それをお金で買いますか 市場主義の限界  Michael J. Sandel  2012.11.15.


2012.11.15.  それをお金で買いますか 市場主義の限界
What Money Can’t Buy――The Moral Limits of Markets  2012

著者  Michael J. Sandel 1953年生。ハーバード大教授。ブランダイス大卒、オックスフォード大で博士号。専門は政治哲学。02~05大統領生命倫理評議会委員。80年代のリベラル=コミュニタリアン論争で脚光を浴びて以来、コミュニタリアニズムの代表的論者として知られる。類まれなる講義の名手としても著名で、中でもハーバード大学の学部科目「Justice(正義)」は、延べ14,000人を超す履修者数を記録、一般公開に踏み切る。日本でも2010年『ハーバード白熱教室』(12)として放映⇒同講義を自ら書籍化した『これからの「正義」の話をしよう』は世界各国でベストセラー

訳者 鬼澤忍 翻訳家。1963年生。成城大経済学部経営学科卒。埼玉大大学院文化科学研究科修士課程修了

同じコンビで、『11-04 これからの「正義」の話をしよう』参照

発行日           2012.5.10. 初版印刷                   5.15. 初版発行
発行所           早川書房

1980年にハーバードで教鞭を取り始めた直後から、学部生と大学院生を対象に、市場と道徳の関係を扱うクラスを教えながらこのテーマを研究。長年にわたり、ハーバード大ロースクールの「倫理学、経済学、法律」というゼミを担当し、法学生と政治理論、哲学、経済学、歴史学を学ぶ博士課程の学生を相手にしてきた

結局のところ市場の問題は、実は我々がいかにして共に生きたいかという問題なのだ
私たちは、あらゆるものが金で取引される時代に生きている。民間会社が戦争を請け負い、臓器が売買され、公共施設の命名権がオークションにかけられる。
市場の論理に照らせば、こうした取引に何も問題はない。売り手と買い手が合意の上で、双方がメリットを得ているからだ、だが、やはり何かがおかしい。
貧しい人が搾取されているという「公正さ」の問題? それもある。しかし、もっと大事な議論が欠けているのではないだろうか?
あるものが「商品」に変わる時、何か大事なものが失われることがある。これまで議論されてこなかった、その「何か」こそ、実は私たちがよりよい社会を築くうえで欠かせないものなのでは――?
私たちの生活と密接にかかわる、「市場主義」を巡る問題。この現代最重要テーマに、国民的ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』のサンデル教授が鋭く切り込む、待望の最新刊


序章    市場と道徳
Ø  市場勝利主義の時代
あらゆるものが売りに出されている
非暴力犯が清潔で静かな独房に入る権利 ⇒ サンタアナで182ドル
売買の論理が生活全体を支配するようになっている ⇒ そんな生き方をしたのかどうかを問うべき時が来ている
1980年代初頭にレーガンとサッチャーが、政府ではなく市場こそが繁栄と自由の鍵を握っているのだと自らの信念を公にした時から、今日の市場勝利主義の時代が始まり、さらに市場は公共善を実現する何よりの手段とされたが、08年の金融危機によってリスクを効率的に配分する市場の能力に疑問が提起され、市場が道徳から遊離したため両者を再び結びつける必要があるという意識が広まった
市場勝利主義の核心にある道徳的欠陥は強欲さだが、それ以上により決定的変化は、市場と市場価値が、それらが馴染まない生活領域へと拡大したこと
お金で買うべきではないものが存在するかどうかを問う必要がある

Ø  すべてが売り物
全てが売り物となる社会の弊害 ⇒ 不平等と腐敗・堕落
不平等 ⇒ お金で買えるものが増えるほど裕福であることが重要になし、貧富の差が拡大する
腐敗・堕落 ⇒ 生きていく上で大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまう恐れがある。本を読むたびに子供にお金を上げると、本を読むかもしれないが読書を通じた心の満足は得られなくなるかもしれない
あるものを売買しても構わないと判断するとき、商品という利益を得る道具として扱うのが妥当だと考えている
商品にするものの価値をどう測るべきかを決めなければならない ⇒ 道徳的・政治的な問題
現代の政治に欠けている重大な議論は、市場の役割と範囲に関わるもの
市場経済(生産活動を統制するための道具)は好ましいが、市場社会(人間の営みのあらゆる側面に市場価値が浸透している生活様式)になっては困る

