パリ解放 1944―49  Antony Beevor & Artemis Cooper  2012.11.1.


2012.11.1.  パリ解放 1944―49
Paris  after the Liberation 1944-1949               1994, 2004

著者
Antony Beevor 1946年生まれ。ウィンチェスター・カレッジとサンドハースト陸軍学校で学び、軍事史学者ジョン・キーガンの薫陶を受ける。第11騎兵連隊将校としてイギリス、ドイツで軍務についたのち、75年小説Violent Brinkを発表。以後歴史ノンフィクションの世界的ベストセラー作家として活躍。ロンドン大客員教授。『スターリングラード――運命の攻囲戦1942-1943』でサミュエル・ジョンソン賞、ウルフソン歴史賞など、『ベルリン陥落1945』でロングマン歴史賞、『スペイン内戦――1936-1939』でラ・ヴァンガルディア・ノンフィクション賞等。夫人のArtemis Cooper共々フランス政府より芸術勲章シュヴァリエ章を授与されている
Artemis Cooper 1953年生まれ。小説家、ノンフィクション作家。父方の祖父が政治家・外交官で第2次大戦後初の駐仏イギリス大使ダフ・クーパー。祖母がヨーロッパ社交界の花形でイギリス一の美女とうたわれた女優ダイアナ・マナーズ(レディ・ダイアナ・クーパー)。本書ではダフ・クーパーの日記など未公開文書が資料として使用された

訳者 北村美和子 1953年生まれ。翻訳家

発行日           2012.8.15. 印刷               9.10.  発行
発行所           白水社

                2003.8.
国際的な組織が各国の利益や策謀を超越し得るという理想も完全に錯覚であることが証明された
最近のイラク武力介入を見ても、仏米関係は1944年時点から真の回復を見ていない
占領はほとんどすべてのフランス人にとって真の受難の時であり、それを体験していない者が過去を振り返って十把一絡げに道徳的判断を下すのは正しいことではない。とは言うものの、様々な困難は、精神的なものも肉体的なものも、解放後に多くの神話を芽吹かせたのであり、たしかに細かく検証する必要がある
1944.8.25.パリ解放の日に市庁舎のバルコニーに立って生涯最も感動的な演説をしたドゴールは、アメリカ、イギリスの助力には一言も触れていない。連合国の目から見れば、さもしく醜い歴史の書替えだが、彼のメッセージは心を奮い立たせ、国家の統一が存在しないところに挙国一致のイメージを創出し、痛ましく傷つけられた国家の自尊心を修復したのは間違いない。最も疎外されたと感じたのは、連合国ではなく、レジスタンス
フランスの共産主義者にとって、独ソ不可侵条約のような歴史上の汚点を隠すためにもレジスタンス伝説が必要不可欠だった ⇒ ロシアの記録文書では、最も強力でモスクワの統制を最も受けていたフランス共産党が条約締結の39年から47年までモスクワから実質的に無視されていたのは皮肉。40年の潰走後、スターリンはフランスを軽蔑しきっており、47年初秋冷戦が突然ギアを上げるまで明確な党方針のないまま右往左往していた
ペタン元帥とヴィシー政権の対独協力への非難についても、フランス大統領シラクが、「フランスは占領者の犯罪的狂気」に手を貸すことによって「取り返しの付かない何かを行った」と公式に認めるのに50年が必要だったように、後知恵的な見方を排除して、個人と共同体がそのときの状況をどう感じたか検証し直さなければならない
解放後の時代は、過去と現在の緊張関係を興味深い形で1つにまとめ上げた
「古きフランス」と反教会主義の左派との間の仏仏戦争、様々な知的伝統間の闘争、フランスとアメリカの愛憎関係を含めた旧世界と新世界の間の敵意、そのいくつかは現在でもなお私たちにとって大きな意味を持つ

第1部        ニ国物語
第1章        元帥と将軍
1940.5. ドイツがフランス侵攻
1940.6. 英仏会談で闘いの継続を主張するチャーチルによってイギリスの支援を拒否されたフランスは、ドイツへの単独降伏に決定。政府はボルドーに退却した後、84歳のペタンがレノーに代わって新たに首相に指名。49歳の陸軍最年少准将でレノーに戦争省次官に抜擢されたドゴールは徹底抗戦を主張(1次大戦の2年前陸軍学校卒業の時、ペタン連隊配属を希望)、イギリスへの亡命を決意、チャーチルが支援

