中国全史  Michael Wood  2023.3.20.

 2023.3.20. 中国全史 上・下  6000年の興亡と遺産

The History of China A Portrait of a Civilisation and its People  2020

 

著者 Michael Wood イギリスの歴史家・映像作家。マンチェスター大学パブリックヒストリー教授。ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ、王立歴史学会、ロンドン考古協会のフェロー。BBCなどで100本以上のドキュメンタリー作品を手がけ、高く評価される。本書は《The Story of China》シリーズをきっかけに執筆された

 

訳者 須川綾子 翻訳家。東京外国語大学英米語学科卒業。訳書に、ピーター・フランコパン『シルクロード全史』、ジョージ・パッカー『綻びゆくアメリカ』、クリスティアン・ウォルマー 『世界鉄道史』(共訳)などがある。

 

発行日           2022.11.20. 初版印刷        11.30. 初版発行

発行所           河出書房新社

 

 

はじめに

本書は、私の中国に対する長年の強い関心から誕生。関心を持つきっかけは、グレアムの『晩唐詩』、次いで、アーサー・ウェイリー翻訳の『詩経』

本書の形態については、映像制作の手法を取り入れ、大きな流れを保ちながら、時には足を止めてクローズアップに切り替え、具体的な場所や時期、様々な立場の人々の暮らし、声などに着目する。必ず「村からの視点」を用いているのは、大きな物語は草の根から効果的に照らし出せるという信念から

The Story of China》は、201417BBCと公共放送サービスのドキュメンタリーシリーズとして制作された番組。中国始め世界各地で視聴されているが、新華社通信からも「民族と信仰の壁を乗り越え、説明し難い力強さと感動を視聴者にもたらした」と報じられたのに背中を押され、改めて自分が取り組んだ題材を振り返り、本に纏めることにした

本書が語るのは胸躍る物語であり、驚くべき独創性と緊迫した出来事、深遠な人間性に彩られた物語である。映像に見られる力強さが宿っていることを願う

 

プロローグ 189912月 北京

紫禁城に軟禁されていた光緒帝が、冬至の儀式のために、大行列を従え天壇へと向かう

年末に義和団により、最初の外国人宣教師が血祭りにあげられ、西太后が彼らの「扶清滅洋」のスローガン支持の布告を発すると、列国の海軍司令官らが手を組んで中国沿岸の要塞を攻撃し始め、西太后は8か国に宣戦布告、北京を逃れる

北京の公使館区域は義和団によって55日間包囲され、年明けには8か国連合軍が北京を占拠、天壇も連合軍の基地となり、略奪の限りが尽くされた

この時期以降、中国は次々と波乱に見舞われる。現代において、これほど多くの苦難を切り抜けた国は他にない

単一の統一国家という理念が常に追求され、それを支持する古代の政治権力のモデルは現在に至るまで根強く残っている。賢明な皇帝が大臣と学者とともに中央集権化された官僚組織を率いるという理念は、帝国の終焉後も中国文化の精神に受け継がれている

 

第1章        起源

l  中国文明の起源

先史時代の中国で最も重要な文化が育くまれたのは、河南省の広大な小麦畑、「中原」と呼ばれる地域で、「中国」という名の最古の記録は、BC1000年頃に西周によって残されたもので、この中央部を指していた

黄河南岸の鄭州は、3500年前の商の時代、中国青銅器時代の首都であり、最古の都市

伝説上の帝、大禹()の聖地でもあり、黄河を治め、中国最古の国家の礎を築いた

かつて中国は禹州あるいは禹城と呼ばれ、禹(う)は中国古代の伝説的なで、夏朝の創始者。名は文命(ぶんめい)、諡号は禹、別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓禹光吉は姒(じ)。姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。夏王朝創始後、氏を夏后とした。黄河治水を成功させたという伝説上の人物である。

原初の神と女神である伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)は、中国の文化「華夏」の伝説上の始祖の中でも代表的な神で、彼らを祀る民間信仰は、文革の時代一時的に破壊されたが、当時から一貫してこの地に根付いている

中国が単一の文明を築き始めたのはBC221年秦の始皇帝が多くの小国家を統一し、1つの国家を建設した時に始まる。最古の王朝である禹の夏王朝(BC1900)には1万の小国があり、商王朝(BC1553)には3000、春秋時代の終わり(BC403)には100余国あった

l  先史時代――文明の幕開け

人類学者や考古学者が定義する「文明」とは、都市や青銅技術、文字体系、大規模な儀式用の建造物や神殿、芸術というに相応しい創造性、何らかの法体系によって認められ、武装した支配層が行使する強制力によってまとまりを有する社会的ヒエラルキーを意味する

先史時代の中国では、人々が定住する過程は一様ではなく、西アジアやナイル川流域と比べると人口集団は遥かにまばらだったため、物質的、文化的な意味での文明は発達が遅れ、村が出現したのはBC4000年頃、仰韶(ぎょうしょう)文化の生まれた時代

BC3000年以降の龍山文化の時代になると人口が急増、小集落が次々に誕生、BC2300年には防壁に囲まれた大規模集落が出現、その1つが新石器時代後期の石岇(シーマオ)遺跡

l  陶寺の天文台――天の観測

BC2000年以降の黄河流域の平原で、先史時代のいくつもの文化の交流が起こり、中国文明を形作った思想と政治勢力の連鎖反応が起きた

山西省の陶寺遺跡は、黄河の北160㎞、洛陽の北西にあたる平原のすぐ北の山麓に位置し、BC2500~同1900年に居住していた総面積260万㎡の広大な城壁都市

遺跡の中心部には直径50mの円形の壇があり、天体観測によって、「中心の国」の原点と見做されていた――この「世界の中心」という概念は洛陽周辺の地域を引継いだ勢力によって伝えられ、その後も歴史を通じて継承される

陶寺の聖職者がBC2100年から天体を観測していたことが明らかにされ、王朝誕生以前の王国の中心となっていたが、神話上の都で中国創始者の1人堯帝の故郷と同一視される平陽の遺跡のすぐ近くにあり、神話と考古学が一致するのは驚くべきこと

l  禹王の足跡を追って

河南省の開封(かいほう)市は城壁に囲まれた古都、宋の首都。黄河の大洪水の際、禹が築いた高台が現存するが、禹の伝説は青銅器時代に遡ることは間違いない

l  大洪水?

禹の建国神話に現実世界の自然災害の記憶があったかどうかは不明だが、2016年に黄河の上流1600㎞の青海省積石峡で地滑りと大洪水の痕跡が確認され、前後28年の誤差を含め、BC1922年と特定された。環境の危機は、中原で起きた政治上の重大な変化と時期が一致する

l  最古の王朝――夏

言い伝えによると、夏王国の中心は、黄河と洛河の合流点に近い平原にあった(二里頭遺跡)

l  安陽――商

BC1550年ごろ、夏は近隣の商に征服され、初期の国家形成に多大な影響を与えた

商王朝の最後の都が殷(後の安陽)、河南省の平原の東部で最北に位置(戦前から発掘開始)

l  商の魂?

商の時代、今日までの中国の歴史を形成する中心的モチーフのいくつかが芽生え始めていた。新石器時代に誕生した商の国家形態は、天と地の仲介者としての王の中心的役割、血統と先祖の重要性、権威の源として熟達すべきシャーマニズムと占い、青銅技術と文字体系の掌握など、後の中国における王権のモデルとなる。中国では、文明はその起源から、政治的必要性と権力の儀式、支配者層による天命の解釈によって形成された

 

第2章        ()の大戦

BC1550年代~BC1045年存続し、文化の主要な要素を後世に伝える――支配者の地位、儀式、占い、書き言葉(文字)などがその対象

BC1046年、商の最後の王となる紂(ちゅう)王が誇大妄想に導かれ残忍な暴君と化したので、従属する周が天命によって立ち上がる(『逸周書(いつしゅうしょ)』に詳しい)

周の武王の軍勢は軍師の太公望(呂尚)に率いられ、鄭州北の牧野(ぼくや)で、史上初の大々的な戦で大勢の商軍を圧倒。戦勝の儀式は、大量の捕虜を虐殺して生贄として捧げる凄惨なもので、その記述ゆえに、『逸周書』は歴史書として長く否定されてきた

l  遺産の伝承――「先祖の土地」

商の滅亡は中国史の転換点――王朝は継承されるという思想があり、神の命により権限を受け、その権限はいずれ引き渡されると信じられ、中国史の物語の循環パターンが確立

周は、商が祖先崇拝の拠点で王朝が誕生した地に留まることを許す――鄭州から黄河を230㎞下った河南省商丘市には、紂王の兄で人格者の微子啓が命拾いした商の王族を率いて祖先崇拝の拠点を立ち上げた形跡が残る。孔子でさえ微子啓の末裔との説がある

「商」の文字は、取引や貿易、商業、経済などを表す言葉を中心に多くの異なる単語を作る

l  先祖への祈り

中国の統治に関する後の思想の多くは征服者である周によって形成されたが、その土台となったのは、500年にわたる商という国家であり、甲骨によって史実として浮上

 

第3章        天命

商滅亡から始皇帝出現までの8世紀間、各地で割拠していた王国は統合へ向かうが、中国文明にはいくつもの重大な転機があり、その間伝統や統治者が執り行う儀式を基礎として、独特の政治哲学が誕生。その根底には、君主とは天命を受け、徳によって国を支配する賢者であり、それゆえに忠誠を尽くすべき対象であるという揺るぎない思想があった

この思想の形成において重要な役割を果たすのが孔子

西周は400年続き、天命の概念が変化。BC1059年文王の統治下で、王朝の盛衰の理論と結びつく「命を革(あらた)める」という広い概念へと発展、天上の最高神、上帝によって認められたものとされ、上帝はこの時期天帝と呼ばれ周の最高神となり、君主制を支える政治的イデオロギーと政治哲学が形成され始めた。孔子も「周公(周公旦:武王の弟で王朝の基礎を確立)に倣う」を信条とし、周は黄金朝となった

宇宙は道徳的秩序と見做され、それを基礎として地上での秩序を織りなす道徳的価値観が形成され、高潔な統治者は天と人間の世界を仲介する。文革における毛沢東の個人崇拝は、人々が「偉大な操舵手にして指導者」の美徳を信じるようさらに促した

l  孔丘――孔子

BC6世紀、周(東周)は衰退し秩序は崩れるが、中国の政治的伝統を確立することになる思想の黄金期が形成され、孔子(BC551頃~479)がこれらの思想を体系化

孔子は、東周の属国・魯の首府だった現・山東省曲阜(きょくふ)市の生まれ。文革時代には共産主義者から忌み嫌われ、墓も暴かれたが、今では完全復活。祖先については諸説あり判然としないが、周の祭祀のしきたりに詳しく、宮廷で活躍し、その後弟子たちと諸国を巡り、学問と教育に取り組む

l  統一を求めて

孔子は、「天下」の統一支配の利点を初めて提言――当時の魯国の反乱に言及、「天下に道が行われていれば、礼や楽、あるいは征伐は全て天子から起こる。天下に道が行われていなければ、それらは諸侯から起きる。諸侯から起こるようになれば10代はもたない。諸侯の重臣である大夫(たいふ)より起こるようになれば5代ももたない」というのが主張の核心

