SHO-TIME 大谷翔平 Jeff Fletcher 2023.3.18.
2023.3.18. SHO-TIME 大谷翔平 メジャー120年の歴史を変えた男
SHO-TIME
: The Inside Story of Shohei Ohtani 2022
著者 Jeff
Fletcher 1969年生まれ。ロサンゼルス在住。エンゼルス番として10年目を迎えたオレンジ・カウンティ・レジスター紙の記者。メジャー取材歴24年で、米野球殿堂入りを決める投票資格も持つ。2013年よりエンゼルスを担当、大谷の取材に関してはMLBルーキーイヤーから4年にわたって密着取材。日数に換算すれば、1460日となる。アメリカで最も大谷選手を取材している記者として、何度も日本のテレビ番組に出演。日本語版のTwitterも開設し、そのフォロワー数は1.5万人。YouTubeチャンネル「Sho-Time Talk」の登録者も1.41万人。2015年からはアメリカ野球作家協会のロサンゼルス支部長を務める
訳者 タカ大丸 1979年福岡県生まれ。岡山県育ち。ポリグロット(多言語話者)、作家、翻訳者。主著書『貧困脱出マニュアル』
発行日 2022..7.31. 第1刷
発行所 徳間書店
序文 ロサンゼルス・エンゼルス前監督 ジョー・マドン
2020年初めて大谷を見た。翌年GMとショウヘイにどのような制限をかけるか協議し、何もかけないことに決めた。休養を取り払ったことが、ショウヘイの大躍進に繋がった
もっとも驚かされるのは、投手としてのショウヘイの耐久力。あれだけ長いインニングを投げてくれるとは思わなかった
試合に出てさえいれば、試合展開に大きな影響をもたらし、勝ちに貢献できるという確信があいつの中にはある
似たような存在として思い出すのは、カル・リプケンJr.で、遠くから見ていて、野球を楽しめること自体がカルの最大の資質だと感じていた。プレーすることを楽しんでいて、試合が楽しくて仕方ないのだ
ショウヘイも全く同じだと見ているし、ショウヘイの闘争本能の強さもカルを彷彿とさせる。ショウヘイはとにかく負けたくないのだ。常に試合に出ようとすることが彼を突き動かし続ける原動力。いつも競い合い、しかも、楽しんでいる
プロローグ
2021年4月21日アナハイムのスタジアム、2番で開幕投手という復活のデビュー
3年前にエンゼルスに加わり驚嘆させたが、トミー・ジョンと膝の2度にわたる手術と、復活後の2020年はパンデミックで開幕が7月にずれたシーズンで2度登板したきり、見るに堪えない惨状だったため、本格復活に疑心暗鬼になっていた
DH制導入後49年目のシーズンで、先発投手が打順に加わったのは7回目(ナショナルリーグにはDH制はない)
復活の第1戦の相手はホワイトソックス。いきなり98.2マイルの速球が来て、4人で片づけ、その裏はホームラン。ESPENの中継で全米ファンを熱狂させた
最初のイニングで100マイル以上の速球を3球投じたが、21年のシーズンを通じて909人登板した投手で1度でも100マイルを超えたのは57人だけだし、115マイルの打球を放ったが、1049人の打者のうちそこまで強い打球を打ったのは51人のみ
シーズンの初戦でこれだけの記録を出したのは驚嘆
同シーズン、大谷は最高の実績を残し、リーグ年間最優秀選手、コミッショナー特別表彰とMLB選手会による年間最優秀選手賞も獲得。WAR(チームへの貢献度)もダントツ1位
オールスターの規約を変更し、投手として降板した後もDHとして出場が認められた
マドン監督も、それまで大谷の健康を守るために敷いてきた数々の規制が実は失敗の要因だったことを認め、制約を少なくすればするほど、大谷の輝きは増すと確信
第1章
野球少年
l 奥州の野球少年
大渓が父親から教わった一番の教訓は、「懸命にプレーすること」
好みの選手は松井秀喜とダルビッシュ。憧れはイチロー
l 未来を引き寄せる夢ノート
岩手という地域の特性を大きく変えたのが花巻東校で育成プログラムを開始した佐々木洋監督。厳格な規則と哲学を持ち込み、まず目標を設定させ、それに向かって何をすべきかを具体的に書きだす
l ファイターズ大谷誕生
長年、MLBは日本人のアマチュアには手を出さないという紳士協定のようなものがあったが、2008年レッドソックスがENEOSの田澤獲得に乗り出して以来崩れ、数年前には菊池雄星獲得でメジャー8球団が獲得に動いていた
今回、佐々木は大谷に直接アメリカに行くことと勧めた
ファイターズは、大谷の意向を無視して強硬指名。前年巨人にしか行かないという菅野を強硬指名して浪人させた苦い経験がありながら、同じ轍を踏みかねない冒険だった
全球団が投手専念を求める中、ファイターズだけは打者との二刀流を容認
第2章
周囲と自らへの証明
l 未踏へのチャレンジ
2017年シーズン終了までに圧倒的な存在感を見せる選手に成長。どれほどセレブになっても、最高の選手になりたいという一途な思いと探求心は、一切揺らぐことがなかった
l 100年前のレジェンド
ベーブ・ルースは1914年初めてレッドソックスでメジャー昇格を果たした時19歳、翌年には有数の投手となり、1917年までに通算67勝34敗防御率2.07を記録したが、1918年には召集された選手の穴を埋めるために1塁を守ったところ、打撃で大活躍、ルースも打撃に魅力を感じて投手から遠ざかる。移籍先のヤンキースでは打者に専念
l 加速する才能
大谷は自ら望んで二刀流に挑戦
1年目の2013年、開幕はライトで先発したが、5月23日マウンドに立つ。6安打2失点だが、先発として投げること自体が歴史的偉業
2015年、投手としての成績は良かったが、打撃はさっぱり
2015年のオフにファイターズはダルビッシュを招聘、大谷を含む何人かの指導を依頼、ダルビッシュは合同トレーニングを行い、栄養学とトレーニング理論を伝授
l 生きる伝説
2017年シーズンは、打撃も好調で、敬遠を含む四球が54に激増、ファイターズの日本シリーズ制覇に大きく貢献
2017年3月のWBCは、前年10月の日本シリーズでの足首捻挫がたたって代表から外れた上、17年のシーズンでも4月に左足腿の筋肉を痛め7月まで投球できず
第3章
前代未聞の獲得競争
l 海を渡る選手たち
2017年シーズン終了後、メジャー移籍の話が始まる
MLBは1年前に海外選手との契約の規約を変更し、金額の制限なく契約できる年齢を23から25歳に引き上げ、当時23歳の大谷は、あと2年待てば2億ドルの契約を手にできる可能性があったが、23歳なら500万ドル以下となる
1964年、南海の村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツに貸し出されて以来、MLBとNPBは選手の取り合いをしないことで合意、NPBは9年の縛りを設けたため、NPB傘下のほとんどの選手は盛りを過ぎてMLBに移籍することはなかった
1994年その風穴を開けたのが野茂。入団5年後にNPBを正式引退してドジャースと契約
1997年にはパドレスがロッテから伊良部の契約を買い取ったが、伊良部はヤンキースを希望したため、パドレスが折れてヤンキースに契約を売却
同時期、ドミニカのソリアーノが広島からアメリカに脱け出そうとして野茂と同じ手を使ったが、NPBが拒否、MLBとの間で揉め、最後はヤンキースとの契約が決まる
これらの行き違いをなくすため2000年に出来た制度がポスティング制度。9年を待たずにセリにかけ、移籍金を決めるもので、その第1号がイチローで移籍金は1312.5万ドル。契約金は3年1400万ドル。年々移籍金は上がり、松坂は5110万ドル、ダルビッシュは5170万ドルとなったので、2012年からは上限を2000万ドルに設定、その適用は大谷が最後で、その後は契約金額スライド制に変更となった
ポスティングの上限が決まっていたのと、獲得後3年間はMLB最低年俸に近い金額に抑えられ、6年間はフリーエージェントの資格がないこと、さらには大谷が金は問題にしていないらしいとの話もあって、大谷獲得競争は熾烈に
l 争奪戦の舞台裏
大谷の代理人となったのはクリエイティブ・アーティスツ・エージェンシーのネズ・バレロ
全30球団宛に、大谷の使い方や育成方針、育成の環境などについての質問状を送り、27球団から回答が来る。この時訪米した大谷を迎えに出たリムジンのナンバーは011。(ダルビッシュが11をつけたのも野茂への憧れか)
l 頂上決戦の末に
最初の選考で7球団に絞られる。西海岸の小規模球団という希望から西海岸のアスレチックスを除く5球団とレンジャーズ、カブスという顔ぶれ。DH制のないナショナルリーグも含まれており、唯一の共通点はキャンプ地がアリゾナということくらい
エンゼルスに決まったのはトラウトの結婚式当日。性に合う気がしたというのが決断の理由。5年前ファイターズに決めた時も、「フィーリング」だと言っていた
下馬評では下位にいながら金星を引き当てたエンゼルスのGMエップラーは、肩の故障で大学時代に選手を断念しながら、24歳で年俸5000ドルのパートタイムのスカウトから16年かけて2015年GMにまで上り詰めたという異色の経歴を持つ苦労人。高校の時から大谷を追いかけていたことも、大谷に響いたのだろう
第4章
祝福と呪い
l 青空のもとでの記者会見
2017年12月9日、入団記者会見はエンゼル・スタジアム入り口で、高校時代からの背番号17をつけて青空のもとで行われた
マイク・ソーシア監督も二刀流起用を公言しているが、具体的な起用方法は全く白紙
l エンゼルスの歴史
1961年のリーグ拡大で新球団となり、1980年初めてポストシーズンに登場、86年にはリーグ優勝にあとアウト3つまで迫りながら大逆転を喫し、さらに99年には開幕1カ月で空中分解。ドジャースの名捕手だったソーシア監督で立て直し02年ワールドシリーズ制覇を果たす。異例の長期契約で球団も監督に応えたが、09年を最後に凋落、それを巻き返したのが09年ドラフト1位指名のトラウトの活躍だったが、チームの成績は低迷
l 二刀流を迎えるために
大リーグのウィンターリーグの話題は、「トラウトの無駄遣い論」から「大谷を無駄にするな」に代わるが、会議の最中、大谷が身体検査で肘の靭帯損傷が見つかり、トミー・ジョン手術が必要になる恐れがあることが示唆された
MRIの結果は手術の必要性を否定したが、先発6人制なら問題なしとなる
栗山監督がエップラーに、大谷は自ら痛いとか言わないので、周囲が監督することが重要だと警告している
第5章
必要な時間
l スプリングトレーニング
2018年アリゾナキャンプから課題はいくつも発生。慣習の違いへの適応
球団が新たに広報担当として雇ったのがグレース・マクナミー。野茂の時も同じ役割専属通訳の水原一平は、ダイヤモンド・バー生まれ、ファイターズで英語圏出身選手につく通訳だったが、大谷専属となり、大谷がチームに溶け込む重要な役割を果たす
l 投手としての期待値
エンゼルスの投手陣は弱体だったので、まずは投手としての期待が高かった
最初の課題は使用球の大きさの違い。円周で1㎝以下だが、強い握力が必要
l 日本の高校生バッター
投手としても出だしは苦戦したように、打席でもあたりが出ず、スカウトたちの間でも深刻な疑念が出ていて、6年のFAを延ばすためにマイナー送りも囁かれた
第6章
あらゆる期待を上回る
l 懐疑派も沈黙する活躍
開幕から10試合、先発で2勝、本塁打3本の活躍で、早くも最優秀選手の候補に
最初の13試合のうち、起用は投手2試合、DH5試合だけだったが、大谷自身はもっと試合に出たかった
l 喜びのエア・ハイファイブ
初ホームランをチームメイトが無視する「サイレントトリートメント」のお返しに、大谷は架空のチームメイトにエア・ハイファイブ(ハイタッチ)で応え、やっと仲間が反応
開幕1週間で週間MVP、4月には月間最優秀新人賞に選ばれたが、指にマメができる
l オオタニ狂騒曲
単独インタビューに応じない大谷の記事を書くのは大変で、周囲にインタビューが拡散
l 覚醒する瞬間
イチローとの直接対決は、既に44歳のイチローがマリナーズのロースターから外されていたので実現はしなかった(正式な引退は’19年日本での開幕2連戦の後)が、開戦前に外野で交歓。この年こそベーブ・ルースが投手以外のポジションで先発出場を果たしてからちょうど100年目
l 苦闘の予兆
大谷が登板する日に打者としても出場すると、DHが使えなくなるという問題もある
5月末から球速が低下し始める。マメを理由にしたが、それでは済まなかった
第7章
落胆の診断
l 靭帯損傷の判明
6月初め、内側側副靭帯UCL損傷デグレード2の診断が下る。投手の職業病
最悪の場合は、1974年にフランク・ジョーブ博士によって確立されたトミー・ジョン手術の必要があるが、当面は代替療法で、打撃に注力する。すでに’17年後半に代替療法をやっていて、大リーグ移籍後の2カ月はもったが、次の損傷を未然に防ぐには不十分だった
l あらゆる可能性を試す
田中将大も2014年にUCL部分断裂の診断を受け、代替療法だけで乗り切ったが、あくまで例外で、大部分の投手は代替療法の後手術に踏み切っている
投球再開の許可が出たが、負けが込んでいる状況での登板より完全休養して来シーズンに備えるという選択肢もあったが、来シーズンになってから手術の必要が判明すると、2シーズン棒に振る恐れがあるため、あえて先発登板させて状態を見極めることになる
l 肘にメスを入れるという決断
49球投げた後の診断では手術が必要とされたが、その日も2本の本塁打を放つ
シーズン残りの試合を打席に集中
シーズン通算では打率.285、22本塁打、51回2/3投げて防御率3.21となり、30人の野球記者のうち25票を獲得して新人王に
10月1日手術
第8章
困難続きの2シーズン
l ソーシアからオースマスへ
異例の19年にわたり監督を務めたソーシアが解任され、後任はエップラーがシーズン初めから自らのアシスタントとして招聘していた元タイガース監督のオースマス
2019年シーズン、キャンプでも大谷は打席に立たず、先発の打順に復帰したのは5月に入ってからだったが、調子は上がらず、384打数で18本塁打に留まる
「ラウンチアングル」(打ち出し角度)が、'18年の12.4度に対し、'19年は6.8度と急降下
シーズンを通して出場を果たしたが、成果は日本人初のサイクルヒットを達成したくらい
l 僚友との別れとチームの迷走
2019年シーズン前半に親しくしていた僚友が麻薬性鎮痛剤の服用で急死、大谷も9月には左膝の二分膝蓋骨(にぶんしつがいこつ)の手術を受けることになり戦線を離脱、チームは大きく負け越し、監督も1年で解任
l 満を持して登板した男
後任の監督はジョー・マドン。2016年カブスを108年ぶりのワールドシリーズを制覇、シカゴのセレブ入りしていたが、契約切れを待っていたかのようにエンゼルスが迎える
1975年にドラフト外のフリーエージェントでエンゼルスに入団、選手としての目立った戦績はなかったがコーチとして成功、’06年初めてデビルレイズ(08年レイズに改称)の監督に就任、最下位の常連だったチームを立て直し、就任3年目にはワールドシリーズ出場を果たす。その後の5年に3度プレーオフに進出、2015年カブスに強奪された
2020年のシーズンでは、大谷のために新規約が作られ、打者としてメジャーで出場している間にも、マイナーで投手としてリハビリのために登板ができることになり、大谷は打者として開幕戦を迎え、投手としては4月からスプリングトレーニングを始める
l 新型コロナの影響
3月11日、NBAにコロナ要請が出て、MLBもキャンプの中止、開幕の延期を決定
最終的に、MLB機構と選手会は60試合の無観客試合開催で合意、7月23日開幕
7月26日、アウェイのオークランド戦で693日ぶりの登板を果たすが、結果は球速も平均で150㎞/hに届かず、アウトも取れず4失点で降板
l 夜明け前の深い闇
2試合目の登板で臂に張りが出て球速も落ち降板、2カ月弱で回復する負傷だったが、シーズンの投手としての活動は終了。打撃の方も不調でベンチを温める
第9章
ダイヤモンドの研磨
l 一からの見直し
再研磨の場所はドライブライン・ベースボール。マイクロソフトのソルトウェア開発者だったカイル・ボディが、野球選手のパフォーマンス向上のために自らの経歴を生かそうと作った企業。客観的なデータに基づいて投球の質を評価し、投球術を最適化する投手実験室でもあり、球速を高めることに注力。2016年頃から球界全体に名を知られるようになる
重い球を活用することにより最も効率的で精確なメカニズムで投球しようとするという基本的な考え方は、2021年リーグ全体の常識になる
l 1世紀前の実証
100年前、ベーブ・ルースの無様な体を改造したのが元ボクサーのジムでのトレーニングで、急降下した成績がV字回復して60本のホームランに繋がる
l 科学的根拠による体づくり
大谷もドライブラインに入って提供されたデータにより自身の疲労レベルを正確に把握し、トレーニングに役立て、さらにはシーズン中にどれだけ休養を取る必要があるのかも理解
試合感覚ある状態で鍛えることが必要、スプリングトレーニングの時には仕上がっていた
第10章
新しいアプローチ、新しい希望
l 二刀流復活への奇策
エップラーは5年連続の負け越しで解任。後任はブレーブスのアシスタントGMだったペリー・ミナシアン。プレー経験はほとんどなく、レンジャーズのスタジアムのクラブハウススタッフで働く父親の手伝いをして育ち、スカウトからフロント入り
ミナシアンは、大谷に課していた種々の起用制限除去を提案、大谷も乗り気に
l 万全に整った春
スプリングトレーニングが始まると、大谷はいきなり95マイルを出し、さらに練習試合では100マイルに到達、打っても特大のホ-ムランを放つ
l 離れ業の始まり
エンゼルス入団後は登板時に打席に入ることはなかったが、オープン戦で1番投手大谷をテスト。62球投げ1失点、打っては2安打で疲労は残らず。出来るだけ試合に出そうという起用法が決まったのは、大谷自身が疲労程度を正直に申告するとの約束ができたから
マドンも、大谷の仕上がりぶりに「全く目新しいもので、衝撃的な出来事」と断言
第11章
特別なことの始まり
l 打者・大谷の再始動
開幕4試合目には、球団史上初めてDHを放棄し、大谷の先発登板、2番打者が実現
いきなり100マイルを投げ、初打席に115マイルのホームラン。5回まで投げて3対1とリードしていたが、あえて続投させ、本塁のベースカバーで巨漢の走者と激突、無事
l 知られざる二刀流たち
マメが完治するまで休んだため、投球回数が75球に制限されると、二刀流起用は困難
2020年末、MLB機構はニグロリーグをメジャーリーグと同格のリーグとして再認定し、記録を精査すると、ベーブ・ルース以外にも二刀流がいることが判明
l 投手・大谷の再始動
開幕当初はなかなか制球が定まらず4試合で四球19だったが、4月末までには初勝利
28試合中27試合出場で、先発前日でもDHの打席に立つ
第12章
黄金の基準
l 加速する進化
大谷の無制限起用で、DHセンモンノプホルスが失職。600本塁打3000本安打で殿堂入りを確実視されていたが、エンゼルスは放出を決定、25百万ドルの支払いだけが残る
5月、アストロズ相手に2番投手で出場、7回1失点、1四球、10奪三振、わずか88球で終え、マドンにこれぞ”黄金の基準”と言わしめた。その試合、7回終わって同点だったため、大谷に打順を回すために8回ライトで起用。後続投手が炎上して初の試みは役に立たなかった。その後トラウトが肉離れで戦線を離脱
l 大ベテランのような老獪さ
カットボールの精度が向上して、腕への負担を減らしたり、フォーシームの球速を落として制球力を増す。重要な場面になるとどれくらい球速を上げられるかを「温存力」といい、大谷はトップ3に入るし、試合後半でどれだけ球速を維持できるかが「持続力」で7位
l 太平洋をまたぐ千両役者
627日ぶりで観客の入場制限が取り払われたホームゲームで先発
大谷の経済浮揚効果は抜群、ホームはもちろん、アウェーでも観客数は急増
l オールスター選出
オールスターの先発選手は3段階のファン投票で選出され、大谷は文句なしのダントツでDHとして初選出されたが、控え野手と投手は選手間投票で決まるが、投手でも先発のトップ5人の1人として選出。ホームラン・ダービーにも選出
l ニューヨークでの3連戦
6月のニューヨーでの対ヤンキース戦では、1回いきなり特大弾を放ち、第2試合でも2本の本塁打を打ち、3戦目は先発で1回持たずに4失点、自責点7とワーストを記録
第13章
スター中のスター
l 周囲の期待値
投手とDHの両方で出場が決まると、トップ選手たちが改めて大谷の偉業を賞賛
MLB機構も規則を改変して、アメリカン・リーグがDHを兼任する投手の降板後も指名打者を失わなくてもいいようにした
l ホームラン競争
最も注目を集めたのが、大谷の第1ラウンドで870万人が視聴(平均710万人)
l 数字以上の偉業
1回を3者凡退に抑え、打席では2度凡打だったが、勝利投手に
第14章
圧倒的実績と落胆
l 孤高の存在
7月末が移籍締切、エンゼルスは大谷以外は投打とも主軸が故障続きで、来シーズンに備えるより仕方なかった
l 消耗との戦い
大谷だけは、投打とも順調に伸ばしていたが、さすがに陰りが見え始める
シーズンを早く切り上げる道もあったが、シーズンを通して試合に出るという決断から、盛り返し、100得点、100打点を最後の週に達成
l 失意の中の意志
6年連続の負け越しが決まる
大谷個人としては162試合中155試合に出場。MVPに選出
第15章
ユニコーン
l 二刀流という荒野で
メジャーリーグ史上、投手で10勝、打者で通算本塁打70本以上を達成したのは3人
大谷とベーブ・ルース以外に1997年全米最高の高校野球選手のアンキール
アンキールは99年メジャー昇格を果たし、最初は投手で11勝を挙げたが、2000年のプレーオフでイップスを発症、2度の肘の手術の後も投げたが戦力外となり、次いで打者としてマイナーからスタートし07~13年まで536試合に出場して76本塁打を打つ
アンキールの時代は、二刀流を望んでも一笑に付されたが、大谷が”先駆者”となる可能性は大。1972年大学ワールドシリーズを制覇してMVPとなったミネソタ州立大のデーブ・ウィンフィールドは、パドレスの他NBA、NBA、ABAからもドラフト指名され、外野手に専念することを決め、22年メジャーでプレーして殿堂入りを果たすが、投手としては1球も投げていない。ドラフトは1965年に始まったが、歴史上1巡目で投手か野手かで指名を迷った選手が11人いたという
l 幻か、それとも未来の常識か
メジャー昇格前にポジションを変えた選手は多い
アマチュア時代かマイナーで投手と打者の両方で頭角を現した人もいるが、誰1人二刀流にはならなかった
同じシーズンに投手と他の役割をこなした選手もいるが、いずれも20世紀前半ばかり
エピローグ
MLBコミッショナーのマンフレッドは、この7年間コミッショナー特別賞を誰にも授与していなかった。前任のシーリグは2014年にヤンキースのジーターとドジャース専属アナウンサーのスカリーを表彰していたが、マンフレッドは大谷を見るまでは、誰もこの賞に値する人物はいないという見解だった
大谷は、今シーズンの成績を最低限と宣言
紀伊国屋書店 ホームページ
内容説明
二刀流の「史上最高のメジャーリーガー」は、どのようにして生まれたのか?
