実録・銀行  前田裕之  2021.6.22.

 

2021.6.22. 実録・銀行 トップバンカーが見た興亡の60年史

 

著者 前田裕之 1986年東大経卒。日本経済新聞社に記者職で入社。12年から編集局経済解説部編集委員(現在は同編集委員室編集委員)。経済学の視点を取り入れながら経済現象を分析し、その背景を解説する記事などを執筆。専門はマクロ経済、金融

 

橋本徹 1934年岡山県生まれ。県立高梁高卒、57年東大法卒、富士銀入行。91年頭取。03年ドイツ証券。11年政策投資銀行社長。17年日本経済研究所理事

 

発行日           2018.2.25. 第1

発行所           Discover 21

 

 

はじめに

90年代後半の金融危機の後、大きな危機は発生していない

経済を支える金融は、大部分の期間機能してきたが、その中心をなす銀行が「よくやっている」と評価する声はあまり聞こえてこない

バブル崩壊の時は、戦犯としての銀行バッシングがおき、リーマン・ショックの時も銀行が悪者扱いされたが、その裏にある借り手の存在にあまり目が向かないのは何故か

金融資本主義という言葉にはマイナスのイメージがつきまとう。資本主義社会が金融という強者主導で回り始めると、リーマン・ショックのような事態を引き起こしかねない。資本主義社会は、製造業のように地に足がついた産業が中心になるべきであり、金融が中心であってはならないというニュアンスがある

グローバル金融資本主義とすると、さらにイメージが悪くなる

現実の世界はグローバル金融資本主義によって世界経済が回っており、どう対処したらいいのか。その方法を探るために、1人の銀行員にスポットを当て、グローバル金融資本主義の源流を辿りながらその変遷を追い、その中で生きていかざるを得ない現代人の参考に供したい

 

第1章      手探りの国際化――終戦から内需主導の高度成長へ

1.    フルブライト留学と米国の実像

外交官試験に失敗した後、母の知人の山本正明(富士銀から後に沖電気社長)から入行を勧められ、国際業務拡大のため英語力を買われて採用。元々宣教師の説教の通訳で勉強

戦後の冷戦を背景に、米国政府は対日政策を転換し、民間貿易の自由化を進め、47年には関連業務を日本の銀行にも委託、9行が外為取扱銀行に指定。49年には11行が外為銀行に指定され外貨の売買開始。外為法施行により50年にはコルレス契約締結

富士の行風は自由闊達。52年の講和条約で旧財閥の称号が解禁となったが富士は変えず

58年結婚直後、フルブライト留学制度に合格、コロラド大でのオリエンテーションの後カンザス大で経済学の基礎を学ぶと同時に、米国のすごさと弱味を見分

2.    カムカムおじさんと宣教師から学んだ英語

アメリカでコック見習いをしていた伯父が帰国し一緒に住んでいたのが英語に親しむ契機

NHKラジオの英会話で勉強、番組の平川アナウサーに岡山に来てもらい英語劇を披露

2の時岡山大ESS主催の英語弁論大会で優勝。クリスチャンの母について教会に通ったのも英語の勉強に役立ち、宣教師の通訳をやる。53年流行性肝炎に罹患したのが契機で受洗

53年、日本で開催の日米学生会議参加、在日米人との交流が始まる

留学の最後にBofAで研修

3.    サンフランシスコかロサンゼルスか

60年帰国後外国営業部配属。66年米国での2カ店目の開設に携わる。69年日本からの輸入取り扱いの多いロスにREP開設、72年支店昇格

4.    シティバンクの思惑

68MOF

同年暮れ、Citibankから日本での合弁事業の可能性の打診があり、70年富士ナショナル・シティ・コンサルティング発足。アジアでの合弁の国際投資銀行としてアジア・パシフィック・キャピタルも設立。米国の国際収支悪化に伴うドルの流出でユーロダラー市場が拡大、米銀はそれを積極的に活用してビジネスにつなげようとしていた