知識人の役割として重要なのは、「道」を決めること。道が失われた場合、賢者は何をおいても世の中を改革し、道を軌道修正し、しきたりを明確にし、君主に助言する道義的義務を負う。それゆえ、中国哲学の主題は政治であり、中国の思想の中心的な関心事は政治と倫理。ヨーロッパでは全く異なる概念上の道筋を歩み、ローマ法とゲルマン法によって形成された王権制度は、政治的権力とは分離した法規範を発達させた

公正な秩序を築く最善の方法は、法による支配ではなく、教育によって教え込まれる祭祀と道徳のしきたりを通じて実現されるものと考えた

l  枢軸時代

ドイツの哲学者ヤスパースは、孔子の生きた時代を人類史上極めて重要な時期とし、「枢軸時代」と名付け、「人類の精神的基盤が、中国、インド、ペルシャ、ユダヤ、ギリシャにおいて同時期にそれぞれ独立した状態で構築され、人類は今もなおそれを拠り所にしている」

 

第4章        始皇帝と中国の統一

BC240年代、野蛮な王国秦が周を滅ぼし、中国全土を支配。わずか15年だったが、今日まで続く支配構造と思想の輪郭を残す。周末期の戦国時代(BC480年代から同221)には、孔子の説く「徳」の概念は受け入れられず、統治体制の統一こそ「道」の原則を実践する前提条件とされ、その実現のためには力をもってすることが認められた

秦はBC230~同221年にかけて、周辺諸国を征服、新たな法制度によって国家の秩序がもたらされ、改良された度量衡と貨幣、文字を導入

l  始皇帝

BC247年王として即位、BC221年中国統一を果たし、始皇帝を名乗る

焚書坑儒など残虐な話が多いが、近年の発見では、成文法による統治の実態が明らかになりつつある。法の適用は非情だったことが窺われる

l  人々の暮らし――里耶(りや)の竹簡による新たな証拠

2002年発掘の里耶古城遺跡からは役所の記録が発見、人々の暮らしの詳細が明らかに

多くの人々が読み書きの能力を備え、秦にとって情報収集が重要だったことが判明

l  兵馬俑の肉声――戦場の兄弟

書き言葉と並ぶ秦の重要な支柱は軍隊

l  始皇帝の建設事業

自らのために壮大な記念碑を残す――渭水の南に建てられた阿房宮はその1つで、贅沢な装飾は他に類を見ないと言われた。690m115mの正殿は「天国の宮殿」と呼ばれた

l  ギリシャ人の影響?

のちに司馬遷が始皇帝のために巨大な像が設置されたという記述を残し議論を醸しているが、この大規模な具像芸術は、ヘレニズム期のギリシャの影響という説がある。BC4世紀ごろアレクサンドロス大王がペルシャを征服しインドと中央アジアになだれ込んだという史実から、東西間の文化交流の可能性が示唆されている

l  陵墓の陶工ベル

兵馬俑からは製作に携わった約90人の陶工の名前が刻まれているのが発見され、宮廷の陶芸工房に雇われた職人と推定される

l  始皇帝陵

始皇帝は自らの陵墓建設に膨大な資源をつぎ込む。敷地100㎢、地下宮殿は地下30m460mx390m、高さ4mの壁に囲まれ、その中に埋葬室があるとされ、全貌はいまだ不明

l  秦の滅亡

皇帝の死後6年足らずで、大規模な農民反乱により帝国は崩壊。BC211年には黄河下流域に隕石が落下し、そこに皇帝の死の予告が刻まれていた

始皇帝が残した遺産は、武力による統一国家と、「全能の皇帝」という暗澹たるモデルで、その後の中国の政治的文化の中心に絶え間なく緊張感をもたらす

l  中国初の革命?

始皇帝の時代は革命そのもの。新たな時代を切り拓き、統治者を歴史の中心に据えた

中央集権化された官僚制度を導入し、皇帝の意志に従う単一国家という理念を強化

秦帝国は短命に終わるが、統一された中国に対する支配権は、行政機関と法の制定者を兼ねた単一の立場を源泉とする、という原則を後世に残した

毛沢東も、自らをマルクスと秦の始皇帝の融合と称した

 

第5章        漢帝国

農民出身の劉邦が反乱で興したのが漢。400年にわたり統治と文化に偉大な成果を残す

l  秦の打倒

BC210年、始皇帝が客死すると、息子が即位したが、重臣と王族が後継をめぐって対立、住民の不満が一気に高まる。最初に反乱を起こしたのは強制徴兵された農民たち

農民出身で田舎の役人から県令になった劉邦が率いる農民軍が、勇猛な武将だった項羽の率いる反乱軍に合流して秦軍を破る。反乱軍内部での覇権争いに勝った劉邦がBC202年間帝国を興し、天命が下ったと告げる

l  漢の形成

劉邦は、秦の官僚制度、法治主義を維持しつつ、貧しい人々を助ける改革を推進、武帝の治世(在位BC141~同87)には全盛期を迎える。再び孔子が重視され、儒教に回帰

漢の儒学者、董仲舒は、漢は王政の模範である周王朝の正統な後継者であることを証明

儒教的ヒューマニズムと法治主義的な苛烈さが融合した漢の体制は、孔子の歴史観によって力を得て、20世紀まで生き続ける

l  匈奴との戦い

帝国の北端に沿って、カザフスタンからアムール川にかけて勢力を伸ばしていたのが半遊牧民の部族連合である匈奴で、劉邦は一旦敗れた後、和平と同盟政策に転換

l  歴史の誕生

BC110年武帝の時代に武力で優位に立ち匈奴を平定するが、この時宮廷の役人として従軍し記録を残したのが司馬遷(BC145~同87年頃)。中国で初めて天命が示した見通しを裏書きするために歴史が残され、歴史を記すのは、時代を超えて正統な伝統の価値観を守るためであり、その価値観の中心にあるのが孔子や弟子が定めた祭祀と道徳、歴史だった

l  司馬遷の旅

父の司馬談が「1000年の皇統」を継ぐ目的から私的に編纂していた未完の歴史書を引継ぐ

l  蚕室

BC99年、匈奴に負けた将軍を弁護したことが武王の逆鱗に触れ死罪となるが、父の願いを叶えるためにあえて宮刑を受け入れ、痛みと屈辱に耐えて歴史書を著す道を選ぶ

司馬遷の記述は宗教と神話の要素が非常に強く、道徳的要素もまた色濃い。彼にとって歴史は道徳の最大の源

l  漢の統治下の暮らし――鄭村からの眺め

漢代の中国は農耕文明であり、それは20世紀末まで続く

中国の農業形態は、農場というより販売目的の菜園に近い

l  4000年にわたる農民」

中国の歴史を通してこのような農村の特徴はほとんど変化がない

相当効率的な農法が実践され、極端な倹約が行われていたのは間違いない

無欲さと宿命論――楽観主義や忍耐、実直さ、共同体意識といった幾つかの人間性が、繰り返し降りかかる災いに向き合う力にもなっている

l  奴隷の身の上

最下層には罪人や破産した農民などがいて、国家事業を支える強制労働の担い手となった

l  書記官たちの帝国

秦の法治主義に基づく統治モデルを漢の統治者たちも継承し、自分たちの意志に沿うように修正したが、後世のすべての帝国はそれを基礎とした

文字は秦代に標準化され、漢代には国のあらゆる階層で用いられるようになり、特に書記官は、政府の力を帝国内の各地に行き渡らせる役割を担い、民を監督し、労働を搾取・管理し、罰していた。その仕事は家族で営まれ、代々受け継がれた

統治の道具として筆記を管理する手法は、漢の支配体制の中核に位置付けられた。筆記は人類の啓蒙よりも搾取に有利に働き、コミュニケーションの手段としての本来の機能は、人間を隷属化することを助長

l  西との関係――シルクロード

中国の西アジアとの交流は、秦の時代にすでに始まっていた。中央アジアにはギリシャの文化が浸透し、漢の時代にも、西域諸国への使節団が派遣される

l  漢帝国の運営――シルクロード沿いの駅站の暮らし

中国の西の果ては甘粛省で、その先は砂漠地帯だが、漢時代の郵便制度は新疆や内モンゴルにまで及び、中継拠点の駅站(えきたん)が伸びていたことがわかっている

l  三国時代から隋の時代へ

200年頃、漢は内戦により分裂。208年南北の勢力による赤壁の戦いでは、長江以南を征服して漢の再統一を目指す北の曹操に対し、南の孫権と劉備が対抗、漢王朝は終焉に向かい、350年以上にわたる分裂期を迎え、魏晋南北朝とも呼ばれる

漢時代、黄河の下流域に集中していた人口は、湿地帯の長江流域の亜熱帯地域への移住が始まり、米文化が発達・拡大、人口も急増

581年、中国は北の有力者・楊堅により再統一され、随王朝を開き、文帝を名乗る

南北朝時代は、北魏華北を統一した439から始まり、が中国を再び統一する589まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。この時期、華南には4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。三国時代五胡十六国時代・南北朝時代を合わせて、魏晋南北朝時代とも呼ぶ。

この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋やの時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明王羲之などが活躍した。

また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏五胡十六国時代の戦乱を収め、北方騎馬民の部族制を解体し、貴族制に基づく国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534東魏西魏に分裂した。東魏は550に西魏は556にそれぞれ北斉北周に取って代わられた。577、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581に隋の楊堅が北周の禅譲を受けて帝位についた。589、隋は漢族の南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。

隋の時代は繁栄期。人口が急増し、豊作が続き、華やかな唐代の基礎を築く

シルクロード沿いに中央アジアまで進出。大運河などのインフラ事業を成し遂げ、南北統一に貢献するが、急激な拡大に追いつけず、煬帝(ようだい)は高句麗との泥沼の戦いに引きずり込まれ敗北、国内でも反乱が勃発して暗殺され、辺境の騎馬民族出身の李淵が高祖(偉大な創始者の意)を名乗って唐を開く

 

第6章        唐の栄華

7世紀になると、中国の文明に中東、中央アジア、インドなど、周辺の文化から異質な要素が流入し、中国史の軸が移動。美術、文学、歴史における目覚しい文化的功績を記録するが、この時代に由来する外国の影響で最も重要かつ長続きしたのは仏教。仏教とともに交易が始まり、知識や芸術、哲学や精神をめぐる多様な概念がもたらされた

629年、洛陽近郊生まれの玄奘三蔵はインドに憧れ、天山山脈に沿ってタクラマカン砂漠を通り、アフガニスタンのバーミヤン渓谷を抜け、カイバル峠を超えてガンダーラに入り、カシミールで偉大な師から教えを受け、経典を書き写す

l  ユーラシア全域における7世紀の変革

東地中海ではビザンツ帝国が生き残りをかけアラブ軍と戦いを展開

アラブ軍は、1世紀もかからず、イスラム文明をスペインから中央アジアまで拡散

文明から外れた西の端ではアングル人、サクソン人、フランク人、ゴート人らがローマ帝国が放棄した地に移り住み、やがてそれぞれが王国を築き、キリスト教文明を復活させる

中国では、唐が世界最大の国際文明へと発展

l  内向きの文明だったのか?

