特務  Richard J. Samuels  2021.7.2.

 

2021.7.2. 特務 日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史

Special Duty A History of the Japanese Intelligence Community          2019

 

著者 Richard J. Samuels コルゲート大、タフツ大卒、フルブライト奨学生で東大に留学。マサチューセッツ工科大学(MIT)フォードインターナショナル教授、MIT国際研究センター所長、MIT日本プログラム所長。1980MIT政治学部より博士号を取得。同学産業連携プログラム学部顧問、政治学部準教授などを経て、89年政治学部副部長、92年政治学部学部長。81年よりMIT日本プログラム創設所長、92年よりMIT政治学・フォードインターナショナル教授、2000年よりMIT国際研究センター所長、20012008年、日米友好基金理事長。2011年、旭日重光章受章。1988年に第4回大平正芳記念賞を受賞したほか、著書に対してアメリカ政治学会、アジア研究協会、アメリカ大学出版協会などから図書賞を贈られ、『フォーリン・アフェアーズ』誌で「2019年の最良の1冊」に選ばれている

Wikipedia

リチャード・J・サミュエルズ(Richard J. Samuels1951112 - )は、アメリカ合衆国政治学者マサチューセッツ工科大学政治学部教授。専門は、日本の政治経済、安全保障政策。

1973コルゲート大学政治学科卒業、1974タフツ大学政治学部大学院修士課程修了、1980マサチューセッツ工科大学政治学部大学院博士課程修了、Ph.D.(政治学)。マサチューセッツ工科大学助教授(1980-84年)、准教授(1984-90年)を経て、現職。

1992から1995まで同大学政治学部長を務めた、2001から2008まで日米友好基金理事長。 


訳者 小谷賢 日本大学危機管理学部教授。1973年京都府生まれ。立命館大学国際関係学部卒業後、ロンドン大学キングス・カレッジ大学院戦争学研究科修士課程修了。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。2004年から防衛庁(現・防衛省)防衛研究所戦史部教官。英国王立統合軍防衛安保問題研究所(RUSI)客員研究員、防衛省防衛研究所戦史研究センター主任研究官、防衛大学校兼任講師などを経て2016年より現職

 

 

かつては膨張し、そして衰退したインテリジェンス・コミュニティに継続的な注意が払われることはほぼなかった

1946年初、トルーマン大統領は、政府全体のインテリジェンス活動を調整するために国家情報機構と中央情報長官のポストを創設

インテリジェンス・コミュニティとは、敵の秘密の収集者と脅威の分析者のネットワークの簡潔な表現であり、不確かな状況に対処する意思決定者たちを助けるのを任務とする

日本人は生まれつき独立して行動する能力がないという主張もあるが、蒋介石は、「日本人は誰もが、男でも女でも、生まれながらのスパイである」といい、20世紀前半において日本のインテリジェンス・コミュニティの拡大や成功を阻むような生来のインテリジェンス能力の欠如など全くなかった

日本のインテリジェンス・コミュニティは、日本という国家に属しているのと同時に、競合し合う部局に所属。インテリジェンス部署は小規模で包括的でなく、調和せず、財源不足で、長く続く政治的敏感性の結果、不必要に複雑。一度も中央集権的なインテリジェンス組織の運営に成功したことがない

米政府への服従も日本の戦後のインテリジェンス・コミュニティの発展への関心を弱体化

日本のインテリジェンス昨日は独創性がなく、発達不十分、対象は国内に限定され、より広い戦略的領域はアメリカによって監視

冷戦の後、新たな活力をもってインテリジェンス・コミュニティの再構築に取り掛かる

本書では、日本がどのようにこの100年に亘る道程を進んできたか、なぜ改革が絶えず続き、また困難であったか、そしてこれが日本の安全保障にどんな結果をもたらしたかを明らかにする

インテリジェンス改革の形、ベース、方向に影響を及ぼす推進力は3

1つは、戦略的環境の変化によるもの ⇒ 日本のインテリジェンス・コミュニティは長期間アメリカへの服従に耐えてきたが、冷戦終結後から世界の勢力均衡が何回か変化しており、相対的に衰退しつつあるアメリカに安全保障とインテリジェンスを依存し続けることな日本を脆弱にするとの懸念がある

2つ目は技術面の変化 ⇒ 情報収集方法の面で著しい変化が見られる

3つ目が失敗 ⇒ インテリジェンスの失敗が日本ほど潤沢でよく語られるところはない

l  ヒュミント ⇒ ヒューマン・インテリジェンス。人間を媒介とした諜報のこと

l  シギント ⇒ シグナルズ・インテリジェンス。通信電磁波信号等の、主として傍受を利用した諜報諜報活動

l  イミント ⇒ イマジェリ・インテリジェンス。偵察衛星偵察機によって撮影された画像を継続的に分析する事で情報を得る手法

l  オシント ⇒ オープン・ソース・インテリジェンス。公開されている情報を情報源とする諜報活動

l  フォティント ⇒ フォト・インテリジェンス。写真諜報、写真撮影による情報収集

l  マジント ⇒ MASINT:Measurement and Signatures intelligence。赤外線や放射能、空気中の核物質といった科学的な変化をとらえる事で情報を収集する方法。核実験の探知など、主に軍事諜報に用いられる

l  ラディント ⇒ RADINT:Rader intelligence。レーダー信号の傍受を行う

l  ヌシント ⇒ NUCINT:Nuclear intelligence。放射線から得られる情報の収集

l  テキント ⇒ TECHINT:Technical intelligence。外国軍の装備を研究し、使われている技術や弱点などを見つけ出す手法

l  コリント ⇒ COLLINT:Collective intelligence。利害関係を同じくするインテリジェンス機関が相互に協力すること

日本の情報機関と主に用いる手段

l  内閣情報調査室(オシント、ヒューミント)、内閣衛星情報センター(イミント)

l  警察庁警備局防諜、ヒューミント、オシント)

l  公安調査庁ヒューミント、オシント、コミント)

l  防衛省情報本部(シギント、エリント、コミント、ラディント、イミント、オシント)

l  自衛隊情報保全隊防諜

l  陸上自衛隊 ⇒ 陸上幕僚監部運用支援・情報部別班(ヒューミント、非公然組織)

