通訳たちの幕末維新 木村直樹 2012.5.2.
2012.5.2. 〈通訳〉たちの幕末維新
著者 木村直樹 1971年東京都生まれ。00年東大人文社会系研究家博士課程中退。同年より東大史料編纂所助手、助教。文学博士
発行日 2012.2.10. 第1刷発行
発行所 吉川弘文館
もはやオランダ語だけでは通用しない。
幕末のオランダ通詞たちは、苦悩しながら日本中へ散っていった。
欧州諸国との外交交渉、英語などの新しい言語への対応や、維新後のありよう、激動の時代を語学力で生き抜いた姿を追う。
激動の時代を語学力で生き抜くーープロローグ
本書の対象は、江戸時代の長崎で活躍していた「オランダ通詞」という集団。和蘭通詞、阿蘭陀通詞とも表記。
江戸時代、日本と異国とのかかわりを持っていたのは4カ所
長崎 ⇒ オランダと中国
対馬 ⇒ 朝鮮
薩摩 ⇒ 琉球
松前 ⇒ 蝦夷地
幕末にオランダ通詞として活躍した以下の4人を追うことによって江戸時代に一定の枠組みで出来上がっていた日本と外国との関係が、幕末にどのように変化していったのか、具体的に見ることができる
森山多吉郎 ⇒ 幕臣の最後は、兵庫奉行支配組頭、在兵庫、71年1市民として没
西吉十郎(1835生) ⇒ 長崎地役人・小通詞から58年に幕臣となり、最後は外国奉行支配組頭、在大坂、幕府の遣欧使節にも参加、新政府では司法省に出仕、90年大審院院長
名村五八郎 ⇒ 幕臣の最後は、勘定格通弁御用頭取、在江戸、新政府で工部省や開拓使に出仕
堀達之助 ⇒ 幕臣の最後は、開成所教授、在箱館、後に開拓使に出仕
3. 通詞たちの職階、職務 ⇒ 大通詞・小通詞という役職と、内通詞というオランダ人の身の回りの世話をする人の2種類
4. 九州諸藩は、長崎に設置された蔵屋敷を通じて、長崎奉行からの指示を受けたり、物資の売却・購入、金融等を行っていたため、長崎の地役人を雇い入れ(館入やかたいり)、その中に通詞も入っていた
第2章 政治に翻弄される通詞
1. 寛政改革と通詞 1780年代後半に老中・松平定信が寛政の改革の中で長崎の通詞の腐敗を暴露、通訳への統制を強化
1790年 オランダ貿易額を半減しようとしたが、通訳が翻訳の際細則を省略したことが発覚して追放処分に
2. 通詞の復権 ⇒ 90年代初め、ロシアやイギリス船の来航を受け、通詞の必要性が見直され、長崎奉行によって語学教育の強化が命じられた
3. 多言語化する通詞 ⇒ 1808年のフェートン号事件が契機となって、仏露英・満州語への対応が求められた
4. 幕府天文方とオランダ通詞 ⇒ 1800年代初め、国交開始を拒否されたロシアが蝦夷地を攻撃(文化露寇=文化年間のロシアによる攻撃)したことから、外交交渉や蘭書翻訳のため幕府天文方にも通詞が必要となり、通詞が江戸に定住
5. シーボルト事件 ⇒ 1826年オランダ商館長の江戸参府にオランダ商館付き医師シーボルトが付き添い。天文方が日本地図とオランダのアジア図とを交換したことが発覚し、シーボルトは国外追放、天文方統括は死罪となった事件。通詞も連座で処罰
長崎在住のオランダ通詞名村元次郎が、オランダ商館員の扱ったサフランの売買に関わり、代金不払いの事件を起こし極刑 ⇒ 通詞たちが積極的に貿易に手を出して利を得ていた可能性が高い
6. ペリー来航前夜 ⇒ 幕府は外国語を統制しようとして通詞の仕事内容を原文と照合するようになる。「オランダ風説書」の翻訳で勝手に省略していた
アメリカの捕鯨船が蝦夷に上陸、マクドナルドが密入国者として長崎に連行されたが、牢の格子越しにオランダ通詞たちに英語を教え、通詞たちが初の英語辞書を編纂
浦賀奉行が洋書等必要な書籍の購入を具申したが、勘定奉行は却下、自らの仕事に必要なものは自ら負担すべしとして、通詞だからといって特別扱いはしていない