現代の西洋において、中国は一枚岩の不変の文明であり、内向きで外部からの影響に抵抗してきたという考えが根付いているのは不思議。人や思想を遮断する万里の長城という防護壁の奥に閉じ込められた文明だとする見方は間違っている

シルクロードは、西は地中海、東は日本まで拡大、外部からの影響に常に門戸を開放

l  シルクロードにて

天山山脈の麓のスイアブ遺跡は、ソグド商人によって建設された隊商都市の跡であり、彼らこそ唐代のシルクロードにおいて大きな役割を果たした仲介者

640年代、唐の太宗は西に軍を派遣、新疆を通過するシルクロードを支配下に置き、軍事拠点を配置、スイアブにまで達して679年新たに防護用の要塞を築き西の前哨基地とする

l  唐――国家と首都

唐は617年新たな王朝の樹立を宣言、陝西省の土地に因んだ王朝名とし、帝国の中心は黄河中流域からタクラマカン砂漠や中央アジアの方向へ移り始め、中国の地平線を拡大。人口50百万を超す大国。長安に新たな都が建設されシルクロードの中国における終着点

l  玄奘の帰国

645年、カシミールで新たな人格を身にまとった玄奘が帰国、太宗に迎えられる

l  翻訳事業――中国の精神の開放(ママ)

玄奘が持ち帰った仏教の経典や仏像は、ある文明から別の文明へと運ばれた文化的荷物としてはこの上なく貴重なもので、仏教を信奉するインドで培われた英知を中国に持ち帰る

皇帝の支援を受け翻訳事業に全力を注ぎ、中央アジアからインド、日本を含む広域で国際空間が誕生、異文化交流に多大な役割を果たす

過去1000年にわたる中国特有の儒教や道教に対し、仏教は国を超越した普遍的な信仰で、学問的にも精神生活においても広大な世界を開くと説き、文明に大きな変化をもたらす

特に、7世紀後半~8世紀則天武后のもとで寺院が庇護され、文学や美術、彫刻などが発達

世界をまたぐ帝国が複数存在したこの時代には、稀に見る開放がもたらされた

初めてキリスト教使節団が中国にやってきたのもこの時期であり、太宗はそれを歓迎

l  発明の時代

唐王朝が世界に開かれたことにより、自国内でも文明の精神構造に変化が起き、様々な分野で高度な文化が発達、科学技術も飛躍的に発展、鋳鉄技術や木版印刷の発明は重要

l  唐の衰退

8世紀半ば、玄宗皇帝のもとで最盛期を迎えるが、雲南やカザフスタンへの侵攻で痛手を受け、天災も重なって飢餓に見舞われる

l  楊貴妃

玄宗皇帝の老害が極限に達したのが楊貴妃事件で、755年には安禄山の反乱に発展

内戦は8年続き、国土は荒廃し、人口は1/3に減少したという

 

第7章        衰亡

王朝は復活したが、中央政府の衰退は進み、領土は徐々に失われた

l  杜氏一族の別荘にて

杜佑(とゆう)は唐代の歴史家、漢代に遡る官僚の家柄で、中国の制度の包括的研究に従事し、810年『通典(つてん)』を編纂。中国初の制度史

l  転換期――広がる不安

国家には文化を共有する感覚が不可欠であり、文化は有能な人々によって運営される機関を通じて伝承されるべきだが、各機関は適切な人物を見つけられずにいた

その上、唐の初期には熱心に信奉され巨大な投資がなされた仏教も、今では異国の侵入に他ならず、原点回帰が求められた

l  迫害

840年即位の武宗は政府の立場を転換、仏教の破壊的弾圧を始め、暗黒の時代に向かう

l  杜牧―― 一族の村にて

杜佑の孫で詩人の杜牧は、仏教徒の迫害を目の当たりにして、文明の儚さを詠む

l  別れの挨拶

すべての仏教寺院の閉鎖が命じられ仏教徒は追放

l  失われた領域

杜牧は政治に幻滅し、不遇のまま自分の殻に閉じこもる

l  終局――黄巣の乱

860年には辺境地域で軍が反旗を翻し、中心部では農民一揆が頻発、天災の追い打ちも続く中、最後の一撃が黄巣の乱で、875年山東省・河南省を中心に黄巣という塩の密輸をしていたマフィアのカリスマを盛り立てた農民の一大反乱が起こる

7年にわたり、各地で反乱を組織、洛陽を占拠、長安に入城、皇帝一族を処刑

次いで、883年には人肉食が始まり、翌年には唐軍の反撃により殺害される

904年長安は完全に破壊され、907年唐最後の皇帝が殺害され、唐は終わりを告げる

 

第8章        五代(五代十国)

宋が勝利宣言した1005年までの空白期間は5代の王朝が興亡――後梁(こうりょう、907923)、後唐(こうとう、923936)、後晋(こうしん、936946)、後漢(こうかん、947950)、後周(こうしゅう、951960)だが、何れも小国が割拠した分裂状態

l  当代きっての官吏

王仁裕(おうじんゆう、880956)は、五代のうち4つの王朝に仕え、7つの宮廷で名声を馳せた。辺境の地に生まれ、孤児から身を起こし、四川の蜀で大臣に上り詰める

l  歴史

王は歴史の観察者。秦州に始まって蜀の後は後唐、後晋、遼、後漢、後周に仕える

l  文明と異民族/歴史の意味

940年代になると、異民族の軍隊が中国の中心部を駆け巡り、洛陽も陥落するが、それは伝統的な中国の思想では、天命の変化の到来を告げる印だった

王は、あらゆる秩序が破綻し天の偉大な君主の保護の手が差し伸べられないと言って嘆く

l  中国の再統一

王が亡くなった時、黄河沿いの開封周辺を基盤とする中原の王朝・宋が誕生しつつあった

954年、河南の高平の戦いで後周軍の趙匡胤が敵対する北漢と遼の連合軍を破り、1世紀以上にわたる混乱の連鎖を断ち切る。皇帝が死去したため、趙が推されて皇帝に即位

l  宋の誕生

960年新王朝誕生、趙が宋の太祖となる。967年に5惑星が一堂に会したことが占星術師たちによって確認され、516年に1度しか起きない現象で、2000年前の周の勝利を決定づけたものの再来として、天命が裏付けられた。偉大な思想家朱熹が、中国の歴史の循環が蘇ったとし、孔子の教えの復活として、新時代の思想家や統治者に活力を吹き込む

太祖は976年死去、1005年に最後の勝利を収めて統一したのは弟の太宗

 

第9章        宋代ルネサンス

中国は再び地上で最も偉大な文明として浮上。人口は1世紀で倍増し世界の1/4を占める

中国でルネサンスに相当する状況が現れたのは1012世紀の宋の時代で、洗練された新し儒教の時代が築かれる。商業経済や技術的進歩は中世の西洋を上回る

宋は、内部の統一に注力した結果、周辺国とは密接な外交関係を築く必要に迫られ、こうした状況が中国人の世界観に変化をもたらす。天下は今や大陸を近隣の国々と分かち合っており、交流は外交だけに留まらず、人、物、思想の有意義な交流があった。他者に関する知識が増えた結果、国民にとっての国家の意味が定まり、新たに定義された中国という概念への忠誠心が育まれた。支配体制そのものが変化し始め、貴族制が崩壊し、実力主義の科挙によって選ばれた官僚に主導権が移る。印刷技術の普及により知識の共有も進んで本格的な文学が登場。中国人は従来とは異なる自己意識を抱くようになり、自己中心的な視点ではありながら、自らを多くの偉大な国々の中の一国と見做すようになった

太祖や太宗は、大規模な文化事業に着手し、中国史上屈指の創造的な時代が到来

l  新しい都――開封

新たにできた宋の首都には、ユダヤ人やイスラム人のコミュニティがあった

l  祝祭の都市、夢の都市

《清明上河図》という幅6mの絵巻は、開封が1126年北方民族の手に落ちる10年ほど前の平和の時代の都市生活の光景を描いたもの

太祖はクーデターにより権力の座に就いた元軍人であり、武将たちが力を握る限り、彼が築いた新体制もやがて危うくなると理解し、軍の重鎮を引退させ、軍が十分に教育を受けた文民による官僚制度に従うように政府を再構築、軍政を廃止し文民を重用することが中国史における決定的な進歩となるとした

l  科挙

隋の時代に始まった官僚の実力主義による登用制度を大幅に拡充した官僚試験制度を導入

儒学者の「文官」が支配者層であり、世界でも最も優れた統治制度が実現された

文化的復興の重要な側面――①宮廷の蔵書を収集し直す、②知識の体系化を目的とした大規模な書物の編纂、③技術的な変化=印刷への移行

印刷技術を利用して知識を広く伝えることが可能になる

その他の科学的研究と発明が進む――水力による紡績機、溶鉱炉、鋼鉄の製鋼法、北極星の位置の確定、航海術、人体解剖、教育制度も大きく修正

科挙は1905年正式に廃止されたが、その影響は現代にまで受け継がれている

 

第10章     北宋の滅亡

宋の輝かしいルネサンス期には歴史上類を見ない数々の進歩があったが、最終的には自然災害、外敵による侵略、統治の破綻のすべてが重なって蝕まれた。当時これらの難題に取り組んだのが、カリスマ性のある政治家王安石、歴史家の司馬光、偉大な女性詩人李清照

宋は戦争によって築かれた王朝であり、王朝の基盤は軍事力。経済革命のお陰で最盛期には140万という大規模な軍隊を維持、辺境の異民族と対峙。軍事技術も飛躍的に発展

l  1048年の自然災害

河川管理は政治運営の要だが、夏の高温でチベットの雪解けが進み、黄河が開封の北東で決壊、多くのところで翌年末まで水が引かずに北部は大飢饉に繋がる

l  洪水後

洪水は治水工事の積み上げを根底から覆し、インフラの復旧・再建に伴う代償は大きい

川の流れが南に移動して河北の地域がようやく好転し始めたのは80年後というが、それでもその後も塩害と砂に悩まされる

黄河の南側は洪水の被害もなく、首都開封は殷賑を極めたが、多勢の避難民によって人口が膨れ上がり、社会不安をもたらす

l  王安石(102186)――真の改革者

幼い皇帝に代わって難局に対応したのが江寧(現・南京)出身の王安石。若い頃から地方の役人として改革の必要性を訴え続け、神宗の下で宰相に上り詰めるが、’74年の大飢饉の再来で不満が鬱積して引退。秩序と無秩序が対立する中国文明の中心にある矛盾が露わに

l  司馬光(101986)