中央情報隊(オシント、ヒューミント)

沿岸監視隊

l  海上自衛隊 ⇒ 81航空隊(シギント、イミント)

l  航空自衛隊 ⇒ 電子作戦群(エリント)

l  外務省国際情報統括官組織(ヒューミント、オシント)

 

第1章       インテリジェンスの推進

インテリジェンスは、第1次大戦の間に専門官僚に委ねられるようになり、1918年までにはほとんどのヨーロッパ諸国が国家存続のかかった問題として中央集権的なインテリジェンス能力を確立

インテリジェンス改革の3つの推進力とそれが変えようと狙っている6つの働きについて検討

制度面 ⇒ 戦術的な評価の要請に煩わされることはなく、多くは国際的な勢力の分布の評価を任務としているが、国際政治の変化はインテリジェンス・コミュニティの形と機能に影響を与える

技術面 ⇒ 技術面の変化がインテリジェンス機関の構造や機能に多くの変化を強いてきた

失敗 ⇒ 予測と後の情報が明らかにするものとの不一致を免れたインテリジェンス組織は存在しないが、失敗は許されず、失敗は必ず即座に改革の対象となる

たいていの場合、失敗は無能や悪事に起因するというよりは資源の不足、よくある間違い、また最も単純には全てを知ることが不可能であることによる

知らないことを起こりそうもないことと混同する傾向がある

インテリジェンス・コミュニティに働く6つの機能 ⇒ 収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視。最初の4つはインテリジェンス・サイクルを構成

1.    収集 ⇒ 「工作」と合成され、宣伝、偽情報、政治の不安定化までも含む概念

2.    分析 ⇒ それ自体は語ることのできない収集されたデータの評価と解釈。敵の能力を見通すと同時に敵の意図まで洞察しなければならない。最も重大な問題の1つは分析官が意見の一致を求める傾向があること。自分の合理性を敵にも押し付ける「ミラー・イメージング」は犠牲が大きい

3.    伝達 ⇒ 収集・分析とも完璧だったとしても、インテリジェンス機関相互間、分析官と政策立案者の間の伝達が時宜にかなって効果的でなければ、それまでの努力は無駄

1945年、トルーマンによって許可された5か国(加英豪米ニュージーランド)からなる世界的なシギント網を「ファイブ・アイズ」(公式名:UKUSAユーキューサ協定)と呼び、その後ヨーロッパ諸国も参加して9から14へと発展

4.    保全 ⇒ 秘匿性は、しばしば汚職や濫用を隠すために使われたり、個人の権利やプライバシーを侵す監視を正当化するのに使われたりする可能性がある

5.    秘密工作 ⇒ 秘密裏に海外で国家目標を達成するために作られた外交政策の1手段であり、官僚に帰することなく公共的効果を作り出すことを意図。日本では特務機関が実行。主な活動は、宣伝・政治的干渉・経済的干渉・準軍事的な作戦行動の4

6.    監視 ⇒ インテリジェンス組織が適正に法や政策を満たしているかを保証するためには監視が必要

 

第2章       特務の拡張―18951945

近代日本のインテリジェンス収集の始まりは、徳川幕府によって「反抗的な大名や侍」の活動について報告するよう派遣されたスパイに帰される ⇒ 出島のオランダ人や朝鮮通信使やエリートスパイ集団の御庭番である忍者などによる

維新でインテリジェンス・コミュニティは再編され、1869年ドイツの軍事を学ぶための初の留学生を派遣するが、その一員となった山縣は、強力な軍隊に守られた国家の必要性を説き、陸軍卿となって75年には日本初の武官と外交官をスパイ活動のために中国に送り、中国の弱点を明らかにする「華北における諜報組織」を準備

日本のインテリジェンス努力の重要な部分は「無秩序なエージェント」によって立ち上げられ、1930年代までは、大陸浪人など自国を離れた特定の組織に所属しない人々に頼っていた。「軍と冒険主義者の複合体」とも表現される

1890年、軍部が日清貿易研究所を設立。大陸でのインテリジェンス活動の拠点となり、将来のインテリジェンス部門の原型となる。福島安正将軍(のち男爵)によるシベリアの単独騎馬横断の「偵察単騎行」は山縣のその後のアジア大陸戦略のベースとなる

日清日露の戦間期、外務省の電信課は、中国の外交通信の傍受には成功したが、ロシアの通信は傍受できず。1904年ロシアの巡洋艦が日本海で日本の輸送艦数隻を撃沈した後、漸く帝国海軍がロシアの暗号を破り、初のシギント部署を設立するが、その成功体験が軍部内での、また軍事と外交の間でのインテリジェンス機関の恒久的な分裂の予兆

陸軍が初のインテリジェンス部署を作ったのは、参謀本部が再編成された1908年のこと

石光真清は89年陸軍士官学校卒の少尉。ロシア語名を持ちハルピンで洗濯屋となって情報収集活動に従事

華族の近衛篤麿は理想主義的なアジア主義者で、日中間の「同人種同盟」を構想、「東亜同文会」を作って日本の中国での拡大を支える工作員や分析官を多く輩出。南京同文書院も開設し中国文化を学ぶ学生を募集、やがて上海に移って、東亜同文書院と改称

頭山満の玄洋社も、表向き公的な保護を受けずにアジア大陸で軍部に協力する超国家主義的団体として、日本軍のために影のインテリジェンスやスパイ業務を行っていた

玄洋社メンバーの内田良平が1901年組織した黒龍会は、「非公式の」国家主義スパイ集団で、ロシアをアムール川の北側に留めておくことを目的として活動

これらの愛国主義的秘密組織が日本の軍部や外務省の隙間を埋めていたことは明らかで、成功報酬制で無秩序に動くエージェントは、状況に応じて都合よく使われた

明石元二郎は、戦前最も称賛されたスパイマイスターであり秘密工作員だが、インテリジェンス・コミュニティの主流とあまり健全でない付属組織との繋がりを体現 ⇒ 玄洋社のメンバーではないが、7代目社長の月成勲は義兄であり義父の郡利も主要メンバーだったし、頭山や内田とも盛んに文通していた

