清貧と復興-土光敏夫 100の言葉  出町 譲  2012.4.18.

2012.4.18. 清貧と復興  土光敏夫 100の言葉

著者 出町譲 1964年富山県生まれ。早大政経学部政治学科卒。90年時事通信入社。98年からニューヨーク特派員。01年帰国。同年テレビ朝日入社、経済部で内閣府、日銀、財界などを担当。

発行日           2011.8.10. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

図書館の新刊図書のコーナーで見つける

戦後復興に全力を尽くし、高度経済成長を駆け抜け、晩年は国家再建に命を燃やした。私生活では贅沢を嫌い、社長時代も生活費は3万円。今こそ「メザシの土光さん」の話を聞こう

序章  「清貧と改革」の聖地取り壊し
鶴見からバスで行った鶴見区北寺尾に、太平洋戦争開始直前に建てた土光の家があり、経団連会長になっても居続けたが、2011年取り壊し
暫く、土光の母・登美が作った橘幼稚園の園児の遊び場となっていた
「清貧」と「復興」と「改革」を貫いた人生
東日本大震災で、航空機のエンジン部品などを製造している相馬市のIHI相馬工場は、僅か2ヶ月で復旧 ⇒ 60年前の土光の存在が大きい。キーワードは「人間尊重」。パートの女性も、本社社員も同じように団結する現場力、特に女性の能力を最大限引き出す体制がものを言った。源流は、終戦直後に土光が航空機エンジン事業への参入を決断して田無に工場を建設したことに行きつく

第1章        底辺からの出発
1.        一日も早く地力をつけよ
2.        サラブレッドより野ネズミの方が強い
地力 ⇒ 人間の足腰を鍛え、少々のことではへこたれない本物の力のこと。苦労を体験するのが必須条件。底辺を知らない「上げ底人間」は弱い
目先の現象に一喜一憂せず、どんと構えて正面から物事を受け止める、そういう根性のある人こそが生き残る時代

3.        壁を毎日破れ
毎日が行き詰まり。壁がないというのは問題意識がないことと同じ
一瞬一瞬にすべてを賭ける

4.        反省することは帳面につけろ
失敗をとことん追求することで、初めて失敗に価値が出てくる
失敗は一つの道行きであり、経験である

5.        学歴偏重の親のエゴ
6.        成功は成功の母である
1の成功が呼び水となって第23の成功を生み出してこそ、企業の成長、個人の成長がある

7.        自分の火種は、自分で火をつけよ
どんな人にも皆火種はある。自らそれに火をつけて燃え上がらせよう

8.        仕事は朝が勝負
9.        日に新たに、日々に新たなり
土光の座右の銘で、今日は皆平等にやって来るから有意義に過ごさなければならない、そのためには今日の行いは昨日より新しく良くなり、明日の行いは今日よりさらに新しく良くなるように修養に心掛けるべき
東芝の社長になった時、新しい社訓が必要との進言に、変化の激しい時代に固定した社訓は不要、毎日変わる社訓を作れと提案し、4年余りで1000に達する語録の中から100を取って本にしたのがベストセラーに

10.    会社が終わってから勉強せよ
家に帰ってからの時間の使い方が人との差をつける

11.    われに百難を与えたまえ
困難を受け入れ、困難に挑み、困難に打ち勝つモチーフを自らのうちに持たねばならない
何が何でもやり抜く強烈な意志力

12.    人間関係の基本は思いやり
高齢者の孤独死の現状を踏まえ、地域で連帯する必要性を訴えた

13.    母は信念の人だった
419月 父の1周忌に際し、70歳を過ぎていながら女学校・橘学苑の設立に奔走、翌年4月に開校し、晩年を女子教育に捧げた ⇒ 「正しきものは強くあれ」が信念だった

14.    お金は使うべきところに使う
土光の給料の大半は、橘学苑に注ぐ ⇒ 神奈川県内でも屈指の授業料の安さが評判

15.    教育の場で金儲けはおかしい
16.    トイレ掃除は職員や生徒に
17.    「自分だけ成績よければ」はダメ
教育というのは、人間関係の基本を教えるところ。お互い助け合っていくということを教える ⇒ 「自助」「自立」と同時に「共助」の精神を重視