Ø  市場の役割を考え直す ⇒ 2つの障碍
   市場的思考の力と威光 ⇒ 市場勝利主義の時代が終焉を迎えたにもかかわらず、市場への信頼は揺るぎを見せない
   政治的言説に見られる敵意と空虚さ ⇒ 政治における道徳的空白
我々が大切にする社会的善の価値を測る方法について公に考えることが、より健全な公共の生活を創出する上で必要
今日直面する道徳的・政治的難題はもっと幅広く身近なもの――すなわち、社会的慣行、人間関係、日常生活における市場の役割と範囲を考え直すことなのだ

第1章     行列に割り込む
Ø  ファストトラック ⇒ 英国航空のファーストクラス用チェックイン・サービス
空港のセキュリティチェックは、テロリストを飛行機から締め出すために平等に負担すべきなのか、待ち時間の問題だけなのか
遊園地の行列に割り込むことは道徳的に非難されていたが、今や割り込み公認を謳ったプレミアム付きのチケットが堂々と売られている

Ø  レクサスレーン
お金を払って渋滞の高速道路のエクスプレスレーンを走ることが出来るが、貧者を行列の後方に追いやるのは不公正だと主張 ⇒ 「レクサスレーン」と名付けた
経済学者にとって、財やサービスを入手するために長い行列を作るのは無駄で非効率であり、価格システムが需要と供給を調整しそこなった証拠だという

Ø  行列に並ぶ商売
劇場から、政府の公聴会、最高裁判所、あらゆるところに商売の機会がある

Ø  医者の予約の転売
北京の一流病院では、行列に並ぶ商売が日常的になっている ⇒ ダフ屋の横行

Ø  コンシェルジュドクター
高額の年間契約によって、かかりつけの医者を確保しておく ⇒ 96年シアトルで設立されたMD2の年会費は115千ドル

Ø  市場の論理
割り込みの是非を考えることによって、市場の論理の道徳的な力や道徳的な限界を垣間見ることが出来る
個人の自由を尊重するリバタリアンの考えでは、他人の権利を侵害しない限り何でも自由に売買できるというもの

Ø  市場vs行列
市場は支払い能力で選抜し、行列は自由時間の長短を基準に選択する

Ø  市場と腐敗
市場を支持する功利主義的議論に対して、より根本的な反論として、一部の財は個々の売り手や買い手に与える効用を超える価値を持つ場合がある ⇒ 市民に無料で公開される演劇が、並び屋によってチケット独占された場合、市の目的が腐敗する

Ø  ダフ行為のどこが悪い?
どんな財()で、それをどう評価すべきかによって、善し悪しが決まる ⇒ 必ずしも単純ではない
ヨセミテのキャンプ場の転売 ⇒ 5か月前から120ドルで予約できるが、取るのは容易でない。ダフ屋が出現して非難の対象に
ローマ教皇のミサを売りに出す ⇒ ベネディクト16世のアメリカでのスタジアムミサへの入場券がダフ屋で売られた際、教会の広報係が営利事業ではないと非難
ブルース・スプリングスティーンの市場 ⇒ 割安な価格設定がダフ行為を誘発。営利行為であっても、低価格の設定にはそれ以外のメッセージも込められている

Ø  行列の倫理
市場(お金を払うこと)と行列(待つこと)は、物事を分配する2つの異なる方法であり、それぞれ異なる活動に適している
他にも、能力に応じて分配される財(:入学試験)、必要に応じて分配される財(:救急治療室)、くじや運によって分配される財(:陪審義務)等、財の種類によって異なる


第2章     インセンティブ
Ø  不妊への現金
薬物中毒者(HIV感染者も同じ)が生む子供は生まれながらに薬物中毒で多くが虐待されたり育児放棄となるため、不妊手術と引き換えに300ドルを支給する慈善団体がある ⇒ 中毒者は貧困者が多いところから、300ドルの見返りはほぼ強制的不妊と同じであり、更に本来売りに出すべきものではないものが売買の対象になっているとして、道徳的な非難が強い

