ドレスデン爆撃1945 Sinclair McKay 2023.3.3.
2023.3.3. ドレスデン爆撃1945 空襲の惨禍から都市の再生まで
Dresden:
The Fire and the Darkness 2020
著者 Sinclair
McKay 第二次世界大戦の社会史を主にテーマとする歴史家。『テレグラフ』紙、『スペクテイター』誌に寄稿する文芸評論家。多数の著作があり、最新作はBerlin. Life and Loss in the City That Shaped
The Century(2022)
訳者 若林美佐知 ウィーン大学博士課程哲学・自然科学部史学専攻修了、哲学博士。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科比較文化学専攻博士課程修了、博士(人文科学)。主要訳書;ミュールホイザー『戦場の性 独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』(共訳、岩波書店)、ニコラス『ナチズムに囚われた子どもたち 人種主義が踏みにじった欧州と家族 上・下』、ニーヴン『ヒトラーと映画 総統の秘められた情熱』
発行日 2022.7.15. 印刷 8.10. 発行
発行所 白水社
序文 時間の中の都市
1945.2.13.の一晩に爆撃機796機がこの都市の上空に飛来して、推定2.5万人が殺害された。この町はゆっくりと、困難と衝突を伴って再建された。綿密に詳細な復元が繊細で近代的な景観整備とともに行われたので、かつて市が立った広場の新しい建物がすぐに目立つことはなかったが、奇蹟のような復興にも拘らず、今でも残骸が見られる
ノイマルクトの聖母教会の場合は意図的で、復元された教会に使われた淡色の石材が、黒焦げになった元の石造建築とどんなに対照的かを示すためである。粉々になった教会の礎石はほぼ爆撃の後に残されたまま
(以下は、『じんぶん堂』の引用参照)
第1部
迫り来る猛火
第1章
爆撃当日以前
1945年2月初め、ドレスデン市民は切迫した状況下で移動。ジューコフ元帥麾下の赤軍はポーランドのオドラ川を越え、驚異的な勢いで国境を突破。西からは「バルジの戦い」後米英軍が押し寄せてきた。特に東部の赤軍は数えきれないほどの女性と民間人男性に襲いかかり、反社会的な快楽を味わっているという話が伝わり、恐怖を呼び起こしていた
その頃2000㎞南東のヤルタでは敗北したドイツの統治について詳細を議論していたが、ソ連はドイツ軍の東進を妨げるため輸送拠点のドレスデンを目標とするよう米英軍に要請
2月6日には、米第8空軍が、ドレスデンの230㎞北西のケムニッツ、マグデブルクを大々的に破壊。ドレスデンも前年秋と先月には市内の操車場が爆撃され、ベルリン当局はこの町をプラハからハンブルクに至るエルベ線の中の「防御地域」として最終的に血塗れになってでも守るはずの前線に指定していた。赤軍は町に100㎞までに迫り、遺棄された収容所を探索し、多くの生きた屍や死ぬままに放置された囚人を発見したという。アウシュヴィッツの悪夢が明るみに出たのは1月27日。ツァイス社勤務の研究者ヴィクトル・クレンペラー夫妻は町で数十人残ったユダヤ人で、荒れた家屋に押し込められていた
タイプライターなど家庭用機器メーカーの大手ザイデル&ナウマンの工場は今や軍需工場に転換、ユダヤ人女性やソ連から強制連行した女性などの奴隷労働者を使って、爆雷と高射砲の点火装置が作られていた
1944年になって国民突撃隊が組織され、何らかの理由で徴兵されていない男性全員を隊員としたが、軍との関係はなく、武器貸与もなし、夜な夜な集められ、死と血と名誉を賭けて行動せよと激励された
最も多くの強制労働者を抱えていたのはツァイス・イコン・カメラ工場
15歳以上の少年はヒトラーユーゲント入団が義務付けられた
銀行も百貨店と同じ様にナチに強奪され、強制収容所への融資で暴利を得ていた
第2章
大管区指導者の森で
民間人を合法的に目標にし得るという考えは新しくはない。スターリンは3年前にチャーチルに、英軍はドイツの住宅も爆撃目標にすべきだと告げていたが、英国の高位の司令官と政治家の間では総力戦は既に事実として受け入れられていたし、ドイツ爆撃は大都市住民が「家を失う」ことを目標にすべきだと主張する人もいた。この考えを最も熱心に唱えたのは爆撃機軍団のサー・アーサー・ハリス大将で、住民の最終的な運命には全く関心がなく、単に戦争を早く終わらせるだけとして、道義上簡単に正当化した
英国爆撃機軍団は、ロンドンの北西50㎞のチルターン丘陵に駐留。ハリスは1942年50歳で指揮権を引継ぎ、極度に戦闘的な性質で、爆撃機軍団の仕事に対して倫理上の不安や疑念を表明する者は誰でも第5列と見做された。その背景には、落命した空軍兵の5万という驚異的な数があり、参謀総長が目標は産業施設に限定すると現場への無知を嘲った
ハリスは米第8空軍と連携して活動、地域爆撃という古い原理を持ち出し、各地に数百回にわたり実施、諸都市は避難民で溢れかえる。民間人と軍人、ドイツ文化とナチ崇拝を精確に区別しようと気遣う者も、普通の人々の生活に思いを致す者もほとんどいない
何十年にもわたって衛生に拘ってきたのがドレスデンの伝統で、インフラ整備に尋常でない注意が払われ、緑豊かな街作りが進められていた
町の全生命を支配したのは大管区指導者マルティン・ムッチュマンで、早くからナチ党に入り、ヒトラーが33年政権を掌握するとザクセン国家総督となり、中世風の残酷を発揮して町を支配。言論は完全に統制され、監視・密告が行き渡り、ドイツの最終勝利への疑念を口にしただけでギロチンで処刑。障碍者断種政策を積極的に先導
第3章
理性の衰微
2月初め、町には198名のユダヤ人が残存。ナチ以前は6000人
1840年非ユダヤ教徒のゼンパーが設計したエルベ河畔の大シナゴーグが落成、ユダヤ系市民だけでなくドレスデンそのものを飾っていた。熱烈な反ユダヤ主義者リヒャルト・ヴァーグナーでさえ魅了したが、水晶の夜に焼け落ち、わずかに残った基礎までダイナマイトで爆破され、敷地は長く空き地のままで残された。ゼンパー・シナゴーグの落成によって、ユダヤ人がドレスデン社会の中核になり、あらゆる分野で自由に活躍していた
多くのユダヤ人はドイツ人だと自認していたが、ヴィルヘルム2世時代からドイツの諸機関の専門職と研究職の一部がユダヤ教徒に対し非公式に閉ざされるようになり、ドレスデンにも一層上品ぶった反ユダヤ主義が社会の基盤に根付いていた
1933年のヒトラー就任以後、ドレスデンでは大変な速度でユダヤ人憎悪が進行、不買運動は徹底していた。学者はヒトラーへの忠誠を公に誓うよう強制され、専門職から排除
35年には銀行のアーリア化によって不安が増大、亡命を考える者が増大したが、ナチ党に多額の賠償金の支払いを要求された。ユダヤ人の多くは知的分野での公的な関わりを望んだが、ナチは彼らを文化的に追放し、その人間性を抹殺した
ナチによる反ユダヤ主義的行動はエスカレートしたが、クレンペラーの記録では、結構同情的に支援してくれる人や生死を左右する親切な行為もあったという
第4章
芸術と頽廃
芸術の思想と革新の砦としてのドレスデンはヨーロッパ文明の頂点にあり、ますます洗練されていった。他と違い、若い急進的な芸術家を惹きつける魅力を持ち続けていた。20世紀初めに結成された最も有名な集団は「ブリュッケ(橋)」で、エスタブリッシュメントに反抗、ブルジョワを拒絶、理想的な共同体を作ろうと試み、後にドイツ表現主義と呼ばれる
1933年以降は、ナチのモダニズムを憎悪した「強制的同質化」により、芸術を侮辱する際の最初の標的に選ばれたのがドレスデン
音楽も絵画と同様、ナチが完全には支配できなかった分野。長年にわたり聖十字架教会を有名にしてきたのは教会の付属学校在籍者による13世紀創設の少年合唱団。プロテスタントには、カトリックのローマ教皇のように中心に立って信者を統合する権威がなかったので、よりナチの影響と支配が及ぼす余地が大きかったが、カントール(聖歌隊の指揮者にして監督者)のマウエルスベルガーは最大限ナチに抵抗、聖十字架教会と並ぶ美の驚異でもあるイタリアバロック様式の聖母教会でも、67mの高さの大円蓋の下で44年末最後となったクリスマスコンサートをおこなっていた
オペラでも有名で、リヒャルト・ヴァーグナーが歌劇場で指揮者を務めていた1840年代は、極左と無政府主義の政治の渦に巻き込まれ、偉大な芸術と過激な政治は常にドレスデンを特徴付ける2大潮流だった。ヒトラーは1930年代ドレスデンに移ってきた現役作曲家リヒャルト・シュトラウスにも魅了されたが、特にナチが格別に崇めたのはシュトラウスの「リート」。体制に利用されながら、シュトラウスはユダヤ系詩人ホフマンスタールと大いに協働し、ツヴァイクともオペラ《無口な女》を共作し、ゼンパー歌劇場で初演されたが、2回目の上演が終わったところでナチに禁止され、音楽院総裁も解任
首席指揮者のフリッツ・ブッシュも、彼自身はユダヤ人ではなかったが、多くのユダヤ人音楽家を援助したため、即刻解任となり亡命
ドレスデンで人気を維持していた大衆芸術はサーカスで、4000人収容の大円形劇場が新設され、ナチの意志に屈したが、興行は続けられた
第5章
硝子の男と物理学者
ドレスデン工科大学では、陰極線と熱電子管を使う実験に注力。電気技術分野お天才といわれたハインリヒ・バルクハウゼンを教授に迎え、極超短波とマイクロ波により通信分野に革命を起こす。ドレスデンは芸術だけでなく技術発明の同義語でもあった