なぜ、大谷翔平はメジャーでMVPを受賞できたのか?
全米が驚嘆した大谷の凄さと活躍の秘密をメジャーサイドから徹底解明!
ロサンゼルス・エンゼルスの番記者が1460日間密着して完成した待望の一冊が日米同時発売!!
■エンゼルス前監督ジョー・マドン氏の特別寄稿
大谷翔平のMVP獲得の立役者で、前例のない二刀流起用を可能にしたのはエンゼルスの前監督であるジョー・マドン氏に手腕によるもの。
本書ではマドン氏本人が序文を寄稿しているが、選手個人のために寄稿するのは稀なこと。それだけで大谷選手がスペシャルな存在だということがわかる。
■著者はエンゼルス番記者で大谷入団から1460日密着取材
著者のジェフ・フレッチャー氏はエンゼルス番として10年目を迎えたオレンジカウンティー・レジスター紙の記者。
メジャー取材歴24年。米野球殿堂入りを決める投票資格も持つ。
2013年よりエンゼルスを担当し、大谷の取材に関してはMLBルーキーイヤーから4年間にわたって密着取材。日数に換算すれば、実に1460日。
本書では日本時代の大谷について徹底的に調べ上げ、現在に至るまで大谷について語り尽くしている。
MVPという光の部分だけでなく、トミー・ジョン手術によるリハビリなど、日本ではあまり報道されていない一面も明かす。
■チームメイト、対戦相手、トレーナーなど豊富なコメント
大谷翔平が二刀流選手として活躍することで、MLBはルールまで変更することとなった。それは観客だけでなく、チームメイトや対戦相手の選手からリスペクトされる存在だからである。
本書は最前線で取材している著者だからこそ書ける、GMやチームメイト、相手選手や監督、裏方のスタッフ、トレーナーなど豊富なコメントが満載。
■大谷翔平関連の翻訳本でMVP受賞後初の書籍
大谷翔平が全米で知られるようになったのは2021年のオールスター後のこと。そしてシーズン終了後のMVP受賞によりスーパースターとなった。MVP受賞後にアメリカ人記者によって書かれ、翻訳された初の作品!
アメリカでもベストセラー必至の一冊。しかも日米同時発売だ。
Wikipedia
大谷 翔平(おおたに しょうへい、1994年7月5日 - )は、岩手県水沢市(現:奥州市)出身の日本のプロ野球選手(投手、外野手)。右投左打。MLBのロサンゼルス・エンゼルス所属。
概要[ソースを編集]
投手としても打者としても活躍する「二刀流(英: two-way player)」の選手として広く知られる[2][3]。
2012年のNPBドラフト1位で北海道日本ハムファイターズから指名され、2013年の入団以降、投手と打者を両立する「二刀流」の選手として試合に出場した。2014年には11勝、10本塁打で日本プロ野球(NPB)史上初となる「2桁勝利・2桁本塁打」を達成した[4]。2016年には、NPB史上初となる投手と指名打者の両部門でベストナインのダブル受賞に加え[5]、リーグMVPに選出された。投手としての球速165km/hは日本人最速記録である[6]。2017年オフにポスティングシステムでメジャーリーグベースボール(MLB)のロサンゼルス・エンゼルスに移籍。2018年シーズンから投打にわたって活動し、同年は日本人史上4人目の新人王を受賞。2021年シーズンでは、2001年のイチロー以来となる日本人史上2人目(アジア人史上でも2人目)のシーズンMVPとシルバースラッガー賞を受賞している[7][8]。
2021年9月、タイム誌による「世界で最も影響力のある100人」 に、「アイコン(象徴)」のカテゴリーでヘンリー王子&メーガン妃、女優のブリトニー・スピアーズらと共に選出された[9]。
2021年12月、スポーティングニュースは「スポーツ史上最高のシーズンTOP50」を発表し、エンゼルス大谷翔平の2021年シーズンを1位に選定した[10]。
2021年12月、AP通信の年間最優秀男性アスリート賞を受賞した[11]。
2022年8月9日、メジャーリーグではベーブ・ルース以来約104年ぶりの、二桁勝利・二桁本塁打を達成[12][注釈 1]。
2022年10月5日、近代MLBで投手打者の両方で規定回に達した初めての選手になった。
経歴[ソースを編集]
生い立ち[ソースを編集]
岩手県水沢市(現在の奥州市)に、社会人野球の選手だった父・大谷徹とバドミントン選手の母を持つ、スポーツマンの両親の家に、三人兄弟の末っ子として生まれる(長男は社会人野球選手でトヨタ自動車東日本硬式野球部所属の大谷龍太)。
翔平という名前は、父が地元の奥州平泉にゆかりのある源義経にちなんで、義経の戦うと飛ぶイメージから「翔」の字を用い、平泉から「平」を取って名付けられた[14]。
野球を始める前はバドミントンと水泳を習い、これらにより後に野球で活躍する基礎を作った[15]。
リトルリーグ[ソースを編集]
奥州市立姉体小学校3年時に水沢リトルリーグで野球を始め、全国大会に出場した。当時の捕手は、恐怖を感じるほど球が速かったと語っている[16]。小学校5年生にして球速110km/hを岩手県営野球場で記録し、また1試合で6回17奪三振の成績を残したこともあった[17]。奥州市立水沢南中学校時代は一関リトルシニアに所属し、ここでも全国大会に出場した。
大谷が少年時代に憧れた野球選手は、打者では松井秀喜、投手ではダルビッシュ有だったという[18]。
花巻東高校 (2010~2012)[ソースを編集]
自身が中学3年時にセンバツ大会決勝に進出した花巻東高校のエース、菊池雄星に憧れ、同校へ進学[19]。「日本一になる」「日本人最速となる160kmを記録する」「ドラフトで菊池雄星を越える8球団から1位指名を受ける選手になる」ことを目標に掲げた[20]。MLB移籍後(2019年時)も「僕にとって雄星さんは特別な存在」と語っている[21]。
大谷はこの高校での寮生活について、良い環境であり自身が大きく変わるきっかけになったと後に語っている。生活や娯楽に制限を受けたことで、何が正しいのかを考えて行動することの重要性を学んだという[22]。親以外の指導者から教わる経験も初めてであった。監督の佐々木洋による『先入観は可能を不可能にする』(先入観を捨てることによって不可能が可能になる)という言葉を心に刻んだ[23]。入部後は監督の佐々木洋の「まだ骨が成長段階にある1年夏迄は野手として起用して、ゆっくり成長の階段を昇らせる」という方針により[24]、1年春は「4番・右翼手」で公式戦に出場。秋からエースを務め、最速147km/hを記録。
2年春には最速151km/hを記録し、「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれ注目を集める。第93回全国高等学校野球選手権大会初戦の帝京高校戦では骨端線損傷により右翼手として先発出場するが、4回途中から登板し、田中将大(駒澤大学附属苫小牧高校)に並ぶ甲子園での高校2年生最速タイ記録(当時)となる150km/hを記録。その後は治療に専念し、試合には打者限定で出場した。
3年生になる直前、2012年3月の第84回選抜高等学校野球大会初戦の大阪桐蔭高校戦は、5回まで2安打無失点6奪三振の好投を見せ、相手エースの藤浪晋太郎から本塁打も放ったが、最終的に8回2/3を11奪三振11四死球で9失点(自責5)で敗退[25]。
3年生の夏、2012年度の全国高等学校野球選手権岩手大会の準決勝・一関学院高校戦ではアマチュア野球史上初となる160km/hを記録した[26]。この試合は7回を3安打1失点13奪三振の快投でコールド勝ち[27]。しかし決勝の盛岡大学附属高校戦では、多彩な変化球を操り15奪三振と力投するも、味方のミスや、相手チームによる本塁打など運にも見放され5失点を喫し、高校最後の全国選手権大会出場はならなかった[28]。
甲子園通算成績は14回を投げ防御率3.77、16奪三振。野手としては2試合で打率.333、1本塁打。
9月には第25回AAA世界野球選手権大会の日本代表に選出され、主に四番・指名打者として起用された。5位決定戦の対大韓民国代表戦に先発し、7回を投げ2失点、12奪三振、最速155km/hを記録するも敗戦投手となった[29]。9月18日、プロ志望届を提出した[30][31]。
プロ野球ドラフト会議前にはNPBだけでなくMLB球団からも注目され、本人は当初「(MLBかNPBかは)五分五分」と語っていた[32]が、ロサンゼルス・ドジャースやテキサス・レンジャーズ、ボストン・レッドソックスとの面談を経て[33]、10月21日にMLBへの挑戦を表明[34]。会見では「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と語った[35]。
日本ハム時代[ソースを編集]
しかし、10月23日に北海道日本ハムファイターズGMの山田正雄が大谷をドラフト会議で1位指名することを公表し[36]、日本ハム監督の栗山英樹も「大谷君には本当に申し訳無いけれど、指名をさせていただきます」と話していた[37]。
10月25日に行われたドラフト会議ではファイターズが大谷を1巡目で単独指名し交渉権を獲得。指名後の会見では「びっくりしたし動揺もした。評価して頂いたのは有り難いが、アメリカでやりたいという気持ちは変わらない」と語り[38][39]、指名挨拶のため日本ハムから訪問を受けた際にも面会しなかった[40]。しかしその後、2度目の訪問で指名挨拶を受け[41]、両親を交えた入団交渉も4度にわたって行い[42][43]、3度目の入団交渉からは栗山も同席する[44][45]。交渉では『大谷翔平君 夢への道しるべ〜日本スポーツにおける若年期海外進出の考察〜』と題された30ページに及ぶ資料[46]が提示され、高校卒業後、直接アメリカへ渡った韓国の野球選手がMLBで活躍しているケースが少ない点や、過酷なマイナーリーグの現状、母国のプロリーグで実力をつけた選手の方が MLBで活躍できる確率が高い点などが説明された[47]。更に前年までダルビッシュ有が着用していた背番号11、投手と打者の「二刀流」育成プランなどを提示された。結果的に大谷は12月9日に日本ハム入団を表明した[48]。12月25日に契約金1億円+出来高払い5000万円、年俸1500万円(推定)[49]で仮契約を結んで入団会見した[50][51]。背番号は上記の通り前年までダルビッシュが着用していた「11」に決まった。会見後には札幌ドームで監督の栗山英樹と投打で1球勝負するエキシビションも行われた[52]。
2013年[ソースを編集]
2013年
2013年は春季キャンプで投手と野手の練習メニューを並行してこなし、2月途中から一軍に合流。オープン戦・春季教育リーグでも投手、右翼手、指名打者として出場。3月21日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦のオープン戦では、投手として登板した後に打席に立ち、更に右翼手の守備に就くなど、本格的な二刀流起用を想定した采配をされる[53]。
投手登録のまま打者として開幕一軍入りし[54]、2013年3月29日のシーズン開幕戦(埼玉西武ライオンズ戦、西武ドーム)では8番・右翼手で先発出場。高卒外野手の開幕戦先発出場は2011年の駿太以来で、球団では1959年の張本勲以来54年ぶりだった。その開幕戦で2安打1打点を記録した。高卒新人が開幕戦で複数安打を記録したのは1960年の矢ノ浦国満以来53年ぶり2人目であった[55]。その後は下位打線で出場しながら二軍の試合で投手として調整していたが、4月13日のオリックス・バファローズ戦(ほっともっとフィールド神戸)で外野守備中に右足首を捻挫し[56]、出場選手登録を抹消された。5月4日に復帰し、5月6日の西武戦(西武ドーム)ではプロ入り後初めて一番打者として出場した。5月23日の東京ヤクルトスワローズ戦では、投手として初登板・初先発。5回2失点で勝敗はつかなかったが、新人投手の初登板では史上最速となる157km/hを記録した[57]。6月1日の中日戦で先発投手を務め、5回3失点でプロ初勝利を挙げる[58]。
6月18日の広島戦(MAZDA
Zoom-Zoom スタジアム広島)はセ・リーグ球団の主催試合で指名打者が使えないため、五番・投手で先発出場。先発投手が3番から5番の打順(クリーンナップ)を打つのは1963年の梶本隆夫以来50年ぶりのことだった[59]。投手としては4回3失点で降板したが、降板後に右翼手の守備に就き、打者としては1安打1打点を記録した。7月10日の楽天戦(クリネックススタジアム宮城)では永井怜からプロ初本塁打を打つ。高卒新人でプロ初勝利とプロ初本塁打を記録したのは1967年の江夏豊以来、46年ぶりであった[60]。しかし翌11日(楽天戦)の試合前練習中に外野をランニングしていたところ、フリー打撃の打球が右のこめかみ付近に直撃し試合を欠場した。「右頬骨不全骨折」と診断された[61]が、その3日後の14日(千葉ロッテマリーンズ戦)で復帰し、大谷智久から自身初の代打本塁打・本拠地初本塁打・2試合連続本塁打となる2号本塁打を打った[62]。
オールスターゲームにはファン投票で外野手として初選出され、第1戦では5回から投手として登板し1回2安打無失点、最速157km/hを記録する投球を見せ、降板後は左翼の守備に就いた[63]。第2戦では高卒新人としてはオールスターゲーム史上初となる一番打者で起用され、第1打席で初安打となる二塁打を記録[64]、続く第3戦では高卒新人としては1986年の清原和博以来となるオールスターゲームでの打点を記録し、敢闘選手賞とスカイアクティブテクノロジー賞を受賞した[65]。
8月9日のロッテ戦では6回からプロ入り後初の救援登板を果たす[66]。8月18日の福岡ソフトバンクホークス戦(帯広の森野球場)では五番・右翼手で先発出場し、8回からは投手を務め1回を1安打無失点に抑える[67]。
初年度、投手としては13試合に登板し、3勝無敗、防御率4.23を記録した。打者としては77試合に出場し、打率.238、3本塁打、20打点を記録した。
2014年[ソースを編集]
2014年は3月30日のオリックス戦(札幌ドーム)でプロ入り初の猛打賞を記録した[68]。4月12日の西武戦(札幌ドーム)でプロ入り初の2桁奪三振とシーズン初勝利を記録[69]。5月13日の西武戦(函館オーシャンスタジアム)では、9回を被安打6・奪三振9の内容でプロ入り初完封勝利[70]。6月4日の広島戦(札幌ドーム)ではパ・リーグ史上最速の球速160km/hを計測[71]。その後も6月11日の巨人戦(札幌ドーム)[72]、6月18日の阪神戦(甲子園)[73]、6月25日の横浜DeNAベイスターズ戦(横浜スタジアム)[74]で最速160km/hを4試合連続、他球場でも計測した。20歳となった7月5日のロッテ戦では、プロ入り初の1試合2本塁打を記録[75]。7月9日の対楽天戦(楽天Koboスタジアム宮城)では毎回の16奪三振で1失点の完投で8勝目。1試合16奪三振は、1980年の木田勇と並ぶ球団タイ記録[76]。毎回奪三振は自身初で、球団では史上10人目(13度目)。また1968年の江夏豊の20歳2か月を更新する16奪三振以上のNPB最年少記録とした[77]。
オールスターゲームには前年の外野手に続き、投手として監督推薦で選出。投手と野手の両方で選出されるのは関根潤三[注釈 2]以来2人目[78]。7月19日の第2戦(甲子園)に先発登板し、1回裏に先頭打者の鳥谷敬への2球目でオールスターゲーム史上最速の162km/hを計測、この後、阿部慎之助への初球でも計測。公式戦を入れると、2008年のマーク・クルーン以来の史上2人目のタイ記録。1イニングを投げ、打者5人に対し3被安打1失点の内容で、全23球のうち12球で160キロ以上を記録した。試合は12対6でパ・リーグが勝利し大谷が勝利投手となる[注釈 3]が、20歳0か月での先発勝利は池永正明の19歳1か月に次ぐオールスターゲーム年少記録となった[79][80]。
前半戦終了迄に7連勝していたが、後半戦最初の登板となった7月26日の楽天戦(コボスタ宮城)では8イニングを投げ被安打5、奪三振10、失点2の内容で勝敗はつかず[81]、8月3日のソフトバンク戦(札幌ドーム)で日本人最速タイ記録の161km/hを計測したが、7イニングを投げ被安打9、失点2で敗戦投手となり連勝がストップ[82]。8月26日のソフトバンク戦(福岡 ヤフオク!ドーム)で自身初の10勝目を挙げたが、同一シーズンで10勝と6本塁打を記録したのはパ・リーグ史上初[83]。8月29日のロッテ戦(東京ドーム)で初回に自身初の2日連続となる8号本塁打を記録し、2桁勝利を挙げた投手としては1950年の藤本英雄(26勝)の7本塁打のNPB記録を更新した[84]。9月7日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で10号本塁打を記録し、NPB史上初となる「同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打」を達成した[注釈 4][85][86]。9月21日の楽天戦(コボスタ宮城)で登板したあと、発熱などの影響で登板機会が10月5日の楽天戦(札幌ドーム)までずれ込んだが、その試合で初回に銀次への投球が球速162km/hを計測した。NPBシーズン公式戦記録(2008年6月1日にマーク・クルーンが記録)に並ぶ自己最速記録であり、由規による日本人NPB最速記録および自身によるパ・リーグ記録を更新した[87]。10月11日のクライマックスシリーズ(CS)ファーストステージ(オリックス戦)の第1戦(京セラドーム)でポストシーズン初登板初先発。2回には二死満塁からの2四死球で2点を取られたが、6イニングを3失点に抑えCS初勝利を挙げた[88]。20歳3か月の投手がCSで勝利するのは2009年の田中将大の20歳11か月を更新する史上最年少記録[注釈 5]。
2014年度、投手としては24試合に登板し、11勝4敗、防御率2.61を記録した。打者としては86試合に出場し、打率.274、10本塁打、31打点を記録した。
オフには「日米野球2014」の日本代表に選出。背番号は過去に涌井秀章らが着用した「16」に決まった[90]。第1戦では中継ぎとして登板し、1回を三者凡退に抑えた。先発となった第5戦では4回2失点7奪三振という結果だったが敗戦投手になった。12月には高卒3年目選手では松坂大輔以来史上2人目となる年俸1億円(推定)で契約を更改した[91]。
2015年[ソースを編集]
2015年は3月27日の楽天戦(札幌ドーム)で自身初の開幕投手を務め、5回2/3を被安打3、失点1、6奪三振に抑え勝利投手になった[92]。5月14日の西武戦(西武ドーム)では、チームでは1979年の高橋直樹以来となる完投勝利での開幕6連勝を飾った[93]。一方で、打撃面では低調で、4月1日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)では先発の藤岡貴裕から野手では2試合目、6打席目でのプロ入り最速となる第1号本塁打を放つが、6月19日のソフトバンク戦ではプロ入り初の1試合4三振を記録した[94]。
オールスターには2位の牧田和久と28万票以上の大差をつけ、投手部門で選出。投手と野手の両方でオールスターゲームへファン投票選出されたのは、1953年の投手部門、1963年の外野手部門で選出された関根潤三以来52年ぶり2人目となった[95]。オールスターには第1戦に先発し、結果は2回2安打1失点という成績だった。
8月8日の楽天戦では自身初となるサヨナラ安打を記録した[96]。8月18日、対ロッテ戦(QVCマリン)で9回12奪三振の完封で前年の11勝を上回る自己最多の12勝目を挙げた。
最終的には、10月6日のパ・リーグ全日程終了時点でハーラートップの15勝、防御率2.24、勝率.750で最多勝利、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠に輝いた。高卒3年目での15勝到達は、球団では2007年のダルビッシュ有以来となった[97]。一方、野手としては年間通して低迷し、最終的に打率.202、5本塁打、17打点の成績に終わった。
10月9日に第1回WBSCプレミア12の日本代表の最終ロースター28名に選出された[98]。チームがリーグ2位で迎えたクライマックスシリーズファーストステージ第1戦に先発したが3回途中5失点で敗戦投手となった[99]。第3戦では1点ビハインドの8回一死一・三塁のチャンスで代打で登場するも三振を喫してしまうなど投打に精彩を欠きチームはCS敗退した。プレミア12では投手一本で専念。プレミア12開幕戦の韓国戦で先発して、6回を2安打無失点に抑える活躍を見せて勝利に貢献した。日本はグループリーグを突破して準決勝の韓国戦でも先発し、7回を1安打無失点に抑えたがチームは3-4で敗れた。この好投を評価されてプレミア12のベストナインに選出された。
