世界史  William H. McNeill  2012.5.14.

2012.5.14. 世界史 上下
A World History  1999

著者  William H. McNeill 1917年ヴァンクーヴァ―生まれ。シカゴ大で歴史学、1947年コーネル大で博士号取得。以来長年にわたってシカゴ大で歴史学を教えた。同大名誉教授

訳者
増田義郎 1928年東京生まれ。東大文卒、専攻は文化人類学、イベリア及びイベロアメリカ文化史
佐々木昭夫 1933年東京生まれ。東大文卒、同大学院比較文学・比較文化。東北大名誉教授

発行日           2008.1.25. 初版発行         2012.4.10. 14刷発行
発行所           中央公論新社(中公文庫)  初出:『世界史』2001.10.中央公論新社

原本は、63年に全米出版賞を受賞した『西欧の興隆』に基づいて、1964年夏に書かれ、65年夏改訂、本文は1970年第2版で改訂され最後の部分が拡大、78年の第3版で小さな変更を追加。カーネギー財団から財政的援助を受ける
上巻:世界で40年余りにわたって読み続けられているマクニールの「世界史」最新完訳。人間の歴史の流れを大きく捉え、「極めて特色ある歴史上の問題」を独自の史観で鮮やかに描き出す。ユーラシアの文明誕生とそのひろがりから、紀元後1500年までの4大文明の伸展とその周縁部との相互干渉まで
下巻:世界の文明の流れをコンパクトにわかりやすくまとめた名著。人類の歴史を一貫した視座から眺め、その背景と脈絡を知ることで、歴史のダイナミズムを描き出す。西欧文明の興隆と変貌から、地球規模でのコスモポリタニズムまでを概説する。新しい歴史的出来事を加え改訂された最新版の完訳

4版への序文
30年以上も増刷され続けている本には、何かそれだけの価値がある
本書の2つの特徴
   単一の簡単な見方に立って書かれた、一貫した分かりやすい世界史の説明
   同じ種類の多くの教科書に比べて、きわめて短い ⇒ 最初からの至上命令
元々は、『世界史教材』(10巻、オックスフォード大学出版局)と組み合わせだった
1978年の第3版までは改訂されていないため、今回最後の章を書き改めた

序文 1978.6.
旧世界は4つの異なった大文明の伝統が共存、新世界では3つのみなるがゆえに、人間の歴史を一つの全体として概観することが可能。ただ、西欧文明なるものの歴史があるという点については意見の一致が見られるものの、世界史なるものに関しては統一的な基準はまだ出来上がっていない
本書をまとめる基本的な考え方は、いついかなる時代にあっても、世界の諸文化間の均衡は、人間が他に抜きんでて魅力的で強力な文明を作り上げるのに成功した時、その文明の中心から発する力によって攪乱される傾向があるということ ⇒ 世界史の各時代を見るには、まずそうした攪乱が起こった中心、またはいくつかの中心について研究し、次いで世界の他の民族が、文化活動の第1次的中心に起こった革新について学び取り経験したものに、どう反応ないしは反発したかを考察すればよいことになる
異なった文化間の地理的背景や接触の経路が、中心的な重要性を持つ

第I部         ユーラシア大文明の誕生とその成立―紀元前500年まで
人間の歴史における最初の注目すべき出来事は食料生産の発達 ⇒ 人口が飛躍的に増大し、文明発生の基礎が築かれた
狩猟採集が農耕牧畜に転換したのがいつから始まったのかは解明されていないが、最も重要な1つは紀元前85007000年の間に中東で起こり、そこからヨーロッパ、インド、中国、アフリカに広がる
人間の歴史における第2の画期的大事件は、発達した技術を持つ複合社会、いわゆる文明が発生したこと ⇒ 最初に発達したのはティグリス=ユーフラテス及びナイルの流域で、紀元前35003000年の間。インダスがそれに続く
特殊な地理的環境が必要 ⇒ 灌漑を施した土地に限られるため、流域の氾濫原に限定
それを降雨によって水を与えられる地方にまで押し広げたのは、「(すき)」の発明によるもので、農業生産の余剰が他の目的に振り当てられることになる
人間関係に於ける第4の大きな変化は、紀元前1700年直後の戦車戦術の確立で、中央アジアやウクライナの戦士部族で、ヨーロッパ全土と西アジア、インドを蹂躙、彼ら以外にも中国の黄河流域の農耕民族を征服した部族がいて、ヨーロッパ、インド、中国では先住農耕民との相互関係がもととなって3つの新たな文明のスタイルが誕生 ⇒ 3か所ともお互い対応しあっており、紀元前500年までにヨーロッパではギリシャに、インドでは北部に、中国では黄河中流域に、それぞれ地域的特徴を持った文明が発達した
3つに加えて中東文明の中心地では、エジプト、小アジア(トルコ)、北メソポタミアの3つの文明帝国が一旦蛮族に滅ぼされた後、アッシリア人次いでペルシャ人によって統一され、さらにこのコスモポリタンな文明に相応しい中東的な世界観がユダヤ人の間で結実し、紀元前86世紀の預言者たちの手で形作られたユダヤ人の宗教が、その生命力と説得力において、インドの仏教、中国の儒教、ギリシャ哲学などと共通のものを持っていた
こうして紀元前500年までに、ユーラシア文明が4つの型の中にはっきりと自己主張を打ち出し、世界史最初の本質的段階が終わる

