史記 司馬遷の世界  加地伸行  2021.5.25.

 

2021.5.25. 史記 司馬遷の世界

 

著者 加地伸行 1936年大阪生まれ。京大文卒。専攻は中国哲学史。現在、阪大文助教授。文学博士

 

発行日           1978.12.20. 第1刷発行     1984.6.20. 第6刷発行

発行所           講談社 (現代新書)

 

いまだ呪術と迷信が渦巻く中国前漢の時代、武帝の怒りを受け、宮刑により去勢された司馬遷は、その後、屈辱感に満ちた人生を、どのように歩もうとしたのか

彼の唯一の救いは父・談の遺言だった。「『史記』を書き上げ、後世に名を残せ」。極刑をバネに、1人の歴史家の再出発があった。紀伝体の形式で、以後の中国歴史書の原型となり、さらには自分の主張を入れてた、初めての書として、『史記』を完成させた司馬遷の内面を、斬新な視点と実証とで描き出した力作

 

はじめに

藤村の千曲川旅情の歌にある「雲白く遊子悲しむ」の原型は、劉邦が漢の初代皇帝即位後、故郷を訪れ天下安泰を願って《大風(たいふう)の歌》を歌い、過ぎ越し方の我が一生に感動して涙したのを見た故郷の人たちが、「遊子、故郷を悲しむ」の一句を述べたという『史記』にある。「悲」とは、「なつかしむ」であり「顧念=顧み思う」、深々とした回想の念

『史記』には、「悲(なつか)しむ」もあるが、「悲(かな)しむ/哀しいかな」という嘆きの言葉も数多く見られ、司馬遷の一生がどのようなものであったか、『史記』とはどのような性格のものかということを象徴している ⇒ 「悲(なつか)しむ」というとき、その回想の心情は過去の事実への回帰であって歴史家の態度だが、「悲(かな)しむ」というとき、それは自分の感情の激発であり、自己の感情表現であって歴史家の態度ではない

司馬遷は歴史家であり、『史記』は歴史書。中国における史官は自己の意見や感情を加えず、ただ事実を記録することを重視。にも拘らず『史記』全体を通じてみれば、司馬遷は「悲(なつか)しむ」を越えて「悲(かな)しむ」ことを強く前に押し出してやまない。その背景には司馬遷の生涯との関わりがあり、同時にこのことは『史記』の性格を大きく規定。それが一体どのようなものであったかを探りつつ、司馬遷の世界を考えてみようというのが本書の目的

 

第1章        歴史家・司馬遷の誕生

1.    青春放浪

20歳で2年の長い旅に出る。無位無官、目的も不明、帰ってきて郎中(天子の近習)に任官

通説では、歴史官である太史公だった父・司馬談の資料収集を助けるためといわれるが、いくつもの疑問が残る

司馬遷は勉学時代、2人の高名な学者に師事。孔安国と董仲舒で、孔安国は五経(易、書、詩、礼、春秋)博士の1人で『尚書(後の書経)』を担当。董仲舒は、生涯武帝のブレーンの1人、専門は『春秋公羊(くよう)伝』(公羊学派のテキスト)

司馬遷は、歴史が単なる事実の集積に終わる歴史主義のみによって書かれるべきではなく、その歴史の底流にある法則性というものに注目すべきとの理論に惹かれ、職業的歴史家だった父・司馬談とは一線を画す

20歳になって、官途一図よりも、歴史への彷徨を選択。歴史家としての見聞を広めようとしたものであり、後の激情家的性格に発する自由を表すもの

こうした個性的な決断と行動が、司馬遷の生き方の根本にあることに注意したい

「不羈(ふき)の才に負(たの)む」(のびのびした才能)強靭な意志力の持ち主で、青年期の大旅行が自らの「自由」の表現であり、『史記』完成期に形を変えて開花する

旅程の順序にも自由の表現が現れている ⇒ 長安を起点に南下して長江を下り、会稽山に上り治水に苦心した伝説上の王・禹()が隠れた穴を見学。長江を西へ向かい洞庭湖から南下して古代伝説上の優れた王・舜を葬った九疑山に上る。さらに北上して魯(孔子の生国)や斉を訪れてから長安に戻る。最初から目的をもって計画的に仕組んだ旅ではなく、歴史の中に身を沈めつつ、己の思うさまに旅をしているように見える

2.    司馬家と系譜と生い立ちと

司馬遷の自叙伝『太史公自序』

周王朝時代に軍務を担当する官となり、官名である司馬を名乗るが、王朝末期戦国時代に入って一族は分散。司馬遷の先祖は秦の始皇帝に仕え、父・司馬談の頃は漢王朝で、5代武帝に仕え太史公となる。世の中が平和になって、それまで武名を馳せていたためにやや没落した司馬家が、再び学芸をもって復活。天文、易を学び、暦をはじめとする天文や祭祀の関係の官位に就く。太史公だったのはBC140BC110年頃

3.    放浪以後の司馬遷

23歳で郎中に任官するが、経緯については不明。13年在職したが不遇

BC110年、父の病死にあって司馬遷に、太史公となって自分が手掛けた論著(歴史記録)を完成させよと懇願

BC108年、司馬遷38歳にして太史公となる

4.    道家思想と儒家思想と

太史公が道家思想の司馬談から儒家思想の司馬遷に変わったということは、そのまま前漢時代の思想の流れの変化に繋がる

戦国時代は諸子百家の時代

始皇帝では法家思想が全体を支配する思想となり現実政治に具体化され成功をもたらす

漢になると、厳しい法治主義に対する反動から、劉邦の「法3章」という殺人、傷害、盗みの3罪以外の方は無効とする人気取りが始まり、法家思想に代わって黄老思想が登場、無為(自然のままで人工を加えない)の政治を尊ぶ