この年はその他、8月17日に日本郵便北海道支社が大谷の写真を使った切手セットを北海道内で発売すると発表した[100]。プロ野球選手の切手は前例があるが、日本ハムの選手では初めてとなった。
2016年[ソースを編集]
2016年も開幕投手を務めたが、打線の援護に恵まれず、先発した5試合で白星が無かった。先発6戦目となった5月1日のロッテ戦(QVCマリン)で9回を4失点で抑えてシーズン初完投初勝利を飾った。しかし、5月途中まで防御率3点台と、シーズン途中まで投手として調子が上向くまで時間を要した。一方、打撃は好調で、5月11日のオリックス戦(東京D)では東明大貴から、自身初の4試合連続の本塁打を記録した。5月29日、楽天戦(コボスタ宮城)ではパ・リーグの公式戦ながら指名打者を最初から起用せず[注釈 6]、6番・投手として先発出場し、投手としては7回4安打1失点で3勝目を挙げ、打者としては3安打1打点の猛打賞を記録した。
6月5日の巨人戦(東京D)でルイス・クルーズへの投球で自身の持つNPB公式戦最速記録を更新する球速163km/hを計測した。7月3日、ソフトバンク戦(ヤフオク)では自身初となる1番・投手として先発し、打者としては初球先頭打者本塁打を放ち、投手としては8回10奪三振で抑え、8勝目(4敗)を挙げる活躍をした。投手のNPBにおける1番先発は1971年の外山義明以来45年ぶり史上3人目だが、先頭打者本塁打は史上初。ちなみにMLBにおいても投手の先頭打者本塁打は過去に例がない[101]。6月は4勝0敗、奪三振41個、防御率0.29の成績で自身2度目となる月間MVPを受賞した[102]。
7月10日の対ロッテ戦で試合中にマメを潰して途中降板し、その影響で約2か月の間、先発投手としての登板は無かった。マツダオールスターゲームでは投手としてファン投票に選出されたが、マメの影響で投げられないことが考慮され、異例の野手として出場が許可された。7月15日、オールスター第1戦試合前のホームランダービーでは一回戦で山田哲人、決勝戦で柳田悠岐を破り、優勝を果たした。7月16日、オールスターの第2戦では5番・指名打者として先発して、自身初のオールスター本塁打を放つなどMVPを受賞する活躍を見せた。7月24日の対オリックス戦で、3年ぶりとなるリリーフ登板で1回を無失点に抑え、プロ初ホールドを記録。
9月7日の対ロッテ戦で約2か月ぶりに先発投手に復帰すると、9月13日に対オリックス戦で、糸井嘉男への投球で自身の持つNPB公式戦最速記録(かつ日本人最速)を更新する球速164km/hを計測した。9月28日の西武戦(西武ドーム)で9回1安打15奪三振で完封勝利を挙げ、日本ハムの4年ぶりのリーグ優勝達成に貢献。この試合で10勝を挙げ、自身2度目の「同一シーズンで2桁勝利と2桁本塁打」を達成し、NPB史上初の「10勝、100安打、20本塁打」を達成した[注釈 7][103]。規定投球回にはあと3回足りず、2年連続の最優秀防御率は逃した[注釈 8]。
クライマックスシリーズファイナルステージでは、第1戦に8番・投手として先発出場し2打数1安打、7回1安打6奪三振無失点で初勝利。第5戦では3番・指名打者として先発出場し9回にDH解除でリリーフ登板。自身初セーブを挙げ、4年ぶりの日本シリーズ進出を決めた。同試合では自身の持つ当時のNPB最速記録(かつ日本人最速)を更新する球速165km/hを計測している[注釈 9]。
日本シリーズでは、第1戦(マツダスタジアム)に8番・投手として先発出場、打席では3打数2安打と結果を残すも、投球内容は2本の本塁打を打たれるなど6回3失点で敗戦投手となる。投手としてはこの1試合のみの登板となるが、打者としては第2戦に9回表に代打で出場、第3・4・5戦(札幌ドーム)では3試合とも3番・指名打者として先発出場する。特に第3戦では延長10回裏、二死二塁の場面で大瀬良大地からサヨナラ適時打を放ち、チームのシリーズ初勝利に貢献した。チームはこの勝利から3連勝となり、日本一に王手をかけた状態で第6戦を迎える。その第6戦(マツダスタジアム)では出場機会が無かったものの、ベンチ入りメンバーには入っていた。スコア4-4の同点、8回表2アウト満塁、打席に中田翔、次の打者が投手のバースで代打が予想される場面で大谷がネクストバッターズサークルで待機すると、結果的に相手投手ジャクソンは中田に対し、1球もストライクが入らず押し出し四球となる。その後大谷は打席に向かわずベンチに退くも、そのまま打席に入ったバースの適時打、レアードの満塁本塁打が飛び出し、この回だけで計6得点が入ったことにより勝敗がほぼ決まった[104]。後に栗山はこの場面において、ジャクソンに重圧を掛ける意図があり、「大谷を起用するつもりは全く無かった」と明かしている[105]。この試合にも勝利したチームは4勝先取となり、大谷自身初の日本一を経験した。
10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出された[106]。東京ドームで行われた11月13日のオランダ戦では、7回表に放った打球が右翼方向の天井に入り、ルールに従って二塁打となっている[107]。これは2002年に記録した松井秀喜以来となる。
11月25日、パ・リーグのベストナインが発表され、史上初の投手と指名打者のダブル受賞を果たした[108]。本来、ベストナイン投票規定では投手部門と野手部門の重複投票は禁止されていたが、同年の大谷の活躍を考慮し9月下旬に規則変更されていた。12月22日、ホリプロとマネージメント契約を締結したことを発表[109]。
2017年[ソースを編集]
2017年は4月8日のオリックス戦で一塁への走塁の際に、左ハムストリングス(太もも裏)を痛め、大阪市内の病院で検査を受けた結果、左大腿二頭筋の肉離れと診断され9日に登録を抹消された[110]。6月27日に一軍復帰出場を果たすものの、シーズンも怪我の影響で満足のいくプレーはできず、投手としてはプロ入り後ワーストタイの3勝、野手としても65試合出場、8本塁打という成績に終わっている。
9月12日の楽天戦で通算40勝となり、史上4人目となる40勝・40本塁打を達成[注釈 10][111]。最終登板となった10月4日のオリックス戦ではNPB史上66年ぶりとなる「4番・投手」で出場し、打席では4打数1安打、投球では10奪三振の完封勝利を記録[112]。10月12日に東京都内の病院で内視鏡による「右足関節有痛性三角骨(足関節後方インピンジメント)除去術」を受けた[113]。
11月11日にポスティングシステムを利用してMLBに挑戦することを表明した[114]。MLBの労使協定により、プロ経歴5年で23歳の大谷はインターナショナル・ボーナス・プール[注釈 11]での契約対象選手となるため契約金は低額で、かつマイナー契約しか締結できない(年俸調停権を得るまではMLB最低保証年俸[116]程度で選手を保有できる)[117]ことから、資金力に関係なく様々な球団が大谷の獲得を目指した[118]。交渉期間はMLB選手会からの要望により、大谷に限って通常の30日間から21日間に短縮され、その代わり交渉期間前の書類によるプレゼンテーションが許可された[119]。11月29日に代理人を通じてMLBの全30球団に対し、「自身に対する評価」「今後の育成法」、といった内容を書き記した質問状を送付した[120]。12月4日に書類審査の結果、移籍先候補はアメリカ西海岸沿いを中心とする7球団(シアトル・マリナーズ、ロサンゼルス・エンゼルス、テキサス・レンジャーズ、サンフランシスコ・ジャイアンツ、ロサンゼルス・ドジャース、サンディエゴ・パドレス、シカゴ・カブス)に絞ったと代理人が表明した[121]。落選した球団には、ニューヨーク・ヤンキースやボストン・レッドソックスといった名門も多く含まれており、MLBファンの間でも大きな反響を呼んだ[122]。
エンゼルス時代[ソースを編集]
2017年12月9日にロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表された[123]。同日に球団側も大谷の獲得を表明し[124]、背番号は「17」と発表された[125]。翌10日にマイナーリーグ契約を結び、ルーキー級アリゾナリーグ・エンゼルスに配属され[126][注釈 12]、本拠地のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムで入団記者会見が行われた[127]。日本ではその一部が日本テレビ系列の情報番組「シューイチ」内で生中継された[128]。代理人はネズ・バレロ(Nez Balelo)、通訳は水原一平。
2018年[ソースを編集]
2018年2月6日、スプリングトレーニングに招待選手として参加[129]。オープン戦では投手として2試合で先発登板、打者としても指名打者で11試合で起用されるが、防御率27.00、打率.125と投打ともに不振にあえいだ。現地の一部メディアでは「マイナー起用すべき」との声も上がった[130]。3月28日にメジャー契約を結び、アクティブ・ロースター入りした[129]。
3月29日の開幕戦のオークランド・アスレチックス戦で「8番・指名打者」で先発出場し、ケンドール・グレーブマンから初打席初球初安打を記録。4月1日のアスレチックス戦で先発投手として初登板を果たし、6回を3安打3失点で初勝利を挙げた[131]。4月3日、本拠地初戦のクリーブランド・インディアンス戦で指名打者として出場し、第1打席で初本塁打を放った。勝利投手が2日以内に打者として出場した試合の初回に本塁打を記録したのは、1921年のベーブ・ルース以来、実に97年ぶりの快挙である。
4月6日のアスレチックス戦の第1打席で、3試合連続となる第3号本塁打を記録した。日本人による3試合連続本塁打は、2004年9月(2年目)と2007年7月に記録した松井秀喜以来2人目であり、1年目の4月に達成したのは日本人選手史上初。MLB史上では4人目の快挙。また、打点が公式記録となって以降で、本塁打と2打点を本拠地開幕戦から3試合続けたのは、ア・リーグでは初めてである[132]。4月8日に本拠地初登板となったアスレチックス戦で、7回を投げ1安打12奪三振1四球の快投を見せ、開幕2勝目を挙げた。新人投手としてデビューから最初の2試合で6奪三振以上は、球団史上3人目の記録となった[133]。また、デビュー登板から2試合のうちに12奪三振を記録したのは、ア・リーグタイ記録であり[134]。開幕から10試合で2勝&3本塁打は1919年のジム・ショー以来99年ぶりの快挙となった[135]。4月9日にプレイヤー・オブ・ザ・ウィーク(英語版)を初受賞した。日本人選手の受賞は2016年8月7日のイチロー以来、2年ぶり[136]。また、1973年にア・リーグで「Players of the Week」が作られて以降、二刀流選手としては初の選出となった[137]。1年目の日本人選手で4月上旬の選出は最速で、23歳9か月というのも最年少記録となった[138]。4月22日に4番・指名打者で出場した[139]が、同一シーズンで3試合以上先発登板している選手が4番で出場したのは、MLBでは1961年のドン・ラーセン以来57年ぶり[140]史上16度目で13人目。
4月24日には、ヒューストン・アストロズ戦で100マイル(160.9km/h)越えの投球を連発し、5回裏にはジョシュ・レディックに対し101マイル(162.5km/h)の速球を2度に渡り投じ、過去10年で先発投手で101マイル越えの速球を投げたのは大谷が7人目[141]。また、前年ア・リーグMVPだったホセ・アルトゥーベを3打数無安打(うち2奪三振)に封じたため、同一シーズンで「サイ・ヤング賞投手」(4日に対戦したコーリー・クルーバー)から本塁打を打ち、「MVP打者」から三振を奪ったMLB史上5人目の投手となった[142]。4月27日のヤンキース戦で、MLB移籍後初の5番・指名打者で出場し、第1打席で第4号本塁打を放った。1か月での4本塁打、25奪三振達成は1971年9月のファーガソン・ジェンキンス以来、47年ぶり史上4人目[143]。
5月2日に、4月のア・リーグルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した[144]。日本人選手の選出は2012年4月のダルビッシュ有以来6年ぶり6人目。
6月8日、右肘の内側側副靱帯を損傷し、自身初となる10日間の故障者リストに登録された[145]。7月3日、シアトル・マリナーズ戦に6番・DHで6月4日以来、約1か月ぶりに打者として復帰した[146]。7月23日のホワイトソックス戦(エンゼル・スタジアム)で8号ソロを放った。これまでの本塁打全てが本拠地エンゼル・スタジアムで放ったものであり、新人選手が最初の8本(最終的に9本)全てをエンゼル・スタジアムで放ったのは球団史上初となった[147]。8月3日、敵地クリーブランド・インディアンス戦に3番・DHで先発出場し、マイク・クレビンジャーからMLB初となる第1打席に先制10号2ラン、続いて第2打席に2打席連続の第11号ソロ本塁打を放った[148]。MLB1年目での日本人選手による2桁本塁打到達は2012年の青木宣親(10本)以来、6年ぶり7人目となった[149]。
9月2日、アストロズ戦で6月6日のロイヤルズ戦以来88日ぶりに投手として復帰登板した。同一シーズンで10試合以上に先発登板し、かつ10本塁打以上を記録したのは、ベーブ・ルース以来の出来事でMLB史上2人目の快挙である[150]。
9月5日の試合前にMRI検査の結果、大谷の右肘靱帯に新たな損傷が判明し、医師からは靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を勧められていると発表した[151]。
9月7日、5番・DHで出場したホワイトソックス戦でカルロス・ロドンから3試合連続の第19号勝ち越し3点本塁打を放った。城島健司(2006年)に並んでいた日本人のメジャーリーグ第1年目での本塁打記録を更新し、単独1位となった[152]。9月10日、今シーズン2度目となる9月3-9日までのプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞した。日本人メジャーリーガーによるシーズン2度の受賞は1996年の野茂英雄以来2人目となり、1年目では史上初だった[153]。9月15日、4番・DHで出場したマリナーズ戦の第一打席でエラスモ・ラミレスから第20号ソロ本塁打を放った。日本人選手のシーズン20本以上は松井秀喜に次いで史上2人目。
このシーズンは打者として104試合(代打22試合)に出場し、打率.285、22本塁打、61打点、10盗塁。投手としては10試合に先発登板し4勝2敗、防御率3.31の成績を残し、MLB史上初の「10登板、20本塁打、10盗塁」を達成し、シーズンを終了した[154]。
10月1日、ロサンゼルス市内の病院でトミー・ジョン手術を行い、成功した[155]。
同日、9月のア・リーグのルーキー・オブ・ザ・マンスを受賞した。4月以来2度目の受賞となり[156]、日本人選手が同賞を複数回受賞するのは2001年のイチロー以来となった[157]。2位のミゲル・アンドゥハーに48ポイントの大差をつけ、ア・リーグの新人王を受賞した[158]。日本人選手の受賞は2001年のイチロー以来17年ぶり4人目となった[159]。
2019年[ソースを編集]
2019年は開幕からリハビリを重ね、5月7日のデトロイト・タイガース戦で打者として復帰した[160]。6月13日のタンパベイ・レイズ戦に「3番・指名打者」で出場し、日本人初のサイクル安打を達成した[161]。1900年以降、投手で2勝以上し、サイクル安打を放ったのは、1920年、1921年のジョージ・シスラー(5勝、サイクル安打2度)以来史上2人目、98年ぶり[162][163]。6月27日のアスレチックス戦で2年連続2桁本塁打となる10号2ランを放った。日本人メジャーリーガーで入団から2年連続10本以上の本塁打を打ったのは、松井秀喜、井口資仁、城島健司、福留孝介に次いで5人目となった[164]。9月12日、翌13日に左膝蓋骨の手術(二分膝蓋骨)を行うと発表した。全治まで8週間から12週間の予定で、残りのシーズンを欠場。106試合に出場し、打率.286(384打数110安打)、18本塁打、62打点を記録した[165][166]。
2020年[ソースを編集]
2020年から"Two-Way Player"(二刀流選手)がルール上定義され、大谷はMLB初の「二刀流」適用選手となった[167]。"Two-Way Player"は、前年まで不可能だった「投手として故障者リスト入りし、マイナーリーグ公式戦でリハビリ登板しながら (rehab assignment) 、同時に野手(または指名打者)としてMLB公式戦に出場する」ことが可能となり(詳細は 「ロースター (MLB)#選手区分」 を参照)、エンゼルスは開幕から大谷をDHで起用しつつ、同時にマイナーで調整登板させ、5月中旬を目処にMLBで復帰登板させるプランを発表した[168]。しかし、COVID-19の影響でシーズン開幕が7月下旬に延期となり、二刀流での起用が開幕から可能となった。7月26日のアスレチックス戦で2018年9月2日以来693日ぶりに復帰登板を果たしたが、1回途中一死も取れず3安打、3四球、5失点で降板し、敗戦投手となった[169]。8月2日のアストロズ戦ではこの試合最速156km/hの速球が2回途中から140km/h台に落ち、1回2/3を無安打5四球2失点(押し出し四球2)3奪三振で降板した[170]。この登板後にMRI検査を受け、翌3日に「右屈曲回内筋群の損傷、投球再開まで4~6週間」と診断され、同年中の復帰登板は絶望的となり、投手としては上記2試合だけの出場に終わった[171][172]。負傷者リスト登録はせず、同月6日からDHとして出場を続けたが、最終的に44試合[注釈 13]で、打率.190(153打数29安打)、7本塁打、24打点の成績に終わった。オフにMLBサービスタイムが3年に達して年俸調停権を取得したが、年俸交渉は越年となった。
2021年[ソースを編集]
2021年2月9日に年俸調停を回避して2年総額850万ドルで契約合意したことが公式発表された[173]。シーズンでは4月4日の対ホワイトソックス戦では、MLB移籍後初となる「2番・投手」で先発出場。打者として初回に先制の2号本塁打を放った。投手としても球速163km/hを計測するなど好投したが、4回途中3失点で負傷降板し3年ぶりの勝利とはならなかった[174]。4月9日のブルージェイズ戦で、松井秀喜の1393打席を大幅に塗り替え、日本人最速となる997打席でのMLB通算50本塁打を達成[175]。4月21日のテキサス・レンジャーズ戦ではNPB/MLB通算100本塁打を達成した[176]。4月24日の対アストロズ戦でMLBでは初となる左翼手の守備に就いた(交代させる野手がいなかったため急遽DHを解除して起用)[177]。同26日のレンジャーズ戦では、5回9奪三振4失点で、3シーズンぶりに勝利投手となった。5月11日のアストロズ戦では2番・投手として7回10奪三振1失点の快投後、右翼に就いて試合終了までプレーを続けた[178]。同17日のインディアンス戦に13号本塁打を放ち、日本人メジャーリーガー初の両リーグ本塁打王単独トップに躍り出た[179]。6月4日、マリナーズ戦に2番投手で投打同時出場を果たすと6回を4安打2失点で4月25日以来39日ぶりのシーズン2勝目を挙げた。この試合では、MLB20試合目の登板で初の無四球を達成し、さらには10奪三振を記録した[180]。11日に敵地で行われたダイヤモンドバックス戦では、2番・投手で、MLB移籍後初の交流戦先発登板を果たした。ナ・リーグの球場で投手が1番から4番までの打順に入るのは初となった。翌16日のアスレチックス戦ではシーズン10個目の盗塁を成功させ、2年ぶりの2桁10盗塁に到達した。
18日、オールスターゲームのホームランダービーに出場することを表明した。日本人の出場は史上初であるのに加え、投手としてキャリアをスタートさせた選手の出場も史上初となる[181]。