第2章        対独協力への道と抵抗運動(レジスタンス)への道
40.6.21. 第1次大戦の休戦協定が署名されたのと同じコンピエーニュの森でヒトラーがフランス降服を劇的に演出した ⇒ 占領されていないフランその地域が決められ(中部と大西洋岸を除く南部)、ペタン元帥の新政府はヴィシーを本拠地とし、ラヴァルが初代首相に就任。自らの国と艦隊を保持、被占領地域を保護する権利を保障されたと信じ、過去6年間の出来事を無視してヒトラーを約束を守る男として扱う
ペタンが対独協力を約束(ナチスのために自分自身を取り締まることを約束)したため、ドイツは僅か3万の兵力(パリ警察の2倍弱)でフランス全土の秩序維持が可能になった
ドイツに督促される前から、ユダヤ人用の特殊な身分証明書を導入し、国勢調査を規定したり、ユダヤ人問題担当相を設置したり、フランスが好き放題にユダヤ人資産を接収することを許したり、42.7.16.にはパリにおける大規模な一斉検挙で子供4千を含む13千人のユダヤ人を逮捕し有蓋の冬期競輪場に移送
パリよりもヴィシーの方が遥かに閉鎖的で、道徳律は厳格、自前の政治警察まで持った
ミリス(国民親独義勇軍)が、監視と摘発を強化
ドゴールは、ロンドン到着の翌日、チャーチルと情報大臣で親仏家のダフ・クーパーの支援で、BBCを通じて「我がもとに参集せよ」とフランス国民に呼びかける ⇒ 聞いた人は少なかったが、噂が広まった
ドゴールが、チャーチルの承認と支援を得て、組織を固める
ドヴァヴラン(通称パッシー)大佐 ⇒ ドゴール派の情報機関BCRAのトップ
パレフスキ ⇒ モロッコで頭角を現した青年参謀で、ドゴールの信頼厚い官房長に
対独協力と同様に、フランス国内のレジスタンスは関わりの度合いも様々なら、形も多様
その1つ、共産党は独ソ不可侵条約のためすっかり方向を見失いドイツのフランス侵攻の際もどう対応すべきかわからなかった ⇒ それが原因で、ヒトラーがソ連に侵攻した時は安堵したものの、既にヴィシー政権に協力した者も多数あって、仲間同士の殺し合いとなって多くのレジスタンスの闘志も殺された(犠牲者は75千とも言われた)

第3章        国内のレジスタンスとロンドンの男たち
42年末のスターリングラードの戦いで枢軸国の不敗神話が崩壊し戦局が劇的に変化
次いで、連合軍がアルジェリアとモロッコに上陸
ドイツ軍の仏南部地域侵攻は、ヒトラーとヴィシー政権の合意の根拠を打ち崩し、ペタンの対独協力の大義名分が完全に崩壊。ペタンは多くの人々の信頼と尊敬を一気に失う
ヴィシー軍は解体され、多くの士官と兵士がレジスタンスに加わる
レジスタンスは既にその内部に特筆すべき政治的社会的混合を抱え込んでいたが、解放の予測が近づくにつれ戦後秩序の政治的意味合いを強めるため主要運動組織はその思想をより明確にしていった ⇒ ドゴールは政治意識と党活動に強い反感を持つ。解放時の権力闘争は争乱や内戦に繋がり兼ねず、フランスに対する英米による軍制を押し付ける口実を与え兼ねなかった。ルーズベルトもドゴールの独裁への野心を懸念して半身の構え
42.9. 〈闘争〉〈解放(王党派に近い)〉〈義勇遊撃隊(共産党の軍事組織FTP)〉の戦闘員が合流して秘密軍を結成、ドゴールも再構築された正規軍の枠内にレジスタンスを組み入れるためには必要不可欠と見て祝福
43.5. 全国抵抗評議会CNRが結成され、ドゴールを指導者として承認
43.5. 米英参加のもとアルジェに国民解放フランス委員会が結成され、ドゴール支持の憲法が決められたが、共産党が合法化された ⇒ レジスタンス内における共産党の重要性を認め、共産党が来るべき政府の指導者にドゴールを承認するための道筋をつけた
この時、初めてヴィシー政権(とペタン)の元主要人物が捕えられ裁判にかけられて死刑
44.6. Dデイの3日前にアルジェの国民解放フランス委員会は、フランス共和国臨時政府を宣言 ⇒ ドゴールはDデイに引き続いて40年以来初めて祖国の土を踏み歓迎を受ける

第4章        パリ先陣争い
ドゴールにとって、フランスの首都解放の栄誉に値する部隊はただ1つ、「第2DB」と呼ばれたフランス軍第2機甲師団、指揮官はフィリップ・ド・オートロック、戦時名ルクレール将軍だったが、連合軍はパリに167㎞と迫ったところでドイツ軍を追走するパットン支援に的を絞って、パリ解放への動きを止める
820日には共産党主導によるパリ蜂起開始
すぐにパリに進撃しないと虐殺と市の破壊につながりかねないとの情報にアイゼンハワーが方針を変更、23日に進撃再開
ランブイエで奇妙な不正規兵の一団に出会う ⇒ リーダーはヘミングウェイ
2421:30 第1陣がドイツ軍の抵抗を迂回して市庁舎到着
25日 警視庁にてレジスタンス立会いのもと降伏文書に調印 ⇒ フランス国内軍FFIのパリ司令官ロル=タンギ大佐とルクレールが署名
2520:00過ぎ ドゴールが市庁舎で感動的な演説 ⇒ 自らの手で、人民の手で、そして全フランス、闘うフランス、真のフランス、永遠のフランスの助けを借りて解放されたパリ ⇒ 共和国宣言の要請を断ったのがレジスタンス指導者たちを冷酷に無視したと言われることになる
シモーヌ・ド・ボーヴォワールが昼間「博愛の放蕩」と呼んだものは、日暮れ後ただの「放蕩」になり、その夜1人で眠らなければならなかった兵士はほとんどいない

第5章        解放されたパリ
歴史的建造物の被害がこれほど限定的で済んだのは信じられない幸運 ⇒ グラン・パレは骨組みだけにされたが、他の主要な建物は全て修復可能
26日 重砲射程内のル・ブルジェにドイツ軍がいたり、ヴィシー配下のミリス民兵はコルティッツ将軍の戦闘停止命令の対象外であったにもかかわらず、解放軍を見ようとパリ中心部に巨大な群衆が集まる ⇒ ドゴールが凱旋門で40.6.以来ドイツ軍によって消された無名戦士の墓に「追悼の灯」を灯した後シャンゼリゼをコンコルド広場に向かって歩く