この思想を支えたのが老子、最高実力者として天の代わりに万物を生み出す「道」を考える

漢の成熟期になって、帝国の基礎となっていた家族に着目したイデオロギーとして儒教が見直され、BC140年董仲舒の建言により儒教が国家正統の学となる

司馬遷が正規に学問を始めたのは10歳で、ちょうどこの頃で、儒教の教育を受ける

父の道家思想との立場の違いが、父子合作の『史記』に投影 ⇒ 儒教では堯(ぎょう)という聖人の治世から説き起こすが、道家思想では黄帝から歴史が始まるので、司馬遷は黄帝や堯が住んでいた地方を巡った自らの体験から総合的な判断として『史記』の巻頭を『五帝本紀』とし、その冒頭に黄帝を持ってきたと苦しい言い訳をしている

 

第2章        『史記』の時代――呪術と迷信とのなかで

1.    漢代の呪術と迷信と

司馬遷の生きた時代は、前漢の武帝の頃。迷信と呪術に満ちていた時代

漢代の思想や文化は、多かれ少なかれ、陰陽五行思想の影響を受けている。すべての事物に天地の間に広がる木・火・土・金・水の5元素を当てはめる考え方だが、呪術的思考の典型

2.    武帝の性格

武帝の時代は特にその傾向が強かったが、皇帝の性格と関係が深かった

漢の高祖劉邦が各方角の天神を祀った土地に武帝も3年に一度行幸した話を皮切りに、武帝一代のことを記した『史記』の『孝武本紀』は最後まで武帝の祭祀の話や神怪な話ばかりを記している

一方で、武帝が北方の匈奴征伐をしたことには触れていない

3.    司馬遷の武帝像

『史記』の概略 ⇒ 5130篇からなる

1は、歴代の王朝史『本紀』12

2は、年表類を集めた『表』10

3は、礼楽など文化方面について記した『書』8

4は、春秋戦国時代の諸侯の歴史や漢代の王族・有力者たちのことを述べた『世家(せいか)30

5は、様々な人物の伝記中心の『列伝』70

司馬遷の原本が失われて、他の人物によって書かれた部分が10篇あると言われ、『孝武本紀』も、武帝との間には破滅的事件もあり、司馬遷のものではないという説が有力

『太史公自序』では、130の各篇について書いた理由や概略を記しているが、それによれば、『孝武本紀』について、「漢興りて5世、盛んなること建元(武帝によって定められた中国最初の年号)にあり。外、夷狄を攘(はら)い、内、法度(制度)を修め・・・・」とあり、祭祀以外のことも万遍無く記したようになっている

4.    天人相関説

太史公の職務は、天文・暦法、それに付随する術数(吉凶の判断など)

司馬遷は、BC10442歳の時、誤差が大きく出てきた暦を改め、非常に優れた暦と言われた太初歴を作った際のリーダー

当時の天文学には、天人相関という思想が大きく影響 ⇒ 天上に上帝という最高神がいて人間を支配するが、上帝の意思は天上の日月や星の動きや変化などの天文現象によって表現されるとし、天と人間との相関を信じた

天変地異が起こると、恐れておさめるための儀式を行う

天人合一(てんじんごういつ)ともいわれ、農業国家であった古代国家における農業の実際とある程度関係があった

司馬遷は過去の史実を天人相関説で説明しながら『史記』を書き進める

司馬遷は『史記』の中に『天官書(てんかんじょ)』という1篇を残しているが、天文における官の体系を書いたもので、星座に尊卑の序列があり、人間社会の官吏の体系と似た体系が星座にも存在するとして天文を観る

司馬遷は天文官でもあり、星の動きや変化によって未来の予測もする占星術師でもあった

5.    司馬遷の世界観

天官書など8篇からなる『史記』の第3部門の『書』は、政治史とは異なる領域の記録であり、中国史上初めて残された文化史として高く評価されるが、そこに司馬遷の世界観を見ることができる

『史記』は今でこそ公の正史とされるが、元々は司馬談個人が密かに書き進めた私史

『書』の第1は『礼書』で、道徳を説きその具体化として制度の規定を示す。礼が人間らしい生活を送るための基本。礼と不即不離なのが『楽書』で、礼楽合わせて人を教化する神聖な道具とされた。『律書』は楽の理論を展開し、各音階に天人相関の思想を背景にした一種の形而上学的意味付けをしたもの。さらに音階は暦製作の理論へと発展し『歴書』となる。その次に来るのが『天官書』であり、それに基づいて行なわれる祭祀を述べたのが『封禅書』。祭祀に努めても防げないのが自然災害であり、治水問題を扱った『河渠書』が最後。後に経済史に相当する『平準書』が付け加えられるが、第3章に詳述

司馬遷は、7篇を通じて占星術師である天人相関派の儒者の世界観を展開

呪術者である卜人(ぼくじん)のことが世に忘れられて記録されていないので、占術師たちの記録『日者列伝』を残したところに司馬遷の実像がある

 

第3章        『史記』完成への道

1.    李陵事件

太史公として司馬遷の公生活は順調、改暦の太初歴を作成した辺りから本格的に『史記』執筆に入る

漢帝国は建国以来匈奴の侵略に悩まされ続け、2代前の文帝は何とか和親政策により懐柔してきたが、武帝の時積極的に征伐することになり、先陣を名乗り出たのが李陵でBC99年少数精鋭をもって出陣するが敗退し投降したため、武帝も怒り群臣もみな李陵を非難したが、1人司馬遷は李陵を弁護したため、武帝の怒りを買い、皇帝侮辱で死刑宣告