Ø  人生への経済学的アプローチ
経済学自体が、純粋な経済学的課題から、人間行動の科学へと大掛かりな学問になったため、人間の行動の全てにコスト・ベネフィット(福祉)の考えを導入しようとする

Ø  成績の良い子供にお金を払う
学業成績を上げるために学校が生徒に金銭的インセンティブを与えている。教師への金銭的インセンティブもある
ある研究では金額の多寡に関係ないという結果が出た ⇒ 学業成績と学校文化に対する姿勢を変えた結果だった

Ø  保健賄賂
金銭的インセンティブが蔓延している ⇒ 医療費の高騰を抑えるために患者に報奨金を払って薬を飲むことや予防接種を受けることを奨励しているが、それが道徳論争を生む ⇒ 怠慢な行動に報酬を与えるもので不公正だという議論や、不妊にお金を払うのと違って肉体的健康への適切な関心は自尊心の一部であり金で操られるべきものではないという議論がある

Ø  よこしまなインセンティブ
個人の意思決定の土台となる原理の中で、最も重要なものの一つが「人々はインセンティブに反応する」こと
金銭的なインセンティブが本質的なインセンティブを損なうことも考えられる ⇒ 市場(原理)は単なる道具だが無害ではなく、市場メカニズムとして始まったものが市場規範となってしまう
市場というのは単なるメカニズムではなく、ある規範を具体化している ⇒ 売り手と買い手で交換される財()を評価する一定の方法を前提として促進する
移民や難民を有料にすると、移民・難民自体の意味が変わってくる

Ø  罰金vs料金
保育所に迎えにくる親が遅れた場合、罰金を取ることにしたら、案に相違して遅れる親が増えた ⇒ 親が罰金を料金と見做して故意に遅れるようになったのは、お金を払えば遅れてもいいと考えるようになり、規範そのものが変わった証拠
罰金は道徳的非難(罰金が表す規範を守らないことに対する批判)を表すので、料金と違って支払った後でもなお非難が残る

Ø  217,000ドルのスピード違反切符
フィンランドでは、スピード違反に対し、違反者の収入に応じた罰金を科すことによって、料金だと思っている人を厳しく断罪している
ネヴァダ州で速度制限超の走行を認める権利を売って州財政を立て直そうと提案した議員がいたが、公衆の安全を脅かすものとして却下され、本人は落選

Ø  地下鉄の不正行為とビデオレンタル
罰金が妥当か料金が妥当かの判断は、それによって律しようとする規範次第
ビデオ店では、昔は延滞料を罰金と見做していたが、今では料金として扱っている

Ø  中国の一人っ子政策
政策に内在する規範が問題 ⇒ 罰金が料金に過ぎないとすれば、国家が下手な商売に携わっていることになる
罰金を料金と見做す人には別な形の制裁が必要 ⇒ 社会的地位や名声を剥奪する

Ø  取引可能な出産/汚染許可証
西側の国でも、人口抑制策の必要な場合には中国と似たような政策が取られる ⇒ 出産許可証を交付する制度。子供を贅沢品にしてしまうという不公正さの他に、子供の人身売買に繋がる道徳的な問題がある
温室効果ガスの排出制限についても同様のことが言える

Ø  カーボンオフセット
イギリスではBPが、個人の運転によって排出するCO2の量を計算し、それを相殺するために発展途上国のグリーンエネルギー・プロジェクトに寄附できるようなプランを提供している ⇒ それ以上に気候変動に対する責任はないと考える

Ø  お金を払ってサイを狩る
絶滅危惧動物の保護にしても同じことが言える ⇒ 撃ち殺す権利を売って、飼育のインセンティブにしたところ、生息数が増えたというが、それを是とするか非とするかはトロフィーハンティングの道徳的地位次第

Ø  お金を払ってセイウチを撃つ
カナダ政府が個体数の激減したセイウチ猟を禁止した際、例外的に認められたイヌイットがその捕獲する権利の一部を売りたいと言って政府にも認められた ⇒ 16000ドルで売却することにより貧しいイヌイットの経済的福祉が改善された
セイウチ猟は、「リストハンター」といって、単にアフリカのビッグファイブ(ヒョウ、ライオン、ゾウ、サイ、アフリカスイギュウ)や北極のグランドスラム(カリブー、ジャコウウシ、ホッキョクグマ、セイウチ)をすべて仕留めるのを目的とする人の対象になっているだけで、追跡のスリルも威圧感もない近寄ってただ殺すだけの行為

