茶-利休と今をつなぐ 千宗屋 2012.4.24.
2012.4.24. 茶 ― 利休と今をつなぐ
著者 千宗屋 1975年京都生まれ。本名方可(まさよし)。武者小路千家15代次期家元として2003年後嗣号「宗屋」を襲名。慶大大学院修士課程修了(中世日本絵画史)。2008年文化庁文化交流使に。古美術、現代アートにも造詣が深い
発行日 2010.11.20. 発行
発行所 新潮新書 Brevity is the soul of wit, and tediousness the limbs and outward Flourishes
茶を「礼儀作法を学ぶもの」「花嫁修業のため」で片付けるのはもったいない。本来の茶の湯は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の全領域を駆使する生活文化の総合芸術なのだ。なぜ戦国武将たちが茶に熱狂したのか。なぜ千利休は秀吉に睨まれたのか。なぜ茶碗を回さなくてはいけないのか。死屍累々の歴史、作法のロジック、道具の愉しみ――利休の末裔、武者小路千家の若い異才の茶人が語る、新しい茶の湯論
江戸時代の価値観をすべて否定する所から始まった明治時代、茶道は大変な苦境に立たされ、明治政府が様々な職業に鑑札をつけたとき、茶人を「遊芸稼ぎ人」としたことは、象徴的なエピソード
三千家が連名で京都府に上申書を提出 ⇒ 茶道本来の意味は、「忠孝五常」、目上の人への忠義や親への孝行の心を磨き、質素倹約に基づく生活を行い、欲を出して家を広げようとすることなく自らの分を弁えて…(中略) 一服のお茶を点てる作法においては、人と人との交わりに必要なことを本旨として、手順が決められ、礼儀や節度を守り、歩いても座っても動きに乱れがないように、約束事を間違えずに心を込め、誠を尽くして執り行うものでございます
明治の初め、表千家は三井家、武者小路千家は平瀬家という豪商の支援によって苦境を乗り越える
裏千家は、「礼」「作法」へシフトすると同時に、少数のパトロンに頼るのではなく、広く大衆、それも女性に茶の湯を普及させるべく、大きく視野を広げた ⇒ 跡見学園の正課に茶道を組み入れた。創立者の跡見花蹊は1875年女子教育の重要性を説き、国語、漢籍、算術、習字、絵画、裁縫、琴、挿花、点茶の9科目で跡見学校を開校、以後日本中の学校に広まる。
歴史的には、茶の湯は禅院での茶礼を直接的な祖として発展してきたので、禅宗の考え方が茶の湯の大きな柱であることは間違いない。
さらに大きな、そして一番原理的な繋がりと言えるのが、〝独服″というあり方 ⇒ 自らを「もてなす」ことがまずある
茶の湯は、宗教か、芸能か、道徳か ⇒ インスタレーションであり、パーフォーミングアートでもある
茶の湯は、それを通して何かを身に着けるための「手段」ではなく、茶の湯そのものに存在する深く、大きな楽しみがある ⇒ 究極的な目的は〝直心との交わり″つまり心と心の交わりを、茶の湯の方法論によって実現すること。その最善の手段として茶事がある
茶人の先達 ⇒ 小堀宗慶(遠州流ご宗家先代家元)、久田宗也(表千家脇宗匠)、堀内宗心
茶の湯の歴史
戦国時代に新しい文化として、旧世代の公家たちを招き入れ、文化の力で対等に戦うことのできる、武士のための「土俵」だった