1930年代半ばのドイツ駐在武官・馬奈木敬信大佐の特務機関もソ連を動揺させるための活動に邁進

満州事変工作をした土肥原賢二も板垣大佐の元、中国社会に巧みに入り込み「満州のロレンス」として知られ、秘密工作に従事し華北の親日地域政権樹立に成功

外交インテリジェンス能力も20世紀前半に拡大されたが、当初は不平等条約改正に活動の焦点が置かれたこともあってうまくいかなかった。第1次大戦の講和会議での非力露呈により1920年情報部立ち上げたものの、インテリジェンスの統制は陸軍に譲歩していた

インテリジェンス技術については、第1次大戦以降急速に改善

1920年代に陸軍、海軍、外務省、逓信省が共同で外交暗号の研究に取り組むことを決めたが、管轄争いから協力が崩壊。日本のインテリジェンス・システムの深い病理を強調

陸軍は、1923年ポーランド軍部からソ連暗号の解読を学び始めて以来、第2次大戦期までポーランドに助けられてきた

外務省が遅れに気づき取り戻したのは1935年半ば以降

早くスタートを切っていたのは海軍で、1924年には初の専用の情報収集艦2隻を運行、28年には通信情報を担う独自の部署を設置。36年には新座の大和田通信傍受基地の活動開始(戦後アメリカ軍に接収)

戦間期の軍事インテリジェンスの焦点はヒュミントと秘密工作

海軍は、192030年代ロンドンで情報工作を実施、イギリスの国会議員や元軍将校に金をつぎ込む。初期の受領者の1人は叙勲を受けた艦載機のパイロット、フレデリック・ラットランドで、海軍の支援によりカリフォルニア南部のダグラス社近隣にオフィスを構え、日本の空母開発を助け、海軍の攻撃能力を向上させ、エリート外国人の居住区横浜に家を建てるほど裕福になったが、米英が日本の暗号を破った後に発見・逮捕された

戦争が進むにつれ、すべての情報源からのインテリジェンスの流れが減少したのは、在外大使館や総領事館の武官の多くが拘留されていたためで、第三国人を使った限定的なものになっていく。善戦していたのはシギント

各機関の間の伝達は、日本のインテリジェンス・コミュニティが戦時中に直面していた最大で、かつ最も犠牲の大きな問題 ⇒ インテリジェンスにおける縦割りと管轄争いのツケは42年のミッドウェイ海戦後に回ってくる。44年のレイテ沖海戦の直前、海軍は自身の戦果を過大に流したため、陸軍はその情報に基づき南方作戦への転換に繋がり、陸軍主力は連合軍の空襲に遭遇して殲滅された

日本の軍事警察は、1881年陸軍によりフランスの国家憲兵隊を模して設立され、その目的は、軍事組織を守ることと公共の安全を維持することだったが、後に防諜が加わる

公共監視のための特別高等警察は内務省の管轄で、反軍、反戦、その他の政治運動を取り締まり、朝鮮人居住者や知識人の情報を収集

ゾルゲと尾崎によるソ連への情報漏洩は、日本のインテリジェンスの失敗の好例であり、41年の国防保安法発布へと導く

戦時の防諜のもう一つの活動が暗号の保全 ⇒ 43年アメリカの通信情報部がソロモン諸島付近の山本五十六の位置を明らかにしたのは作戦上の傍受の最大の失敗

20世紀前半には日本のインテリジェンスの失敗が散在していたが、それは6つの要素の全てにおいて明らか ⇒ 「収集」は断続的で不均衡、驚くほどオシントに頼り、統轄が怪しいヒュミントベースに頼り過ぎていた。「分析」は軍事の戦術や戦略上のインテリジェンスが重視され、それ以外は軽視された。この時期の日本のインテリジェンスにとって最も扱いにくい問題だった「伝達」面では、官僚主義的な諸部署間の協力がないどころか、互いに監視し合い偏狭な不信により活気づけられ傷つけられた。さらに効果的な防諜能力を維持しやすいはずの権威主義国家だったにもかかわらず日本の政策決定者たちは連合国側の謀略に非常に弱かっただけでなく、露出の度合いに気づいていなかった。「秘密工作」も、成功というより野心的で、「監視」が不十分だったために非生産的なことが多かった

 

第3章       敗北への適応―19451991

太平洋戦争でのインテリジェンスの失敗は新たな戦略的環境に貢献 ⇒ 外交・安全保障政策がアメリカの優先事項に従属したことにより、インテリジェンス改革の形、方向性に厳しい制限を設けることになる。小型で、妥協した、組織的に障碍のある運営に甘んじる

後藤田は冷戦期の日本のインテリジェンス・コミュニティの中心人物。再構築された民主的な政治システムの中の反軍事主義的規範との調和がインテリジェンス・コミュニティの一層の萎縮を招くが、その規範こそが戦後の国家安全保障戦略である吉田ドクトリンの主軸となっていた

日本のインテリジェンス・コミュニティの戦後の進化を形作った最も重要な一因は、冷戦以前からあった強力な反共思想で、米占領軍将校たちに容易に方向転換していく

陸軍情報部長の有末精三は、1億円と武器を反政府運動のために隠匿していたが、終戦4日後にはマニラで参謀本部次長で強烈な反共主義者の河辺虎四郎と、GHQの主要工作部隊である第441防諜隊CICのウィロビー将軍に面談、巧みに取り込んでGHQ内部に有末をトップとする200人の部局を認めさせる。その中に残忍な参謀将校の辻政信もいた。有末は、ナチのインテリジェンスの中心人物で、戦後のドイツで自身を米軍にとって貴重なものとすることにより生き残ったラインハルト・ゲーレンに準えられる

戦前に蓄積した中国やソ連極東地域の情報がGHQにとって貴重だったことが役立つ

1949年の「マツタケ作戦」は、ウィロビーの下で有末・河辺らが東南アジアで展開した反共作戦だが、ある部分では日本の再軍備のための布石も予定されていた

51年、マッカーサーとウィロビーが朝鮮における全中国軍の重要性を掴み損ねた記念碑的失敗によって解任された後、CIAがウィロビーの業績を吟味したところ、極めて低い評価で、ウィロビーの失脚に伴い、有末らも急速に失墜