Ø  インセンティブと道徳的混乱
インセンティブは、経済学者が設計し、作り出し、世界に押し付ける介入策
動詞は incentivize で、最近使用例が急増
市場の範囲が、非市場的規範の律する生活領域に広がると、標準的な価格効果は失われてしまうことがある ⇒ ある活動に価格をつけることによって非市場的規範が締め出されないかどうかを知る必要がある

第3章     いかにして市場は道徳を締め出すか
Ø  お金で買えるもの、買えないもの
お金で買えないものの他にも、お金で買えるがそうすべきでないもの ⇒ 臓器移植

Ø  買われる謝罪や結婚式の乾杯の挨拶
謝罪や結婚式の乾杯の挨拶を買うことは出来るが、売買すればそれらの性格は変わり、価値は損なわれる

Ø  贈り物への反対論
市場の論理からすると、贈り物より現金を上げる方がよい
贈り物として受け取る品物の価値を、実際の価格より20%低く評価するという調査結果がある ⇒ 1ドル使う毎に20セントの経済的損失が起きている
親しい間柄で現金を渡すのは、気遣いの無さをお金で埋め合わせるようなもの
現金の贈り物が「野暮ったい贈り物」という汚名を着せられているが故に、敢えて無駄を承知で品物を選ぶ
90年頃から現金化の傾向が勢いを増した ⇒ ギフトカードが最も人気の高いプレゼントになった。札束に変わるのは時間の問題?

Ø  買われた名誉
友情や友情を支える社会的慣行は、一定の規範、態度、美徳から構成されているので、こうした慣行を商品化すれば、その規範(共感、寛容、気遣い、思い遣りなど)を追い出し、市場価値で置き換えることになる
ノーベル賞は買えないが、名誉学位になると微妙、大学入学許可についても表立って競売にかけることはないが高額の寄附の見返りで入学した者がいないとは言えない

Ø  市場に対する2つの異論 ⇒ 市場の道徳的限界の指摘
公正の観点からの異論 ⇒ 市場取引は常に完全に自由で自発的なものとは限らない
腐敗の観点からの異論 ⇒ ある種のものや行為を堕落させ、貶める。取引されるものの道徳的重要性に関わる問題

Ø  非市場的規範を締め出す
市場メカニズムが生活領域に入ってくると、逆効果にもなり得る
市場取引は、財()そのものの価値を変えることなく経済効率を高めるとされるが、売買されることによって財()の価値を損ねることがあり得る

Ø  核廃棄物処理場
核エネルギーに大きく依存するスイスで、小さな村が核廃棄物処理場建設の候補地となり、受け入れの是否を巡る住民投票を行ったところ、辛うじて過半数の賛成を得たが、平均月収を上回る補償金を毎年払うとなったら、受け入れ賛成が半減したという
受け入れ賛成の意志は公共心に基づくものであり、金銭の提供は賄賂と見做された
同じ金銭でも、公共財の形を取った補償(公園や図書館の建設等)であれば歓迎される

Ø  寄附の日と迎えの遅れ
癌の撲滅等の有意義な目的のための高校生による寄附集めの方法として、寄附の目的の重要性を説明した後、①無報酬のグループと②集めた寄附の1%をインセンティブとして受け取るグループと、③10%を受け取るグループに分けて寄附の額を競わせた ⇒ 最も多く集めたのは①、次いで僅差で③、②は①の2/3以下となった
やる気を引き出すためにインセンティブを利用するなら、たっぷり出すか全く払わないかどちらかということになるが、①と③では寄附集めという行為の性質が変わる

Ø  商品化効果
市場は、それが支配する財()や社会的慣行の性格を変えることを認識している
貧困者の法律相談に割引料金で応じることは断っても、無料なら応じるという

Ø  血液を売りに出す
市場が非市場的規範を締め出すことの例証として最も有名なのは献血の事例 ⇒ イギリスは輸血用血液をすべて無報酬の自発的な献血で調達するのに対し、アメリカでは一部献血、残りは商業的な血液バンクが概して貧しい人から買い取る血液で賄われている
血液の商品化の倫理的問題を指摘してアメリカのシステムを批判している