『史記』にも『太史公自序』にも詳細は記述されておらず、極刑まで行った経緯は不明だが、『平準書』の後段に漢王朝の財政破綻の歴史がリアルに描写されており、破綻の原因が対匈奴戦だったことは容易に想像できることから、文帝の和親政策に好感を持ち、武帝の強硬策を批判したのではないかと推測される

英明な君主だった武帝は、司馬遷に処罰を下した後冷静になってから司馬遷の意図を理解し、司馬遷の才幹を高く買って、宮刑を受けたあと再度登用して中書令に任じ、司馬遷も屈折した心理で応じる

2.    腐刑

金で死一等を免じる余地もあったようだが、司馬遷が「家貧しく、財賂(ざいろ)、もって自ら贖(あが)なうに至らず。交流、救うなく、左右親近、壹(いつ)の言をなさず」と言っているように、金も準備できなかった

死刑を免れる第2の方法が宮刑=腐刑で、去勢され宦官となって後宮で仕事をすることが多い

司馬遷は宮刑を選び、太史公も剥奪、在野の歴史家として再出発しようとしたところで、処刑の2年後改元の大赦により、50歳で再び武帝に召されて中書令となる

3.    不孝者の意識

任官に応じた理由は不明だが、受刑後唯一の人生の目標だった『史記』の完成に宮中図書や記録の利用が必須だったからではないか

武帝が司馬遷を召喚した背景は、後宮にも秘書官的な役割の必要性を感じたからで、中書令はそのために新たに置いた資格

任官した司馬遷を常に苦しめたのは、宦官であることの肉体的精神的苦痛に加え、「孝」に背くことへの罪悪感。『孝経』に「身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」とあり、さらに刑を受け身体を傷つけ穢れた身では祖先の祭祀が出来ないということは、人間として最も恥ずべき事であった

不孝者の意識に苛まれながらも、何とか克服しようとしてすがったのが、父の最後に残した言葉で、「それ孝は、親に事(つか)うるに始まり、君に事うる中(なかごろ)し、身を立つるに終わる。名を後世に挙げ、もって父母を顕(あら)わす。これ孝の大なるものなり」

父の書き残した『史記』の完成こそ、不孝者の意識を乗り越えるものと深く心に期す

 

第4章        司馬遷の世界

1.    去勢コンプレックス

55歳で『史記』が完成(推定)526,500字の原本とその副本が残る

腐刑受刑後の『史記』への影響については、武帝に対する怨念が語られるとか、「発憤著書=憤りで書く」とするのが通説だが、受刑によって性喪失後の司馬遷の無意識の世界に起こったのは、失明説話への強い関心

2.    『史記』の構成とその意味

『本紀』12篇は、『項羽』『呂后』を除き、帝王の歴史

『世家』30篇は、「世家」とは「々、秩禄あるの」という説があり、大名諸侯たちの記録だが、『本紀』との違いは、星座に譬えて、天体の中心にあって動かないものを『本紀』とし、その周りを巡るものを『世家』とした

『列伝』については、天文官の立場から書いた他の部門と異なり、「義を扶け功名を天下に立つ」人を書くとしている。「名を顕し」たがゆえに記録に値するというのは、司馬遷の後半生の苦悶から、代償として意識されたものであるといえる

各篇の終わりに、「太史公曰く」という、その篇の内容に対する批評(=論賛)が付け加えられているのが特徴

併せて、列伝70篇の最後の篇が『太史公自序』と題され、自叙伝であり、自身を列伝の一篇の素材としたことも特記に値する

『書』を除く部分を通してみると、通史を目的としながら、秦漢時代の記述が半分以上を占め、バランスを欠くのは、腐刑後、司馬遷の関心が現代史に移ったと見るべきで、現代史にこそ『史記』の意味がある

3.    論賛の成立

各篇に論賛を付した形式は、『史記』の独創。以後正史などの歴史書はこの形式を真似る

『春秋』は、魯国の242年間の歴史記録。孔子がある目的をもって加除修正したのを機に様々な解釈が生まれたが、本文解釈を加え、そこに一定の歴史法則を見出そうとするのが春秋学で、司馬遷も青年期に春秋学を学ぶ

『孝経』は、全18章中10章の末尾に『詩経』や『書経』からの引用=引詩引書があるが、『詩経』『書経』はもともと孔子の学校での教科書であり、教養ある官僚養成を目的として作成されたもの。自在に引詩引書しているようでいて、常套句的なものを選んで引用し、自らの解釈に代えている

『史記』にも、『孝経』と同様の引詩引書の仕方の痕跡があるが、李陵事件以降は単なる歴史の叙述や引詩引書による批評にとどまらず、「鬱結」した思いを述べるために自分の言葉で歴史に批判を加えようとして、「太史公曰く」という文言で始まる「論賛」が登場

4.    自画像

客観的に歴史の事実記録を行うという形式をとりながら、論賛の挿入によって自画像を描こうとした。以下はその例

『伍子胥(ごししょ)列伝』⇒ 楚の国の伍子胥は、父のライバルの諫言によって君主に疎まれ危うく一族殺されかけた時、「小義を棄てて大恥を雪ぎ、名を後世に垂()る。隠忍して功名を就()」したが、司馬遷は、「烈丈夫にあらずしてたれかよくこれを致さん」といって褒めている。李陵事件で君主の逆鱗に触れた自らの過去を振り返り、伍子胥に親近感を抱いた

『貨殖列伝』では、例外的に富むことを称える。人間は利己の心を持って行動すると考える韓非子についても列伝を書き、「残酷で愛情が少ない」と批判的だったが、腐刑後は韓非子に近い考えとなり、人間を動かすものに金銭財貨があることを認めこの列伝を書いた