2番・DHで先発出場した同日のタイガース戦で、第3打席に20号2点本塁打を放ち、2018年以来3年ぶりのシーズン20号本塁打に到達した[182]。チーム70試合目(打者出場65試合目)での20号到達は、松井秀喜が2007年に樹立した、チーム106試合目(打者出場93試合目)での20号到達の日本人選手最速記録を大幅に更新した[182]。その後、第5打席にも21号ソロ本塁打を放ち、2019年以来2年ぶりの1試合2本塁打を記録した[183]。同19日、本拠地アナハイムでのタイガース戦に2番・DHで先発出場。第2打席に2試合連発、MLB1年目の2018年に並ぶ22号本塁打を放った[184]。同20日、本拠地でのタイガース戦に2番・DHでスタメン出場。第3打席に3試合連続の23号本塁打を放った。自身のプロ最多本塁打数を更新した[185]。同23日、本拠地でのジャイアンツ戦に2番・投手で先発出場。これにより、ア・リーグのチームがDHを解除し、ナ・リーグのチームがDHを使用するという史上初の珍事が生じた。結果、この週(6月14日 - 20日)で7試合に出場し、打率.296(27打数8安打)、6本塁打、9打点、1盗塁を記録。投げては6回1失点、奪三振5でシーズン3勝目を挙げ、翌日の21日には2018年4月、9月に続いて、3年ぶり3度目となるア・リーグのプレイヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞した[186]。
同27日、MLBオールスターゲームのファン投票の1次結果を発表し、ア・リーグ指名打者部門で196万1,511票を集めてトップ通過した[187]。7月1日にMLBオールスターゲームファン投票の最終結果が発表され、ア・リーグ指名打者部門で全体の63%を集める圧倒的な得票率[188]でMLBオールスターゲームに初選出された[189]。同28日には第25号本塁打を放ち、アジア人では歴代2位であった秋信守(大韓民国出身。MLB通算本塁打数では松井秀喜を上回ってアジア人歴代1位)の最多記録24を抜いた[190]。
6月は25試合に出場し、打率.309、13本塁打、出塁率.423、長打率.889、OPS1.312を記録し、7月2日にア・リーグ野手部門で初の月間MVPに選出された[191]。同2日のボルチモア・オリオールズ戦で第2打席で右翼席へ29号ソロ、第3打席で左翼席へ30号2点本塁打を放ち、NPB/MLB通じて自身初となる30本塁打に両リーグ最速で到達。日本人選手としては2004年の松井秀喜が31本塁打を記録して以来、17年ぶりの快挙となった。同試合では9回に四球で出塁後に二盗を成功させ、ジャレッド・ウォルシュの安打でサヨナラのホームを踏んでいる。また、オールスターゲーム前の本塁打数として2019年にマイク・トラウトが記録した28本を抜き、エンゼルスの球団新記録となった。なお、ベーブ・ルースが先発投手として1試合以上出場したシーズンで記録した最多本塁打は1919年の29本であったことから、アメリカ合衆国の記者ジャック・ベアは「二刀流選手として大谷はベーブ・ルース以上」と述べたという[192]。
7月4日、ニューヨーク・ポスト紙は、アメリカン・リーグの前半戦MVPに大谷を選出した[193]。
同4日本拠地で行なわれたオリオールズ戦に「2番・DH」で先発出場。第2打席で第31号本塁打を放ち、2004年に松井秀喜(ニューヨーク・ヤンキース所属)が記録した日本人選手として最多のシーズン本塁打数「31」(アジア人としても最多[190])に並んだ[194]。同4日にオールスターゲームの選手間投票などで選ばれた投手と控え野手が発表され、ファン投票選出のア・リーグDH部門に続き、同先発投手部門でも選出され[195]、史上初めて投打二刀流で選出された[196]。6日には、シーズン2度目となるプレイヤー・オブ・ザ・ウィーク(6月28日 - 7月4日)を受賞した。打者として6試合に出場し、打率.286、6本塁打、8打点、1盗塁、OPS1.543を記録[197]。同6日本拠地アナハイムでのレッドソックス戦に「2番・投手」で投打同時出場。シーズン最長タイの7回、89球を投げ5安打2失点でNPB/MLB通算50勝目となる4勝目を挙げた[198]。
同7日には本拠地でのレッドソックス戦に「2番・DH」で出場し、3試合ぶりとなる第32号本塁打を放った。松井秀喜による日本人選手最多本塁打記録であった31本をシーズン前半戦のうちに更新し、日本人では単独最多となった[199](アジア人としても最多[190])。さらに、当時点ではMLB両リーグ内で最多の本塁打数であり、またオールスターゲーム前に32本塁打以上かつ12盗塁以上の達成はMLB史上初の記録でもあった)[200]。同4日の31本塁打達成時および同7日の32本塁打達成時には松井から大谷を絶賛し応援する内容の祝辞を贈られ[200]、大谷は「(松井を)子どもの頃からすごい見ていたので、光栄だなと思います。」「素直に嬉しいですし、(松井が)わざわざコメントしていただけるのも嬉しいです。まだまだ打てるように期待に応えられるように頑張りたい。」などと語った[201]。
最終的にオールスター前に33本のホームランを放った。これはアメリカ合衆国外出身者のオールスター前のホームラン数ではサミー・ソーサ(ドミニカ出身)に並びトップタイの記録である。同10日、米スポーツ界で目覚ましい活躍をした選手や優れたプレーなどに贈られ、スポーツ界のグラミー賞またはアカデミー賞と言われるESPY賞の「ベストMLB選手」部門に日本人選手で初めて選出された[202]。
7月12日、翌日に控えるオールスターゲームにアメリカンリーグ側「1番指名打者」で先発出場すると同時に[203]先発投手としても出場することが発表された[204]。日本人選手がオールスターゲームで先発登板するのは1995年の野茂英雄(ロサンゼルス・ドジャース所属)以来、26年ぶり2人目であった[205]。同日に開催されたホームランダービーでは第1ラウンドでワシントン・ナショナルズ所属のフアン・ソトと2度の延長戦にもつれる熱戦を繰り広げるも、敗退となった[206]。翌13日に開催されたオールスターゲームでは、1回表に先頭打者としてナショナルズのマックス・シャーザーと対決してMLBオールスターゲーム初打席に立ったが、二塁ゴロとなった[207]。1回裏には先発投手としてMLBオールスターゲーム初登板を果たし、三者凡退に抑えた。2回裏にはホワイソックスのランス・リンが登板したため1回表限りの登板となった[207]。打者としてはそのまま続投し、3回表に2打席目を迎えてブルワーズのコービン・バーンズと対決したが、初球を叩いて一塁ゴロとなった[207]。5回表にレッドソックスのJ.D.マルティネスを代打に送られた。2回表にブルージェイズのマーカス・セミエンが先制点を記録し、最終的にアメリカンリーグが5-2でナショナルリーグを下したことから、大谷は勝利投手となった[207]。このオールスターゲームで大谷が使用したハンドグローブ、スパイクシューズ、フットガードはアメリカ野球殿堂入りした[208]。
同18日、本拠地で開催されたマリナーズ戦、5試合ぶりに後半戦初となる34号本塁打を放った[209]。7月19日のアスレチックス戦では「2番・投手」の投打同時出場で後半戦初登板し、6回を3安打無失点、8奪三振1四球の快投を見せるも勝敗は付かなかった。また、打っては4打数1安打で二塁打を放ち、7回からは右翼の守備に就き、8回の守備で退いた[210]。同26日本拠地でのコロラド・ロッキーズ戦に「2番・投手」で投打二刀流出場し7回被安打5、奪三振5、失点1で1打点も記録し、MLB自己最多となる5勝目を挙げた[211]。
8月18日、40号本塁打を放つ大谷
8月2日、2か月連続でアメリカンリーグの野手部門でプレイヤー・オブ・ザ・マンスを受賞した。日本人野手の複数回受賞は史上初の快挙である。打者として23試合出場でリーグトップタイの9本塁打を放ち、投手として3試合登板し、2勝0敗、防御率1.35。20イニングを投げて17奪三振を記録した[212]。8月14日の対ヒューストン・アストロズ戦(エンゼルス・スタジアム)には1番・DHで出場。1回裏にルイス・ガルシアから第39号本塁打を打ち、1982年のレジー・ジャクソンに並ぶ、球団タイ記録の左打者シーズン最多本塁打を記録。同18日、敵地でのタイガース戦に「1番・投手」で出場。MLBでの自己最長となる8回を投げ、被安打6、与四死球0、奪三振8、失点1(自責1)で8勝目を挙げた。打者としても8回の第4打席で4試合ぶりの40号本塁打を打ち、レジー・ジャクソンの持つ球団左打者のシーズン最多本塁打記録を更新した[213]。8月31日には自己初のホームスチールを決める[214]。9月3日、レンジャーズ戦で9勝目を挙げた[215]。
9月15日にタイム誌が「世界で最も影響力のある100人」を発表し、野球界で唯一選出された。推薦人はヤンキースのレジェンドで、MLB通算696本塁打を放ったアレックス・ロドリゲス[216]。
同24日、3試合で11四球のアメリカンリーグ新記録を50年ぶりに更新した。また、2016年のブライス・ハーパーと並ぶMLB最多記録と並んだ[217]。同25日、4試合で13四球のMLBのタイ記録を達成し、ベーブ・ルースと並んだ[218]。
10月3日、シーズン最終戦に「1番DH」で先発。第1打席で11試合ぶりとなる本塁打を放ち、この1本でシーズン100打点を達成。打者として138安打・100打点・103得点、投手として130回1/3、156奪三振という、MLB初となる投打5部門での「100」を成し遂げた[219]。
後半戦は打撃の調子を落としたことに加えて、一発を恐れた相手チームから勝負を避けられることも多く[220]、本塁打王にはあと一歩及ばなかった。しかし、MLBでは自身初めて投打の二刀流として怪我なくシーズンを完走し、打者としての最終成績は打率.257、46本塁打、100打点、OPS.965、26盗塁、投手としての最終成績は9勝2敗、防御率3.18、156奪三振という飛躍のシーズンとなった。なお、45本塁打25盗塁は史上6人目の快挙といわれている[221]。ちなみに三塁打をシーズン6本以上も打ったが、この成績も合わせたことで1955年のウィリー・メイズ以来の記録を残したとも言われる[222]。
オフの10月22日に日本版のフォーブス30アンダー30の一人に選ばれた[223]。11月18日には同年の二刀流での活躍が評価され、アメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に史上19人目の満票で選出された。日本出身の選手としては2001年のイチロー以来史上2度目となる。この年のエンゼルスはポストシーズン進出争いに絡めずに負け越したが、ポストシーズン進出を逃したチームからの選出は史上4人目[224]、満票での選出は史上初となった[225]。11月23日に自身初めてオールMLBチームのファーストチーム指名打者、そしてセカンドチーム投手に選出された[226]。その他にもシルバースラッガー賞やエドガー・マルティネス賞など数々の表彰を受けた。
2022年[ソースを編集]
2022年はシーズン開幕前の2月1日にソニーから「MLB The
Show 22(英語版)」のカバーを務めることがニューヨークのタイムズスクエアで発表された[227][228]。前年にMVPを受賞した選手がカバー務めるのは5人目となった[229]。
4月8日には雑誌「TIME」米国版(4月25日、5月2日号)でMLBで2004年に86年ぶりにワールドシリーズ優勝は果たしたレッドソックス以来となる表紙を飾った。
5月16日アスレチックスとのダブルヘッダー2試合目に「3番・DH」で先発出場しシーズン7号本塁打を記録した。これが日本選手最速の出場459試合目でのMLB通算100号となった[230]。
6月10日にはレッドソックス戦に「2番・投手兼DH」で投打同時出場。投げては7回1失点、打っては5回に逆転の12号2ランを放ち、チームの連敗を14で止めた。エンゼルスは1988年に記録したシーズン球団ワースト記録を34年ぶりに連敗「14」に更新していた[231]。 同22日ロイヤルズ戦に「3番・DH」で先発出場し、14号3ラン、9回には劇的な同点3ランを放ち、さらに2本の犠飛でMLB日本選手では新記録となる8打点を記録。翌23日の同カードでは先発投手として8回を投げ2安打無失点、自己最多の13奪三振で6勝目を挙げた。メジャー史上で初となる1試合8打点を記録した翌日に13奪三振をマークした投手となった[232]。
7月14日アストロズ戦に「1番・投手兼DH」で先発し、6回を4安打1失点、12三振2四球で自身6連勝でシーズン9勝目(4敗)を挙げた。6連勝中は無失点を続け、6月10日レッドソックス戦から32イニング連続自責点ゼロを記録。2013年に岩隈久志(マリナーズ)がマークした31回2/3を抜き、日本人の最長記録とエンゼルスの連続自責点ゼロの球団新記録を樹立した[233]。 同21日、スポーツ界の「アカデミー賞」と言われる「ESPY賞」でNBAファイナルでMVPに輝いたカリーの他、NFLでMVP4度のアーロン・ロジャース、NHLで20-21年シーズンMVPの コナー・マクデビッド(英語版)等を抑えて「男子最優秀アスリート」部門を日本人で初めて受賞した。野球界では過去に94年のバリー・ボンズ、96年のカル・リプケン・ジュニア、98年のケン・グリフィー・ジュニア、99年のマーク・マグワイアが受賞。大谷はMLB選手として23年ぶりの受賞となった[234]。
8月10日 敵地オークランドで行われたアスレチックス戦に「2番・投手兼DH」で出場。6回4安打5奪三振無失点で今季10勝目を挙げ、1918年のベーブ・ルース(レッドソックス)以来史上2人目となる同一シーズン「2桁勝利&2桁本塁打」を達成した。 打撃では七回の第4打席で5試合ぶりとなる今季25号を放ち投打二刀流で活躍。MLB通算118号となり、日本人MLB選手ではイチロー(マリナーズなど)を抜いて松井秀喜(ヤンキースなど)の175本に次ぐ単独2位となった[235]。
同22日敵地・タイガース戦では体調不良に苦しみ4回を投げ5安打3失点4四球で降板。今季8敗目を喫した。ゲーム前の午前中から体調に異変を感じながらも大谷は「投げるのは決まっていたので、体調良しあしに関係なく、登板はするつもりではいました」「ゲームの直前の直前だったので、もう行くしかないですし、結果がどうのこうのではなく、できる限りの調整をして、マウンドに行って抑えて来る、というゲームだったかなと思います」と、試合後に強行出場した事を明かした[236]。
同28日敵地ブルージェイズ戦に「3番・投手兼DH」で先発し、7回2安打無失点。今季最多の109球を投げ11勝目を挙げた。その翌日には疲れを感じさせず、「3番・DH」で先発出場。10試合ぶりとなる今季28号本塁打を放ちプレーオフ進出争いをしているブルージェイズを相手に同一カード3連戦で3連勝に貢献した[237]。 同30日からは本拠地でヤンキース3連戦が行われ、記録的なペースでホームランを量産するヤンキースの主砲・ジャッジとの“MVP争い”にも注目が集まった。連日超満員となったこの3連戦は初戦はともに本塁打。2戦目でジャッジが51号3ランを放ち、3戦目は大谷が決勝弾となる30号をマークし日本選手初となる2年連続30本塁打を達成した[238]。
9月24日、敵地ツインズ戦で「3番・投手兼DH」で出場。この試合で日本人投手4人目のシーズン200奪三振も達成し14勝目(8敗)を挙げた。「14勝&34本塁打」で、1918年にベーブ・ルースが記録した「13勝&11本塁打」を投打両方で超えた。シーズン200奪三振は日本投手では野茂英雄、松坂大輔、ダルビッシュに続く4人目(計10度目)の快挙。対戦した打者は今季のべ600人に到達し、600打席との「ダブル600」も史上初となった[239]。 同30日本拠地アスレチックス戦に投打同時出場し支配的なパフォーマンスを見せ、8回二死まで圧巻のノーヒットノーランの快投。8回2安打1四球無失点10奪三振で15勝目を挙げた[240]。
10月1日に年俸3000万ドルの1年契約で合意に達したと発表した[241]。 同6日敵地アスレチックス戦に「3番・投手兼DH 」として投打同時出場。1回表の第1打席で今季160安打目となる右前打を放ち、その裏のマウンドを三者凡退に抑えた時点で同年の規定投球回に到達、MLB史上初となる投打‟ダブル規定到達”の偉業を成し遂げた。近代MLBで初めて投手打者の両方で規定回に達した初めての選手になった。開幕投手を務め最終戦まで28登板連続でリアル二刀流を実践し、投手としては15勝、防御率2.33、奪三振219でMLB2位の奪三振率11・9を記録。 防御率2.33はリーグ4位で、コロナ禍で短縮された20年を除けば95年の当時ドジャースに所属していた野茂英雄の同2.54を抜き日本選手歴代最高となった。同年の打者では157試合に出場し、打率・273、34本塁打、95打点、11盗塁を残した[242]。
総合的には前年を上回るシーズンとなったが[242]、アーロン・ジャッジが本塁打と打点の二冠をはじめ、WAR・OPS+・wRC+・WPAなど数多くの項目でリーグトップを記録し[243]、投高打低なシーズンにおいて62本塁打を放ち[244]、ア・リーグの本塁打記録を61年ぶりに更新と、ジャッジも歴史的なシーズンを送り、“MVP論争”が過激化[245]。注目が集まる中、10月14日にその前哨戦とされる[246]『Baseball Digest』の年間最優秀選手賞が発表されたが、大谷に大差をつけてジャッジが受賞し[247]、同28日に発表されたスポーティングニュースの年間最優秀選手にも大差でジャッジが受賞[248]。メジャーリーグベースボール選手会(MLBPA)主催の選手間投票で選出される年間最優秀選手が11月5日に発表されたが、こちらもジャッジが受賞した[249]。同18日には全米野球記者協会(BBWAA)が選出するア・リーグのMVPが発表され、ジャッジが受賞[250]。大谷への1位票は、エンゼルスの地元ロサンゼルスの記者からの2票にとどまり[251]、2年連続受賞とはならなかった。
投打個別の賞レースでも、投手としてはサイ・ヤング賞の最終候補にノミネートされず[252]、2位票が9、3位票が7、4位票が12、5位票1の計82ポイントで4位だった[253]。打者としてはシルバースラッガー賞の2部門にノミネートされていたが、ユーティリティ部門はア・リーグの首位打者でジャッジの三冠王を阻止したルイス・アラエス[254]、DH部門はジャッジに次いでMLB2位のOPS1.019を記録したヨルダン・アルバレス[255]が受賞[256]。エドガー・マルティネス賞もアルバレスの受賞が有力視されていたが、アルバレスがDHとしては77試合の出場にとどまり、DH成績では大谷が7部門でトップを記録[257]。大谷の2年連続受賞となり、これが今オフ初の表彰であった[258]。12月5日にはセカンドチームの指名打者としては自身初、通算では2年連続2度目、ファーストチームの投手としては自身初、通算では2年連続2度目となるオールMLBチームに選出された[259]。
なお、11月16日に自身のインスタグラムで第5回WBCの日本代表への参加の意思を表明した[260]。
2023年[ソースを編集]
1月6日に野球日本代表監督の栗山から第5回WBCの日本代表の一部メンバーが先行発表され、代表入りが正式に決まった。
3月9日、日本代表のWBC初戦である中国戦に「3番・投手兼DH」で出場し打っては2点二塁打など2安打で白星に貢献し、4回を1安打無失点に抑え勝利投手となる。その後の韓国戦、チェコ戦、オーストラリア戦にも出場し、1次ラウンドは全4試合で貴重な打点を記録、12打数6安打の打率.500、1本塁打、8打点となった。オーストラリア戦では、場内の自分が出演している大看板にホームランを直撃させた[261]。日本代表は4戦全勝でグループリーグ1位突破し、1次ラウンドのMVPを受賞した。同16日、今大会から初めて導入された準々決勝のイタリア戦に「3番・投手」で投打同時出場。立ち上がりから気迫のこもった投球を見せメジャー移籍後最速となる164キロの速球を軸に、5回途中5奪三振2失点で勝利投手となり、打者では相手の意表をつくバント安打で好機を広げ勝利に貢献した。
選手としての特徴[ソースを編集]
投手として先発出場し降板後に野手として守備に就くケースや[262]、野手として先発出場し途中の回から救援登板するケースもある[67]。
投手[ソースを編集]
投球データ
2022年[263] |
||||||
球種 |
割合 |
平均球速 |
最高球速 |
|
||
% |
mph |
km/h |
mph |
km/h |
|
|
スライダー |
39.1 |
85.3 |
137.3 |
101.4 |
163.2 |
|
フォーシーム |
27.6 |
97.3 |
156.6 |
|
||
12 |
89.3 |
143.7 |
|
|||
カットボール |
9.1 |
90.5 |
145.6 |
|
||
カーブ |
8.6 |
77.7 |
125 |
|
||
シンカー |
3.7 |
97.2 |
156.4 |
|