ウィロビーが有末の副官・服部卓四郎に警察予備隊の企画を依頼、元陸軍将校を8人潜り込ませようとしたが、吉田茂首相と岡崎勝男官房長官は全員を拒絶

戦後日本のインテリジェンス・コミュニティは、占領終結の頭っと飴からウィロビーとは関係ないところで進行しており、激しく競合し合う多くの取り組みから発展。50年末には政府が法務省に公安調査庁を創設

警察庁がリーダーシップを取って創設した最初の制度は、52年の内閣総理大臣官房調査室で、その傘下にCIAの資金援助も受けてCIAを模した機関を作ろうとしたが失敗

包括的組織を作ろうと最も尽力したのが後藤田。元内務省官僚で、86年中曽根内閣の官房長官となり、「呑気」「貧弱」「無力」で未発達な日本のインテリジェンス・コミュニティの再構築に腐心、国益を官僚的・政治的利益に優先させ、官僚的内部抗争と政治家の介入から超然とした組織に育て上げる。後藤田の改革を引き継いだのが町村信孝

外務省も独自のインテリジェンス活動を展開。開戦時にラヂオ室(無電傍聴部)として始まったオシントの産物を、46年ラヂオプレス社として独立させ、主に共産主義諸国の海外放送を傍受し、政府に情報を提供。占領後は地域局に移され、在外公館からの外交通信に頼った情報収集を実行。調査課や資料課が作られ、70年には調査部に包含

79年、イランでの米大使館人質事件やソ連のアフガン侵攻で後れを取った外務省は、情報調査局を新設したが、政策とインテリジェンスという互いに独立すべき業務を同じ局内に持っていたため機能せず、93年には政策部署は総合外交政策局に移される

通産省も、日本の商業の対外・安全政策や外国の科学技術への旺盛な欲求を満たすためのインテリジェンス能力を発展させていた ⇒ 58年アジア経済研究所設立を嚆矢に、51年設立の海外市場調査会は58年には日本貿易振興会に改組され、冷戦期の日本経済の驚くべき拡大に貢献。時には産業スパイ活動を教唆することもあり、81年の日立によるIBM元従業員からの違法コピー入手事件では日本政府の通信リンクを使用していたことが発覚

軍部も冷戦期のインテリジェンス・コミュニティ確保に邁進。50年警察予備隊が設立され米軍が朝鮮に進軍してから、大幅に増員して保安隊となり、54年の自衛隊設立では、インテリジェンス部局は陸自調査学校となって情報収集から秘密工作迄全域にわたる能力を持った特殊部隊として訓練された

日本がスパイ天国として知られるようになったのは、戦時の反スパイ法に代わる破壊活動防止法が強制力を持たなかったことが理由の1つ。ソ連外交官のラストヴォロフやレフチェンコ、自衛隊を退官した宮永元陸将補などによる情報漏洩など数々の事件を生起

ムサシ機関 ⇒ 陸自情報部の下部組織(正式名称:陸幕第2部別班)55年米陸軍司令官から吉田首相に合同の軍事情報員訓練の誘いがあり秘密裏に情報連絡協定締結、埼玉県の米軍キャンプ・ドレイクにCIAの資金援助で立ち上げ。中国共産党がターゲットだったが、74年共産党の『赤旗』が存在を暴露、国会でも追及されるに及び、78年には名を変えてキャンプ座間に移転。追及は逃れたが、元々メンバーには嫌米感情を抱く者もいて、アメリカのために使われることが多かったところから、日本のインテリジェンス・コミュニティにおける反米感情を深めたように見える

冷戦期の日米情報共有にとって大きかったのは技術協力で、米軍は日本のシギント能力の再建を支援 ⇒ 50GHQが警察予備隊のメンバーを使ってシギント部署を新設、58年には陸上幕僚監部第2部別室として発足。70年代半ばには海自でも米軍との共同作業が始まり、同盟強化に貢献

76年、ソ連のベレンコが最新鋭ジェット戦闘機MiG25で函館に米国への亡命を求めて来たことは、日本の領空侵犯に対する航空防衛システムの欠陥を露呈。警察庁と防衛庁、法務省、外務省までが管轄を巡って綱引き

83年のソ連による大韓航空機撃墜では、、日本人27人が巻き添えとなるが、その際、ソ連がアメリカの偵察機の領空侵犯を探知し撃墜を指示したが、商用機であることを確実に識別できないまま撃墜していたことを、日本の陸自第2別室が傍受して国連総会で再生され、ソ連が悲劇的な過ちを求める契機となったのは、日本のシギント能力の高さを内外に認めさせた。併せて盗聴技術によるインテリジェンスも、金大中などのケースで成功

冷戦期のインテリジェンス・コミュニティの有名な2つの汚点

1つは三島事件で、愛国主義に染まり、67年自衛隊に体験入学し祖国防衛隊の必要性を強く主張、それを支えたのは元陸軍情報将校で陸自の情報学校創設にも尽力した山本舜勝一佐で、70年の切腹の際警察は山本を起訴したが、陸幕は辞任を求めず、陸将補に昇進

もう1つは73年の金大中事件。KCIAが元ムサシ機関員から得た朴正熙大統領の政敵の東京の隠匿場所の情報を基に金を拉致しソウルに送還。日本政府は関与を全否定

明らかな世論の懸念もあって、日本政府が再び反スパイ体制を引き締めるのは80年大平政権時に起草された「スパイ防止法」だったが、次の中曽根政権でも実現は困難

 

第4章       失敗の手直し―19912001

冷戦終結とともに、インテリジェンス分野でアメリカに頼らざるを得ないという、日米間の不平等な同盟関係に不満を持つ日本の戦略担当高官たちは変化を求め始めていた

96年、首相に就任した橋本龍太郎は行政改革の新ラウンドを開始、中央政府省庁の形態と機能の合理化を目指すが、そこでインテリジェンス改革が初めて国策の基本的事項として扱われる。新たな中央集権的部署として内閣官房を作り、「情報」も担当することを決めると同時に、インテリジェンス機能と政策機能を分ける必要性についても認識、01年には内調室長が内閣情報長官に格上げされたが、結局は政治のリーダーシップのないまま表面的な変化を起こしたに過ぎないままに終わる