ホモ・サピエンスが原人類の集団の間から出現したとき、人間の歴史は始まる
完全な人間の集団と、それ以前の人間に似た生物との間の大きな違いは、幼児期と少年期の長さにある ⇒ 人間形成に時間を要し、ものを学ぶ力が飛躍的に増大
いつどこで人類が形成されたのかは不明
人間の歴史の展開を促した生態学的変化は、北半球からの最後の大陸氷河の後退と表裏一体の関係にあった
紀元前85007000年に中東一帯で新しい人間生活のスタイルが確立 ⇒ 植物を栽培し、家畜を飼育して自分たちの自然環境を作り変え始めた。中心はメソポタミアで、先ず斧、鍬、鎌が発明、特に斧は石器 ⇒ 最古の文明の発生。ジェリコ(イェリコ)は一例だが、大規模に実現したのがティグリス=ユーフラテス下流の沖積平地にあるシュメルの国で、紀元前40003000年の間に文明が発生。冶金術、轆轤による土器製作、車付きの乗り物、帆船、壮大な建築物、犂、灌漑、距離や時間の測定の技術等々
神の存在 ⇒ 農耕との関係で目に見えない神々の存在が認められ、その意向を知る神官が威力を持つ
文字 ⇒ シュメルに起源をもつ神官たちが、話し言葉を記録できる方法を見つけ出したのが楔形(せっけい)文字 ⇔ 楔状(けつじょう)文字
軍事力と君主制 ⇒ シュメルの諸都市に発達

紀元前40001700年の間に、人間社会は2つの中心から発した波紋の広がりによって影響を受ける ⇒ 1つは中東式の新石器農耕の広がりであり、もう1つは農耕を軽蔑する遊牧民文化の広がりで、生活スタイルの分離によって人間社会の変化の幅が増大し、ユーラシア全体にわたっての社会の発展は急に歩を早めた
犂の発明(紀元前3000年頃)も、人間生活の構造を意味深く変化させ、多様性を与えた
エジプト文明 ⇒ 紀元前30002850年頃の上下エジプトの統一に始まるとされるが、そこには既にシュメル文明を自分たちなりに咀嚼して採り入れた痕跡がみられる
エジプトでは、ナイル流域特有の地理的条件(両側が不毛の砂漠地帯で外敵の侵入の危険がなかった)から、政治が中央集権化することを助け、一切のものが神である王、すなわちファラオの宮廷に集中したため、大ピラミッドも可能となった一方、格差を生んだ地方役人の反逆によって脆くも崩壊、中王国に分裂して、それぞれにエジプト文明を受け継いだ
インダス文明 ⇒ 文字の解読が出来ていないので未だに詳細はわからないが、ハラッパー(内陸地帯)とモヘンジョダロ(アラビア海に近い平原地帯)という統一性を持った2つの中心都市の存在が判明。シュメルとの接触が、刺激剤として作用した可能性が高い
メソポタミア文明(紀元前25001700) ⇒ 2つの重要な変化が起こる
    紀元前2000年の直後、シュメル語に代わって辺境の砂漠から来た少数民族によって話された種々のセム系の言葉が使われるようになる
    広大な領土の政治的帝国が統一性と安定性を達成 ⇒ この時代以後の政治システムにとって基本的な重要性を持つこととなる官僚制と法、市場の発達に依るところ大
文明の天水地帯への拡大 ⇒ 紀元前2000年直前に始まって19世紀にやっと完成
剰余食糧の生産が必須 ⇒ 征服と貿易によって社会構造に変化
別の重要な文明の伝播が海路で行われ、地中海と大西洋岸の人間の生活と文化を変化させた ⇒ 紀元前4000年ごろ住み着いたクレタ島のミノア文明は、初期海洋民文明の重要な例。エジプトとも交易があり、紀元前2100年にはミノス宮殿建設。マルタ島にも「
巨石」文明が出現、ヨーロッパの西端に拡大(紀元前30001700年の間)
東アジア ⇒ 黄河の中流地域にはかなり人口稠密な農民がいたし、東南アジアの大河の流域には中東とは違ったモンスーン農業が発達
アメリカ大陸 ⇒ ベーリング海峡経由で入り込んできた狩猟民の小集団が、紀元前8000年ごろまでに南北アメリカ全土に広まる

紀元前1700年直後からの300年間、文明社会は駿馬と戦車を持つ蛮族に蹂躙され、蛮族のうちミュケナイ人は新たにギリシャに、アーリア人はインドに独自の文明スタイルを築き始める。同時期中国でも同じ動きが起こり、殷王朝が始まる
紀元前1200年頃から鉄器時代に ⇒ 冶金技術は難しかったが鉱石は豊富。軍事的な意義に加えて、農耕の能率を飛躍的に上げる ⇒ 経済的分業という強味が中東社会階層の一番底まで徹底した時、文明は初めて完全に、そして確実に不滅のものとなった。人間人口の中のどんな重要部分ももはや交換と相互依存の網の目から外れて生きることがなくなったが、このことが鉄器時代の最大の成果。逆に、政治秩序は極めて不安定になる
騎馬の革命 ⇒ 鞍と鐙(あぶみ)の発明が騎馬の軍事活用を可能にした
ペルシャ帝国(紀元前559330) ⇒ 中東文明の中心となったが僅か200年足らずで、帝国西方僻地の半未開のマケドニアに滅ぼされる

中東文明の3つの重要な要素の発展
    帝国統治技術の発達 ⇒ 常備軍を背景として地域間の交易者と協力
    アルファベット文字の発明 ⇒ 共通言語の必要性が増大。鉄の採用に匹敵する重要性を持つ。発生の由来は不詳。紀元前1300年ごろまでの短期間に広く浸透
    倫理的一神論の出現 ⇒ 次第に大きさを増すコスモポリタンな時代に新しく表れてきた事実を神官が従来の信仰と学問では説明しきれなくなり、新しい啓示を求める動きが出た中で、ユダヤ人だけが元々古代オリエント社会の知的・宗教的発達が持っていた倫理的・超絶的一神論への傾きを論理的で明確な結論にまで一貫して推し進めた
ヘブライ史におけるエピソード ⇒ ヘブライ人の起源をメソポタミアの砂漠地帯で遊牧生活を送っていたアブラハムに求めることとエジプトへの隷属の間にモーセの宗教を承認し、ヤハウェ崇拝を妥協のない一神教に発展させた

インド文明(紀元前500年まで) ⇒ 紀元前1500年ごろのアーリア人によるインダス諸都市の破壊から安定期に入り、ギリシャ・中東と同じような変遷を経て、紀元前800年頃にはガンジス地方の中央集権化した大君主国が全土を制圧。紀元前500年ごろまでにカースト制度とインド宗教の重要な特徴が明確化し、インド文明は全体としてその永続的な性格と、特殊な色合いを帯びてきたと言える