オーバースロー[266]から繰り出す、平均97.3mph(約156.6km/h、2022年シーズン)・最速165km/hのフォーシーム、平均143.7m/h[267]のフォークボール[268][269]、鋭くブレーキのかかるスライダー[270]を軸に、稀に平均125km/hのカーブを交える[20]。フォークは米スカウトから高く評価されている[271]。プロ入り後、フォークを習得[269]。高校時代はカットボールやチェンジアップも混ぜた[20]。
高校時代はフォームの安定やスタミナが課題とされていた[272]。高校通算奪三振145に対し、与四死球61を記録するなど制球力にも課題がある[273]。NPB通算奪三振は624、与四死球は223[274]。日本ハム時代に捕手としてバッテリーを組んだ近藤健介は「リズムができてくればしっかりとコースにコントロールできるが、四球から崩れるという失点パターンに注意している」と語っている[275]。
2022年シーズンには新球にシンカーが加わった。同年9月3日(アメリカ現地時間)に投じたシンカーは最速100.6マイル(約162km/h)、変化量は最大で縦に28インチ(約71cm)、横に21インチ(約53cm)だった[276]。
野手[ソースを編集]
打撃時の大谷(2019年)
打撃については高校時代にプロのスカウトから「高橋由伸タイプで三冠王を狙える素材」[277]、「松井秀喜以来の長距離打者」[278]と高い評価を受け、高校では通算56本塁打を記録[279][280]。また一塁到達まで3.8秒台の俊足[278][281]、ノーステップで遠投90メートルという強肩[281]を兼ね備える。
MLBでの平均打球速度は、リーグ平均が約88mphであるのに対して、2018年が92.9mphで全体10位、2019年92.8mphで全体9位であった。またスプリントスピードは、2018年が28.4ft/秒、2019年が28.2ft/秒と、リーグ平均の27.0ft/秒を上回っている[282]。一方で打席数に比べて三振が突出して多く、例として2018年シーズンは367打席で102三振を記録している。これに対して2018年シーズン終了後に雑誌で「これも実力が足りないなりに、捨てた部分ではあります」「打率も出塁率も残しながら、求められているのは長打力だと思っているので」と回答をしている[283][284]。MLB通算 (2018 - 2019)のOPSは.883で、このうち対右投手の値は.945、対左投手の値は.725となっており、相対的に左投手の値が低い[285]。
指名打者の難しさについては「極端な言い方をすると、4回代打で出場するようなもの。如何に集中しながらゲームに臨むかが一番大事だと思います」と話している[286]。
田淵幸一は大谷の打法を「でんでん太鼓打法」と名付けている[287]。
長距離打者ではあるものの、局面を読み意表を突いたセーフティバントを決めるクレバーさ、器用さも兼ねる。[288]。
MLBに移籍した後、日本ハム入団2年目以降に守備につかなくなった理由を米メディアに聞かれたが「何でですかね? 下手だったんじゃないですか、フフッ」と冗談っぽく笑って答えている[289]。
二刀流[ソースを編集]
大谷は、投手と野手(または指名打者)を兼任する二刀流の選手である。これは、アマチュア野球ではよく見られるものの、プロでは非常に珍しいスタイルでリーグ創世記を除くとほとんどの選手は投打いずれかを選んだ。ベーブ・ルースは、その打撃への期待から一時期は登板しない日に野手で出場した。しかし、じきに野手に専念するようになる[290]。
近年では遠山奬志や嘉㔟敏弘がチーム事情などにより二刀流に近い起用があった程度で、MLBでもブルックス・キーシュニックと、大谷とは同世代のマイケル・ローレンゼンが知られるぐらいであるが、1シーズンにわたり投手としても打者としても活躍し、規定投球回・規定打席を満たしタイトル争いに絡むような例は無かった。
経緯[ソースを編集]
後に北海道日本ハムファイターズの監督となる栗山英樹は、遊撃手としてプロ入りしたが大学時代に投手としても活躍していた。2011年、キャスターとして当時高校2年だった大谷を取材する[291]。
2012年春の選抜では藤浪晋太郎からホームランを放つなど、野手として期待が高かった[292]。一方夏の地方大会では160キロを記録するなど投手としての才能の片鱗も示した[293]。
ドラフトに向け日本ハム内でも山田正雄GMを中心に会議がもたれた。なお、この山田GMもプロ時代に投打両方で出場を経験している[294]。会議の中で、大谷は投打どちらかに決められないという考えが球団内で自然に出始めた[295]。
ドラフト会議後、大谷との交渉の中で日本ハムは二刀流の方針を示す。すでに複数のメジャーリーグの球団と交渉していた大谷だが、当初は「自分にはそんな考えはなかった」と驚きつつも懐疑的であったという[296]。
2012年12月25日、大谷は日本ハムへの入団会見で「どっちでも頑張りたいです」と二刀流への挑戦を表明した[297]。
二刀流に関する賛否[ソースを編集]
大谷翔平の「二刀流」に関してOB選手・専門家がそれぞれ様々な見解を表明している。
二刀流派[ソースを編集]
イチロー(打者派から後に二刀流容認に転向)
2015年のインタビューにおいて「バッターをやればいいのにと思いました。すごいピッチャーはいくらでも出てきます。でも、あんなバッターはなかなか出てこない。実際にグラウンドで対戦したわけでもない距離感の中での話ですけど、彼ほどのバッターはなかなかいないと思います」「(二刀流は)ピッチャーをやって、その翌日に外野を守れるなら両方やってもいいと思います。」と述べ、MLBでは大谷レベルの投手が希少ではないことを指摘し、打者寄りの二刀流、もしくは打者に専念することを推奨していた[298]が、2021年「大谷翔平と言えば二刀流、無限の可能性、類いまれな才能の持ち主、そんなぼんやりした表現をされることが多かったように思う。比較対象がないこと自体が誰も経験したことがない境地に挑んでいるすごみ」「けがなくシーズンを通して活躍した2021年は具体的な数字で一定の答えを示した年だと思う。中心選手として長い間プレーするには1年間、全力でプレーした軸となるシーズンが不可欠だ。それが今年築けたのではないか」と投打に渡って結果を残したことを評価すると共に、「できる限り無理をしながら翔平にしか描けない時代を築いていってほしい」と二刀流を容認するコメントを発した[299]。
入団直後の大谷を見て、「バッターも良いけどやっぱり俺はピッチャーだな。とにかく彼はこれまでの日本人が持っていない物を持っている。何より体がいい。(身長も)194~5(cm)あるわけでしょう。それでいてあの身のこなしができる。あの動きを見ると、やっぱりMLBのピッチャーだなと思う」と投手派の意見を語っていたが[300]、後に「今は(二刀流をやめろとは)言えないね、スケールが違う。二刀流のままでいい」と意見を変えている[301]。
将来的に投手と打者のどちらかに専念していくという見解を持ちつつも、「200勝、2000安打のどちらかなんて言わず、両方達成して名球会に来ればいい。二刀流を続けるというなら、それぐらいの意気込みでやってほしいよな」と語っている[302]。
「せっかく自分がやりたいと言っているのに、その芽を摘む必要がどこにあるのか。やらせてみて、結果責任は自分で取ればいい」[303]「人のことなんだけど、気にはなるじゃないですか。見てみたい。野球をやっていた人間として、本当にこれが米国でできるのかどうかっていうのを見たいっていうのは人より多いかもしれない」[304]と述べ、大谷本人の意志とメジャーリーグにおける二刀流の可能性に興味を持っていることを語っている。
本人の意思を尊重した選択を勧めており、大谷のプロ入り1年目途中であった2013年夏の時点で「両方やっていては一流になれないという意見もあるようだが、これまでほとんどいなかったわけだから、無理だと言うこと自体がおかしいと僕は感じる。難しいのは分かるが、前例のないことをいきなり否定できない。可能なら両方続けたらいいし、いずれどちらかに決めるならそれもいいと思う。」「両方いいから両方やってみるというのは極めて単純な考え方だが、球界の常識にはなかった。常識と思われていることを突き詰めれば、中には覆ることもあるのだろう。」などと語っている[305]。2021年に自身の持っていたシーズン日本人最多本塁打『31』を更新された際も大谷を祝福し、「シーズン32本塁打は、大谷選手のバッティングを持ってすれば、ただの通過点に過ぎないと思います。大リーグでは私も長距離打者とは呼ばれたことはありましたが、彼こそが真の長距離打者だと感じます。また、大谷選手は素晴らしいピッチャーです。大リーグの常識を変えた唯一無二の存在です。今後もファンの方々や少年たちの夢を背負い、シーズンを乗り切って欲しいと思います。私も一野球ファンとして、楽しみにしています」などと賛辞を贈った[306]。
2014年冬に、プロ入り2年目を終えた大谷について「ピッチャーとして今年ここまでよくなっているのは正直驚いた。すごい成長スピード」と話し、二刀流について「なかなかできることではない。納得するまでやればいい」と応援した[307]。
張本勲(投手派から後に二刀流容認に転向)
投手としての大谷を「あの投げ方を見ると、アメリカのバッターは打てないと思う」と称賛し[308]、「二刀流は怪我するし、世界一のピッチャーになれるかもしれないのにそのチャンスを二刀流で怪我して逃すのはもったいない。このような逸材を二刀流で怪我して失うのは球界においての大損失だ」と述べ怪我のリスクの点から二刀流を批判したが[309]、バッティングの技術があることも認めており、「あの打ち方を見たら、代打起用くらいだったら良い」とほんの一部だけ二刀流を認めていた[308]。かつてはこのような発言をしていたが、2021年12月5日放送のサンデーモーニングにおいて出演した際に「私はピッチャーの方がいいんじゃないかと言っていましたが、ここのところに来てバッターもすごく成長してきましたから、誰が見ても2つやらせたいと思ったんじゃないでしょうか」とコメントするなど、二刀流を容認する考えに変わってきている[310]。
2021年に投打で活躍した大谷について、「本当に信じられないし、驚異的な活躍だ。これまで、私にとってイチローが日本選手のパイオニアというべき存在だった。米国だけで3000安打以上を放ち、日米合わせて4000安打以上を記録した。大谷が今年見せた投手と打者の二刀流は、本当に素晴らしいことだ。今後(大谷以外に)このような選手を見ることはできないのではないだろうか。今までこのような選手を見たことがなかった。信じられないという言葉しか出てこない」[311]、「大谷選手は他に類を見ない存在と言えるだろう。投手としても打者としてもエリート級。彼のような選手はこれからも現れないのではないだろうか。」[312]、と絶賛し、「もし私が監督なら、うまくいっていることを直そうとはしない。大谷選手がハッピーであることが一番大事だからだ。力を最大限に引き出してあげたいし、今の二刀流を継続させるだろう。」[313]と二刀流に好意的な意見を述べている。
投手派[ソースを編集]
当初は二刀流起用について「日本プロ野球界を舐めるな」といった旨の意見を持っていたが、その後の活躍を見て二刀流を続けることを勧めるようになり、「あれだけのバッティングとピッチングができるなら、大賛成。今まで誰もやったことがないことをやるというのも、魅力である。『10年に1人の逸材』と呼ばれる者はよくいるが、プロ野球80年の歴史で、あんな選手は初めてだろう」と語っていた[314]。しかし2017年4月のインタビューでは「『二兎を追うもの一兎をも得ず』にならないか」「ピッチャーは五体満足じゃなければ投げられない。全力投球は全身を使った仕事だから、どこのケガも本当はダメ。ただ、俺が監督だったら、大谷は文句なしにピッチャーで使いたいね。バッターにはいつでも転向できるけど、165キロを投げる選手なんて居ないんだから」と二刀流起用の懸念点を述べている[315]。野村の没後、孫でエンゼルス職員の野村沙亜也は、晩年の野村が「投手でも打者でも本当に凄い野球選手なんだ」と二刀流の大谷を評価していたという回想を述べている[316]。
「ナンバーワンになれる可能性があるとしたら投手なので。ナンバーワンになれる可能性を取ったほうがいい」「(二刀流は)プロ野球の人気を考えれば見ていて面白いし興味があることになると思うけど、本人がメジャーに行きたいと思った時は絶対に足を引っ張ることになる」と述べ、投手に専念することを推奨している[307]。大谷がMVPとなる活躍を果たした2021年シーズンにおいても、パドレスの地元紙のインタビューで「彼には投手と打者の両方をやれる能力がある。それが驚異的なのは間違いないが、彼の身体のことはいつも心配している。投手としてだけでもフルシーズンを戦うのはきつい。それなのに彼は毎日DHでプレーしながら、7~8日に一度はピッチングをしている。それって身体に相当なストレスがあると思う。普通の2倍以上は感じているはず」と負担を心配するコメントをしている[317]。
「大金を出して獲得する選手に、MLBはそんなリスキーなことはさせない。各チームとも、DHは最も年俸の高いスラッガーが打つだろうし、守る場所も無い。せっかく投手として可能性があるのだから、本気でMLBを目指すなら打者は早々に諦めるべきです」とコメントした[318]。
MLB1年目のシーズンとなった2018年から「投手に専念すべき」と主張していたが[319]、2021年の打者としての活躍を見て「僕の予想は間違っていた」と述べている[319]。しかし以降も投手に専念することを勧めており、「世界一の投手になれるのは、投手に専念したら、という条件がつく。今でもそう思っているくらい、投手として僕は評価しているんだ」[319]、「現時点で彼の身体能力によって再現性が高いファストボールはメジャーでも他の追随を許さないし、スプリットは間違いなく球界一だよ。もし投手に専念していたら球界を代表する変化球を3つ有している、そんな投手になるような気がしているんだ」[319]と述べている。また、投手に専念すればジェイコブ・デグロム(2018年、2019年のサイ・ヤング賞投手)のような投手になれると述べている[320]。
打者派[ソースを編集]
大谷の1年目開幕後には、「大谷は開幕直後からプロの投手の球に対応できている」「とてもじゃないが高卒ルーキーの打撃ではない。あいつは本物の天才。」「ストレートで三振を奪える球を武器として身に着けているなら投手一本で行け。だが変化球で躱す投球を主体にしなければ抑えられないと感じたなら、思い切って打者一本にすることを俺は勧めたい。『一流の投手』にはなれると思うが、野茂・松坂クラスの『怪物』には及ばないと思ってもらいたい。だったら、打者に専念してほしい。」と述べ、投球スタイルに関する条件をつけての打者専念を勧めた[321]。しかし、1年目が終わった後では、「両刀使い」「何がしたかったん、君?みたいな」と揶揄し、「160キロも出るんやからピッチャーでええんちゃうの?ピッチャーでアカンかったらバッターになればええんや」と述べている[322]。
「絶対どっちかにしないといけないなら」という仮定のもとで、「僕が監督だったらバッターで毎日使いたい」「飛距離がすごい」と評価している[323]。
二刀流にも賛成はしているものの、日本では松井秀喜に匹敵あるいはそれ以上のホームランバッターで、打者に専念したら50本以上は打てる潜在能力を秘めた選手と評している。走塁にもすぐれ、ホームランも打てる点からバリー・ボンズタイプのバッターだと述べている[324]。
その他[ソースを編集]
二刀流の経験があるブルックス・キーシュニックは「MLBに来たら両方やらせてくれることは無い。両方をやっていたら色んなことが起きるからだ。例えば、自打球を足首や足のつま先に当てて骨折でもしたらどうする。特に年間に500〜2000万ドルも稼ぐ奴ならまず無理だ」と語っている[325][326]。
大学時代に二刀流選手をしていたジョン・オルルドは「おそらくプロのチームは、大谷が100マイルを投げられるなら彼を守りたがるだろう。そして、投手としてやらせたいと考えるはずだ。だって、守っていれば無理な体勢から投げなければならない時もある。そんな時に腕でも痛めたらどうするんだい」と語っている[325][326]。ただ、ベストナインを2部門で受賞した2016年オフには、MLB機構が公式サイトで「伝説誕生」として大谷のダブル受賞を報じる[327][328]など、「二刀流」起用を念頭に置いて大谷に注目するMLB球団も現れていた[329]。
日本プロ野球名球会(名球会)の入会条件は2021年現在通算200勝・250セーブ・2000安打のいずれかだが、大谷のような二刀流を考慮していない。そのため古田敦也副理事長は「極端なことを言うと大谷君が1000安打、100勝とかしたときに名球会としては価値がないのかというと。それは規約としては半分しか満たしていないけど、すごいこと。自分の2000安打よりすごいことをやっている。そういうときに対応しないのか」と懸念を表明している[330]。なお、名球会では2022年に日米通算100勝100ホールド100セーブをあげた上原浩治が特例として名球会入りした前例ができている[331]。
起用法[ソースを編集]
近代野球での二刀流が体に与える負荷が未知数であることから、球団は慎重にその起用法を探っていった。ここでは起用法変化の概要を示すが、経歴にあるようにケガや不調にも悩まされ必ずしも順調に進んだわけではない。
もともとプロ野球では一軍登録28人に対し各試合の出場登録選手は25人、すなわち3人余る状態であり、そこに登板前後の先発投手を「上がり」として割り当てていた。大谷は初めの二年、上がり以外の日に野手出場しつつ、先発ローテーションを守ることが期待された。以下に登板三日後に移動日があると仮定したスケジュールの例を示す[332]。
大谷のスケジュール例 |
|||||||
年度 |
登板前日 |
登板日 |
登板翌日 |
翌々日 |
三日後 |
四日後 |
五日後 |
2013-14年 |
上がり |
出場登録 |
上がり |
上がり |
移動日 |
出場登録 |
出場登録 |
コンディショニング |
先発登板 |
リカバリー |
トレーニング |
投球練習 |
右翼、DH |
右翼、DH |
|
2015年- |
上がり |
出場登録 |
上がり |
出場登録 |
移動日 |
出場登録 |
出場登録 |
コンディショニング |
先発登板 |
リカバリー |
DH出場 |
投球練習 |
DH出場 |
DH出場 |
野手出場の際、当初は右翼を守っていたが、外野手としての出場は2014年には大幅に減りDHで起用されることがほとんどとなった。疲労については、インタビューで当然のように二刀流だった高校からの延長と捉えていて特段気にしていない旨を発言している[333]。
2015年には登板翌々日にもDHで試合に出場するスケジュールを組んだ。2016年には登板日にDH制を解除し、さらに打線の主力として上位打線で打席に立つリアル二刀流の起用がなされた[334]。
大谷は2018年にメジャーリーグに移籍するが、日本の中6日に対しメジャーリーグは中4日がほとんどであった[335]。しかし、エンゼルスは先発6人でローテーションを組むことにし、大谷の起用は登板日と前後の計3日は打席に立たないというほぼ日本の起用を踏襲することにした[336]。
2021年のシーズン前、エンゼルスと大谷は今後の起用について登板日とその前後の日にあった打席に立たないという制限を解除する方針を決めた[337]。打席数が大幅に増加することになる一方で、大谷はブルペン投球などをこなしつつ試合前のフリー打撃をあえて行わないなど練習を調整するなど負荷の軽減に努めた[338]。この年にはリアル二刀流の他、投手降板後に右翼守備に就き打者として出場を続ける起用も行われた[339]。これはしばし三刀流と呼ばれたが、翌2022年は先発投手がDHを兼任でき、降板後もDHとして継続して出場できる大谷ルールが採用された[340]ためこの起用法は見られなくなった。
また2022年はナ・リーグにもDH制が導入され、大谷は交流戦でも守備に就かずとも打席を確保出来る制度となった。起用法では、シーズン後半に入ると大谷は中5日で登板することも多くなった[341]。
そして、2022年の日本時間で10月6日、シーズン最終戦で大谷は近代野球で初めて規定打席と規定投球回を同一シーズンに達成した[342]。
人物[ソースを編集]
家族[ソースを編集]
父親の大谷徹は、岩手県立黒沢尻工業高等学校を卒業してから三菱重工横浜でプレーしていた元社会人野球選手。現在は金ケ崎シニアの監督[343]。
母親は、元バドミントン選手としてインターハイや国民体育大会に出場した実績を持つ[15]。
