世界史で読み解く名画の秘密 内藤博文 2023.3.15.
2023.3.15. 世界史で読み解く名画の秘密
著者 内藤博文 1961年生まれ。大学卒後、出版社勤務を経て、現在は主に歴史ライターとして活躍中。西洋史から東アジア史、芸術、宗教まで幅広い分野に通暁し、精力的な執筆活動を展開。同時に、オピニオン誌への寄稿など、様々な情報発信も積極的に行う。主な著書に、『「ヨーロッパ王室」から見た世界史』『世界史で深まるクラシックの名曲』など
発行日 2022.9.15. 第1刷
発行所 青春出版社 (青春新書)
はじめに――すぐれた名画は、なぜ歴史を背負うのか?
すぐれた名画には、歴史を背負い、歴史によって世に押し出されたところがある
近世になるほど、画家は時代の煽動者ともなり、歴史を変えていく力を持ちさえする
この本では、西洋の名画の中にいかに歴史が紛れ込んでいるかを解説
1章
イタリア・ルネサンスの栄光と破壊から生まれた名画
1. ジョットとイタリア都市国家の胎動~中世を終わらせようとした”人間対立の宗教画”《ユダの接吻》
l 「イタリア絵画の父」ジョット・デ・ボンドーネ
代表作は《ユダの接吻》(1305年頃)《ラザロの蘇生》などの宗教画だが、その中に人間ドラマを描き込んだ。イエスを裏切ったユダが、イエスを捕縛しようと兵士を引き連れイエスに接吻する。「私が接吻する者がイエスである」と予め兵士に告げていた。接吻は裏切りの合図。ジョットの絵はその裏切りのどす黒さまでを描こうとしている
14世紀初頭、ジョットがそこまで踏み込めたのは、ルネサンスが胎動し始めていたからで、イタリア・ルネサンスの精神に影響を受け、中世から離脱していこうとした人物
北イタリアのパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂にある
l イタリアの都市国家の繁栄が、これまでにない絵画の時代を生もうとしていた
イタリア半島では多くの都市国家(コムーネ)が誕生、交易で栄える
ジョットは、キリスト教の禁じる金貸しでもあり、《ユダの接吻》を発注したのも礼拝堂を建立したスクロヴェーニという金貸しで、彼らの救済願望を叶えるために描かれた
l 中世にあり続けようとしたダンテ、中世から抜け出そうとしたジョット
ジョットの同時代人ダンテは1265年同じフィレンツェの生まれで、親交があったとも伝えられるが、世界観はかなり異なった
ジョットの「人間」を見ようとする精神は、合理性の追求にも繋がる。その力量によって、中世のゴシック絵画を集大成させたといわれる一方、その才知と精神によって新たな絵画を生み出し、ゴシック絵画を終焉に追いやった
2. ウッチェロとフィレンツェの躍動~なぜ”勝利の画”《サン・ロマーノの戦い》をメディチ家は望んだのか
l 実際のサン・ロマーノの戦勝に酔っていたフィレンツェ市民とメディチ家の関係
フィレンツェの繁栄の象徴が絵画で、マサッチョ、フィリポ・リッピ、フラ・アンジェリコ、ギルランダイオ、ポッライオーラなど多くの画家が集まる
フィレンツェのシンボルとなった絵画の1つが《サン・ロマーノの戦い》(1438年頃、ウフィツィ美術館)。1432年フィレンツェとシエナの間の戦争を描く3部作。遠近法が評価
メディチ家のロレンツォの間を飾るために発注され、フィレンツェの住民に信望を得つつ君臨しようとするメディチ家の深慮遠謀があった
l メディチ家が《サン・ロマーノの戦い》の所持者となることの意味
新参の財閥だったメディチ家のコジモが、一旦は失脚しながらも復活、愛国心を高揚させ、町の真の守護者を暗示しようとして、この絵を邸宅に飾り家宝にしたという
3. エイク兄弟とブルゴーニュ公国の繁栄~”奇跡の大作”《ヘント(ゲント)の祭壇画》の裸体が物語る豊かなフランドル
l 風景画から肖像画、裸体画まで、すべてが詰まっている奇跡の祭壇画
アルプスの北ではブルゴーニュ公国がフランドルまでをも組み込み台頭。その象徴がエイク兄弟の《ヘントの祭壇画》(1432年、聖バーフ大聖堂)で、12枚のパネルは、風景画から肖像画、裸体画まで全てにおいて近代の源流といえるほどの高いレベルにある
特徴の1つが油彩で、テンペラやフレスコに代わり、陰影が絵画に深みと静謐を与える
l 欧州屈指の富国ブルゴーニュの繁栄が、北方ルネサンスをもたらした
ブルゴーニュ公国の成立は1360年代、フランス王の弟によって建国されたが、次第にフランスから離反、バルト経済圏の雄として栄え、宮廷画家だったのがエイクで、後任のウェイデン、メムリンクやヒエロニムス・ボス・ブリューゲルらが登場
l 《ヘントの祭壇画》から見えてくる『中世の秋』の不思議な時代
ブルゴーニュ公国の繁栄の時代については、ホイジンガ著『中世の秋』に詳しい
キリスト教は禁欲を説いたが、《ヘントの祭壇画》に見る裸体画からは窺えない
l ブルゴーニュ公国と結びついて始まった「芸術の理解者」ハプスブルグ家の躍進
16世紀、ブルゴーニュ公国は消滅。1477年同公国の娘を嫁に迎えハプスブルグ家台頭の起爆剤となる。ブルゴーニュ公国に倣って芸術愛好家の系譜となり、デューラーを保護
4. ボッティチェリとフィレンツェの栄光の終焉~なぜ”史上最高の裸体画”《ヴィーナスの誕生》は一時、埋没したのか
l フィレンツェの栄光と絶頂から生まれた《ヴィーナスの誕生》(1485年頃)と《プリマヴェーラ(春)》(1477/82年頃、ともにウフィッツィ)
フィレンツェ・ルネサンスの代表作。非対称性・不均衡が煽情性を超えた次元に向かう
キリスト教の範疇にあった西洋絵画から、全くキリスト教を感じさせない古代ギリシャ・ローマの異教の世界を目指しており、フィレンツェのありようそのもの
l 既にフィレンツェの栄光の破綻が見えていたからこそ、はかない美があった
ボッティチェリは1445年頃の生まれ、メディチ家のサロンにあって愛されていたが、ロレンツォ配下のメディチ家は絶頂にありながらも金融業は破綻寸前にあり、実情を知ったボッティチェリは、今の美をこの上なく愛し理想化しようとしたのではないか
l 宗教改革の先駆サヴォナローラによってフィレンツェの繁栄は終わる
1492年ロレンツォが没すると2年後にはフランスがイタリア半島に侵入
メディチ家に代わってフィレンツェを支配したのがサヴォナローラで、強い禁欲を説いて宗教改革の先駆となる。ボッティチェリも、ミケランジェロも禁欲的な思想に心酔
l なぜ、ボッティチェリが「忘れられた画家」となってしまったのか?
