史であることがその核心で、音楽は、それらの共同体の内部世界に独特の窓を開け、人々が当時、自分たちの体験をどう理解し、解釈して応答したのかを洞察させてくれる
テレージェンシュタット(プラハ近郊の要塞都市で、ナチの収容所体制の「見本」として作られたもの)は、拘束されたユダヤ人が人間的な待遇を受けていると外の世界に信じさせるためのものであるため、本書では扱わない

ナチの強制収容下の音楽活動は、文化が共同体の価値やアイデンティティを創出するために必要不可欠な役割を、とりわけ危機的な状況で果たせることを示した注目すべき実例 ⇒ ナチが開設したゲットーや収容所に広汎に存在した音楽を、4章に分け、事例研究として各ゲットーや収容所を取り上げている

第1章     ワルシャワ・ゲットーの音楽
社会活動としての音楽がどのようにゲットーの社会階層を映し出し、どのようにして異なる階層のユダヤ人たちが極めて多彩な生活様式を営むことが出来たのかを示すとともに、そこで創作された歌の表現を通じてゲットーでの生活に対する人々の認識を考察
それらの歌は、不確実で倫理規範の崩壊しつつある世界へとわれわれを引き込む。そこでは物乞いや密輸、そして盗みが喫緊の社会問題として浮上しており、ユダヤ人評議会や社会福祉団体にあからさまな敵意が向けられていた
ワルシャワは、ヨーロッパ最大のユダヤ人社会を持ち、ユダヤ人40万は総人口の1/3以上。イディッシュ文学の指導的中心地
40.11.ゲットー設置 ⇒ 最初の数か月間は、資産や縁故を持つものや密輸業者やヤクザ等の裏社会にいた特権階級が享受した事柄の中に娯楽、とりわけ音楽があった
生活難に喘ぐ一流演奏家の多くが乏しい収入の足しにするために演奏した ⇒ 『戦場のピアニスト』で有名なシュピルマンもその1
親衛隊は、人々に音楽を強要することによって屈辱を与えた ⇒ 辻音楽士の伴奏で不恰好な者に躍らせて楽しんでいた
物乞いと結びついた音楽
これ等両極の間に、ゲットーの大衆に向けた娯楽を目的とした活動があり、それがワルシャワの音楽状況の大部分を占めていた ⇒ 1つの交響楽団、5つの劇場、室内アンサンブル、合唱団があり、社会福祉団体が無料食堂で催す数多くの催しがあった
ユダヤ人にとって封鎖されたゲットーにいる方が、それまでよりも保護されているように感じられ、共同体の文化的、社会的活動を干渉されずに営む、より多くの自由を持つ
ユダヤ交響楽団の創設(1940.11.42.4.) ⇒ トレブリンカへの強制移送まで存続
ゲットーのナイチンゲール ⇒ マルィシャ・アイゼンシュタット(20歳のソプラノ)
ポーランドに同化しようとした人たちの中にもゲットーのユダヤ文化を振興する運動に加わる者もいた ⇒ 孤児院長のヤヌシュ・コルチャックは子供たちのために、ユダヤ的要素を組み入れる努力をした
42年夏「トレブリンカ」という題名の歌がはやる ⇒ パン3㎏と引き換えにトレブリンカに大量輸送されていく人々の運命にゲットーの住民が気付き始めた時に書かれた

第2章     ヴィルナ 政治家とパルチザンたち
音楽活動を戦前のユダヤ人共同体に存在した豊かな文化の営みの延長として、またゲットーの新しい政治組織が掲げた活動指針を宣揚するための手段として捉えている
パルチザンが音楽活動を利用して活発な抵抗運動や果敢な抵抗を促したのに対して、ユダヤ人評議会が共同体の一部であるにしろその生き残りを確実にする最善の策として、事態を消極的に容認し、持続的な生産力を奨励したことについて述べる
ヴィルナ ⇒ リトアニアの首都ヴィリニュスのこと、ユダヤ人による呼称
大戦前夜の人口は6万で、町の人口の30%に相当、歴史的に最も活動的で活気に満ちた東ヨーロッパのユダヤ人共同体の1つ。「リトアニアのエルサレム」と呼びならわされた
39.9. 赤軍が侵攻、 40.6. ソ連により併合され、反ユダヤ主義の暴力が専横、ユダヤ人資産の多くが国有化
41.6. ドイツのソ連侵攻により、ドイツの占領下に。反ユダヤ的な措置を強化、郊外でユダヤ人の大量殺戮が始まり、ゲットー設置までに2万が殺されていた
41.9. ゲットー設置。労働許可の与えられないユダヤ人弱者は全て殺害
41.12.43.9. 殺戮が一段落したあとゲットーが閉鎖されるまで、芸術活動が花開いた
音楽学校創設、小規模だがオーケストラも組織され公演は大成功
作家芸術家協会が組織され、ゲットーの新しい文化活動の中心的な役割を果たす

