ドキュメント銀行  前田裕之  2021.6.20.

 

2021.6.20. ドキュメント銀行 金融再編の20年史――19952015

 

著者 前田裕之 1986年東大経卒。日本経済新聞社に記者職で入社。東京・大阪で金融機関経営、金融行政・金融政策、年金・雇用・労働問題、企業経営・財務、財界などを担当。12年から編集局経済解説部編集委員(現在は同編集委員室編集委員)。経済学の視点を取り入れながら経済現象を分析し、その背景を解説する記事などを執筆

 

発行日           2015.12.30. 第1          2016.1.20. 第2

発行所           Discover 21

 

はじめに

「銀行業とは何か」「銀行は安全なのか」という疑問に答え、これから銀行とどう付き合うべきかを考えるヒントを提供するのが本書の狙い

 

第1章     金融危機の「入口」と「出口」

第1節        巨額損失事件で奈落の底に

20年前の関西系3銀行を象徴するエピソード「夜8時の法則」 ⇒ 住友銀行員はまだ銀行で働いている。三和は北新地で飲んでいる。大和は家でビールを飲んでいる

1995年、大和ニューヨーク支店巨額損失事件発覚 ⇒ 金融危機の入口

証券運用担当者が頭取に、1983年から無断で米国債の簿外取引で巨額損失を隠蔽していることを告白する手紙を送ったところから発覚

大和はすぐに大蔵省西村銀行局長に報告・相談するが、直近でコスモ信組や木津信、兵相の経営破綻の発表を控え、時期が悪いとして月明け以降の発表を示唆

2か月後に大和は米国金融当局に報告、連邦捜査局によって担当者逮捕、9月末公表

大和信託も、1984年米国子会社が米国債の簿外取引で97百万ドルの損失を出したが、粉飾で内々に処理していたのが、本件を機に露見

米当局が最終的に大和の米国撤退を命じたのは、報告が正確になされなかったから

大和トラスト事件での起訴を回避するため司法取引に応じた

事後処理に当たったのが常務の國定浩一。日米当局との間を駆け回ったが、銀行としてできることはほとんどなく、翌年には大和銀総研に転出、頭取レースから脱落

大蔵の意向で住友との合併構想が出るが、行員の反対で立ち消え

 

第2節        「優しい」銀行の末路

大和は、不良債権問題も深刻

「親切で面倒見が良い銀行」との評判は銀行にとって必ずしも誉め言葉ではない

1998年、金融機能安定化法に基づき政府は健全な大手銀行に公的資金1.8兆円を投入。96年住専に6,850億の公的資金を投入して批判されたため、規模を縮小。大和の不良債権は9,500億だったが投入額は横並びの1,000億で焼け石に水だったため、金融機能早期健全化法を施行して追加投入の動き

大和が選んだのは、海外からの全面撤退と縮小均衡によるスーパーリージョナル。併せて関西地銀の受け皿構想のもと4,080億の公的資金を受け入れ一息つく

 

第3節        細谷改革の成果と限界

大手交換の合併構想が進む中、00年にはみずほが、01年には三井住友が誕生

東海はあさひと合併交渉中だったが、三和が入ったことであさひが外れ、あさひは市場の厳しい評価に晒される

大和は、海外での損失の責任を問う株主訴訟で敗訴の判決を受け、地銀を入れた持株会社にして訴訟をかわし、あさひからの事実上の救済要請に乗り、03年りそなとして経営統合

弱者連合のりそなは、内部抗争が激化、さらに税効果会計の圧縮で自己資本比率維持が困難となり、預金保険法に基づき実質国有化が決定、2兆円の資本注入実行、国が72%の議決権を握る

公的資金より整理すべきとの声に対し、株式市場が反転して金融危機の出口が見え始める

りそなのトップには、国鉄民営化で貢献したJR東日本副社長の細谷英二に白羽の矢

細谷の経営哲学は、「金=健全なBS、顧客サービス、従業員の意識改革」の3つに集約

りそなに注入された公的資金はピーク時31,280億。リーマン・ショックで収益が落ち込む中、11年公募増資で5,477億調達し公的資金肩代わり、完済に目途をつける

12年代表権返上し、同年死去。後任の東和浩によって15年完済

 

第2章     消滅した長信銀

第1節        抵抗勢力となった興銀

維新後の金融制度の柱は銀行制度と株式制度であり、株式市場の代役となったのが興銀

興銀は、株式担保金融の担い手として発足。第1次大戦後の大暴落で興銀は証券界に救済融資を実行。社債市場を支配したのも興銀であり、受託会社として担保権を管理

2次大戦後も、産業界に長期資金を供給する役割が認められ存続、長銀、日債銀も誕生して産業界との二人三脚で高度成長を演出

変化が起きたのは1970年頃。大企業の銀行離れと無担保社債の発行認可で、「銀・証戦争」へと発展。銀行法改正により81年から銀・証の垣根が下げられていく

金融改革に悉く反対したのが長信銀

98年の長銀、日債銀の破綻の中、興銀は富士、第一勧銀との合併に生き残りを目指すが、互いに疑心暗鬼で不良債権を隠し、「負の遺産」処理や主導権争い、グループ再編に膨大なエネルギーを費やし内部は混乱、システム障害を繰り返す