第6章        亡命への道
連合軍のノルマンディ突破後、レジスタンスの報復を免れない者たちの脱出騒ぎが始まる
ペタンは、ヒトラーから亡命政府の首都に指定された国境の小さな城下町ジグマリンゲンに到着
イギリスにも、例外的に裏切り者がいて、解放時に裁判にかけられ絞首刑となる

第7章        戦争ツーリストと《リッツ》戦争
解放直後、アングロ=サクソンの連中があらゆる口実を使ってパリになだれ込んだ
《リッツ》で見物すべきものは、ヘミングウェイとマレーネ・ディートリヒ。2人は10年来の知己だが、一度も寝なかったと強調
戦争特派員の報道センターとして接収されたのがオペラ座近くのホテル《スクリーブ》で、ロバート・キャパやウィリアム・シャイラーらがいた。ジョージ・オーウェルがヘミングウェイを訪ねたのもこのホテル
連合軍将校は、パリで「非公式特権」とでも命名できるものの恩恵に浴した ⇒ 一流店でほとんどでタダ飯が許され、ペタン政権を支持していた「ジョッキークラブ」は来るべき数か月間の支援を期待して英米軍の上級将校多数に素早く会員章を与えた
ドイツ軍がパリに入った直後、マドレーヌ広場の地下のワインセラーを煉瓦で封鎖した《リュカ・カルトン》は相変わらず最高のビンテージ・ワインを提供して競争相手を羨ましがらせた
公共の場でのダンスの再開は短期間だった ⇒ 余りに多くの家庭が喪に服しているときに軽薄な活動は許せないというマスコミのキャンペーンによって、翌1月にはキャバレーとナイトクラブが閉鎖。「パリがパリであり続けるために!」との抗議も無駄で、ドイツ降伏の45.4.まで許されなかった ⇒ 最高級クラブは禁止令を無視したが、発令の翌晩警察が6軒を手入れして300人を検挙

第8章        野放しの粛正
北フランスで前進中の連合軍が町や村を解放するたびに「野放しの粛清」を発見
対独協力者やドイツ兵に身を売った女、レジスタンスを密告した者たちが剃髪刑やリンチ等の処刑に遭った。捜索を隠れ蓑にした略奪も横行
「よきドイツ人」もなければ、共産党にとっては「よきペタン主義者」自体が反逆罪(ヴィシーが処刑のために共産党員の人質を差し出したことへの報復)
レジスタンスはまた終戦を目前にした多くの駆け込みの転向者や、ひと稼ぎする好機と見た便宜主義者も惹きつけ、一部の正真正銘のレジスタンス活動家の過激な行動とともに活動全体の名を穢した ⇒ 対独協力者は、レジスタンス以上に熱心なレジスタンスを装うことで疑わしい記録を消し去ろうとした
占領中ドイツ軍と連携して仕事をしていたパリ警察は、今やお互いを攻撃し合っていた
コルトーも警察のベンチで33番過ごした後釈放されたが、多くの有名人が「パリ対独協力者名士会」会員であり、監獄に放り込まれた
解放前後の死者数とその死因の詳細は不明だが、45.8.のある週のみ爆発による死者が突出しているのは、コルティッツ将軍降伏時に発見されたドイツ軍の大量破壊用爆薬の一部が「人民の正義」のために使用された可能性は拭いきれない
革命時のヒステリーが抑制されたのは、裁判なしで人を処刑するのは間違いだという勇気を持って言った人々のお蔭 ⇒ 郊外では退役軍人がその役を果たした

第2部        国家、それはドゴールなり
第9章        臨時政府
粛清の最初の2,3か月、多くの地域では法も秩序も存在せず、臨時政府とレジスタンスの間の整理も出来ていなかった ⇒ フランス全土で最も混沌としていたのはトゥールーズ
9月半ば、ドゴールは解放後における自分の権威を確立するために地方都市巡行を開始、トゥールーズを自分とレジスタンスの最後の対決の場と見做し、イギリス軍将校に率いられた共産党軍は完全に無視され、不正規軍の存在を否定し、過去の要素の上に再建しようという決意を新たに示した
9月第2週に臨時政府組閣
45.1.の寒波は過去最悪の1
食糧が最大の懸念 ⇒ 輸送体制が完全に崩壊
自動車をはじめ、対独協力企業に対する脅しがかけ始められ、航空産業と輸送業は国有化