中国で「南方の嘉木(かぼく)」と呼ばれた茶の木は、元々南アジアが原産。喫茶の起源は中国。最古の記述は紀元前1世紀、中国南部揚子江上流の四川省成都付近でのこと。当時は餅茶といって、茶葉を蒸して搗き固め、型に入れて乾燥させた後、粉末にしてから熱湯で煮立てて飲むもの
唐時代に全国に広がり、市井の人々にも行き渡る ⇒ 文人・陸羽によって集大成
遣唐使によって日本にも伝えられる。815年『日本後紀』に初めて正史上の記述がある
鎌倉時代から室町時代にかけての喫茶の主な舞台は新興武家や守護大名たちによる茶寄合ともよばれた闘茶の会 ⇒ 賞品・賞金を懸けて産地を当てる一種のギャンブル
15世紀半ばには、書院での寄合茶が確立
応仁の乱以降の戦乱の世をはかなむ厭世的な空気の中で起こってきたのがわび茶のスタイル、和の道具も採り入れられた ⇒ 室町時代中期の僧・珠光(しゅこう)から紹鷗、利休へと受け継がれる。後に茶祖と呼ばれる後継者が京都で活躍した茶人・宗珠(そうしゅ)で、「都市の中の茶の湯」というあり方を鮮明にしたものが、戦乱で京都が荒れると、将軍の直轄領だった堺の商人の間で広まる
珠光は、大徳寺の住職・一休宗純(1394~1481:頓智の一休さん)から座禅を学ぶ
1522年 千利休(法名:宗易)誕生。商家の嗜みとして少年時代から茶に親しみ、武野紹鷗から草庵の茶を習得 ⇒ 1574年織田信長の茶頭に召し抱えられる
利休は、宮中に参内する資格を得るため正親町天皇から授かった号
利休七哲 ⇒ 利休の高弟の大名。蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、牧村兵部、瀬田掃部(かもん)、古田織部、芝山監物、高山右近。なかでも織部は、窓の多い明るい茶席を好み、茶席で使う道具も動きや力感をおおらかに外へ発散していく、歪みやひずみを持った道具を好んだことで知られ、秀忠の茶の湯指南となる。織部に師事した作事奉行が小堀遠州で、織部自刃後の茶の湯に存在感を示した大名茶人(利休や織部とも異なって「きれいさび」と呼ばれた)
幕府のオフィシャルの流儀は、利休の嫡男で堺千家を継いだ道安(嫡子がなく堺千家は断絶)の孫弟子にあたる大名茶人・片桐石州が起こした石州流が担った
武家の茶に対し、宮廷や公家は異なる文化の茶の湯を育てた
利休の没後に再興を許された千家は、元々営んでいた倉庫業を継ぎ、茶の湯の教授もしていた道安の血統が絶えると、宗旦(利休の孫)の時代から茶の湯の教授を専業とする茶家となる ⇒ 大名家に茶頭として仕える一方、日常は京都で町衆に茶の湯を教授しながら、今ある流儀を形作っていった
明治の政財界で大ブレイク ⇒ 仏教美術を信仰から離れた純粋な美術品として茶道具として取り入れたことが茶の湯の枠を大きく広げる
三千家 ⇒ 利休を直接祖とする流儀
利休と嫡男道安とは仲が悪く、若くして家を出たので、利休の後妻・宗恩の連れ子・少庵を養子とし、実の娘・お亀と結婚させ、その嫡男が宗旦。
道安も、後に父と和解、利休の切腹、その後の赦免によって堺の家業と邸などの財産を受け継ぐが、後継者がなく断絶
少庵も茶人で、京都を本拠とする京千家の長となり、息子の宗旦に後事を託す
宗旦には、先妻と後妻の間にそれぞれ2人の男の子
長男の宗拙は、意欲を示さなかったので勘当
2男の宗守は、塗師の養子になったが、途中で方向転換し、高松松平家に仕える ⇒ 官を辞した後、京都武者小路にあった少庵の別邸を相続、『武者小路』千家と呼ばれる