'60年代終盤以降、王安石の最大の敵となって対立したのが司馬光。同じく官僚一家に生まれ、勅命を受けてBC403年以降の史実を記した『資治通鑑』(1084年完成)を編纂

歴史の教育的な力を強く訴える内容で、中国でも唯一最大の歴史書であり、取り扱った範囲の広さと影響力では、「歴史学の父」司馬遷を凌駕する

神宗を継いだ哲宗に召され、人生最後の1.5年間を宰相として王安石改革の見直しを行う

l  衰退

経済困難に加え、周辺国からの攻撃に対する外交方針の誤りから、西夏との国境紛争を招き、軍事費の高騰から政府財政が破綻

l  「女性部屋」からの声――李清照(10841155)

司馬光が王安石の改革に警鐘を鳴らしてからも開封の黄金時代は半世紀続き、その間都市部で女性が果たす経済的役割が拡大し始める一方で、上流階級では女性が家庭に閉じ込められ、纏足(てんそく)が広まり始める

済南市に生まれた李清照は、早くから詩人として名を成し史上初の女性による自伝を残す

l  崩壊――皇帝徽宗(きそう)

北からの新たな敵女真(じょしん)人の国・金が1126年開封を包囲(靖康の変)、宋の政府は降伏し、すべてを失う

l  北の地への連行

徽宗・欽宗の父子は捕虜となり満洲に連行

 

第11章     南宋――11271279

地形、気候、言語による南北の根本的な分断と、唐代に始まった経済、社会の南北の重心の移動が恒久的なものとなる。南部は中国国内で最も豊かで人口の多い地域となる

l  男性によってつくられた世界

李青照は、夫とも死別し避難民として各地を転々としながら、男たちの失敗について語る

l  時代を客観的に見つめた女性

女真人の侵略は南に進み、李青照の放浪は続く。やがて政治や軍事問題にも目を向け、政治的な詩を書き始めるが、男社会では受け入れられることはなかった

l  南への遷都――杭州(臨安)

王朝は長江の南に新たに都を定めて新王朝を開き、南宋と呼んだ

宮廷が杭州(臨安)に再興、風光明媚で知られ、「天に楽園あり、地に蘇州・杭州」といわれた

徽宗の息子(欽宗の弟)を新皇帝高宗に擁立

l  宋後期の変化

南宋は繁栄し、中国の人口は1世紀で倍増、1億人に達した。多くは南部、特に長江流域とデルタ地帯に集中。食糧生産と食生活の向上が支える。沿岸を整備、防衛力強化のため、1132年には常備海軍設立

l  新たな首都

国の分断が常態となったため、南宋の首都として新たに杭州に宮殿が造営され、たちまちにして100万都市となる。10階建ての高層都市で、官僚によって支配された都市ではなく、交易都市であり、国際貿易の一大中心地となる

l  「今に息づくこの文化」の伝承

各地で商業主義が広まり、新興商人のエリート層が生まれる

l  宋代から続く一族

長江を遡ると、各地に先祖代々続く一族が生き残った歴史が刻まれている

l  先祖とともにある家――新たな儒教徒

長く続く一族は先祖を大切に祀り、儒教的価値観を垣間見ることができる

l  宋の儒教再興――朱子(11301200)の信奉

13世紀に宋代中国の精神を形成したのは、思想家・儒学者の朱熹(尊称が朱子)

朱子は、儒教の基本的な概念を再構築し、南宋中国の文化と政治をあるべき状態に戻すことを重視。教えの中心にあるのは、道徳の向上という考えで、共感こそが良好な人間関係の基本。家族を出発点とし、先祖という永続的な存在は祭祀によって呼び出され、家庭の儀礼に関する実用的な手引きの『家礼』は日本やベトナムにも影響を与えた

l  モンゴル人――南宋の滅亡

大量印刷技術がさらに普及したお陰で、書物と学校が飛躍的に普及し、識字率も大幅に向上、地方の出身者たちは国の政治においてますます重要な役割を果たすようになる

北部では、1206年にはチンギス・ハンが全モンゴルの支配者となり、1209年にはタングート人の西夏を圧倒した後、女真人を放逐、1215年には燕山山脈を越え北京に大都を築く。1260年代には孫のフビライ・ハンが長江河口を封鎖して南宋に迫り、新王朝の設立を宣言、大元(根元的力)と称す

 

第12章     元――モンゴル帝国支配下の中国

13世紀、モンゴルによる世界帝国の一部となる。元は短命だったが、西ヨーロッパと中国の直接的交流を初めて実現し、ユーラシア大陸へと世界を大きく切り拓いた

モンゴルの征服が終わって明の時代になると、異民族に征服された経験から、専制国家へと舵を切る

l  根元的な力

1271年、モンゴルは新王朝の成立を宣言。「大元」と命名、『易経』にもあり「根元的な力」を意味する古代の名をつけることで、古代の伝統への敬意を示しただけでなく、広い地理的境界の中で、中国という君主国を普遍的な存在として提示することができた

元は統治にあたり、南宋時代に支配階級だった儒学者の役人のみならず、多くの民族からなる外国人を積極的に登用

多くの学者たちは、天命がモンゴル人に下ったことを受け入れ、新たな統治体制に協力するとともに、モンゴル人の新たな支配者たちに儒教の理想に基づいて国を治める方法の指南に全力を挙げ、公徳に重きを置いた適切な教育制度の重要性を訴える

l  大都――モンゴル帝国支配下の北京

大衆文化を含む様々な分野において格別に開放的、特に演劇文化が開花

126785年に建設された大都は、瞬く間に国際都市に変貌

あらゆる宗教が受け入れられる。チンギス・ハンはシャーマニズム、フビライは仏教

l  村からの眺め――安徽省棠樾(とうえつ)

モンゴルの征服は、地方ではしばしば暴力と混乱を伴う

長江の南の棠樾には、蹂躪と復活の記録が残る

l  旅――世界を開く

現代は、絵画などの芸術や思想、歴史において、重要な遺産を数多く残した。特に天文学は広く普及。モンゴル支配による大きな影響は、ユーラシア大陸各地への旅が活発化

1308年には大都にキリスト教会が設立され、大使館も開設

正確な地図が作製され、後世に残る世界地図は1389年の作製で、鄭和指揮の7度の航海(140533)の基礎となる

l  マルコ・ポーロ(12541324)――モンゴル帝国のイタリア人

モンゴルのハン国の間ではしばしば戦争が起きたが、商業的な環境は良好で、中国と世界の交流は活発。西洋からも使節団や商人が多く訪れる

マルコ・ポーロは、1271年父・叔父についてシルクロード経由中国にわたり、20年滞在し、長江流域の下級役人になっていた可能性もある

彼の旅行記は、帰国後の1295年戦争捕虜で投獄された獄中に口述筆記されたもので、真偽については種々の議論があり、定かではない

l  揚州のイタリア人コミュニティ

揚州(上海の北西200)3年滞在したとされるが、1951年同地のイタリア人コミュニティの存在を窺える痕跡が発見された。キリスト教宣教師を中心としたものと推定

l  中国からヨーロッパを訪れた初めての人物

モンゴルから西洋にも使節団が派遣され、その最初はモンゴル人のキリスト教徒ラッバーン・サウマで、1286年ペルシャに滞在。さらにエジプトやシリアを支配するマルムーク朝との聖戦に立ち上がるようヨーロッパの国々にモンゴルとの同盟を呼びかける

l  元の衰退

1294年フビライの死後、宮廷では内紛が生じ、拡大し過ぎたハン帝国は敵対するハン国へと分裂、漢滅亡期の三国時代のような混乱期になる

小氷河期の到来に伴い、ユーラシア大陸全般の気候変動を受けて政治不安が高まる

ヨーロッパでは、131422年の大飢饉により、人口の1/10が死亡。中国では1320年代初めに黄河がたびたび氾濫を繰り返し作物が大打撃を受け飢饉が起きて、大量の避難民が発生、政府は「匪」と呼んだが、彼らが各地で反乱を起こし、革命が不回避の状態になる

l  黒死病

1330年代初め、飢饉と洪水に次いで疫病が蔓延。14世紀にヨーロッパで大流行したペストが中国にも出現。この時期中国では人口の1/3が死亡したことが示唆されるところから、多くが疫病によるものだったことが推測される

千年王国説的な終末論に突き動かされた反乱が各地で勃発、社会不安が広がる

l  村からの眺め

反乱軍の最初の舞台は湖北省北部と、河南省との境界に沿って伸びる「大別山」。長江と華北平原を隔てる山脈で、1418世紀反乱の温床となった場所、明の創始者となる朱元璋もこの地の出身。貧しい者たちが富裕層に対して仕掛けた階級闘争でもあり、異民族支配に対する漢民族の反乱でもある

8つの勢力が皇帝の座をめぐって覇権争いを繰り広げ、内乱は17年続く。根底にあるのは階級闘争

l  繫栄する蘇州

覇権争いが最高潮に達したのは長江下流域。長江沿い南北に、揚州と蘇州が対峙

揚州の反乱軍が蘇州を包囲

l  「写懐」

蘇州は、女真人に破壊された後、漢民族の商人や紳士階級によって贅沢に再建され、モンゴル支配下で繁栄

元代には、社会における名家の女性の地位は、宋代に比べて後退。法的にも社会的にも低下し、中流階級以上では女性の隔離が一般化、権利も軽んじられた。纏足で閉じ込められ、社会不安によって憂鬱な病状が進み、想いを詩に託すしかなかった

l  呉王――元の滅亡と明の誕生

蘇州を占拠した反乱軍を率いる「呉王」は中国全土の統治者を名乗り、王国は11年存続

フビライの末裔は、1368年大都を放棄し、モンゴルの草原に逃げ延びる

南京で権力を蓄えた朱元璋が、江南の覇権をかけて呉王に挑み、1367年蘇州は陥落、呉王を処刑して自ら皇帝を名乗る。農民出身で、疑り深く、粗暴で残酷、非情ながら、独創性豊かな天才でカリスマ性を持つ

 

第13章    

初代皇帝のもとで官僚専制政治が確立

終盤には、裕福な中産階級の文化が花開き、芸術や文学の分野で多くの功績を残す

朱元璋(132898)は、安徽省生まれ、飢饉から農民の反乱に加わり、南京を拠点に勢力を伸ばし、蘇州を落として、1368年元号を「洪武」と定め、新王朝「明」を開く

l  戦乱の終結者・朱元璋

教育こそ満足に受けていなかったが、策士で先見の明があり、頑固で冷酷、次第にパラノイアに陥り、夥しい数の人を殺害する。支配者としての地位を固めると、南部の抵抗勢力を制圧し、大都からモンゴル人を駆逐、漢文化の再興を目指す

l  南京――「南の首都」

南京を新たな首都とし、明の支配力と正統性の象徴とした。20年かけて新首都を建設、全長35㎞、高さ18mの城壁は世界最長。洪武帝が目指したのは、村に根差した農民からなる巨大な共同体としての中国で、農業と繊維生産を主とし、商業は好まず、弾圧令を発したほど。「賦役黄冊(ふえきこうさつ)」の名で知られる人口調査と、土地台帳を作成

l  棠樾(12章参照)――村からの眺め

村長のところには、元末期の混乱期に荒廃して甚大な被害を受けながらも復興に努める様子が詳しい記録として残されている

l  専制政治の再構築――「賦役黄冊」

最初の戸籍調査は1381年、以後10年毎に実施されたが、洪武帝没後は不正や腐敗、疲労から正確さが急速に失われた

l  永楽帝の即位――強化される専制政治

洪武帝の晩年は被害妄想から残忍な粛清が始まる。1398年没後は、息子がなくなっていたため、孫息子が建文帝として即位、祖父の反面教師から慈悲深い儒教の精神に基づく統治に努めたが、燕王として北京の防衛に派遣された洪武帝の4男が反乱を起こし、3年の内乱(靖難(せいなん)の変)の後南京を陥落させ、永楽帝を名乗る