そんな中頭角を現したのが外務省。戦時中の作戦参謀で伊藤忠特別顧問の瀬島龍三がソ連とのパイプに加えて72年には中国市場にも日本企業として初めて参入したが、その助言で外務省のインテリジェンス部門が強化され、93年には総合外交政策局創設、情報調査局は情報収集と分析専門となり国際情報局と改称。在外公館の防衛駐在官も防衛庁への安全な通信経路がなく外務省経由で報告を行った

湾岸戦争が日本のインテリジェンス改革に対して持つ間接的な効果の大きさはあまり認識されていないが、多くの難題をもたらした。その1つが国連の活動に日本の部隊が参加できるかどうかというもの

93年北朝鮮のノドンが250㎞の沖合に落ちたとの情報がアメリカからもたらされ政府は驚愕、94年細川首相はアメリカが北朝鮮を攻撃する準備をしていたことを知って驚き、内調室長の大森義夫は金日成の死を公共のメディアで知り、ワシントンへの依存を減らすよう要求。98年には内閣官房に内閣情報会議が全省庁の事務方のトップを集めて作られるが、またしても形だけのものに終わる

95年の阪神淡路大震災では大規模災害への対応の遅れが深刻な問題となり、同年のオウム真理教のサリン事件でも破防法の限界が露呈され、何れもインテリジェンス改革へのきっかけとなる ⇒ 公安調査庁の規模の見直しと権限の再委任

97年、防衛庁情報本部設立 ⇒ 失敗からできたというより、技術の変化への対応として拡張された戦略計画の産物。陸幕監部調査部第2課別室(調別)の運用上の主導権が内調にあったことへの自衛官たちの不満が噴出した結果でもあった

93年のノドンに続いて98年のテポドンの予測失敗で、独自のスパイ衛星計画が進められ内閣衛星情報センターが内調の管理下に設置されたが、最初の衛星が打ち上げられたのは5年後であり、その性能も商業衛星にすら劣るもので、アメリカ依存は変わらなかった

拉致問題は最重要課題、日本のインテリジェンスと政策の間の穴だらけの境界を垣間見る重要な窓を提供 ⇒ 1980年には北朝鮮からのリークで日本の主権が侵されたと確認されたにもかかわらず、何らの対応も打てずに放置された。国会で共産党が追及したのは88年で、それまでは国交正常化交渉の前に、不都合な情報は無視された

日本のインテリジェンス・コミュニティの冷戦後の改革が、ワシントンが東アジアの安全保障の面倒を見て日本の海外権益を守ってくれるだろうという固定観念によって遅らされてきたことは間違いない。その基本認識が、中国の台頭やアメリカの衰退、北朝鮮の挑発によって変わりつつあり、世論も包括的なインテリジェンス・コミュニティを受け入れる意思を持つに至る。地域の勢力均衡が変わろうとしているときに起こったのが9.11

 

第5章       可能性の再考―20012013

9.11以降の日本人を標的にしたテロ行為・人質事件が散発したが、自身で効果的に予測しそれに対応する能力を欠いていることが明白となる。特に13年のアルジェリアのガスプラントでの人質事件を機に、インテリジェンスの基盤の刷新が超党派で叫ばれる

この間の改革のリーダーシップを取ったのは自民党幹事長代理から外相、官房長官の町村信孝で、新しい安全保障政策決定の基盤を作ろうと腐心したが、警察庁と外務省の深刻な意見対立に巻き込まれ挫折

経済インテリジェンス機関の筆頭だったジェトロは、内調とはまったく別個に、なおかつ内調を上回る規模で海外展開。元理事長の林康夫は、両者の役割や任務は全く違っていたので両者の混線はなかったと証言

最大で最も数が増えている活動中の海外情報収集官は防衛駐在官で、ほとんどは公然と活動する陸幕情報部の自衛官だが、彼らが大使館にポストを得るには外務省への出向が必要で、彼らの報告は外務省経由で防衛省に届く

陸海空の各自衛隊とは別に、防衛省の外部でインテリジェンス努力に貢献しているのが国交省所属の海上保安庁。08年正式にインテリジェンス・コミュニティの一員となる

もう1つの機関が国土地理院。1869年民部官庶務司戸籍地図掛として設立。2007年領土・領海の特定に加え、離島の管理と維持に貢献するという目的が追加された

日本のインテリジェンスのタブーはワシントン。両者の協力関係はうまくいっていなかった。冷戦期は緊密だったが不均衡。日本における情報共有のための必要施設の建設・維持・移設費用はほぼ全額日本負担だし、アメリカは60か国以上とインテリジェンス共有部分協定を締結していたが、日本とは2007年まで締結せず

9.11以降、アメリカは日本に軍事情報包括保護協定GSOMIAに不可欠な保全制度の採用を強要。GSOMIAは同盟国が互いに共有する機密化された軍事情報を守るべきルールを決めたもので、日本に対しても縦割りを無くし一本化された強固なインテリジェンス・コミュニティの確立を求め、町村も外相としてアメリカとの協定締結に奔走

日本の情報保全の失敗は顕著で、07年のイージス艦によるミサイル防衛技術にまつわる漏洩では防衛事務次官の守屋こそ桁外れの漏洩者と米側高官から指弾

07年日米間のGSOMIAに続いて、欧州各国とも締結するが、韓国との間では一旦土壇場で取りやめた後16年になって漸く締結

 

第6章       インテリジェンス・コミュニティの再構築―2013年以降

2013年の特定秘密保護法と国家安全保障会議成立を軸とする野心的な日本のインテリジェンス・コミュニティの立て直しは、その潜在能力を開放(ママ)する画期的な改革

日本のインテリジェンス・コミュニティ改革の最初のステップが14年の特定秘密保護法の制定で、それまで各省庁が個別に行っていた秘密取扱規則を一本化したものだが、成立の過程で日本の国家秘密に関する議論が、戦前の軍国主義の頸木から放たれ、今や民主主義的規範の健全性の維持といった普遍的な内容へと変化していった