第10章     外交団
ドゴールは、連合軍の指揮権に対して恨みを爆発させる ⇒ 連合軍も、パリ解放後2か月にわたって臨時政府の承認を遅らせ続け、10.23.ようやく承認
外国の大使たちは社交的な集まりに忙殺され、絶望的な物資不足の中でさえ、料理がふんだんに振る舞われた
44.11. ドゴールは、英米が戦後処理についてのソ連側との話し合いに置いてきぼりにされまいと先手を打ってスターリンとの話し合いのためモスクワへ ⇒ ドゴールはその歴史認識故に、1914年ロシアがフランスを救ったことを決して忘れず、伝統的な対独仏露同盟を復活させることを狙うと同時に、42.11.の「トーチ作戦」(連合軍のモロッコ・アルジェリアへの上陸作戦)で疎外されたルーズベルトとチャーチルに対する恨みを忘れず、2人への均衡勢力としてスターリンとの同盟を望んでいたが、一方でスターリンの誠実さを驚くほど簡単に信じたがったチャーチルやイーデンに較べれば、スターリンに対して遥かに小さな幻想しか抱いていなかった
スターリンはフランス人を軽蔑 ⇒ 西側でのナチスと資本主義国家の間の消耗戦が長引くことを期待したのに、40年のフランス陥落によりその期待はあっさり覆されたばかりか、ペタンの休戦協定によって、フランス軍までが対ソ戦へ向けられたため、43年のテヘラン会談でスターリンは、「フランスはドイツとの犯罪的な協力関係について代償を払うべき」とまで言い放った。同時にフランス国内で共産党が問題を起こすとアメリカが供給を断つだけでなく、ドイツとの単独講和や、ソ連に対する軍事同盟さえも結ぶ口実を与えかねないのを恐れていた
44.12. 仏ソ条約締結
45.2. ヤルタ会談に招かれなかったのを最大の侮辱ととったドゴールだが、ヨーロッパが大陸からただ1人の代表も出さないまま形造られたというフランスの恨みは理解できる
赤軍が唖然とするような速度でドイツに迫った時には、さすがのフランスの感情もいくらか変化し、アメリカ合衆国の友情を大いに必要としていることを認めた

第11章     解放した者と解放された者
終戦後もMP(アメリカ軍憲兵)がパリの交通を遮断して、アメリカ大使館に向かう車両に優先権を与えるのが普通だった
闇市の横行と、為替管理と輸入税を免除された米軍人による物資の横流しで市場は大混乱
フランスを怒らせた原因でより大きかったのは、アメリカはフランスよりドイツのほうが好きなのではないかという疑いであり、アメリカ人によればフランスでは文句と言い訳しか耳にしないがドイツでは赤軍の占領から救ったことを感謝してくれると主張した
ドゴールによる戦勝祝賀の軍事パレードも連合国にとっては苛立ちの原因 ⇒ 連合国の戦車を使い、ガソリン不足と言いながら連合国のガソリンで走っている
フランスの若者がアメリカのものなら何でも手当り次第夢中になって見えることを、多くの人が良くは思わなかった ⇒ アメリカはあまりにも多くのものを象徴していた! それはわが国の若者を刺激した。それはまた偉大なる神話――手を触れることのできない神話でもあった(ボーヴォワール)

第12章     砲列線上の作家・芸術家たち
連合軍のノルマンディ上陸とともに、対独協力を非難される可能性のある作家、俳優、美術家たちは留まるか逃げるかの決断に迫られていた
俳優で劇作家のサッシャ・ギトリ ⇒ スペイン大使からヴィザ発行の申し出を受けたが断る。世論調査では56%が処罰を望んでいたが、本人は自分の人気を信じて楽観的だったため逮捕された
ドリュ・ラ・ロシェル ⇒ 右翼の宣伝文に署名していたが、運命が自分を待つのはパリだと感じて留まったが、レジスタンスに死を宣告され、解放後に自殺
アルフレッド・ファブル=リュス
舞台芸術の世界は、ドイツが演劇界を保護したために、戦後非難の対象とされた
アルレッティ ⇒ ドイツ人を愛人としてリッツで暮らしていたこともあり、粛清の明確なターゲット。フランスが飢えているときにリッツで食事をしていたことが非難の対象
ガブリエル・ココ・シャネル(当時60) ⇒ パリで最も成功した服飾店の創設者にまでのし上がったが、43年のコートダジュールの午餐会で、「フランスはそれに相応しいものを手にしただけ!」と言い放ち、ユダヤ人のそっぽを向かれる。アルレッティ同様ドイツ人の愛人とリッツで暮らす。解放時の保険としてGIにシャネル5番を何百本も配ったと言われるが、リッツでの逮捕時に助けに来たアメリカ兵は1人もいなかった ⇒ すぐに釈放され、フランスを離れる
ジャン・コクトー ⇒ 前衛作家、同性愛者として占領中にファシストから受けた侮辱と攻撃を大袈裟に言い立て、ドイツ大使館のサロンに顔を出していたことを帳消しにしようとした
造形芸術で対独協力者と見做されたのは、42年のブレッカー主催のナチス承認彫刻展の参加者 ⇒ 彫刻家マイヨールがテープカット。ミロ、ピカソの「頽廃芸術」が公開破壊されたことには沈黙
画家に対する制裁は穏やかで、美術学校は画家たちにそれぞれの罰として国家のために大作を製作するよう勧めたが、ヴラマンクのように身を隠した人もいる
映画監督やスターがドイツ軍統制下のコンチネンタル社で仕事をしていたが、クルーゾー監督のように戦後国内で仕事を禁じられた時にハリウッドに逃げた人もいる
作家の粛清は、150名のブラックリストという形で公表された ⇒ モーリヤックが不公平な粛清に対するキャンペーンをはり、カミュ他多くの敵を作る
ファシスト編集者のロベール・ブラジャックの裁判が知識人粛清の頂点になり、モーリヤックとポール・ヴァレリーが擁護の意見を出したが、「ユダヤ人全体と別れなければならない」との発言が命取りとなってわずか20分で死刑判決、助命嘆願もドゴールを動かすことは出来ず処刑
粛清の対象が共産党批判者にまで拡大し、スターリン主義を批判したアンドレ・ジッドやサルトルにまで及んだ
アンドレ・マルローは小説家と誇張症患者の両方の才能に恵まれていた。極東の文化と言語についての深い知識があると見せかけていたが、実際には東洋の骨董品売買のほうにより一所懸命だった。スペイン内戦とレジスタンスのどちらについても自分が果たした役割を大きく誇張して申立て、レジスタンス活動に対する最も威信のある勲章をすべて受賞、イギリスもヴィクトリア勲章に次ぐ2番目のランクの殊勲賞を贈る。この説得力のある移り気な男は青春時代は共産党シンパだったが、40年代半ばからは積極的なドゴール主義者となり、ドゴールの最も身近な側近の仲間入りした ⇒ サルトルのようにさらに積極的に左派に移った者たちの共感を失い、4年後2人の作家の対立が一気に噴き出す