Ø  市場信仰を巡る2つの基本教義
ある活動の商品化はその活動を変えない ⇒ 取引によってお互いが利益を享受できるし、周囲に害を及ぼさないし、新しい市場の創造は個人に選択の幅を広げる。だが、血液の商品化は献血の意味を変え、利他精神からの献血という側面を弱めてしまう
倫理的行為は倹約が必要 ⇒ 利他精神や寛大さ等の道徳感情は使えば枯渇する。市場は利己心に依存しているため、供給に限界のある美徳を使わずに済むようにしてくれる。本当に必要な時のために道徳心を温存しておくために、市場の利己心を活用できる場合は極力市場で賄う方がいいという考え方

Ø  愛情の節約
愛や善意の容量は、使ったからといって減るものではない。実践することによって拡大する可能性すらある
社会的連帯や市民的美徳についても、同じことが言える
市場主導の社会の欠点の1つは、こうした美徳を衰弱させてしまうこと
公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある

第4章     生と死を扱う市場
Ø  用務員保険/死んだ農夫保険
80年代に企業が一般従業員にまで保険を掛けることが認められ、退職や解雇後も有効だった
9.11の同時多発テロの際も、遺族より企業に死亡保険金が支払われ問題となる
従業員を労働を提供する人々としてよりモノとしてみたり、商品先物取引の対象として扱う企業の態度が道徳的に許されるのか、また、企業が財やサービスの生産ではなく従業員の死亡に莫大な資金を投入することをなぜ税制によって奨励しなければならないのか

Ø  バイアティカル――命を賭けろ
バイアティカル(生命保険買取り産業)の登場 ⇒ エイズ等の末期疾患と認定された人々の生命保険の市場で、保険契約を割り引いて買取り残りの期間保険料を払う代わりに死亡保険金を受け取る。患者も一時金が手に入り残された短い人生を豊かに生きられる
人の死を商品化している点は、生命保険と同じだが、生命保険は契約者が長生きすることに賭けるのに対し、バイアティカルは死ぬことに賭けるため、道徳的に歪んだ行為との非難

Ø  デスプール(死亡賭博)
90年代にネットで人気を博したギャンブル ⇒ その年どの有名人が死ぬかを予想
Stiffs.com ⇒ 93年開始、96年からネットへ移行、15ドル払って年間に死亡する有名人のリストを提出、正確な予想をした人に3000ドル
88年クリント・イーストウッド主演の『ダーティハリー5』の原題は、The Death Pool
死亡率を取引することの不道徳さが非難の的だが、生命保険と対をなす邪悪な片割れともいえ、社会的善を為すことのない賭け

Ø  生命保険の道徳の簡単な歴史
保険がリスクを軽減する手段であるのに対し、ギャンブルはリスクを招き寄せるもの
歴史的に見ると、命に保険を掛けることとそれを賭けの対象にすることは似たようなものと見做され、多くの人が生命保険に対し道徳的な嫌悪感を抱き、殺人のインセンティブを生んだだけでなく、人間の命に市場価格をつける過ちも犯した。ヨーロッパ諸国では長い間生命保険は禁止、19世紀半ばまで生命保険会社は存在しなかった
海上保険の中心だったイギリスだけが例外で、船と船荷に保険を掛けるほか、他人の命や出来事に賭けるようになった ⇒ 保険とギャンブルの区別は曖昧で、保険業者が賭けの胴元のような活動をしていた
1765年 イギリスに連行された800人のドイツ難民が、食糧も住まいも与えられずにロンドン郊外に放置され、投機家は1週間以内に何人が死ぬか賭けた
1774年の生命保険法(別の名を賭博法)の制定で、生命保険を掛けられるのは、掛けられる人物について「被保険利益」を有する者に限るとされ、ギャンブルと峻別された
19世紀半ば以降、遺族を守るという目的を強調、金銭的価値よりも道徳的価値を宣伝して成長し始めたが、時を経るにつれ、投資手段として保険を売ることを恥じなくなった ⇒ 業界が拡大するに従い、生命保険の意味と目的が変わった。普通の商取引の一部となり、「被保険利益」の定義も拡大(用務員保険:前掲)
保険、投資、ギャンブルを隔てていた境界線はほぼ消えてしまった