3男の宗左が、嫡男として紀州徳川家に仕官 ⇒ もっとも表向きの茶室・不審菴を譲られ、『表』千家となる
4男の宗室も、一旦医師になるため家を出るが、再び茶に戻り、加賀前田家に仕える ⇒ 宗旦が宗左に譲った後、裏に今日案を建て、後に宗室に譲り、『裏』千家となる
三千家に分けたのは、リスクヘッジだったが、逆に増え続けないような歯止めのため、表千家7代で中興の祖と言われる如心斎(1705~51)の時、千の姓をこれ以上増やさないことを申し合わせる
三千家は同格の家同士だが、まず立てるのは不審菴という利休以来の庵号を継承している表千家
千家十職(じっしょく) ⇒ 千家御用達の道具を作る釜師、塗師等も、本来は紀州徳川家出入りの、表千家の職方だった
現在の最大流派は裏千家 ⇒ 女性の礼儀作法として広めたのが成功
武者小路千家は、代々養子が多く、風通しはいいが、規模的な拡大はなかった
利休時代は、連歌や能など他の領域の文芸も含めて「寂び」という言葉によって表現する方がポピュラーで、「侘び」とは「侘び数寄」、つまり高価な唐物道具を買うことのできない手許不如意な茶人を指していた ⇒ やがて、和歌や連歌の美意識に発した「寂び」と重なり、利休の茶の湯を表現する言葉として言われるようになった
相手のために精一杯のことをしてあげるのだが、その精一杯にも物理的には限りがある。それをご免なさいとお詫びする、「侘び」とはその「お詫び」の気持ちの現れ
「寂び」とは、元々和歌の世界で、心が言葉を上回り、言葉によって表現し尽くせない心、言葉を超えた心、というものを評価する所から始まったと考えられている ⇒ 何かが満ち足り、過ぎ去った後に訪れる余韻を愛おしみ、味わうことに価値を見出す
利休以前のマニュアル
室町時代ごろには陰で、座敷とは別の場所にある茶立所で茶を点てて客に出していた。書院での華やかな唐物飾り+陰で点てて出す茶、これがいわば書院の茶
珠光に端を発する侘び茶になると、客と亭主が同じ空間に座を占め、亭主が茶を点てるようになる ⇒ 外(パブリック)から内(プライベート)へ客を呼び込んだと見るべき
客の前で茶を点てることになったため、その「鑑賞」に耐えるよう、点前も洗練の度を加えて行った
隠者が居間で親しい人のために点てていた茶と、華やかな書院の陰で点てられていた茶が合流し、利休の頃に鑑賞に耐える、しかし簡略な点前が考案されていった
茶道具 ⇒ 客の目に触れるものから裏の水屋で使うものまで約200種類
遠き道具、近き道具 ⇒ 1572年の初期の分類法。茶入、茶碗、水指、柄杓、茶杓など点茶そのものに必要な道具をお茶に「近い道具」、香炉、絵、茶壺、花入などお茶そのものとは関わりの薄い道具を「遠い道具」とした
利休以降の時代には、茶の湯の道具の第一は墨跡=禅宗の高僧による書跡
存命の禅僧の書を床に掛けたのは利休が初めて ⇒ 書かれた語と書いた人物が浮かぶ
室町から桃山にかけての過渡期的な茶の湯が、飲むお茶に焦点を当てた集まりだったのに対し、利休はお茶を媒介としてコミュニケートする会へと茶の湯を変質させた
まず最初は掛物と茶碗
掛物 ⇒ 書と絵
書 ⇒ 墨跡。初めて墨跡を掛けたのは珠光。茶会の目的を示すための書を掛けることもある
不立文字(ふりゅうもじ) ⇒ 禅の真髄は言葉では伝えきれないところにあるとの意
かな(内容は和歌)の掛物も用いられる ⇒ 懐紙(歌題、官位姓名、歌の順で書かれたフォーマルなもの)、古筆切(こひつぎれ:和歌集などの断簡、古筆切を集めて貼り込んだアルバムを手鑑(てかがみ)という)