ギリシャ文明(紀元前500年まで) ⇒ ギリシャ人は、政治組織を領土国家に作り上げることを他のあらゆる人間結合の原理に優るものとし、世界や人間を神秘主義的な光によってではなしに、自然の法則によって説明しようとしたところが、インドとの顕著な違い

中国文明の形成(紀元前500年まで) ⇒ 独立に発生した文明は、半乾燥地帯の黄土という独特の自然環境で、他地域とは違った形で紀元前2000年ごろから発展。西アジアからの影響がみられる
殷王朝(紀元前15251028)が西の辺境から来た周王朝(~前256)に征服され、中国文明がかなりの速度で地理的に広がりだした ⇒ 後の時代の中国と同じような地理的輪郭を明らかにしつつあった
同時に、中国はこの時代に歴史的な実体を形成、後世の中国文明を一貫する根底的な思想が初めて明確に表現されるようになった ⇒ 官僚制と儒教・道教

蛮族の世界の変化(紀元前1700500) ⇒ 4大文明の確立により周辺の未開人世界への影響は多様さを増したが、より遠隔地へはあまり重要な変化は及ぼさなかった
西地中海地方は、ギリシャ及び中東にとっても植民定着の舞台
ケルト語を話す諸部族が西ヨーロッパ全域に領土を拡張
中央アジアのステップ地帯出身の諸民族がヨーロッパを征服した時、社会の軍事化現象が見られ、その後のヨーロッパの発展の基本条件を形作った

第II部       諸文明間の平衡状態―紀元前500~後1500
紀元前500年ごろには、すでに旧大陸に生まれていた4つの独立した文明生活のスタイルは、おおむね同等の力を持ち、お互い干渉することもなく、2000年にわたって自律性を保ち続けていた ⇒ いくつかの衝撃を受けたことも事実
まずはギリシャ、次いでインドが、元の境界を超えて遠くへと広がったが、影響は一時的
イスラムの勃興と勢力進展のために世界のバランスが崩れそうな観を呈した
さらに、紀元1500年以降西ヨーロッパが地球上の居住可能な海岸線を探索し尽くした以後は文化的バランスを完全に破壊。ただ、西欧世界が他の主要な文明に対する圧倒的優位を確立するのは、近々1850年以降のことに過ぎない

ギリシャ文明の開化(紀元前500336) ⇒ 紀元前499年ギリシャの2都市がペルシャの支配に対抗して立ち上がり、50年かかって漸くペルシャを東に押し戻す
海上軍事行動を通じて実力と富を蓄えた諸都市で、社会階層の分化(=文明の代償)が進行、権力闘争が激化して内部の統合力が失われる
480年のクセルクセスによる戦禍から前431年のペロポネソス戦争勃発までの50年、特にアテナイが一種の黄金時代を現出 ⇒ この時代ほど時間的、空間的に集中され、その産出物の点で完璧の域に達した時代は他にない
演劇 ⇒ アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス等、悲劇に代表される
哲学 ⇒ ペリクレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表される
科学 ⇒ プラトンの幾何学や天文学、アリストテレスの物理学、ヒポクラテスの医学等
修辞学
歴史 ⇒ ヘロドトスの仕事から独立の学として始まったとされる
建築と彫刻 ⇒ パルテノンの彫刻を任されたフィディアスが最高の巨匠と言われる
338年 マケドニアによって制覇され、ギリシャの覇権は崩壊するが、アレクサンドロスの戦歴に伴い、古代ギリシャの文明はヘレニズム文明として周辺地域に浸透
英語のGreek(ギリシャ人)はローマ人の言語であり、ローマ人と出会う前のギリシャ人が与り知らぬ言葉。古代ギリシャ人が自分たち全体のことを呼ぶ場合にはHellenesの語を用い、ここから英語のHellenicは「古代ギリシャ人たちの」「古代ギリシャ人に属する」等の意味を持ち、Hellenismは彼等の文明を端的に示す語となる。他方、Hellenization(ギリシャ化)はいろいろな点で古代ギリシャ人の「ようになる」ことを意味し、Hellenisticの語は「ギリシャ人と同様ではあるが、完全に同一ではない」状態を意味する
ヘレビズム文化と中東文化の交流 ⇒ 宗教においては一部のユダヤ人を除き、両者の融合をもたらす新しい宗教が出現したり、天文学においてもヘレニズム天文学が中東の占星術への適用によってさらに確固たるものになったりしている

ローマの勃興 ⇒ 前265年ローマを盟主として全イタリアが統一、前202年にカルタゴを破り、前146にマケドニアとギリシャを征服、前30年にエジプトを征服、前27年アウグストス即位により帝制開始
ローマの成功は、数の多い頑健な農民の力によるところが大きい
ガリア、スペインへもヘレニズム文明をラテン的にアレンジして移植

キリスト教 ⇒ ギリシャと中東の文化交流が速度を早める後ろで、ユダヤ的及びギリシャ的要素を説得力ある教えと結びつけた信仰であるキリスト教が浸透し始めていた
福音書はギリシャ語で書かれていたが、根本的には世界と人間の本質についての中東的な見方を再確認したもので、キリスト信者の神と救済に対する関心、世界の急速な終焉への彼等の強烈な期待、これらはユダヤの源流に発する
キリスト教の浸透は、ヘレニズム文明の伸展力を失いつつある徴候だが、それまでにアジアやヨーロッパの諸民族は彼等にとって価値あると思われたヘレニズム文明の諸相を取り入れ、自分たちのものにしていた

アジア ⇒ ヘレニズム文明の伝播はインドにおいて顕著、さらに最初の真に強力な遊牧民の連合体が出現した大草原に沿って民族移動が起こり、文明化した民族の大部分の間に親密で持続的な交流関係が確立したことは、重要な交通路の交差する地域の諸民族を刺戟して異常なほどの創造性を発揮させるようになった。特に宗教の分野で顕著