第13章     帰還
パリ市民がその帰還を生涯忘れなかったのは、1945年春にドイツから帰ってきた「抑留者(デポルテ)」 ⇒ 絶滅収容所に送られたユダヤ人、強制収容所に送られたレジスタンス活動家、43年以降ヴィシー政府が強制労働に送り出した徴用者の3種を含む。40年敗戦時の戦争捕虜はイギリス人、オランダ人、ベルギー人と同じ扱いを受けた
アイゼンハワー将軍が恐るべき収容所の実態を取材するためにすべてのジャーナリストをドイツに連れて行こうとしたが、一般のフランス国民に収容所の情報は伏せられていたため、現実を想像した者はほとんどいなかった
82万のフランス人抑留者のうち、222千が死亡、フランス国籍ユダヤ人の1/4が落命
抑留者の姿は悲惨で、迎えに出た人々は衝撃を受けると同時に、抑留者も妻がよその男と逃げてしまったりしてもとの生活の変化に対応できないケースが続出した
自国民の難民とは別に、47か国10万人の難民の責任を負うことになる ⇒ 昔からパリは政治難民の天国
45.9. 王位を退いたウィンザー公爵夫妻も到着

第14章     大裁判
44.12. 悪名高きボニー=ラフォン団、別名「フランス人ゲシュタポ」12名の裁判に注目 ⇒ 服役中にドイツ軍に釈放された犯罪者で、ゲシュタポとドイツ軍情報部に情報を提供し続け、汚れ仕事の多くを引き受けた ⇒ 10名が銃殺刑
45.4. ペタン元帥に対する裁判がドイツにいる被告不在のまま始まる ⇒ ペタンはスイス経由でドイツ監視下から脱出、パリに収監
ドゴールは、ペタン裁判が証明すべきなのはヴィシーが非合法の政権であり、その中心的な犯罪はフランスの名誉を穢したことであると決めていた
主任検事は、第1次大戦でマタ・ハリをスパイ容疑で死刑判決にした男で、マタ・ハリの裁判は乱暴でもあり、また無能でもあった司法の失策だったが、ペタン裁判はマタ・ハリほど乱暴ではなかったものの無能の点ではそれに優ってさえいた ⇒ ペタンが受け入れた停戦の是非にまで議論が及んだため、不毛のやりとりとなっていたずらに時間がかかる
連合国に保護されたラヴァルとペタンが法廷で直接対決、殆ど即決でラヴァルは死刑、青酸カリで自殺しかけたが未遂に終わり、回復を待って銃殺刑に処せられた
四半世紀以上たった後、新しい世代がヴィシー時代の恥ずべき秘密を詳しく調べ始めた

第15章     新しさへの渇望
解放後、思想界は意見を表明したいという欲求を抑えきれず、特に若者は有頂天になった
解放後の興奮は、政略の衝突であるのと同時に、世代間の衝突でもあった

第16章     洪水のあと
解放後出来るだけ普通の生活に戻ろうとしたが、生活の不便と不快は果てしがないように思われた。止まっているライフラインは電話だけでなく、少なくとも一晩に2回は停電するのに備え絶えず蝋燭が必要
最上流階級の貴族もまた以前の風習を復活しようとしたが、戦時中の振る舞いによって付き合い方が変わった

第17章     政府内の共産主義者たち
45.5.8. 戦勝記念日 ⇒ コンコルド広場は人で膨れ上がり、夜になるとパリ中心の有名な歴史的建造物のほとんどは開戦以来初めて三色のライトで照らされた
共産主義者は、勝ち誇って、近い将来権力の座に就くことを確信していた ⇒ 国内最強の政治組織であり、多数の組織を掌握していたが、解放後多くは革命が起きることを期待していたため失望したこともあって、党員数は戦前を上回らなかった
共産党が社会党を吸収して労働者に対する指導力を独占しようと計ったが、赤軍の英雄的行為をプロパガンダの目玉として、最近帰還した捕虜と抑留者を味方に引き入れようとしたものの、彼等はドイツのソ連占領地域で目撃した強姦と略奪、殺人に震え上がって帰って来たばかりで、その目撃談が広まったために、そっぽを向かれるだけだった
スターリンは、戦後もフランスに関心を持たなかった

