ある男  木内昇  2012.11.20.


2012.11.20. ある男

著者 木内昇 1967年東京生まれ。出版社勤務を経て04年『新撰組 幕末の青嵐』で小説家デビュー。08年『茗荷谷の猫』で翌年第2回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞受賞。11年『漂砂のうたう』で第144回直木賞

発行日           2012.9.30. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

『オール読物』0912月号~125月号

1.   
尾去沢で銅を掘り続けた金工(かなこ)の話
よろけという肺臓に粉塵が溜まって罹る病
佐幕派の南部藩は、維新で領地没収となったが、領土保全のために賠償金を払おうとして借財をする。借金の返済ができないままに銅山を新政府に召し上げられる
その時の大蔵大輔(たいふ)が井上馨
新政府のやり方に、地元の長年手掘りで山を支えて来た金工が反発し、東京に出て井上に直談判するが、あっさりはぐらかされて、また元の金工に戻る
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尾去沢銅山事件:
江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっていた。1869年(明治元年)採掘権は南部藩から鍵屋茂兵衛に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で大蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、鍵屋茂兵衛は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。鍵屋茂兵衛は司法省に一件を訴え出、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わる。これを尾去沢銅山事件という。

2.    喰違坂
1874.1. 右大臣・岩倉具視が赤坂喰違坂で斬られたが堀に逃げ込み軽傷で済んだ ⇒ 翌日発足したばかりの東京警視庁が面目にかけて捜索
肥前から上京して邏卒から始めて昇進していた男が捜索に加わり、下手人の脱ぎ捨てた下駄から、征韓論を葬られた不満分子の仕業と判明、逮捕される
男の妻が梓弓占いによって、下手人が西から来たことを言い当てる
         そそくさと目をそばめた(53ページ)
主犯の処罰とは別に、事件の予防を主業務と考えた警視庁としては、他の不満分子との関係やそれらの動静を探ろうとして主犯を尋問する。男が尋問の担当となるが、主犯から、警視庁の役割として予防などしても世間には警視庁の手柄が伝わらない、むしろ警視庁という誰も太刀打ちできない強靭な組織の存在を大衆に知らしめていかないと存在価値を疑われると言われ、不満分子の斬首を上司に具申、岩倉の怪我の程度からしても厳し過ぎる処罰ではあったが全員が斬首となる
76年 警視庁の大警視・川路利良は、内務卿に警察制度に関する建議を提出
同年各地で征韓論敗北への不満から士族の反乱が起こり、西南戦争へと発展。警視庁は巡査を間諜として送り込み、徹底して乱を制圧、新聞を使い、その活躍を大きく世間に知らしめた
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喰違の変は、1874114東京赤坂喰違坂で起きた、右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件。「赤坂喰違の変」「岩倉具視遭難事件」などとも。
事件の背景:
187310月に政府内で起きたいわゆる征韓論争に敗れた征韓派参議西郷隆盛江藤新平板垣退助らが下野したことは、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、いっそうの不満を高めることとなった。とりわけ、急病により一線を退いた太政大臣三条実美に代わって、論争を主導した右大臣岩倉具視や内務卿大久保利通に対する恨みは次第に増幅されていった。
暗殺未遂事件:
1874114夜、公務を終え、赤坂の仮皇居(前年の火災により赤坂離宮を皇居としていた)から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉を襲った。襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人。いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めた。ただし、精神的な動揺は大きく、公務復帰は1箇月後の223となった(この療養中に佐賀の乱が発生している)。
襲撃者たちの処分:
知らせを聞いた内務卿大久保利通は、ただちに西郷従道とともに参内。岩倉が軽傷と知ってひとまず安心するが、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見た大久保は、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じた。その甲斐あって事件の3日後の117には、武市熊吉ら9人は逮捕された。現場に残された下駄が手がかりになったという。同年79、全員が斬罪に処されている。
なお4年後の1878、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族島田一良らに襲撃されて、暗殺されている(紀尾井坂の変)。