Ø  テロの先物市場
03年 アメリカ国防総省の国防高等研究計画局が、次のテロ攻撃がどこで起きるかに賭けるウェブサイトを提案(メディアは「テロの先物市場」と呼んだ)、国家の安全を守るのに利用できる有益な情報をもたらすものと期待されたが、不幸な出来事への賭けを政府が主導するとして議会から猛反発を喰って撤回
先物市場は、しばしば世論調査や伝統的な情報収集法より優れた質の情報を提供したり、優れた予知能力を持っていることは実績が証明 ⇒ イラクの大量破壊兵器の存在を「絶対確実」と断言したCIA長官に対し、賭博サイトはずっと懐疑的だった

Ø  他人の命
寿命を延ばすエイズ薬は、バイアティカル業界にとっては呪いだった
業界は、新たに健康な高齢者から保険証券を買い取ることを考えた ⇒ 「ライフセトルメント」産業と自称
子供が成長し、配偶者も生活の心配がなくなって生命保険を不要と考えた契約者が対象となったが、投資家に対し故意に余命を短く説明した詐欺容疑で会社が倒産
生命保険の二次市場が一大ビジネスになり、大手の投資銀行が一斉に参入すると同時に、中には高齢者に巨額の保険に加入させその証券を投機家に転売する業者まで現れる ⇒ スピンライフ型保険と呼ばれた

Ø  死亡債
2009年 死の賭けの市場が証券化によって完成 ⇒ 投資銀行がライフセトルメントを買収し、パッケージ化して債券にした商品を機関投資家に販売

第5章     命名権
Ø  売られるサイン
80年代に入ってスポーツ選手のサインやゆかりの品が市場で扱われる商品と見做されるようになり、スター選手たちはそれぞれに応じた料金でサインを始め、料金はうなぎのぼりに、業者が金目当てにサインを迫ったり、仲介業者がサインを大量生産して販売するようになり、更には使用した用具のオークションまで行われた
野球に纏わる記念品を商品にする風潮は、ファンと野球の関係も、ファン同士の関係も変えた

Ø  名前は大事
球場の名前が売り物になったのも、野球選手がサインを売り始めたのと同じ頃
プロスポーツの球場の半数以上が企業名を冠しているし、その球場のプレーを放送するアナウンサーにも企業名を喋ることを義務付ける契約まである

Ø  スカイボックス
プロスポーツは市民的アイデンティティーの源であったが、同時にお金がコミュニティーを締め出してきた ⇒ 命名権と企業スポンサー契約がホームチームの応援体験を台無しにした。市民にとって象徴的な施設の名称を変えれば、その意味も変わってしまう。そこで育まれる社会の絆と市民感情も失われていくだろう
誰もが一緒になって応援していた時と違って、スカイボックス・スイートの登場によって富裕層や特権階級と庶民とが隔てられた
アメリカ最大の大学スタジアム(ビッグハウスの異名)のミシガン大学で、ラグジュアリー・スイート設置案が提案された時、あらゆる年齢と階層のファンが肩を並べてともに立ち上がり、ともに震え、ともに声援を送り、ともに勝ってきたと反対したが押し切られた

Ø  マネーボール
『マネーボール』は、金融界の発想を野球の話に持ち込んだ03年のベストセラー
市場の非効率性を利用して、弱小チームが強豪と渡り合う ⇒ 数量的手法とより効率的な価格決定のメカニズムの勝利だが、感動は呼ばなかった
市場の効率性を増すこと自体は美徳ではない。真の問題は、あれこれと市場メカニズムを導入することによって、野球の善が増すのか減じるのか

Ø  ここに広告をどうぞ
広告がお馴染みの媒体の枠を越えて、生活の隅々を占拠するに至った
小説家までが、企業と契約して小説の中で何回も企業名を連呼 ⇒ プロダクトプレイスメントの一種
05年 子供の教育費を捻出するために、ネットオークションで自分の額に宣伝のための永久的な刺青を入れると申し出て、オンラインカジノが1万ドルで話に乗り、ウェブサイトのアドレスを彫り込ませた