溢れ出る想像力は、18世紀はじめ中国の素晴らしい磁器を自ら製造しようという努力とともに形成。「白い黄金」とも呼ばれる価値を持ち、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグストス1世は、その自国生産を目指し、地元のカオリナイトを利用して磁器制作に成功。生産の中心はエルベ川を少し下ったマイセンに移ったが、後にナチ党の古参ボスたちが愛好し、ヒトラーの磁器への憧れは戦時にも衰えなかった
ドレスデンの発明家は何世紀にもわたって、特許権を抜け目なく確保してきた――うがい薬が最初に作られたのは1895年のドレスデン。口臭に加え、口内細菌の除去で爆発的な人気を博し、ドイツ中間層の風呂場の必須アイテムとなった。発明者のリングナーは町の公衆衛生改善に貢献し衛生博物館に結実するが、ナチは人種衛生学という強烈な偏向を付加し、血を純潔に保つ重要性と、感染の最大の危険をもたらす人種の抹殺・断種を謳う
ドレスデンは、光学技術の中心地でもあった――1926年カメラと光学機器の企業4社が合併。ビデオカメラやマイクロフィルムにも進出。ロシアのポグロムを逃れて合併会社の初代社長となったゴルトベルクはすぐに暴力的に退職を迫られパリに脱出
第6章
「いわば小ロンドン」
チャーチルの母と祖母がドレスデンの魅力に惹きつけられているので、この都市に危害を加えるはずがないという都市伝説があった
ドレスデンの英国風味は、18世紀半ば、後の英国首相ノース卿がダートマス伯爵とともに当地を訪れた時に始まる。「小ロンドン」で楽しみ続けたと公言。アメリカ人も、ワシントン・アービングが欧州旅行でようやく落ち着ける場所が見つかったといったのがドレスデンで、数カ月間滞在したのは、この都市が英語話者に対して寛容だった証
英国の若い淑女がドイツを訪れて作法と文化体験に磨きをかけるという流行は、1930年代にも衰えなかったが、ナチは社会的地位の低い観光客の誘致にも熱心
第7章
終末の科学
1947年アーサー・ハリスの回顧録出版。原爆以上の凄まじさだったが、彼にとって、それは倫理上の疑念でも懸念でもなく、重要なのは興味深い人災の冷静な分析だった
20世紀初めに空軍が出現し、イギリスとイタリアの操縦士がアフリカの平原上空から植民地の反抗的な人々に爆弾を無頓着に落とし始めた途端、何もかもが変化
英国政府は、無差別地域爆撃は違法だとする前提で草案を協議したが、爆撃でショックを与えれば戦争継続の意志は粉砕されるだろうというもので、非戦闘員が犠牲になるにしても、何年も続く地上戦で数百万の虐殺が繰り返されるよりもましだということ
ポーランド侵攻にあたり、ドイツ空軍によるワルシャワ爆撃は破壊を完璧にするため大規模かつ細心の注意を払って調整されたが、武装抵抗はそれだけでは収まらず、ワルシャワは地上軍の骨折りで2日後に陥落
ドイツ空軍によるロッテルダム攻撃では、爆撃によって生じた大火は、消防隊が対処するにはあまりに凄まじく、大規模で、広がるにつれて温度が高くなり、空気の性質も変えた。激しく輝く熱の柱が都市の上にそびえ、地上の通りには超高温の真空が発生して、その中では呼吸困難になり、固定されていない物体が地面から浮き上がった
航空戦の行動規範は、徐々に変化し、ナチのロッテルダム攻撃がその転機
1940年夏、英国空軍のベルリン攻撃を契機に、ドイツによるロンドン爆撃が始まり、英国空軍の爆撃目標は地域爆撃=絨毯爆撃に変わり、大都市の中心部が目標になり、社会の破壊が意図され、その最初のターゲットにされたのが42年3月のリューベック空爆
以後、都市が次々爆撃目標となる。ナチは報復として、3つ星を獲得している美しい都市を目標に「ベデカー爆撃」を開始、ヨーク・カンタベリーなど産業上・戦略上の重要性はなかったが、歴史と文化を修復不能なまでに破壊し、国民的屈辱を与えるには効果的
こうした力の解放がもたらす倫理上の問題を、以前にもまして懸念するようになった者もいた。軍人と並んでますます多くの科学者が参加しつつあり、自分たちの技術の飛躍的進歩がもたらしたジレンマに悩む者もいた
第8章
大気の適切な状態
1943年若い数学者が召集され、英国爆撃機軍団の作戦調査課で爆撃任務すべての統計的分析に従事。乗組員の死亡率と、暗い夜空に飛び立つ操縦士と乗組員の消耗率を緩和するための方策についての分析。熟練度に関係なく、爆撃1回につき平均5機が失われた
数学者が直面した倫理上の困難につき回顧――開戦と共に一歩一歩後退して、結局倫理的立場を失った。最初はあらゆる暴力に反対、次にはヒトラーに対する非暴力の抵抗は実行不可能だが、それでも爆撃には倫理上反対、数年後には爆撃は戦争に勝つためには必要だが、都市の無差別爆撃には反対、最後には、爆撃は戦争に勝つためには役立たないかもしれないが、自分は乗組員の命を守るために働いているので、倫理上正当化される
爆撃機軍団は最初から、倫理上の特殊な方針に従って活動――戦勝を決定するのは空軍だという信念。若い数学者は、ゼリー状の石油とマグネシウムが詰まった新たな爆弾を開発、激しい火災旋風を巻き起こし、予想の10倍もの死者を出した
ドイツ軍に留めを指すべく計画されたのが「雷鳴作戦」で、目標は単純にベルリンと全市民
人間の生活の破壊を意図。あくまで石油工場と鉄道に攻撃を集中すべきという上層部に対し、ハリスは都市爆撃を主張
第9章
肢体を洗い落とす
英国爆撃機軍団の功績は、誰からも称賛されるものではなく、彼らが戦争で果たした役割に対する政治的、宗教的敵意は、45年には司教の干渉だけでなく、労働党の議員や哲学者など、爆撃制限委員会の面々からも明白になり、空軍の地域爆撃が文明にもたらした倫理の腐敗を公然と激しく糾弾した
ランカスター爆撃機の乗組員は7名、すべて徴兵ではなく志願兵から成り、その使命は戦闘機軍団と違う。戦闘機集団は自律して飛行し敵を追跡するが、爆撃機はチームの共同作業。操縦士(指揮官)、爆撃手、射撃手、航法士、無線通信士、航空機関士
爆撃機搭乗兵10人のうち4人が戦死、重傷、捕虜
命に関わる仕事を繰り返し遂行するのに必要とされる種類の勇気は、決して生得のものではありえず、精神的外傷や強迫性障碍といわれる症状を示す航空兵も多かった
第10章
悪魔は休息しない
米国第8空軍の爆撃機乗組員は、26千名が欧州の任務で亡くなっており、生存者の大半が戦友の恐ろしい死を目撃。英国兵に比べて「献身」というよりは、大義に命を捧げると誓った犠牲の戦士という方がしっくりきた。さもなければ、25回の任務飛行を完遂し、その後も自発的に死に挑戦し続けることなどできなかっただろう。第8空軍は、ハリスの爆撃機軍団より洗練され、意識も高く、破壊の対象は地域爆撃ではなく特定の工場と鉄道連絡駅に集中しており、巻き添え事故は遺憾だが不可避と見做されていた
米軍の操縦士と乗組員は、自分たちの行動は結局のところ倫理上正しいという、より強い感覚に守られていた。米国では強力な空軍の建設が始まった1930年代以来、「精確な昼間爆撃」術を習得すれば、巻き添えの死傷者を最低限に抑えられるという信念による正統教理が確立。民間人に対するテロ爆撃は公憤を招くとされ、英軍が中東で局地的反乱に爆撃をした結果を見て、市町村の空爆が生産的だとは歴史上証明されていないと理解されていた
44年冬の「バルジの戦い」が転機となり、米空軍の倫理観は衰え始める。特定目標のテロ爆撃ではドイツが何度も立ち上がろうとするのを見て、都市そのものを目標とするようになり、45年2月にはベルリン昼間爆撃に取り掛かり、目標を都市の中心部とした
英米両兵にとってドレスデンという名称には何の意味もなく、ほとんど行ったことがない程遠く、東方にあったというだけで、ドイツ西部の目標さえ恐れを呼び起こしたのに、一層深刻な恐怖を掻き立て、死を持って勝利に貢献できると覚悟した者も多くいた
第2部
恐怖の夜
第11章
暗黒の日
その日は四旬節の前の懺悔火曜日を祝う祭の日で、子供たちはカーニバルのために扮装
米空軍はその日ドレスデンを襲撃する予定だったが、悪天候で延期――18カ月前、目標の分担が調整され、「昼夜兼行爆撃」で米軍が昼間産業目標を狙い、英軍が夜間急襲することになっており、この日は英軍の夜間急襲が先行することになった
英国空軍はその日ドイツに向けて1400機以上を発進
第12章
空襲警報発令5分前
いつものような一日が終わり、明日に向けた準備がなされていた
空襲よりも、赤軍の接近の方が遥かに緊張感を漲らせていた
第13章
奈落の底へ
ドイツの空襲警報は1オクターブ低く設定。毎晩の誤警報のため、本来の効力は徐々に失われていった。最初の警報は午後9時40分、市民が反応したのは、既にラジオが敵機の編隊がドレスデンに向かうことが確認されたと伝えていたからで、各地から集まってくる避難民の群れへの対応と相俟って市内は大混乱に陥っていた
6.5㎞北の飛行場から残っていた12機のメッサーシュミットが遅ればせながら緊急発進したが、離陸は爆撃機がエルベ川沿いに掃討を開始してからで無力だった
第14章
影と光
爆撃は好都合な気象条件と有効な防衛体制の欠如に恵まれ、地上の目標が完全に無防備な状態にあるところで行われた。彼らに復讐者としての自覚はなく、何度も任務飛行に出撃し、敵の激しい砲火に見舞われ、戦友が爆死したのに自分は不思議にも生き延びた後では、数百メートル下に居る人々を生きた個人として想像する能力は簡単に麻痺してしまったのだろう。命令を淡々と実行するだけだった
爆撃の精度を上げるために嚮導技術の改良が重ねられ、先行する小型のモスキート爆撃機から投下されたマグネシウム照明弾が目標を煌々と照らし出し、真昼の明るさだった
第15章
午後10時3分
爆撃の第1波が始まったのは10時3分。対空砲などの火力は全て東部戦線に移動しており、抵抗はなかった。最初は4000ポンドのブロックバスター/クッキー爆弾、焼夷弾が続く。最初の爆発で生じた空気圧は余りにも強く、ポルターガイスト現象(誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こる現象で、通常では説明がつかず、心霊現象の一種ともいわれる)もみられた