インド ⇒ 前327年アレクサンドロスのインダス河流域侵入を契機に、ペルシャとヘレニズムから多くのものを取り入れたマウリア帝国がアショーカ王の下で繁栄
中国統一 ⇒ 前221年秦の始皇帝によって統一された後、ステップ地帯の諸民族の大変動が始まる。中国によって外蒙古へと追いやられた諸部族が核となって匈奴と呼ばれる蛮族の連合体が形成され、西方へと勢力を伸ばす
中東から南部インドへ、モンスーンを利用して海路交流が始まる
中国、インド、中東の交流が活発化しても、各文明が根本的な変化を示すようなことは起こらなかったが、唯一変化が見られたのが新興の大都市で広まった宗教
ヒンズー教 ⇒ 南部インドで広まった二主神信仰が秩序と組織を整える
大乗仏教 ⇒ 北西インドで発展した、菩薩という、神性を備えてはいるが人間の姿をした救い主の存在を導入した改革で成功
キリスト教 ⇒ ローマ帝国のギリシャ語を話す諸地域(東地中海)
三者三様ではあるが、時代精神を映した一定の類似性が見られる ⇒ 多くの人々が救済の約束を喜び迎え、未来への希望を強調し、失望と困苦にめげず生きていく勇気を与えた。信仰を同じくする者が少数でも集まれば仲間意識が芽生え、少なからず困苦と孤独への慰めを与えられ、それまでの宗教には見られなかった都会生活の要請によく応えるものだった。不正と困苦は文明生活と切り離せないから、このような信仰が現れたおかげで文明は、それなくしては考えられないほど、長い生命を容易に保つことが出来たのだ
疫病 ⇒ 文明の交流が病原菌の撹拌ももたらし、特にローマと漢両帝国の衰亡の重要な要因となった

インド文明の繁栄と拡大(100600) ⇒ ローマと漢の衰亡を傍目に、インドと中東(ササン朝ペルシャ)の文明は、新たな優雅と洗練と宗教的な高みとに達した
320年にガンジス下流で覇権を唱えたチャンドラ=グプタによる帝国はヒンズー教を庇護、宮廷、寺院に加えて学校でもサンスクリット学を復活させて様々な専門分野で華々しい発展を遂げた ⇒ 特に文学(2大叙事詩:マハーバーラタ、ラーマーヤナ)と言語学の業績に真髄が見られる
ヘレニズム文明をインドにもたらしたのはインドの商人や伝道師だったが、インド文化は何ら競うべき先住文化を持たない東南アジア地域に接しており、それらの地域では能力の許す限りインド文明を取り入れようとした ⇒ 東南アジアでは仏教徒が重要な役割を演じ中国と韓国、日本を飲み込んだ

蛮族の侵入と文明世界の反応(200600) ⇒ フン族(372年南ロシアに出現、453年アッティラの死により消滅)や、トルコ(572年に東西に分裂)
中国 ⇒ 589年隋が近隣を制圧して全国土を再統一。官僚的な政体を作り上げるとともに、揚子江と黄河を結ぶ運河を完成させ、経済発展に寄与、帝国の組織化が進む
ローマ帝国の弱体化 ⇒ コンスタンティヌス帝(在位306337)は、キリスト教を国教と定めたほか、ビザンティウムに第2の首都を建設、通商上・防衛上の地の利を得てローマ帝国(ビザンティン帝国とも呼ぶ)1204年までの存続に貢献

イスラムの勃興 ⇒ 633年アラブ軍がシリアとパレスティナのローマ(ビザンティン)軍を破り、メソポタミアとエジプトも平定してイスラムによる新帝国を作り上げ、651年までにはイランも併合。予言者マホメッド(632年歿)に下った新しい天の啓示が人々の熱情を呼び起こし、異常な勝利の源となった。さらに驚くべきことは、マホメッドの与えた宗教的確信のために、粗野なアラブの征服者とその後裔が、中東地方が文明そのものの発生期以来受け継いできた多種多様の、時には矛盾する諸要素を融合して、新しいそして明確にイスラム的な1つの文明を作り上げることができたという事実
マホメッドは早く死んだが、彼の言葉や行為を辿って「コーラン」が作られ、ウラマーというイスラム教神学に精通した学者集団が政治的、軍事的指導権とは別個に宗教的権威を持つようになり、精緻な律法の体系を作り上げる
信仰とは別に、占星術や医術の分野ではギリシャやインドの文化も採り入れられたし、化学の分野でも化学反応を通じて多くの化合物の分類に成功、数学的光学(レンズの進化)においても優れた進歩を見せた

日本 ⇒ 朝鮮と共に固有の言語を保持し、それぞれが接触する文明の中心地で支配的な宗教とは別の宗教を取り入れることによって、中国に対抗するとともに、彼ら独自の文化的な個性を保った。朝鮮は仏教を国教と定め、中国が845年に仏教を禁止した後も仏教に強く固執。日本は6001000年の間に仏教や儒教を含め輸入し得る中国文化のあらゆる要素を受け入れたが、その時示された外国の文物に対する日本人の精力的な熱狂性は、それ以後何度か繰り返され、そのたびに日本の歴史は急激な転換を見せたが、これは他には見られない日本史だけの特徴。日本の宮廷生活の繊細な感受性は紫式部の『源氏物語』に見事に表現されているが、真に日本の文化的独自性を培ったのは、1000年以降顕著となる各地の領主の遥かに粗野な生活形式だった

中国 ⇒ 隋に続いて唐(618907)、宋(9601279)と王朝は変わり、中央政府が強力だったのは755年まで、以後は蛮族の攻撃に悩まされ続けたが、中央権力の衰退とは関係なく経済的な発展は進行、ウィグルやアラブの商人によって盛んに貿易が行われた
宗教的には、儒者によって仏教が排除されたが、文化的には仏教の貢献するところ大
イスラムによる軍事的な直接の影響はない