Ø  商業主義の何が悪いのか?
広告の氾濫に象徴されるここ20年の商業主義には独特の無分別振りが見て取れる。それは全てを売り物にする世界の象徴 ⇒ そうした世界の何が悪いのか
   強制と不公正 ⇒ 選択の自由の原則は容認するが、市場における選択のあらゆる事例が本当の自由意思によるものか疑問だとする
   腐敗と堕落 ⇒ 善き善という概念に暗に訴える。ある種の態度、慣行、善の堕落に関わる問題であり、道徳的な頽廃
01年 新生児の命名権がネットオークションにかけられたが、50万ドルの希望価格の応札がなかったために、両親は普通の名前(ゼイン)と命名 ⇒ 人格を貶めるとして非難
是非善悪を判断するためには、社会的慣行の意味と、それらが体現する善について論じなければならない ⇒ その慣行が商業化によって堕落するかどうかが問われる
広告自体は腐敗していなくても、社会全体の商業化を促してしまう場合もある ⇒ ばななにチキータのステッカーが貼ってあっても問題はないが、企業広告が貼ってあったら反発するのは、日常生活への商業広告の侵入であり、市場価値と商業感覚にますます支配される世界に嫌悪感を覚えるから
「自治体マーケティング」と呼ばれる公共の場における広告の氾濫は90年代以降よりひどくなり、商業主義を市民生活の中心へと持ち込む恐れがある

Ø  自治体マーケティング
コカコーラがハンティントンビーチの公式飲料となって飲料販売を独占したり、サンディエゴではペプシが同様の独占販売権を、ベライゾンが市の公式ワイヤレスパートナーとなったり、ニューヨークでもスナップルが5年間の公共施設での飲料販売の独占権を166百万ドルで獲得(ビッグアップルからビッグスナップルになったと揶揄)
歴史的名称も簡単に書き換えられてしまう
パトカーのラッピング広告は、市民の反発や反対運動があって、さすがに取り下げられたが、イギリスでは90年代に警察が年間予算の最大1%をスポンサー契約によって得る(売る?)ことが許可され、パトカーに企業名が入れられたし、アメリカでも06年にはバンパー用のステッカーの形で導入。消火栓に企業広告も描かれた
広告は、市民的権威と公共目的の中核をなす2種類の施設、刑務所と学校にまで侵入 ⇒ 刑務所では保釈のための保証業者や弁護士が広告を出し、学校では視聴覚用機器の納入と引き換えにコマーシャルを流させた
90年代以降、企業が学校に関わる度合いは劇的に増加 ⇒ 企業や商品を織り込んだ教材や企業のロゴ入り生活用品の提供、業界をスポンサーにした授業、校内施設の命名権(01年ニュージャージー州の小学校が最初に販売)
通知表に広告を載せ、成績優秀な子供に自社商品を提供するアイディアは地元住民の反対で潰れた
学校にはびこる商業化は、2つの面で腐敗を招く ⇒ 企業が提供する教材の大半は偏見と歪曲に溢れるし、校内の広告自体学校の目的と相容れない

Ø  スカイボックス化
広告をつけることによって、物事の意味が変わる ⇒ 変わることの価値をどう考えるか、何が正しい規範なのか
善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない
市場勝利主義の時代は、たまたま、公的言説全体が道徳と精神的実態を欠いた時期と重なった ⇒ 市場をその持ち場に留めておくための唯一の頼みの綱は、われわれが尊重する善と社会的慣行の意味について、公の場で率直に熟議すること
われわれ自身がどんな種類の社会に生きたいのかという、最も大きな問い
お金で買えるものが増えれば増えるほど、異なる職種や階層の人たちが互いに出会う機会は減り、懐の豊かな人とそうでない人がますますかけ離れた生活をすることを意味する ⇒ 日常生活のスカイボックス化
民主主義にとって好ましからざる傾向であり、市民が共通の生を分かち合うことが必要なのは間違いないし、大事なのは出自や社会的立場の異なる人たちが日常生活を送りながら出会い、ぶつかり合うことで、それが互いに折り合いをつけ、差異を受け入れることを学ぶ方法だし、共通善を尊ぶようになる方法だからだ