3.    一両札
贋物細工で一代を成した男が、50を境に意識と身体のギャップに気付いて廃業を決意、橋の番屋をしているところに、戊辰戦争で幕府側についたために仕官の道を閉ざされた元武士集団(指導者は米沢藩士雲井龍雄)から偽札の製造を頼まれる。政府に捕えられた雲井の救出に資金が必要ということだったが、実際は武器を購入して政権を力づくで奪還しようという企み。一旦は断るが、番小屋の同じ様な老人連中と一線を画すために引き受ける
いい加減なところで妥協して速く作れという依頼人に対し、男は絶対に妥協しようとしなかったが、業を煮やした依頼人が仕上がり直前の材料をもっていなくなる
間もなく一味の企みは発覚して偽札作りで逮捕、死罪となる
その昔男が20歳の頃、夜店で目の玉の飛び出るような贅沢な菓子が目に入って、とても買えないと思っていたら、自分より遥かに器用で仕事も速くこなしていた弟が密かに粘土で贋物を作って戸棚にしまっていたのを、そうとは知らずに男は口にして吐き出す
兄が物陰にいるとは知らずに、弟が母に向かって、男の腕の確かさにはとても自分はかなわないと言っているのを耳にする。その弟は若くして死に、今はいない
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雲井 龍雄天保153251844512 - 明治312281871217)は、幕末・維新期の志士。元集議院議員。本名は小島守善(もりよし)、字は居貞、号は枕月または瑚海侠徒ともいった。壮志と悲調とロマンテイシズムに溢れた詩人とも評されている。雲井龍雄という名は明治元年(1868)頃から用いたもので生まれが辰年辰月辰日から「龍雄」とし、「龍が天に昇る」との気概をもってつけたといわれる。
略歴:
父・中島惣右衛門と屋代家次女・八百の22女の次男として米沢袋町に生まれる。幼名は豹吉、猪吉、さらに権六、熊蔵などと名前を変えた。父は米沢藩平勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等63人扶持であった。8歳で近所の上泉清次郎の家塾に就学。清次郎は龍雄の優れた才能と胆力を認め「孟嘗君」と呼んだ。9歳にて師・清次郎の病没により山田蠖堂の私塾に移る。相変わらず負けず嫌いで腕白少年であった。12歳の頃、郷学の中心的存在であった曾根俊臣にも師事する。俊臣は戊辰戦争に志願して百統隊を率い越後大黒の夜戦で斬込の先頭に立ち、敵弾に当たり55歳で戦死した。龍雄は14歳から藩校興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。興譲館は官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場でのち自費で寄宿する寄宿生が生まれ、通学生の学舎を「友于堂」と称した。ここで龍雄は優秀に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けている。好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。陽明学に傾倒した人傑には日本における始祖中江藤樹をはじめ熊沢蕃山林子平吉田松陰橋本左内高杉晋作横井小楠河井継之助西郷隆盛などが挙げられ彼らの多くに共通するものは単なる口舌の徒ではなく自己の所信に向かい断固として進退を賭け、堅忍不抜の精神の持ち主であったことである(安藤英男『雲井龍雄研究』)。
18歳のとき、約により叔父小島才助の養子となるも20歳のとき、才助他界のため小島家を継ぎ19にして丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。21歳で高畠の警衛の任に就いた。慶応元年(1865)、22歳で米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒三計塾に入門。息軒は単なる経学者でなく昌平黌の教壇に上っていても敢て朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民実学を修める。執事長(塾頭)にも選ばれ、「谷干城以来の名執事長」と息軒をして言わしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。同塾門下生には桂小五郎広沢真臣品川弥二郎人見勝太郎重野安繹ら多士済々の顔ぶれが見られる。また龍雄と息軒の次男謙助は同年であり、生涯を通じて同志的関係を結んだ出会いがここにあった。
翌慶応2年(1866)、龍雄は藩命で帰国。藩はこの時世子・上杉茂憲が兵800を率いて京都の治安に当っていた。龍雄は寧ろ京都駐兵を解き、代わって具眼の人物を上洛させ天下の形勢を探報させることが上策であるとの献言をするも保守的藩風には受け入れられなかった。しかし形勢は急テンポで動き幕府の長州再征は頓挫、将軍・徳川家茂は大阪で客死、慶喜が将軍職に就いたものの幕府実力の失墜は明白であった。ようやく上杉藩は幕府追随の不得策を知り茂憲召還に決しその帰藩と同時に国老・千坂太郎左衛門(高雅)を京都に派遣、龍雄はその先駆に指名された。千坂ら一行は清水の成就院を本陣としたが龍雄は別行動をとり一木緑、遠山翠等の変名を用いて探索活動に当ることになる。
