日本の凄い神木  地球の歩き方  2023.3.20.

 2023.3.20. 日本の凄い神木

 

著者 本田不二雄/地球の歩き方編集室

 

発行日           2022.11.8. 初版第1刷発行

発行所           地球の歩き方 (発売元 Gakken) (旅の図鑑シリーズ)

 

 

驚異の樹神七柱

1.   魂を抜かれるほどの巨樹――杉の大杉 高知県大豊町

国指定特別天然記念物。樹齢3000(『日本書紀』にスサノオ尊がこの国に初めてスギを植えたとの記載による)、幹回り15m(南大杉)/11.4m(北大杉)、樹高57m

 

杉の大スギは、高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育しているスギ巨木である。推定の樹齢3000年以上といわれ、1924年には国の天然記念物1952年には国の特別天然記念物に指定された。根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来から信仰の対象となっていた。大豊町(旧大杉村)出身の軍人山下奉文は、この木に因んで「巨杉」(きょさん)という雅号を使用していた。著名人の参拝記録が多く、幕末には山内容堂坂本龍馬2次世界大戦後には美空ひばりなどがこの木を訪れている。特にひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された。

由来[編集]

この木は素戔嗚尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる。古文書には、10世紀初めの延喜12年(912年)に京都から来た杉本太郎義家という武士が、木の根元に祇園牛頭天王貴船大明神行基菩薩の三尊像を祀ったとの伝承が記されている。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ」、「南大スギ」と呼ばれる。

2本のうちでは南大スギの方がやや大きく、根周りが約20メートル、樹高が約60メートルあり、日本最大のスギとされる。北大スギは根周りが約16.5メートル、樹高が約57メートルあり、岐阜県郡上市に生育する国の特別天然記念物「石徹白の大スギ」に匹敵する巨木である。このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ。受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状をなしている。

所在地の大字である杉、旧自治体の大杉村、そして土讃線大杉駅の名前は全てこのスギに由来する。高知県出身で詩人・随筆家として名を残す大町桂月は、「千早振る 神代の昔しのばれる 雲井にあおぐ 二本の杉」とこのスギの偉容を称えた。

旧大杉村出身の軍人で、「マレーの虎」と呼ばれた山下奉文は、このスギにちなんで「巨杉」の雅号を使用した。第2次世界大戦後、八坂神社の宮司は境内に山下を祀る「巨杉神社」を建立した。一時この神社は荒廃していたが、その後「巨杉の杜」と名称を改めている。

19474月、当時9歳の美空ひばりは公演旅行中に交通事故に遭い、大豊町で療養していた。1か月後、高知の病院に転院することになったひばりは、八坂神社に参拝して杉の大スギに「日本一の歌手にしてください」と願いをかけた。ひばりは14歳のときに当時世話になった人々へのお礼を兼ねて大豊町を再訪し、このスギに参拝している。その縁によって、大豊町はひばり没後の1993年に「大杉の苑」を整備して、遺影碑と歌碑を建立した。遺影碑には大豊町再訪時の14歳だったひばりの姿が刻まれ、そばに立つとオートサウンドシステムによって『悲しき口笛』など3曲が流れる。歌碑には作詞者の秋元康と作曲者の見岳章の直筆による『川の流れのように』の歌詞と楽譜が記されている。

杉の大スギは1954926日の台風9号、1970821日の台風10号によって大枝が折れるなどの被害を受けた。とりわけ1954年に大枝が折損したときは、枝1本でトラック7台分になるほどであった。近年の観光客増加によって根元付近の踏み付けによる樹勢の衰えが懸念されるため、高知県や文化庁の援助のもとに大豊町が保護対策を行い[5]、施設整備協力費としてこのスギやひばりの歌碑を観覧する観光客から大人1人につき200円を徴収している。

杉の大スギは1924129日に国の天然記念物に指定され、第2次世界大戦後の1952329日には、特別天然記念物に改めて指定された。1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」にも選定されている。

 

 

2.   神社・寺院境内の御神木――蒲生のクス 鹿児島県姶良市

国指定特別天然記念物。樹齢1600年、幹回り24.2m、樹高30m

蒲生八幡神社の御神木で、地元では「おおくすどん」と呼ばれている

幹の南西側にウロ(空洞)があり、木製のドアが設えられている

 

蒲生のクス(かもうのクス)は、鹿児島県姶良市蒲生町上久徳の蒲生八幡神社境内にあるクスノキ巨木である。

概要[編集]