7. 佐賀藩と楢林家 ⇒ 佐賀藩は、早い時期から医師を長崎にやってオランダ語通詞として取り立て、その情報収集力を活用した
ペリーとの交渉にあたった堀と森山にしても、オランダ語経由の通訳
1854年プチャーチン率いるロシア艦隊が下田に来た時に安政の大地震の津波によりディアナ号沈没、500名余りの将兵が日本に残留したのも通詞の存在を高めた
2. 安政2年(1855)のライバル ⇒ 外国船が中国経由で来航するため、中国人を通訳に乗せていたことから、唐通詞が重用されるとともに、日本人の漂流民が外国船に拾われて(帰国しようにも外敵と間違えられて上陸を果たせずそのまま外国に居ついてしまう)通詞として活躍
同時に、開国に伴って幕府がオランダ政府との間で協定を締結し、海軍伝習が始まり、伝習掛通弁の特需もあり、長崎に語学伝習所設立、翌年には英語だけの伝習所も
3. 安政以降の長崎のオランダ通詞 ⇒ 通詞たちも外国人を教師に勉学し活躍の場を広げる。教師の1人がフルベッキ(59年来日、当初は長崎で来日する英語圏の人々のためのサービスをしていたが、69年に東京開成学校に招聘
宣教師の役割が大きい ⇒ 特に英語通詞養成には貢献
4. 唐通事の英語通訳 ⇒ アヘン戦争が契機となり、中国南部の主要な諸港の開港で、中国人通詞が急増、日本でも唐通詞の役割が増す
唐通詞何(が)礼之助 ⇒ 長崎の唐通詞から身を起こし、独学で英語を習熟、幕臣の取り立てられ、開成所の教授並みとなり、そのまま新政府に仕え、内務省の役人から貴族院議員にまで出世
第4章 幕末の通詞 ⇒ 長崎の地役人だった通詞が時代とともにどう変容していくのか、また多国籍化した外国人との軋轢や新たなライバルも出現
2. 蕃所調所と通詞 ⇒ 幕府は天文方を西洋技術導入の拠点と位置付け、蘭学者(=翻訳)の他にオランダ通詞(=通訳)を登用するとともに、幕臣とその子弟のための洋学所として勝海舟や箕作阮甫(津山藩蘭学者)が担当となって蕃所調所設立。海外への使節団も派遣された(通訳として福地源一郎、箕作秋坪、福澤諭吉らの名前が見える)
3. 箱館の通詞 ⇒ 箱舘開港に際して長崎から派遣されたオランダ通詞の中に名村五八郎がいた。長崎でマクドナルドから英語も学ぶ。箱館で幕臣となり洋学所を開設、遣米使節の通訳として渡米。洋学所の後任が堀達之助で、新政府後も箱館に残って外交業務に従事
6. 静岡藩と通詞 ⇒ 通詞の中には幕臣時代そのままに、静岡藩70万石として再出発した徳川家に仕えた者もいた。西吉十郎、名村五八郎は一時静岡藩士。森山はどちらにも属さず1871年死去。福地は森山の弟子、森山の3女を養女とし、西の息子と結婚させ、通詞仲間の血縁関係を深めているのは興味深い
日本社会全体が「蘭学」を通して西洋科学技術に強い関心を寄せていたが、「蘭学」への関心は諸刃の剣で、政治とのかかわりがクローズアップされざるを得ない ⇒ 通詞にとっても存在感が増すにしたがって、政治的な事件に巻き込まれる
一方、外国語もオランダ語から英語やその他言語に重点が移り、蕃書調所や開成所出身者が通詞の世界でも幅を利かすことになったが、オランダ語通詞たちも、欧米の思考力をベースに新たな時代に乗り出し、足跡を残す人々もいた
文藝春秋 書評
近代化する日本の“もうひとつの鏡”
『〈通訳〉たちの幕末維新』 (木村直樹 著)
評者山内 昌之 プロフィール やまうち まさゆき/1947年生まれ。歴史学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。87年『スルタンガリエフの夢』でサントリー学芸賞、91年『ラディカルヒストリー』で吉野作造賞、02年司馬遼太郎賞受賞、06年紫綬褒章受章。『リーダーシップ』など著作多数。