インド ⇒ 715年までにイスラム教徒が北西部を征服されたが、インドの民衆的な文化は、何であろうと外国種らしいものはすべて排除したため、文化的な影響は少ない。またその過程でインド人の生活の中で秘められていたもの、私的なものの多くが初めて文字によって記録された

ヨーロッパ ⇒ 3度にわたる蛮族の侵入の間に短い安定期がある
    378450年 フン族の移動の煽りでゴートなどのゲルマン民族によるローマ占領のあと、フランク王国の統一やローマ帝国統治再建によって束の間の文明化された統治による安定期
    ユスティニアヌス帝の死(565)後に南ロシアから侵入してきたアヴァール族がバルカンをスラブ語圏に変えてしまう ⇒ 新たに出来た蛮族による2つの国家ブルガリア(679年以降、865年キリスト教に改宗)とカロリンが帝国(687年以降、800年にシャルルマーニュが「ローマ人の皇帝」として冠を受け西方のローマ帝国となる)と、アラブ軍を小アジアで撃退したビザンティン帝国(東方のローマ帝国)との均衡が生み出した安定期
    896年 マジャール人がカルパティア山脈を越えるとともに、地中海では北アフリカのイスラム系諸国がビザンティン海軍を全滅させて海賊的襲撃を繰り返すようになり、さらには北欧を拠点とする海賊ヴァイキングの暴挙も繰り返される厄災となった
ヨーロッパで立場が根本的に逆転したのは1000年頃のこと。イタリアの水軍が成長してイスラム教徒と対等に戦えるようになったことと、ロシア(989)、ハンガリー(1000)、北欧3(8311000)がキリスト教に改宗したのが契機。改宗は、いずれも野心的な王の決断によるもので、野蛮な家来への教育効果を期待してのことだった
ヨーロッパの社会制度、封建制が発展し、蛮族たちの国家を凌駕する力をつけて行った
新たに現れ始めた社会組織に一層の力と幅を与えたのが、重い大型の犂とヨーロッパ北部海域における通商の発展 ⇒ 前者は農耕が経済的な支えとなって強力な騎士団を生み出すことを可能としたし、後者は海賊たちに通商の利を知らしめた
文学や芸術の面では暗黒時代 ⇒ アイルランドとブリテン島には、目を見張るような大きな文化的繁栄が見られ、独立した文明的生活様式となる可能性があったものの、ヴァイキングの破壊にあって消滅

要約
イスラム教徒や蛮族の圧力の影響を最も受けたのはヨーロッパ。基礎的な諸制度を変え、種々の技術を改革したが、それが未来における目覚しい発展の原動力となったことは間違いないが、当時は他の3文明に比べて明らかに遅れを取っていて、新しい活動は紀元1000年を過ぎてようやく始まる
中国は、一時的に仏教全盛となるが、再興され豊かにされた古代の儒教の伝統に戻った
インドは、より深い影響を受けたが、土着の宗教の中に引きこもることで凌いだ

トルコ人の浸透 ⇒ ステップの中央部の全域に住んでいたトルコ語を話す諸部族が、イスラム教も採り入れ、900年頃までには力の弱ってきたイランの領主を駆逐、さらにはキリスト教世界に対しても赫々たる勝利を挙げる

モンゴルの制覇 ⇒ チンギス・ハン(支配は120627)がステップ諸部族を広範な軍事的連合体として大モンゴルの基礎を築く。中国では、同化されるのを恐れてラマ教を優先させたりした結果、反発を買って明王朝の出現を早めたため、モンゴルの支配はわずか1世紀半しか続かず、中国の長大な歴史の上では単なる1つのエピソードでしかない。他方西方でもイスラムに改宗したばかりか、トルコ人社会に同化してしまったため飲み込まれてしまった

オスマン帝国 ⇒ 小アジア北西の辺境の1小公国に過ぎなかったオスマンが、宗教的功績と英雄的な暴力行為という2つを同時に可能にするキリスト教国に対する侵略の旗の下に全土を糾合。1354年ダーダネルス海峡をわたってヨーロッパに最初の足場を確保、1389年セルビア人を破ってバルカンの軍事的優位を確立、1453年コンスタンチノープルを占領、帝国の首都に定めたとき、ビザンティン帝国が完全に消えた

インド―ヒンズー教の変化 ⇒ イスラム教徒のインド征服は、ヒンズー教に重大な影響を与えた。カーストと偶像崇拝を否定したため、インドの民衆に受け入れられず、両者融合を唱える者もあらわれたが成功には程遠く、ヒンズーが民衆により近づいた分延命が保証されたとも言える

ギリシャ正教のキリスト教世界 ⇒ 1054年教皇首位権を巡り双方がお互いを破門することによりラテン(ローマ・カトリック)とギリシャ(正教)2つのキリスト教が分裂

中国―伝統の勝利 ⇒ モンゴルの影響がほとんどなかった中国では、儒教が宋代後期の哲学者朱子によって最高の発展段階に達し、18世紀以後西ヨーロッパを変容させたのと酷似の変化が11,2世紀の中国で起こっていた。コークスを燃料とする製鉄産業が起こり、大規模な海外通商を展開。火薬、印刷術、羅針盤という大変な可能性を秘めた3つの発明も西欧に先立って実現したが、政府の管理統制下におかれ、現存する社会秩序を強化する目的だけに使われた
中国の文化と諸制度は、あまりに高い内的完成度と均衡を得てしまったので、中国の学問伝統の担い手たちには表面的、一時的な印象以上のものを与えることが出来なかった