18.    個人は質素に、社会は豊かに
母の教えだったものを、行政改革の基本精神と信じて身を捧げてきた ⇒ 90歳で民間人初の勲1等旭日大綬章受章した時の言葉
父は、元々は農業、骨折して農地は小作に任せ、穀物の取引業(農家から米を買い上げて穀物商に売る仕事)を始める

19.    家では絶対仕事の顔はしない
20.    親の後ろ姿を見て子供は育つ

第2章        復興と企業再生への執念
21.              従業員のためならどんな仕事も
敗戦翌年、石川島芝浦タービンの社長に就任したが、敗戦で軍からの仕事が途絶えた中、従業員の生活確保に奔走 ⇒ 日本の奇跡の復興の原点こそ従業員の食い扶持を探す生活

22.              執念を持って仕事せよ
独創的な仕事と言えるものは、執念の賜物であることが多い
物事をとことん押し詰めた経験のない者には、成功による自信が生まれない
能力とは、「自信の高さと幅」

23.              就職先より、仕事の中身が重要だ
24.              社員をクビにしない
25.              やって見せ、言って聞かせて、させて見せ
率先垂範の教え

26.              全ての責任は私が負う
造船不況で業界全体が落ち込んでいた時、打開策として海外進出を画策、ブラジル進出を決意した時の言葉 ⇒ 進出の結果ブラジルからタンカー3隻を受注、社運を戻す

27.              徹底した現地化を進めよ
石川島ブラジル(イシブラス)の経営の基本

28.              合併で1プラス13にも4にも
石川島重工と播磨造船による戦後最大の合併
過去の会社はご破算として、歴史ゼロの新会社を作るとの理念 ⇒ 造船世界一を達成

29.              社員は3倍、重役は10倍働け
65年 石坂の要請で40年不況で苦境にあった東芝建て直しを依頼され、社長に就任した時の第一声

30.              社長の「大名旅行」はやめろ
31.              豪邸に住み派手な生活の人は信用できない
体力の続く限り、自分のことは自分で。質素に無駄なくやれば一人でできる

32.              現場の裏通りこそ見よ
33.              情報は天然色である
自らの足で現場を歩き、自らの目で現場を見ることこそ重要

34.              全従業員と話すのが楽しみ
35.              守衛も社長も「平等」
36.              社長室は誰にでもオープン
37.              こちらから仲良くすれば向こうも
38.              経営者はつらい人
39.              小便しながらでも報告せよ
40.              失敗を恐れず権限を行使せよ
土光の経営手法の特徴は、「君に任せた、責任は俺が取る」 ⇒ 特に、現場に指揮権を委譲 ⇒ チャレンジとは、トップが現場の長に説明を要求すること、現場の長が素早く反応するのがレスポンス

41.              漫然ではダメ、意識的に働け
勤勉だけではダメ、その中身が大事。「働く」のであって「動く」のではい
漫然と仕事の流れに身を任せている人と、意欲を持って働く人でやがて大きな差が出る
ちょっとした心遣い、人より1歩先を見ることができるかどうか、それは能力や頭の良し悪しではなく、人間の姿勢自体の問題だ

42.              「できない」「むり」「むずかしい」は禁句
全てに前向きな姿勢が大事

43.              人間は変わりうる
人間は変わりうるという信念を持とう

44.              経営者の人事権は独裁権ではない
神の前に頭を垂れ畏れ謹んで行使すべき権限だが、一人で決めずに皆で広く議論する

45.              上司を肩書きで呼ぶな
46.              社長だってセールスマン
47.              「今時の若い者」と対話せよ
48.              女性を適所に配置し、能力開発を
49.              創造性を高める「重荷主義」
「重荷主義」 ⇒ 人は能力以上に働かなければならない。人間尊重とは、ヘビー労働をかけその人の創造性を高めることに他ならない、そのためのレールを敷いてやるのが経営者の役目

50.              引き際の美学を

第3章        原発と日本の技術力
51.              原発は舶来品でなく日本産で
早くから原子力がエネルギーの中心になることを予測していたが、外国技術の導入はいいとしても、盲目的な依存はいけない