もはやオランダ語だけでは通用しない。幕府直轄都市長崎で、通訳・翻訳を中心に貿易業務全般にかかわっていた職能集団「オランダ通詞」。幕末という激動の時代に向き合い、彼らは蝦夷地や江戸をはじめ全国に散って行った。欧米諸国船の来航と外交交渉、英語などの新しい言語への対応から維新後に辿った道まで、変動の時代を語学力で生き抜いた姿を追う。
2012.03.30 07:00
嘉永6(1853)年6月、ペリー艦隊が浦賀沖に姿を現したとき、米艦に初めて接触した日本人はオランダ通詞の堀達之助であった。「私はオランダ語を話すことができる」と彼が「はなはだ見事な英語」で呼びかけたことは、アメリカ側の記録にも残っている。
幕末の通詞たちは英語やフランス語も理解できたが、いちばん得意で自由に使いこなせたのはオランダ語であった。著者は、日本の外交通商や海防の歴史で重要な役割を果たしたオランダ通詞の実態を、寛永18(1641)年に遡って紹介する。平戸のオランダ商館が長崎出島に移された年である。オランダ通詞といいながら、実際にはポルトガル語とオランダ語の二言語が入り混じり、「ポルトガル語で通訳するオランダ通詞」もかなりいたというのは興味深い。通詞といっても、かれらは出島のオランダ商館のさまざまな実務を外国語によって対応する世襲の職業であった。かれらがこなしたのは、(1)オランダ船入出港と貿易業務、(2)出島の管理、(3)商館長の江戸参府への同道などの業務にほかならない。
オランダ通詞は西洋最先端の文化や科学技術に接することもできたが、鎖国や切支丹禁教の厳しい日本では、外国知識は両刃の剣でもあった。寛政改革の松平定信はオランダ通詞に強い警戒心をもち、オランダ貿易額を半減する通達を誤訳したかどで三人の通詞を解職し蟄居五年という厳しい処分を科した。また、禁制だった日本地図の海外持ち出しを図ったシーボルト事件に連座した通詞たちも多い。それでも外国船の出現が相次ぐ18世紀末になると通詞たちの需要はますます高まり、19世紀になると英語学習も始まる。
19世紀半ばに密入国したアメリカ人マクドナルドから長崎の座敷牢の格子越しで英語を学ぶ通詞たちの学習風景は真剣である。同時に著者は、lとrを区別できない日本人のほのぼのとした光景を紹介することも忘れない。「母音はすべて、豊か朗々と響く音であり、末尾のe(œ)まで全部発音される」というマクドナルドの指摘は、いまの私たちも悩む経験をすでに味わった先人たちの苦労を想像させる。また、オランダ通詞たちの言葉は世襲の家伝で学んだために、随分と古めかしい語彙や表現もあったらしい。アメリカ領事のハリスは、二百五十年も昔に使用した古いオランダ語だと指摘し、条約文書に使う専門用語を知らないと酷評していた。かれらのなかには、唐通事なる中国語通訳や漂流民の帰国者との競争で遅れをとる者が出たのも当然であろう。語学力は個人の資質や努力に負う点が多いと著者が何度も強調しているのは正しい。
しかし、オランダ通詞たちは地味ながら戦争を回避する開国に貢献し、近代化にも寄与したことを忘れてはならない。維新後のかれらは、新政府に出仕し、徳川幕府を継承した静岡藩に仕えた者も多い。加えて、学界や海軍に転身して専門家として頭角を現した者もいる。なかでも、幕臣になった西吉十郎は新政府のもとで大審院院長(最高裁長官)として司法官の頂点を極めた。他方、兵庫奉行組頭だった森山多吉郎のように在野を貫いた俊才もいる。オランダ通詞の世界は維新の激動を写す別の鏡であったといえよう。
「通訳」という職業はなかった。「通詞(つうじ)」という集団がいた。長崎で採用された地役人。長崎には最大1800人ほどの地役人がいて、町人であり、学者、医者であり、貿易に携わり、翻訳やら、諸藩の蔵屋敷の仕事をする者も。