自身は3人兄妹の末っ子で、7歳上の実兄・大谷龍太は、かつて独立リーグの高知ファイティングドッグスに所属し、現在はトヨタ自動車東日本でプレーする社会人野球の選手[344]。また、2歳上の姉がいる[345]。
身体能力[ソースを編集]
「サッカーをやらせれば世界最強のストライカーに、走らせれば100mの世界記録に迫ることができる。そんな人類のスポーツ史を変える『とてつもない才能』が、たまたま日本に生まれ、たまたま野球を選んでくれた。そういうことなんです。」
ロサンゼルス・ドジャース 極東スカウト 小島圭市
愛称[ソースを編集]
アマチュア時代は大谷自身も目標としていたダルビッシュと比較される形で「みちのくのダルビッシュ」と称された。
MLB移籍後は英語表記のShohei Ohtani(ショウヘイ・オオタニ)を短縮して「ショータニ」とファンから呼ばれていた[346]。 その後、ショータイム(SHOWTIME[346]もしくはSHOTIME[347])と言う愛称も誕生したが、当初は不評だった[346]。しかし、その後はベストニックネーム8位に選出されるなど人気の愛称となった[347]。
他にも、2018年4月にMLB初本塁打を記録した際、エンゼルス専属実況のビクター・ロハス(英語版)が叫んだ「Big fly, Ohtani-san!」という言葉は、日本国内のスポーツ新聞で大きな話題となった[348]。以降ロハスは「大谷がホームランを放った時だけ」"Ohtani-san"の呼称を使っている("Big fly"は元々用いていた)。そのためロハスが実況を退いてからも大谷が試合で活躍した際などにはTwitterで「オオタニサン」がトレンド入りするなど愛称の一つとして親しまれている。
野球に対する信念[ソースを編集]
世界への挑戦[ソースを編集]
高校時代には野手としても高い評価を受けていたが、本人は投手に対する拘りが強く[349]、「世界一の投手」を目標に掲げていた[20]。「誰もやったことが無いようなことをやりたい。野茂英雄さんもそうですし、成功すれば高校からメジャーへという道も拓けると思う。160km/hの目標を掲げた時には『無理じゃないか』という声もあったが、そう言われると、絶対やってやるという気持ちになる。刺激というか、やる気になる」という考えを持った[20]。
高校3年時にはNPBを経ずに直接MLB球団との契約を目指す意向があることを明かし、「日本を選択した場合でも、肉体的ピークだという25歳でメジャーに挑戦していたい」[277]「日本人投手として最初のアメリカ野球殿堂入りを果たしたい。メジャーで殿堂入りするためにはメジャーで最低15年はやらないといけないという話なので、30歳近くになってからメジャーに挑戦するのは遅いと思う」[20]「マイナーリーグから這い上がってメジャーに行くことも魅力」と話していた[32]。
日本ハム入団を表明した後も「やっぱり最終的にはメジャーリーグに行ってみたいと思いますし、自分の憧れている場所」と述べた[350]。アメリカで生活していく覚悟についても「その気持ちはあります」と話し[20]、日米の文化や言語、野球の違いについては「合うかどうかというより慣れだと思っています。そういう意味も含めて、若いうちに慣れた方がいいと思うんです。だから不安はありません」と話した[349]。なお大谷の二刀流でのプレイについては、前述の活躍も相容まって有識者は高く評価し賛成している[351]。
練習への意志[ソースを編集]
野球を毎日続けることは楽しいが、練習に関しては好きなわけではなく、上達するための義務として行っていた。渡米後の2019年には「本当は練習したくないんです。(中略)毎日、ゲームだけして、試合に行ったら打てるというなら、それでいいじゃないですか。(中略)僕はやらないと打てないので、練習、やりますけどね(笑)」と語っている。この信念は、花巻東高校での寮生活によって培われたという[22]。
用具[ソースを編集]
使用する用具はアドバイザリースタッフ契約を結んでいるアシックス社が製造するものを使用し[352][353]、毎年12月には大谷とアシックスの用具開発担当者が顔を合わせて用具についてヒアリングを行っている[353]。グローブには験担ぎでウェブに揚羽蝶をあしらったり刻印を施している[354][355]。
2023年1月31日。ニューバランス社との長期契約が発表された。[356][357]
野球のためのプライベートジェット[ソースを編集]
2023年3月3日14時過ぎ、県営名古屋空港に到着した大谷は白のプライベートジェットから降り立った。彼が乗ったとされるのは高級プライベートジェット航空会社「VISTA JET」が運航する「ボンバルディア・グローバル7500型」。スポンサー契約ではなく自費で渡航費用を捻出し、アリゾナから羽田までの飛行時間は約10時間で、渡航費用は総額4000万円は超える計算となる。お金を殆ど使わない人物として知られる大谷がこのプライベートジェットを利用したのは、登板翌日の移動で体をできるだけ休めることがチャーター移動の目的だったためであり、野球のためならお金を惜しまない一面があると言える[358]。
交友関係[ソースを編集]
日本ハムチームメイトとの親交[ソースを編集]
日本ハム時代にチームメイトだった上沢直之は大谷がエンゼルスに入団するにあたって、札幌ドームで行われた公開記者会見のビデオメッセージで、「野球では何も教えることはできなかったですけど、僕はギャグというか、しゃべりを教えることができたと思います。この前のエンゼルスの(入団)会見で『トラウトの27番が欲しかったけれど、17番にしました』というセリフを聞いて、このジョークを言えたのは僕のおかげだなと思いました。」と語り、両者の仲の良さを伺わせた[359]。
同じくチームメイトだった鍵谷陽平は「投手と野手をやっているので全員に隔てなく接して話すことができている。誰とでも気さくに話すし、言いたいこともしっかり言える性格。皆んなから親しまれている」と話している[360]。
エンゼルスチームメイトとの親交[ソースを編集]
エンゼルスのチームメイトで大谷と同い年のデビッド・フレッチャーとは、試合の直前にビデオゲーム『大乱闘スマッシュブラザーズ』や『マリオカート』をクラブハウスで長時間遊んでいたことが報じられている。
その直後の試合では、大谷はMLB移籍後では初となる2打席連続本塁打を放ち、4安打2本塁打3打点1盗塁という大活躍を記録した。フレッチャーも適時二塁打を放った。同試合でエンゼルスはインディアンスに勝利し、インディアンスの本拠地プログレッシブ・フィールドでの10連敗記録を止めた[361][362][363]。
同じくブレイク・パーカーやマイク・トラウトなどとはスマホゲーム『クラッシュ・ロワイヤル』をともに遊び、大谷はプロ野球選手が10人以上所属するクラン(同ゲーム内でのチーム)を率いていたという。パーカーにとって同ゲームは大谷との共通の趣味であり、「負けず嫌い、楽しむのが好き、若くて元気でよく笑う、そういった(大谷)翔平をゲームを通して知るのはとても楽しかった」と語っていた[364]。
また、親しい選手たちや通訳者の水原一平たちと、アーバインの自宅でプレイステーションのシューティングゲームを遊ぶことも趣味としていた[365]。
チームメイトのホセ・イグレシアスは「僕は(大谷)翔平が大好きだ。人として素晴らしい。だから彼が何か素晴らしいことをやる時は、自分のことのように祝福する」と語り、大谷と食事へ出かける仲だという。イグレシアスはキューバ出身で母語はスペイン語だが、大谷とは英語で会話するほか、多少のスペイン語や日本語でも会話している。大谷はイグレシアスとコンピュータゲームを通して交流しようとしたものの、イグレシアスは遊び方がわからないため、イグレシアスは大谷へポーカーを教えた[366]。
水原一平との親交[ソースを編集]
水原一平と(2019年)
通訳者の水原一平とは日本ハム時代から親交があり、渡米後は大谷の専属通訳として公私ともに支えている[367]。
大谷は米国での自動車運転免許を持たないため水原が運転手を務め、キャッチボールを行うなどした。水原の支援なしでは活躍できなかったと大谷は2018年に語っている[367]。大谷が2020年2月に同免許を取得した後も、大谷が運転する際には水原が助手席に同乗して監督した[368]。
2018年には1月から11月14日時点まで水原と毎日顔を合わせており、オールスターゲーム期の休暇にはユニバーサル・スタジオ・ハリウッドへ同行した[369]。
同年に水原が結婚したことを大谷は祝福し、水原と妻のために新婚旅行のチケットを贈った[370]。
2018年から2019年春にかけて大谷が故障からのリハビリテーションおよび復帰のための調整を行っていた期間には、水原は大谷と冗談を言い合ったり、クラッシュ・ロワイヤルなどのビデオゲームを一緒に遊ぶなどしてリラックスさせた。クラブハウス管理人のエンゼルは「(水原)一平が(大谷)翔平をすごく助けてくれている。だから精神的にも良い状態だったと思う」と語ったという[371]。
2021年のオールスターゲームに大谷が出場した際には、前日の「レッドカーペットショー」(出場選手たちが着飾って行進するイベント。家族と同伴することが通例であり、独身選手の場合は恋人と同伴することもある)へと独身の大谷が誰とともに登場するのか注目された[372]が、水原とともに歩いた[205]。さらに同日に大谷が参加したホームランダービーでは水原が捕手を務めた[373]。
私生活・趣味[ソースを編集]
高校時代の好きな教科は歴史で、「特に幕末が好きですね。日本が近代的に変わっていくための新しい取り組みが多くて、歴史的に見ても大きく変わる時代。革命や維新というものに惹かれるんです」と語っている[349]。
日本ハム時代には外出をほとんどせず、「二刀流をやろうとしていることを考えたら、我慢しなくてはいけないことがいっぱいある」という方針から、外出する際は監督の栗山英樹に許可を得なければならなかったが、本人は「制限されてもされなくても変わらないと思う。何したいとか特に無いですし、いいのかなと思います」と話している[375]。
収入の内、1ヶ月に自由に使える金額は、日本ハム時代から2018年時点にわたって両親からお小遣いとして渡される10万円のみで、それもほとんど使わずに貯蓄していたという[376]。
「無趣味」とも2013年時点で公言しており、強いて挙げた趣味は読書とDVD鑑賞であった[377]。読書については「その時にもよりますけど、読める時は1日で一気にいっちゃいますし、移動の際とか、時間があって。眠くない時に読んでいます」と話し[378]、漫画では井上雄彦の『リアル』や『スラムダンク』、寺嶋裕二の『ダイヤのA』などを読んだことがあると語っている[379][380]。
恋愛には2013年時点であまり関心がなく、兄の結婚式に出席したのち自身の恋人について質問された際に「興味はないですね」と答えた[377]。
自動車へのこだわりは2013年時点では無く[377]、日本国内では2020年時点で一度も自動車を運転したことがなかった[368]。
渡米後も2018年時点で自宅から球場までの通勤手段は球団から貸与されたレンタカーであり、車種は大谷の希望に基づいてヒュンダイ・ソナタ(日本円で200万円ほどの大衆車)であった。大谷は運転免許を持たなかったため通訳者の水原が運転した[376]。
その後、2020年に米国での運転免許を取得したのち、初めての愛車として電気自動車であるテスラ・モデルXの特注品を購入したことが2021年7月に明かされた[381]。テスラ社の取締役である水野弘道が発表して「Good choice, Shohei(いい選択だ、翔平)」と賛辞を送り、同社の創設者であるイーロン・マスクも好意的に反応した[381]。
コンピュータゲームの『大乱闘スマッシュブラザーズ』[361][362]や『マリオカート』[363]、シューティングゲーム[365]、また『クラッシュ・ロワイヤル』を上述のように愛好している。特にクラッシュ・ロワイヤルは日本ハム時代からエンゼルス時代にわたってチームメイトや通訳者とともに遊んでいた[364][371]。
食事[ソースを編集]
好物はクレープ。ファイターズ時代にはコンビニエンスストアで生チョコクレープをよく購入していた。本人は洋菓子が大好物と語っているが、栄養管理のため比較的油分の少ない和菓子を食べるようにしているという[382]。渡米後もこしあんクレープを好んでいた[376]。
2015年4月にザバスとアドバイザリー契約を結んだ。2020年7月の報道によると、主食・主菜・野菜・果物・乳製品を揃える「栄養フルコース型」の食事で1日に4500kcalを摂取し、特にたんぱく質へのこだわりは強く、豚ヒレ肉や鶏胸肉、鶏ささみ、魚介類など、脂質が少ないものを選別するという[383]。
詳細情報[ソースを編集]
年度別投手成績[ソースを編集]
年 |
球 |
||||||||||||||||||||||||
13 |
11 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
1.000 |
274 |
61.2 |
57 |
4 |
33 |
0 |
8 |
46 |
2 |
0 |
30 |
29 |
4.23 |
1.46 |
||
24 |
24 |
3 |
2 |
0 |
11 |
4 |
0 |
0 |
.733 |
639 |
155.1 |
125 |
7 |
57 |
0 |
4 |
179 |
6 |
1 |
50 |
45 |
2.61 |
1.17 |
||
22 |
22 |
5 |
3 |
0 |
15 |
5 |
0 |
0 |
.750 |
621 |
160.2 |
100 |
7 |
46 |
0 |
3 |
196 |
9 |
0 |
40 |
40 |
2.24 |
0.91 |
||
21 |
20 |
4 |
1 |
1 |
10 |
4 |
0 |
1 |
.714 |
548 |
140.0 |
89 |
4 |
45 |
0 |
8 |
174 |
6 |
0 |
33 |
29 |
1.86 |
0.96 |
||
5 |
5 |
1 |
1 |
0 |
3 |
2 |
0 |
0 |
.600 |
105 |
25.1 |
13 |
2 |
19 |
0 |
0 |
29 |
1 |
0 |
9 |
9 |
3.20 |
1.26 |
||
10 |
10 |
0 |
0 |
0 |
4 |
2 |
0 |
0 |
.667 |
211 |
51.2 |
38 |
6 |
22 |
0 |
1 |
63 |
5 |
0 |
19 |
19 |
3.31 |
1.16 |
||
2 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
.000 |
16 |
1.2 |
3 |
0 |
8 |
0 |
0 |
3 |
1 |
0 |
7 |
7 |
37.80 |
6.60 |
||
23 |
23 |
0 |
0 |
0 |
9 |
2 |
0 |
0 |
.818 |
533 |
130.1 |
98 |
15 |
44 |
2 |
10 |
156 |
10 |
2 |
48 |
46 |
3.18 |
1.09 |
||
28 |
28 |
0 |
0 |
0 |
15 |
9 |
0 |
0 |
.625 |
660 |
166.0 |
124 |
14 |
44 |
0 |
2 |
219 |
14 |
0 |
45 |
43 |
2.33 |
1.01 |
||
NPB:5年 |
85 |
82 |
13 |
7 |
1 |
42 |
15 |
0 |
1 |
.737 |
2187 |
543.0 |
384 |
24 |
200 |
0 |
23 |
624 |
24 |
1 |
162 |
152 |
2.52 |
1.04 |
|
MLB:4年 |
63 |
63 |
0 |
0 |
0 |
28 |
14 |
0 |
0 |
.667 |
1420 |
349.2 |
263 |
35 |
118 |
2 |
13 |
441 |
30 |
2 |
119 |
115 |
2.96 |
1.09 |
2022年度シーズン終了時
各年度の太字はリーグ最高
WBSCプレミア12での投手成績[ソースを編集]
2 |
2 |
1 |
0 |
0 |
40 |
13.0 |
3 |
0 |
2 |
0 |
1 |
21 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0.00 |
太字は大会最高
年度別打撃成績[ソースを編集]
年 |
球 |
|||||||||||||||||||||||
77 |
204 |
189 |
14 |
45 |
15 |
1 |
3 |
71 |
20 |
4 |
1 |
0 |
2 |
12 |
0 |
1 |
64 |
3 |
.238 |
.284 |
.376 |
.660 |
||
87 |
234 |
212 |
32 |
58 |
17 |
1 |
10 |
107 |
31 |
1 |
0 |
0 |
1 |
21 |
0 |
0 |
48 |
4 |
.274 |
.338 |
.505 |
.842 |
||
70 |
119 |
109 |
15 |
22 |
4 |
0 |
5 |
41 |
17 |
1 |
0 |
0 |
2 |
8 |
1 |
0 |
43 |
1 |
.202 |
.252 |
.376 |
.628 |
||
104 |
382 |
323 |
65 |
104 |
18 |
1 |
22 |
190 |
67 |
7 |
2 |
0 |
4 |
54 |
2 |
1 |
98 |
7 |
.322 |
.416 |
.588 |
1.004 |
||
65 |
231 |
202 |
24 |
67 |
16 |
1 |
8 |
109 |
31 |
0 |
1 |
0 |
3 |
24 |
0 |
2 |
63 |
0 |
.332 |
.403 |
.540 |
.942 |
||
114 |
367 |
326 |
59 |
93 |
21 |
2 |
22 |
184 |
61 |
10 |
4 |
0 |
1 |
37 |
2 |
2 |
102 |
2 |
.285 |
.361 |
.564 |
.925 |
||
106 |
425 |
384 |
51 |
110 |
20 |
5 |
18 |
194 |
62 |
12 |
3 |
0 |
4 |
33 |
1 |
2 |
110 |
6 |
.286 |
.343 |
.505 |
.848 |
||
44 |
175 |
153 |
23 |
29 |
6 |
0 |
7 |
56 |
24 |
7 |
1 |
0 |
0 |
22 |
0 |
0 |
50 |
3 |
.190 |
.291 |
.366 |
.657 |
||
155 |
639 |
537 |
103 |
138 |
26 |
8 |
46 |
318 |
100 |
26 |
10 |
0 |
2 |
96 |
20 |
4 |
189 |
7 |
.257 |
.372 |
.592 |
.965 |
||
157 |
666 |
586 |
90 |
160 |
30 |
6 |
34 |
304 |
95 |
11 |
9 |
0 |
3 |
72 |
14 |
5 |
161 |
6 |
.273 |
.356 |
.519 |
.875 |
||
NPB:5年 |
403 |
1170 |
1035 |
150 |
296 |
70 |
4 |
48 |
518 |
166 |
13 |
4 |
0 |
12 |
119 |
3 |
4 |
316 |
15 |
.286 |
.358 |
.500 |
.859 |
|
MLB:5年 |
581 |
2272 |
1986 |
326 |
530 |
103 |
21 |
127 |
1056 |
342 |
66 |
27 |
0 |
10 |
260 |
37 |
13 |
612 |
24 |
.267 |
.354 |
.532 |
.886 |
2022年度シーズン終了時
各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績[ソースを編集]
年 |
球 |
||||||||||||||||||||||||
試 |
試 |
刺 |
補 |
失 |
併 |
守 |
試 |
刺 |
補 |
失 |
併 |
守 |
試 |
刺 |
補 |
失 |
併 |
守 |
|||||||
2013 |
日本ハム |
13 |
2 |
7 |
0 |
1 |
1.000 |
54 |
75 |
7 |
1 |
1 |
.988 |
- |
- |
||||||||||