中世ヨーロッパ(10001500) ⇒ ラテン・キリスト教圏(ビザンティン人やイスラム人は「フランク人」と呼んだ)の境界線があらゆる方向に向かって地理的に拡大。十字軍の成功に加えて、スペインも南端近くまで奪い返し、北アフリカやエジプトにも海外帝国が作られる。同時に内部でも大きな統合が行われた
経済的強化 ⇒ 14世紀半ばまでに開墾や耕地の拡大が終了、成長も鈍化。ヨーロッパの商業の際立った特色は大衆用の未加工商品が大きな重要性を持っていたこと(毛織物、鉄)
政治的統合 ⇒ 各地の王が勝手に権利を主張していた時代から、教皇が唯一の権利を主張する時代を経て、教皇の権威が失墜する ⇒ 代表議会政治制度の発展。交易や商業と同様政治も民衆的
文化的統合 ⇒ 1200年頃まで、アラビア、ビザンティンの文化的伝統の中で関心をそそられるものを貪欲に吸収するとともに、大胆で精力的な創造に注力したため、若々しい輝きを持った(13世紀の総合)。アラビア語からラテン語への組織的な翻訳を開始、百科事典的な知識の膨大な文献がラテン世界の相続財産となった

日本 ⇒ 宮廷文化は消え失せはしなかったが、日本社会の北への拡大の先頭に立った辺境の豪族たちは宮廷文化とは別個にサムライ独特の文化を発達させた
1300年以降、第3の要素として社会に台頭したのが町人と船乗り。中国から造船技術を習得、漁業が重要な産業となるとともに、1430年代に中国が海から手を引くと、日本人が俄かに南西太平洋全面にわたって海上支配権を引き継ぎ、日本人の海寇が中国沿岸から金目の略奪品を母港に持ち帰ったことで、都市生活の萌芽が見られ、商人と戦士の間に広範な交流が行われ、好戦的で独立心の強い中産階級が生まれた
宗教においても、中国の手本から独立して独自のものを作る ⇒ 禅仏教はサムライの理想と結びついて、独自の様式を備えた
1500年までに、日本の社会と文化は、その複雑さと強靭さと極度の洗練性において、旧大陸の他の文明社会に伍して劣らないものになっていたが、新しい民族に拡大していくことはなかった ⇒ この時期に文明社会の仲間入りをしたからこそ、近代において完全な文化的、政治的自律性を守ることができた

東南アジアと南太平洋 ⇒ 紀元初め頃にはインドの影響を受け、600年頃からはインド洋の航海権を握ったイスラムの影響を受けるようになる。同時に、アジア本土のどこかから来たと思われるポリネシア航海民が程度の高い未開文化を太平洋の島々に広げつつあった(島々の間で言語が似通っていることから確かめられる)

サハラ以南のアフリカ ⇒ 人種揺籃の地。東西に分けられる。インドネシアの影響があることを示す証拠がいくつもある
紀元300年ごろ、サハラを横切るラクダの隊商がローマ世界からの影響を西アフリカに伝え始めた ⇒ 西アフリカ最初の大国家ガーナが誕生(300600年の間)、東ではヌビアとアビシニアの王国がローマ世界との緊密度を増し、早い時期にキリスト教国となったが、アラブ・イスラムが起こると東アフリカ沿岸地方が抑えられキリスト教は高地に押し込められた。アラビア人のエジプト征服(642)に次ぐ北アフリカ全域の制圧(711年までに完了)の結果、アフリカはイスラム教徒と接することとなり、1000年を超えるごろからイスラムはサハラ以南に急激に進出

アメリカ大陸 ⇒ 紀元前2500年ごろまでに、古代メソポタミア人とエジプト人が到達したものと似通った環境支配技術を持っていたと推定されるが、1500年にスペイン人の征服者が踏み込んできたときには、4000年の時間のズレは如何ともしがたいものだった
食糧となる野生種の自然交配の淘汰が進まなかったことや、家畜化できる動物が少なかったこと等が重なって、文明と呼んでもおかしくない複合度の高い社会が発展し始めたのは紀元開始の直前の頃

第III部     西欧の優勢
近代とそれ以前を分けるには1500年という年が便利 ⇒ ヨーロッパ史では、地理上の大発見とその後に速やかに続いて起こった宗教改革は中世ヨーロッパにとどめを刺し、安定した新しいパターンの思想と行動を手に入れるための1世紀半にわたる必死の努力が開始された。その努力の結果として、1648年以後ヨーロッパ文明の新しい均衡がおぼろげながら形を成し始めた
世界史においても、1500年は重要な転回点 ⇒ ヨーロッパ人による諸発見は、地球上の海を、彼等の通商や征服のための公道とし、人間の住み得るあらゆる海岸地方において新しい文化的前線を作り挙げたが、それは過去何世紀にも渡ってアジアの諸文明が、草原の遊牧民と対立しあった陸の境界線と肩を並べるほどの重要性を持ち、やがてはそれを凌ぐ意味を持つようになった
コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランの発見から200年の間、アジアの古い伝統的諸文明は、ヨーロッパの高まり行く富と力が新たに海を越えてもたらす挑戦に対して鈍く反応するだけ ⇒ ヨーロッパの先駆者たちの伝道的精神や技術的優位によって固有文化が衰退した結果、ヨーロッパ型の社会が、本来の中心部から東と西に拡大、新世界にまで浸透
伝統的な様式や制度の決定的な壊滅が起こったのは1850年以後 ⇒ それまでの生き方を廃し、思い切った道を歩まざるを得ないと自覚
15001648(ヴェストファーレン条約:カトリックとプロテスタントとの宗教戦争に終止符) ヨーロッパの自己変革によって、軍事的、技術、自然科学および探究心等の面において重要な優越性を示し、他の文化に初めて決定的で明確な挑戦をした時期
16481789年 ヨーロッパの旧体制下にあって植民地拡大と、ヨーロッパ文明の古典的再編成が行われた時期
1789年以降   ヨーロッパでの産業革命と民主主義の発達がヨーロッパの諸制度を根本的に変革
ヨーロッパ以外の地域における変遷は、若干の時差を持って影響が出る ⇒ 15001700年と17001850年に分類