52.              ボルト1本までチェックせよ
日本のアキレス腱はエネルギー
外国技術の導入に際しては、自らボルト1本に至るまでチェックしないとダメだ。初期にはその徹底を怠ったために様々な故障や不具合が起きた

53.              本気でやれば故障は起きない
54.              原発技術者の総点検をやるよ
原発の安全性を徹底追及していた ⇒ 安全管理に最大限努力する日本の技術力や現場の知恵の存在が原発推進の大前提
事故の原因と対策を徹底追及し、情報を共有
福島第1原発1号機としてGE製を東芝が納入した際、社長の土光は日本のメーカーの技術者にチェックさせるよう東電に要望したが、一蹴されたという ⇒ 米国製は津波を想定していなかった(東電豊田元副社長談:「スクラップ-NEWS11-12 WSJ10大ニュース参照)
鶴見の化学工場爆発事件では、1部上場企業の社長を経団連に呼びつけて、現場を見ていなかった社長の辞任を迫る
ウラン・プルトニウムに代わるトリウム溶融塩炉が核兵器を生み出さない安全な原子炉と言われているが、政治力がないまま、既定路線に押し切られた経緯がある

55.              将来は石炭、太陽熱、地熱の利用も
原子力は、あくまで原油依存からの脱却の手段であり、代替エネルギーの開発は重要

56.              ソーラーを本格普及させたい
78年設立のソーラーシステム振興協会の初代会長に就任、自らも自宅に設置

57.              エネルギー問題は国策で
58.              エネルギー政策で縄張り争いするな
59.              資源は人間だ
60.              世界に冠たる工業国家を作れ
61.              省エネ日本は私の誇りだ
62.              マラソン王アベベのようであれ
人より常に一定の距離を置いて先を走れば、ムヤミな競争を避けることができる
今後の貿易は、満遍なくグローバルに輸出する必要がある。そのためには発展途上国に購買力をつけさせる技術協力をやる。彼等のレベルが追い付いてきたら、日本はまた新技術でその先を行けばいい
多勢技術者はいるが、研究費が少ないので活かされていない

63.              「シンプルライフ」の実践を
21世紀は脱工業化という意味で質的に変わらないといけない。科学進歩も大事だが、人間本位の高度な人間社会になるだろう。価値観自体も変わってこよう

64.              蛍光灯は半分消せ
65.              日本には優秀な技術力の下地がある
66.              不景気でも研究開発費は惜しむな
67.              防衛力強化には慎重に
武力だけが力ではない。経済力もどう使うかで、国際的な影響力も違ってくる

68.              国防論議より、インフレ戦争を考えろ

第4章        田中角栄との「決闘」
69.              政治家とは昼間に会おう
造船疑獄で逮捕されたことからの教訓。家宅捜索した検事が余りの清貧さに驚いたという

70.              政治にカネをかけすぎると民主主義が滅ぶ
71.              総理は命を捨てる覚悟を
74.7.7. 七夕選挙が転機 ⇒ 経団連会長に就任直後の参院選は空前の金権選挙、にもかかわらず「田中政治の金権体質」への批判から自民党が敗北、参院での過半数割れに ⇒ 政治にカネはかかるが、かけすぎると民主主義が滅ぶとして、田中金権政治を批判、さらには企業献金の斡旋を止め、自民党の派閥解消まで提唱

72.              金権政治が一番のショック
74.10. 文藝春秋に立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」掲載 ⇒ 土光は田中にサシで辞任を勧告、翌月の退任に結び付ける

73.              企業も政治家も襟を正せ
74.              リーダーは「無私の人」に
リーダーというのは「無私の人」でないと務まらないから、なりたがらないもの。トップに立つ人物は自分からなるべきではなく、最もトップになりたくないと思っている人がなるべきと言えるかもしれない

75.              政治家と何のためにメシを食うのか
76.              議員定数をもっと減らせ
行政改革だけでは足りず、立法府の改革もしないといけない

77.              あだ名は「怒号さん」
75年当時、副総裁で経企庁長官の福田赳夫が1年間土光に怒鳴られっ放しだったことを述懐して言った ⇒ インフレ抑制が最大の焦点