『伯夷列伝』は伯夷と叔斉(しゅくせい)という兄弟が、殷王を討とうとした周王・武王に、臣下が主君を殺すのは仁ではないと言って反対、周囲に殺されそうになった時、武王は「義人である」と言って許したが、殷王討伐後は、兄弟してクーデター完遂を恥として、周王朝下で生産された穀物を食べることを拒否し、餓死してしまう物語。正しいことを言っても天が必ずしも認めるとは限らないという自らの運命にも投影させて兄弟の行いを見ると、「天道是か非か」との疑問を禁じ得ないということを書いた

『史記』の各所にかかる自画像が描かれている。言おうとして言えない自分の気持ちを託している、特に『伯夷列伝』と『太史公自序』の2篇は、司馬遷の自己主張や内面を最もよく知ることができるものであり、司馬遷の世界を代表するもの

 

おわりに

『史記』は木簡だとすれば約23千枚に書かれた膨大な著作。それ以前はせいぜい半分以下程度の分量しかない

父子50年に亘って書き継がれてきた私史だけに、書く態度や意図が途中で何回か変わったのはやむを得ない事。変わったなかでは、『伯夷列伝』における天道への不信が決定的な変化といえる

優れた人物のことは見識ある人間によって世に語り継いでゆくべきとし、歴史を書く人間である私こそその紹介者なのだという自負を持って書き進めた。著述の意味を自らはっきりと語ったのは司馬遷が最初。著述の意識を支えた大きなものは、腐刑の苦しみを乗り越えようとした不孝者の意識であり、肉体の損傷による不幸を乗り越えさせ、さらに大きな広い意味での孝を成し遂げるには、名を後世に残すこと。その執念が私史の膨大な分量に繋がった

最後に辿り着いた自分なりに「名を顕す」という意味は、『史記』から様々なことを読み取ってほしいという読者への期待であり、天人相関説への信頼のもとに生涯を送ってきた天文学者・司馬遷の、最後に大きく揺れ動いた天道への不信だった

 

 

Wikipedia

『史記』は、中国前漢武帝の時代に、司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計5265百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。

二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。

日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。

l  成立[編集]

司馬遷

司馬遷の家系は、代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた。特に、父の司馬談は、史官として記録の整理に当たるだけではなく、それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた。しかし、司馬談はその事業を終えることなく死去し、息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した。

父の死後3年目に、司馬遷も太史令となり、史官の残した記録や宮廷図書館に秘蔵された書物を読み、資料を集めた。太初元年(紀元前108)には、太初暦の改定作業に携わり、この頃に『史記』の執筆を開始した。のち、天漢3年(紀元前98)、司馬遷は匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため武帝に激怒され、宮刑に処される。こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、征和年間(紀元前9289年)に至って完成した

『史記』を執筆する意図について、司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている。

易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際に本づくるもの有らん。(孔子が作られた『』の解釈を正し、『春秋』の精神を継承し、『』『』『』『』の諸分野を基礎づけるものが出て良いときだ。)司馬遷、太史公自序(司馬談の言葉)

加えて、司馬遷は当時の春秋公羊学の領袖である董仲舒の説を敷衍して孔子の『春秋』執筆の目的を論じている。

子曰く、我れ之を空言に載せんと欲するも、之を行事に見(しめ)すの深切著明なるに如かざるなり、と。(孔子は「私はそのことを抽象的な言葉で記述しようとしたが、それよりも、これを人々が実際に行った具体的な行為の迹において示すほうが、はるかに切実であり鮮明なのだ」と仰った。)司馬遷、太史公自序(董仲舒が孔子の言葉を引用する部分)

ここに示された「空言」より「行事」を重視する態度は、『史記』に継承された。また司馬遷は、自分の著作は『春秋』の王朝称賛に倣い、漢帝国の盛世を顕彰するものであるとも述べている。『史記』執筆の最大の目的は漢代史の記述にあり、それによって同時代である漢帝国の歴史的意義を宣揚することにあった

司馬遷が用いた資料[編集]

概ね、『史記』の西周以前の部分については『書経』、春秋時代については『春秋』経伝(特に『春秋左氏伝』)を最大の取材源としており、現存する先行文献から重なる部分を確認できる場合が多い。例えば「周本紀」の場合であれば、古くから伝えられた系譜資料のほか、『書経』『尚書大伝』『詩経』『大戴礼記』『礼記』『国語』『孟子』『韓非子』『呂氏春秋』『淮南子』などを利用したと考えられる。各国の戦国時代の記述については『史記』にのみ見える情報が多く、様々な資料を組み合わせて相当な労力のもと作られたと考えられる。

司馬遷は、宮廷に秘蔵されていた文献のほかに、自ら広く周遊して収集した各種資料に基づいて『史記』を編纂した。この中国周遊は、関中から江陵の故都)、長江流域、地域、さらに大梁の廃墟(の故都)、洛陽を回ったもの。『史記』では、これらの旅行の際の見聞が紹介されることがある上に、更にその知見をもとに文献伝承の真偽検証している場合もある。

後世の加筆[編集]

『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられた。劉知幾は、補続した学者として劉向劉歆揚雄15人の名前を挙げる。特に補続者として著名なのは褚少孫で、陳渉世家・外戚世家・滑稽列伝などに見える「褚先生曰」以下はその修補の部分である。

また、三皇時代について書かれた「三皇本紀」は、司馬遷が書いたものではなく、代に司馬貞が加筆したものである。司馬貞は合わせて「史記序」を制作し、巻頭に附した。

l  内容[編集]