インテリジェンス改革の第2弾が政策とインテリジェンスを集約させるために設置された国家安全保障局で、初代局長には安部政権下で外務事務次官を務めた谷内正太郎が就任

日本の安全保障政策策定機能を首相の元に集約させる構想は、第1次安倍内閣の06年以降紆余曲折を経て13年末国家安全保障会議NSC設置法案が成立

 

第7章       日本のインテリジェンスの過去と未来

インテリジェンス改革の根底にある原動力は、戦略環境、科学技術、インテリジェンスの失敗の3つで、それらは常に変動し続けて、さらなる改革を促す

拡張の時期(18951945) ⇒ 20世紀前半の日本のインテリジェンス・コミュニティの拡張は、安全保障環境の劇的な変化と科学技術の進化が最大の要因だったが、インテリジェンスの失敗も同様に改革の原動力となった

産業、軍事、教育の再編で目覚ましく成功したのに対し、インテリジェンス・コミュニティ事態は機能的な分化もなく組織化もされないまま勝手に動き回っていた

適応の時期(19451991) ⇒ アメリカの派遣の下で、アメリカ市場と技術へのアクセスを確立することが日本の復興にとっては何より有益だったが、冷戦期に安全保障を格安で提供してもらっていた他のアメリカの同盟国同様、ワシントンとの不平等な関係にはめ込まれていることに気づき、独自のより長い耳を持とうとしたことが1983年のソ連による大韓航空機撃墜事件で日本の軍事インテリジェンスが国際的名声を得るまでに回復

手直しの時期(19912001) ⇒ 冷戦期間中、アメリカとの同盟における力と情報の非対称性に対して感じていた不快さが働いて、冷戦終結と相前後して日本独自の能力と自律性を向上させる動きが活発化、インテリジェンスを毒物扱いする世論に対し、冷戦終結によってもたらされる不確実性を利用して独自のシステムを構築していく

93年の北朝鮮の挑発の予知に失敗した経験から、情報本部の早期警戒機能が創設され、宇宙の軍事利用への道が開け、拉致問題での教訓から政治と官僚の緩慢さの打破を目指す

再考の時期(20012013) ⇒ 新しい世界秩序に関連した脅威への対応が、日本のインテリジェンス・コミュニティの包括的な改革を促し、07年の白書では軍事インテリジェンスの収集を明確な目的に謳うが、政治的なリーダーシップが不安定なまま改革には限界

再構築の時期(2013) ⇒ インテリジェンス・コミュニティの中でお互いをライバル視し統制を欠いた戦時の弱点が冷戦を越えてもまだ存在し、安全保障分野における安易なアメリカへの依存により、包括的な中央情報機関を整備するという意思にも欠けていたが、重大な戦略環境の変化が大きな改革の後押しとなって、特定秘密保護法とNSCという二本柱が完成する。その間にも内閣情報調査室(内調)は警察官僚を中心とした組織を維持し、国家安全保障局NSSと並行して首相への直接アクセス権限を享受しており、縦割り体制の打破は容易ではない

本格的な情報組織の必要性についての世論の理解は深まっているが、最後に残された課題は監視体制、政治主導と国民の支持こそが効果的な改革の中心的要素

日本のインテリジェンス・コミュニティの将来の展望として3つのケースが考えられる

1はアメリカとの同盟関係が続く現状維持で、効果的で低コスト

2は自主防衛の道で、大規模な対外情報機関の設置が必要となり、秘密工作活動の世界に戻る

3は中国との連携強化

力と見識の効率的なバランス構築こそが必須

 

 

訳者解題

本書は、日本のインテリジェンスについての初の通史

日本のインテリジェンスを研究する上での障碍は、公的な資料の欠如であり、著者は多くの実務経験者へのインタビューでそれを補った。長年日本の外交安全保障問題を研究し、インテリジェンス分野にも通じた研究者である著者だからこそ可能になった

本書の一貫したテーマは、日本の官僚組織に根付く縦割りの問題 ⇒ 「サイロ(格納庫)」「ストーブパイプ(煙突)」と表現、日本のインテリジェンスが克服すべき最大の課題とする

インテリジェンスの欧米のスタンダードである分析視覚――①収集、②分析、③伝達、④保全、⑤秘密工作、⑥監視に、インテリジェンス・コミュニティの変化を促す推進力として、①戦略環境、②技術、③失敗という視覚を加えて検討

さらには日本特有の問題として、政府の対米依存とその状況への憤り、そして反軍国主義的な世論という要素も加味

筆者が最も力点を置くのは、2013年以降の安全保障・インテリジェンス体制の改革。再び体制の拡張期に入ったと見做され、縦割りも緩和されたが、俯瞰的にはまだ道半ば

最後に著者は将来の展望として3つのシナリオで、それぞれ求められる日本のインテリジェンス能力を概観

民主主義国のインテリジェンスには必ず行政府や立法府からの監視がつきものであり、監視体制をどのように構築するかは、日本人自身が考えなければならない課題

 

 

 

 

特務 リチャード・J・サミュエルズ著

近現代日本政治の死角照射

2021220 2:00 日本経済新聞

また、やられてしまった。近現代の日本政治史をめぐる死角を、外国人研究者に照射されてしまったのである。もとより、本書の著者が様々に参照し引用するように、多くの優れた日本人研究者が、これまでも日本のインテリジェンスをテーマにしてきた。しかし、戦前と戦後にわたって、しかも、非日本人にも理解可能な分析上の整理を施した上で、広く日本政治や国際関係と結びつけての分析は、稀有であろう。

原題=Special Duty(小谷賢訳、日本経済新聞出版・3000円) 著者は米マサチューセッツ工科大学フォードインターナショナル教授。11年、旭日重光章受章。 書籍の価格は税抜きで表記しています

サミュエルズ教授が提示する分析視角は、インテリジェンスの収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視の6項目であり、これに戦略環境の変化、技術革新、失敗の経験が掛け合わされる。そこから浮かび上がってくるのは、まず、宿疾とも言うべき「サイロ(格納庫)」、つまり、官僚機構の縄張り争いである。これは戦前・戦後を一貫しているが、やはり戦前には軍部の存在が大きく、戦後には外務省や警察、公安当局、自衛隊、そして内閣情報調査室などのプレイヤーが錯綜している。さらに戦後には、インテリジェンスの対米依存とそれに対する不満という不協和が重なる。インテリジェンスの歴史は、日米関係の縮図でもある。