禁欲が行き過ぎてサヴォナローラは追放され、フィレンツェには安逸が戻ったが、一旦心酔したボッティチェリに画家としての霊感は戻らず不遇な晩年を送り、フィレンツェの衰退に合わせるかのように数世紀にわたって忘却、復活したのは19世紀になってから
キリスト教世界と無縁の異教的で、耽美的な画は、宗教改革時代にあって忌まわしき存在
ミケランジェロの場合は、30歳も若く、自己否定までする必要はなかったが、サヴォナローラに対する共感は残っていたようで、《最後の審判》には断罪の記憶が込められている
5. デューラーとハプスブルク家の時代~”楽園の裸体画”《アダムとエヴァ》は、なぜイタリア動乱とともにあったのか
l フランス国王シャルル8世のイタリア侵攻と同時にあったデューラーの旅
ニュルンベルク生まれで、イタリア、ブルゴーニュ、フランドル以外からは初の大画家
宗教的な版画作品で知られ、《黙示録》シリーズ、中でも《アダムとエヴァ》(1507年頃、プラド)は油彩の傑作。北方ルネサンスでは初めて男女の肉体の理想美を追究
1494年、ヴェネツィアに旅行し、イタリア・ルネサンスを体験したことが大きく影響
ローマ教皇の策動のもと反仏同盟が成立すると、シャルルはすぐに撤兵するが、デューラーはルネサンス的裸体画の傑作を残す
l なぜフランス王はドイツ王よりもイタリア芸術に執着したのか?
フランスには芸術がなく、ドイツにはブルゴーニュやフランドルがあり、デューラーがいたからといえる
6. ラファエロとルネサンスの教皇たちの時代~”賢人の饗宴画”《アテネの学童》を生んだローマ教皇ユリウス2世の絶頂
l ルネサンスの巨人たちとギリシャの賢人たちをダブらせた《アテネの学童》
イタリア・ルネサンスの代表的画家ラファエロ・サンティの《聖母子》に並ぶ傑作が《アテネの学童》(1510年頃)で、ヴァティカン宮殿では《最後の審判》に次ぐ傑作
アテネの哲人たちの容貌のモデルは、ルネサンスの大物芸術家――プラトンのモデルはダ・ヴィンチであり、ユークリッドはブラマンテ、ヘラクレイトスはミケランジェロ
画の依頼者はローマ教皇ユリウス2世、権威を高める手段の1つが文化芸術の振興
l ラファエロを愛したルネサンスの教皇たちの進撃
ルネサンスの中心がローマに移ったことの証であり、歴代教皇は自らの権威を誇示するためにローマの繁栄を追求。ボルジア家出身のアレクサンドル6世の庶子チェーザレが跳梁し、教皇領を拡大。その跡を継いだのがユリウス2世で、芸術の庇護者を自認
7. レオナルド・ダ・ヴィンチとイタリア戦争~なぜ”謎の微笑の画”《モナ・リザ》はイタリアではなくフランスにあるのか
l 万能の天才が、野蛮人の土地フランスで終焉を迎えた理由
《モナ・リザ》がルーブルに所蔵されているのは、ダ・ヴィンチの流転歴の結末であり、イタリアの凋落の結果。勃興するミラノの君主ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)が、自らの権威を示すための都市改造にダ・ヴィンチを利用、《最後の晩餐》も描いたが、1498年仏軍の侵入により獄死したため、ダ・ヴィンチもミラノを去る
l イル・モーロ、チェーザレ・ボルジアと奸雄(かんゆう)好きだったレオナルド
ミラノの後、チェーザレが武器開発や建築の技術を買ってダ・ヴィンチを雇用したが、その没落後は職を失う
l イタリア半島の都市国家が衰退していく中、フランスに光明を見たレオナルド
1515年、イタリアを平定したフランソワ1世は、レオナルドの才能に魅了されフランスの宮廷に誘い、レオナルドは4年後没するまでフランスに滞在し、《モナ・リザ》と《洗礼者ヨハネ》を遺贈された弟子のメルツィからフランソワ1世が両作品を買い上げた
レオナルドが終生《モナ・リザ》を手元に置いていたのは謎のまま
2章
宗教対立の憎悪、ハプスブルク家の興亡から生まれた名画
8. クラナッハとルターの宗教改革~”妖しの裸体画”《ヴィーナス》の画家は、ルターの思想の宣伝者でもあった
l 独特の妖しさを秘めた《ヴィーナス》を描いたクラナッハとルターの関係
16世紀のドイツでデューラーと双璧とされるのが1歳下のクラナッハ。ルネサンスの影響は薄く、独自の画風を築き、妖しさと誘惑に満ちている。《ユディト》も同じ
画風は蠱(こ)惑的で煽情的だが、ルターの盟友であり、ルターの宗教改革の広告塔を担う
1472年生まれ、ザクセン選帝侯のあったヴィッテンベルクの宮廷御用画家となり、同地の神学教授となったルターと出会い、理解者・支持者となる
l 宗教改革者ルターのよき宣伝となっていたクラナッハの肖像画
神聖ローマ教皇に破門されながらザクセン選帝侯に庇護され、改革の主張を拡散していくうえで、クラナッハの描くルターの肖像画は市井の人間・ルターを宣伝する上で効果的。《マルティン・ルター》(1529年)を始め、ルターの生涯を描き続ける
l なぜルターはクラナッハの裸体画を咎めなかったのか?