住宅は、落下してくる爆弾によって部分的に破壊され、棒状の焼夷弾による燃え上がる炎に呑み込まれる。攻撃は一連の可聴周波数以下の響きとして、聴覚より内蔵で深く感じた
爆撃機244機とモスキート9機で構成される第1波は、15分間で880tを投下、57%が高性能爆弾で43%が焼夷弾
中でも最も非情だったのは、目標を表示する最初の炎が投下されて30分後に、まだ破壊されていない遠くの通りから響いてくる、警報解除を知らせる軽めの音だったかもしれない。地下室から出てもよいという合図だが、図らずも残酷な仕儀となった
第16章
燃える瞳
市当局は、見事な速度と調整力で緊急事態への対処を組織化していた。消防車と隊員は旧市街の火災現場に出来るだけ近づこうとした。貯水槽や消火用水を使って消火に努めようとしたが、既に手に負えない状態に直面。一面火の光景。外を歩くと、灰の粒子のため、目がひどく痛み、気管と肺がヒリヒリし、咳が出、呼吸のたびに生々しい不快と嫌な後味の恐ろしい感覚があった
第17章
真夜中
ドレスデン工科大学のバルクハウゼン教授の研究所も完全に焼け落ちた。大学は旧市街の南部にあり、「無法な爆撃」の犠牲
市当局者は、エルベ川近くの掩蔽壕にいて、ラジオで爆撃機の別の編隊が接近しつつあるとの情報を得ていた
第18章
第2波
第2派は552機の爆撃機からなり、既にイギリス海峡を渡っていた
ドレスデンに近づくと、既に燃え盛る街並みに、さらに爆弾を投下する必要がないという理性的な判断を下した者もいて、投下したのは地獄の中心を離れてからで、何もない所に落ちるよう願っていたと後に回想していたが、実際は郊外の平和な通りに爆弾が落とされ、火がさらに広がった。表面的には思い遣りのある態度は広く共有されていたようだが、その晩被害をもたらさなかった爆弾はほとんどなかったのが事実。1800tが投下
午前1時過ぎに掃討が始まった時、空襲警報装置は空襲火災のため町の電気系統は溶けていて機能しないままだったが、当局は官吏に携帯空襲警報機を持たせて通行可能な街路に送り出していた。暑く有毒な地下室にいたたまれず、通りで巨大な溶鉱炉となった高速の火の竜巻に囚われた人々がいる。火勢は161㎞/hにもなったという
第19章
死者の中から
多くの人が失明し、妊婦が腹を開いて誕生前の子どもが人目に晒されていた
ナチ支配層はほとんど指示を出さなかった。高位のナチはどこにも見当たらず、ザクセン大管区指導者は市民をまとめようという素振りさえ見せなかった。市職員がこの粉砕された世界にある程度理性を回復しようとしている時に、不在を続けたことで注目すべきで、数時間後遠方から新たにブーンという音が響いてきたときも、もちろん姿を見せなかった
第20章
第3波
アメリカ空軍の若い爆撃手は、既に27回の任務を完了したが、疑惑と不安、そして沈黙と内心の恐怖はかなり後になってやってきた。米空軍乗組員の平均出撃回数は15回
打ち合わせの際、目標は駅舎だと言われたが、飛行機には焼夷弾が積まれていた
米国戦略航空軍情報局によれば、45年初めの時点でドイツ空軍は立ち直って敵意を剥き出しにしているとし、地上戦も収まるどころではないどころかその正反対だった。終戦は決定済みと思われていたのに、ナチは降伏の気配すら見せなかった
米国空軍は1945年初めの数週間、合成石油工場と鉄道線路を目標とする任務飛行を遂行し、常にインフラと燃料供給施設を標的とし、操作員ではなく機械を破壊するよう指示されていたが、爆撃機の性能はそれほど精密ではなかった
2月14日朝、米空軍は3都市の爆撃に出撃、311機がまだ熱を放つドレスデンの廃墟に向かって爆撃を行った。標的は鉄道操車場だったが、多くの焼夷弾は別の場所に落ちた
米軍の射撃手も、ドレスデン爆撃がひどかったことを認めるが、それなりに「戦争を早く終わらせる」のに貢献したと確信している。ドレスデン市民は、米軍による襲撃は「人道に対する罪」であり、牧草地にいた避難民が「低空飛行」で狙い撃ちされたというが、事実ではないし、操縦士の顔まで覚えているというのは、敵に怒りをぶつける本能的な意識下の方法
第3部
余波
第21章
死者と夢見る人々
14日の午後遅くには近くの町や遠くベルリンからも集められた医療従事者と救急車が溢れていた。最大の問題は水で、完全に枯渇
若い兵士の周囲には夢遊病者のように動いている姿があり、彼は後に彼らを「死んだ人々、夢見る人々」と名付けた
第22章
輝く墓
跡形もなくなった都市を覆う静けさの中で、15日朝聖母教会の黒ずんだ砂岩の骨組みが焦げ付くような熱で変形し、高さ60mを超える建物が轟音を立てて倒壊、すべてが大理石の床と地下聖堂に崩れ落ち、押し潰された。旧市街では75千軒のアパートと住宅が破壊
親衛隊員がベルリンから派遣され、一刻も早い秩序の回復を目指す。行政全般を監督するため「空襲被害対策省間委員会」から派遣されてきたのがゲッペルスに近いと言われたエンゲリングという上級官吏で、既に任務を放棄していた市長に代わって枯渇している資源の調達に奔走。深刻な問題は遺体の処理で、身元確認と、熱波と悪臭が充満した地下室からの遺体の回収作業が捕虜に指示されたが困難を極め、嘔吐し過ぎて亡くなる者もいた
15日朝にも米軍機の爆撃が実施されたが、以前の攻撃による空中の残骸がドレスデンを覆い隠す役割を果たしたらしく、米軍の永遠の目標である鉄道操車場を判別できずに周縁の僻遠の地に落ちただけで終わる
1万ほどの遺体が丁寧に記録され、郊外に大共同墓地が作られ埋葬されたが、大半は悪臭を放つ前に市内の各所に臨時の火葬場が設けられ灰にして木々の間に埋められた
クレンペラー教授夫妻は、アーリア人になりすますようにという友人の忠告に急いで従い、、軍隊が手際よく事前に決められた農場とバラックに市民を連れていく中に紛れ込んだ
ドレスデンの市民と当局者が示したのは、連合軍による「士気を挫く爆撃」の結果、期待されていたにもかかわらず、恐怖による機能不全もナチ・イデオロギーに対する叛乱も起きていないという事実で、代わりに都市の秩序を回復し、類のない詳細を除いてはまだ十分理解されていない大惨事に意義を見出そうという、圧倒的な、ほとんど超然とした衝動があった。世界がなされたことを知って反応したのもこの時
第23章
テロの意味
15日朝、ギリスでは、あらゆる新聞が尋常でない規模の空爆が行われた大量の報告と専門家の分析を掲載。当初急襲は戦争の論理的帰結とみなされていた。労働者階級向けの『デイリー・ミラー』紙は、「ドイツにとって最悪の電撃的空爆」だとし、率直に米軍の支援及び赤軍の進撃との関連で言及され、民間人の死傷は強調されていないが、より高級な『デイリー・テレグラフ』紙は、爆撃の成果及びナチ体制の反応を伝えてより興味深く、際立っているのは、同紙が国際的に始まりつつあった宣伝戦を予想していること。「ドイツは爆撃を「テロ攻撃」と名付けて反応し、「専ら市の中心部を爆撃した」と言明」と伝えたが、読者はこの都市が大規模な軍需工場を抱える重要な鉄道の分岐駅だと教えられて安心するだろう
『テレグラフ』紙は専門家に爆撃の成果の分析を依頼、彼は爆撃がソ連軍の要望に着想を与えられたものだと示唆しつつ、ヤルタ会談の計画が即座に実行に移されたものと断定する一方、ドレスデンには工科大学と美術大学があって、価値ある美術品がどこかの地下に隠されていると言及。このことは多くの読者が主に懸念していたことで、同紙ゴシップ・コラムには「ドレスデン空襲―新たに陶磁器店に暴れこむ牛」との悪趣味な冗談が載った
爆撃機軍団の空軍兵にとって、恐怖は骨の髄まで染み込んでいたが、アドレナリン中毒のようなものもあり、当日ドレスデン周辺のほとんど完璧な無防備状態は尋常ではなかった
ゲッペルスが「テロ攻撃」といった時国際的な反響はなかったが、16日に米国AP通信の記者が言及した時、突然意外にも影響力を持ち始めた。「ヒトラーの破滅を早める無慈悲な手段として、ドイツの人口密集地に対する意図的なテロ爆撃の採用という待望の決定を下した」との記事は、倫理上の非難を意図したのではなく、被害を被っていたヨーロッパ諸地域では「満足」が見られるだろうとも書いていたが、検閲を突破した数日後の米国紙に掲載され、イギリスの新聞では左右両翼ともその後数日間ドレスデンが異常なまでに焼き尽くされた様子を伝え、「ドレスデンの大惨事は前代未聞、偉大な都市がヨーロッパの地図から消滅」と報道。事実の隠蔽ではなく、解釈の問題だった。英国の編集者は「テロ爆撃」という新しい戦術ではなく、敵輸送網を目標にした結果だとしたが、スイスやスエーデンなど中立国では過度に感情的な表現が取り上げられた
アメリカ人も「テロ爆撃」という表現を深刻に受け取る。空軍広報部はあくまで「精密攻撃」と理解させようとしたが、ナチがどんなに野蛮でも、アメリカ人は倫理面で同レベルに落ちはしないと国民が認識していたことが重要で、乗組員の士気を維持するためでなく、戦後に予想される権力闘争に備えるためにも肝要。敗戦ドイツで権威を確立するには、アメリカは真摯にナチズムという悪を除去するために必要なことはするが、高潔な国家だと見做されなくてはならない。そこで報道面だけではあったが、英国からも距離が置かれた。空の戦いは続き、次にあげる町の場合、死者の割合は一層高かった
プフォルツハイムは「黄金の町」として有名。人口8万、フランスとの国境近く、宝飾技術と精密時計製造の中心。軍需工場に転用され、部隊移動の拠点でもあった
2月23日爆撃機軍団は再び空襲火災を起こす。中心部の建物と住居の83%を破壊、人口の1/4が殺害。3月10日には東京大空襲があったが、不思議なことに、ヨーロッパの戦争が呼び起こしているような内省のきっかけにはならず、これ以上の流血を回避するため、戦争の早期終結を企図しただけのように思われた