 

第2章      オイルダラー争奪戦――石油ショックで成長に急ブレーキ

1.    第一勧銀に奪われたトップの座

71年従業員組合委員長。総枠14%の賃上げを提案、実質14%を実現。週休2日制を加速

71年、第一勧銀誕生に際し、預金量トップのプライドから地域ナンバーワンの目標に転換

71年、ニクソン・ショック。実力競争の時代だとハッパがかかる

2.    産声を上げたロンドン証券現法

72年、国際企画部に異動、ロンドン証券現法の設立に関与。クラインワート・ベンソンを合弁相手とし、社長に就任

73年、石油ショックでジャパン・プレミアム発生するが、合弁相手がユダヤ系でなかったのが幸いして、ユーロボンドの買い手の産油国からのアラブボイコットは回避できた

キャノンのCBで初の副幹事参入を果たすと、証券業界から猛反発があって、開店休業になるが、75年新日鉄が興銀子会社を副幹事として起債することになり、大蔵省内の3局合意により証券系子会社の下なら幹事団参入が認められるようになる

3.    支店にやってきたナポレオン

79年帰国、新橋支店次長

80年、Citibankとの合弁事業を担当していた時の担当役員だった松沢頭取の秘書

4.    ヘラー社買収、暗号は「ホリデー」

82年国際企画部副部長。特命でオイルダラーのリサイクルに取り組む。カントリーリスクが高まる中、新たに米国市場に着目。米国内の中小企業向け融資を新たな商機と捉え、営業基盤拡充の一環として、コンサルタントの勧めで全米に拠点網を持つ商業金融会社の買収を検討

ソロモンから提案のあった全米5位のウォルター・ヘラーをターゲットとし、モルガン・スタンレーをアドバイザーに買収交渉開始。83425百万ドルで決着。トップはGECCからスカウトし、橋本がNo.2でシカゴに駐在。米国流のマネジメントを学び、経営手法を吸収

不良債権の償却で追加支援725百万ドルを投入、さらにCPでの資金調達に富士銀が信用補完をすることでコストを下げ、88年度から黒字化、98年再上場し10億ドルを回収

みずほ設立構想の中で、01GECCに売却したときには53億ドルとなり、富士銀の取り分は27億ドル

 

第3章      つかの間の「オーバープレゼンス」――バブル急膨張でモラル喪失

1.    収益ナンバーワンの呪縛

81年以降の富士銀は、収益力の強化を目指す

主要国では国内経済の不況の中で物価が上昇するスタグフレーションに見舞われ、米銀は海外、特に中南米市場に注力

82年には原油価格値下がりでメキシコがデフォルト、米銀が相次ぎ苦境に

85年のプラザ合意で50%の円高が進む

2.    焦げ付いた途上国融資

86年、国際審査部長。途上国向け融資の不良化で、邦銀28行が共同出資した買取会社を作って償却を進める

収益力強化のライバルは住友。住友が79年導入した総本部制に倣って各行も組織を改革するが、これが不動産担保融資急拡大の起爆装置となる

3.    ウォルフェンソンとボルカーの助言

88年、国際部門担当常務となって直面したのがBISの自己資本比率規制。邦銀のオーバープレゼンスがターゲットとされ、富士銀は海外市場に上場、国内外での資本増強に走る

手数料収入増強の手段としてMA業務を推進、89年にはボルカー、ウォルフェンソンのJDWと合弁、富士・ウォルフェンソン・インターナショナルを設立、欧州でも共同で欧州アドバイザリーボードを立ち上げる