ルターの宗教改革が広がってからも淫蕩ともいえる裸体画を描き続けるクラナッハをルターが咎めなかったのは、ドイツ社会がまだ鷹揚で、宗教的な寛容もあった
9. ティツィアーノとカール5世~《カール5世の騎馬像》に描かれた”孤高の皇帝”による大帝国の出現
l ハプスブルク家の大帝国を築いたカール5世に気に入られたティツィアーノ
イタリア・ルネサンスのヴェネツィア派一の巨匠ティツィアーノは裸体画が多いが、それ以外の傑作では《カール5世の騎馬像》(1548年頃、プラド)。「色の魔術師」の面目躍如
l 婚姻によってドイツ、スペイン、ブルゴーニュ、フランドルを手に入れたカール5世
1509年、ヴェネツィアが外国勢力に屈すると、カール5世はローマに進軍、1527年には「ローマの劫掠」で教皇を拘束、ティツィアーノに自らの肖像画を描かせたが、その際力量を高く評価、宮廷画家にするとともに叙爵、「黄金拍車の騎士」にも叙し社会的地位を授けて厚遇。1547年ミュールベルクの戦いでプロテスタント軍に勝利したことを記念して描かせたのが《カール5世の騎馬像》
10. ホルバインとヘンリ8世の暴走~”隠れ髑髏(ドクロ)の肖像画”《大使たち》はチューダー王家の流血劇を予告していた?
l 肖像画《大使たち》の中にある「隠れ髑髏」の意味するところとは?
ホルバインは、15世紀末ドイツに生まれ、イギリスで活躍。肖像画家として知られ、代表作が《大使たち》(1533年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー)
モデルは仏大使ダントヴィルとローマ教会の大使セルブで、依頼人は英王ヘンリ8世
2人の立つ床面を左右どちらからか鋭角的に見ると、髑髏が見え、左上には小さくキリストの磔刑(たっけい)像がある。画家のホルバインは、木版画の《死の舞踏》でも知られる
ヘンリ8世の生涯は、妻殺しに始まって血塗られたもので、冷酷、苛烈だった
l ヘンリ8世を喜ばせていた?「隠れ髑髏」
ホルバインはスイスで画家として名を上げ、エラスムスと親しくなり、ヘンリ8世の側近トマス・モアに紹介され、ヘンリ8世に気に入られ宮廷画家になる
l 死臭渦巻くヘンリ8世の宮廷を予告していた「隠れ髑髏」
ヘンリ8世の暴走の極めつけが自らの離婚のためのイングランド国教会の設立。離婚に反対した者は次々に処刑されるが、《大使たち》の髑髏はこうした惨劇の予告でもあった
ホルバインも、最後はヘンリ8世に放逐され、ペストで病死
11. ミケランジェロと反宗教改革~”神の鉄槌画”《最後の審判》に描かれていた新たなるローマの意志
l なぜミケランジェロの《最後の審判》は激しい怒りに満ちているのか?