英国では、地域爆撃の反対者が声高に叫び始め、議会でも議論が白熱化、国民を欺いているという発言まで飛び出し、チャーチルも内心の不安を刺激され、空軍のハリス大将に、倫理上の恐れと困難を内密に吐露したが、大将は不当な評価に不満
チャーチルは、「単なるテロ攻撃」ゆえに爆撃機軍団司令官を非難し、軍事目標の検討は敵の利害より自分たちの目的に従って厳格になされなくてはならないとしたが、ハリス大将は「事実上の誹謗中傷」だとして無視。両者間には根深い敵意が残った
ドレスデンの人々は、ナチズムという天罰の残忍な帰結だと理解し始めていた
第24章
死者の音楽
恐怖は大勢の間に広まり、持続していたので、数週間後、次の攻撃を迎えた人々の感覚は、宿命論で麻痺。3月初めの米軍の操車場を襲った精密爆撃では、爆弾多数が目標以外にも落ちたが、反応は精神に衝撃を受けた後の無関心だったようだ
画家は惨状を記録し始め、マウエルスベルガーはレクイエムを作曲して大変動を記憶
ヒトラーの死が公になった後も、大管区長は赤軍に徹底抗戦する覚悟を鼓舞
5月8日、無防備の町に赤軍が侵入し、盗みと暴行が始まり、数日間で市政を完全統制下に置く。食糧事情は多少改善したが、新体制を歓迎する市民が市政の一部を担当
大管区長のムッチュマンは探し出されてルビャンカに送られ処刑されたが、逃げ出した市長のニーラントは「軽罪者」と判断され、英国管理下の収容所に4年抑留されて解放
都市が固有の精神を持っていると言えるなら、ドレスデンはこののち、とりわけ美術と音楽を通して、再生と魂の回復を始めた。文化と高度な表現の場だという都市の自覚が、徐々に再び目覚めていった。その間にドレスデンの残忍な破壊をめぐる倫理的な論争が特に英米で始まり、宝のような都市が野蛮に破壊されたという見方が堅固になった
第25章
反動
ドレスデン市民は降伏後、爆撃の倫理面への取り組みに割ける時間も力もなかったが、英国では爆撃作戦の問題が以前にもまして物議を醸し、高位の政府関係者たちが懐疑的に
欧州進撃で英国があげた成果に空襲火災が含まれなかったこと、チャーチルは勝利演説で爆撃機軍団の骨折りにはっきり言及せず、地上勤務員は爆撃機軍団の特別作戦を称える賞を授与されず、通常の「防衛」記章だけだったことなど、ハリスには不満が残り、王室からバス勲章のナイト・グランド・クロスを授与されたが、政府が申し出た表彰は、搭乗員が特別に認知されないなら受け取れないとして固辞
一方のチャーチルは、第2次世界大戦史でも、ドレスデン爆撃は触れていない
アメリカ人もハリスをある程度尊敬し、陸軍殊勲賞を授与したが、倫理問題は保留
数年後、ドレスデン爆撃はもはや、理路整然とした考察ではなく、様々な醜い政治目的に役立つ、けたたましく悪意に満ちた宣伝の対象になっていた
ドレスデン爆撃に付き纏う倫理問題は、戦争末期の原爆投下によっても全く軽減せず、特に英国では、ドイツの空襲火災で焼死した人数は、原爆による死者の総計より多いと信じる者が多かったので、原爆を契機にドレスデンの衝撃をめぐる西欧の論争が促進された
ドレスデン爆撃は戦争犯罪だという主張が現れ、正当な理由も目的もなく野蛮な作戦はないとの非難が強まり、「戦争がもたらした、単独で最大のホロコースト」とまで言われた
1960年代の英国では、とりわけ芸術界で、ドレスデン爆撃は邪悪で恥ずべき出来事だという見解が定着。ヴェトナム戦争の傷が深まりつつあった、若い世代の倫理観であり、爆撃が無慈悲な帝国主義を象徴する時代だった
ハリスは、1953年チャーチルに説得されて准男爵になったが、目標の選定には責任はなく、命令に埋もれて過ごしたと語り、84年91歳で死去
ドレスデンは戦後、市民が新しい世界・政治・哲学・抑圧に適応しながら、記憶を重視する感覚が強まりつつあった。実際、記憶をめぐる論争は激しくなるだろう。しかし同時に、都市は再生と復興を始め、最後には、公的生活の別の領域と違って、ソヴィエト・イデオロギーの圧倒的な重みに完全には支配されない、新たな美学を見出すだろう
第26章
「スターリン様式」
聖十字架教会が再建されるのは1955年だが、マウエルスベルガーの指揮する合唱団は旧市街の公共空間で演奏し、共産党支配下の都市の新生活に欠かせないものになった。《ドレスデン・レクイエム》と並んで、伝統的な民俗音楽から主題を借りた様々な新作を演奏(ペーター・シュライアーは後にテナーとして独立するが、マイセン生まれドレスデン育ち)
ヴァルター・ウルブリヒトは長年の共産主義者で、30年代は欧州中で亡命生活を送り、ナチ体制崩壊後素早くドイツに戻り、モスクワの指示のもとヒトラーに代わって町のあらゆるものに画像が使われた。ソ連占領地区では、住民の厳格な再教育に着手
著名な電子工学専門家バルクハウゼンは、爆撃1年後ドレスデンに戻り、ドイツ民主共和国国家賞を授与、新校舎にも彼の名が付けられるという栄誉に浴したが、トランジスタ技術の研究に携わり、市は精密機器製造と技術革新の広い領域の中心という、一層顕著な性格の1つを回復できたし、カメラのような製品のため再び高い評価を得るようになり、東側陣営の余り恵まれない地域から、洗練した商品を買いたいという観光客を惹きつける
医学の分野でも、フロメ博士とフリードリヒシュタット病院が乳がんの放射線治療で驚くべき成果を上げ、ドレスデン最初の医科大学長並びに「優秀人民科学者」に任命
都市の古風な趣が完全になくなったわけではなく、より有名で人気のある歴史的建造物は、政治的に好ましいかどうか、詳細な検討の後に復元された
ムッチュマンが運び出した巨匠の作品も、ソ連の戦勝記念品収集隊によって掘り出された後、1950年代半ばに、再建されたツヴィンガー宮殿の美術館に返却
ゼンパー劇場が、何年にもわたる働きかけの後ついに復元作業が始まったのは1980年代半ば。音楽が再開されたのは1960年代後半のアルトマルクトに新築された文化宮殿で、クルト・マズア指揮のドレスデン・フィルは、落成式でベートーヴェンの第九を演奏、外観は美的な面では意図的に古都の様式を破っているが、国中からの観光客を惹きつける
カート・ヴォネガットはドイツ系アメリカ人、バルジの戦いで捕虜になり、ドレスデンで被爆したが、戦後小説家となり被爆体験をもとに書いた、『スローターハウス5』(1969年刊)でブラックユーモアと説得力を備えた作家としての地位を確立しただけでなく、この都市への仕打ちをめぐる激しい論争を再び巻き起こし、大勢の読者に、爆撃されたドイツの多くの都市の中で、ドレスデンはその損失において特殊であり、異例であるという考えをしっかり植え付けることにもなった
1985年、プーチンがKGBの若い職員として着任。4年後にベルリンの壁崩壊の際、KGBの建物の前に出て、狙撃手が位置についているので、これ以上のことをしないよう冷静に要請して事態を鎮め、その後の3日間KGBの有罪を立証する文書を焼いて過ごした
1980年代初め、聖母教会の壊れた土台があるノイマルクトは平和運動の中心
第27章
美と記憶
2月13日には、毎年恒例のドレスデン爆撃の犠牲者の追悼式典が挙行
街は美的にも精神的にも真に復興したと言える
《ドレスデン・レクイエム》が演奏された後、午後9時45分に市のすべての鐘が鳴り始め、10時3分まで鳴り響く。復元されたものは代用品に見えるはずだが、完璧な美を見ることができる。1992年、聖母教会は原型通りに精確に再建されるという合意が成立
1992年、英国で私的な資金で制作されたハリスの彫像の除幕式が行われ、女王の母が式典を主宰したが、自分たちが戦争犯罪人と見做している男の栄誉に反対する人々が激しく抗議。それを契機にドレスデン・トラストが、爆撃と対立の広がりについて若い世代を教育する活動に着手、その1つが聖母教会の円屋根に据えられていた黄金のオーブと十字架の復元するプロジェクトで、多額の寄付が集められたが、プロジェクトの指導者は、英国人自身がそれを償いの印だと示し、それが和解をもたらすだけでなく、英国の責任を認めるものとして役立つと確信していた。2005年復元された教会が竣工
聖母教会の復元以前に、イギリス人との関係を再構築しようとするもう1つの動きがあった――1959年、ドレスデンはコヴェントリーと姉妹都市になる。コヴェントリーは1940年の爆撃で中世以来の中心部が焼き尽くされた
ドレスデン爆撃は戦争犯罪なのかという論争は、一層具体的になっている
保阪正康 書評委員が選ぶ「今年の3点」
2022年12月24日 5時00分 朝日
(1)日本のカーニバル戦争 総力戦下の大衆文化 1937―1945(ベンジャミン・ウチヤマ著、布施由紀子訳、みすず書房・4620円)
(2)花嫁のアメリカ[完全版](江成常夫編著、論創社・3960円)
(3)ドレスデン爆撃1945 空襲の惨禍から都市の再生まで(シンクレア・マッケイ著、若林美佐知訳、白水社・4730円)
コロナ禍、読書は最大の楽しみだった。手当たり次第に読んだ。著者の視点に納得した書を挙げておく。
(1)は戦時下の日本社会の大衆文化を、政府主導から解き放して見つめると、そこに国民の「祝祭(カーニバル)戦争」というべき抑圧されざる実態がある、と著者は見る。この視点での従軍記者、兵隊などの分析が新鮮である。
(2)は著者のライフワークをまとめた書。写真をふんだんに使い、1978年の取材から20年後に再取材しての報告書でもある。かつての敵国兵士を夫にし、アメリカで生きた女性の姿は歴史的存在である。
(3)は、第2次大戦末期の英米軍による都市の徹底爆撃である。この爆撃の持つ意味を英国人作家が人類史の立場で問う。戦争自省の普遍化に頷き、共鳴する。(ノンフィクション作家)
じんぶん堂 (好書好日) 2022.8.4.