90年副頭取に昇格、国内業務を担当、過当な収益競争が気になったが、No.1追求の路線に変化はない。国際部門でも現地化戦略を掲げ海外拠点展開を進める

4.    頭取就任と赤坂支店事件

91年、先任を飛び越えて頭取に就任。国際部門出身で、国内支店長経験のない頭取は初。都銀・長信銀・信託の中でも一番若い

就任直前、架空の定期預金証書による不正融資事件勃発。直前にもいくつかの支店で同様な事件が発覚していたが、今回は総額2,570億円。さらに橋本蔵相秘書の関与が判明

頭取就任の訓示では、収益No.1路線を撤回し、体質改善を経営目標とする

証券・金融スキャンダルが連日報道され、国会でも証人喚問。前任の端田頭取は記者会見で非を認める

5.    行員誘拐事件、犯人からの電話

91年末、行員が誘拐され身代金要求。赤坂の事件で動揺している銀行が狙われたが未遂に終わる

赤坂事件を契機に、広告・イメージ戦略にも目を向け、沢松奈生子とスポンサー契約

沢松和子・奈生子と親交がある高橋衛の提案

 

第4章      縮小に追い込まれた国際業務――バブル崩壊で不良債権が急増

1.    石田梅岩の教え

顧客第1主義は、創業者安田善次郎の教えでもある。1912年『身家盛衰循環図系』で自身の人生を振り返り、盛衰の流れを図にした人生訓となっている

92年、富士経営懇話会発足。経営に外部のチェックが働く仕組みとして、産学界の名士を招いて自由討議をする場を作る

メンバーの1人、明治大教授の由井常彦が、江戸時代に商人道を説いた石田梅岩の『都鄙(とひ)問答』を解説した自著を推薦。プロテスタンティズムの精神や、安田善次郎の考えにも通じるものがあると知って受け入れる

2.    険しいサウンドバンキングへの道

新しいキーワードが「ユニバーサルバンク」

バブル経済崩壊の中で不良債権処理が果てしなく続く

サウンドバンキング・プロジェクトと称して本支店一体となって不良債権の処理に取り組む

新たな良質資産を求めて注目したのがリテールマーケット。主力商品は住宅ローン

海外戦略では、欧米からアジアにシフト

3.    信組が開けたパンドラの箱

9299年度、不良債権処理総額は65.7兆円

まず中小金融機関が破綻、次第に大手へと拡散。最初が東邦相互で、92年預金保険機構の資金援助を得て伊予銀行が吸収

94年の東京協和信組と安全信組の破綻処理では、個別処理では追い付かず、日銀が民間金融機関と共に受け皿となる東京共同銀行を設立、資産負債の譲渡を受ける。預金保険機構と出資者から資金援助を受け不良債権を処理 ⇒ 金融システム救済のための措置と説明されたが、「奉加帳方式」は大蔵省への不信と公的資金注入に対する国民のアレルギーを生む

共同銀行は、96年のコスモ信組の処理でも利用され、同年の預金保険法改正を受け、同年整理回収銀行に生まれ変わる

4.    住専問題に明け暮れる

95年、橋本は全銀協会長に就任。不良債権処理に明け暮れる

90年の土地関連融資の総量規制の対象外だった住専は、8社合計13兆円まで住宅ローンを伸ばし、傷を深める

全銀協として当初は、貸し手の自己責任を強調していたが、農林系統金融機関は母体行責任を主張、93年には大蔵省が農水省が裏で手を握り、農林系による融資の元本を保証

95年の大和ニューヨーク事件で後手に回った大蔵省の対応もあって緊迫

同年、政府が住専救済策を閣議決定。損失見込み7.5兆円のうち、母体行が債権3.5兆円を全額放棄、母体行以外の一般金融機関と農林系が貸出残高に応じて分担、農林系の残高2.3兆円のうち5,300億円を負担、財政支出6,850億円、残り1兆余を2次損失として先送り

銀行は、関連ノンバンクの不良債権処理も併せて赤字決算となり減配となるが、担保不動産の流動化の最終処理はこれからが本番

国会では参考人質疑で経営責任を追及され、大蔵省からも責任の明確化を求められるが、各銀行とも反発。予算案審議にも支障をきたしたが、何とか予算は通過

96年、橋本は会長任期を終えると頭取を辞任。空席だった会長となり、興銀の黒沢が代表権なしの会長になったのに対し代表権は維持。引責との見方に対し、不良債権問題に財務的なメドをつけ、ヤマを越したことで自分なりに責任を全うしたと考えての交代だと説明