第18章     シャルル11世の退位
ドゴールも、強迫観念となっていたアメリカ嫌いや、経済問題に取り組むのを拒否していたために、産業家と自由業の信頼も失ない始めていた
シリアの半植民地争乱では、ドゴールが勝手に軍隊を動かしたことが、閣僚の反発を喰っただけでなくアメリカからも軍事支援の停止を言い渡され、イギリスとも関係が悪化
45.10. 憲法制定議会選挙と、新憲法に基づく国民投票実施 ⇒ 国民投票では、議会の権力は制限されるというドゴールの意見が2/3の賛成を集めて圧勝
議会選挙は、共産党159議席(戦前の3倍に)、社会党146、人民共和運動152 ⇒ 社会党は共産党からの合併の提案を拒否。女性に初の参政権
ドゴールは、政党体制の復活、殊に共産党の躍進(26%の支持率)を見て、立憲政府の仕組みをあからさまに嫌う
45.11. 憲法制定会議 ⇒ ドゴールを満場一致で政府首班=大統領に指名。共産党からの閣僚ポスト要求を拒否して一時混乱したが、4人を大臣にして妥協。アンドレ・マルローが情報大臣に就任
フランスの戦後史における最も決定的な展開の1つがジャン・モネによってもたらされた ⇒ 「欧州共同体の父」。開戦時に武器調達委員会に加わり、陥落後はチャーチルに採用されて、アメリカで同様の仕事に携わり、ルーズベルトのヴィクトリー・プランの中心的作成者となって軍用資材の圧倒的な生産高を達成。45年後半ドゴールに会ってフランスの近代化が必要と説き伏せ、ヨーロッパの産業大国にするプランを提出し閣議の承認を取り付ける ⇒ 鉄鋼生産を29年の最高レベルに引き上げることを目玉とし、国民の大多数が困窮の最中にある時に如何なものかという批判はあったが、47年のマーシャル・プランによって困窮救済に目処がついた時、すぐにも近代化に着手できたのはモネのお蔭
45.12.27. フラン切り下げ ⇒ 対ドル50から120フラン、対ポンド500から480
46.1. 憲法制定委員会が、第4共和制の大統領を国民議会に完全に依存させると決め、大統領は突然辞任 ⇒ 1830年退位したブルボン王朝の最後がシャルル10世だったので、同じシャルルのドゴールをシャルル11世と呼んだ
ドゴールの外交政策は始めから矛盾 ⇒ ドゴールは気質的には反アングロ=サクソンであり、フランスが大国として生き延びる唯一のチャンスはロシアとの密接な協調にあると信じている。その一方で、激しい反共主義者であり、最後には自分がアングロ=サクソンとソビエトとの橋渡しとして行動できると考えた

第3部        冷戦突入
第19章     影絵芝居
46.5. 国民投票で憲法草案否決 ⇒ 共産党が自らの信任を問う機会として捉えようとしたために反発を食らい敗退
共産党がストライキを企画しているというまことしやかな情報に、アメリカ軍がいつでもフランス全土に展開できるよう最高秘密指令が発せられた

第20章     政治と文学
46.6. 選挙の結果、人民共和運動が社会党、共産党に代わって第1党となり、ドゴールの外相だったビドーが首相に就任。ドゴールの政治舞台再登場への期待が高まる

第21章     外交の戦場
46.8.10. パリ和平会議
生まれかけの冷戦は、文壇生活にも影響 ⇒ カミュとサルトルの関係に亀裂

第22章     ファッションの世界
40.8. ドイツは、オート・クチュール(パリの高級注文服店の総称)組合会長に対し、フランスの大デザイナーとアトリエの13千の熟練工はベルリンに移送されると予告 ⇒ パリにあってこその産業であり、ドイツも移送は不可能と知ったが、ファッションの解体を通じてパリ破壊を考え、業界は製品の輸出を禁じられ、最高に厳格な服地の割り当ての対象となった ⇒ 多くの店が倒産したが、産業は死なず、配給券も制限されながら確固たる需要に支えられた。ドイツ人が買ったのは僅かだった
戦争中パリに代わって台頭著しかったアメリカのファッション業界に対抗するために、解放後のパリで考えられたのが45.3.ルーブル宮マルサン館で開催された業界を挙げての展示会で、忽ちのうちに昔の顧客を取り戻した
カジノは、戦時中はすべて閉鎖され、終戦後も回復用の資材の割り当てを拒否され復興が遅れていたが、フラン切り下げが外国人をフランスに呼び戻し、ファッション産業と並んで外貨獲得に大きく貢献
競馬は、裕福なフランス人を公の場で金とファッションの誇示に引っ張り込んだため、カジノよりも論争の的となる ⇒ 対独協力者の臭いが強かったので、馬主は身を守るのにも腐心
47.1. 第4共和制下の大統領選出 ⇒ 南西部出身の社会主義者オリオルで、生活を楽しむことを信条としていた
47.2.のパリコレは大盛況 ⇒ 社交界の重要人物たちに対する貧しい人々の激しい怒りにもかかわらず、ニュールックは大変な引き合いで、47年のファッション産業全輸出の75%を占めたし、海外で情け容赦なくコピーされた

第23章     二都物語
共産主義者はパリを、並列する異なる2都市とみていた ⇒ 贅沢で貴族的なパリと労働者階級のパリ。パリが高級住宅街と貧民街に分かれたのは、第2共和制のオスマン男爵の抜本的な区画整理によるところが大きい。中心街にあった人口過密のスラム街は強制退去により戦略的に設計された大通りが作られ、その両側は無制限の不動産投資のブームとなったが、パリの中心から下層階級を一掃したことが「階級意識を強力に増大させた」のは間違いない
パリ周辺の貧民街での生活は悲惨 ⇒ 生活物資がすべて闇取引の対象となったので、配給対象までが横流しされた
最大のスキャンダルは、ワインの供給が成人1人当たり月3リットルに過ぎなかったときに、食糧省がアルジェリアから輸入した大量のワインが姿を消した事件 ⇒ 遵法精神の持ち主は滅多にワインを目にしなかった時代で、ワインを扱う管理職40人全員が解雇され、首相経験者まで巻き込まれた
規則も、貧者のためと富者のため、英米人のためと3組もあったのが混乱に拍車をかける
闇レートは、対ドル250フラン、対ポンド1000フランにまで高騰
46年秋 娼家が非合法化 ⇒ 登録娼婦7千人が非合法になったばかりか、フランス文化への攻撃に等しかった
46年冬の寒さは20世紀最悪とも呼ばれ、多くの人にとって寒さの記憶が飢えの記憶より長く残る
イギリスでは配給システムが全体として効果的に適用されたが、システムの効率性がその後のイギリス経済の復興の歩みを遅らせた。一方、フランス経済は自由市場へと非公式の地滑りを続けたためにこれほど悲惨な窮乏を生み出したが、そのお蔭で1949年に商業活動を始動させるのに十分な量の外国の援助が到着した時、離陸するのにより良い位置に立つことになった