03年、1兆円増資で乗り切り、06年公的資金完済、ニューヨークに上場

13年、信販大手オリコの反社会勢力への融資隠蔽・放置が露見して金融庁から業務改善命令を受け、委員会設置会社に移行し業務執行と監督を分離したが、透明性は増しても社外取締役はあくまで経営の監視役であって経営そのものではない

 

第2節        長銀のおくりびと

41年生まれの安斎は、日銀考査局長から94年理事に昇格

97年のアジア通貨危機ではアジア担当理事となりタイや韓国の危機対応に奔走するが、国内でも北拓と山一が破綻

弁護士転身を考えていた安斎を、新総裁となった速水が遺留、98年信用機構担当理事として留任、最初に直面したのが長銀の経営危機

長銀は住信に経営統合を持ち掛けたが、公的資金による不良債権の処理を主張され頓挫

経営統合は債務超過でないことが前提だが、関連ノンバンクを処理すると3,400億の債務超過が判明

米財務長官からも日本の銀行の資本不足は指摘されており、安斎もアジア通貨危機の経験から公的資金の早期注入を主張。金融再生法などの成立で、長銀は特別公的管理を申請、政府も破綻を認定し一時国有化を決定

住信の高橋は、長銀との統合交渉から撤退した後、金融機関の3大業務である決済業務、資産運用業務、投資銀行業務を3つともうまくやるのはあり得ず、長銀への憧れは捨てて今後は資産運用・管理業務に特化し、トップ信託を目指すと語る

速水と首相の小渕から懇請された安斎は、政府の景気対策を要請して長銀の整理(お葬式と自認)にかかるが、売却先探しは困難を極め、漸く14か月後の999月にリップルウッドを核とする外資ファンドに引き渡し。瑕疵担保契約が条件となるが禍根も残す

破綻処理に4兆円投入した挙句に譲渡価格は10億円

安斎の後、八城がCEOとなって新生銀行が再スタート。04年再上場し普通銀行に転換。投資ファンドは2,200億の売却益を得る。個人向け金融サービスに注力、アプラスを買収して杉山が06年会長となり八城は退任するが、改正貸金業法でグレーゾーン金利に規制の網がかかるとビジネスモデルが失墜、リーマン・ショックでは多額の含み損が出て業務改善命令を受け、なお2,000億円残る公的資金返済の目途はたっていない

 

第3節        日債銀の長い夜

43年生まれの東郷は、66年日銀入行。欧米との摩擦回避、円高阻止に心血を注いだ経歴を持つが、96年突然日債銀への転出を勧奨され、召集令状と観念して受け容れ

不良債権処理が進む中で、系列ノンバンクの母体行責任を明確化した日債銀の信用不安が一気に拡大、あさひ銀行に合併を申し入れるが拒絶、トヨタからの資本注入や、浜銀との合併、全信連との業務提携なども模索したが不調

93年、元国税庁長官の窪田が経営再建を託されたが、金融債のデフォルトによる金融システム不安を懸念した大蔵省の後押しで大手金融機関を集めた増資による支援にもかかわらず信用収縮の余波で経営内容は悪化。98年の公的資金注入の際も3,000億の申請に対し600億に留まる

長銀の公的管理と、金融監督庁による資産査定の厳格化から持ちこたえられずに、98年末政府は一時国有化を決定。窪田と東郷は粉飾決算を容認したとして経営責任を追及される

99年起訴、04年地裁は有罪、07年高裁は控訴を棄却するが、長銀の経営陣に対する民事訴訟が3審とも経営陣の勝訴に終わったことが刑事裁判にも影響し08年逆転無罪となり、日債銀も09年の最高裁で高裁差戻しとなる。11年高裁で逆転無罪

日債銀の処理は、ソフトバンク、東京海上、オリックスの3社グループが引き受け、あおぞら銀行として再スタートするが、03年ブロードバンド事業に向けた資金確保のためソフトバンクが銀行をサーベラス・グループに売却すると、伝統的銀行業務から投資銀行業務に転換。06年普通銀行に転換し再上場したが、リーマン・ショックで赤字転落。09年新生銀行との合併を発表するが破談。13年サーベラスは持ち株を売却。15年公的資金完済

揺れ動く経営方針と同様、どこへ向かおうとしているのか、見通しは不明

 