住専処理法案の審議を前に、全銀協の前会長として、衆院予算委員会の証人喚問の要請

 

第5章      海外市場で再起を期す――危機の連鎖で金融再編が加速

1.    山一と安田信託のくびき

96年、橋本首相が日本版ビッグバン構想を表明、規制緩和を柱に金融システム改革を実行

1弾が97年外為法改正で、為替管理を全廃、外為業務、資本取引、対外直接投資を自由化

98年末施行の金融システム改革法で、多岐にわたる規制緩和が実現

規制緩和や自由化は必要だが、不良債権問題の最中に実行するのはタイミングが悪い

974月の5%への消費増税も景気に冷水を浴びせ、戦後最悪の景気後退に突入

97年、香港返還の翌日タイ・バーツの為替レートが急落し、アジア通貨危機の引き金となる

97年、三洋証券が会社更生法申請。コール市場での債務不履行が端緒

同年、北拓が資金繰りの破綻から北海道銀行への営業譲渡を発表

山一は、ノンバンク支援による損失計上に次いで総会屋への利益供与、投資不適格への格下げ、さらには簿外債務の存在が露見するに及んで富士も支援を打ち切り自主廃業へ

矛先は富士に向かったが、安田信託の経営不安が噴出、不良債権処理で赤字に転落、株価も急落するに及んで、富士の株価も半年で1/3以下に急降下。資産圧縮などで何とか切り抜け

98年、金融安定化法成立、総額30兆円の公的資金活用の枠組みを作る。横並び申請で21行合計18,156億の公的資金投入が決まるが、焼け石に水

983月期は、米国SEC基準でのリスク管理債権を開示、18行で21.7兆円に上り、18行中13行が経常赤字となり10兆円の不良債権を処理

98年、金融再生法と早期健全化法成立により、長銀と日債銀の特別公的管理が決まるとともに、大手14行と地銀1行は総額7.5兆円の公的資金注入を申請

98年、富士・一勧・安田信託が、信託子会社の合併と安田からの財産管理部門の営業譲渡に合意。99年第一勧銀富士信託が誕生、安田から1,400億で営業譲渡を受ける

2.    みずほ誕生の真相

後任の山本頭取が強調した「攻勢に転ずる」ための有力な選択肢は金融再編

欧米の有力な金融機関が事業の拡大や合従連衡に取り組んでいる実態を調査

米銀の復活の切り札は、不良債権の思い切った処理とリストラ。そのための資本増強に始まり、経営資源の集中、コアビジネスの確立へと進み、次の一手が大型再編とユニバーサルバンクへの変身

97年、山本と一勧の近藤頭取が再編が必要との認識で一致するが、一勧は総会屋への不正融資への対応に追われて余裕なし。富士も同年末には山一や安田の破綻で株価急落

98年、一勧は分野別の提携を逆提案、信託部門での提携合意

99年、興銀が、長銀・日債銀の破綻による逆風から、一勧に的を絞って再編交渉申し入れ。一勧の杉田は、富士も入れた3行統合の可能性を打診。3カ月後には3行合意

78年頃、松沢頭取が過当競争から抜け出す方策として図抜けた銀行を目指し、行風の似通った三和との合併を考え、赤司頭取に声を掛けるが、渡邊名誉会長の反対で潰れ、80年代後半には東銀に合併を申し入れて拒絶された過去があり、単独路線には拘りがなかった