第3章     ザクセンハウゼンの生活
4章とともに、収容所のグレーゾーンで営まれた音楽活動の諸形態を検討
ザクセンハウゼンとアウシュヴィッツのいずれにおいても、その利用できる可能性や機会が社会的位置によって全く異なることを、様々な集団の体験が示している
格差の重要な象徴であった音楽は、それを自由に手にできる者とそうでない者とを分け、収容者の階層秩序の中の国籍や政治、もしくは宗教上の集団によって異なる待遇を映し出した
ザクセンハウゼンでは、ドイツ人共産党員の「特権的」な収容者が、自分たちの進める反ファシズムの地下闘争に音楽活動を取り入れることが出来た
ポーランド人収容者の音楽は、無力感と怒り、冷笑といった彼等の収容所生活の全く異なる傾向を反映していた
ユダヤ人は、行動の自由を制限されながらも、イディッシュ民謡を通じて過去との絆を紡ぎ、自らの民族の歴程のうちに自分たちの体験を位置付けようとした
36.4. ベルリンの北35㎞のオラニエンブルク近郊にザクセンハウゼン強制収容所建設認可 ⇒ ダッハウやアウシュヴィッツIと同様「穏健な」カテゴリーの収容所に分類
収容者は、親衛隊が有害かつ反社会的と見做す集団、とりわけ同性愛者や犯罪者、ユダヤ人、「反社会分子」等で。収容理由や国籍、職能等偶発的な要因も含めあらゆるところに格差があり、大幅に異なる扱いを受けた ⇒ ドイツ人政治犯収容者と刑事犯収容者がナチの補助要員として各階層のほとんどをナチに代わって支配、それら支配者のさじ加減ひとつで収容者の生活が大きく左右された
ドイツ人政治犯が力を持ち重きをなしていた ⇒ 仲間も大勢いて、抵抗活動を組織
収容所で音楽活動の機会を最も享受したのはこうした政治犯収容者とその支配下にあった収容者 ⇒ 共産党員の政治犯の支配下にあったチェコ人学生1200人もその一例で、41年初頭に弦楽四重奏団を結成、約3年間演奏したり、合唱団を組成したりして、戦争前の国民的アイデンティティと収容所における共同体意識を確認する手段となったが、音楽を介したそうした機会が大半の収容者にはない特権だったことを忘れてはならない
政治犯による音楽(歌唱)の夕べは、36年から定期的に開催されたが、共産党員のための集会の色彩が強く、参加できた者はごく僅か ⇒ 抵抗組織の重要な一角を担ってはいた
新たにつくられた歌も激励調や楽観主義的なものが多く、反ファシズムの内容も見逃されていた ⇒ 音楽、特に参加型の歌唱が基礎的な政治思想を伝え、集団を纏めるのに役立つとの理解から、ナチも共産党も同じ種類の歌を用いる傾向があった
39.9.戦争勃発以後に移送されてきたポーランド人にはユダヤ人のほか、多くが聖職者、知識人等著名な公人だったが、体制に対する侮蔑と復讐の思いを公然と自分たちの言語で表現する ⇒ 機会は限られ、せいぜい少人数の集まりでしかなく、秘密裏に行われたが、基本的な目的は報酬を得ることにあった
親衛隊が始めた音楽活動 ⇒ 42年公認のオーケストラ誕生(報酬はパンの追加割当て)。目的は親衛隊及び収容者の慰安だが、コンサートに参加できたのは上層階層のみ
懲罰的な目的にこそより頻繁に使われた ⇒ 公開処刑の伴奏や真夜中や長時間の強制的歌唱訓練等の拷問、特にユダヤ人対象ではよく使われた
ユダヤ人の音楽 ⇒ 極めて限られた機会に限定され、非ユダヤ人の政治犯収容者が間に入ることによって実現したが、ユダヤ人と非ユダヤ人の政治犯たちは収容所内でも明らかに繋がっていて、内密の公演にも特別区外から多数の参加者があった。常設の音楽集団は戦前著名な合唱指揮者だったダルグート(別名マルティーン・ローゼンベルク)40.4.に組成した四部合唱団1つ、ダルグート自身自分の音楽を皆の士気と団結を強める有効な手段と見做してその意図を追求したが、現実には大半のユダヤ人収容者は生存するための闘いがすべてに優先する世界に生きていて、そうした状態ではもはや音楽が営まれ続けることは不可能 ⇒ 42.10.親衛隊により懲罰の教練が課され大半はその場で死亡、ダルグートもその月にアウシュヴィッツへ移送
戦後の検証では、東ドイツの主権下にあったため、ドイツ人政治犯収容者対象に限定されたため、音楽が抵抗闘争の強力な武器であり、士気と集団の連帯を鼓舞する手段と考えられたが、音楽の場合それぞれの集団のなし得ることは驚くほど異なっていたことを忘れてはならない
どの集団も、共通のアイデンティティを表現する手段として音楽を利用したが、親衛隊は結局自分たちのより重要な計画を危うくしないことだけを黙認していた