こうした問題を克服すべく、戦後の日本は何度もインテリジェンス改革を試みてきた。敗戦から冷戦を経て「第二の敗戦」たる湾岸戦争までの46年間、そこから2001年の同時多発テロまでの10年間、さらに第二次安倍晋三内閣が動き出す13年までとそれ以降と、国際環境に応じて大きく時期区分しながら、本書は分析を進めていく。

冷戦期に中曽根康弘首相はスパイ防止法の導入に失敗し、冷戦後には安倍首相が国家安全保障会議の設置など様々な制度改革を実現した。首相の他にも、町村信孝氏のような有力政治家や谷内正太郎氏のような官僚がそれを支えた。また、ソ連のミグ25戦闘機函館空港強行着陸事件や韓国による金大中氏拉致事件、ソ連による大韓航空機撃墜事件、北朝鮮による日本人拉致問題など、戦後史上の大事件がインテリジェンスとの関連で解き明かされる。

今後の日本のインテリジェンスは日米協力の枠組みを維持するのか、自立を模索するのか、それとも、対中依存に向かうのか。著者の問いかけは、日本の進路そのものへの問いでもある。

《評》同志社大学教授 村田 晃嗣

 

 

紀伊国屋ホームページ

出版社内容情報

日本は日米同盟を深化させ、「ファイブ・アイズ」加盟への道を進むのか。
「自主防衛」を選び、インテリジェンス・コミュニティを完全に再構築するのか。
あるいは中国との協調関係を選び、中国が反対するレーダーシステムや衛星の導入を抑制し、米国よりも中国と情報協力するのか。
* * *
冷戦終結後、日本の安全保障戦略家たちは日本のインテリジェンス改革に取りかかり、日本の安保組織を再構築しはじめた。
第二次世界大戦の完全な敗北、アメリカへの服従、国民の軍部不信といった戦後日本のインテリジェンス・コミュニティへの足枷が、どのようにして「新しい世界秩序」のなかで外され、2013年の特定秘密保護法と国家安全保障会議(NSC)創設に至ったのか。戦前から現在まで、日本の100年におよぶインテリジェンス・コミュニティの歴史を、インテリジェンスの6要素――収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視――に焦点を合わせて考察する。そして直近の改革が日本の安全保障にどのような結果をもたらし得るのか、過去の改革がどのような帰結だったのかを明らかにしていく。

内容説明

日米同盟を深化させ、「ファイブ・アイズ」加盟へ突き進むのか。「自主防衛」を選び、インテリジェンス・コミュニティを完全に再構築するのか。中国との協調関係を選び、中国が反対するレーダーシステムや衛星の導入を抑制し、米国よりも中国と情報協力するのか。明治から敗戦までの拡張期、冷戦時代のアメリカ従属期、冷戦後の再構築期という日本の100年におよぶインテリジェンス・コミュニティの歴史を、インテリジェンスの6要素(収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視)に焦点を合わせて考察。過去の改革の帰結を振り返り、直近の改革が日本の安全保障にどのような結果をもたらし得るのかを明らかにする。

 

 

特務 スペシャル・デューティー リチャード・J・サミュエルズ著

2021/01/24 05:00 読売

「情報史」をひもとく

評・国分良成(国際政治学者・防衛大学校長)

日本経済新聞出版 3000円

 スパイを意味する「特務」という言葉は、戦中の「特務機関」を連想するからであろうか、ネガティブな響きが残る。本書は戦前の時期も扱っているが、主として戦後における日本のインテリジェンス史を膨大な公開資料とインタビュー調査を駆使して、克明にひもといた学術書である。論理明快な力作だ。著者のサミュエルズ氏は、アメリカにおける日本の政治・安全保障研究の第一人者である。

 インテリジェンスの要素には収集、分析、伝達、保全、秘密工作、監視があるが、本書ではこれらの展開と課題を19世紀末から現在に至るまで丁寧に跡付けている。戦前のインテリジェンスは特に軍事的必要性から急速に発展したが、軍部がそれらの機能を独占することで、外務省などの他機関は抑え込まれた。

 戦後になると軍事系統は解体されたが、冷戦の中でインテリジェンスの重要性は再認識され、内閣官房、警察庁、公安調査庁、外務省、自衛隊などでそうした機能が再建された。冷戦後は安全保障環境の複雑化とアメリカの地位の相対的低下により、その重要性が増した。そして近年に至り国家安全保障会議と国家安全保障局が創設され、各官庁に存在した情報機関が集約されつつある。

 著者は日本のインテリジェンスを世界水準の中で相対的に吟味している。その上で日本に特徴的な問題点として、極端な縦割り行政の悪弊が歴史的になかなか改善されないこと、戦後はアメリカ頼みであって自律性に乏しいことを指摘している。耳の痛い話だが、極めて重要だ。

 日本におけるインテリジェンス議論は、かつては「戦前への回帰」という軍国主義トラウマからの批判がほとんどであった。しかし、近年日本の社会はそこから脱して、より現実的に「民主主義的規範の健全性の維持といった普遍的な内容へと変化」しつつあると著者は言う。長年日本を真摯に見つめてきた著者の眼力を感じさせる分析だ。小谷賢訳。

 Richard J. Samuels=米国・マサチューセッツ工科大教授。日米友好基金理事長も務めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia

特務機関は、日本軍の特殊軍事組織をいい、諜報宣撫工作対反乱作戦秘密作戦などを占領地域、作戦地域で行っていた組織。

呼称の変遷[編集]

大日本帝国陸軍(以下、陸軍)では元々、「特務機関」とは上述のような特殊任務を遂行する組織を称したものとは異なり、軍隊師団連隊など)、官衙陸軍省参謀本部教育総監部など)、学校(陸軍士官学校など)という3つの区分に属さない組織、つまり元帥府軍事参議院侍従武官府皇族附武官外国駐在武官・将校生徒試験委員等に与えられた呼称であった。しかし日露戦争中の明石元二郎大佐による「明石機関」の活動を契機として、シベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを「特務機関」と呼ぶようになった。本項では上記の意味における特務機関を中心に述べる。