広島・長崎とともに語り継がれる「戦争の悲劇」 『ドレスデン爆撃1945 空襲の惨禍から都市の再生まで』
シンクレア・マッケイ著『ドレスデン爆撃1945 空襲の惨禍から都市の再生まで』(白水社刊)は、市井の人々の体験と見聞をもとに精査し、ドレスデンの壊滅と再生を語る歴史書。ウクライナが戦火に見舞われている今、本書には耳を傾けるべき声が満ちている。
「耳を傾けてもらえるのを待っている大勢の声がある。その多くが初めて聞かれるものである。」
広島・長崎と同様に、「戦争の悲劇」の象徴とされる都市があります。第二次世界大戦で灰燼に帰した、ドイツ東部の都市ドレスデンです。はたして、戦争の記憶は、どのように語り継がれるべきなのでしょうか? シンクレア・マッケイさん(英国の歴史家)の『ドレスデン爆撃1945 空襲の惨禍から都市の再生まで』から、「序文 時間の中の都市」を一部紹介します。
この都市は現在、総力戦の蛮行を象徴するようなものになっている。ドレスデンという名は、広島そして長崎と同じく、殲滅を連想させる。この都市がナチ・ドイツの中心部に位置し、ナチの不快極まりない政策を早い段階で熱狂的に受け入れていたという事実がもたらす倫理上の問題は大きい。
この都市と、それを火で破壊するという行為の双方に附随する厳しい道徳性(と不道徳性)は、数十年にわたって、さまざまな怒り、自責、苦痛、心的外傷を伴う論争と分析の的だった。そうした議論は、今でも風景の一部をなしている。ドレスデンでは、過去は現在であり、誰もが時間と記憶の堆積の中を注意深く歩まなければならない。
都市のより近い過去が困難を増幅する。ドレスデンは戦後、ソ連勢力圏内のドイツ民主共和国に組み込まれた。ソヴィエトは文字どおり歴史を支配し、都市の中心に、将来にまで残るはずの新しい建物を建てた。1990年、ヨーロッパ全土でドイツ再統一が祝福される波の中で、東独政府の崩壊を心底残念に思う少数の人々がいたし、今もいる。
特に祝福されたドレスデン市民で、ほとんどのユダヤ系市民が絶滅収容所に移送されたあとに残ったごくわずかのユダヤ人の1人、言語学者のヴィクトル・クレンペラーは戦後、この都市は「宝石箱」だと、空襲火災が大きな注目を集めるのはそのためだと語っている。比較すると、確かにドイツのほかの都市や町が受けた被害の方が大きい。西部のプフォルツハイムは、ドレスデンの数週間後に攻撃され、たった数分間で殺された住民の割合が、異常に多くの死者を出したドレスデンよりも高かった。
空襲火災はほかでも起きた。1943年、何トンもの焼夷弾がハンブルクの木造の家屋とアパートに落とされた。火災が起き、窓が粉々になり、屋根が歪んだ。操縦士は橙色の上空から、炎が炎に重なって狭い通りを渡り、見たこともないほど巨大な火の大釜に重なってさまざまなものを破壊していく有様を目撃して驚いた。空気は薄くなり、燃えて熱い突風が空高く吹き上がり、人々は単に焼け死ぬのでなければ窒息死した。肺が熱で損傷し、次第に呼吸できなくなったのである。
ケルン、フランクフルト、ブレーメン、マンハイム、リューベック、そのほかの都市も空襲被害を受けた。その大多数は、想像できないほどの犠牲者を出しただけでなく、宮殿、歌劇場、教会など、ヨーロッパ文化の観念的な象徴としての建築物を失った。
しかし、ドレスデン──ポーランドおよびチェコとの国境に近く、プラハからの距離が160キロメートルほど──は、国の西部に位置するほかの多くの都市と違い、すでにイメージの上では、国際的に確固たる評価を得ていた。この上なく素晴らしい美術コレクション、ザクセンの華麗な歴史、美しいバロック様式の教会と大聖堂、小道を囲む風景の魅力で、ずっと以前から有名だったのである。当時──現在と同様──この都市は、エルベ渓谷深く、絵のように美しい森林に覆われた穏やかな丘に囲まれながら、隔離されているようだった。哲学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーは19世紀はじめ、ドレスデンを「ドイツのフィレンツェ」と呼び、二つの都市の類似点を描写して称讃した。ここから「エルベ河畔のフィレンツェ」というさらに広く流布した呼称が生まれた。
だが、この都市が有名なのは、保守的でなかったためでもある。ドレスデンは決して単なる宝石箱ではない。きわめて革新的な画家、作曲家、作家などの芸術家の生命が発揮する活力によって、喜ばしい名声を勝ち得ていたのである。ここには、初期のモダニストもいた。完璧な共同体を実現するための新しいアイディアを持つ、先見の明のある建築家もいた。さらに音楽が、これらの潮流の化学成分の一部だと思われた。今日でも変わらないままである。古都の夕べ、伝統的な大道芸と大聖堂聖歌隊の残響が聞こえるだろう。何十年も前にも聞かれたものである。
そこで、ドレスデンの──破壊と復活の──物語は、多様で不快な倫理上の問題を提示する。私たちは、この大勢の人々──子ども、女性、避難民、高齢者──があの夜、そしてその後の年月に受けた被害を知ることで、ナチ党の勃興以来犯された犯罪の恐ろしさを軽減するのだろうか。個人の物語を深部から掘り出すことで、ヨーロッパ中の村、町、都市がいっそう野蛮に扱われていた間、たいそう美しいままだった場所を、盲目的に崇拝する危険に陥るのだろうか。
そして、飛来して目標に爆弾を投下した数百名の操縦士を、私たちはどう見たらいいのかという問題がある。この若者たちは疲れきり、空虚で、凍え、長く続いた戦いの苦い結末を恐れていただろう。友人の多くが空中で吹き飛ばされる有様を目撃してきた戦いである。彼らは司令官に命じられたことをしたに過ぎない。飛行機の──とりわけイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアの──乗組員は操縦し、コースを確認し、銃を敵戦闘機に向け、爆弾倉で腹這いになり、インターホンで話し合い、お守り──布製の帽子、特製の靴下、あるいは恋人のブラジャーさえその役割を果たした──をしっかり握った。ブラジャーには、十字架以上の守護力が備わっていた。この男たちは、闇を通して何百メートルも下の火災を見下ろし、自分たちも今にも炎に呑み込まれて、生きながら焼かれるかもしれないと知りながら、さらに多くの焼夷弾を投下した。この若者たちは──「虐殺者」と呼ばれた英国空軍大将アーサー・ハリスとともに──戦争犯罪に関与したのだと、のちに非難された時、どう自己弁護しただろうか。
これが戦争についての物語の一部だとしても、必ずしも純粋に軍事史との関連では考えられない。むしろこの一大事件は、できる限り、現場に、すなわち地上と空中にいた人々、命令を出した人々、なす術のなかった人々の目を通して見ることで理解しようとすべきである。戦後になっても長く、波紋を広げ続けた悲劇だからである。あの一晩で、多数の命が失われただけでなく、文化と記憶も破壊された。そして、あの夜の恐怖は、今でも色あせることのない政治的な問題である。昔の死者を今日悪用しようと試みる者を偶然でも支援しないよう、細心の注意を払わなければならない。記憶そのものが戦場である。東ドイツそのほかに、ナチ・ドイツの国民も虐殺の犠牲者だという思いつきを絶えず利用しようとしている極右が存在する。彼らの議論は、爆撃がなぜなされたかをめぐる奇怪な陰謀論と結びついている。それに対して、この連中が自らの目的のためにあの夜の出来事を乗っ取るのは許されないと理解している市民がいる。過去は守られなくてはならない。
そのためには、そこに居合わせた人々の声に耳を傾けるだけでよいのかもしれない。すなわち、闇がドレスデンを覆うずっと以前にそこで生まれた人々、その闇の中に生まれてきた彼らの子どもたち、あの夜、果てしない恐怖にさらされた人々、その後の混乱した時期に、生活を立て直す方策を見つけなければならなかった人々の生の精査である。
ドレスデンの上層部とドレスデンの復興を集中的に援助してきた英国の組織で働くボランティアの間には、心を打つ協力関係があった。ドレスデン・トラストは、聖母教会の困難な再建にとりわけ密接に関わっていた。
両者は、ドレスデンと英国中部の町コヴェントリーの共生関係を大切にしてきた。コヴェントリーは1940年11月ドイツ空軍に攻撃され、溶融鉛と燃える石と.瓦の塊になってしまった。この二都市の結びつきは、このようなことは二度と起きてはならないという合意を目的としている。
だが、ドレスデンの物語は死と生についての物語だと理解することも重要である。それは、人の精神がきわめて異常な状況で示す、計り知れない順応性についての物語である。
現在では、当時を記憶する人が減りつつあり、さまざまな主張、反対意見、プロパガンダの影響をあまり受けずに、これらの出来事をより鮮明に見られるので、ドレスデン市民の記憶と彼らの日常生活の有様が、別の方法で復元されていくだろう。
市立公文書館は近年、できる限り多くの証言と目撃談を引き出そうと、注目に値する努力を重ねている。地域社会の歴史を構成する刺激的なプロジェクトにおいて、言葉と、亡くなった多くの人を生き返らせる記憶が記録されてきた。あらゆる年齢のさまざまな市民の、さまざまな時代に書き留められた物語である。破壊を生き延び、恐怖を記録した年長の人々が遺した日記、手紙、断章とともに、当時子どもだった人々の報告がある。ドレスデンの主要な医学者から防空指導員まで、無慈悲に迫害されたユダヤ系市民から、それを恥じて助けようとした非ユダヤ系市民まで、十代と学童の回想から年長の住民の異常な経験まで、公文書館は、ある非凡な都市の生における一晩というだけでなく、尋常でない歴史的瞬間の万華鏡のような画像を届けてくれる。耳を傾けてもらえるのを待っている大勢の声がある。その多くが初めて聞かれるものである。
そしてやっと、廃墟と復元されたものの下に、かつて──ナチズムの蛮行以前に──めったにないほど革新的で創造的な都市だったものの趣が再現されるのを見る時が訪れた。長い間消えていた通りを歩き、ドレスデン市民が見ていたように見る時である。物語は、驚くべき破壊だけでなく、崩壊した生がその後どのように再生したかについてのものでもある。
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ドレスデン爆撃1945 (単行本)
空襲の惨禍から都市の再生まで
1945年2月、ドイツ東部のドレスデンは英米軍の爆撃で灰燼に帰した。当事者双方の証言と記録で物語る。
内容説明
広島・長崎と同様に語り継がれる蛮行の象徴
1945年2月、ドイツ東部のドレスデンは英米軍の爆撃で灰燼に帰した。甚大な被害から戦後の都市再生まで、当事者双方の証言と記録で物語る。
ドイツ東部の都市ドレスデンは「エルベ河畔のフィレンツェ」と呼ばれ、豊かな歴史と文化、自然に恵まれ、教会や古都の街並み、陶磁器や音楽で知られていた。しかし1945年2月13~14日、軍事施設がないにもかかわらず、英米軍から三度も無差別爆撃され、焼夷弾の空襲火災によって灰燼に帰し、二万五千人の市民が殺害された。本書は、英国の歴史ノンフィクション作家が、市井の人々の体験と見聞をもとに、ドレスデンの壊滅と再生を物語る歴史書だ。
「ドレスデン爆撃」については、広島・長崎と同様に「戦争の悲劇」の象徴として長く語り継がれ、さまざまな研究がなされてきた。本書はそのような蓄積をもとに、個人と家族の物語に焦点を当てつつ、空襲以前から、三波にわたる空襲の恐怖と火災の脅威、戦後の混乱と東独時代、現在の復興までを詳細に叙述している。独英米の当事者の多様な証言、日記、手紙など新史料を駆使して肉声を再現し、都市の多難な歩みを克明に描いている。
「耳を傾けてもらえるのを待っている大勢の声がある。その多くが初めて聞かれるものである」。ウクライナが戦火に見舞われている今、本書には耳を傾けるべき声が満ちている。
ドレスデン爆撃(英: Bombing of Dresden、独: Luftangriffe auf Dresden)は、第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ陸軍航空軍)によって行われたドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、市の調査結果によれば死者数は25,000人だとされる[1]。
経緯[編集]
立案[編集]