永楽帝は、都を北京に移し、20年かけて新首都を建設

l  中国の大航海

140533年、永楽帝の命を受けた鄭和は大艦隊を率いて、インドから東アフリカまでの大航海に出る。イスラム教徒で最高位の宦官で外交経験豊かな鄭和は、新たな知識や貴重な食物や珍しい動物を持ち帰るが、航海の真の狙いは今一つ不明。海賊と戦ったり、内戦に介入したりしたことを考えると、探検ではなく、中国と様々な朝貢国の両者にとって有益な交易関係を確立し、海上の貿易ルートの安全を確保するのが目的だったのではないか

l  「勇敢に行く…」

1424年、洪煕(こうき)帝が即位すると航海は中止、次の宣徳帝では再開されたが、鄭和の没後、政府は航海を禁じ、船を解体し、航海日誌まで虚偽に満ちた誇張だとして破棄

鄭和の航海は、多大な犠牲と引き替えに、多くの遺産も残した(ママ)が、その1つが貿易。15世紀に明が繁栄したのはこの時期に貿易が拡大したからとも言われ、南アジア諸国との長期的な貿易関係が切り拓かれ、中国で外国製品の取り扱い市場が拡大

一帯一路により再び西に手を伸ばすようになった今日、鄭和は拡張主義と海洋進出を推進する中国の自信に満ちた新たな世界の象徴として国家的英雄となっている

l  「快楽の混乱」――商業の発展

海洋進出の中断の背景には、1430年代のモンゴルの脅威拡大もある

1449年、正統帝が北京近くで大敗を喫し捕虜になり(土木の変)、万里の長城を大々的に改修するなど、防衛と歳出削減への意識が高まり、華々しい拡張の時代は終焉

国内では、安定した時代が長らく続き、各地に小規模な商業都市が誕生、経済の拡大と多様化が始まる。人口は2億を超え、世界の人口の1/41/3が明の支配下に集中

南部では人口の多いデルタ地帯が完全に復興、市場の成長が新たな都市富裕層を生み、専制政治の支配が緩み始める。発展の先陣を切ったのが蘇州で、長江貿易と製糸業によって成長、商業と製造業から富が生まれた

l  マテオ・リッチ

「対抗宗教改革」と呼ばれるカトリック改革の先頭に立つイエズス会の宣教師として1582年マカオに来たマテオ・リッチは、逆に中国の先祖崇拝という精神的基盤に圧倒され、1610年に亡くなるまで中国で過ごす。中国は、リッチから科学的知識を吸収、特に新大陸発見後の世界地図は、中国人が未知の大陸を初めて目にしたものだった

l  明の衰退

16世紀を通して帝国の経済は衰退。課税対象の農地は半分以下に落ち込む

自然災害も明の国家としての対処能力を弱め、万歴帝(在位15721620)は病弱で自堕落な生活を送り、周辺ではモンゴルやウィグル、チベット、倭寇の掠奪が横行

l  専制政治への抵抗

1600年代初期には民衆の不満が高まり、高等教育の普及で急増する中産階級が専制政治への反発を強める。明の初め、洪武帝は不平を伝える経路は常に開かれているべきと自ら訴えたが、次第に嘆願は疎んじられ、時に厳しく罰せられる事態も頻発

l  東林書院

17世紀初頭、無錫(蘇州の西北)の東林書院が反体制派の知識人によって私塾として開かれ、多くの知識人を輩出、反政府運動の拠点となる。東林派が求めたのは地方への権限の委譲

政権によって弾圧され、書院は消滅するが、東林派の思想は引き継がれ、知的抵抗は続く

 

第14章     明末

明は300年近く続き、特に後期には都市生活は活気と新たな可能性に溢れていた

人口が急増、市場とその周辺の町が拡大し、各社会階級での移動が大幅に増え、世界が開けつつある。大衆向け印刷業が発展、各種の本を幅広く供給。女性作家の全盛期でもある

l  夜航船――明の旅と観光

1600年初期、長江デルタと沿岸の平野部は、中国で最も豊かで文化的な地域に

この時期を代表する作家が、文人で歴史家の張岱(15971689)。著書『夜航船』は新興中産階級向けの中国文化の簡略版概説書。鄭和の航海までが収録されている

l  好奇心の時代

聖なる山への巡礼が人気で、特に泰山は「山々の王」として多勢が集まる

l  中国の偉大な旅行家

中国という世界の風景や歴史、文化に対する好奇心の高まりは、多くの文筆家に刺激を与えた。その代表が徐宏祖で、明を代表する文筆家であり旅行家

l  辺境からの眺め――非漢民族に接して

徐宏祖の最後の大旅行は雲南で、14世紀モンゴル人による入植がはじまるまでは未踏の地

中国の文化を取り入れた非漢民族や、チベット・ビルマ語族の先住民などが、「緩やかな統治」という政策により束ねられていた

雲南の多くの地域は無法地帯で、1621年の反乱以降、治安が乱れていた

l  最終局面――趙氏とともに

1640年代、沿岸地域では波乱が高まり、旱魃や水害に加えて、海賊による襲撃も相次ぐ

福建省南部の趙氏は、南宋創立者の一族に繋がる家柄で、地方の有力者として、災害の際には避難民の庇護にあたるが、治安の悪化には対処しようがなかった

l  反乱――方一族の場合

1620年代から各地で農民一揆が勃発。それまで安徽省で何代にもわたって学問に勤しんできた方一族も、階級闘争を呼びかける秘密結社に煽られた農民一揆に翻弄される

l  伯母維儀――文化を守る女性たち

方一族の維儀は、詩人で書家、17世紀でもっとも傑出した女性の1

l  明の滅亡

1635年、李自成が共産主義的スローガンを掲げて反乱を起こし、9年後に西安で王を名乗り、北京に進撃、明朝最後の皇帝崇禎(すうてい)帝は紫禁城で自害、李自成は順王朝を名乗ったが、女真人の満州人が明の将軍だった呉三桂と組んで南下し、李自成軍を駆逐、北京に入城し、新王朝「大清」の皇帝・順治帝を名乗る。翌1645年満洲軍は揚州を襲撃、南京にまで進出。武力によって制圧し、男は全て辮髪にされ、抵抗する者は容赦なく殺害

l  劉夫人の物語

征服者による殺戮を生き延びた女性で清軍によって連れ去られ、最終的に満洲人の側室から正妻になった夫人の物語が、回顧録として出版された

l  方一族の足跡を追って

満洲軍の侵入によって広州まで逃れ、出家して学問に専念しようとしたが、結局逮捕拘禁され死亡

 

第15章     大清――長い18世紀

18世紀には、外国からの旅行者や作家たちは、世界で最も繁栄し、最もうまく統治されている国として描写している。王朝は267年続き、世界人口の1/4以上を占め、物質的成功と政治的安定を実現

l  『西湖夢尋』

随筆家で著者の張岱は、明代の豪奢な暮らしから、満州の支配に逆らって放浪僧となり施しを乞う身となって戻ってきた西湖には、自らの夢の中の西湖が完全無欠で残っていた

l  満洲人による復興

よそ者である満洲人の支配下にあって、明の復活を呼びかける反乱は、白蓮教徒や義和団、さらには毛沢東が目撃した長沙での暴動など、清朝滅亡まで繰り返される

満洲による壮大な計画は、儒教の精神を再構築し、中国人よりも中国人らしくなることで、国家とその文化を再建、明の復活に繋がる

特に、康煕帝(在位16611722)、雍正(ようせい)(172235)、乾隆帝(173596)の統治期間に最盛期を迎える

l  清帝国とより広い世界

清による復興は急激な回復をもたらし、1660年代には人口は再び増加に転じ、南部の織物業は征服による荒廃から回復、耕作地の開墾が飛躍的に進み、世紀をまたぐ120年の間に50%拡大。「康乾盛世(こうけんせいせい)」と呼ばれた最盛期の行政と財政の基盤が構築された。従来の祭祀は新たな崇拝対象によって18世紀の間に改めて体系化

l  康煕帝

1911年、紫禁城で康煕帝の自伝的著述や手紙、覚書などが発見された

漢民族の教師から儒教的道徳を学び、粘り強く政務に取り組み、満州人と漢人の協働体制の下で大規模な立て直しを図る

l  聖諭(せいゆ)

最初に取り組んだのが、草の根レベルでの儒教の価値観を蘇らせること

1670年、康煕帝は「聖諭」を発布、16条各7文字からなる直後で、善良な市民の在り方を教えることを目的とし、国を1つに束ねるだけでなく、異端への対抗の狙いもあった

焚書や処刑など文筆家に対する迫害は続き、明に対する忠誠の痕跡には病的なほど神経をとがらせ、言論弾圧を行った

l  18世紀の曹一族の物語

康煕帝から寵愛を受けた一族の子弟だった曹雪芹は、1740年代から北京郊外に庵を構えて、清代の最盛期を舞台に、一族の100年を描いた物語を執筆。漢民族だったが、明の衰退によって曹雪芹の曽祖父は満洲の奴隷となり、新たな漢民族の中国人による宮廷組織再編に伴って宮廷に入り、曾祖母は康煕帝の乳母、康煕帝の乳兄弟だった祖父は江南全体の長官として南京に移り住み、康煕帝の命により偉大な唐代の詩を網羅した『全唐詩』を編纂したが、その後マラリアで急死すると、領地と称号を引継いだ息子が早逝、祖父の甥が養子となったが無能、その後で曹雪芹が生まれたが、康煕帝が亡くなると急激に没落、雍正帝によって蟄居を命じられる

l  古き北京の街で

l  小説としての世界――作家と検閲

雍正帝は、「文字(もんじ)の獄」と呼ばれる言論弾圧を行うが、1735年急逝した後の乾隆帝は追放された者を赦免、曹雪芹の父親も放免され、自由にものも書けるようになって誕生したのが『紅楼夢』で、大衆文学が再評価され、口語文学(白話小説)の代表作となる