ミケランジェロが60代の老境で完成した《最後の審判》(1536~41年頃、システィーナ礼拝堂)では、それまでの画や彫刻とは異質で、怒りに満ちた世界が広がっているのは、カトリックの大反撃に合わせて描かれたからで、もともとあるべき峻厳な教義に立ち返ろうとする意志を示す。依頼者はローマ劫掠を喫した教皇クレメンス7世、完成はその没後
反撃の動きは後任のパウルス3世が引き継ぎ、原点に立ち戻る対抗宗教改革の動きとなり、その先兵はイエズス会で、新教皇は《最後の審判》をその象徴にした
l じつは宗教改革そのものであった《最後の審判》
《最後の審判》のモデルとなった精神世界は、フィレンツェのサヴォナローラに由来
l 《最後の審判》の裸体隠しが物語る対抗宗教改革の規律と世界観
裸体だらけの画は、対抗宗教改革の象徴でありながら、改革を唱える聖職者たちの非難の的にもなり、1555年戴冠のパウルス4世のときには破壊の危機に陥り、かろうじて腰布を描いて回避したが、それは改革の本質とカトリックの変質を物語る。どこかに鷹揚さを持ったカトリックだったが、内在する厳格さが改革で顕在化し、「裸体隠し」へと向かう
12. ボスとフェリペ2世のカトリック支配~”謎だらけの祭壇画”《快楽の園》を愛したカトリックの盟主の闇
l 史上初の「美術蒐集王」フェリペ2世が好んだボスの絵画
15~16世紀フランドルのヒエロニムス・ボスは「宗教画家」だが、それを超越した奇想の画家としても有名、3連の祭壇画《快楽の園》(1503~15年、プラド)は謎に満ちている
キリスト教的世界を描きながら、正統な価値観から完全に逸脱した放縦な性の交歓があり、男が背負う貝殻の中での男女の戯態は十字架を背負うイエスのパロディであり、イエスの愚弄でしかない。描いた動機は不明
ボスの多くの画がスペインにあるのはフェリペ2世の蒐集癖による。特にボスとティツィアーノが多い
l フェリペ2世の矛盾と闇
1571年、レパントの海戦でオスマン帝国を破ったフェリペ2世は熱心なカトリックであり謹厳、ストイックだっただけに、ティツィアーノよりさらに淫蕩な《快楽の園》とは明らかに違和感がある。禁欲を説き、女性を信仰の敵としたカトリックだけに妄想が高じた
l ボスの故郷フランドルを弾圧したフェリペ2世の陥穽
ボスの故郷フランドルには冷淡。ネーデルラントのウィレムによる独立戦争もあり、プロテスタントを弾圧、アントウェルペンを破壊する様は《快楽の園》の地獄絵図そのもの
13.
ブリューゲルと宗教対立の時代~カトリックとプロテスタントの戦いから超越した”市井の画”《雪中の狩人》
l ボスの画に強い影響を受けていたブリューゲルの転換
フェリペ2世と同時代を生きたフランドルの画家がブリューゲルで、ボスに影響を受けその画風を継承しながら、1560年半ばその影響から抜け出し、農民の働く風景を描いて独自の世界を切り拓く。その代表作が《雪中の狩人》(1565年、ウィーン)、《農民の婚礼》
西洋絵画の伝統を破って、初めて農民など市井の人を描き、風景画の先鞭をつける
l 宗教対立時代にあって、「生きる」ことの意味を探したブリューゲル
宗教対立の激化で絵画が破壊されていくのを見て、平凡な毎日を生きる人々に焦点を当て別な価値観を模索、最後には悲観・諦念にもなる。《2匹の猿》(1562年、ベルリン)はその代表であり、画家自らの置かれた環境への鬱屈と閉塞感が表現されている
l なぜ《雪中の狩人》がウィーンにあるのか?
ブリューゲルの油彩画約40点中10作以上がウィーンにあるのは、フランドルとハプスブルク家の関係による。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は絵画コレクターとして知られる
14. ルーベンスとフランス絶対王政~”輝ける王妃の画”《マリ・ド・メディシスの生涯》がフランスで輝けないワケ
l 連作画《マリ・ド・メディシスの生涯》の背景にあったフランス宮廷内の母子対立
17世紀フランドルは世界一の絵画圏となり、代表が1577年ドイツ生まれでフランドルで活躍したルーベンス、代表作《マリ・ド・メディシスの生涯》(1622~25年、ルーブル)
9歳で即位したルイ13世が長ずるに及び母マリとの間の確執が増す中で制作され、仏王に嫁いだ王妃の半生を描くが、毀誉褒貶の王妃を勘案し、全体を神話的な世界に仕上げる
当時のルーベンスはスペイン領ネーデルラントの宮廷画家であり、統治者の王妃イザベラ(フェリペ2世の娘)の助言もあって、マリがルーベンスに大役を任せた
l リシュリュー枢機卿との対立が、ルーベンスのフランスでの活躍を終わらせた
《マリ・ド・メディシスの生涯》でヨーロッパでの名声を確立したルーベンスは、続いて《アンリ4世の生涯》にも着手するが、母子対立の激化でマリがフランスを追われ、ルーベンスを嫌ったリシュリュー枢機卿を中心に宮廷内でも敵視されたため、制作を断念
15. ヴァン・ダイクとイングランド国王チャールズ1世の悲劇~《狩場のチャールズ1世》のモデル”紳士王”に待ち受けていた革命の嵐
l なぜヴァン・ダイクの描く国王チャールズ1世は英雄的でないのか?