2014 |
24 |
8 |
23 |
1 |
1 |
.969 |
8 |
15 |
0 |
0 |
0 |
1.000 |
- |
- |
|||||||||||
2015 |
22 |
15 |
29 |
1 |
0 |
.978 |
- |
- |
- |
||||||||||||||||
2016 |
21 |
9 |
23 |
1 |
2 |
.970 |
- |
- |
- |
||||||||||||||||
2017 |
5 |
3 |
5 |
0 |
0 |
1.000 |
- |
- |
- |
||||||||||||||||
2018 |
LAA |
10 |
1 |
6 |
0 |
1 |
1.000 |
- |
- |
- |
|||||||||||||||
2020 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
- |
- |
- |
||||||||||||||||
2021 |
23 |
11 |
6 |
1 |
0 |
.944 |
- |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
||||||
2022 |
28 |
6 |
5 |
0 |
0 |
1.000 |
- |
- |
- |
||||||||||||||||
NPB |
85 |
37 |
87 |
3 |
4 |
.976 |
62 |
90 |
7 |
1 |
1 |
.990 |
- |
- |
|||||||||||
MLB |
63 |
18 |
17 |
1 |
1 |
.972 |
- |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
2022年度シーズン終了時
タイトル[ソースを編集]
NPB
最多勝利:1回(2015年)
最優秀防御率:1回(2015年)
最高勝率:1回(2015年)
表彰[ソースを編集]
NPB
最優秀選手:1回(2016年)
ベストナイン:3回(投手部門:2015年、2016年 / 指名打者部門:2016年) ※2016年は史上初の投手部門と野手部門の同時受賞[108]、2016年は指名打者部門での平成生まれ初の受賞
正力松太郎賞:1回(2021年)※特別賞、選手として表彰
月間MVP:2回(投手部門:2015年4月、2016年6月)
年間大賞:1回(2014年)
Bi-weekly賞:1回(2014年度第2回)
札幌ドームMVP:2回(野球部門:2015年、2016年)
セ・パ交流戦 日本生命賞:1回(2016年)
オールスターゲームMVP:1回(2016年第2戦) ※指名打者として出場
オールスターゲーム敢闘選手賞:1回(2013年第3戦) ※右翼手として出場
オールスターゲームSKYACTIV TECHNOLOGY賞:1回(2013年) ※右翼手として出場
MLB
シーズンMVP:1回(2021年)※アジア人史上2人目、日本人史上2人目、1位票満票(MLB史上19人目、アジア人史上初、日本人史上初)
新人王(2018年) ※アジア人史上4人目、日本人史上4人目
シルバースラッガー賞(指名打者部門):1回(2021年)※アジア人史上2人目、日本人史上2人目[注釈 14]
コミッショナー特別表彰:1回(2021年)※アジア人史上2人目、日本人史上2人目
エドガー・マルティネス賞:2回(2021年、2022年)※アジア人史上初、日本人史上初
プレイヤー・オブ・ザ・マンス:2回(2021年6月[191]・7月) ※日本人史上3人目、複数回受賞は日本人野手史上初[384]
ルーキー・オブ・ザ・マンス:2回(2018年4月、2018年9月)
プレイヤー・オブ・ザ・ウィーク(英語版):4回(2018年4月2日 - 4月8日[137]、2018年9月3日 - 9月9日[385]、2021年6月14日 - 6月20日[386]、2021年6月28日 - 7月4日[197])
ロサンゼルス・エンゼルス最優秀選手賞:2回(2021年、2022年)
ニック・エイデンハート最優秀投手賞:2回(2021年、2022年)[387]
「ベストMLB選手」部門:2回(2021年[202]、2022年)
「最優秀男性アスリート」部門:1回(2022年[388])
年間最優秀選手:1回(2021年)
優秀選手:1回(2021年)
ファーストチーム(先発投手):1回(2022年)
ファーストチーム(指名打者):1回(2021年)※日本人選手初
セカンドチーム(先発投手):1回(2021年)
セカンドチーム(指名打者):1回(2022年)
※2021年の同時選出は史上初
国際大会
WBSCプレミア12・ベストナイン:1回(先発投手部門:2015年)
2023 ワールド・ベースボール・クラシック 一次リーグB組 MVP
その他表彰
報知プロスポーツ大賞:2回(2014年、2016年)
日本プロスポーツ大賞:3回(2016年、2018年、2022年)※2022年は殊勲賞
ビッグスポーツ賞:2回(2018年、2021年)※2018年はテレビ朝日スポーツ放送大賞
新語・流行語大賞 年間大賞『リアル二刀流/ショータイム』(2021年)[392]
大賞:1回(2021年)
アスリート部門:1回(2021年)
ナンバーMVP賞:2回(2016年、2021年)
フォーブス30アンダー30:1回(2021年)
#Twitterトレンド大賞 スポーツ部門賞:1回(2021年)
朝日スポーツ賞:1回(2021年)
記録[ソースを編集]
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NPB[ソースを編集]
初記録
投手記録
初登板・初先発登板:2013年5月23日、対東京ヤクルトスワローズ2回戦(札幌ドーム)、5回2失点で勝敗つかず
初奪三振:同上、2回表にウラディミール・バレンティンを空振り三振
初勝利・初先発勝利:2013年6月1日、対中日ドラゴンズ4回戦(札幌ドーム)、5回3失点[393]
初完投勝利・初完封勝利:2014年5月13日、対埼玉西武ライオンズ7回戦(函館市千代台公園野球場)、9回9奪三振
初ホールド:2016年7月24日、対オリックス・バファローズ15回戦(札幌ドーム)、6回表に2番手で救援登板、1回無失点
打撃記録
初出場・初先発出場:2013年3月29日、対埼玉西武ライオンズ1回戦(西武ドーム)、8番・右翼手で先発出場[55]
初安打:同上、5回表に岸孝之から右線二塁打[55]
初打点:同上、6回表に岸孝之から右前適時打[55]
初盗塁:2013年6月29日、対埼玉西武ライオンズ11回戦(札幌ドーム)、6回裏に二盗(投手:十亀剣、捕手:上本達之)
初本塁打:2013年7月10日、対東北楽天ゴールデンイーグルス10回戦(koboパーク宮城)、4回表に永井怜から右越2ラン
その他の記録
1試合16奪三振:2014年7月9日、対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(楽天Koboスタジアム宮城) ※球団タイ記録、20歳0か月での16奪三振以上はNPB最年少記録、球界では2011年田中将大以来18人目(20度目)
毎回奪三振:同上、球団史上10人目
クライマックスシリーズ最年少勝利投手(20歳3か月):2014年クライマックスシリーズファーストステージ第1戦
セーブ:2016年10月16日、対福岡ソフトバンクホークス 2016年クライマックスシリーズファイナルステージ第5戦(札幌ドーム)、9回表に5番手で救援登板、1回無失点 ※公式戦も通じての初セーブ
シーズン2桁本塁打と2桁勝利:2014年 ※NPB史上初(MLBを含めるとベーブ・ルース以来96年ぶり)
シーズン2桁本塁打と2桁勝利:2016年 ※自身2度目(2度目の達成はMLBなど世界のプロリーグを含めても史上初)
シーズン10勝・20本塁打・100安打:2016年 ※NPB史上初(MLBなど世界のプロリーグを含めても史上初)
オールスターゲーム出場:5回(外野手選出:2013年、投手選出:2014年 - 2016年、指名打者選出:2017年) ※2016年は投手での選出だったが、怪我(右手中指のマメが潰れた)により指名打者での出場となった。
MLB[ソースを編集]
初記録
投手記録
初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利:2018年4月1日、対オークランド・アスレチックス4回戦(オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム)、6回3失点
初奪三振:同上、1回裏にマーカス・セミエンから空振り三振
打撃記録
初出場・初先発出場:2018年3月29日、対オークランド・アスレチックス1回戦(オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム)、8番・指名打者で先発出場
初打席・初安打:同上、2回表にケンドール・グレーブマンから右前安打
初本塁打・初打点:2018年4月3日、対クリーブランド・インディアンス2回戦(エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)、1回裏にジョシュ・トムリンから右越3ラン
初盗塁:2018年5月23日、対トロント・ブルージェイズ2回戦(ロジャーズ・センター)、9回表に二盗(投手:タイラー・クリッパード、捕手:ラッセル・マーティン)
節目の記録
100本塁打:2022年5月14日、対オークランド・アスレチックス2回戦(オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム)、5回表にアダム・オラーから中越2ラン ※日本人史上3人目、459試合での到達は日本人史上最速[394]
その他の記録
サイクル安打:2019年6月14日、対タンパベイ・レイズ1回戦、7回表に中前安打で達成[395] ※アジア人史上2人目、日本人史上初、DHではMLB史上6人目
「2番・投手」出場:2021年4月4日、対シカゴ・ホワイトソックス4回戦(エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム) ※1903年9月7日のジャック・ダンリービー(英語版)以来118年ぶり史上3人目[396]
本塁打数MLBトップの選手が先発登板:2021年4月26日、対テキサス・レンジャーズ4回戦(グローブライフ・フィールド)、5回4失点 ※1921年6月13日のベーブ・ルース以来、100年ぶり[397]
同一シーズンで勝利投手と先頭打者本塁打を記録:2021年6月26日、対タンパベイ・レイズ5回戦(トロピカーナ・フィールド)、「1番・DH」として出場し、初回先頭打者本塁打 ※1891年のジミー・ライアンとキッド・マデン以来、130年ぶり[398]
シーズン39本塁打:2021年8月14日、対ヒューストン・アストロズ戦(エンゼルススタジアム)、1回裏にルイス・ガルシアから先頭打者本塁打 ※レジー・ジャクソンと並び球団タイ記録(左打者)
シーズン40本塁打:2021年8月18日、対デトロイト・タイガース戦(コメリカ・パーク)、8回表にホセ・シスネロから右越ソロ ※球団記録(左打者)
投手でシーズン20盗塁:2021年8月28日、対サンディエゴ・パドレス戦、5回裏に二盗 ※20世紀以降初、球団初の40本塁打&20盗塁
シーズン45本塁打&25盗塁:2021年9月28日、対テキサス・レンジャーズ戦(グローブライフ・フィールド) ※MLB史上6人目[399]、ア・リーグ史上2人目
シーズン185三振:同上、1回表に空振り三振 ※球団記録
シーズン100得点:同上、6回表にジャック・メイフィールドの中前適時打で達成 ※日本人選手史上3人目
シーズン45本塁打&25盗塁&100得点:同上 ※ア・リーグ史上初
トリプル150:2022年9月27日、対アスレチックス戦、初回にシーズン150安打を達成し、投手では153投球回、203奪三振をマーク ※両リーグ史上初
トリプル160:2022年10月5日、対アスレチックス戦、初回にシーズン160安打を達成し、投手では166投球回、219奪三振をマーク ※両リーグ史上初(この試合で近代MLB史上初となる規定打席&規定投球回のダブル規定に到達)
MLBオールスターゲーム選出:2回(2021年、2022年)
オールスターゲームに投打同時選出:2021年 ※史上初。ファン投票選出のア・リーグ指名打者部門に続き、同先発投手部門でも選手間投票で選出された[196]。
NPB/MLB通算[ソースを編集]
節目の記録
100本塁打:2021年4月21日、対テキサス・レンジャーズ3回戦(エンゼル・スタジアム)、3回裏にマイク・フォルテネービッチから右越ソロ
150本塁打:2022年5月22日、対オークランド・アスレチックス7回戦(エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)、1回裏にコール・アービンから中越ソロ[400]
1000奪三振:2022年8月9日、対オークランド・アスレチックス12回戦(オークランド・コロシアム)、3回裏にジョナ・ブライドから空振り三振[401]
球速に関する記録[ソースを編集]
165km/h
2016年10月16日、対福岡ソフトバンクホークス クライマックスシリーズ ファイナルステージ第5戦(札幌ドーム)※NPBプレーオフ最速記録、パ・リーグ最速記録
164km/h
2016年9月13日、対オリックス・バファローズ22回戦(札幌ドーム)※先発投手最速記録
101.9
mph
2021年3月21日、対サンディエゴ・パドレスオープン戦(ピオリアスタジアム)[402] ※MLB日本人選手最速記録
163km/h
162km/h
2014年7月19日、2014年オールスターゲーム第2戦(阪神甲子園球場)※オールスターゲーム最速
2014年10月5日、対東北楽天ゴールデンイーグルス24回戦(札幌ドーム)
160km/h[注釈 15]:2014年6月4日、対広島東洋カープ2回戦(札幌ドーム) ※パ・リーグ初の160km/h
背番号[ソースを編集]
11(2013年 - 2017年)
17(2018年 - )
16(2015年プレミア12、2023年WBC)
登場曲[ソースを編集]
「ドリームメイカー」TRIPLANE(打席時、2013年)
「The
Power Of Love」Huey Lewis & The News(登板時、2013年)
「Party Maker」Perfume(登板時、2014年 - )
「DAN DAN 心魅かれてく」FIELD OF VIEW(登板時、2015年 - )
「Do or
Die(Remix)」Afrojack(登板時、2015年 - )
「WRAPPED
UP FEAT.TRAVIE McCOY」OLLY MURS(打席時、2015年 - 2018年)
「ファッションモンスター」きゃりーぱみゅぱみゅ(2018年 - )
「Showtime」Lil Wayne(得点圏時、2018年 - )
「LOST IN
PARADISE feat. AKLO」ALI(打席時、2021年 - )
「The
Greatest Show」(打席時、2022年 ー)
「Twinbow」Slushii×Marshmello(奇数打席時、2022年 ー)
代表歴[ソースを編集]
ロサンゼルス・エンゼルス(英語: Los
Angeles Angels、略称: LAA)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州アナハイム。本拠地球場はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム。一部ではエンジェルスと表記される。愛称は光の輪(halo:ヘイロウ)を意味するHalos(ヘイロウズ)[1]。
概要[編集]
経営[編集]
1997年から2003年まではウォルト・ディズニー・カンパニーが経営に携わっていた。2002年のワールドシリーズ初制覇時の優勝パレードは、同じアナハイムにあるディズニーランドで行われた[2][3]。
2003年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任[3]。モレノはチケット、ビールの値下げ、家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し、ファン層の拡大にも力を注いだ。試合中はホーム球場であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムを歩き回り、ファンと積極的にコミュニケーションをとっている姿が見られる。その効果もあってか、2004年以降はレギュラーシーズンの平均観客動員数は4万人を超えるようになり、スタンドはチームカラーの赤に染まる。現在では、シーズン入場者数は330万人から340万人程度を推移しており、メジャーでも上位の人気を誇っている。チームの価値も上昇し、現在[いつ?]は2003年当時の買収額である約1億8000万ドルから約3億6800万ドルほどになったといわれる。また、広域的にも広告利益が期待できかつアナハイムを含むロサンゼルス地域に根ざした野球チームを目指すという観点から「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に変更した。この名称変更に関して、地元ファンやアナハイム市は球団の態度に不快感を示すとともに、1996年に球団と市の間に交わされたアナハイムの名を明示的にチーム名に入れるとする契約に反するとして訴訟にまで発展した。
後に球団側が勝訴し、現在では既に「ロサンゼルス・エンゼルス」という名前が浸透している他、2016年には球団創設時の名称である「ロサンゼルス・エンゼルス」へ正式に改称した。
ラリー・モンキー[編集]
マスコットキャラクターのラリー・モンキーが人気を集めている。ラリー・モンキーとは直訳すると「逆転猿」という意味で、ラリー・モンキーが現れるのは6回以降でチームが負けているか、同点の時のみであり、ラリー・タイムと称してスコアボードの大画面にラリー・モンキーの跳ね回る姿が映し出される。2000年頃からこの猿が登場し、不思議とチームも逆転勝利を収めるようになったことから、ラリー・モンキーと名づけられ、現在では球場の名物として定着している。
移転問題[編集]
本拠地エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムの老朽化に加え、2022年にアナハイム市長が収賄容疑で逮捕された経緯も相まって、ロングビーチへの移転が噂されている。
球団の歴史[編集]
球団創設[編集]
戦前までMLB球団は東海岸に集中していたため、ロサンゼルスなどの大都市を抱える西海岸へのMLB球団の移転の話はたびたび持ち上がっていた。初めにこれを検討したのがアメリカンリーグで、1940年にセントルイス・ブラウンズ(現・ボルチモア・オリオールズ)がロサンゼルスへの移転を計画した。しかし1941年の末に太平洋戦争が勃発したため、戦場となる可能性のあった西海岸でのプロスポーツの開催が困難となり、この計画は頓挫した。1953年にはブラウンズが再びロサンゼルスへの移転を計画したが、球団自体が売却されたことで代わりにボルチモアへ移転することとなった。その後ワシントン・セネタース(現・ミネソタ・ツインズ)やフィラデルフィア・アスレチックス(現・オークランド・アスレチックス)といった球団もロサンゼルスへの移転を計画したが、どれも実行はされなかった。
1957年にナショナルリーグのブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)がロサンゼルスに移転し、戦後初めて西海岸にMLB球団が誕生した。また同年にはニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)も西海岸に移転する。ドジャースとジャイアンツは初年度から多くの観客を集め、興行的に大きな成功を収めた。そのため、アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが再度検討され、1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画(エクスパンション(英語版))に基づき、ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使たち = the angels」から採り、これにロサンゼルスを冠して「ロサンゼルス・エンゼルス」となった。こうしてエンゼルスはその歴史を歩み始める。