地球上の大発見とその世界的影響 ⇒ ポルトガルの「航海王」エンリケ王子(13941460)が大洋発見の劇的な航海への道を準備。クロノメーターの発見(1760)までは不安定ではあったが、造船技術の発達とともに急速に発見が進む。
アメリカ大陸からの大量の金銀の流入に伴う価格革命 ⇒ 15001650年ヨーロッパは激しい物価変動に見舞われ、伝統的な社会・経済関係を破壊されたとき、人々は大きな貪欲と邪悪が世間に放たれたと確信。その確信がこの時代のヨーロッパ史をその前後から分かつ極めて激しい宗教的、政治的な論争を生むことになった
アメリカ大陸産の作物の伝播 ⇒ トウモロコシ他旧世界とは全く異なる植物で、従来の作物を補う極めて価値あるものであることが判明 ⇒ 人口の爆発的増加に繋がる
病気の拡大 ⇒ 航海時代の到来とともに、港から港へと細菌が運ばれ、特にヨーロッパの船がアフリカの病原菌を新世界に運び、中南米を人の住めない状況に陥れた
ヨーロッパ人の知識と発明の能力 ⇒ 世界中から集められた新しい技術と知識がヨーロッパの技術と文化を豊かにし、拡大するために役立つ

ヨーロッパの自己変革(15001648) ⇒ 軍事技術の急速な進化によって政治的統合に変化が起こり、権力が比較的少数の中心に集中(スペイン、イギリス、フランス、スウェーデン)
ラテン・キリスト教世界の2つの普遍的な大制度である教皇権と帝国が、新興の領土国家の支配者たちと抗争 ⇒ ハプスブルクが巨大化して神聖ローマ皇帝の称号を得て、フランスやトルコと対立、ドイツはルターの宗教改革が異常な力を持ち皇帝に対抗
ルネサンスと宗教改革 ⇒ お互い競合しながらも絶えず複雑な交流があった。ルネサンスは1350年頃からイタリアで興隆、古代への回帰と、ローマの偉大さの記憶は当然イタリア人の心に強く訴えるものがあったがそれ以上に人間的なものに注意を向け、宗教的なものから目を逸らそうと意識する、世俗的な精神を持った庶民や貴族がいた。一方、ローマ・カトリックの教会の改革と再生は、中世ヨーロッパにおいて繰り返し企てられ、ルター(14831546)によってドイツ中に拡大
文化的多元性の出現 ⇒ 普遍的な真理を発見し強制しようとした努力の結果、それぞれが意見を異にするということが明らかとなり、ヨーロッパの土壌に知的な多元論が強く根付いた。芸術と文化の面でも多元性が高まった

ヨーロッパの外縁部(15001648) ⇒ ロシアと南北アメリカの台頭
ロシア ⇒ 1480年まではキプチャック・ハン国の宗主権下にあったが、イヴァン3世のとき独立。明らかに卓越した西欧の富と技術の価値を低めるため国民的な使命感を必要とし、1453年コンスタンチノープルがトルコの手に落ちたとき、ギリシャ教会の自分たちの分派こそがキリスト教の最後の砦であると自ら説得させることができたものの、自己満足的考え方は、イエズス会の宣教師たちがポーランドに定着しギリシャ正教を奉ずるキリスト教徒を教皇に従わせようとしたとき激しい攻撃にさらされた。
1558年建造のモスクワ赤の広場の聖ワシリー大聖堂は、西欧文化を取り入れた例
スペイン領アメリカ ⇒ 弱い文化遺産しかないところへ西欧文化の洗礼をうけたアメリカ原住民の文化的主導性は壊滅的な打撃を受けて潰え去った。代わりに西アフリカから奴隷労働が供給され、1630年以降急速にその規模を拡大。スペイン以外に、イギリス、ポルトガル、オランダ、フランスも加わり西欧文明が一気に席巻

イスラム領域(15001700) ⇒ マホメットの啓示が、キリスト教の偏って歪められた真理をただし、それ故にそれを凌駕するものであるというイスラムの教えの中核にある確信を通じて、全イスラム史の中で最も成功を収めた時期にあたり、全世界で領域が拡大され信徒が増えたが、西欧社会の経済的な合理化や市場関係の拡大に直面した時、ヨーロッパの価格革命の影響から逃れることは出来なかった
スンナ派(主流派)とシーア派の2大陣営 ⇒ 1502年からシーア派が台頭、宗教改革へ
東アジア(15001700) ⇒ 満州から未開民族の集団が明王朝末期の北京に入り、新王朝を樹立、すでに中国文明と親しんでいたため、珍しくも王朝間の移行が円滑に進み、広大な中国に平和が蘇り繁栄に向かって前進。アメリカ大陸からもたらされたトウモロコシとサツマイモのお蔭で人口も急増したが、社会の伝統的構造に無理を与えることなく変化が進行したため、巨大な保守主義が文化生活の上でも根付いた
日本 ⇒ 慢性的な内乱を経験したが1540年代のポルトガル人の到着を契機に、ヨーロッパ文明に強い印象を受けて政治的統一が成立、徳川幕府が250年にわたって支配し続けるが、中国における安定とは違って、日本の社会と文化は国全体の経済・文化生活に重要な変化が起こった(戦争が無くなって武士たちが意味のある仕事を失ったことに起因)ため厳しい緊張に晒され続けた

ヨーロッパのアンシャン・レジーム(16481789) ⇒ 1648年の宗教戦争の終焉を機に、思想と感受性の多元化への道が開かれた。矛盾や意見の相違を許容する寛容さが現れ、中庸・均衡・礼節は国家間の諸関係にも影響を与えた。西欧における最大の成果は、法による支配の確立
イギリスの議会制度の確立 ⇒ 内閣制度の創設と国債の発行によって、王権に対抗する力をつける
プロシアの軍国主義の形成 ⇒ 厳しい規律に支配された中央集権国家へと統一
農業と技術の進歩により経済生活が急速に拡大 ⇒ ジャガイモの普及が食糧生産の容量を著しく高める。蒸気機関の動力化への貢献
数学と諸科学 ⇒ ヨーロッパ人の知識人のエネルギーが宗教的議論から唐突に焦点を変え、その向かった先が数学で顕著に現れ、多くの自然法則が発見された
政治理論、歴史編纂、経験哲学
古典は及びロマン派の芸術 ⇒ フランス文化が頂点に。18世紀には音楽が最も偉大に時代に入る。文学はドイツとイギリスで発展