00年、金融持ち株会社みずほホールディングス発足、3行が傘下に入る。証券子会社や信託も合併して傘下

9.11では、偶々滞在していたフェニックスから車でロス経由週末にニューヨークに入る

3.    ドイツ証券流ダイバーシティ

03年、ドイツ証券特別顧問就任、半年後東京支店会長に

国際化とダイバーシティが組織の基盤となっていることに驚く

人脈を使ってトップセールス

08年退任後は、企業のアドバイザリー・ボードを渡り歩く

0410年、ICUの理事長

4.    政投銀の存在意義は

08年、日本政策投資銀行の完全民営化決定に際しアドバイザリー・ボードのメンバー

11年、2代目社長就任

08年リーマン・ショック、11年の東日本大震災、何れも危機対応業務の担い手はなく、政投銀と商工中金が指定金融機関となって乗り切る。民営化が進まなかった怪我の功名であり、政府系金融機関の存在意義が見直され、社長を退任した15年には危機対応業務を義務付け民営化を先送りする法案が成立し、民営化は限りなく遠のいた

橋本が地域の活性化(地方創生)の手本にしたのが、故郷高梁の出身で偉人の陽明学者・山田方谷。儒学者佐藤一斎塾で佐久間象山を差し置いて塾頭に抜擢され、故郷に帰って藩校「有終館」の学頭に就任。備中松山藩の財政を立て直し。大政奉還の上奏文を起草。維新後は任官の誘いを断って岡山での教育に注力。「心即理」「知行合一」「致良知」「至誠惻怛(そくたつ)

17年、政投銀グループのシンクタンク、日本経済研究所理事就任

銀行の生き残る道は? 16年導入のマイナス金利政策の煽りで強い逆風を受け厳しい決算となり、リストラを断行。フィンテックへの対応。国際業務が改めて脚光を浴びる

 

 

あとがき

トルストイ『戦争と平和』からの抜粋。「歴史上の事件の本質、つまりその事件に参加した人々の全集団の行動に目を注ぎさえすれば、歴史上の英雄の意思が集団の行動を指導しているのでないばかりか、逆に、常に引き回されていることがわかるはず。ナポレオンのロシア遠征の失敗は、歴史上最も教訓的な現象の1つ」

翻訳者の工藤精一郎も、歴史を動かすのは偉人ではなく、無数の人々の意思の融合、つまり無限に小なるものの集まりと確信

 

Wikipedia

橋本 徹(1934(昭和9年)1119 - )は、日本銀行家富士銀行頭取、ドイツ証券会長、日本政策投資銀行社長のほか、国際基督教大学理事長も歴任した。

人物・来歴[編集]

両親とも教員の子息として岡山県高梁町(現:高梁市)に生まれる。年若い頃から英語に関心を抱き、高梁高校在学時には英語クラブに入部。東大法学部進学時にも英語研究会に所属したほか、同研究会の傍ら柔道部にも在籍した[1]

大卒後の就職先として外交官を目指し、外務公務員上級試験にチャレンジするも不合格となったため[2]富士銀行(現:みずほ銀行)に入行。新宿支店に配属され、その後フルブライト交流計画の試験に合格しカンザス大学に留学。帰国後はほとんどを国際業務関連においてキャリアを積んだ[1]1973、英国の商業銀行との合弁で設立された証券会社の初代社長として渡英。ロンドン6年間滞在した[3]。また富士銀が買収した米国シカゴに本拠を置くノンバンク会社「ヘラー」では、交渉の初期段階からかかわり、19841月、自らが副社長として現地に赴き、経営再建に取り組んだ[4]

19916月には、続投するものとみなされた端田泰三頭取兼会長が乱脈融資によって経営難となった富士銀系の大阪府民信用組合や、主力行を担う飛島建設などの経営悪化から2期で会長専任に退いたことを受け頭取に就任した[2]。就任直後には、衆議院証券金融問題特別委員会に、巽外夫住友銀頭取、黒澤洋日本興業銀行頭取と共に、参考人として招致され、バブル経済を背景に不祥事が露見したことに関する質疑に応じた[注釈 1]