しかし同3年(186710月、慶喜が大政奉還12月、王政復古の大号令が発せられ龍雄は貢士に挙げられた。徴士と並んで全国各藩から推挙された議政官のことで龍雄の貢士就任は門閥の士を差し置いての抜擢であり、その才幹が藩内外を問わず広く知られていたことを示している。この年実父・惣右衛門病没。明けて慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶや龍雄は京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促すも敗れ去り米沢にて禁固の身となる。改元され明治2年(1869)、謹慎を解かれた龍雄は興譲館助教となるが2ヶ月で辞任して上京、新政府は龍雄を集議員議員に任じた。しかし新政府の内実は王朝時代の大宝令そのままに神祇官を官制の最高位と定め、官員に系図を提出させた。伊藤俊介が越智宿禰博文、山県狂介が藤原朝臣有朋、大隈八太郎が菅原朝臣重信となったのはこの時である。議員の多くも政府要人と繋がっており、龍雄は一たび議論に及べば徹底的に議論を闘わせたので周囲の忌避に遭い、ひと月足らずで追われる身になった。
一方、戊辰戦争で没落したり削封された主家から見離された敗残の人々が龍雄の許に集まるようになり、龍雄は明治3年(18702月、東京・芝の上行円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、特に脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出した。これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。これが政府転覆の陰謀とみなされ翌年4月謹慎を命ぜられる。米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され、同年12261871215)判決が下りたが、内容は生存者28名、牢死者22名、合計50名にも上る大獄であった。斬21名、遠流1011名、徒324名など実際に暴発した秋月神風連の乱などに比べれば比較にならぬ苛酷さであった。龍雄は判決2日後、小伝馬町の獄で斬首されたのち小塚原梟首され、その胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用されたという。龍雄を葬った政府は威信を保つためその真蹟をのち覆滅し、龍雄の郷里・米沢でもその名を口にすることは絶えて久しくタブーとされていたという。
墓は山形県米沢市城南5丁目1-23、常安寺にある。戒名:義雄院傑心常英居士。「雲井会」により命日に合わせ墓前で雲井祭が催され、その遺徳が偲ばれている。
逸話:
勉強棒:
友于堂に入学した龍雄はある日、学友の佐藤志郎の訪問を受けた。佐藤が勉強部屋に入ると、一尺程の棒があった。不思議に思って尋ねると龍雄は「これは勉強棒というものだ」と答えた。さらにその訳を佐藤が尋ねると「僕の頭のを見たまえ。夜勉強していて眠くなると、これで頭を殴るのだ。始めは水で顔を洗ったが駄目なので、薄荷を目蓋に付けてみた。すると目がヒリヒリして仕方がない。唐椒を舐めてみたら辛くて本を読むどころではなかった。この棒で殴るのが一番よい。この間秋左氏伝を読んだときもこれで殴りながら読んだのだよ」と言ったという。
本に化けた毛布代:
三計塾にいる頃、龍雄は息軒の命を受けて毛布を購入するため横浜の商館に赴いたがその資金で「万国公」を買ってしまい、しかも却って息軒からその正しさを激賞されたという。西洋の知識に憧れた龍雄と、これを容認し助長した進歩的な塾風を偲ばせる
清水の心:
4度にわたる嘆願書も奏功せず米沢藩で謹慎処分となった龍雄は知友・河村徳友宅で謹慎中に筆墨を揮うとき、1回ごとに2階から降りて庭の水を汲んだという。徳友の令孫の祖母が、2階の置き水を使ったらと勧めると龍雄は「筆墨は清らかな心で揮わなければならない。そのためには、きれいな水でなければならない」と言ったという。
後世への影響:
雲井龍雄の漢詩は、明治初期には広く読まれ、自由民権運動の志士たちに好まれた。
若き日の西田幾多郎も雲井龍雄の墓を訪れ、
去る二十日、雲井龍雄に天王寺(谷中の墓地)に謁し、その天地を動かす独立の精神を見て、感慕の情に堪えず、(中略)予、龍雄の苦学を見て慚愧に堪えず。然れども遅牛、尚千里の遠きに達す。学、之を一時に求むべからず。要は、進んで止まざるあるのみ。
と記している。(明治二十四年、山本良吉宛書簡)
幸徳秋水も、死刑執行を目前に控えた獄中で綴った未完の「死刑の前に」という一文の中で、
木内宗五も吉田松陰も雲井竜雄も、江藤新平赤井景韶富松正安も、死刑となった。
と記し、自らの運命を受けいれるために思い浮かべる先人の一人として、雲井の名を挙げている。
漢詩が徐々に一般的に読まれなくなった頃から、雲井の記憶は一般的には薄れていったようであるが、戦後においては藤沢周平が『雲奔る』という雲井龍雄を主人公とした中篇小説を描いている。