高さ約30メートル、地上から1.3メートルの高さでの幹周は24.2メートルで、根回り33.5メートル、幹の中には広さ約13平方メートル(8畳分)の空洞があり、樹齢は約1500年と推定されている(平成23年(2011)現在)。昭和63年(1988)に行われた環境庁による巨樹巨木調査(昭和63年度)において日本最大の巨木と認定されている。蒲生の大楠・蒲生の大クスという表記もみられる。

歴史[編集]

宇佐八幡宮神託事件で大隅へ配流された和気清麻呂が当地を訪れ、手にしていた杖を地に刺したものが根付いたものと伝えられ(杖立て伝説)、蒲生舜清が蒲生八幡神社を創建した保安4年(1123)の時点で既に神木として祀られていたともされているので[1]、当時から相当の大木であったと考えられている。永正3年(1506)正月7日に八幡の森で発生した火災が延焼し枝の一部を焼失した。

大正2年(1913)に発表された「大日本老樹番付」で東の横綱とされ、同1138日には天然記念物に、昭和27年(1952329日には特別天然記念物に指定されている。昭和60年(1985831日、台風13の強風のため多くの枝葉を失ったが町民の保護活動によって復活している。

なお、同県出水市の市指定天然記念物である「出水の大楠」とは相思の仲で、この両樹に纏わる悲恋物語も伝えられている[1]

 

 

 

3.   神様、仏様になった御神木――岩倉の乳房杉 島根県隠岐の島町

樹齢800年、幹回り15.6m、樹高30m

 

お社も何もない岩倉神社の御神体

地上数メートルのところから夥しい数の幹を分岐させ、大小24もの乳房(下垂根)”を垂らす、尋常ならざる樹相。斜面を覆い尽くす火山岩(玄武岩)の隙間から豊富な地下水で冷やされた蒸気が噴出し、それが対馬海流の暖気とぶつかって多く霧を発生させる。その空気中に滞留する水分を吸収するために、もう1つの根が発達したという。

古来この島では、山域最大のスギを神木としてまつる伝統があったが、100年ほど前に以前は別の場所にあった「岩倉の神木」が忽然と姿を消し、捜索した里人らが大満寺山麓で「形の変わった大杉」を発見、代わりに山の神として祀られるようになったという

 

隠岐・島後の最高峰である大満寺山(標高400m)、うっそうとした森の中にたたずむ杉の巨木です。

あたりは岩の隙間から地中のひんやりとした空気が吹き出して夏でも涼しく、雨が上がった後はまるでジブリの世界のような神秘的な雰囲気がただよいます。

樹齢800年の古杉で、根まわりが約16m、地上3mのところで15に分岐しています。地上10m位のところからは、20数個の巨大な鍾乳石状の乳根が下がって、長いもので2.6mにも達しています。

地元の人々は、これを乳房杉と呼び、毎年423日にはご神木として祭りを行います。

 

 

4.   願いを託し、御利益をいただく――來宮神社の大楠 熱海市

国指定天然記念物。樹齢2000年以上、幹回り23.9m、樹高20m

 

熱海 來宮神社-きのみやじんじゃ

全国四十四社のキノミヤジンジャの総社

天然記念物『大楠』

日本屈指のパワースポット。
生命力に満ち溢れている大楠をご体感下さい。
 健康長寿・心願成就
 幹を1周廻ると寿命が1年延命する伝説
 心に願いを秘めながら1周すると願い事が叶う伝説

 樹齢2100年以上という長い歴史のなかで、多くの人々が、この大楠から神徳(しんとく)と恵みを戴いて助け導かれて来た事でしょう。
 悩みを抱えたり、願いを叶えたいとき、大楠の前で手を合わせ祈り、自分自身をも見つめ直す良い機会と成ります。今でも年回通じて、幾度となくお参りをされている参拝者が跡を絶えません。

第一大楠

天変地異にも耐えた二千百年

 二千百年の樹齢にあやかり、古くからこの大楠を一廻りすると一年寿命が延びると伝えられています。
 また、願い事のある人は思うことを誰にも云わず一廻りすると願い事がまとまるとも伝えられています。

キノミヤ信仰

 古代の日本民族は、大きな木、岩、滝など巨大な自然創造物に神々が宿っていると信じ、其の自然創造物の前で祭祀を行い、感謝し祈りを捧げる神籬磐境信仰を持っておりました。
 時が流れ建物の文化が進み、それらを中心に社殿、鳥居が建立され神社が形成されたといえます。
 熱海鎮座の来宮神社は江戸末期まで『木宮明神』と称し、現在の『来宮』ではなく、『木宮』の字で古文書等記されております。
 また伊豆地方に『キノミヤ神社』という社は十数カ所あり、各社とも必ず千年以上の御神木があることから、『木』に宿る神々をお祀りする神社として崇敬を集め、古来生活文化に欠くことのできない木に感謝する信仰を有しておりました。