第4章     アウシュヴィッツの音楽
収容所で使われた強制された音楽を取り上げ ⇒ 親衛隊当局自身のために明らかに私的な役割を担っていた。懲罰や拷問として機能する一方で、それ以上に親衛隊員がドイツの洗練された文化と「品格を持って」生きているという自己像を保持する枠組みを提供していたと思われる
40.6.45.1. ナチ最大の複合収容所 ⇒ 2つの主要な収容所I,IIと約50の衛星収容所からなる。I40年春、II(ビルケナウ、ガス室設置)42年春稼働
独特の音楽活動 ⇒ 収容者によるオーケストラで、収容所I40.12.に創設。ビルケナウには男女それぞれに1つづつ、ジプシー専用区に1つ、チェコ人のための家族収容区に1つの計4つが存続
労働従事者の自発的な活動は厳しく規制、行動は全て監視されていたので、ごく限られた特権階級だけが音楽の楽しみを味わった
一般収容者が音楽と関わる機会を見出し、個人的な意思疎通に関する限りは一定の意味を持ったが、大多数の一般収容者にとって、自ら営む音楽が生活の極めて小さな一部でしかなかったことは知っておく必要がある
一方で、没収財産保管倉庫や調理場、診療所等で働く「特別」な労働部隊に配置された収容者にはいくつもの特典があった ⇒ 音楽は特に人気があり、音楽家はその職能故に特権階級に加えられた
オーケストラの主要な仕事は、毎朝夕、労働部隊が仕事に出掛ける時と帰る時に収容所のゲートで演奏すること ⇒ 歩きにくい木靴や豆のできた足で行進するのは悲惨であり、救いの手を差しのべることが出来ないのを知りつつ傍観するよう強制された音楽家たちにとっての精神的苦痛に加え、ときには氷点下以下でも欠かさず演奏することは肉体的にも重労働
ビルケナウの女子管弦楽団は、43.8.ウィーン出身の著名なヴァイオリニストのアルマ・ロゼ(マーラーの姪、父親はロゼ四重奏団の創設者)が移送されてくると、収容所長自ら積極的に庇護し、楽団員は特権的な地位と待遇を与えられた ⇒ 戦後まで生き残れた
親衛隊にとっても重要な役割 ⇒ 殺戮をカムフラージュするために「品格」の形成が求められ、音楽は洗練された文明的な枠組みの中に自分たちの行為を位置付けるのに役立った。音楽が収容所の歪んだ論理の一部を構成 ⇒ 気分転換に最適
ナチ機構下で6つが特に死の収容所(ガス室等で大量殺戮が積極的に行われた施設)と指定され、ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカ、ヘウムノがもっぱら効率的な大量殺人を目的としたのに対し、アウシュヴィッツとマイダネクは周辺の工場や鉱山に奴隷労働も提供
これ等の収容所では、音楽もまた日常生活の一部を成していた ⇒ 到着する移送者を迎える欺瞞の演奏や、親衛隊や少数の収容者のために様々な音楽活動が行われた
音楽が親衛隊にとって別次元の価値を持っていた ⇒ ロゼ管弦楽団のケースに象徴
収容所の日常生活に広く溶け込んだ音楽という存在は、大きな関心を集めず、問題にされることもなかった。このことは、音楽が決して異質なものではなく、むしろ収容所の運営に不可欠な、その最もふさわしい一部だと考えられていたことを示す