78.              経団連をつぶしてやろうか
石油危機後の不況克服のため必死に動くも成果が出ないことに苛立って職員に言った言葉

第5章        清貧と臨調
79.              冬の隙間風、夏の蒸し暑さ、それもよし
80.              社長時代も電車通勤、生活費は3万円
81.              メザシは好きだから食べているだけ
82.              ぜいたくは嫌いだ
83.              このままでは日本は破産してしまう
81年度の予算編成で発行が予定される国債の金額を見て、このままでは国債発行残高が近々100兆円を超えるのは時間の問題で、3年後には破産すると警鐘 ⇒ 第2臨調で、一層の行財政改革を目指す

84.              ムダ削減の精神は政府に見えず
61年の第1臨調(臨時行政調査会)は、池田内閣の時で、三井銀行社長で経団連副会長の佐藤喜一郎 ⇒ 総理権限の強化のため内閣府を、予算の編成方針を決めるために内閣補佐官を設置するという画期的内容だったが、高度成長期の「所得倍増論」にあって挫折
80年の第2臨調は、大平急逝の後たなぼたで首相になった鈴木善幸が、中曽根を処遇するために行政管理庁長官として発足させたもの。今度こそ行政の肥大化を抑えるための思い切った改革が必要で、中曽根は当初閑職として渋々引き受けたが、本気を出して取り組み、行財政改革を通じた財政再建を成し遂げ総理への道をひらく

85.              地獄の底から見ているぞ
土光が行財政改革の必要性を感じたのは、75.2.文藝春秋(編集長:田中健五)に載った「日本の自殺」という特集が契機 ⇒ 臨調の基本精神を具現したような内容で、ローマ・ギリシャの滅亡に日本をなぞらえて、自立自助の精神を忘れ内部崩壊に向かっていると警鐘を鳴らしたもの

86.              増税より無駄を徹底的に洗い直せ
87.              将来の日本を築くために
土光は会長を引き受けるに際し、鈴木首相と中曽根長官から以下4点につき念書を取る
   行革の断行は総理の決意あるのみ、総理が答申を実行する決意を明らかにすること
   「小さな政府」を目指し、「増税なき財政再建」を実現すること
   地方自治体も含む日本全体の行政の合理化、簡素化を進めること
   官業の民業圧迫を排除、民間の活力を最大限活かす方策を実現すること

88.              地方公務員の給料は高すぎだ
武蔵野市で退職した公務員の退職金があまりに高額だったことが話題に

89.              政府は引っ込め、民間に任せよ
90.              教科書をタダで配布はおかしいよ
政府の許認可事業も見直せ

91.              維新と占領、2つの「過去」を清算せよ
いまだに古い法律や条例が生きているが、21世紀に向かって見直さなければいけない
81.3. 第2臨調スタート ⇒ 7月に第1次答申、「増税なき財政再建」がキャッチフレーズで、「ゼロ・シーリング」を持ち込む
82.2.2次答申、82.7.3次答申 ⇒ 国鉄、電電、専売の民営化
83.2.4次答申 ⇒ 行革推進体制の在り方、83.3.5次答申で終了
83.7. 臨時行政改革推進審議会(行革審)に引き継がれ、土光が会長として、臨調の答申の実施状況をチェックする

92.              改革は政府任せでなく、国民運動を
「行革推進全国フォーラム」を立ち上げ、全国民の運動として働きかけ

93.              農業は補助金をあてにするな
94.              農業の自立を考える
95.              予防医療で医療費削減を
96.              政府は不退転の決意が必要
86.6. 行革審終結にあたって土光が国民に対して出したメッセージ ⇒ 臨調は、21世紀を目指した新しい国作りの基礎作業として、「活力ある福祉社会の建設」と「国際社会に対する積極的貢献」を2大目標とし、その実現の前提として「増税なき財政再建」の基本方針を厳守、行政には抜本的な制度・施策の見直しと厳しい削減努力を要請する一方、国民にも行政に対する甘えを捨て自立自助の努力を求める

第6章        わが師、石坂泰三の教え
97.              国家という巨大なビルを作れ
98.              一番尊敬しているのは石坂泰三さん
他人の個性を十分に引き出す力、徹底した自由主義に共感、先見の明