第24章     共産主義者に反撃する
ドゴールが徐々に政治の世界に戻りつつあり、46.10.国民投票で憲法草案が承認され第4共和制が発足したが、承認したのは全有権者の35%に過ぎなかったところから、将軍は自分自身の大衆運動を計画
46.11. 総選挙で共産党が第1(支持率29)となり、首相の座を要求したが、投票で敗退、大統領は社会党から首班指名
47.3. ダンケルク条約発効 ⇒ 仏英同盟。ドゴールが署名した仏ソ条約との釣り合いをとる意味合いがあったが、共産党は断固反対。直後の4か国外相会議でも、モロトフはこの条約をソ連を直接の目標にした一手と見做し、フランスのザール地方併合に突如反対し両国間は険悪に
イギリス経済の崩壊が、内戦の真っただ中にあったギリシャと、東北の国境線で絶えず侵入に脅かされていたトルコに対してイギリスの支援ができないことを意味し、アメリカとソ連の間に紛争のリスクが高まる ⇒ アメリカはトルーマン・ドクトリンを発表し、自由な諸国民が自分自身のやり方で自身の運命を切り開くことを支援すると声明
フランスでは、共産党員の潜入に対する「新たなレジスタンス」が始まる
政府も3党連立から共産党大臣を排斥

第25章     自らを実現していく予言
47.6. 合衆国国務長官マーシャルが、ハーバードでの名誉博士号受章のスピーチで、ヨーロッパ自らのイニシアティブのもと、合衆国は「飢餓、貧困、絶望、混沌」と戦うために大きな努力をする必要があると、後にマーシャル・プランと呼ばれるものの構想を発表
最も重要なのは、計画が赤軍の占領下にある国も含めてすべてのヨーロッパ諸国に広げることを明確にした点 ⇒ すぐに22か国が集まって協議、ソ連とその同盟国は欠席
ドイツの産業レベルを上げるために英米が合意(クレイ=ロバートソン協定)したことはフランスには最大のショックだったが、ドイツをアメリカの反ソ戦略の中心とする戦略には逆らえなかった
3次大戦が避けがたいという雰囲気が熟成

第26章     共和国、絶体絶命
47年夏から秋にかけてストや暴動が頻発、共産党はマーシャル・プランが効果を発揮する前に経済を崩壊させようと決意 ⇒ パリを解放したルクレール将軍が飛行機事故で死亡したのも、ルクレールがドゴールに権力掌握を進言したために誰かがガソリンに砂糖を混ぜたためとの噂が広まる
パリでは公共サービスにも支障が出て、市民生活に不安が広がる
政権が交代したが、新首相シューマンはロレーヌ出身で、第1次大戦ではドイツ軍に所属していたため、共産党からの攻撃に火が付いた
次第に共産党の過激路線への反発が強まり、12月にはストライキも終息

第27章     サン=ジェルマン=デ=プレ沸騰
カフェ・ライフが戻る ⇒ 中心は《ドゥ・マゴ》とサン=ジェルマン=デ=プレ大修道院の間の広場。周辺の小劇場も繁盛。カフェでは客同士が知り合い
アパルトマンに住むのはブルジョワで、若い知識人は荒れ果てたホテルで暮らし、ホテル室内は料理禁止だったので、サン=ジェルマン・ライフではビストロが重要
若者を象徴する顔と声はジュリエット・グレコという経験の浅い女優 ⇒ 皮肉にも歌手として成功したのは右岸のシャンゼリゼを入ったコリゼ街(上流社会対象)
1949年末にはサン=ジェルマン=デ=プレの最盛期も終わりを告げる

第28章     奇妙な三角形
48年は、マルクス=レーニン主義者の歴史的必然性の主張が難攻不落と思えるような形でフランスにも迫ってきた ⇒ フランス共産党は、ストライキの失敗の後再び地下に潜る
2月のプラハにおける政変が、他のヨーロッパ諸国政府の心を1つにさせた
3月ベルリンの連合軍管理理事会からソ連軍司令官ソコロフスキ将軍が歩み去り、6月に連合軍政府は存在を停止、ソ連によってベルリンが封鎖され米英仏のベルリン空輸開始