4.    女の面
飛騨高山の地役人(天領にいて幕府の派遣した郡代と共に藩政を担う地元出身の世襲の役人)の男が、飛騨小町といわれた美貌の娘を娶って、31女をもうける。妻は気が利いて申し分なかったが、家族の誰かを対象に極端な依存の癖がある
維新に高山県と変わり、水戸藩出身の若い県知事・梅村速水が派遣されてきて、身分に関係なく有能の士を取り上げるという
他方、維新で仕事も楽になって生活も豊かになると夢を吹き込まれた農民や山方衆は、一向に変わらないどころか却って苛刻になる生活に不満を募らせ、地役人に直訴する
男は、県知事と農民たちとの間に立って、何も出来ないまま、ついに我慢の限界に来て、農民たちに「生意気いうな、ただ働け!」と言ってしまったために、農民たちが結束して立ち上がり、県知事を狙撃、地役人たちの家を襲った(梅村騒動)
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梅村騒動とは、明治時代高山県(旧飛騨国、現岐阜県飛騨地方)で発生した、大規模な騒動。明治政府による急激な改革と、保守的な旧天領の人々との間で起きた事件。
経緯
梅村速水の知事就任と改革:
版籍奉還により1868(明治元年)、旧幕府天領であった飛騨国は飛騨県となる。すぐに名称は改称され、高山県となる。水戸藩士梅村速水は、27歳にして初代高山県知事に就任する。梅村は、孝子・節婦をほめ、生活に苦しむ者の救済方法として、高山県宮の富札を発行してその金利を厚生面に使おうとするなどの改革を進める。また、財政の安定のために、日用品まで専売制にした上、各種の商売を許可割にして運上金と称する税金を徴収したことから、県民の生活は苦しくなってくる。新しく郷兵を整えたことが火消しとの対立を招くこととなる。
旧天領であり、保守的な考えの強い県民と、梅村知事の急激な改革は、両者を対立を招くこととなる。梅村は神官僧侶を役所に集めて教諭方に任じ、各村々へ派遣して新しい政治に従うよう説得にあたらせ、事態の収拾に努めることとなる。
梅村騒動の発生:
1869229日、梅村の京都出張の留守を機に、米の売下げ問題がきっかけとなり住民が蜂起する。これが梅村騒動始まりとなる。高山一之町村など(現高山市)では打ちこわしが発生し、これが飛騨一帯に飛び火することとなり、人々は、教諭方に任ぜられた神官や僧侶を梅村の一味と考えて、それらの居宅を次々と襲いかかった。
梅村は、騒動が起きたことを京都で知り、すぐに飛騨に戻り鎮定しようとする、しかしすぐには入らず、一旦、飛騨萩原(現下呂市)で宿泊することとなる。これを知った群集は、その道すがら梅村に加担した人の家を壊しながら、梅村を襲うため、槍、銃、竹槍をもち武装して続々と萩原へ向かった。
310日、梅村は銃撃に遭い、肩を負傷する。身の危険を感じた梅村は、苗木県に逃げ延びる。群集は苗木県福岡村(現在の岐阜県中津川市福岡町)まで迫るが、福岡村の庄屋の説得や、苗木県兵との争いを避けるために、高山県に戻ったという。
梅村騒動のその後:
この事態を重く見た政府は、直ちに監察司を高山に派遣して沈静化させる。314日には梅村知事を罷免し、騒動の責任をとらせて収監させる。
翌年の1026日、梅村速水は判決未決のまま獄中にて病死する。
高山県は、1871(明治4年)、旧信濃国南部(伊那県飯田県高島県高遠県松本県名古屋県信濃国部分(尾張藩領)であった木曽郡)と筑摩県となる。さらに1876(明治9年)筑摩県の旧高山県の地域は旧岐阜県と合併、現在の岐阜県となる。