 今から百二十年前の嘉永年間に熱海村に大網事件という全村挙げての漁業権をめぐる事件が勃発し、その訴訟費等捻出のため、境内に聳え立っておりました七本の楠のうち五本は伐られてしまいました。
 古記によると、残されているこの大楠をも伐ろうとして樵夫が大鋸を幹に当てようとしたところ怱然として白髪の老人が現れ、両手を広げてこれを遮る様な姿になると大鋸は手元から真っ二つに折れ、同時に白髪の老人の姿は消えてしまったそうです。
 これは神のお告げであるとして村人等は大楠を伐ることを中止致しました。 この木が即ち現在ある御神木であります。

神の魂にお降り願う木

 この大楠に対して古代の人々は「神の魂にお降り願う木」つまり神の依代として、この御神木の中に宿る神の魂と人々は対面し、尊び聖なる木として崇めてまいりました。

「不老長寿」
「無病息災」の象徴

 斯くて二千百年の長い間、落雷、暴風雨など、世の天変地異にも耐え、現在に至っております。一年を通じ、恒に青々とした楠の葉を繁らせ、現在でも成長し続けていることから、超越した生命力を有する木と信じられ、「不老長寿」「無病息災」の象徴とされ、二千年の長寿に肖ろうとする願いからか、大楠を一周すると「寿命が一年延びる」と信じられ、願い事がある方は、願い事を心に秘め幹を一周すると願いが叶うと言い伝えられ、多くの信仰を集めています。

子孫繁栄・国家弥栄

 この大楠を人に例えれば、世の中のあらゆる物を知り尽くしている太古老とでも申しましょうか。
 然るに二千百年を経ても尚樹生は少しも衰えず、根は深く大地に食い込み、巨岩を抱きかかえ、幹のこぶは石の様相を呈し、内に益るる生気は益々旺にして枝は毎日西に東に伸びゆき、未来永却に生き抜こうとする生命力の強靱さには恐ろしささえ感じ取れます。

 楠の木は、常緑樹であるが故、新葉が成長し、古葉が落ちてゆきます。言い換えれば、親の葉は、子の葉の成長を見届けて落ちてゆくのです。つまり子孫の繁栄、国家の弥栄を象徴しているともいえます。

 今の世に大楠のように長寿で然も厳然として物にも動せず、ひたすらに正しく生きる道に徹することが出来たならば、なんと幸せな事でありましょう。これに肖り、今現在でも国内外の方々をはじめ、訪れ願う参拝者はあとを絶ちません。

第二大楠

落雷の跡が残るも青々と

 第二大楠は、幹の中身が落雷によってほとんどなく、はりぼてのような状態になっており、幹の裏側に回り服などが触るといまだに黒く汚れてしまいます。
 そのような状態でも、この大楠はしっかりと生きており、青々とした葉を生い繁させています。

 

 

5.   山の王、森のヌシと出会う――石徹白のスギ 岐阜県郡上市

国指定特別天然記念物。樹齢1800年、幹回り13.5m、樹高21.5m

 

石徹白の大杉(いとしろのおおすぎ)は、岐阜県郡上市にある巨大なスギの古木である。国の特別天然記念物に指定され、白山国立公園内にある。

概要[編集]

白山信仰の修験道(美濃禅定道)沿いにあり、道標の役割も果たしている。泰澄上人が白山を開山した際、使用していたがこの大杉になったという伝承がある。樹高24 m、幹囲目通り14 m樹齢1,800余年と推定される。現在、幹の半分は枯れてしまっているが、残りの半分は健在である。縄文杉が発見されるまでは、日本有数のスギの大木であった。1924大正13年)129日、国の天然記念物に指定される(名称は「石徹白のスギ」)[2]1957昭和32年)72日、国の特別天然記念物に指定される。

その他[編集]

この石徹白の大杉がある石徹白地区は、かつては福井県大野郡石徹白村であり、1958(昭和33年)1015日に岐阜県郡上郡白鳥町(現在の郡上市)に編入された。尚、一部は福井県大野郡和泉村(現在の大野市)に編入している。

すぐ北側には、熊清水とよばれる湧水がある。

周辺はブナ林である。

 

 

6.   伝説が語られる奇跡の神木――十二本ヤス 青森県五所川原市

市指定天然記念物。樹齢800年、幹回り8m、樹高34m

 

十二本ヤス(じゅうにほんヤス)は、青森県五所川原市金木町喜良市に生育するヒノキアスナロ(ヒバ)の巨木である。推定の樹齢300年から800年までの諸説があり、その特異な樹形から「十二本ヤス」(または「十二本ヤシ」)と呼ばれるようになった。