『史記』は、「本紀」12篇、「表」10篇、「書」8篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の計130篇からなる。

本紀 - 帝王の記録で、主権者の交代を年代順に記したもの。

- 歴史事実を簡略化し、表で示したもの。

- 政治に関する特殊なテーマごとに、記事を整理したもの。

世家 - 諸侯の記録をその一族ごとに記したもの。

列伝 - 各分野に活躍した人物の行いがを記したもの。

「本紀」と「列伝」から成るこの形式は「紀伝体」と呼ばれ、中国の歴史書の模範とされた。なお、司馬遷の「報任少卿書」には「十表、本紀十二、書八章、世家三十、列伝七十」という文章があり、「表」が冒頭に置かれていた可能性もある。

『史記』が対象とする時代は、伝説時代である五帝黄帝から、前漢武帝までであり、その記述は中国古代史研究において最も基本的な資料であるとされている。また、「列伝」の末尾には司馬遷の自序である「太史公自序」が附され、司馬氏一族の歴史や、彼が『史記』の執筆に至った経緯・背景を述べている。

目録[編集]

本紀[編集]

巻1       五帝本紀         五帝

巻2       夏本紀           

巻3       殷本紀           

巻4       周本紀           

巻5       秦本紀           

巻6       秦始皇本紀      秦始皇

巻7       項羽本紀         項籍

巻8       高祖本紀         劉邦

巻9       呂太后本紀      呂雉

巻10    孝文本紀         文帝

巻11    孝景本紀         景帝

巻12    孝武本紀         武帝

 

l  思想的背景[編集]

司馬談は、武帝による儒教の官学化以前の人物であり、道家思想が盛んな気風の中で学問を受け、楊何に師事して『』を修めた経験もあった。彼の「六家要旨」では、道家思想を最も高く評価しており、これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる。司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、この父の考えを継ぐこともあった。『史記』は、道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた。

こうした背景のもと、『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、司馬遷は「天道は是なるか、非なるか」という問いを発している。この問いは、清廉潔白な人である伯夷は飢え死にし、孔子最愛の賢者である顔回は早逝したにも拘わらず、大盗人のは天寿を全うしたことに対して、「天道」を楽観的に信頼してもよいものか、という切実なものであった。また、ここには司馬遷自身が、李陵事件において公正な発言をしながら宮刑と言う屈辱を受けたことに対する含意も見受けられる。

また、司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。例えば、項羽は皇帝や君主ではなく、またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、秦の始皇帝から漢の高祖に至る実権の流れを説明するためには必要であり、「本紀」の一つに立てられている。また、皇帝である恵帝を本紀から外し、その間に実権を握っていた呂后のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である。

叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。

l  後世の評価[編集]

『漢書』との関係[編集]

後漢に編纂された班固の『漢書』は、『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、後世の『史記』評価の原点となった。班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。

儒教・伝に拠りつつも、それ以外の学派に由来する内容を含んでおり、相互矛盾もある。

黄老思想を儒教より優先し、儒教的価値観では批判されるはずの游俠・貨殖を称賛する。

項羽陳渉を押し上げて、淮南・衡山を退けたこと。

司馬相如本貫を郡県まで記し、字を記すのに、高祖の功臣である蕭何曹参陳平や、同時代人の董仲舒については、本貫の郡県や字を記さないといった不統一がある。

これ以後、『史記』と『漢書』はよく対比されながら論じられることになり、後世の評価に大きな影響を与えた。例えば、蜀漢譙周は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『古史考25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉勰の『文心雕龍』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。

三国時代には、『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、これに『東観漢記』を加えて「三史」と称されることもあった。ただし、旧中国においては、『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、『隋書経籍志の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない。

l  本文の信頼性[編集]

現存する『史記』の完本は南宋慶元2年(1196年)のものが最古であり、これが司馬遷の原作にどの程度忠実かは大きな問題である。

代の作である「三皇本紀」は別にしても、太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、かわりに「孝武本紀」があるが、これが後世の補作であることは明らかである。それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には昭帝まで言及されている。とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の鴻嘉元年(紀元前20年)まで記している。

漢書』司馬遷伝によると、班固の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、後漢以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『索隠』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。

文学的価値[編集]

歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。

文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。

l  歴史学的価値[編集]

疑古」も参照

正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑坑の発見で記述の正確さが証明されている。

一方で、『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えばの王家の闔閭の世代間の家系譜など)。宮崎市定は、『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、全てを実録とは信じられないとしている。小川環樹は、司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し、加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。

l  日本における受容[編集]

『史記』の伝来時期は正確には判明していないが、聖徳太子十七条憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。

奈良時代[編集]

続日本紀』巻29神護景雲2年(768911日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。

また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年(7691010日の条に、称徳天皇大宰府の「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『晋書』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。

平安時代[編集]

平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。藤原佐世が奉勅して寛平年間(889 - 897)に撰した[41]日本国見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。

さらに、清少納言は『枕草子』で「ふみは文集文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり中国詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。

南北朝時代[編集]

太平記』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である[注釈 4]。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。

室町時代[編集]

上杉憲実文安3年(1446)に足利学校の学規を定めて「三注・四書六経・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした。

江戸時代[編集]

元和2年(161610月、徳川家康駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる。

また、徳川光圀18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。

なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。11951201建安で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、直江兼続に譲り、その後米沢藩藩校興譲館」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。

史記にあらわれる故事成語[編集]

以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。

酒池肉林」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老

「百発百中」 巻4・周本紀

「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀

「鹿を馬となす」(「馬鹿」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀

「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀

鴻門の会」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝

四面楚歌」 巻7・項羽本紀

「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀

「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀

「左袒」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀

「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『春秋左伝』僖公五年

宋襄の仁」 巻39・晋世家。初出は『韓非子』外儲説左上

「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王勾践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『韓非子』内儲説下