19964月、住専問題によって久保亘蔵相が、銀行経営者に辞任を求めていたことから、任期途中であるが辞任を表明。同年6月、代表取締役会長に退いた。また辞任に先立ち同年5月には住専問題に関し参議院予算委員会で橋本に対し証人喚問が行われた[6]。その後会長と併任で日経連副会長や、経団連評議会副議長などを歴任し[7]20024月、みずほFGの発足に伴い会長から退いた[8]

200210月、富士アドシステム顧問に就任して間もない頃、日本で豊富な人脈を有している人を会長として招きたいと考えていたドイツ証券東京支店長から、「ドイツ証券にきてほしい」と懇請され、翌20037月から会長に就き、企業相手の渉外などを担い[7]20089月退任した。

20116月、東大柔道部時代の先輩である室伏稔日本政策投資銀行社長(元伊藤忠商事社長)からに頼まれ、政投銀の助言機関の一員を務めていたことから、図らずも後継として指名され社長に就任[9][10]日本航空の経営再建の支援や、東日本大震災からの復旧・復興さらに国際業務の強化などを手掛け[3]20156月相談役に退いた[11]。ほかに、キリスト教に基づいた道徳再武装運動であるイニシアティブス・オブ・チェンジの会長のほか、国際基督教大学の理事長も歴任した。

略歴[編集]

1934(昭和9年) - 出生。

1953(昭和28年)- 岡山県立高梁高等学校卒業。

1957(昭和32年)- 東京大学法学部を卒業後、富士銀行(現:みずほ銀行)に入行。

1986(昭和61年)- 同取締役国際審査部長。

1987(昭和62年)- 常務取締役

1990(平成2年)- 同副頭取。

1991(平成3年)- 頭取

1995(平成7年)全国銀行協会連合会会長。

1996(平成8年)- 富士銀行会長。

1997(平成9年)- 日本経済団体連合会副会長。

2000(平成12年)- 富士総合研究所理事長。

2002(平成14年)- 富士アドシステム顧問。

2003(平成15年)1 - ドイツ証券東京支店特別顧問。

2003(平成15年)7 - 同東京支店会長。

2005(平成17年)12 - 同取締役会長。

2011(平成23年)6 - 日本政策投資銀行代表取締役社長・社長執行役員。

2015(平成27年)6 - 同相談役。

脚注[編集]

注釈[編集]

富士銀赤坂支店の不正融資事件、および当時の海部内閣における蔵相であった橋本龍太郎の元秘書が事件を起こした同赤坂支店課長を異動させないよう要請したとされる件、富士銀から大阪府民信用組合への紹介預金がイトマンに流れたか否かなどを追及された[5]

出典[編集]

1.    a b 神の声が告げた「安時而処順」の心 -日本政策投資銀行社長 橋本徹【1. PRESIDENT Online. (2012716) 2016726日閲覧。

2.    a b 「橋本徹さん 富士銀行 バブル批判に引き締め 91新社長」『朝日新聞』199173

3.    a b 英国勤務から40年も「壮心不已」 -日本政策投資銀行社長 橋本徹【2. PRESIDENT Online. (201286) 2016726日閲覧。

4.    ^ 「富士銀行頭取の橋本徹さん 全国銀行協会の会長に就任」『朝日新聞』1995426

5.    ^ 「管理の甘さ反省 3頭取参考人審議 衆院特別委」『朝日新聞』1991831

6.    ^ 「富士銀行の橋本徹頭取が任期途中で退任 住専問題で引責か」『朝日新聞』1996427

7.    a b 「外資系証券が邦銀元頭取をスカウト」『週刊朝日』200388

8.    ^ 「みずほ、3頭取退任へ 若返りPR」『朝日新聞』20011127

9.    ^ 政投銀社長に橋本氏 元富士銀頭取、2代続けて民間出身. 日本経済新聞. (2011622) 2014520日閲覧。

10. ^ “人事について (PDF)”. 日本政策投資銀行ニュースリリース (2011623). 201239日閲覧。

11. ^ 政投銀社長に柳副社長昇格 初の生え抜き. 共同通信. (201562) 201563日閲覧。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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