小説が活字本として出版されたのは1792年、著者の死から28年後。高貴な人をあまりにもあからさまに風刺しているため、検閲や焚書を恐れて公にされることが抑えられた可能性もあるが、出版されると初版から名声は揺るぎないものとなった

l  現実を映した物語――「良妻荀夫人」の場合

清代の歴史学者章学誠の父方の従兄の妻荀夫人は1715年生まれ、両親から儒教の道徳観をしっかり教え込まれ、夫人はそれが女性の生き方の指針であるべきと信じていたので、一家が没落する中でも義父母だけは守ろうと試練と苦難に耐えた。その様子を章はつぶさに描写。歴史に埋もれた女性の生き様という章の視点は、19世紀後半に浮上する近代化をめぐる議論に至る長い序章の先駆け

女性の経験について前向きに語る無数の女性作家たちも登場

l  清の功績

ヨーロッパの啓蒙思想への影響など、西洋の歴史学者からの再評価が進む

イエズス会の宣教師たちは、清代中国を理性と礼節に基づく安定した君主制の模範と見做し、統治者としての清の皇帝は国政の基礎であると同時に、礼儀正しい振る舞いを啓発する上での模範と考えた

清は世界最大の経済圏にして多民族の帝国。一定の「世論」まであった

l  異民族を待ちながら

1751年、乾隆帝は清が接触するようになった少数民族など、世界の知られている303の民族の解説書の編纂を命じたが、急速に変化する地政学に適応する上で役立つものではなく、間もなくイギリス人と遭遇する運命にあった

 

第16章     アヘン戦争と太平天国の乱

18世紀中期、中国の版図は史上最大、乾隆帝の長い治世における文化的功績は華々しいものだったが、経済と社会の分野では問題が膨らむ。人口急増に対し、税収が上がらず、国の財政は安定を失い始め、賄賂やゆすりが日常化し、反乱に発展することも

l  マカートニー使節団

1793年イギリス軍艦が北京政府との貿易交渉の使節団を乗せて海河(天津河口)に到着

団長のマカートニーは、インドのベンガルでムガル帝国に勝利し、南インドをイギリス東インド会社に割譲させ、マドラス総督を歴任して中国へ

東インド会社は広東港を通して中国と1世紀以上貿易を行っていたが、厳しい制約があり、高い関税にも悩まされていたため、茶や絹の生産地にイギリス商人が居住できる領土の割譲と、より有利な交易条件を求めて乾隆帝への謁見を求める

使節団は、清側に体よくあしらわれた挙句、外交的要望は全く受け入れられないと通告され、西洋文化の粋を集めた献上品には何も珍しいものはないと目もくれず、茶、磁器、生糸などは西洋の必需品であれば分け与えるという態度だった。天主教についても認めず

使節団は、清から完全拒絶にあったが、中国は非凡な偉業を成し遂げた古代文明として生き延びてきたと映り、地方では情勢が不安定さを増していることを見て帰る

帝国は衰退の方向にあり、権力が瓦解した場合にはアジア貿易が根底から破壊されかねないとし、貿易上の権益を守るために動くことが求められた

l  乾隆帝の退位

沿岸部から南部内陸部にかけての治安が悪化し、反乱が頻発、安穏な世界を脅かし始める

1795年、乾隆帝は即位60周年を祝ったのち、息子に譲位、嘉慶帝となるが、上皇として権力を離さず。1799年、乾隆帝の死去によってようやく嘉慶帝が全権を掌握

辺境の反乱は拡大、アヘンや綿製品の輸入に大量の銀が流出し経済も困難に

徐々に知識層にも改革への思想が拡散、専制政治に対する反発が強まる

17961804年、白蓮教徒による反乱は、徴税への抗議に始まり、反満洲の反乱に発展

1813年、天理教徒の反乱は、農民の不満の受け皿にもなった

l  アヘン戦争

1820年、嘉慶帝が崩御すると、後継は道光帝で、善良だが無能

18世紀末から、ベンガルのアヘンの密輸が始まり、再三の禁止令にも拘らず取引は増加

1830年代末には中毒者の急増で深刻な社会問題になり、皇帝は取引禁止を目指し、儒学者で官僚の林則徐を大臣に任命、林は英女王に貿易の中止を要請

林は没収・廃棄の強硬手段に出たため、イギリスは1840年インド人傭兵からなる軍隊で珠江を攻撃、軍事衝突に発展。清軍は近代兵器の前に大敗を喫し、林は解任・追放

l  魏源――「富国強兵」

1841年、歴史家で官吏の魏源は、捕らえられたイギリス人を尋問。林則徐とも親友で、追放前に、イギリス軍の脅威と中国側の無防備を伝えていた

1842年、南京条約が締結され、イギリスの最恵国待遇と、沿岸の4つの条約港の開港、香港の割譲が決まる。中国にとっては初めての不平等条約

魏源は、戦争の記録を書き、清政府の政策を糾弾。翌年『海国図志』を著し、ヨーロッパ諸国による海上世界の支配と中国にもたらす脅威の高まりを論じ、近代中国の再興を標榜

ヨーロッパの侵略から身を守るためには東の沿岸の海防と、東アジアの海上における中国の影響力を主張することが、国内を守るためにも世界的地位を確立するためにも不可欠だと主張し、国家組織の強化を訴えたが、王朝の崩壊までは予見していない

l  アヘン戦争中の農村部からの眺め

南部内奥部では、試験制度によって教え込まれた儒教の精神が生きる上での血の通った規範として共同体に残ってはいたが、中央の画一的な統治が及ばなくなり、国は弱体化

l  神の天の王国を築く――太平天国の大惨事

アヘン戦争後の譲歩により中国の弱さが明らかになると、田舎の抑圧された農民は、新たな思想や予言などに影響を受けるようになり、その中でも新たに開港した地から西洋の宣教師が流れ込み、様々な運動が巻き起こる

洪秀全は、科挙に失敗した後キリスト教に感化され、農村の疲弊と政治の腐敗を見て、大衆の不満の受け皿を作り全国に広げていく。田舎のゲリラ戦が始まり、儒学と満洲人の皇帝、封建的な地主に対抗、1852年には10万の兵を集め、翌年には南京を襲撃して入城

彼らが目指したのは、その後の毛沢東の革命後に起きることを不気味なほど予見していた

l  大いなる恐怖

南部を広範囲にわたって掌握し、長江下流域の大都市に迫り、残虐行為の限りを尽くして都市を破壊。アヘン戦争より遥かに深刻な社会的打撃となる。知識階級も破滅

l  破綻

諸外国は既得権を守るために政府軍を支援、太平天国の北伐軍は惨敗。1860年の上海攻撃にも失敗して、1864年には南京城内に閉じ込められ、洪秀全も病死。翌年南京陥落

周辺の辺境では残党が抵抗を続け、一掃されたのはさらに7年後。死者総数は2030百万と言われ、長江流域では50年で人口が20百万減少したという

l  中国文化への衝撃

新たな学問の潮流を敵視する清政府の目を潜り抜けながら新旧の学問の融合を願った遠大な文化的改革の計画に歯止めがかかる。中国独自の啓蒙主義でもあったが挫折

 

第17章     中国の大革命――19世紀後半~20世紀前半

2つの戦乱を経てなお清政府は強靭で、改革者たちは西洋に使節団を送り、再建を模索したが、20世紀にかけて地方では毎年どこかで反乱が起き、帝国の綻びは明らか

186070年代、同治帝(在位186175)の治世下は「同治中興」と呼ばれ、「洋務運動/自強い運動」として西洋の技術を取り入れたが、有意義な政治改革には結びつかないまま、半世紀は政権は生き永らえ、民主主義思想の誕生や女性解放運動の始まりなど、20世紀の中国史における様々な発展のタネをまく。李鴻章によって軍の再建も進む

反乱鎮圧の将軍曽国藩は民政構造の立て直しを統括。南京と江南で大規模な再建に着手

l  同治中興――外国との文化交流の始まり

1860年代、欧米に若者を派遣して西洋から文化、科学を積極的に導入

l  西洋へ派遣された最初の大使

外交を通じ、世界とさらに本格的に向き合う道が開かれる

1877年、初めてイギリスに常設の大使館を開設。派遣された大使は英国内を回って知識を仕入れ、中国を技術によって近代化するとともに、近代性そのものを受け入れ、中国の偉大な伝統に固執する考え方を変えようとしたが、帰国後は保守派に批判され排除される

l  近代化をめぐる議論

国内社会は混乱、将来の議論が活発化。魯迅などの次の世代が出てくるまでの間、外部からの圧力があった――アロー号事件により内陸にまで自由貿易地が拡大、太平天国の乱の間諸外国は自国の利益を守るため部隊を投入

国内の改革派に対し、西洋からの借用と模倣こそ近代化の解決法と説く開国派もいて、1870年代以降はヨーロッパとの衝突が再び続くようになる

l  南部の小さな町

地方では、社会不安の高まりの中、古い秩序が保たれていて、儒教的社会の理想を支えた

18世紀に入っても統一された法制度はなく、社会福祉の負担の多くは各地域の共同体に降りかかり、貧民の救済のための付属施設が町の名士たちによって設立された

l  戊戌(ぼじゅつ)の変法

1894年、日清戦争の敗北で、諸外国が一斉に襲いかかる

国内改革の声の高まりを背景に、康有為の説得で光緒帝は1898年戊戌の変法に着手

科挙の廃止、教育への西洋科学の導入、立憲君主制の確立、迅速な工業化、資本主義の受け入れなど、大幅な変化を求める勅令を出すが、西太后率いる保守派の反対にあって挫折

l  義和団の乱

山東省で起きた農民一揆を率いたのが[義和団]として知られる秘密結社の義和拳教。自ら朱元璋の末裔を名乗り、明の復活を宣言、反帝国主義、反植民地、反キリストを掲げる

1900年、義和団は北京に迫り、西太后も義和団を支持して、列強に宣戦を布告

8か国2万人の連合軍が天津に上陸、義和団は容赦なく鎮圧され、連合軍による残虐行為が広がったが、日露の残虐行為については報道が許容されたが、文明の担い手による戦争犯罪は公にされなかった

l  頤和園の破壊

頤和園は、アロー号戦争に際して英仏軍によって破壊され、その後西太后が再建して夏を過ごしていたが、西太后が義和団を支援したことから再度破壊

清政府は賠償金として、現在価値にして600億ドルを40年かけて支払うことになるが、そのための徴税は大衆に大変な苦痛をもたらし、抑圧された人々が暴動を起こすのは必然

l  女性の視点――女性解放運動のルーツ

革命派は日本などに亡命して、引き続き中国の支配者層を糾弾、王朝を倒す計画を練るが、女性たちの間でも同じで、極端な父権的な社会で長い間不当な扱いを受けてきた女性たちだが、状況は変わり始めていた。1898年戊戌の変法の最中に上海に中国人経営の初の女学校創設、改革派の知識人にとって女性の教育は優先課題となる