臥薪嘗胆」 巻41・越王勾践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『十八史略』春秋など)

「満を持す」 巻41・越王勾践世家

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家

「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上

「立錐の地なし」 巻55・留侯世家

「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝

管鮑の交わり」 巻62・管晏列伝。初出は『列子』力命

「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝

「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」 巻69・蘇秦列伝

「完璧」 巻81・廉頗藺相如列伝

刎頸の交わり」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝

「士は己を知る者のために死す」 巻86刺客列伝

傍若無人」 巻86刺客列伝

「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝

「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝

「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『孟子』梁恵王下

「国士無双」 巻92・淮陰侯列伝

「背水の陣」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官

「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝

「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝

「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝

「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝

「曲学阿世」 巻121・儒林列伝

「鳴かず飛ばず」 巻126・滑稽列伝・淳于髠

「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『漢書』巻40・張良伝

 

 

司馬 遷(しば せん、紀元前145/135? – 紀元前87[1]/86?[2])は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。

姓は司馬。名は遷、字は子長。代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史史記』の執筆などの業績がある。

l  生涯[編集]

家系[編集]

遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系はの時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる。司馬昌の子は司馬無澤(しばむえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。

このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。

生誕から少年期まで[編集]

司馬遷は、一族代々のがあった左馮翊夏陽県竜門(現在の陝西省韓城市芝川鎮)で生まれた。彼はそこで10歳になる前まで過ごし、農耕や牧畜などを通じて壮健な身体を育んだ。9歳になる頃までには家塾での勉学を始めた。

10歳の時には「古文(尚書)を誦んじた」という。『尚書』(『書経』)を学んだ師である孔安国は当時侍中の任にあったことから、司馬遷は長安へ移っていたと考えられる。さらに董仲舒らにも師事し、歴史書『春秋』は政治の根本原理を体現したものだと主張する公羊学派の影響を受けた。

大旅行[編集]

司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および中原を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている。最初に江淮(現在の江蘇省安徽省北部)へ行き、韓信が建てた母の墓を訪ねた。次に江西廬山からが疏いた九江を見物し、さらに浙江省会稽山に登り、禹が入ったと伝わる洞窟(禹穴)を探検したりした。そこから南下し、湘江が葬られたという九疑山中国語版)を訪ねた。この後、彼は湘江に沿って長沙に向かった。そこで屈原が身を投げた汨羅江を見て、また当地で不遇を託った賈誼へ思いを馳せた。

東南方向の旅での文化に触れた後、司馬遷は北に向かい、闔閭夫差ゆかりの姑蘇・五湖を訪れ、さらに儒家発展の地であるへ赴いた。魯の滞在は長期に亘ったと思われる。その後はいずれも山東省南部と江蘇省北部に当たる鄱、孟嘗君ゆかりの薛、彭城(徐州)を訪れた。彭城の北には豊・沛の地があり、司馬遷はそこまで足を伸ばして蕭何曹参樊噲夏侯嬰(滕公)の生家を見物し、彼らの話を聞いた。

その後、河南地方(開封徐州)へ向かった。開封は大梁と呼ばれたの首府だった地であり、土地の人からの攻撃で陥落した様子を伺い、信陵君を訪ねた。徐州は戦国時代末期の楚の土地であり、ここで壮大な春申君の古城や宮室を見物した。河南を後にした司馬遷は西に向かったと思われ、許由ゆかりの箕山に登った。

登用と巡遊随行[編集]

この旅がいつ終わったのかははっきりしない。旅から戻った3年後の22歳頃、司馬遷は郎中に任命される。これは定常業務を持たないが勅命の使者や天子巡遊に従うなど、皇帝の侍従を担う仕事を行った。当時、郎中になるには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせるか、もしくは優秀な人物が試験を経て採用されるかの二つの方法があった。父・談の官位は600石であったため、司馬遷は後者の道筋で登用されたと考えられる

彼が仕える武帝は生涯において何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も多くに付き従った。元鼎5年(前112年)、武帝は秦の徳公が居城とした雍で五帝を祀り、黄帝も登ったという崆峒を訪れ、さらに西の会寧へ至った[26]。翌年にはなどの西南巡遊に随行し、昆明まで至った。この時の奉使は、後に「西南夷列傳」に纏められた。

父の死と封禅[編集]

元封元年(前110年)、武帝は封禅の儀式に向けた準備に取り掛かり、武威を示す18万の騎兵を各地に派遣した。この軍団が洛陽に到着した際、付き従っていた父・司馬談が病に倒れた。西南奉使から戻った司馬遷は洛陽に向かった。

死の床にあり、司馬談は先祖の事業が道半ばで去らねばならないことを嘆き、司馬遷へ引き継ぐよう命じた。そして、周公旦が定めた礼楽が衰えた際に孔子が現れ『』『』『春秋』を著したが、400年以上が経過した今はまた事績の記録が荒んでいると指摘した。父は子に第二の孔子となれと言い残し、息を引き取った。

父の後を受け、司馬遷は封禅の儀式に加わった。緱氏と嵩山の祭祀に間に合ったかどうかはわからないが、泰山での封禅には参加し、その大典の内容を「封禪書」に纏めた。この奉使において司馬遷はの地を訪れ、その国の気風や、斉人らの情報を得た。その後、封禅の行列は北方を巡幸し、遼寧河北そして内蒙古の五原へ至った。五所は秦の時代に整備された「直道」の北端に当たり、ここで司馬遷は蒙恬が築いた要塞などを眼にした。