5.    猿芝居
船場の老舗の呉服商の息子が兵庫県庁に勤務
1887年英国汽船ノルマントン号が紀州熊野灘沖で難破・沈没、英国人船員39名だけが救出され、日本人乗客等28名が水没
不平等条約改正の交渉が纏まりかけた矢先の事故
和歌山の海難審判では埒が明かず、汽船の目的地だった神戸の兵庫県庁に捜査が任され、男が担当
汽船が貨物船で乗客を乗せるのは違法だったが、日本人ブローカーが低廉な船賃を売り物に切符を売っていたことも分かり、埃が両サイドに出て来た
日本人だけが死んだのは不自然に決まっているが、改正前の条約では日本に裁判権はなく、世論は弱腰の政府を突き上げる、政府は県知事に事実を捏造しても英国に有利な事実を探り出して猿芝居をしろと迫る
男が、新聞記者が聞きかじった外国人が認めるという日本人の美徳(人に譲るとか死に及んで騒がずとか)を並べ立てた船長の弁明を創作したのが功を奏して、船長は軽い処罰で放免、遺族には賠償すらなかった
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ノルマントン号事件Normanton Incident)とは、18861024イギリス船籍の貨物船、マダムソン・ベル汽船会社所有のノルマントン号(Normanton、より英語に忠実な表記は「ノーマントン」)が、紀州沖(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬沖)で座礁沈没した事から始まった紛争事件である。
概要:
18861024午後8時ころ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破座礁沈没した(うち3人は凍死しており、上陸後に埋葬)その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人ドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護された。ところが日本人乗客25名はただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した。
1028松本鼎和歌山県知事からの電報で遭難事件のあらましを知った1次伊藤内閣外務大臣井上馨は、日本人乗客が全員死亡したことに不審をもち、その場の実況調査を命令した。
国内世論は、ドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に沸騰した。たとえば、『東京日日新聞』(1872創刊)は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣を記し、「西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている。また、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。
111、神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内管船法衙において海難審判をおこない、115、ツループは、ドレークの「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った(ノルマントン号は貨物船なので、日本語が話せる乗客向けのスタッフはいない)」という陳述を認めて、船長以下全員に無罪判決を下した。
条約改正時期尚早派のフランス人ジョルジュ・ビゴーがノルマントン号事件でのイギリスの対応を翌年のフランス船メンザレ号遭難事件を利用して批判した。ボート上のドレーク船長が「いま何ドル持っているか。早く言え。タイム・イズ・マネーだ」と言っている
この判決を知って日本国民は悲憤慷慨した。『東京日日新聞』は「いかに日本人は無知だといえ、危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをかりることを知らないほどの白痴瘋癲であるはずがない」と紙面で抗議した。全国各地から遺族への義捐金が寄せられ、新聞各紙はいっそう硬化して、連日、悲しみの論説と弾劾の記事を掲げた。高名な法学者たちもドレーク船長の告訴をとなえ、在野の政客は各地に演説会をひらいてイギリスの横暴と非人道を責め、民衆に国権回復をうったえた。
社交場鹿鳴館での舞踏会をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上外相も沸騰する国内世論を黙止することができず、1113内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させた。告訴は翌14日におこなわれた。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場をうつした。128在日横浜英国領事館判事のニコラス・ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処したが、死者への賠償金は支払われなかった。
影響:
大同団結運動:
ノルマントン号事件は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになった。この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派によってさかんに取り上げられ、井上外交を「媚態外交」「弱腰外交」と批判し、外交の刷新、条約改正(不平等条約撤廃)を要求する動きがさらに強まった。
演劇・歌・出版物:
事件後、この事件を演劇として興行しようとする者がおり、人心の再燃を懸念した政府はこれを中止させた。
また、事件直後に『英船ノルマントン号沈没事件審判始末』が出版され、翌1887(明治20年)には『英国汽船諾曼頓号裁判記録』が刊行された。