1945年初頭から、連合国の軍事・政治関係者は、ドイツへのソ連軍の進軍をいかにして空から援助するかを協議していた。初期の計画ではベルリンを始め、ソ連軍の前に立ちはだかるいくつかのドイツ東部の都市を爆撃するというものであった。こうした爆撃には以前にも計画があり、1944年にもベルリンほか東部の諸都市を数千機による空襲で壊滅させる計画「サンダークラップ作戦」が立てられたものの、ドイツ都市の完全な壊滅を求めるイギリス側に対するアメリカ側からの難色で破棄されていた。
1月26日、英空軍大臣チャールズ・ポータル (en:Charles Portal, 1st Viscount Portal of
Hungerford) は、「都市への大規模空爆はドイツ東部からの難民避難を混乱させるだけでなく、西から進むドイツ軍の勢いも殺げるだろう」と書き残している。しかし石油精製工場、航空機製造工場などの破壊が第一であり、爆撃機をこれ以外の目的のために消耗に曝すべきではないとも考えた。英空軍省次官のノーマン・ボトムリー (en:Norman Bottomley) はこれを受け、絨毯爆撃の熱烈な支持者であった英空軍爆撃機軍団司令アーサー・ハリス(別名「ボマー」・ハリス)に対しベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツに気象条件が整い次第爆撃を行ない、これらの都市を混乱に陥れるよう命じた。首相ウィンストン・チャーチルは同じ1月26日、もはやドイツ東部の都市は適切な標的ではないと考えるがどうか、と空軍側に尋ねたが、翌日、空軍はドイツの石油基地攻撃のほか都市爆撃も行い東部戦線を混乱させるつもりであると述べた。
一方、イギリス情報局秘密情報部は、ドイツ軍が東部戦線補強のために3月までに42個もの師団を動かすという結論に至り、早急に石油などの補給基地を爆撃し、ソ連軍を助けて戦争終結を早めるべきとした。ソ連はヨシフ・スターリンを筆頭に英米代表と、ドイツへの進撃に対して英米は何を援助してくれるか何度も協議を繰り返していたが、イギリスの空軍代表たちは本国から来た情報当局のリポートを読み、ソ連の進撃を助けるためベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに対する都市空襲を行うことにした。
2月4日のヤルタ会談で、ソ連のアレクセイ・アントーノフ陸軍大将は英米の戦略爆撃に対し2つ提案を行った。一つはソ連軍に対する誤爆を避けるためドイツを南北に縦断する線を引き、これより東への爆撃にはソ連の許可を取ること。もう一つは東部戦線へのイタリアやノルウェーからの増援を妨害するため、ベルリンとライプツィヒにある交通の結節点を麻痺させて欲しいということだった。これに対し大筋で英米は合意したが、イギリス代表であるポータルはドイツ国内の工場や都市の情報を見せ、ドイツ東部に位置するドレスデンの空襲なしでは、ベルリンやライプツィヒの施設が破壊されてもドイツ軍はドレスデンを通って東部戦線に増援できてしまう、と指摘し、アントーノフもドレスデンを攻撃対象に入れることに了解した。
実行[編集]
ドレスデンは、それまでにも二度空襲を受けている。1944年10月7日と1945年1月16日で、市の中心に隣接した鉄道施設を狙って多くの爆弾が落とされていたが、ハンブルク空襲などのような市内への無差別爆撃はなかった。
2月13日の空襲はイギリス軍とアメリカ軍とでともに行う予定だったが、ヨーロッパ上空の気象状況のためアメリカ軍機は離陸できなかった。2月13日の夕方から、合計796機のランカスター爆撃機と9機のデハビランド・モスキートが、計1,478tの爆弾(榴弾 high-explosive)と1,182tの焼夷弾を搭載し、二波に分かれて14日未明までに出撃した。13日22時14分頃(現地時間)、イギリス空軍のランカスター爆撃機244機がドレスデン上空に到着し、低空から目標を目掛けて大量の焼夷弾を投下。2分以内に1機を除くすべての爆撃機から全弾が市街に投下された。残る1機は22時22分に全弾を投下し終えた。おびただしい爆煙が上空に立ち上がった中で爆撃機隊はさらに800tの爆弾を投下したが、これは目標が見えない中成功したとはいえなかった。
3時間後、第二波攻撃が行われた。2月14日1時21分から1時45分の間にランカスター529機が8群に分かれ、高空からパスファインダー(先導機)に従って1,800tもの大量の爆弾を投下。この2回の攻撃でイギリス軍は6機のランカスターを失い、さらに2機が帰投中に墜落した。
第三波攻撃は同日昼過ぎの12時17分から12時30分に行われた。アメリカ陸軍航空軍のB-17が771tの爆弾を駅周辺に目掛けて投下。さらに護衛についてきたP-51が路上を狙って機銃掃射をし、混乱に拍車をかけた。この時、ドレスデン市街は火災旋風に次々飲み込まれ、多くの市民が逃げ惑っていたところへ機銃掃射が行われた。なお、この機銃掃射については、目撃したと主張する生存者とあり得ないとするドイツ人研究者達のあいだで論争となっている。
アメリカ軍は翌2月15日にも466tの爆弾を投下した。一連の爆撃でイギリス空軍の投下した爆弾、焼夷弾は合計すると2,978t、アメリカ陸軍航空軍のそれは783tに及んだ。数波に渡る爆撃を行ったのは、爆撃の後で市民が片付けのために地上に出てきたところを狙ってのものであった。
ドレスデン爆撃は基本的な爆撃手法に基づくもので、大量の榴弾で屋根を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、さらに榴弾を落として消火および救助活動を妨げようという意図からなっていた。こうした基本的な爆撃手法はドレスデンでは特に効果的だった。爆撃の結果、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が収まることなく燃え続けた。市街広域で発火するとその周囲の空気は非常に高温となり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。
13日夜から15日にかけての爆撃の後、アメリカ軍によってあと2回の爆撃が行われた。3月2日には406機のB-17が940tの榴弾と141tの焼夷弾を投下し、4月17日には580機のB-17が1,554tの榴弾と165tの焼夷弾を投下した。
空襲の影響[編集]
この空襲には「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という一応の名目はあったが、実際は戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲であり、ドイツ空軍の空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。
『Oxford
Companion to the Second World War』によれば、爆撃の2日後に開かれた連合軍のオフレコの記者会見に拠れば、イギリス空軍代将コリン・マッケイ・グリアソン (Colin McKay Grierson) は記者達に対し、かつて立てられた「サンダークラップ作戦」の目的は住宅密集地を爆撃して救援物資を行き渡らせなくしようとするものだったという。AP通信の戦争特派員ハワード・コーエンはこれを基にした記事で、連合国軍は「テロ爆撃 (terror bombing)」に頼っていると述べた。この記事に続いて多くの社説が書かれ戦略爆撃に対する論争が起こり、英国議会下院でリチャード・ストークス議員による質問がなされた。
ドレスデンの破壊はイギリスの知識層に不快感を呼び起こした。マックス・ヘイスティングズによれば、1945年2月までにドイツ諸都市への空襲は戦争の結果とはほとんど無関係に見られ始め、「ドレスデン」という言葉が全ヨーロッパの知識人に「とても多くの魅力と美の故郷、トロロープ (en) の作品のヒロインたちの逃げ場所、グランドツアーのランドマーク」という響きを与えていた。彼は、ドレスデン爆撃は連合国の国民が初めてナチスを倒すための軍事作戦に疑問を持った瞬間だったと論じている。
アメリカではドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際、アメリカ陸軍軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と語った。
第二次大戦後、ドレスデンは爆撃前の資料等を参考にして、ゼンパー・オーパーや聖母教会などのバロック様式の街並みを再現して復興させた。空襲によって破壊された後に残った瓦礫を可能な限り使っており、新しい石材と黒く煤けた瓦礫との組み合わせによって建てられたこれらの建造物は、見る者に戦争の悲惨さを強く印象付けている。
アメリカの小説家カート・ヴォネガット・ジュニアは、捕虜として連行されていたドレスデンでこの爆撃を経験。後に、代表作となる『スローターハウス5』において、SF的ガジェットを用いながらこの体験を描いた。
また、現在ドイツに存在する極右(ネオナチ)政党であるドイツ国家民主党は、ドレスデン爆撃も含め、連合国軍による各都市への空襲について「爆弾によるホロコーストだ」、「第二次世界大戦中に連合軍の空爆を受けたドイツ各都市の犠牲者こそ悼むべきだ」と主張している。
空襲の被害[編集]
ドレスデン爆撃によって市民や多くの難民が犠牲になり、歴史的建造物の多くが瓦礫の山と化した。この空襲のことを、チャーチルは「テロ爆撃」という名前で説明している。
ドレスデンには目立った軍事施設もなく、「エルベ河畔のフィレンツェ」の別名の通りドイツ最高のバロック様式の美しい街並みと数多くの文化財が知られており、人々はドイツの中でも「ドレスデンだけは空襲に遭うことはない」と信じていた。ドイツ軍も空襲に対してはほとんど無警戒であり、高射砲などの兵器も、戦争末期には他地域に移動するなどして、空襲への防備は手薄となっていた。また、資料によってばらつきが存在するものの、当日迎撃したドイツ軍機は皆無と言っていいほどで、イギリス側の損害はごく僅かなものであった。
死傷者[編集]
死者の正確な人数は確認が難しく、未だに分かっていない。
見積を困難にしているのは、爆撃当時、20万人といわれる難民や数千人の戦傷者でごった返していたからである。当時、ドイツの多くの都市が英米軍の空襲にさらされていたほか、東プロイセン地方にソ連軍が侵攻しており、ドイツ中から多くの難民がドレスデンに滞在していた。1939年に市街とその郊外に64万2000人の住人だった人口に対し、20万人以上の避難民が市内にいたと推定される。その正確な人数は今も不明であり、死者数の推定が困難になる要因となっている。難民のうち多くが火炎の中で殺され身元が分からないほど遺体が損傷したため、または生き残ったものの役所など誰にも言わずに市内から脱出したため、難民のうちの死者数は不明である。爆撃直後の比較的しっかりした見積では、埋葬者は「25,000人から最大で60,000人」とされているが、歴史学者は現在埋葬者は「25,000人から35,000人の間」と見ており、1994年のドレスデンの歴史学者フリートリヒ・ライヒェルト (Friedrich Reichert) の調査では、この範囲の低い方だろうと見ている。こうした研究は、ドレスデンの死者は空襲に見舞われたドイツの他都市の死者数に比べ桁違いに多くはないことを示唆していた。2010年のドレスデン市歴史調査委員会による調査結果では、「死者約25,000人」とされている。
都市 |
人口 |
トン数
(t) |
|
||
合計 |
|
||||
4,339,000 |
22,090 |
45,517 |
67,607 |
|
|
1,129,000 |
17,104 |
22,583 |
39,687 |
|
|
841,000 |
11,471 |
7,858 |
19,329 |
|
|
772,000 |
10,211 |
34,712 |
44,923 |
|
|
707,000 |
5,410 |
6,206 |
11,616 |
|
|
667,000 |
1,518 |
36,420 |
37,938 |
|
|
642,000 |
4,441 |
2,659 |
7,100 |
|
|