南北アメリカとロシア(16481789) ⇒ ヨーロッパ文明というよりは、むしろ西欧文明という名で呼ぶにふさわしい世界に積極的に参加して活動するようになり、逆にヨーロッパの旧体制を脅かす存在に
南北アメリカ大陸を巡る競合 ⇒ まず165464年オランダが締め出され、ブラジルがポルトガルのものに、北米東海岸がイギリスに奪われ、次いで1763年フランスがカナダをイギリスに譲ったが、独立戦争に介入して植民者側に勝利をもたらす
ロシア ⇒ エカチェリーナの時代にトルコ帝国を破り、帝国領土を拡大、ヨーロッパ列強の排他的なグループの活動的な一員となる、支配階級だった貴族がヨーロッパ文明を取り入れ西欧化が急速に進む

ヨーロッパ旧体制へのアジアの反応(17001850) ⇒ 軍事上の勝利と神の恩寵とが密接に結びついているという原理を受け入れる敬虔なイスラム教徒にとって、先祖がキプチャック・ハンに帰順したロシア人に対するオスマンの軍隊の敗北は、神学上の根本原則との矛盾であって、敵の力を凌ぐ軍事力をつけるか、アラーの恩寵を取り戻すためにじっと耐えるかしかなかった。西欧の上昇期を通じて、これまでずっとヨーロッパ人に対するイスラム教徒の反応を特徴づけてきたのは、こうした宿命論に支えられた怨みに満ちた忍耐の姿勢

第IV部      地球規模でのコスモポリタニズムのはじまり
フランスから広がった「政治革命」 ⇒ 旧体制の下での複雑な集団的特権層を破壊し、個々の市民のエネルギーを解き放った。国民が選挙等の手段を通じて意思を表明。自由で民主主義的な理論と現実における実践との間の様々な妥協が各国で見られる
イギリスの経済に起こった「産業革命」 ⇒ 西欧の工業諸国が経済面でも軍事面でも手中におさめた富と力は急激に増大
輸送と通信の改善に伴い、地球上の距離は短縮され、19世紀後半、地球上で人間の住めるすべての重要地域は、全地球を包み込む単一の商業網に取り込まれた。経済交流に加え、知的、文化的、政治的及び軍事的交流が必然的に生まれた ⇒ 地球的規模でのコスモポリタニズムが初めて現実となった時代

産業革命および民主革命による西欧文明の変貌(17891914) ⇒ 大規模な植民の結果、西欧文明の地理学的基盤は西ヨーロッパにおける中心地域から、文字通り地球全体へと拡大
産業革命によって、西欧世界の富を著しく増大せしめ、衛生、健康、快適さといったものの水準を根本的に引き上げる一方、既存の都市の急膨張によって、従来の制度では対処できない社会問題が現出、豊かさの中でプロレタリア大衆はますます貧しくなっていくという矛盾が、都市の貧困層に根拠を置いた革命的暴力として政治における有力な力となっていた。人口の加速度的増加も産業革命の特徴
フランスにおける民主革命 ⇒ 1776年のアメリカ合衆国の独立がフランスを刺戟
フランス以外のヨーロッパ地域における民主革命 ⇒ ナポレオンによって体験した革命的大変動の余波を受け、何らかの形の代議制議会が誕生、政府の政策と、新聞や政党によって作り出され表明される「世論」との間の効果的な協力関係を打ち立てようとしていた
知的、文化的革命 ⇒ 西欧の他地域に対する優越は、単に物質的優越と政治組織の問題だけではなく、それに加えて20世紀初頭までの西欧科学における知的成果と、真実と美に向かって西欧人が生み出した芸術的表現とは比類ないほどの深みと力と洗練の域に達した。美術と文学の面で特に顕著

産業主義と民主主義に対するアジアの反応(18501945) ⇒ 1850年を転換点として、アジアの主要文明は、従来のやり方では西欧文明の侵入を阻止できないのを悟る ⇒ 太平天国の乱、日本の開国
西欧の優越に対し、日本人ほど強力に対抗した国民はいなかった
オスマン、ペルシャ、ムガールの3大イスラム帝国は全く無力 ⇒ 人口増加を支えきれなくなる一方、近代的な政府や近代的なものの考え方と矛盾する聖典の存在にこそイスラムの伝統的社会が西欧による破壊に対抗しがたくなった根本的原因があった

西欧世界(191445) ⇒ 西欧世界における社会変化が加速され、2つの大戦が西欧世界の新たな方向を決定づけた。各国政府が特定の目標の達成に向けて国民の努力を集中する際に、戦時の「統制経済」が如何に強力な手段となり得るかを知り、戦争目的以外にも平和という目標を達成する上でも、人間社会を計画的に操作するという新しい可能性が見えてきた。政治と同様、経済と社会も人間の作った物であり、十分な数の人間が自ら納得すれば新しく作り直せるのだということに気付き、第2次大戦で強力に実証した
思想と文化 ⇒ 伝統的な価値や前提は確かに挑戦を受けて多くは打ち捨てられたが、将来何が西欧の思想と文化における真に重要な変革として見做されるかはいまだに不明
マスメディアの広範な普及は新しい文化状況のはじまりを示すものであり、人間行動を意識的に操作する新しい手段として利用されるようになった

1945年以後の世界規模の抗争とコスモポリタニズム
2次大戦前の国際政治はヨーロッパを中心に動いていたが、戦後米ソが世界を二分する超大国として登場
ヨーロッパ列強による植民地の解放 ⇒ 多数の「新興国家」が誕生、国連でも独立の議席を手に入れ、米英どちらの陣営にも属さない「第3世界」ブロックを形成
地域紛争の頻発 ⇒ 1947年武力によるイスラエル建国はその最たるもの
ソ連の解体
1945年以後の社会と文化の変化 ⇒ 3つの急速な変化を惹起、①全世界の人口の増加と富んだ都市社会の出生率の低下、②婦人解放と男女間の分業の変化、③都市文化が村落生活の自律性を衰退させた








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