フランドル生まれ、イギリスで活躍したヴァン・ダイクの代表作が《狩場のチャールズ1世》(1635年頃、ルーブル)。平服姿の温和な気品ある紳士の国王像で、ルネサンスも終わり近くになると、世間は絶対的な英雄やその物語に冷淡となった時代精神を反映
l 英雄的ではなかったチャールズ1世が敢然と立ち向かった処刑
ヴァン・ダイク没後、1642年からチャールズ1世は内戦の突入、親カトリックの国王にクロムウェルの議会が反発、人民の自由のためにといって議会の死刑を受け入れる
16. レンブラントとオランダ海上帝国~”躍動する市民画”《夜警》を描いた画家は、なぜ貧窮のうちに没したのか
l じつは、昼の情景を描いていた《夜警》
17世紀オランダ絵画の傑作が《夜警》(1642年、アムステルダム)。正式名称は《フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊》
表面の変色で黒ずんで見えるが、火縄銃手組合による市民自警団の昼間の出動の情景
依頼人は隊長自身で、組合本部に飾るためであり、豊かになった市民を象徴する画
集団肖像画は、この時代のオランダの流行で、同業者組合を描く肖像画が多く輩出
l フランス革命よりも先行していたオランダ独立革命
モデルの自警団は、ウィレムの独立戦争でも初期に活躍、共和政誕生に貢献
l オランダの衰退とともに始まっていたレンブラントの凋落
《夜警》完成後からレンブラントは、浪費癖がたたって零落、1656年破産、69年没
オランダを追い落としたのがイングランドで、1672年の第3次英蘭戦争はルイ14世のオランダ侵攻と連動し、オランダは国力を消耗して、栄光は終わる
17. ベラスケスと30年戦争の時代~”祝福の王女像”《ラス・メニーナス》に描かれたスペイン・ハプスブルグ家最後の栄光
l 17世紀、落日にありながら優雅であったフェリペ4世のスペイン宮廷
17世紀最高傑作の1つが《ラス・メニーナス》(1656年、プラド)
自身まで描き込んだ集団肖像画で、王女が主役ながら、自身が描いているのは国王夫妻
フェリペ2世の時代隆盛を誇った世界帝国も、30年戦争でオランダを失い、衰退しながらもなお余力を維持、孫のフェリペ4世は絵画の蒐集に熱を上げる。優雅な黄昏時を描く
l オーストリア・ハプスブルグ家とフランス・ブルボン家の間で揺れていたスペイン
モデルのマルガリータ王女は、母方の実家であるオーストリア・ハプスブルグ家のレオポルド1世に嫁ぐ一方、異母姉のマリア・テレサはルイ14世に嫁ぎ、フェリペ4世の子カルロス2世に子がなかったため、ルイ14世の孫がスペイン国王となり、ブルボン王家に代わり現在に至っているので、《ラス・メニーナス》はオーストリア・ハプスブルグ家の最後の輝きを描いた画でもあった。ベラスケスはフェリペ4世に引き立てられ、王宮配室長にまで昇進するが、マリア・テレサの婚礼に奔走して体調を崩し没している
l 30年戦争と清教徒革命の名画掠奪・転売から形成されたヨーロッパの主要美術館
略奪の主役はスウェーデン。新教国側で参戦、ドイツやバイエルン、チェコに侵攻して名画を強奪。イングランドのチャールズ1世は、斜陽となったマントヴァのゴンザーガ家に目をつけ、コレクションの多くを買い占めるなど、ルネサンス期以降名画への渇望が広がるが、何れも持ち切れずに名画の所有者は転変を繰り返し、美術館の原型が立ち上がる
3章
革命と英雄の時代が生んだ名画
18. ヴェロネーゼとナポレオンのイタリア遠征~なぜ”世紀の婚礼画”《カナの婚礼》は”世紀の掠奪画”でもあるのか
l ナポレオンのイタリア遠征の掠奪美術品となった《カナの婚礼》
イタリア・ルネサンスのヴェロネーゼは壮大な饗宴画を得意とし、その代表作が《カナの婚礼》(1562~63年、ルーブル)。ヴェネツィアから掠奪してきたもの
フランスが美術に注力し始めるのはルイ14世の頃。サロン・ド・パリという公立美術展覧会を開催するが、それが実るのは19世紀で、それまでは掠奪に狂奔
l なぜフランスは《カナの婚礼》のみ返却しなかったのか?
ナポレオン没落後、多くは元の国に返却されたが、《カナの婚礼》だけは例外で、大きかったこと(677x994㎝)と、饗宴の出席者として16世紀の西方世界の著名人が皆描かれ、その豪華さ、華やかさは飛び抜けたものだったため、代わりにルイ14世時代の宮廷画家でサロン設立に尽力したシャルル・ル・ブランの《シモン家の饗宴》を渡して誤魔化した
19. ダヴィッドとフランス革命~”プロパガンダ画の皇帝”《アルプスを越えるナポレオン》は、なぜ5枚もある?