現在の公式なドイツによる記録では「21,271人」の埋葬者が登録されており、その中にはアルトマルクト(旧市街)で荼毘に付された6,865人も含まれている。当時の公式記録 (Tagesbefehl 47) によれば、3月22日までに、戦争に関係あるなしにかかわらず25,000人ほどを埋葬したという。5月以降は埋葬の記録はない。後日多くの遺体が市街地から発掘されており、1945年10月から1957年9月までに1,557人分、1966年までに合計1,858人分の遺体が発掘された。ドレスデン市内が建設と発掘ラッシュだった1991年から1998年にかけては遺体は見つかっていない。一方、政府などによって行方不明として登録されている人数は35,000人であるが、そのうち10,000人は後日生存が確認されている。近年の調査では、ドイツ側による推定死者数が高く、イギリス側による推定死者数が低く見積もられているが、爆撃当時はイギリス側が被害を大きく見積もり、ドイツ側は小さく見積もっていた。
ナチスの宣伝省は被害をプロパガンダに使うようになり、後に冷戦初期のソ連も同様に英米を敵視する目的で被害を大きく宣伝した。ドレスデン爆撃の死者数は最大30万人とされているが、これはドイツ宣伝省やソ連側歴史学者、またデイヴィッド・アーヴィングのノンフィクションといった信頼性の薄い情報源に基づいている。コロンビア百科事典やエンカルタ百科事典では死者数を35,000人から135,000人の間としているが、高い方の数値はアーヴィングの研究による。
ドレスデンの市街地の破壊はドイツ諸都市に対する空襲に比べて飛びぬけて大きなわけでもなく、落とされた爆弾の量がこれより多い都市もある。しかしドレスデンの場合、折悪しく気候が爆撃に都合が良く、木組みの建物が多く、隣同士の建物の地下室が火で貫かれたなど悪条件が揃い、さらに空襲に対する防空、迎撃体制はなかったため被害は拡大した。第二次世界大戦時におけるドレスデンの空襲での死者数はこうしたことから空襲を受けた他都市に比べ多くなっている。例えば、イギリスで最も空襲による被害を受けたドレスデンの姉妹都市、コヴェントリーは1940年の2回の爆撃で1,236人の死者を出した。
建造物[編集]
警察による爆撃直後の報告では、旧市街と新市街東部が一つの火炎に飲み込まれ、12,000棟の建物が破壊されたと指摘している。報告はさらに、「銀行24店舗、保険会社26箇所、小売店31箇所、商店647軒、倉庫64、大規模市場2、大規模ホテル31、公共施設26箇所、行政施設63箇所、劇場3、映画館18、教会11、礼拝堂6、歴史的建造物5、収容人数過多の臨時病院や個人医院も含めた病院19、学校39箇所、領事館5、動物園1箇所、上水道施設1箇所、鉄道施設1箇所、郵便施設19箇所、市電施設4箇所、船とはしけ19隻が破壊された」と伝えた。
また、タッシェンベルク宮殿 (Taschenbergpalais) に入っていた国防軍司令部、19箇所の軍の病院、その他多くの重要でない軍事施設が破壊されたと伝えた。工場200箇所はほとんど損害を受け、特にツァイス・イコンの光学機器工場を含む136箇所は壊滅し、28箇所は中規模の破壊を受け、35箇所は軽微な損傷で済んでいる。
イギリス軍の査定では「都市の産業施設の23%が壊滅し、それ以外の建物(住居など)の56%が壊滅した」と結論付けた。「市内の不動産のうち住居に関して、78,000軒は崩壊し、27,700軒は住居不可能であるが修理不可能ではなく、64,500軒は被害が小さく修理可能だ」と査定された。後日の調査では、「街の住居の80%が何らかの損害を受け、50%はひどい損害を受けたか消滅したことが示された」とアメリカ軍の報告は伝えている。
さらに、「アメリカ陸軍航空軍の鉄道施設への14日、15日の2日間にわたる攻撃で鉄道は深刻な打撃を受けて交通は麻痺し、往来のため死活的に重要なエルベ川の鉄道橋は使用不能になり、爆撃後数週間は通行止めとなった」と伝えている。
文化財[編集]
ギュスターヴ・クールベの『石割り人夫』(焼失)
聖母教会 (Frauenkirche) - 一部の壁を残し全壊。戦後、東ドイツ政府は宗教施設の再建を後回しにしていたが、住民運動により、瓦礫を最大限に活用し「世界最大のジグソーパズル」と呼ばれた再建工事が、有志からの寄付金等により1996 - 2006年の期間で再建された。特に頭頂の十字架は実際に空爆を行ったイギリス空軍兵士らの家族からの寄付金で2004年に復元された。
ツヴィンガー宮殿(Zwinger) - ほぼ全壊。1988 - 1992年の期間で再建された。
ゼンパー・オーパー - ほぼ全壊。1977 - 1985年の期間で再建された。
主題にした作品[編集]
レオ・アルンシュタム監督の1960年ソ連映画『ドレスデンの五日間』(英文題名:Five
Days, Five Nights)が作られ、日本でもアートシアター新宿などで公開されている。内容はドレスデンのツヴィンガー宮殿・アルテ・マイスター絵画館所蔵の名画が洞窟に隠されているのを、進駐したソ連軍が発見して保護する様を描いている。
カート・ヴォネガットの長編小説『スローターハウス5』(1969年)
ジョージ・ロイ・ヒル監督、マイケル・サックス主演で、1972年に映画化。
ローランド・ズゾ・リヒター監督作品『ドレスデン、運命の日』 2006年ドイツ映画、アルバトロス・フィルム配給(Roland
Suso Richter, Dresden)
ドレスデン(独: Dresden)は、エルベ川の谷間に位置する、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都である。 3つあるザクセン州の行政管区の一つである、ドレスデン行政管区の中心都市であり、人口は約51万人(2008年)。
なお、ドレースデンと表記されることもある。
l 地勢[編集]
エルベ(Elbe)川沿いの平地に開けた町である。ドイツの東の端、チェコ共和国との国境近く(30キロメートルほど先)に位置する。陶磁器の町として有名なマイセンまで約25キロメートルと近く、エルベ川が両市を結ぶ重要な交通路であった。
l 歴史[編集]
7世紀以来スラブ人が居住していたこの地(Gau Nisan)の集落は、929年より後にドイツ人支配のマイセン辺境(Mark Meißen)の中に入った。1144年より前に、ヴェッティン家のマイセン辺境伯の所領となった。辺境伯はエルベ川の南岸、Gauの中心にあったと推測される国王荘館(Königshof)を改築し城塞(Burg)にした。1206年に名前を挙げられた町には、一つの最初の小教区(後の聖母教会)とニコライ教会(後のクロイツ教会)を囲む12世紀の商人集落があった。この集落から、1216年に名前を挙げられるCivitasが発展した。神聖ローマ帝国からシレジアへと通じる重要なフランケン街道(Frankenstraße)には、1275年の文書に記されたエルベ橋が架けられる。辺境伯ハインリヒ貴顕公(Heinrich der Erlauchte)はドレスデンを居城地とした。1265年より前に、フランシスコ会の修道院が建設された。1265年には、ドレスデン市に開市権(Stapelrecht)が与えられ、1292年には、市長と参事会が置かれている。1485年以後ヴェッティン家の居城都市(Residenzstadt)として大いに発展する[2]。
ドレスデンの名が歴史に現れたのは、上記のように1206年で、ドレスデネ(Dresdene)と記されていた。この名称は、古ソルブ語の「森」を意味する語と関係があり、本来「(川辺の)森の辺りに住み人々」(die Siedler am >Auen<wald)を指していた[3]。1350年には、エルベ右岸の地区が「古ドレスディン(Antiqua Dressdin)」という名称で現れ、1403年に都市権を与えられている。これが現在の新市街(ノイシュタット)で、エルベの右岸と左岸は、1549年まで別の町として扱われていた。
ドレスデンが発展するきっかけとなったのは、ザクセン選帝侯フリードリヒ2世の2人の息子、エルンストとアルブレヒトが、1485年に、兄弟で領土を分割(ライプツィヒの分割)したことに始まる。ドレスデンを中心とする領土を与えられた弟アルブレヒトは、ザクセン公を称し、ドレスデンを都として地域を支配することとなった。こうして、ドレスデンは、アルベルティン家の宮廷都市として栄えることになる。
その後、アルベルティン家は1547年のモーリッツの時に選帝侯となり、ドレスデンがザクセンの中心地として発展することになった。エルベ川に沿ったアウグスト通り沿いの外壁には、歴代君主たちを描いたおおよそ100メートルにわたるマイセン (陶磁器)による壁画「君主たちの行列」がほぼオリジナルの状態で現存している。
ドレスデンが最も発展したのは、1711年から1728年のフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強王)の治世である。ドレスデンを代表する建築物となっているツヴィンガー宮殿(Zwinger)は、アウグスト強王が、ダニエル・ペッペルマンに命じ、1711年から1728年に、城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によって建立させたものである。同時に、エルベ川の10キロほど上流にあるピルニッツ宮殿も、大幅に増築されている。一方、市の中心部では、1726年に聖母教会(フラウエン教会)の建築が開始されている。こうして形成されたドレスデンの町並みは〈百塔の町〉とも呼ばれ[4]、18世紀中期の姿がベルナルド・ベッロットによる絵画として残されている。 1806年に神聖ローマ帝国が解体し、ザクセン王国が成立した後は、ドレスデンはその首都となった。
第二次世界大戦では徹底した爆撃(ドレスデン爆撃)にあい市内中心部はほぼ灰燼に帰した(ただし、現在ドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館に展示されている美術品の多くは、事前に近くの洞窟に隠されていて、おおむね無事だった[5])。ソ連占領地域にあったため、戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)領となり、ドレスデン県の県都としてライプツィヒなどと並ぶ工業都市として発展した。近年では〈エルベ川のフィレンツェ〉とも呼ばれ、観光地としての開発も顕著で、東部ドイツ有数の大都市として賑わいを見せており、1990年の東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進されつつある。廃墟のまま放置されていた王妃の宮殿(Taschenbergpalais)が再建されて高級ホテルに生まれ変わったほか、同じく瓦礫の堆積のままの状態で放置されていた聖母教会の再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、2005年10月に工事が完了した。瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む作業は「ヨーロッパ最大のジグソーパズル」と評された。新しい部材との組み合わせがモザイク模様を描き出しているこの建物は、新しい名所となっている。
l 文化[編集]
音楽はザクセン侯宮廷の傾向を反映して、古くからイタリアの影響を受けてきた。シャイン、シュッツらはルター派典礼音楽にイタリア音楽の傾向を付け加えた。ミヒャエル・プレトリウスもしばらくドレスデンで活動したこともあり、17世紀ドイツにおける音楽の中心地のひとつであった。モーツァルトもまたドレスデンで作品の初演を行っている。オペラ座、通称ゼンパー・オーパーは新古典主義建築の代表作としても知られ、オペラ座のオーケストラであるシュターツカペレ・ドレスデン(「ドレスデン国立歌劇場管弦楽団」と呼ばれることも多い)は、最古のオーケストラとして知られている。ドイツ鉄道ウィーン~ドレスデン間の夜行特別列車「ゼンパーオーパー」はこの劇場の名にちなんだものである。なお、歌劇場が二つある都市は、世界でもベルリン(三か所)以下、ウィーン、モスクワ、ミュンヘン、ロンドンなど、人口百万以上の大都市ばかりであり、中規模都市としてはドレスデンは唯一の存在である。