茶人の消息(手紙)も掛物として使われることが多い ⇒ 織部が利休の消息を初めて使い、故人を偲んだ
絵 ⇒ 室町までは晴れの舞台に相応しいものとして唐絵がかけられたが、侘び茶は晴れを褻(け)に、褻を晴にと転倒させていく志向があったので、よりプライベートな存在だった書が前面に押し出されたものの、絵は絵としてその地位を保つ
日本人絵師の絵画も小堀遠州以来用いられるようになる
亭主が自身の書を掛けるのは不遜のそしり ⇒ 客に頭を下げさせる対象でもある
茶碗 ⇒ 唐物(天目、青磁、染付)、高麗(朝鮮王朝時代のものが多く、井戸、粉引、刷毛目、三島、呉器)、和物に大別
「一井戸 二楽 三唐津」
和物 ⇒ 美濃焼の志野、瀬戸黒、織部、黄瀬戸、高麗茶碗を意識した唐津、最古の陶窯の1つ信楽、江戸時代に開窯した萩、薩摩、高取、茶碗に具象的な絵を載せたという点で画期的な京焼等。鎌倉時代後期に茶陶を始めた瀬戸窯が起点。半筒形が最大の特徴
楽焼 ⇒ 1581年頃から死ぬまでの10年間に利休が陶工長次郎の手を借りて生み出した「今焼茶碗(現代の茶の湯のための茶碗)」で、初めての侘び茶のための茶碗。轆轤ではなく「手捏(づく)ね」で、1点ずつ焼成
茶杓 ⇒ 元は中国製、象牙の薬匙をお茶用に使っていた。珠光が茶杓師・珠徳に竹で削らせたのが注目された
茶入 ⇒ 茶道具の中で最も格の高い道具。元は薬入れで濃茶、薄茶を飲み分ける以前から存在。濃茶用の抹茶を入れる褐色釉の陶器の小壺を茶入、薄茶用は(薄)茶器といって漆器が多く、塗物の薄茶器全体をその形状から棗と総称
花 ⇒ 茶事が進んで濃茶の席になると、掛物から花に変わる。亭主の分身で、その日、その時、その人のために入れるのをよしとする
名物 ⇒ 「銘」のある器もののこと
「東山御物」(ごもつ) ⇒ 名物リストの原点。掛物から器物まで、東山殿(義政の隠居所)足利義政が収蔵した唐物を指す
茶事 ⇒ 茶会の一部
「三時の茶」 ⇒ 「正午の茶事」が最も正式。「朝茶」は夏の早朝、「夜咄」(よばなし)は冬の日没後の茶事
「暁の茶事」(夜込:よごめ) ⇒ 厳寒の明け方に行う
「飯後の茶事」 ⇒ 食後に招く
「跡見の茶事」 ⇒ 貴人などを案内した茶事の道具をそのまま使って、参会できなかった客から所望されて催す
「不時の茶事」 ⇒ 突然の来客をもてなす
「口切りの茶事」 ⇒ 八十八夜に収穫されてから熟成されてきた茶壺の口を切って新茶を使い始める。茶人の正月とも言われる
「初釜」 ⇒ 1月中旬、弟子や内外の縁者を招く
「名残の茶事」 ⇒ 晩秋に行う、前年の茶の残りを心惜しみつつ使う茶事
炭点前(すみでまえ)、懐石、濃茶、薄茶で構成
お茶における究極的な主客のあり方 ⇒ 「賓主互換」(自他の区別がなくなること)「賓主歴然」(れきねん:主と客が歴然と分かたれること)
茶 [著]千宗屋
[掲載]2011年1月9日 朝日新聞
明治維新や利休百年忌などもターニングポイントになった茶の湯の歴史は、じつは多彩な価値観のせめぎあいであり、神話化された「わびさび」だけでは語れない。現代にふさわしいスタイルを求めて海外でも活動する武者小路千家次期家元が、自身の体験をとおして、茶の湯の全体像を平明に語る。
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