しかしながら、同時期の日本海軍(以下、海軍)や外務省などにも「〜機関」と称される特殊組織は存在した。やはりそのいずれもが特殊任務を遂行したことから陸軍での呼称を準用したものと思われる。さらに、第二次世界大戦期やそれ以前の時期に限らずに、また場合によっては日本以外の国や団体が設置した組織についても「特務機関」の語が用いられる例がある。

概要[編集]

日露戦争中、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行った。この活動は、陸軍における最初の本格的な特殊任務として、陸軍中野学校の授業でも題材とされた。この種の活動を行う組織が「特務機関」と称されたのは、シベリア出兵に際して、純粋な作戦行動以外に生じた種々の複雑困難な問題に対応する必要から、1919年に現地における情報収集・謀略工作を担当する機関を設置したときである。「特務機関」の名称の発案者は、当時のオムスク機関長高柳保太郎陸軍少将で、ロシア語の「ウォエンナヤ・ミシシャ」の意訳とされる。

このとき設置された特務機関の任務は、統帥の範囲外の軍事外交と情報収集とされた。初期の特務機関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストクハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。シベリア撤退後は、そのままハルビン特務機関を中心に、ソ連各地で情報収集にあたっていた。1940年にそのハルビン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は19458月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えた。

また明治期後半から、陸軍は中国各地の地方政権や軍閥軍事顧問(団)を派遣した。それらの軍事顧問と配下の機関員ら含む、組織全体でもって「特務機関」として活動していた。例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。また、東南アジア各地においても中国における軍事顧問と同様の軍事顧問という形での「特務機関」が存在し、それらは反英(米・蘭)運動を煽動する各種の工作活動を行った。それら「特務機関」に関与した日本人の中には、敗戦においてもなお現地に残り、被植民地民族の独立運動に際し、有形無形の支援を行った例も一部においてあった。例えばインドネシア独立戦争におけるPETA(郷土防衛義勇軍)に対するそれである[注釈 1]

ハルビン特務機関[編集]

ハルビン特務機関は1917年のシベリア出兵時に、関東都督府陸軍部附として黒沢準少将が駐在したのが始まりで、イルクーツク、ウラジオストク、アレクセーエフカ満州里チチハル等に駐在していた情報将校グループらを統轄した。機関は一時、浦塩派遣軍隷下に移ったが、のち再び関東軍司令部隷下に復帰し、1940年関東軍情報部に改編された。機関長は情報部長となり、その他の在満機関を支部に改編し統轄した。

関東軍情報部[編集]

関東軍情報部(ハルビン

間島支部(元・延吉支部)

琿春出張所

黒河支部

熱河支部

通化支部

チャムス支部

興安支部

東安支部

ハイラル支部

満州里出張所

三河出張所

豊原支部

奉天支部

大連出張所

牡丹江支部

綏芬河出張所

チチハル支部(昭和9年に廃止されたが昭和202月頃に復活したとの説がある)

対英インド独立工作における特務機関[編集]

対米開戦前において、日本の陸軍部は同時に対英開戦が回避不可能であることを想定し、当時イギリス植民地であった英領インドの対英独立工作を画策し始めた。その端緒はタイ王国公使館附武官田村浩大佐の下に設置された特務機関であった。1941(昭和16年)9に発足したこの機関は、参謀本部の藤原岩市少佐以下10名程から構成され、機関長藤原(Fujiwara)の頭文字と自由(Free)を意味する英語をかけてF機関と命名された。またF機関の人員はすべて陸軍中野学校出身の青年将校であり、発足当時は数名だったものの12月には10名を越えていた。発足当時にF機関に与えられた任務は、インド独立連盟やマレー・中国人などによる反英団体との交渉・支援を中心としたマレー方面の工作活動に関して、田村大佐を補佐することであったが、開戦直前より南方軍の指揮下となり、インド独立連盟と協力し工作活動に当たり、インド国民軍の編制にも当たった。その際、機関長藤原少佐は「私達はインド兵を捕虜として扱わない。友情をもって扱い、インドの独立の為に協力したい」とインド兵に宣言した。当初はインド駐在イギリス軍の内部分裂を目的としていた為に、インド人を対象とした工作を行っていたが、マレー作戦終了から目的が変わり大東亜新秩序の建設、即ちインドでの反英運動を煽り、ひいてはインドを独立させることでイギリスのアジア・太平洋戦線からの離脱を狙った。

同機関は岩畔豪雄陸軍を機関長とする岩畔機関に発展改組され、250人規模の組織となった。マレー作戦等で投降したインド兵を教育しインド国民軍に組み入れ、同国民軍の指導、宣伝などを行った。機関は6班で構成され、総務班・情報班・特務班・軍事班・宣伝班・政治班があった。

機関はやがて500名を超える大組織となり光機関と改称された。光機関は1943年(昭和18年)、ナチス・ドイツに亡命していたインド独立運動の大物スバス・チャンドラ・ボースを迎え、ボースと親交の深い山本敏大佐が機関長となった。光機関の命名はインドの言語(ヒンディー語)でピカリという言葉と、「光は東方より来る」という現地の伝説からとされた。支援していたインド国民軍は自由インド仮政府軍に発展、一部はビルマの作戦に従事した。またインパール作戦の途中、大本営の遊撃戦重視への作戦方針変更に伴い、機関は南方軍遊撃隊司令部と改称し同時に、前述の各班の外参謀部・副官部・マライ支部・タイ支部・サイゴン出張所が設けられた。途中機関長が磯田三郎中将に交代するも、機関自体は終戦まで軍事顧問団として活動した。結局インパール作戦は失敗し当時の日本陸軍インド国民軍連合国軍に降伏した。

南機関とビルマ戦線[編集]

詳細は「南機関」を参照

戦後の「特務機関」[編集]

河辺機関 - 戦後の日本における、G2河辺虎四郎辰巳栄一らによる反共主義工作機関

 

 

 

 

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