「ノルマントン号沈没の歌」:

事件直後「ノルマントン号沈没の歌」という歌が無名作家により作られ、ひろく国民に流行した。当初は36節の歌詞であったが、事件解決後に補足され59節におよんだ。曲は軍歌「抜刀隊」の旋律が用いられた。
事件の経過がよくわかるこの歌は、戦後も春日八郎によって歌われている。
水難救済会:
1889、水難救助のボランティア組織大日本帝国水難救済会発足のきっかけとなった。

6.    道理
かつて京都見廻組(旗本・御家人の中から腕の立つものを集め、京を跋扈する不逞の輩を取り締まるために組織された一隊)にいたは、鳥羽伏見の戦いで幕軍に加わり、更に会津戦争にも参加、傷ついて匿われている間に維新となり、そのまま会津で私塾を開く
1881年 福島県令に三島通庸が着任、道路の開設を命じ、県民に工事の夫役か代夫賃を課す。維新後の県令はみな善政を敷いたので、県内は自由な民権思想が隆盛となり自由党の地盤となっていたが、三島はそれを一掃しようとした。さらに、道路敷設への国庫交付金が出ないと分かると地方税の増税を決め、議会の反対に対し内務卿から予算執行の許可を取って増税を強行
力には力で対抗しようとする人々に対し、相手にも道理がある以上、司法の場で決着をつけるよう持ちかけるが、裁判所に行こうとしたところで県令に逮捕され万策尽きて遂に暴動を起こす
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三島 通庸(みしま みちつね、1835626天保661 - 1888明治21年)1023)は、日本の武士薩摩藩士、内務官僚栄典正三位勲二等子爵通称は弥兵衛。
県令時代は、住民の反対を押し切り強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」や「鬼県令」の俗称で呼ばれた。
生い立ち:
薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。三島家は藩の指南役の家柄であったが、示現流を学ぶとともに伊地知正治から兵学を学んだ。寺田屋事件に関与して謹慎を命じられるが、のちに藩主島津忠義によって人馬奉行に抜擢され、鳥羽・伏見の戦いでは小荷駄隊を率いるなど活躍した。戊辰戦争後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭などをつとめた。のち、大久保利通の計らいによって新政府に出仕する。
維新政府では、東京府職員(参事)から教部省大丞)を皮切りに、酒田県山形県福島県栃木県の県令、内務省土木局長(県令と兼任)、警視総監等を歴任した。また、東京府にて銀座煉瓦街建設の大任を果たしている。1887、維新の功により子爵を授けられた。
山形県令:
1874に酒田県令に就任する。着任早々の課題は、ワッパ騒動と呼ばれる農民抗議への対策であった。これは、旧藩時代からの県令や官吏が、中央の布告を無視して旧藩時代同様の税と労役を課したことに対する農民の反抗であった。三島は官吏を全面的に更迭するとともに、農民に対しては弾圧で臨んだ。翌年、裁判により過納金を農民に返すことで騒動は決着した。
酒田県は18758月に鶴岡県になり、翌年には山形県・置賜と合併して山形県となった。三島は新たに鶴岡・山形県の県令に就任する。山形における政策の中心は、道路・橋梁整備と公共施設の建築であった。江戸時代までの山形地域は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。しかし明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。
1880に米沢、福島間に萬世大路(万世大路)こと栗子街道を、1882には山形、仙台間に関山街道を完成させた。この両道は、馬車が通行可能な規格で作られた。こうして山形県の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで奥州街道や鉄道による東京への輸送路が確立した結果、県経済は活況を呈した。三島は、他にも隣県に通じる車馬通行可能な道路をいくつも建設した。栗子山隧道(後の栗子トンネル)、関山隧道関山トンネル)等のトンネル工事、多数の橋梁工事が行われた。また、羽州街道須川に石造の常盤橋を作った。これらの道はのちに国道13国道48となり、トンネルや橋梁の代替わりやバイパス化を経ながらも、明治以降の物流の変化によく対応し、現在でも県内の主要道路であり続けているなど、交通インフラ整備には成果を上げている。