エピローグ
収容所やゲットーの中で作られた歌は、その中での生活に関係した様々な出来事をとりこんでいる。精神的打撃や目撃した殺戮、共同体内の汚職、苦難が広く知られることへの願い等々、また、事態の多様な受け止め方を語っており、子供たちの元気な楽観主義から収容所におけるポーランド人の陰気な嘲りやブラックユーモアにまで及んでいて、過酷な現実に対する人間の最終的な応答が何であったのかを洞察させてくれる
意思疎通の通常の回路が切れるか機能させるのが禁じられている収容所では、音楽が体験を分かち合ったり、克服したりする非公式な場となったり、情報伝達の手段でもあった
犠牲者たちが、自分たちの運命を受け入れ、多様な思いや行動、どろどろした生きざまを音楽に表現している様が見えてくる



ホロコーストの音楽 シルリ・ギルバート著 収容所の極限状態での歌と演奏 
日本経済新聞朝刊 書評 20121021日付
フォームの始まり
フォームの終わり
フォームの始まり
フォームの終わり
 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉である。あらゆる表象=「思いやること」を拒絶する地獄絵。そういうものを「歌う」空虚と欺瞞。このような世界は、それを体験しなかった者に対して、詩や音楽を厳しく禁じる。深海のような音のない世界としてしか、私たちはそれを思い描くことが出来ない。にもかかわらず――実際のアウシュヴィッツにはいつも音楽があった。絶対の沈黙としてしか表象できないはずのものが、本当は様々な響きで彩られていた。恐ろしいことだ。収容所の中の音楽生活を描く本書が突きつけるのは、この二重に反転した逆説である。
(二階宗人訳、みすず書房・4500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)表紙写真は、リトアニア、コヴノ(カウナス)ゲットーでのオーケストラのヴァイオリニストたち
(二階宗人訳、みすず書房・4500円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 アウシュヴィッツにはいくつもオーケストラがあった。収容所には当然ながらユダヤ人が圧倒的に多く、その中には優秀な職業音楽家も稀ではなかった。グスタフ・マーラーの姪のヴァイオリニストもまた、アウシュヴィッツの指揮者をしていた(彼女はそこで病死した)。ナチス親衛隊の中には洗練された音楽趣味を持つ人もいて、彼らは収容者たちのオーケストラに耳を傾け、そのメンバーと室内楽に興じたりもした。そんなとき親衛隊員は意外にも「人間らしく」なることが出来た。また新たな収容者が列車で到着すると、怯えきっている彼らを落ち着かせるために、ここでも音楽が演奏された。そしてガス室送りになることが決まった人々が、誰に言われることもなく声を合わせて歌を歌い始めることすらあった。彼らは激しく親衛隊員に殴りつけられた……
 本書の淡々とした記述を前にしては、ただ絶句するしかない。極限状態にあってなお人は、収容者も親衛隊員も等しく、音楽を求める。それはきっと人間的な感情の最後の砦なのである。絶対の沈黙に耐えられる人はいない。だが同時にアウシュヴィッツにおいて音楽は、本書の著者いわく、極めて合理的に「絶滅の工程に利用された」。本書を読んだ後ではもはや、「人々を音楽で癒す」などと軽々しく口には出来ない。音楽がもたらすものの美しさは、通常の世界でのみ許されている贅沢品なのである。
(音楽学者 岡田暁生)

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