青森ヒバの中でも代表的な巨木として知られ、旧金木町指定天然記念物から引き続いて五所川原市指定天然記念物となり、「新日本名木100選」にも選ばれている。2003年(平成15年)に国の天然記念物指定へ向けての動きがあったものの、地権者の同意が得られなかったため指定には至っていない。

由来[編集]

津軽半島に位置する五所川原市金木地区(旧金木(かなき)町) は、作家太宰治の故郷として知られる。太宰の生家(旧津島家住宅)は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、2004年(平成16年)国の重要文化財に指定された。斜陽館の前を過ぎ、集落を外れて通称を「弥七郎沢」という沢沿いの林道に入って車で10キロメートルほど進むと、周囲はすべてヒバ林となる。車を降り、左側にある小さな鳥居をくぐって細い道をさらに登ってゆくと、1本のヒバの巨木がそびえ立っている。

この木が十二本ヤスで、地元の人は「十二本ヤシ」(ヤシはヤスの転訛)とも呼ぶ。かつての村名を冠して、「喜良市(きらいち)の十二本ヤス(ヤシ)」と言う場合もある。根元には人の背丈よりも高い鳥居が立てかけられていて、この木が神木として扱われていることがわかる。2008年(平成20年)の五所川原市議会定例会議事録によると、樹齢は約800年、幹回りは約8メートル、樹高は約34メートルを測る。樹齢については他にも300年、450年、500年などの説もある。

この木を特徴づけているのは、その特異な樹形である。地上から約3メートルのところで幹が臼のような形に大きく膨れ上がり、約4メートルのところから太い枝が分岐して一斉に天に伸びていて、その数は12本に及ぶ。木の姿が魚を突く漁具ヤスに似ていることから、「十二本ヤス」と呼ばれるようになった。太い枝の分岐点には、神棚が1つ祀られているのが見える。

十二本ヤスについては、次のような伝承がある。その昔、弥七郎という若者がいた。弥七郎は評判の臆病者で、山に入るたびに怖気づいていたためみんなの笑い者にされ、ついには山に棲む魔物までが彼の名を覚えてしまった。弥七郎はさすがに立腹して、魔物に一泡吹かせてやろうと研ぎ澄ましたマサカリを携えて山に入った。山小屋を出て夜を待ち、夜も更けたころに「弥七郎」、「弥七郎」と呼びかける怪しげな声が聞こえてきた。弥七郎が声のする方へマサカリの一撃を加えたところ、「ギャッ!」という悲鳴が聞こえた。弥七郎が腰かけていた「ヒバ」の切り株からは、魔物が転げ落ちた。翌朝、弥七郎があたりの様子を確かめてみたところ、年老いた白い毛の大猿が血に染まって死んでいた。魔物の正体はこの大猿であった。大猿の祟りを恐れた村人たちは、供養のためにヒバの若木を植えたところ、成長するにつれて異様な姿を見せ始め、新しい枝が出て13本以上になっても、その分古い枝が枯れて12本以上になることがなかった。実際、2012年(平成24年)9月に樹木医の斎藤嘉次雄(NPO法人青森県樹木医会専務理事兼事務局長などを務める)が訪ねてみたところ、幹から分岐した太い枝は14本あったが、そのうち2本は枯れていた。

十二本ヤスの特異な樹形について、元林野庁職員で『巨樹』の著者である八木下弘は「雪かその他の気象の関係で、ある時主幹を失ったが、生命力の強かったこのヒバは幹の周辺から直立の枝をのばして今日に至った」ものと推定している。この地方では「1212日」が山の神を祀る日とされ、十二本ヤスこそ山の神そのものであると地元の人々に神聖視されている。大正5年か6年頃に、金木営林署がこの木の伐採を試みたところ、人々は恐れをなして誰も切ろうとしなかったため、営林署もついに木の保存を決めたという。

十二本ヤスは代表的なヒバの巨木として、金木町指定天然記念物から引き続いて五所川原市指定天然記念物となった。1990年(平成2年)に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」では、青森県から「法量のイチョウ」(十和田市)とともに選定されている。