女性解放を唱えた急進派の中で脚光を浴びたのは詩人で民族主義者の秋瑾(しゅうきん、18751907)。知識人の家に生まれながら、不幸な結婚の間に革命思想に触れ、反乱を目論む亡命者を追って日本にわたり、共和制運動に加わって女性解放を唱える

l  終焉前夜

190006年、江蘇省東部周辺では三合会と称する秘密結社による暴動が頻発

1907年、飢饉勃発で、中国は自国民ですら養えなくなっていた上に、暴風雨で水没まで

l  南部の村

地域社会は宗教的な対立や氏族同士の争いに悩まされ、その背景には人口増加、重税、土地の過密などがあった。徳と罰を組み合わせて裁定を試みる伝統的な儒教の秩序の末期

l  長沙の騒乱

1908年、光緒帝死去。西太后や袁世凱による掠殺との説もある

後継は最後の皇帝となる光緒帝の甥で2歳の溥儀で、国民感情は清朝をはっきりと敵視

特に激しかったのが1910年長沙の米騒動。長沙は極端に排他的で外国人を入れなかったが、1904年に開港して以降宣教師など大勢の外国人が居住。'06年の大規模浸水で飢饉となり食糧暴動が米騒動へと発展。その目撃者の中に1893年生まれの毛沢東がいた

l  中国を去る――アーサー・モウル

50年中国に滞在した宣教師のモウルは帰国に際し、中国で変化が起きていることは非常に大きな意味があるとするが、伝統文化をあまりに性急に捨て去ろうという動きについては大いに懸念を示し、自分たちの道を歩み、西洋のモデルに闇雲に従うべきではないとした

l  辛亥革命

1911年、長江中流の条約港、漢口(現在は武漢の一部)では洋務派の重鎮が、中国の学問を根本とし西洋の学問を利用する「中体西用」による近代化を進めていたが、民族主義者孫文の賛同者の軍の兵士たちが武昌起義と呼ばれるようになる反乱を起こす

反乱軍は他省にも合流を呼びかけ、湖北省で清の統治の廃止と中華民国の樹立を宣言

一旦は清軍が漢口を奪還したが、全土でさらなる蜂起が勃発し、和平交渉の結果、軍と銀行家、都市部の有産階級が団結し、中国が共和制国家であることを宣言、幼い皇帝溥儀は退位を強いられ、光緒帝の皇后だった隆裕皇太后が退位の詔書に署名。始皇帝から2132年、周王朝が天命を受けたことを宣言してから3000年近い時が流れていた

 

第18章     変革の時代――共和制から毛沢東の時代へ

191249年は、分裂の時代。新たに建国された中華民国は、常に不安定で、軍閥が各地を支配、日本による侵略、国共内戦を経て共産党革命により焼き尽くされる

l  中国初の選挙――山西省赤橋村からの眺め

1911年末、初めての議会選挙実施。金権選挙で、とても公正な方法とは言えない

1次大戦では、連合国に大量の労働者を提供。各地に戦没者の墓がある

1917年、連合国側で参戦。終戦後はドイツ占領地が返還されるものと考えたが、'19年の講和会議では山東省のドイツ権益が日本に譲渡され呆然とするばかり

l  19195月――五四運動

講和会議の決定を受け、天安門広場で大規模な抗議運動に発展。新文化運動の誕生で、年長者を敬う文化において、若者が声を上げる異例の展開で、彼らの願いは古いものを一掃し、西洋の民主主義と科学を基礎とする新たな文化を構築すること

古い学術界の古典的な言語(文言)への反発から、日常的な大衆の話し言葉(白話)を用いた、独創的な文学運動(文学革命)が生まれる。その要となったのが社会評論家、詩人でジャーナリストでもあった魯迅、本名周樹人、1881年紹興の裕福な地主の家に生まれたが、父親がアヘン中毒となり没落、帝国滅亡前夜に日本に亡命、帰国後は中国の病理を明晰に診断する優れた小説を次々に発表、ヴェルサイユの屈辱を味わった時代の代弁者となる

l  上海――世界の大都市

1920年代、30年代の中国は、極端な格差があって、発展に大きなばらつきがある国だったが、都市部では経済が急成長、上海の租界地区の外灘(バンド)などヨーロッパの租界が置かれた都市では金儲けができ、増加する欧米化した中流階級を呼び寄せ、近代化が進む

l  1921年、共産党の結成

1917年のロシア帝国の崩壊と10月革命は世界に衝撃を与え、共産主義思想が世界に拡散、マルクス主義思想は各地の植民地化された社会の解放のモデルとされた

1921年、中国共産党が結成され、第1回党大会を上海のフランス租界内で開催

長い間あまりにも根深い貧困と不公平、不平等に苦しんできた中国社会に、マルクス主義は今後進むべき、ユートピアともいうべき強力なビジョンを示す

当初中国に『共産党宣言』位の文献しかなく、レーニンやスターリンの肖像を押し戴くだけで、外国人を敵視し農民を支持する程度の民族革命主義でしかなかった

毛沢東の人柄についてはいまだにかなり不透明。中国では再評価されているが、欧米では人柄にまつわる評判は失墜、残酷かつ冷淡で卑しい人物と見做されている

1981年には共産党でさえ、晩年の毛沢東が誤りを犯したと認めている

l  孫文の死

孫文は1925年死去するが、彼の理想は、国民の80%以上が暮らし重労働に耐える貧しい僻地では夢物語で、対立する政党や思想家たちは、進むべき道を競って模索し始めていた

1920年代後半には共産主義運動は力を増し、毛沢東は革命は農村の大衆によって成し遂げられるという理論を実践に移す。マルクス主義者ではなく、民族革命主義者だった

l  1930年――農村からの眺め

変革しようと試みた中国には、様々な社会、異質な経済、異なる時代など、多種多様な要素が混在していたが、国共内戦や日本による侵略の最中にあっても、伝統的な精神世界は生き続け、文化の中核をなす複数の価値観が粘り強く伝えられてきた

l  革命

1931年、国民党政府による共産主義者弾圧が進む中、ソ連の支援を受けて毛沢東は江西省山間部でゲリラ軍(紅軍)を結成、「中華ソヴィエト共和国」の樹立を宣言

1934年、蒋介石の国民党は共産主義者の殲滅を目指し、共産党の長征が始まり、残党が延安に辿り着くが、この長征を通じて毛沢東の党内での主導権が確立

エドガー・スノー著『中国の赤い星』(1937年刊)20世紀で最も重要な中国書となる

中国に革命をもたらしたのは、帝国主義者の行動と一向に解消されない農民の窮状という2つの歴史的要因だったが、革命の方向を決定づけたのは日本の侵略

l  日本の侵略――赤橋村からの眺め

抗日の主力は国民党軍だが、紅軍は山間部でゲリラ戦を仕掛け、北部で権力を強化、共産党勢力が抗日勢力としてだけでなく、国家の指導者となり得る存在として台頭したのはこの時期で、日本の降伏とともに国内の統一戦線は解体し、国民党と共産党は激しい内戦に

共産党の土地改革は各地農村部の民衆から支持を集め、人民解放軍(1947年紅軍から改称)1年余りで失地を回復、国民党は次第に支持を失って台湾へ逃れる

l  古き北京の最後の風景

1949年、毛沢東は北京の天安門から新生中国の誕生を宣言。人民の苦しみの終焉を約束

l  毛沢東――小さな町からの眺め

田舎は相変わらず治安が悪く、50年代になってもかなりの間共産党に対する農民の反乱がおきていたが、やがて政治的緊張が高まり、過去の経歴が個人の不利になることが明らかになって、再出発が始まる。50年代半ばごろから「実生活」が変化、1957年には毛沢東は革命が徹底されていないと判断し、土地の再配分を基軸とする土地改革徹底のための階級闘争を指示し、党支配は独裁的であるべきとして抑圧的な国家を築いていく

百花斉放(ひゃっかせいほう)、百家争鳴と呼ばれる運動で国民の自由な発言が奨励されると批判が噴出し指導部は衝撃を受けるが、数カ月後毛沢東は彼を批判した人々を執拗に攻撃して迫害、始皇帝の儒者粛清を引き合いに出して正当化

l  大飢饉――「五風」

農村部を工業化するという破滅的な運動を推進、大規模な土木事業やダム建設が自然に対する戦争と称して進められたが、これらの誤った政策が50年代の終わりには大飢饉をもたらす。史上最大と言われた3年にわたる大飢饉は全て人災

村は「規模を大きくし、すべての財産を共有化する」という新たな秩序に組み込まれ、党幹部は好き勝手に物を持ち去り、農村の生産性は急低下、1日の生活時間迄決められ、土地に不適当な作付けを強制。村人は彼らを翻弄する「五風」について語り村は飢饉に陥る――共産化をめぐる理不尽な風、誇張と偽りの風、強制の風、生産目標の闇雲な指示の風、党幹部特別扱いの風の5つで、たちまち農村から人が減り、耕地は放置され荒廃

党の「四不」が追い打ち――死者の多さに対処するための指示で、遺体は1m未満の深さに埋葬してはならない(その上に作物を植えるため)、通り沿いに埋葬してはならない(葬儀を広く知らせないように)、追悼の儀式不可、死を嘆いてはならない、の4

l  プロレタリア文化大革命

1960年初期の時点で、ソヴィエト式共産主義の強制が失敗だったのは明らかとなり、毛沢東は国家主席を退き、1962年に新たに指導者となった劉少奇は大躍進政策が大飢饉の原因だったと非難し、種々の変革を行ったが、毛沢東は諦めずに1966年になるとプロレタリア文化大革命と名付けた運動を開始。若者を紅衛兵として動員、あらゆる権威を攻撃

彼を退けた勢力への復讐もあり、中国人が伝統的な文化や信念に忠実であることへも苛立って、古い習慣、文化、思想、風俗を「四旧」と呼んで打破を呼びかけた。魯迅や五四運動でも支持された考え方だが、アイデンティティに対する愛着を断ち切る辛い決断だった

l  チベット

文革で最も苦しめられたのがチベット。独立の王国だったチベットは18世紀にモンゴルによって侵略され、それを清が撃退して以降保護国となり、辛亥革命以後は事実上独立国として機能。1949年毛沢東が中共への加盟を求めたが、ダライ・ラマの評議会が拒否、

'55年には中国が侵攻、反乱を鎮圧した後、文革を持ち込み、90%を破壊し尽くす

l  毛沢東崇拝

中国全土での伝統文化の破壊は、世界にとっても文化遺産の計り知れない損失

毛沢東崇拝は、皇帝には「天の原理、人の心、重要性、正しさ、仁義、道徳の性質を決める」最高の権限がある、という中国伝統の中心部において揺るぎなく引き継がれてきた政治思想そのものであり、毛沢東死後も賢帝崇拝は引き継がれた

偉大な革命家として時代と大衆のニーズに応え、1つの支配体制によって統一したのは毛沢東の功績の柱であり、公衆衛生、教育、識字率で飛躍的な進歩がみられ、女性の役割と地位も大きく向上。一方で史上最悪の飢饉、文革や物質的進歩の名の下でなされた自然破壊の罪は大きく、毛沢東時代の功罪につてはいまだに論争が絶えない