l フランス革命とナポレオンの歴史を描いてきたダヴィッド
ナポレオンの御用画家、プロパガンダ画家でもあるダヴィッドの代表作は以下の3点;
《皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式》(1805~07年頃、ルーブル)
《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト(アルプスを越えるナポレオン)》(1801~05年、シャルロッテンブルク宮殿)
《マラーの死》(1793年、ベルギー王立美術館)
サロンで名声を得、ルイ16世も顧客だったが、早くから革命の共鳴者となり、1789年にはジャコバン党員となり、同派の大物マラーの暗殺を扱ったのが《マラーの死》で、イエスの受難に重ねたことがジャコバン党の恐怖政治をさらに正当化・過激化した
l 美化、脚色、宣伝に溢れた《アルプスを越えるナポレオン》
ロベス・ピエールの逮捕・処刑で、ダヴィッドも投獄され後に釈放
その後を追って権力基盤を固めるためイタリア遠征で赫々たる成果を上げ、ヨーロッパ中にその名を轟かせるが、その時のプロパガンダ画が《アルプスを越えるナポレオン》
ラバは馬に代わり、前脚を宙に浮かせた雄々しさは脚色で、マントも同じことだろう
全部で5枚あり、最初の依頼主はナポレオンと和睦したスペイン王カルロス4世、ナポレオンはそのプロパガンダ力を気に入りもう1枚描かせ、残り3枚は弟子を使って描いたレプリカ。有料展示したところ儲かったので追加作成したもの
l 反カトリックを表明していた「ナポレオンの戴冠画」
大きさ(6mⅩ9m)からも圧倒的な存在、教皇ピウス7世が戴冠者ではなく単なる参列者の1人扱いというのも当時としては異様な光景であり、アンシャン・レジームの破壊者としてのナポレオンの面目躍如たるところあり、反カトリックの持ち主だった
ナポレオンの没落とともに、ダヴィッドの居場所もなくなり、ブリュッセルに亡命・死去
20. ゴヤとスペインの抵抗~”巨人が人を食らう画”《我が子を食らうサトゥルヌス》を生んでいた半島の戦争
l ナポレオン戦争最大の惨禍の地となったゴヤのスペイン
18~19世紀、スペインで活躍したゴヤは、異端ともいえる悪魔的な画家つぃて知られ、晩年の大作が《我が子を食らうサトゥルヌス》(1819~23年、プラド)
ローマ神話の子殺しの物語は、たびたび画の対象となったが、あくまで神話的な世界の物語として描かれていたが、ゴヤの作品は、あまりにも野蛮で残酷、狂気に魅入られたよう
1746年生まれのゴヤの前半生は、ベラスケスと共にスペイン・ブルボン家の宮廷画家だったが、ナポレオンのイベリア半島侵攻により1808年ナポレオンの兄ホセ1世が国王として即位したのに対し暴動があり以後暗い戦争の時代が続いたこともあって時代を呪う
ゴヤはホセ1世の宮廷画家でありながら、イギリスのウェリントン将軍の肖像画も描くなどしたが、フランスに亡命し、1828年ボルドーで死去
l 暗い戦争の醜悪と悲惨を画にしたゴヤ
ゴヤは後半生、戦争の残酷さ、グロテスクさを画にせずにはいられなくなり、異形の画家となり、その代表作がマドリードでの反乱の虐殺を題材にした《1808年5月3日 プリンシペ・ピオの丘での銃殺》(1814年、プラド)
戦場の醜さ、虐殺の不条理を描いた初めての画とされ、ピカソの《ゲルニカ》に影響
戦争を題材にした版画集《ロス・カプリチョス》は、残虐の記憶を留めるためのもの
40代から聴覚を失い、人間不信、集団不審にも陥り、人が集団と化すと理性を失い狂気にかられる様を描いたのが《鰯の埋葬》(1810年代)。感情がないのは人間集団への諦念
l 《巨人》画から《我が子を食らうサトゥルヌス》に至るまで
《巨人》(1808~12年、プラド)は他にも何作かあり、ナポレオンからスペインの守護神など、何種類かあるが、それらの集大成が理性を失った人食い巨人《サトゥルヌス》
21. アングルとナポレオンのエジプト遠征~ヨーロッパの東方趣味を生み出した”後宮の女画”《グランド・オダリスク》
l ハーレムの女性画は、ナポレオンのエジプト遠征から始まった
19世紀前半フランスを代表するのがジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルで、新古典主義、ダヴィッドの後継者、代表作が《グランド・オダリスク》(1814年、ルーブル)
「オダリスク」とは、オスマン帝国のスルタンの側室に仕える女奴隷「オダリク」に由来
ナポレオンのエジプト遠征に触発され、東方世界に憧れを持った妹のナポリ王妃カロリーナ・ボナパルトの依頼で描かれたもの。まだ見ぬ東方世界への憧れと妄想が窺える
l 《グランド・オダリスク》がかき立てた東方への夢
1798年即位したナポレオンは、宿敵イギリスの富の源泉であるインドへの交易路の遮断を狙ってエジプトへ遠征するが、ナイルの海戦ではネルソンに敗れ、パレスチナではペストに阻まれ、撤退するしかなかったものの、古代エジプト文明に関わる物産をもたらした
その1つがプトレマイオス朝の石碑ロゼッタ・ストーンで、ヒエログリフの解読の契機となり、さらにヨーロッパ中に異国情緒への憧れを広め、東方趣味が広がる
22. ドラクロワとギリシャの独立~”世紀の虐殺画”《キオス島の虐殺》と詩人バイロンがもたらしたギリシャ贔屓
l バイロンのギリシャへの情熱に共鳴して生まれた《キオス島の虐殺》
19世紀フランスを代表する画家ドラクロワの代表作が《キオス島の虐殺》(1824年、ルーブル)と《民衆を導く自由の女神》(1830年、ルーブル)
《キオス島の虐殺》は、1821年に始まるギリシャ独立戦争でのオスマン帝国によるギリシャ系住民虐殺という史実を描き、世界史を変えた絵画
1810年代、時代の寵児となったバイロンがこの戦争に身を投じ、ギリシャで客死したのを見て、彼に傾倒していたドラクロワも《キオス島の虐殺》を描いて世に問うた
l 世界史を動かした《キオス島の虐殺》
《キオス島の虐殺》は「一大プロパガンダ画」となり、虐殺を目の当たりにしたヨーロッパの人々のギリシャへの同情を喚起。1827年英仏露の連合艦隊がオスマンをナヴァリノの海戦で撃破し、ギリシャの独立が事実上確定
以後、ヨーロッパの住人はことさらギリシャ贔屓で、その反動でトルコには冷淡
l 「絵画の虐殺」とも言われた《キオス島の虐殺》
余りのリアルな残虐さに、気品も優雅さもないとして、「絵画の虐殺」との非難もあるが、ゴヤの無残さやただただ暗黒しかないリアリズムはドラクロワを超えている
l パリ7月革命の勝利を祝した《民衆を導く自由の女神》
次いで、7月革命でシャルル10世に対抗した市街戦で市民が勝利したのを記念して《民衆を導く自由の女神》を描く。後にドラクロワは革命に懐疑的になるが、当時30代の彼は革命劇に酔い、その高揚、激情を多くの者に伝えたかったのだろう。仏政府が買い上げた
ドラクロワによって、画家は皇帝や国王の庇護を求める存在から、独立し、彼らを凌駕する存在になる。音楽の世界でもベートーヴェンやロッシーニがそうした芸術家として登場
4章
大衆の時代と大戦争の不協和が生んだ名画
23. マネとナポレオン3世の帝政~爛熟の市民社会が生み出した”変態画”《草上の昼食》
l 1860年代のパリに「変態画」である《草上の昼食》は受け入れられたか?