それをお金で買いますか マイケル・サンデル著 米社会の「公正」と「腐敗」考える
[日本経済新聞朝刊2012年6月24

 この世にはお金で買っていいものと、買ってはならないものがある、と私たちはなんとなく思っている。たしかに、赤ちゃんをお金で取引してはならない。しかし腎臓や卵子を売買することについてはどうだろうか。あるいは良い成績を取った生徒に、学校が報奨金を与えるのはどうだろうか。
(鬼澤忍訳、早川書房・2095円
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(鬼澤忍訳、早川書房・2095円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 実際、米国の一部の州では、卵子はすでに合法的に売買されているし、生徒への報奨金についても、すでにいくつかの学校で実施されている。サンデルは、主に米国でなされている「それをお金で買いますか!」という実例を数多く紹介して、その功罪を点検していくのである。
 本書で紹介されている、あらゆるものを売り物にしようとする米国社会の実態は、まことに驚くべきである。ユニバーサルスタジオでは、二倍の料金を払えば、アトラクションに並ばずとも行列の先頭に割り込むことができる。特別料金を払うと清潔な独房に入ることのできる刑務所もある。
 このような社会の趨勢に対して、サンデルは二つの点から疑義を差し挟む。ひとつは「公正」という観点からの疑問である。たとえば腎臓を売買してよいということになると、自発的な売買という美名のもとで、実際には、他の選択肢がない貧しい境遇の人たちが腎臓というかけがえのない人体の一部を奪われていくことになる。
 もうひとつは「腐敗」という観点からの疑問である。腎臓を売買することは、人間を予備部品の集まりとみなし、人間を物質化することによって、真に大切にすべき規範(生命観)をどこまでも腐敗させていくのだ。
 サンデルは、この「腐敗」という側面にもっと注目しなければならないと主張する。この世には、お金と引き替えにすることで、必然的にその本質が失われて腐敗していくようなものがたくさんある。そのような腐敗など取るに足らないものだとして、あらゆるものを市場に取り込もうとする社会に私たちは突入しようとしているが、その魔の手を食い止めるためには、冷徹な知性によって敵の本質を見定めておく必要があるとサンデルは熱く語るのである。
(大阪府立大学教授 森岡正博)

道徳的に正しいか、熟議の場へ
朝日新聞 2012.7.15.
 米ハーバード大学「白熱教室」のサンデル教授と言えば今や日本でもおなじみ。とびきりの講義の名手である。
 ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く今回の著作のテーマは「道徳」を締め出す「市場」。世の中にはお金で買えないもの、売り買いしてはいけないものがある。にもかかわらず、ほぼあらゆるものが売買される。それでいいのかというのが著者の問いだ。
 売買が妥当かどうか怪しいと思われる事例が、これでもかとばかりに示される。米国の一部の刑務所では囚人が82ドルを払うと一晩きれいで静かな独房に入れる。カナダでは約6千ドルで北極地方のセイウチを撃つ権利が買える。
 米国ダラスの成績不振校で本を1冊読む児童に2ドル払う制度は、低学力児の成績向上には役立つかもしれない。だが読書が金稼ぎ手段となれば本を愛する心を腐敗させてしまう、と著者は挑発する。
 それぞれ正答が用意されているわけでもない。サンデルの「結論」や「提言」を期待すると、がっかりするかもしれない。彼の目的はあくまで「民主的な議論の技術を伝えること」なのだ。
 だとしても、この本には読む価値がある。事例を読み進んでいくと、自らの思考停止に気づき、これまで漫然と受け入れてきたさまざまな市場や取引が「道徳的に正しいのか」と考え直さずにはいられなくなるだろう。熟議を引き出す力は十分にある。
 たとえば、温室効果ガスを出す枠を売買する排出量取引。国連や欧州連合が導入し、環境派の人々や少なからぬメディアが「必要な市場」と信じ込んできた制度だ。
 サンデルはこれにも「温室効果ガスを排出する『罪』を相殺することは正しいのか」と道徳面からの疑問を呈す。反論を試みようと思う読者もいるかもしれない。それこそ、講義の名手の狙いどおり、ということになる。
    
鬼澤忍訳、早川書房・2200円/Michael J. Sandel 53年生まれ。ハーバード大学教授(政治哲学)。

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