党保守派の重鎮陳雲は、「20年前に死んでいれば不朽の名声を得、10年前でも欠点こそあれ偉大な人物だったろうが、1976年に死んだ。何を言うことができるだろう」と表現

 

第19章     新たな中国の台頭

1978年末、階級闘争の失敗で疲弊した中国に「改革開放」政策を打ち出して共産主義に背を向けたのが鄧小平で、国のインフラを大々的に再構築し途方もない経済発展を遂げる

1976年、周恩来が死去した後、河北省唐山(天津の東隣)1週間ほどの異常な自然現象や動物の動きの後大地震到来、町の85%の建物が崩壊、推定死者数25(詳細不明)

その1か月後に毛沢東死去。死後数年のうちに党は歴史に徐々に向き合い始め、若干立場を変える。功罪を73で評価、文革の誤りを一部認めた

l  鄧小平の復帰

毛沢東の後を継いだのは目立たない党員だった華国鋒で、鄧小平を批判し、毛首席崇拝を復活させる――文革の残忍さと恐怖を経てもなお中国の自己妄想に駆られた中枢部が依然として毛のカリスマ性に支配されていることを曝け出す

1978年、トップに立った鄧小平は、四川省の農民の生まれ、漢民族のマイノリティである客家(はっか)の末裔、16歳で渡仏し共産党に入党、'27年帰国後はゲリラ戦の軍事指導者となり、大躍進政策も支持したが、個人崇拝には批判的で毛の永続革命を批判して地方に追放され強制労働に就く。3度追放されながら党に対する忠誠心は変わらず

l  改革開放

1973年、周恩来が鄧小平を呼び戻し、鄧は国連で中国外交政策の新時代到来を宣言

'76年、4人組によって排除されるが翌年復活、1949年以降の出来事に真正面から向き合い、党の独裁体制の下で、資本主義を利用して社会主義国家を再構築することを目指す

現代化の鍵を科学と技術、教育に置き、最優先課題として取り組む

l  テレビに映し出された新時代

進展は迅速。75歳の老体が各地を回って指導部の過ちを認め、改革の趣旨を伝える

テレビの放送開始が変革の様子を各地に伝えた

l  小崗(しょうこう)――村からの眺め

195860年の飢饉で村の半数が餓死、'78年はどん底。死を覚悟して残った村民で土地を違法に分割、生産性を高めて生き延びることに成功

共産主義は中国文明の性格とは相容れないことが明らかになっていた

l  転換期

1978年、漸く党中央でも開放と改革が始まる

鄧小平は、毛沢東を直接攻撃することはなかったが、個人崇拝とイデオロギーへの無条件の傾倒を糾弾、国民の精神の解放と、事実に基づく真理の追求を説いた

l  中国の開放

1979年、アメリカが中国を承認、広州に経済特区を作って市場原理を導入

当時の広州の第一書記が鄧の革命の同志、習仲勲で、習近平の父親

l  民主化運動

鄧の民主化改革は経済の自由化のみで、その矛盾は10年足らずで露呈。改革は行き詰まり生産性は落ち、急激なインフレが到来、失業率も上がり、政治腐敗も始まって、党上層部でもイデオロギーをめぐる対立が深刻化、政治改革への声が高まる

1989年、天安門事件勃発。経緯については依然としてはっきりしないところがある

l  19896月、天安門広場

学生デモに対して寛容すぎるとして1987年総書記を解任された胡耀邦が2年後急逝、強硬派の李鵬が後任となったことが改革路線に背を向けたと受け止められ、デモが激化

5月にはゴルバチョフが北京を公式訪問、ソ連の開放と改革を伝え、改革派をさらに鼓舞

鄧小平は国内情勢の不安定から引退時期を引き延ばしていたが、中央政府は戒厳令という強硬姿勢に打って出るという過ちを犯す。改革派の趙紫陽は解任され自宅軟禁

鄧小平は、暴動が半革命暴乱だったと確認し、西側民主主義は「中国の状況」にそぐわないブルジョワのイデオロギーに他ならないと断言。必然的に規制が強化され、言論や報道の自由、集会の権利が制限され、21世紀に向けた党の道筋が築かれた

鄧は間もなく引退したが、残酷な弾圧は彼の功績に永遠に傷跡を残し、改革を失速させた

l  中国の台頭――19892020

鄧小平から改革のスピードを上げるよう迫られた江沢民は、「社会主義市場経済」という言葉を初めて用い、経済特区を上海に拡大

驚異的な経済発展に伴い、改革のモデルは保守派を圧倒、中国の社会と経済を変貌させたが、同時に極端な貧富の差と腐敗が生まれ、政治の開放は天安門以降停滞・頓挫

2008年、国内の知識人たちによってネット上で発表された『零八憲章』は、鄧小平の改革開放によって部分的に自由が回復され社会は成長したが、普遍的な人間の価値を欠いた現代化がやがて人間性を蝕み、人間の尊厳を踏みにじる過程で、不満が高まり続けると警告し、中国だけがいまだに権威主義的な生き方にしがみつき、結果的に人権災害と社会危機の絶え間ない連鎖を生み、中華民族自身の発展を阻み、人類の文明の進歩を妨げてきた。この状況を変えなければならず、政治の民主改革を先延ばしには出来ないとした

起草者の中心人物、劉暁波は懲役11年、10年にノーベル賞を受賞するが、17年病死

l  習近平時代

2012年末、地方行政官だった習近平が新たな指導者に――党自体がアイデンティティの危機に直面、歴史的役割の意義を信じられなくなっていた。その立て直しに邁進

国内では国家による国民生活への介入が強化され、検閲や監視による圧力が高まる

学生やジャーナリスト、法律家、知識人が禁じられている話題は「7つの禁句(七不講)」として党から内部通達され、特に党の過去の誤りについて論じることを禁止し、毛沢東の理想の蘇生に向けた地ならしをしている。共産党の絶対的権力が再確認されている

l  中国の夢は?

国家再生の次なる段階は、党の優勢の堅持、経済成長の維持、中国の文明とアイデンティティの歴史的偉大さを主張する大規模な活動の3つの政策が柱

急激な成長が続くことに伴う危険は、環境破壊が進むこと

l  天命は書き換えられるのか?

長大な中国の物語は、信じられないような人間のドラマ

現代中国の目覚ましい進歩に感心しつつも、明末期から清初期にかけての帝国の体制との不気味なほどの類似点を見る。今日の中央集権官僚国家はいくつかの点で、中国史に深く染みついた特有の歴史的傾向から逃れられず、過去の専制的な構造を再現している

中国の歴史のパターンには独自のリズムがあり、他の文化よりも長期的で穏やかな動き

有史以前から中国人はそうしたリズムが宇宙のパターンに映し出されるのを見ていた

五惑星会合こそ王朝の交代を知らせるものと考えられ、BC1953年夏王朝成立、BC1576年商王朝、BC1059年周王朝の成立を予言。漢と宋が幕を開ける時も会合が見られた。会合は516年周期とされ、次は204099

 

 

おわりに

新型コロナ対策では、党の秘密主義と言論の自由弾圧の典型が出た

2013年からは、強硬な国家主義的政策の下で、世界の覇権を争うようになる

中国史に登場したすべての王朝と同じ様に、未来に向かう道筋は、支配体制の持続可能性に依存する。現行の支配体制を維持するには、経済成長をもたらし続けなければならないが、現下の状況はさらなる経済発展を保証するとは言い難い

共産党が直面するさらなる難題は、国家に対する忠誠心、そして民主化をめぐって噴出した論争の行く末がどうなるかだろう

中国人にとっての伝統ある文明が理想とするものは、何よりも道徳的秩序だった。道徳的でない秩序は、いかなる統治にも欠くことのできない民衆からの信頼を失うことになる

 

 

 

 

禹→夏→商(/紂王)→周(文王・武王/太公望・周公旦)→秦→漢(劉邦・武帝)→随(文帝)→唐(李淵)→宋(趙匡胤)→南宋→元→明(朱元璋)→清

 

 

 

 

 

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年の人間ドラマを生き生きと蘇らせる!

「青銅器時代以来、中国の物語はあまたの王朝の盛衰の物語だった。単一の統一国家という理念がつねに追求され、それを支持する古代の政治権力のモデルは現在にいたるまで根強く残っている。賢明な皇帝が大臣と学者とともに中央集権化された官僚組織を率いるという理想は、本書でも明らかになるように、帝国の終焉後も中国文化の精神に受け継がれている」(本文より)

 

 

中国全史(上・下) マイケル・ウッド著

極彩色 無数の人間ドラマ

202324  日本経済新聞

編集子から書評執筆の話をいただいたのは、『中国全史』という同名の書物を著していたからだろう。当初いささか安直ではないか、と思うと同時に、著述というものの機縁と責任を自身にも感じざるを得なかった。読みすすめると、いよいよ後者の感覚が勝ってきて、逡巡のすえ、ついにお引き受けして文章をつづってみた。

とても中国らしい、極彩色の本である。活字の書物に極彩色というのもおかしい。さりながら、人・風景、政治・文化が色あざやかに見える印象なのである。

さすがに映像作家がドキュメンタリー番組にもとづいて作った書物だといってよい。身近に画像のあふれる現代にピッタリ、読者を中国史のさまざまなエピソードにいざなってくれる。

評者もその意味で、懐かしい気分に満たされた。歴史の表舞台で踊った権力者から、無名の庶民たちに至るまで、群像の横顔・発言、エピソードが満載。人間ドラマが好きな中国ファンにはたまらない。

だからといって、この本に中国史の全体を把握する構造的な理解を求めては、無い物ねだりになってしまう。そこはやはり映像・メディアと不可分な作品ではあって、個々の人間にフォーカスをあてても、かれらを衝き動かす本能のありかにまで、視線はとどかない。

時代・地域の区分も旧態依然な王朝交代の断代史にのっとっている。宋代の「ルネサンス」や明朝の「専制政治」など懐かしい言辞ながら、いささか違和感も覚えざるをえない。

あくまで中国史に明るくない英国人、ないし欧米人向けの記述なのである。それなら史実のディテールにまずアクセスするに好適の書物と割り切ったほうがよい。

そうした点でいえば、最近の欧米の研究成果にも目配りは周到、女性の「物語」が多いのも、ジェンダー史学の発展を反映したものだ。考古学的な発見を踏まえた先史時代の案内にはじまり、文化大革命後の経済発展から習近平政権におよぶ、台頭著しい現代中国にも、親切な叙述になっている。

日本が誇る中国研究の蓄積もうかがえる工夫を凝らした訳者の努力も多としたい。欧米人に劣らず中国の史実に不案内となりつつある日本人にとっても、よい道しるべではあるだろう。

《評》京都府立大学教授 岡本 隆司

原題=THE STORY OF CHINA(須川綾子訳、河出書房新社・上巻3630円、下巻3960円)

著者は英国の歴史家・映像作家。マンチェスター大学教授。

 

 

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