建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)・旧東村山郡役所・旧東田川郡役所、現存しないものでは山形県庁舎、鶴岡の朝暘学校などがある。これらは擬洋風建築で建てられたが、作業に従事した棟梁たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多数の擬洋風建築が存在することとなった。洋画家高橋由一は、これらの建築物や都市の景観を描いている。
三島は増税や労役賦課、寄付金強要を行なうなど、批判に対しては弾圧一辺倒であった。
福島県令:
1882自由民権運動を推進する自由党勢力が盛んな福島県に県令として着任して弾圧を開始した。越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道(会津三方道路)の建設を推進し、建設のための重税や労役を義務付け、また道路用地を収用するなど、県民への負担を強いた。道路は完成したものの、陸運の中心が鉄道に切り替わったために街道整備は時代遅れになっていたが、道路建設は自由党弾圧の口実になった。三島は帝政党を作って自由党との対決を激化させた。自由党の首領・河野広中は激発を戒めたが、ついに福島事件で逮捕・投獄された。
数々の弾圧:
栃木県令時代(1884)、自由党員が三島の暗殺を謀った加波山事件が起こった。このことからも、三島による弾圧がいかに自由民権運動にとって障害となっていたかを窺うことができる。
18871225三大事件建白運動大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例勅令によって公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。弾圧の対象人物に尾崎行雄片岡健吉中江兆民星亨などがいた。
那須野ヶ原の開墾:
地方の開墾に熱意を示し、栃木県那須野ヶ原の肇耕社(後の三島農場)を開設した。長男の彌太郎を社長、親交の深い部下14名を株主として入植者を募集して開墾に従事させた。現在の那須塩原市三島に別荘を構えた。当時の区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初の入植者の子孫が多い。近年設置された那須野が原博物館の敷地には、開墾に必須であった那須疏水も再現されている。
塩原御用邸の献上:
栃木県令時代の1884年、三島は塩原街道を開発整備し、同時に塩原に別荘を構えた。1902皇太子時代の大正天皇は初めて塩原を訪れ、三島別荘等に遊んで温泉や風光に感銘を受けられた。これを契機として1904、三島子爵家は別荘を献上して「塩原御用邸」となり、主に避暑のため愛用された。1948厚生省所管の厚生施設として下賜され、現在の跡地は国立塩原視力障害センターとして利用されており、旧御座所のみ移築されて「天皇の間記念公園」(栃木県有形文化)として公開されている。
警視庁武術の振興
1885、第5警視総監に就任した三島は武術を振興し、武術家を警視庁武術世話掛に採用した。三島が在任中に死去するまでの210か月間に警視庁の武術は大きく飛躍したことから、警視庁武術の功労者といわれている。
通庸の死
1888年夏、警視総監在任中の三島は病に倒れた。そして同年1023日、見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに見取られこの世を去った。在任中に死去したのは三島のみである。葬儀には12千名が参列し、青山墓地に埋葬された。入院から死の当日までの見舞い客、葬儀・1周忌の参列者まで一人ひとりの名前が記録されている。
家族・一族:
二女峰子は大久保の次男牧野伸顕に嫁いだ(牧野伸顕の娘雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は来孫にあたる)。長男彌太郎は第8日本銀行総裁、三男の弥彦1912開催のストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック代表選手として参加。孫の通陽は第4ボーイスカウト日本連盟総長を務めた。