ザクセン侯の美術コレクションは現在ツヴィンガー宮殿の一角を占めるドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館(Alte Meister)などで展示されている。アルテ・マイスターのコレクションの中にはラファエロの「システィーナの聖母」が含まれる。そのほかレンブラント、ルーベンス、ルーカス・クラナッハ、デューラーなどヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設のひとつである。旧市街には二校の芸術系大学が存在している。ドレスデンで最も古い大学であるドレスデン美術大学と、質の高い音楽家を世に出してきたドレスデン音楽大学である。
上記の様な旧市街(アルトシュタット、Altstadt)で主に見られる文化の他に、新市街(ノイシュタット、Neustadt)の文化も興味深い。
新市街は、実は旧市街よりも歴史はかなり古い。ザクセン選帝侯時代、今の新市街地区のほぼ全域を焼失させる大火災があった。そこから比較的早く復興したため、それを記念し、全く新しく生まれ変わって繁栄してほしい、という願いを込めて、選帝侯がノイシュタットと名付けられたとも言われている(原典不明)。
築 100 年を超える建物が多く、世代を超えても当時の雰囲気を比較的良く保っている、数少ない街である。空襲で完全に焼け落ちたにもかかわらず、歴史的建造物を除きアルトシュタット以上によく保守された地区と言ってもよい。
街の空気がやや古典的で、狭い路地が続く町並みには、レストランやバーが無数に存在し、週末は地元人達で賑う。また、美術・芸術家などの個展や、演奏会・音楽サロンが街のあちこちで毎週のように開かれ、地元人の関心も常に高い。文化・芸術が生活と密接に関わっている街である。
2004年、歴史的建造物の残る文化的景観が評価され、ドレスデン・エルベ渓谷が世界遺産に登録された。ドレスデンを中心にしたエルベ川流域18kmが対象であった(面積1930ha)。しかし、交通量の増加に対応するためにエルベ川に車両用の橋を建設する案が検討されたことから、2006年に危機にさらされている世界遺産リストに登録され、その後、ユネスコの世界遺産委員会からの警告が発せられた。それにも関わらず、建設が推進されたため、2009年の第33回世界遺産委員会で世界遺産リストからの登録抹消が決議された。
町の中心部近くにある聖母教会の再建は、当初の2006年完成予定に対し、2004年には内部の見学が一部可能となり、2005年に前倒し完成となった。
l 宗教[編集]
ドレスデンでは1539年に宗教改革が導入された。1571年頃から厳格なルター主義を代表する都市になった。1661年になってドレスデンにおいて再びローマ・カトリック教会のミサがおこなわれた。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世はアウグスト2世としてポーランド王に即位するために、1697年にドレスデンの宮廷をカトリック信仰に変更させた。ローマ・カトリック教会共同体はドレスデン市において1807年に初めて福音主義教会と同等に扱われるようになった。以来、ローマ・カトリック教会はドレスデンでは少数派として存続している。
第1次世界大戦後の君主制終焉によって、キリスト教会と国家の関係は大きく変化し、1922年には最初のザクセン州教会監督が選出された。 東独時代において福音主義教会信徒の比率は約85%(1949)から22%(1989)に減少した。ホーネッカー時代の1980年にローマ・カトリック教会の司教座がドレスデンに置かれた。カトリック宮廷教会がドレスデン=マイセン司教区の司教座聖堂に昇格したからであった。
今日、ドレスデン市民の大多数(約80%)は無宗派であり、どの宗教団体にも属していない。約2万人がローマ・カトリック教会の信徒であり、約7.5万人がドイツ福音主義教会(EKD)に加盟しているザクセン福音ルター派州教会の教会員である。ドレスデン市民におけるローマ・カトリック教会信徒の比率は約4%、ルター派教会信徒の比率は約15%である。
ルター派や改革派等のキリスト教自由教会と非キリスト教宗教団体に属する会員数はドレスデン市当局の見積もりによると約5千人である。18世紀、1764年にドレスデンに最初の改革派教会が建てられた。ルター派と同じ公的権利がドレスデンの改革派教会に与えられたのは1811年であった。このドレスデンの改革派教会はドイツ福音主義教会(EKD)に属さない自由教会で約6百人の教会員がいる。ザクセン州にはライプツィヒ、ケムニッツにも改革派教会があるが、これらの教会はドイツ福音主義教会(EKD)に属している州教会である。現在のドレスデンには約760人のユダヤ教徒が住んでいる
l 経済[編集]
もともと工業都市であり、戦前から旧東独時代も通して、精密機械から重工業まで、あらゆる工場が林立していた。かつては、イハゲーをはじめとする多くのカメラメーカーがドレスデンに拠点を置いていたほか、直線距離で23kmほど離れたグラスヒュッテとともに、高級腕時計の生産地としても名を馳せる。
中部のグローサーガルテン
(Großer Garten) 地区には、フォルクスワーゲンの自動車工場である「グレーゼルネ・マヌファクテュア」(Gläserne Manufaktur、ガラス工場の意)が設立されている。同工場は2002年に操業開始し、フォルクスワーゲン・フェートンなどの製造を行っている。
また、近年では独インフィニオン・テクノロジーズ社から独立したキマンダ社、米AMD社の半導体製造部門が独立したGLOBALFOUNDRIES (グローバルファウンドリーズ)社 などの製造拠点が置かれ、欧州における半導体製造拠点の一つともなっている。
1908年にメリタが創業したが、1929年にミンデンへ移転した。
l 交通[編集]
ドレスデン交通企業体 - 公共交通会社
ドレスデン中央駅は、ベルリン、プラハ、ニュルンベルクとの間に直通列車を持つ。
2006年の市誕生800年のお祝いに向けて、ドレスデン中央駅の周辺は整備計画が進行中である。最近、駅舎の改修工事の一部が完成をみた。これらの整備に伴い、今後数年間のうちに中央駅周辺は大きく発展することが期待される。
ドレスデン中央駅のほか、ドレスデン=ノイシュタット駅も優等列車の多くが停車する主要駅である。
市内交通を担う存在として、ドレスデン交通企業体の運営による路面電車がある。東西ドイツ分断の頃にモータリゼーションの影響が遅れており、路線廃止が行われていない為、人口50万人の都市としてはかなり長い総延長130km余りの路線を有する。車両はかつては東欧のČKDタトラ製の「タトラカー」が主力だったが、東西ドイツ統合後は超低床車のフレキシティ・クラシック(ボンバルディア社製)が投入され、老朽化したタトラカーを順次置き換えを進めている。利用者が多い為、列車編成も約45mと長大である。
またドレスデンでは世界的にも例を見ない電車方式の貨物列車、「カーゴトラム」 (CarGoTram) を2001年より運行していた。これは前述のフォルクスワーゲンのグレーゼルネ・マヌファクテュアの設立に端を発する。乗用車の生産に伴って発生する有害物質の削減等、エコロジーに重点を置いている同工場は、敷地面積が若干狭く、資材や部品の倉庫を設置できなかった為、市西部にあるドイツ鉄道の貨物駅に隣接して倉庫を建設した。そこで部品運搬の手段が問題となり、試算した結果工場と倉庫を一日170台の大型トラックが往来する事となり、大気汚染等の環境問題、道路交通の安全性等の懸念から、既存の路面電車を活用する事となった。工場と倉庫には本線と接続した引込み線が設けられ、実に60t、トラック約3台分の荷物を積載が可能な5~7両編成の貨物列車(両端が電動車、中間が付随車のいずれも有蓋車)が40分間隔で、約18分掛けて往復していた。四代目となるフォルクスワーゲン・ゴルフが発表された際、荷台にゴルフを載せて市民にお披露目するというプロモーションを行った事もあった。このカーゴトラムは、自動車と鉄道という相反する物を有機的に結び付けただけでなく、環境問題への取り組みとして注目されていた。しかしながら、電気自動車の「ID.3」に関して製造拠点がドレスデンからツヴィッカウの工場へと移管し、ドレスデンの倉庫 - 工場間の輸送量が大幅に減少する事となり、維持費の面で不利となるカーゴトラムはトラックへ置き換えられる事となった。当初は2020年12月23日の最終列車運行が予定されていたが、12月10日に工場内で自動車との衝突事故が発生し、迅速な修復が困難であった事から当日をもってカーゴトラムの運行は終了した。車両についてはドレスデン交通企業体が購入した上で事業用を含めた転用が検討されている。
市東部のエルベ川に青い奇跡の橋(正式名称はロシュヴィッツァー橋)と呼ばれる鉄骨構造の橋が架かっているが、その北岸の丘陵地に、ケーブルカーとモノレールがある。ケーブルカー「ドレスデン鋼索鉄道」 (Standseilbahn Dresden) は路線の長さ547m、高低差95mで、1895年に開業しており、モノレール「空中鉄道ドレスデン」 (Schwebebahn Dresden) は長さ274m、高低差が84mで、1901年の開業である。両交通機関は、1893年に完成した橋「青い奇跡」と並んで、世界遺産ドレスデン・エルベ渓谷の産業遺産とされていたが、ヴァルトシュロッセン橋の建設により、2009年に世界遺産の登録が抹消されている。
l 年中行事[編集]
ドレスデンでは、年中様々な行事が行われ、国際的意義があるものが多い。主な行事には、春はドレスデン映画祭が4月に開催される。また、ドレスデン国際ダンス・ウィークも春ある。夏には、「エルバンフェスト」がエルベ川の右岸に沿って行われ、伝統的な船でレガッタなども行われる。秋は、現代音楽のドレスデンの日、フォークダンス・フェスティヴァルなどが開催される。冬には、降臨節の間にクリスマスマーケットが開かれ、そこでシュトーレンを主題にした祭り「シュトレンフェスト」も行われる。2月には人形劇祭りがある。
l その他[編集]
地名ドレスデンは、「森の住民」を意味する古ソルブ語に由来する 。
2002年夏の洪水(英語版)によりドレスデンも大きな被害を受けた。
旧東ドイツのサッカークラブである1.FCディナモ・ドレスデンは、東西ドイツ再統一後に一時低迷していたが、その後持ち直しており2011年現在ブンデスリーガ2部で活躍中である。
2008年にはドレスデンで第38回チェス・オリンピアードが開催された。
2011年、グリュックスガス・シュタディオンでFIFA女子ワールドカップが開催された。
小惑星(3053)
Dresdenはドレスデンの名前にちなんで命名された[10]。
姉妹都市[編集]
主な出身人物[編集]
ゼンパー・オーパー - ドレスデン歌劇場
エーリッヒ・ケストナー - 詩人・作家
ローター・シュミット - チェスプレーヤー
ゆかりの人物・エピソード[編集]
1884年から約4年間のドイツ留学をしていた鴎外は、1885年10月11日から翌1886年の3月初旬まで、約5ヶ月間ドレスデンに滞在していたことがある。小説『文づかひ』はドレスデンを舞台にした作品である。
ドレスデンが気に入ったゲーテは、幾度かこの地を訪れている。彼はエルベ川からみて旧市街地側の川に沿って続く小高い歩道を好んで散歩した。それは森鴎外が滞在するおよそ100年前のことであった。
戯曲『群盗』の初演で成功を納めたものの領主の不興を買って各地を放浪したシラーは、1785年4月友人のケルナーらに迎えられ、そのドレスデンの家に2年間寄寓し、幸福な日々を過ごす。その間に生まれたのが、ベートーヴェンの第九こと交響曲第9番で歌われる詩「歓喜の歌」である。
ドレスデン宮廷劇場指揮者になったが、1848年のドイツ革命の際、ドレスデンでのバリケード戦に参加している。
l ドレスデンが舞台の作品[編集]
ドレスデンの思い出 - ヨハン・シュトラウス2世の弟エドゥアルト・シュトラウス1世の作曲したポルカ・フランセーズ。
l 映画[編集]
ドレスデン、運命の日 - 2006年のドイツ映画。第二次世界大戦末期のドレスデンを舞台にしている。
l 小説[編集]
『文づかひ』
- 森鷗外の小説。
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