十二本ヤスについては、かつて国の天然記念物指定へ向けての動きがあった。2003年(平成15年)8月に、文化庁文化財部記念物課の調査官が青森県教育庁文化財保護課の職員を伴ってこの木の視察に訪れた。当時の金木町教育長がこの視察に同行したところ、「幹が12本に分かれているヒバの大樹は日本でも類がないので、国の天然記念物として指定したい」という話が出た。国の天然記念物として指定を受けるためには、土地所有者の同意書類に署名と印鑑が必要だったためぜひ交渉してほしいとの依頼を受け、当時の金木町長にその旨を報告した。しかし、交渉の過程で土地の相続がなされていなかったことが判明した上、相続人は7人もいて権利関係などが複雑であったという。1年余りにわたって交渉を続けたものの数名の同意が取れなかったため、国の天然記念物指定の手続きは中断することになった。この木について樹木医の斎藤嘉次雄は樹勢の衰えを指摘し、「一日も早く治療し、保護対策を実施したいものだ」と記している。

 

 

 

7.   この世のものならざる怪樹――白鳥神社のビャクシン 南伊豆町

県指定天然記念物。樹齢800年、幹回り四騎士m、樹高10m

 

南伊豆町商工観光課

白鳥神社の大ビャクシン

公開日 2002527

吉田の海岸よりに白鳥神社があります。この神社の登り口には一本の大きなビャクシンの老木があり、幹の太さは約4m、高さ10m、樹齢約800年といわれる伊豆地方でも代表的なビャクシンです。ビャクシン(いぶき)は海岸に多い木で、大きくなるまでには何百年もかかるといわれてます。現在、ビャクシンは神社の前の道を高めたために、約1mぐらいうまってますが、それでも、皮の一部を失った幹、曲がりくねった枝に800年もの間、西風にたえてきたようすをうかがい知ることができます。白鳥神社のビャクシンは、1967年(昭和42)県の天然記念物に指定させました。なお、町内の下賀茂・加畑賀茂神社の前にもビャクシンの巨木がありますから比べてみるとよいでしょう。白鳥神社は、いつごろ作られたかはっきりしていませんが、日本武尊と弟橘姫命を神様として祭ってあり、「航海安全の神」「安産の神」(海の安全や子どもがぶじさずかるようにお願いするお宮)として知られています。ここでは、安産をお祈りするとき、夫婦で「おみくじ」を引き、ぶじに安産を終えた夫婦は小穴を開いた「ひしゃく」と「麻ひも」を持ってお宮にお礼のお参りをするといった、いっぷう変わったならわしがあります。なお、白鳥神社は、1974年(昭和49)の伊豆半島沖地震で落石の被害を受けたため、地震後、社殿を西側に移しかえました。 

 

日本の巨樹・巨木

 伊豆地方第一のビャクシンの名木であろう。
 海岸線から100mほど内陸に生長しており、かつてはこのビャクシンのある地点が波打ち際であったのかもしれない。
 2011年、主宰する会のツアーのために下見に行ったのであるが、1993年以来18年ぶりの訪問であった。
 吉田の集落もビャクシンも当時のままで、全く雰囲気の変わっていない別天地であったのはうれしい限りだ。
 18年前の計測の資料が手元にあるので比較してみたところ、当時は幹周483mとなっており、現在よりも80cmほど太いことになっている・・・・・ん??
いろいろと原因を考えてみたが、表面の樹皮がはがれ落ち細くなったとしか考えられないようだ。
 現在の幹の太さは4mほどの太さに縮小してしまったのであるが、その存在感はまだまだ東日本最高のものといっても良さそうである。樹形もそうであるが、枝の暴れ具合が何とも例えようのないほどすばらしいのである。
 神社の参道である石段からの眺めも実に味わい深い。
 樹齢は南伊豆町の資料によると800年を経たものとされているようで、さすがに老齢からか上記のとおりに表面の樹皮も一部はがれ落ちてしまっている。
 これらの現象はビャクシンの古木には付きものであるが、いまだに全体にこんもりと半円形の樹冠を誇っており、樹勢はまだまだ旺盛そうである。
 太平洋に向いた湾奥部にあり、標高も2mほどしかない立地のため、間違いなく今までに数度の津波も体験して来ているだろうが、それらをものともせずにたくましく生き延びてきた生命力と運の良さは侮れないだろう。
 自然が多く残っている割に巨木が少ないのは、そういった環境をくぐり抜けて生きていかなければならない立地の影響も多分にあるだろう。
 実はこのビャクシンを見た瞬間に「津波」の2文字が頭に浮かび上がったのである。たぶん、ビャクシン自身が以心伝心で教えてくれたのだろうと思うが・・・
 吉田集落は非常に交通の便が悪いところでもあるが、是非とも訪れてこのビャクシンとともに時間を過ごしていただきたい。
 眼前には誰もいないきれいな海原が広がり、まさに別天地である。時間が許すのであれば、一日いっぱいをこの木とともに過ごしたいと思う、そんな場所である。

 

 

 

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