7.    フレーヘードル
1873年の地租改正で、年貢が金納地税に変わり、結果的に税の高騰を招く
両親が亡くなり、犬飼に学ぶも志半ばで一人家業の農家を負わねばならなくなった男の話。幼少の頃から周囲の人々の鈍さに焦れていたのが、諦念を悟って自分の殻に籠る
同居する姑が、事あるごとに我が子たちに説いたのが、「人には、世で定められた身分とは異なる位(くらい)がある。世の決めた順序は大した意味を持たない。どういった心根で生きているか、作り物ではない品位を身につけているか、どんな志を持って、どのように日を送っているか、それがおのおのの位を決める」のだ、と
美作に起こった自由民権運動の「共之(きょうし)社」への参加を勧められるが断り続けていた折、1878年地方3法により地方分権・自治が進められるとの報に際し、国会開設懇請との千葉県在住の櫻井静の投書を目にして、この人こそお互いが分かり合えると接触、国会開設に向けてともに動き出す ⇒ 山陽3県への呼びかけの檄文を男が起稿
政府は、政治集会を禁止して対抗したが、81年に北海道開拓使官有払下げ事件で政商五代友厚との癒着が発覚して世間の非難を浴び、同時に国会開設の叫びも政府非難とともに拡大し、ついに国会開設の詔が降下、90年の開設が約束された
男は、櫻井とともに、私儀憲法案の大詰めの作業に精を出す
フレーヘードルは、自由の意。犬飼の私塾で学んだ蘭語

Internet
犬飼松窓(しょうそう、18161893) 江戸後期-明治時代儒者
農業
のかたわら,独学で荻生徂徠,伊藤東涯,中井履軒の説をまなぶ。東晋(とうしん)(中国)の陶淵明にならい,郷里を出ず私塾で多くの門弟を教えた。備中(岡山県)出身。名は博。字(あざな)は淵卿。通称は源三郎。著作に「孫子活説」など。
櫻井静 明治の先覚者の一人。20歳の時多古町から芝山町小池の櫻井家の養子となり、衆議院議員当選2回、海外移住殖民調査のため渡米、カナダを巡遊し、のち北海道に移住して造林開拓に従事。墓碑は、芝山町役場近くの芝山郵便局脇に位置、1980年芝山町の史跡に指定



ある男 木内昇著 歴史の脇役たちの悲喜劇を活写 
[日本経済新聞朝刊20121021日付
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 昔の記念写真などが掲載されるとき、著名人と著名人の間の何人かが「人おいて」とか「×人飛ばして」と書かれている。この連作小説集はいわば、おいたり飛ばしたりされた人たちが主人公の物語だ。
(文芸春秋・1600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(文芸春秋・1600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 7編の物語は、明治元年から19年ごろまでの日本各地が舞台になっている。新しい国家体制を強化するために、地方を締め上げようとする中央政府。ご一新への期待を裏切られ、中央への憤りをつのらせる人民。その狭間にいて思い悩んだり、賢く立ち回ったりした歴史の脇役たちがクローズアップされている。処女作で、新選組を一人一人の内面から描くという大胆な手法を試みた木内だが、この作品でも、男たちの内面の声に耳を傾けている。
 銅山の権利を奪った大蔵大輔(たいふ)井上馨に直訴した南部の金工(かなこ)(鉱山労働者)の話。不平士族を抑え込む秘策を大警視川路利良に提案する警察官の話。反政府決起の軍資金作りに巻き込まれた老細工物名人の話。中央政府から送り込まれた県知事と住民との間で悪戦苦闘する地役人の話。英国船沈没で日本人全員死亡の理由をねつ造する県役人の話。県令三島通庸への怒りで人びとが暴発しないように知恵を絞る元京都見廻(みまわり)組の男の話。国会開設に向けて奔走する岡山の俊才農民の話。
 一話一話は、ユーモラスだったり、ゾクッとしたり、スリリングな展開があったりと、物語を読む楽しさに充ち満ちている。しかし、「政治」に翻弄される男たちの悲喜劇を活写したこの小説集は、それだけでは終わらない。うかうかしていると読者は、最終話ラストのどんでん返しに不意打ちを食らってしまう。そして「政治」は一筋縄ではいかないことを、肝に銘じさせられるだろう。
 そして、もう一つ印象に残るのは、男たちが語る「民権」に加えられていない女たちの自在さである。梓弓(あずさゆみ)で占う妻、夫を無視する妻、いつも冷静な判断をする姑(しゅうとめ)、彼女たちのありようから、男たちの政治を打ち破る「何か」の胎動のようなものが感じられるのだ。
 「維新」という言葉がもてはやされる時代、明治維新を見直す意味でも、いま読まれるべき小説ではないだろうか。
(書評家 松田哲夫)


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