目次に名のある「西吉十郎(にし・きちじゅうろう)は長崎通詞から語学の才能によって幕臣になり、明治元年には大坂外国奉行支配組頭。静岡藩、薩摩藩でも働き、明治4年に司法省出仕。のちに大審院長(最高裁判所長官)になった。カバーの左の人物。右は森山多吉郎、ペリー来航時の通詞主席。
ブログ
先だって、幕末に来航したアメリカのペリーやロシアのプチャーチンを書き出しにした折しも『<通訳>たちの幕末維新』(木村直樹著・吉川弘文館)を見つけた。斜め読みのつもりが引き込まれて一気に読んでしまった。
鎖国日本は次々と現れる諸外国と否応なく交渉しなければならない。しかし体制は整っておらず通訳も少ない。どうしたってドタバタ、通訳の育成も急を要するからたいへん。
通訳者自身もそれまでのオランダ語のみではすまない。英語・フランス語・ロシア語その他必要に迫られ学ばなければならない。条約の翻訳や軍事・技術・文化を知らないと訳せない言葉・事項も多い。この本は豊富な史料を駆使してその状況を浮かび上がらせてくれている。有名無名の通訳者たちの生活までも垣間見せてくれ、それも面白い。
表紙は外国人と日本人が談笑するカラーの絵、ピストル片手の西吉十郎と二本差しの森山多吉郎という通訳二人の白黒写真の組み合わせ。これだけでも通訳の存在が浮かびあがり、その仕事にいっそう興味がわく。
鎖国日本は次々と現れる諸外国と否応なく交渉しなければならない。しかし体制は整っておらず通訳も少ない。どうしたってドタバタ、通訳の育成も急を要するからたいへん。
通訳者自身もそれまでのオランダ語のみではすまない。英語・フランス語・ロシア語その他必要に迫られ学ばなければならない。条約の翻訳や軍事・技術・文化を知らないと訳せない言葉・事項も多い。この本は豊富な史料を駆使してその状況を浮かび上がらせてくれている。有名無名の通訳者たちの生活までも垣間見せてくれ、それも面白い。
表紙は外国人と日本人が談笑するカラーの絵、ピストル片手の西吉十郎と二本差しの森山多吉郎という通訳二人の白黒写真の組み合わせ。これだけでも通訳の存在が浮かびあがり、その仕事にいっそう興味がわく。
長崎海軍伝習所にもオランダ通詞が動員された。オランダ海軍将兵によって海軍伝習がなされたから、学生の授業理解を助けるのに通詞も授業を受けねばならなかった。
勝海舟や柳楢悦らが授業を受けたときの「伝習掛通弁」は岩瀬弥七郎・本木昌造・西吉十郎ら15名。しかし江戸や函館・下田へ派遣される者もあり実際はもっと少なかったらしい。
伝習所通詞には造船・運用と船具とか担当があり、楢林栄左衛門の担当は航海と算術だった。柳楢悦や小野友五郎は楢林の通訳を得て学んだかも知れない。
勝海舟や柳楢悦らが授業を受けたときの「伝習掛通弁」は岩瀬弥七郎・本木昌造・西吉十郎ら15名。しかし江戸や函館・下田へ派遣される者もあり実際はもっと少なかったらしい。
伝習所通詞には造船・運用と船具とか担当があり、楢林栄左衛門の担当は航海と算術だった。柳楢悦や小野友五郎は楢林の通訳を得て学んだかも知れない。
また、オランダ通詞や通訳者らその後の人生も時代と無縁ではない。藩や幕府から新政府へ、学問の世界や英語教師など教員に、もっと積極的に事業を始める者など様々であった。本木昌造を活版印刷で知っていたが、オランダ通詞だったと本書で知った。
通詞の写真中に後の「東京日日新聞」主筆・福地源一郎(桜痴)のもあり、右手を握り拳にきりっとした立ち姿をみると西南戦争に従軍、記事を送稿し続けた若く元気な記者がイメージできた。
通詞の写真中に後の「東京日日新聞」主筆・福地源一郎(桜痴)のもあり、右手を握り拳にきりっとした立ち姿をみると西南戦争に従軍、記事を送稿し続けた若く元気な記者がイメージできた。
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