99.              社外役員のススメ
100.          明治人の気骨を持ったリベラリスト

第7章        城山三郎と語る
80.5. テレビ朝日での「気骨の80余年」という対談 ⇒ 経団連会長辞任の翌日

終章    「土光敏夫」のDNA








著者インタビュー
 日本が直面した東日本大震災、そして原発事故。さらには震災前から忍び寄る財政赤字や少子高齢化。未曾有の危機の時代、いったいどんなリーダーが必要なのか。そしてどんな人の言葉に耳を傾けるべきなのか。
 私はテレビ局で日々、報道の仕事に携わりながら、危機の時代のリーダー像を探していた。財源もないまま大盤振舞する予算。さらには、震災後も復興、復旧そっちのけで、政争を続ける永田町の面々に嫌気をさしていたからだ。
 その結果、たどり着いたのが、土光敏夫だった。週末を利用して、ひたすら土光に関する取材や資料集めを行った。没頭すればするほど、土光というリーダーを現在の社会に伝えたくなった。一九九〇年に記者になった私は、土光を直接取材した経験はない。「メザシの土光さん」と言う言葉ぐらいしか知らなかった。
 だからこそ、改めて検証すると、土光の言葉や生き方が新鮮に映った。危機の時代だからこそ大きな目標を設定して突き進む土光のような指導力が重要だと思った。私はウィークデーは震災や原発報道に従事しながら、週末部屋に閉じこもり、土光の言葉を書き写した。「写経」のような気持ちで、復興を願った。
 土光が異彩を放ったのは、財界人とは思えない質素な生活。節電の夏のお手本のような生き方だ。戦後最悪の災害を経験した日本人。ドラッカーやサンデルだけでなく、日本の哲人経営者の言葉も傾聴すべきだ。今こそ外国人ではなく、日本人の中で働く指針、生きる指針を見つけるべきではないでしょうか。
 土光は石川島播磨、東芝の社長、会長を歴任。その後は経団連会長、第二臨調会長として活躍した。つまり、戦後復興に全力を尽くし、高度経済成長を駆け抜け、晩年は命がけで日本の財政再建に辣腕をふるった。
 出世欲はなかった。しかし、執念を持った仕事ぶりを周囲が放っておかなかった。その結果、地位や名声という観点からみれば、恐らく近現代史でナンバーワンの出世男となった。松下幸之助や本田宗一郎は、創業者。サラリーマンとしての土光の"出世"は群を抜いていると思う。
 社会人になった後、ぐんぐん出世するのだが、そもそもは「底辺からの出発」だった。合計受験に四回失敗。最終学歴は東京高等工業つまり、今の東工大だ。そして当時入社したのは石川島造船所だった。当時は、三井や三菱、満州鉄道などに比べて給料も安く、就職先としては地味だった。
 しかし、やりたい仕事ができるというのを最も重視して入社した。当時 タービンを作りたいと考えていた。
 土光自身「技術者の道を歩けるならば、就職先はどこでもよいと考えた。当時は第一次大戦後の不景気から、ひどい就職難だった。だが蔵前高工(東京高等工業)に限って、それほど深刻感はなかった。選り好みしなければ、仕事にありつけた。だからクラスのみんなにいいところを選んでもらって、僕は残りものに甘んじた。それが石川島造船所だった」と語っている。
徹底した「現場主義者」
 土光の人生を振り返ると、リーダーとは何か。3つ重要なポイントが浮かび上がる。すなわち、「現場主義」と「率先垂範」、そして「人間尊重」。
 エンジニア上がりで徹底した「現場主義者」だった。東芝や石川島播磨の社長の際も、すべての工場を視察。現場の労働者と触れあった。さらに、工場内で機械の音を聞いただけで、その故障が分かった。販売店などもきめ細かく回り、時には社長自身でセールスマンのように歩いた。
 仕事の最前線の現場主義に徹するからこそ、社員の心をつかんだ。しかも、出張は本社の仕事の合間を縫って行われており、ほとんどは夜行で出かけ、夜行で帰るというハードスケジュール。
 2番目のポイント「率先垂範」。リーダーが自ら率先して行動することで企業なり、国家なりが動くという考え方があった。
 臨調時代、土光は行財政改革の旗振り役として、ムダ削減を主張。補助金の削減や民営化などで各省庁などの既得権益を切り込もうとした。もちろん抵抗勢力が出る。しかし、土光自身は全く、ムダのない質素な生活をしていた。だからこそ、言葉には説得力があり、国民も支持した。
 三番目のポイントは「人間尊重」経営。「人間は資源」と主張し、さまざまな立場の人たちの力量を押し上げようとした。その姿勢は、サラリーマン生活の最初から徹底していた。
 石川島造船に入社後、夜になると、工場の少年工を集めた。初歩の機械工学や電気工学を教えたのだ。仕事が終わった後なので、腹がへる。そこで、自腹でうどんを振舞う。「彼らの能力をアップさせなければ、造船所の技術力も一流にならない」という思いからだった。やる気のある少年工を集め、「夜間学校」を開設。少年工の技術もレベルアップしたという。
 土光敏夫の九十一年の人生。そしてその人生が刻み込まれた百の言葉。「資源は人間」「個人は質素に社会は豊かに」「すべての責任は私が負う」「蛍光灯は半分消せ」「社員は3倍、重役は10倍働け」「失敗を恐れず権限を行使せよ」「サラブレッドより野ネズミの方が強い」・・・。
 是非、幅広い読者に読んでいただきたいと思う。それが大震災後の日本の復興に役立つと信じている。