19世紀フランスのマネは、同時代の絵画の革新者。その台頭にはスキャンダルを伴ったが、そのいわくつきの作品が《草上の昼食》(1862~63年、オルセー)で、初めて生身の一般女性の裸体を描いたことが批判の対象になったとされるが、モチーフ自体が「変態」
《オランピア》(1863年、オルセー)は、娼婦のヌードで、マネはティツィアーノが下敷きといったが、生身の娼婦を描いたことで非難される。こちらもモチーフの「変態性」は同じ
l ナポレオン3世の帝政下、裸体画は全盛を極めた
マネの変態性は、パリの住人が望んだからこそであって、社会が変態的、放埓になっていた証でもある。ナポレオン3世の帝政は、自身が普仏戦争で捕虜になったこともあり、民衆はその無様さを恥じていた。ナポレオン3世は住民と折り合おうと、パリ大改造に着手、万国博を招致してパリを世界文化の中心地にしようとしたこともあって、パリは爛熟に向かうが、倫理的には性的な放埓を伴って堕落していく
帝政下の「サロン」は、若い野心的な画家を引き寄せる一方、保守化、厳格化し若者を失望させてもいたのもあって、ナポレオン3世が「落選展」を開かせたことが、マネの《草上の昼食》を復活させた。そのことからも帝政下の世の中の雰囲気がわかる
l 3度の革命を成功させたパリの自信が、マネの挑発的な絵画を生んでいた
マネの2作は、健全であろうとする既存の常識への「挑発」――爛熟した文化の中でより強い刺激を求める動きが既存の価値観の破壊に繋がり、既存の価値観に浸る者たちへの徴発
革命の成功により「上からの統制」に恐れなくなったフランスの住人の自信の表れであり、新たな時代の創造への挑戦であり、その後の難解な抽象画の出現にも繋がる
24. ルノワールとヨーロッパの栄華~ヨーロッパの平和が”優雅な市民画”《舟遊びをする人々の昼食》を生んでいた
l 大衆の時代を象徴する《舟遊びをする人々の昼食》
フランス印象派の代表がルノワール、その代表作が初めて平凡な大衆を主題とした《舟遊びをする人々の昼食》(1880~81年、ワシントンDC/フィリップス)
自治政府「コミューン」を経て第3共和政下のパリは、さらに一般大衆が豊かさを享受
《舟遊びをする人々の昼食》では、19世紀パリのヒロインとなった下層労働者のお針子(グリゼット)が共に昼食を優雅に愉しんでいる時代の豊かさを表現
l パリの栄光を生んでいた「ヨーロッパの平和」
《舟遊びをする人々の昼食》は19世紀末のパリの繁栄の象徴でもある
パリは芸術の都となり、多くの画家がパリを目指すが、その背景には40年続くヨーロッパの平和がある
25. ゴーギャンと帝国主義~”南国の楽園画”《我々はどこから来たのか》の背後にあるヨーロッパの世界観
l タヒチに「楽園」を見ようとしたゴーギャン
美術の聖地パリに敢えて背を向けたのがゴーギャン。彼の傑作が《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(1897~98年、ボストン)
1891年初めてタヒチに渡り、ヨーロッパではないもの、近代文明的ではないものを求めるが、すでにヨーロッパ文明が及びタヒチの文明化は始まり、1880年には仏植民地に
l ヨーロッパの世界支配によって、画家たちは「世界」を取り込んだ
フランスの植民地化していたからこそ、ゴーギャンも安全にタヒチに行くことができた
ヨーロッパ文化の爛熟で、世界の辺境に驚嘆すべき文化の存在を期待して海外に雄飛
l 「東洋の辺境」日本初の浮世絵によって大きく変質させられたヨーロッパの絵画
19世紀後半、ヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えた辺境文化が日本の浮世絵
遠近法も写実も無視、人物や風景までデフォルメされ、大胆な構図にも圧倒され、絵画の新たな可能性を感じさせた。写真の登場も画家の不安を煽ったこともある
浮世絵の男女の交合や性器をデフォルメした枕絵は、性に対する規制も消滅していく
26. クリムトと第1次世界大戦前夜~”恍惚の頽廃画”《接吻》を生んだウィーンの黄昏とヒトラー
l ハプスブルク家の帝国の苦悩下、優雅な頽廃に向かったクリムト
20世紀初頭、ウィーンには独特な画の動きがあり、その代表がクリムトで、代表作が《接吻》(1907~08年、オーストリア)。金箔を多用、抱擁する男女はデフォルメされ、刹那的、快楽的な抱擁ゆえに、画は頽廃的な美しさを放つ
1862年ウィーン生まれのクリムトが、明るい未来を無視するかのように頽廃を描いてきたのは、伝統と訣別する「分離派」を立ち上げたように、時代の閉塞感や偽善を見て取り、衰退に向かうウィーンの新たな美学として、きらびやかな頽廃に活路を見たのが《接吻》であり《ベートーヴェン・フリーズ》(1902年、ゼツェシオン)。《ベートーヴェン》も古典的なイメージの打破と新しいベートーヴェン像の提唱を期したが受け入れられなかった