第29章     知識人の背任
共産党に対する忠誠心が戦後初めて大きく試されたのは48年春、フランスでレジスタンスに参加した共産党員にとっての英雄にしてロールモデルのチトー元帥が、一夜のうちに背信者と宣告され、共産主義者同盟もコミンフォルムから追放された時、チトーの処分を巡る議論でフランス共産党は数百名を除名
党を前にした一部知識人の平身低頭振りは風刺を越える場面を提供
東欧の公開裁判が始まると、フランス共産党はなお一層弁解の余地のない立場へと追い込まれていった ⇒ 44年訪米中に亡命したロシア人技師クラフチェンコが47年に回想録をパリで出版、初めてロシア人がソ連の強制的な集団農場化や迫害、飢饉について実態を暴いたものとして空前のベストセラーとなるが、仏共産党はアメリカ諜報機関の工作員が書いたものと見做し、侮辱的な記事を書いた記事をクラフチェンコは名誉棄損で訴える。裁判によって、ソ連が労働者の天国ではないことが明らかとなり、人々は最早恐れずに共産主義者をあからさまに批判するようになった
49年は、多くの共産党系知識人の間に疑いの波を巻き起こした1年 ⇒ 実存主義で世界を席巻したサルトルにとって、政治と芸術は不可分、ソ連を擁護することによってカミュの亀裂も広がる(52年に最終的な決裂を迎える)

第4部        新たな秩序
第30章     パリのアメリカ人
40年代末にパリで最も目についたアメリカ人は、外交官、軍人、マーシャル・プランの実働部隊
47年冬にパリに到着したアーサー・ミラーは、パリは戦争によって「終わった」と感じた
トルーマン・カポーティもその頃、初めて書いた長編小説『遠い声、遠い部屋』がサルトル・ボーヴォワール夫妻に嫌われながらも、同じホテルで過ごした
48年春以降3000名のマーシャル・プランの実働部隊がパリの新たな居住者となる ⇒ 商務長官で戦争中のモスクワ駐在アメリカ大使だったハリマンが経済協力局特別代表に任命され陣頭指揮を執る

第31章     観光客の襲来
49年夏から観光ブーム開始
《フォリ・ベルジェール》のグランドレヴューもジョセフィン・ベーカーのカムバックを得て再開、外国人に一番人気のショーとなる

第32章     パリは永遠にパリ
マーシャル・プランは人々が敢えて期待したよりも早く経済復興を勢いづけた
フランスの産業を新しく形作るためのモネ・プランが既に存在したために、アメリカの援助をより効果的に使った ⇒ 使用可能な資金の大きな部分を、優先順位に従って産業再生に割り振る
49年初めから、日常生活はより暮らしやすくなる ⇒ 年初のストライキ終了とともに、配給制が次々に廃止され、物価も安定し、インフレは減退、闇レートも解消に向かう
ベルリンの封鎖は解除
小麦の豊作も復興を後押し

第33章     反復性発熱
49年の経済復興で最初に損害を受けたのは共産党、次いで政治的無風状態の最初の犠牲者がドゴール主義のフランス国民連合 ⇒ ほとんどの内閣が短命で政権が不安定化したにもかかわらず、ドゴール支持派は衰退。46年の辞任後にドゴールが発した威厳ある「私は待つ」は、12年続くことになる
49年の政治的安定で最大の利益を得たのは経済計画 ⇒ 英仏をしっかり抱合せようとするハリマンの試みに憤慨して懐疑的になったイギリスをよそに、フランスはドイツに接近し欧州石炭鉄鋼共同体を設立、大陸におけるリーダーシップをとることに成功



パリ解放 1944―49 アントニー・ビーヴァー、アーテミス・クーパー著 戦後フランスの混乱期を描く 
日本経済新聞朝刊20121014日付 書評
フォームの終わり
 敵国の占領からの解放は、政治と社会の改革に対する過大な期待を、だが、その解放を望まない者には途方もない不安を抱かせる。
(北代美和子訳、白水社・4200円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(北代美和子訳、白水社・4200円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 第2次世界大戦末期の「パリ解放」も然りである。1944年6月、ノルマンディ強行上陸を決行した連合国軍は、市街戦を避けるためにパリ迂回作戦を立てた。8月19日、対独レジスタンスの武装蜂起。25日、「自由フランス」軍のルクレール将軍麾下の第2機甲師団のパリ突入。ドイツ軍司令官フォン・コルティッツ将軍の無条件降伏の受諾。翌26日、百万人以上ものパリ市民が街路を埋め尽くしたドゴールの凱旋パレード。この「自由フランス」軍の単独作戦は、ドゴールを評価しないアメリカによる軍政を拒否する決定的な要因となり、イギリス追従路線からの脱却を表明し、また、レジスタンスの主力を担ったフランス共産党の発言力を封じ込もうとするしたたかな作戦であった。
 本書によると、まさに20世紀フランス版「英雄叙事詩」といえる「パリ解放」後のフランス社会が、まず着手したのは、戦争緒戦以来の「仏・仏戦争」の決着をつけることであった。つまり、ヴィシー派への全国規模で爆発的に断行された「野放しの粛清」。具体的には1万数千人に及ぶとされている適正な裁判なしの処刑。ドイツ将兵の愛人だった女性の剃髪刑と市中の引き回し。共産党の背後に屹立していたソ連との対立。こうした権力闘争、さらには共産党と社会党の政権争いなどが、戦後の復興を遅らせてしまったのだ。
 だが、果たせるかな、フランスは対独協力国という烙印を押されることなく、連合国の一員として、ドイツ占領地域を割り当てられ、国連の安保常任理事国として返り咲いたのだった。
 本書は、これまで神格化されたドゴール像やレジスタンス伝説から一定の距離を置き、例えば、イギリス大使ダフ・クーパーをはじめ、在仏外交官やジャーナリスト、さらにサルトルやピカソなどの証言や未公開の私信を活用して、フランス戦後の混乱期をさまざまな人物模様を絡めて描いた歴史ノンフィクションの力作である。
(法政大学教授 川成洋)


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