Wikipedia
土光 敏夫(どこう としお、1896(明治29年)915 - 1988(昭和63年)84)は昭和時代の日本エンジニア実業家。第4経済団体連合会(以下「経団連」)会長。位階勲等従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。
経歴 [編集]
1896(明治29年)915日、岡山県御野郡大野村(現在の岡山市北区)に肥料仲買商の土光菊次郎・登美夫妻の次男として誕生。母の登美は日蓮宗に深く帰依した女性で女子教育の必要性を感じ、1941(昭和16年)にほとんど独力で横浜市鶴見区橘学苑を開校した程の女傑であった。校訓を「正しきものは強くあれ」とし、敏夫は母の気性を強く受け継いだ。
敏夫は関西中学(現・関西高等学校)を卒業後、代用教員をしながら一浪して東京高等工業学校(現・東京工業大学)機械科に入学。同期生には茅誠司武井武などがいた。
1920大正9年)に卒業後、東京石川島造船所(現・IHI)に入社。1922(大正11年)、タービン製造技術を学ぶためスイスに留学する。1936(昭和11年)、芝浦製作所(現・東芝)と共同出資による石川島芝浦タービン(現:IHIシバウラ)が設立されると技術部長として出向し、1946(昭和21年)に社長に就任した。この頃その猛烈な働きぶりから「土光タービン」とあだ名される。
1950(昭和25年)、経営の危機に本社[1]に復帰、社長に就任し再建に取り組む。土光は徹底した合理化で経営再建に成功する。1959(昭和34年)、石川島ブラジル造船所を設立。さらに1960(昭和35年)、播磨造船所と合併し石川島播磨重工業に社名を変えた。この間、1959(昭和34年)に造船疑獄に巻き込まれて逮捕・勾留されるも最終的に不起訴処分となる。
1965(昭和40年)、やはり経営難に陥っていた東京芝浦電気(東芝)の再建を依頼され社長に就任する。ここでも辣腕を振るい、翌年の1966(昭和41年)に再建に成功する。しかし、敏夫のいわば「モーレツ経営[2]」は東芝の体質を変えるまでには至らず、1972(昭和47年)に会長に退いた。
1974(昭和49年)、第4代経団連会長に就任。以後、26年にわたって財界総理として第一次石油ショック後の日本経済の安定化や企業の政治献金の改善などに尽力した。一方で日本経済の一層の自由化と国際化をはかり、積極的に海外ミッションを組んで各国に渡航した。
1981(昭和56年)には鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、
  1. 首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
  2. 増税によらない財政再建の実現。
  3. 地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
  4. 3Kコメ国鉄健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。
の四箇条の申し入れを行い実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし2年後の1983(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄専売公社電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。
1986(昭和61年)11月、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988(昭和63年)84日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。91歳没。法名は「安国院殿法覚顕正日敏大居士」[要出典]。墓碑は神奈川県鎌倉市安国論寺日蓮宗)。
「質素な生活」を宣伝 [編集]
普段の生活ぶりは感服させられるほど非常に質素であり、決して蓄財家でもなく生活費以外の残りの多額の収入は全て橘学苑に寄付されていた。(2011/9/4 サンデー・フロントラインの「発掘人物秘話」の土光敏夫特集にて述べている。)