元封2年(前109年)も武帝は各地を巡り、山東半島や泰山を訪れた。この年、瓠子という場所で黄河が決壊を起こしたため、武帝は百官に薪を背負わせて向かい修復工事を行った。司馬遷もこれに付随し、後に「河渠書」を書かせる体験を得た

太史令拝命[編集]

父の死から3年後の元封3年(前108年)、司馬遷は太史令の官職を継承した。彼の才能は高く買われており、父も亡くなる際に「太史に任命される」と述べていたが、3年は喪に服す期間として置かれた。彼は就任するや、友人らに政治への参加を勧めた。その中の一人・摯峻と交わした手紙が残っている。司馬遷は君子最上の生き方は徳を立てる事であり、その実現のために君主への働きかけをすべきと説く。摯峻は、有能な者が取り上げられる時代が来たが、私は気楽に過ごしたいと返答し誘いに応じなかった。この当時、司馬遷は血気盛んであり、任安への手紙にて、私的な事は省みず職務に専念し武帝の期待に応えると考えていたと述べている。

実際、太史令となった彼は多くの書籍・文書に触れることを仕事とし、豊富な知識をさらに収集した。一方で元封4年(前107年)、5年(前106年)の武帝巡遊にも従い、各地を廻った。

改暦と史記編纂の開始[編集]

太初元年(前104年)、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は太初暦の制定であり、後者は『史記』執筆に着手したことである。太初暦は、年初をの暦である春正月に固定し、二十四節気を取り入れることで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国における時間感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており、主導的役割を果たしたと考えられる。

司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」を実現するものでもあった。

そして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ。

李陵の禍[編集]

前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり、将軍李広利(武帝の寵妃であった李夫人の兄)による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は匈奴に眼が向けられた[41]。匈奴の且鞮侯単于は当初こそ従順な態度を見せた。しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで李陵が単独行動を願い出た。結果的に武帝は彼と配下5000の歩兵出陣を許し、李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。しかし、3万を超える敵軍と遭遇し包囲されてしまい、彼は激しい戦いを繰りながら退却を続けた。匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついには投降の道を選んだ。

武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した。

司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると述べた。

しかしこれは逆効果だった。意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、李陵を救援しなかった李広利を非難しているものと受け止めた。武帝の命によって、即座に彼は獄吏に連行された。高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった

だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報[ 3]がもたらされ、事態は一変した。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑(腐刑)が処された。

この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う腐刑は最低なものだと言った。そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。

『漢書』では、司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・景帝を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという。しかしこの説には確証は無い。

『史記』の完成とその後[編集]

牢獄に繋がれてから4年後の太始元年(前96年)6月、大赦によって司馬遷は釈放された。そして彼には中書令の任が下った。宮中の文書を扱い、皇帝に奏上する文書、また逆に皇帝の詔を接受する中書令は、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。

『史記』の執筆に取り組みながら、太始二年(前95年)からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。太始四年(前93年)に泰山から戻った司馬遷は、任安から受け取っていた手紙の返書(『報任少卿書』)を書いた。任安の手紙とは、高い地位にあるにもかかわらず司馬遷が有能な人物を推挙していないことを責めたものだった。かつて太史令に着任した頃は人材発掘を行っていた司馬遷だったが、この時には五体を欠く身となった自分にはその資格が無いと断った。続けて彼は、自分の考えを述べた。

「自分は死を恐れない。あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした」と述べ、更に「今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。」『漢書』「司馬遷傳」21-27

この手紙の中で、司馬遷は『史記』をおよそ130篇と述べている。『史記』の中で司馬遷自身の筆と考えられる最も遅い出来事の記述は、征和3年(前90年)に李広利が匈奴に降伏した戦いであった。また「太史公自序」にて、約130536,500字の『史記』を名山に蔵し、副本を京師に置いたとある。これらの点から、任安への返書を書いた時にはほぼ形になっていたが、『史記』が完成したのはその4年後の前90年であり、字数を記し、本書と写しのみに纏めた上で筆を置いたと考えられる。

『史記』完成後、司馬遷がいつまで、どのように生きたかははっきりしていない。王国維は『観堂集林』にて、司馬遷の死は武帝の崩御(前87年)前後ではないかと記した。

人物[編集]

旅行家そして探検家[編集]

司馬遷は20歳から各地を巡る旅を始め、役人に登用されてからも武帝に従って様々な地を訪れた。この旅行は漢のほぼ全土を網羅し、四川中部や雲南など当時は未開と言える場所にまで至っている。そしてこれは放浪などではなく、彼は各地を丁寧に見て廻り、資料を調べ、古老など様々な人々の話を聞いた。これら積み重ねた調査は『史記』に反映された。いわば彼は著述家以前に、大旅行家であり探検家でもあった。

しかし、この旅は紀行文や風土記のような形には纏められなかった。司馬遷が筆を執った目的は歴史記述であり、そのために個人の直接的な観察はその中へ消化されてしまった。また、特定の歴史的事件を土地の環境から記すこともしなかった。

孔子からの影響[編集]

父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸(「詩」「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。

そして司馬遷と孔子の間には、「利を求めず、時流に迎合しない」という共通の性質が見て取れる。『史記』「孔子世家」では、孔子一行が旅先で苦難にあった時、弟子の子路子貢がもっと妥協して仕官されるようすべきと進言したがこれを跳ね除け、用いられないのは為政者の落ち度であり、信念を貫くべきという顔淵の言葉に大いに賛同する場面がある。司馬遷が貫いた信念とは「中立的立場から歴史の必然を見る」または「大所から鑑定・選別・判断を行う、いわゆる「識」を発揮する」点にあったという意見がある。李陵の禍では、彼は妥協を良しとせず、罰が自らに及ぶ可能性がありながら、李陵の評価をこの視点から述べた。『報任少卿書』も、武帝と皇太子が争った際に中立を守った任安に共感して書かれたとも言う