アナハイムへの移転[編集]
1961年は初年度となったシーズンは70勝91敗でリーグ8位(10球団中)に終わった。しかしこれは戦後の新設球団の成績の中では最も良いものだった。初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが、2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りする。2年目には86勝76敗で早くも勝ち越し、リーグ3位に食い込んだ。なお、この年の5月5日のオリオールズ戦ではボー・ベリンスキーがエンゼルス初のノーヒットノーランを達成している。
1964年には82勝80敗で再び勝ち越し。この年にはディーン・チャンスが防御率1.65・20勝9敗を記録し、エンゼルスでは初の個人タイトルとなるサイ・ヤング賞を獲得している。
しかしこうしたチームの好成績とは裏腹に観客数は伸び悩んだ。1962年から1965年までの4年間の合計観客数は300万人程で、同じ本拠地のドジャースと比べても半分以下だった。そのため間借りしているドジャー・スタジアムの賃貸料は割高となり、新球場の建設の必要性は明らかだった。1966年にロサンゼルス南郊のアナハイムにアナハイム・スタジアム(現・エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成し、チームもアナハイムへ移転。球団名も「カリフォルニア・エンゼルス」と改称した(州名を冠したのはミネソタ・ツインズに続き2球団目)。移転の効果は抜群で、1965年には57万人程だった観客数も移転した初年度には140万人を記録している。1968年からはア・リーグ西地区に所属。しかし1970年代後半まで負け越しのシーズンが続き、なかなか優勝には手が届かなかった。
初の地区優勝(1979年)[編集]
1972年はニューヨーク・メッツからトレードでノーラン・ライアンが移籍。当時のライアンは持ち前の豪速球には凄まじいものがあったが、制球に苦しみ、なかなか活躍できない状況が続いていた。しかしエンゼルスに移籍するや否や防御率2.28・19勝16敗・329奪三振という活躍をみせる。
1973年にはサンディー・コーファックスが1965年に記録したシーズン382奪三振を抜くシーズン383奪三振を記録。翌年以降も毎年20勝前後を挙げ、エンゼルスで4度のノーヒットノーランを達成するなど、MLBを代表する投手へと成長する。
1978年のシーズン途中にジム・フレゴシが36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍したライマン・ボストックが射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えてロッド・カルー、ドン・ベイラー、ボビー・グリッチらを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは首位打者こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグMVPに輝いた。続くリーグチャンピオンシップシリーズではアール・ウィーバー率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。
1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年にはNFLのロサンゼルス・ラムズがアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。
1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、50日間に及ぶストライキで短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で本塁打王に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。
2度の地区優勝(1982年、1986年)[編集]
1982年にニューヨーク・ヤンキースからレジー・ジャクソンが移籍。前年は15本塁打と不調だったジャクソンだが、エンゼルスに移籍するや復活、39本塁打を放ち本塁打王に輝いた。また、チームもジャクソンの活躍もあり、93勝69敗で2度目の地区優勝を果たす。続くリーグチャンピオンシップシリーズではミルウォーキー・ブルワーズと対戦。第1戦、第2戦と勝利し、リーグ優勝に王手をかけたが、その後2連敗。迎えた最終戦では7回まで3対2とリードしていたものの、7回裏に逆転を許してしまい、結局3対4で敗れた。その後、1983年は5位、1984年と1985年は2年連続でカンザスシティ・ロイヤルズに次ぐ2位に終わった。1984年9月30日にマイク・ウィットがMLB史上11人目の完全試合を達成している。
1986年にウォーリー・ジョイナーとチャック・フィンリーがメジャーデビュー。特にジョイナーは打率.290・22本塁打・100打点を記録し、新人王候補に名を連ねた(新人王は33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコ)。この年にはウィットを中心とした投手陣も抜群の安定感を誇り、92勝70敗で3度目の地区優勝に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではボストン・レッドソックスと対戦。先に3勝をあげてリーグ優勝に王手をかけ、第5戦でもエンゼルスが8回まで5対2とリードし、優勝は目前と思われた。しかし9回表に、ここまでレッドソックス打線を抑えていた先発のウィットが、元エンゼルスのベイラーに2ランホームランを打たれ、5対4と追いすがられる。代わったゲイリー・ルーカスがリッチ・ゲドマンに死球を与えて出塁。ここでたまらず抑えのドニー・ムーアを登板させるが、デーブ・ヘンダーソンを2ストライクと追い込みながら、粘られた末に2ランホームランを打たれ、5対6と逆転された。結局、9回裏にエンゼルスが1点を返して延長戦に突入するも、11回表にヘンダーソンに決勝の犠牲フライを放たれ、まさかの逆転負けを喫した。これによって流れが完全にレッドソックスに傾き、続く第6戦、第7戦と連敗、またしてもリーグ優勝を逃した(なお、ナショナルリーグはニューヨーク・メッツが優勝したため、エンゼルスが勝っていれば史上初の「エクスパンションチーム同士によるワールドシリーズ」になるところだった)。ムーアは1988年にエンゼルスを解雇され、翌1989年に拳銃自殺するという悲劇も起こっている。
1990年代[編集]
1993年にサーモンが打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。
1994年はギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。
1995年にアンダーソンは打率.321、16本塁打、69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。特に1995年は8月2日の時点で2位のシアトル・マリナーズに13ゲームもの大差をつけたが、その後失速して同率首位に並ばれ、ワンゲームプレーオフではマーク・ラングストンの乱調で1-9と大敗し地区優勝を逃した。その1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLのアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。球団名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。
2000年代[編集]
2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グロースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。
2001年にもグロースは41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。
2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では弱冠20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ドネリー、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ優勝を成し遂げた。
2003年のシーズンオフにヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。
2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、4度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたレッドソックスに3連敗を喫した。
2005年には、球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ優勝を果たしたシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。
2006年は2位に終わった。
2007年は2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫た。
2008年はエースのジョン・ラッキーやケルビム・エスコバーを開幕から欠き苦戦が予想されたが、前年不調だったアービン・サンタナと8勝を挙げたジョー・ソーンダースが開幕から最多勝争いに絡む大活躍。新加入のジョン・ガーランドや前年2桁勝利のジェレッド・ウィーバーも期待通りの活躍を見せ、5月には既に独走態勢に入っていた。ラッキーも復帰後は好投を見せ、結局ローテーション投手全員が10勝を成し遂げた。打線もFAで加入のトリー・ハンターや8月にトレードで加入したマーク・テシェイラがクリーンナップに座り、元来のスモールベースボールを軸とした安定した攻撃力を保った。チームは勢いそのままに9月上旬に早くも2年連続の地区優勝も打ち立てた。また、チームが圧倒的に勝ちを重ねる状況もあり、クローザーフランシスコ・ロドリゲスは開幕から驚異的なペースでセーブを稼ぎ、セーブのシーズン記録を更新した。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックス相手に1勝3敗とまたも苦杯、オフにはロドリゲスとテシェイラがFAで退団した。
2009年もラッキーやサンタナ、エスコバーをはじめとする先発投手陣に故障が相次ぎ困難なスタートとなった。将来有望な若手投手であるニック・エイデンハートに期待が集まったが、4月8日の登板後に交通事故で死去するという衝撃的な出来事が起きる。このニュースは全米でも大きく取り上げられ、翌日の試合は中止になった。その後、レイズのエースだったスコット・カズミアーをトレードで獲得することでローテーションを再建。主軸を担うようになったケンドリス・モラレスの活躍や復帰したサンタナの好投もあり3年連続の地区優勝を達成した。地区シリーズでは3年連続でレッドソックスとの対戦となったが、3連勝で2007年&2008年の雪辱を果たした。リーグチャンピオンシップはヤンキースと争ったが、2勝4敗で敗退しワールドシリーズ進出はならなかった。オフにはヤンキースからFAとなった松井秀喜を獲得した。
2010年代[編集]
2010年は、不可もない成績で開幕のスタートを切った。ところが5月29日のマリナーズ戦で満塁サヨナラホームランを放った主砲のモラレスが喜びのあまりジャンプしてホームベースに着地した際、バランスを崩し転倒して左足下腿部を骨折した。結局、モラレスは残りのシーズンを棒に振ることになった。また、開幕当初は4番を務めた新戦力の松井も期待された成績を挙げられず、7月にダン・ヘイレンをトレードで獲得すると強力な投手陣の下で後半戦に追い上げを見せた。しかし得点力不足が響き、80勝82敗にとどまり地区3位でシーズンを終えた。
2011年は地区2位ながらも優勝したレンジャーズから10ゲーム差も離された。実質1年目のマーク・トランボが29本塁打でブレイクした。オフにはセントルイス・カージナルスからFAとなっていたアルバート・プホルスを10年2億5400万ドル、レンジャーズからFAとなっていたC.J.ウィルソンを5年7750万ドルで獲得した。シーズンでは7月8日にプロスペクトだったマイク・トラウトがメジャーデビューを果たした。
2012年はジェレッド・ウィーバーが自己最多の20勝で最多勝のタイトルを、史上初となる新人での30-30を達成したトラウトが新人王のタイトルを獲得するも、89勝73敗で地区3位に終わった。
2013年オフにはトラウトと2019年までの6年総額1億4450万ドルで契約を延長し、チームの中心に据えた。
2014年は、5年振りに地区優勝を決めた[4]。また、実質1年目のマット・シューメーカーが16勝で大ブレイクした。
2015年は、5月5日のマリナーズ戦でメキシコ民族衣装のソンブレロ帽子をかぶった人数でギネス世界記録を達成した[5]。オフには正遊撃手としてトレードでアンドレルトン・シモンズの獲得に成功する。
2016年は球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス」に戻した。オフには正捕手としてトレードでマーティン・マルドナードを獲得した。
2017年シーズン途中にトレードでジャスティン・アップトンを獲得した。オフには日本プロ野球の北海道日本ハムファイターズからポスティングシステムでMLB挑戦を目指した大谷翔平を獲得した[6]。レッズからFAとなっていたザック・コザートを獲得し、三塁手にコンバートした。正二塁手としてタイガースとのトレードでイアン・キンズラーを獲得した。
2018年4月13日の開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ、1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切った。開幕からの敵地9試合で8勝1敗は球団史上初で、敵地8連勝は2014年9月以来4年ぶりとなった[7]。4月14日にカンザスシティ・ロイヤルズに勝ち、開幕16試合での13勝3敗で球団新記録となった[8]。しかし、チームは故障者続出もあり地区4位に低迷、ポストシーズン進出を逃し、80勝82敗でシーズンを終了した。9月30日に2000年から指揮を執っていたマイク・ソーシア監督が同年限りでの退任を発表。同一球団を率いる期間は現役監督最長の19年目だった[9]。オフの10月22日にブラッド・オースマスが監督に就任した[10]。
2019年はシーズン開幕前の3月20日にトラウトと2020年までの2年総額6650万ドルの契約に10年総額3億6000万ドルを上乗せする形で当時北米4大プロスポーツ史上最高額となる12年総額4億2650万ドルで契約延長し、平均年俸3554万ドルはMLB史上最高額となった。契約には全球団へのトレード拒否権が含まれている一方でオプトアウトは含まれておらず、事実上の「生涯契約」となった[11]。シーズンでは7月1日にテキサス・レンジャーズ戦に向けた遠征の際に宿泊先のホテルでタイラー・スカッグスが意識不明の状態で発見され、その後死亡が確認された[12]。7月12日に本拠地エンゼル・スタジアムでのマリナーズ戦でスカッグスの追悼試合が行われ、この試合でテイラー・コール(英語版)、フェリックス・ペーニャの2投手による継投でのノーヒットノーランを達成した。球団では史上11度目。また、オープナーでの初の達成となった[13]。だが、チームは右膝を痛めたアップトンや左膝の手術を受けた大谷に続いてトラウトも右足の手術で離脱と、シーズン終盤に主力選手の故障者が続出。先発投手のチーム防御率が5.64とMLB30球団中29位と大きく苦しんだ。それまでも絶望的だったポストシーズン進出が完全に消滅。72勝90敗と大きく負け越し、地区4位でシーズンを終えた[14]。9月30日に同年から監督に就任していたオースマスを解任したことを発表した。わずか1年での解任となり、2年の契約を残していたが、チームとして20年ぶりに90敗を喫するという屈辱となり、球団が解任を決断。なお、2000年から2018年まで指揮を執った前任のマイク・ソーシアは最大でも88敗(2016年)だった。オフの10月19日に球団は22代目の監督として、過去にエンゼルスで代理監督を2回務め、MLB最優秀監督賞を3度獲得した(2020年シーズン終了時)MLB屈指の知将、ジョー・マドンと3年契約を結んだと正式に発表した[15]。
2020年代[編集]
2020年オフにシモンズが契約満了で退団。その一方でオリオールズとのトレードでホセ・イグレシアス、レッズとのトレードでライセル・イグレシアスを獲得した。
「2021年のロサンゼルス・エンゼルス」も参照
2021年はシーズン開幕前にカブスからFAとなっていたホセ・キンタナを、オリオールズとのトレードでアレックス・カッブを獲得した。一方で開幕前にタイ・バトリーが現役を引退した。オールスターゲームにはチームからトラウト、大谷、ジャレッド・ウォルシュが選出された。トラウトは怪我で辞退したものの、大谷とウォルシュは出場した。 最終的に77勝85敗の地区4位の成績に終わった。大谷が9勝46本塁打100打点の活躍で満票でのMVPを獲得した。
2022年は開幕直後から投打が噛み合い、5月9日にはリーグ最速タイで20勝に到達。翌10日のレイズ戦でリード・デトマーズが球団史上12回目(継投による達成を含む)、新人では史上24人目、MLB史上251人目のノーヒットノーランを達成するなど、5月16日時点で24勝13敗と好調だったが、5月26日のレンジャーズ戦から6月9日のレッドソックス戦にかけてチームワーストを更新する14連敗を喫して貯金を全て吐き出す[16]と、責任を取る形でジョー・マドン監督が辞任し代行監督としてフィル・ネビンコーチが指揮を取ることに。8月2日、投打の主力だったノア・シンダーガードとブランドン・マーシュをフィラデルフィア・フィリーズに、守護神ライセル・イグレシアスをアトランタ・ブレーブスに交換トレードで放出した。8月10日には、大谷がアスレチックス戦にて二桁勝利・二桁本塁打を達成した。8月23日の試合前にアルトゥーロ・モレノオーナーが球団の売却先を検討していることを発表した [17]。 最終的にチームは73勝89敗で地区3位に終わったが、大谷は最終戦でMLB史上初となる規定投球回(162回)、規定打席(502打席)に同時到達[18]し、投手としては防御率2.33(リーグ4位)、15勝(リーグ4位)、219奪三振(リーグ3位)、奪三振率11.87(リーグ1位)、野手としても160安打(リーグ14位)を放って自身最高を更新したほか、打率.273(リーグ25位)、34本塁打(リーグ4位)、95打点(リーグ7位)、OPS.875(リーグ5位)と好成績を残した。トラウトも規定打席には3打席不足だったものの、リーグ2位の40本塁打、リーグ3位相当のOPS.999をマーク。ルイス・レンヒフォとテイラー・ウォードの2人も初めて規定打席に到達し、飛躍を遂げた。一方で打線は7月3日のアストロズ戦で延長戦を除くとMLB史上最多の20被三振を喫し、シーズンでもリーグワーストの1539三振を喫するなど全体としては不調で、投手陣もチーム防御率こそ3.77(MLB11位)と前年の4.69から大きく良化させたものの、大谷に次ぐ勝ち頭がホセ・スアレスの8勝にとどまり、救援陣も5月以降に軒並み不調に陥り、その後はジミー・ハーゲットの台頭もあって持ち直したものの救援防御率はMLB18位の3.97と微妙な成績に終わった。
永久欠番[編集]
番号 |
選手 |
ポジション |
備考 |
11 |
ジム・フレゴシ (Jim Fregosi) |
遊撃手、監督 |
1998年指定 |
26 |
球団創設者 |
1982年指定(著名な歌手) |
|
29 |
ロッド・カルー (Rod Carew) |
一塁手、コーチ |
1991年指定 |
30 |
ノーラン・ライアン (Nolan
Ryan) |
投手 |
1992年指定 |
42 |
ジャッキー・ロビンソン (Jackie
Robinson) |
二塁手 |
全球団共通の永久欠番(1997年指定) |
50 |
ジミー・リース (Jimmie Reese) |
コーチ |
1995年指定 |
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