行政改革を推進する宣伝として、NHKで『NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫』(1982(昭和57年)723)というテレビ番組が放送された。その内容は敏夫の行政改革に執念を燃やす姿と、生活の一部を見せたものであった。敏夫の普段の生活として、次のようなものが映し出された。
  • 戦後一回も床屋へ行ったことがなく、自宅で息子にやってもらう。
  • 穴とつぎはぎだらけの帽子。
  • 戦前から50年以上使用しているブラシ。
  • 妻に「汚いから捨てたらどう?」と言われた使い古しの歯磨き用コップ。
  • 農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。
とりわけインパクトが大きかったのは、妻と2人きりでとる夕食の風景であった。メニューはメザシに菜っ葉・味噌汁と軟らかく炊いた玄米。これが「メザシの土光さん」のイメージを定着させた。20033月に「アーカイブス特選」としてこの番組が再放送された際、ゲスト出演した瀬島龍三によればある行革に関する集会の終了後、会場の出口で浅草六区婦人会連が袋いっぱいのメザシを持って待ち構え出てきた土光と瀬島に手渡したという。あまりの量で大変な重さだったと瀬島は述懐した。
しかし、メザシについては演出との指摘がなされている。早房長治の『朝日新聞199523号の「にゅうすらうんじ」によれば、実際は故郷の岡山県から送られて来た山海の珍味を使った直子夫人の手料理にもしばしば舌鼓を打っていたとし、「テレビなどの演出に乗ったのは、『質素なリーダー』のイメージを利用して、行革を成功させるためだったと思う。」と述べている。早房は好意的にこの件を紹介しているが、土光に批判的な側からは「やらせを認めるのか」と強い反発を受けた。またメザシは高級品で知られる丸赤商店のもので、当時でも500600円したという[要出典]
経団連会長になってからも通勤には公共のバス・電車を利用していた。石川島播磨社長時代の疑獄事件で土光の捜査を担当した検事によれば、初聴取のため早朝土光宅を訪ね夫人に敏夫の所在を確認したところ、もう出社したという。こんな朝早くにといぶかしむと、「今でたところなのでバス停にいるはずです。呼んできましょうか?」とのこと。すぐさまバス停に向かうと果たして敏夫はバス停でバスを待っていた。この時に検事は彼の無罪を確信したと後に述べている[3]
経団連会長就任後、それまで会長出張の慣例だった「前泊し23日の日程」を全て日帰り出張に変更、地方側からの接待を一切断った。経団連会館のエレベーターも来客用の1基だけを稼動させ残りは停止。高齢ながらも自ら階段を利用して経費削減に努めた。また、夜の会合を廃止する代わりに朝食会を頻繁に開いたため朝に弱い財界首脳は困り果てたという。
著書や自伝を週刊誌に連載していたことがあるがいずれも敏夫へのインタビューなどを元にゴーストライターが著したもので本人が直接筆を取った事は一度もなくよく「意図と違う事がかかれている」と嘆いていたと、居林次雄(当時の土光の秘書。弁護士富山大学教授)が自著に記している。
語録 [編集]
「知恵を出せ、それが出来ぬ者は汗をかけ、それが出来ぬ者は去れ!
但し松下幸之助はこの言葉に批判しており、「あかん、潰れるな」と呟いたといわれている。「『まずは汗を出せ、汗の中から知恵を出せ、それが出来ぬ者は去れ!』と云うべきやね。本当の知恵と言うものは汗から出るものや」と秘書を務めた部下の江口克彦に語っており、敏夫の語録を真似した経営者は失敗し倒産したという。[4]
著書 [編集]
論文 [編集]
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
  1. ^ 土光が出向中の1945(昭和20年)、社名が石川島重工業に変更されている。
  2. ^ 就任時の取締役会での挨拶は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」というものである[要出典]
  3. ^ 若林照光『土光敏夫人望力の研究』 PHP研究所〈PHPビジネス文庫〉(1983) 108
  4. ^ 江口克彦著・成功の法則

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