孔子を高く評価する司馬遷は、『史記』において本来世襲された系譜を記す「世家」の中に、その原則に反して「孔子世家」を書いた。彼は、家系的繋がりと同様に思想の繋がりを重視し、孔子を「世家」に含めた。

しかし、必ずしもその論を無批判で受け入れたわけではない。『史記』は孔子が『春秋』を書いた際に基準とした大義名分に則らず、事実を重視する態度を貫いている。「伯夷列伝」の中で、司馬遷は『春秋』に記されていない人物・許由務光を実在したと認めている。また、餓死した伯夷叔斉についても孔子が「怨みがなかった」と論じたのに対し、司馬遷は「怨みがあった」と異なる見解を記した。

「奇」を好む[編集]

司馬遷から1世紀ほど後の文人揚雄は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。司馬貞も『史記索隠』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない法家韓非にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す。

司馬遷が最も「奇」を見出した人物が項羽李広であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は劉邦に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている。

生没年の説[編集]

生年[編集]

司馬遷の生年については複数の説がある。その中でも、景帝中元五年(前145年)と建元六年(前135年)の二説が有力であり、これらはいずれも『史記』「太史公自序」14条の「卒三而遷為太史令,(中略)。五年而當太初元年(父の死から3年後に太史令となり、)」という箇所に、代につけられた註釈が元になっている。司馬貞『史記索隠』は「卒三而遷為太史令」の箇所に「司馬、年2836月乙卯、600石の除せられる」と記した。張守節史記正義』は「五年而當太初元年」の箇所に「按ずるに、司馬遷は、年42歳也」と記した。司馬談の死は元封元年(前110年)であるから、その3年後に28歳という『索隠』によれば、生年は前135年となる。一方、太初元年は前104年であり、42歳と註された『正義』によれば、生年は前145年となる。

李長之は以下の点を示して、前135年説を支持した。

『漢書』「司馬遷傳」25条にある任安への返書にて、司馬遷は「蚤失二親(若くして両親を失う)」と書いている。前145年生誕説だと父死去の際、司馬遷は36歳で若いとは言えない。前135年生誕説ならば26歳となり辻褄は合う。

『漢書』「司馬遷傳」23条にある任安への返書にて、司馬遷は「得待罪輦轂下,二十餘年矣(天子に仕える事、20数年)」と書いている。この手紙は太始四年(前93年)に書かれており、一方司馬遷が郎中になったのは20歳代の前半である。つまりこの手紙は40歳代で書かれたと考える方が自然であり、50歳を超えてしまう前145年生誕説では無理がある。

故事を習ったという孔安国が博士になった時期を、王国維元光 - 元朔年間(前134 - 129年)と考証した。司馬遷が10歳の時に孔安国の教えを受け「古文を誦んじた」ならば、前135年生誕説の方が可能性は高い。

『史記』「太史公自序」12条で司馬遷は、20歳代前半までを年齢だけで書いている[12]。そして次条で父の死(前110年)に触れるが、前145年生誕説ならばこの時35歳であり、自らについて書かれない十数年の空白が生じる。12条では郎中任命からすぐ武帝巡遊に従ったよう書かれている事[12]からも、空白が生じない前135年生誕説が妥当と考える。

『史記』「太史公自序」11条の文章は、司馬談が太史公に就いた後に司馬遷を儲けたかのように書かれている。前145/135年の両生誕説では、後者の方が乖離が少ない。

『史記』「太史公自序」13条で司馬談が息子に語る内容は教えを垂れるものであり、36歳(前145年生誕説)よりも26歳(前135年生誕説)に対する言葉の方がふさわしい。

元封3年(前108年)に太史令となった司馬遷は、摯峻らに出仕を勧めた。このような行動は、前145年生誕説による38歳にしては血気盛んである。

郭解は国都・長安に行ったことはなかった。彼の姿を司馬遷は見たと述べているが、二人の接点は郭解が元朔2年(前127年)に親族を司馬遷の生地・夏陽に退避させた時と考えられる。一方で司馬遷は10歳時には長安に出たと考えられ、前145年生誕説を採るとそれは前135年であり、夏陽で司馬遷は郭解を見る事はできない。

司馬遷が庇った李陵は友人であったが、彼の祖父・李広は元狩4年(前119年)に六十数歳で亡くなっている。その孫と親交があるならば、27歳(前145年生誕説)よりも17歳(前135年生誕説)の方がふさわしい。

王国維は『索隠』を第一級の史料と評価しつつも、「年28」が「年38」の誤植としており矛盾する。『正義』の「42歳」という表記について、あるを指してそのとき人物が何歳であるという註は非常にまれであり、李長之はこれを、張守節は司馬遷の生涯が42歳までであった事を述べていると主張した。

司馬遷の生地である陝西省韓城市では紀元前145年生誕説を採り、2010年に民間伝承で伝わる誕生日の旧暦29日に、生誕2155年記念行事を執り行った。

没年[編集]

司馬遷の没年も明瞭ではない。『史記』に記述された最も遅い事件の頃には生きていたと考え勝ちだが、同記には後年の補筆が多い。ひとつの考察として武帝をどのように表しているかという点から検討が可能である。『封禪書』で司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味の「今上」と表記している。「武帝」と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後年に加えられた可能性を否定できないが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにくい箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死後、諡号が贈られた時には生きていたと考えられる。

 

 

 

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