l 画家ヒトラーを失望させていた、クリムト、シーレのウィーン
ヒトラーは、オーストリア生まれながらミュンヘンを気に入り、第1次大戦でもドイツ帝国の1兵卒として志願
クリムトの影響を受けた画家にシ-レがいるが、彼は頽廃には向かわず、内なる孤独の表現者となっていくが、1918年オーストリアの敗北とともに両者は病没
ヒトラーはクリムトの頽廃画を嫌ったが、その暴力を乗り越え、現在もウィーンに残る
ただ、美術の殿堂の美術史美術館ではなく、中心から外れたベルヴェデーレ宮殿のオーストリア・ギャラリー内に所蔵、《ベートーヴェン》も分離派会館の地下にある
27. ピカソと世界大戦~”20世紀最大の虐殺画”《ゲルニカ》をめぐる”空爆の大国”アメリカの思惑
l スペイン内戦下に生まれた、人民戦線のための「プロパガンダ画」
ピカソの代表作が、スペイン内戦の惨劇を描いた《ゲルニカ》(1937年、ソフィア王妃)
抽象的な破壊の世界は難解で、様々な解釈がなされてきたが、決定的な解釈はないが、人民戦線親派のピカソが右翼フランコの糾弾を狙った「プロパガンダ画」として描いたことは間違いない。1937年のパリ万博のスペイン館で展示されるが、難解過ぎて見た者を戸惑わせるだけだった
l 第2次大戦下、《ゲルニカ》を所持したことで正当性を得たアメリカ
《ゲルニカ》はアメリカ芸術家会議の要望でアメリカに引き取られ、大戦中保持・公開され、反戦、反ファシストを象徴する画となる
第2次大戦で最大の無差別攻撃をしたのはアメリカに他ならないが、《ゲルニカ》の保持によって、アメリカ自身は空爆を免罪にしている
28. アメリカ・日本の繁栄とゴッホ~なぜ世界帝国アメリカは「印象派の絵画」の値を吊り上げたのか
l なぜアメリカ人は印象派の画に魅了されたのか?
印象派の巨匠ゴッホの《ひまわり》は12点中7点が現存、最大のものが日本にある《ひまわり》(1889年、SOMPO)。当時落札額としては美術史上最高の58億円をつけた
アメリカ人は、世界で最も洒落ていたフランス文化に嵌り、その精華である印象派の絵画にも強く魅了
l なぜ日本人は非欧米国の中で最も西洋画を好むのか?
19世紀後半、世界と付き合うようになった時、視界に入ったのがフランス文化
松方コレクションや、大原美術館、ブリヂストン(現アーティゾン)美術館、ひろしま美術館などでも多くの西洋画がある
青春出版社ホームページ
ミケランジェロの最高傑作「最後の審判」がローマ教皇に壊されかけた理由とは?
レンブラントの名作「夜警」、じつは昼の情景を描いていた!?
ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ルーベンス、モネ、ルノワール、ゴッホ……あの名画の神髄に触れる「絵画」×「世界史」の魅惑のストーリー。
「はじめに――すぐれた名画は、なぜ歴史を背負うのか?
絵画の名作は、ただ眺めているだけでも愉しい。何の先入観も持たずに虚心坦懐にイメージを愉しむのは、美への一つのアプローチだろう。
だが、逆に知識をもってして名画の真実に迫るなら、これまでになかった深い見方、広い見方もできよう。すぐれた名画には、歴史を背負い、歴史によって世に押し出されたところがあるからだ。
名画は、皇帝、王、ローマ教皇、貴族、大金持ちなど、歴史を動かす者たちと関わってきた。彼らが自らを飾るため、画家に画を描かせるなら、そこに歴史がついてまわる。画家が意図しようとしまいと、画の中に歴史が滲んでくるのだ。
たとえば、ボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチの画を見るとき、フィレンツェのメディチ家やローマ教皇の物語を知るなら、より深く愉しめよう。クラナッハを掘り下げるなら、そこにマルティン・ルターが、「草上の昼食」のマネに迫るなら、そこに皇帝ナポレオン3世の姿が見えてこよう。
あるいは、近世になるほど、画家は時代の扇動者ともなり、歴史を変えていく力を持ちさえする。ナポレオンやフランス革命を語る時、ダヴィッドの一連の絵画を見ていくなら、そのことがよくわかるだろう。ドラクロワの「キオス島の虐殺」、ピカソの「ゲルニカ」は、世界史を変えたプロパガンダ画としても鑑賞できる。
この本では、西洋の名画の中にいかに歴史が紛れ込んでいるかを解説してみた。名画の背景を知るなら、世界史の視野がより広がるだろうし、世界史を少し掘り下げるなら、名画を見る目もまた変わるのだ。」
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