日本の銀行業界は、9204年度まで累計100兆円の不良債権を処理、注入された公的資金は累計13兆円、破綻金融機関の損失穴埋めのための国の資金援助は累計19兆円

銀行ビジネスそのものをどのように立て直せばよいのか、今なおもがき苦しんでいる

 

第3章     メガバンクは変身したか

第1節        UFJ争奪戦の真相

0510月、三菱東京と、三和・東海が母体のUFJが経営統合してMUFG誕生

04年、三菱が目指したのは、時価総額で当時世界ランク20位からのトップ10入り、その有力手段がグループ再編戦略

一方のUFJは、大手銀行グループが息を吹き返していた時期に、不良債権処理の先送り、赤字決算と検査妨害で信用不安に拍車がかかる悪循環に陥っていた。金融再生プログラムで不良債権比率の半減を求められる中、債務超過を恐れた銀行は、競って資本増強策に出て、不良債権処理に奔走したが、UFJは出遅れ。04年の検査ではUFJ側の対応に問題があったことも一因となって不良債権額は自己査定を1兆円上回り、7,000億の引当不足が露呈したにも拘らず、同期の決算では4,000億しか上積みせず。金融庁から銀行法に基づく報告を求められ、さらに4,000億の引当上積みの決算修正を行い、赤字転落でUFJ信託を住信に売却し寺西は辞任、金融庁に屈して玉越と沖原に交代

金融庁は追い打ちをかけるように、検査対応や大幅な決算修正に対し業務改善命令を発動

刑事告発されかねない銀行には公募増資の道も断たれ、さらなる不良債権の処理によって自己資本比率の国際基準8%の維持も困難になり兼ねず、合併先を探すしかなくなった

UFJの当初のターゲットは住友だったが、三菱が早くから誘いをかけており、金融庁による行政処分で業務改善計画の提出期限を迫られていたUFJは、返事のない住友を見限り、信託の売却を白紙撤回して三菱の誘いに乗る

住信は売却交渉禁止の仮処分を申請、基本合意書の法的拘束力が認められるが、異議申し立て。その間三井住友はUFJに経営統合の申し入れ。高裁は「信頼関係が破壊され、協議継続が不可能となっているため、独占交渉義務は効力を失った」として棄却。三菱とUFJは基本合意書締結、0510月の三菱UFJグループ設立を発表

最高裁は高裁の決定を維持。三菱は7,000億の資本注入を実施、住友のTOBの可能性に対抗するため三菱の取得した優先株に議決権を発生させる「疑似ポイズンピル」の防御策をとる。05年統合契約締結、10.62の合併比率決定

住信は損害賠償を提訴、損害額2,300億のうち1,000億を逸失利益として請求。地裁は損害との因果関係を否定、請求を棄却。高裁は和解を勧告、0625億円で和解成立

住信は、残された中央三井との統合を働きかけ、12年三井住友信託誕生、信託のトップ銀行となる

 

第2節        銀行合併の功罪

銀行同士の合併は日常茶飯事

銀行経営の革新の近道として合併が有力な選択肢

経済と銀行の体力が回復した時期に起こるケースが多く、「追い詰められている銀行」の存在も必要

三井住友の場合、1990年太陽神戸三井銀行誕生、92年さくらと改称。みずほ3行の話に刺激され01年三井住友合併

規模の利益、業務の補完(シナジー効果)などが合併のメリット

 

第3節        3メガバンクの実力は

1993年、業態別子会社解禁。99年には子会社の業務範囲の制限撤廃

98年、金融持ち株会社解禁。既存の銀行を完全子会社とすることが条件。持ち株会社の傘下に多様な子会社を持ち、業務の幅を広げて貸出業務の低迷を補う経営手法が定着

金融制度を変える大きな潮流は、情報化とグローバル化、さらに「金融サービスの分解と再構成」 ⇒ 金融技術の発達と、業務の専門家が進むと、一括してサービスを提供できなくなり、金融機能を分解し、再構成した金融商品を提供できる仕組みが考えられ、金融持ち株会社の解禁で、様々な金融サービスを提供する組織を傘下に作ることが可能に

日本で金融コングロマリットの誕生と言えるのはMUFG

04年の「金融改革プログラム」は、民主導で、金融システムの活力を重視し、望ましい金融システムを目指す ⇒ 魅力ある市場の創設を通じて、「貯蓄から投資へ」の流れを加速させ、「金融サービス立国」を実現する。銀行や証券などの経営の自由度を高めるべく金融規制を緩和する一方で、利用者保護法の整備を進める

メガバンクの再編は、多業態にも影響

証券業界では、98年野村が興銀との業務提携を発表したが、成果なく自然解消

日興は、98年トラベラーズとの提携を発表。三菱は独自に三菱証券を発足させ、経営危機に陥ったモルガン・スタンレーに90億ドルを出資して連結対象とし、10年には投資銀行部門だけを統合し、三菱UFJモルガン・スタンレー証券誕生

大和は、99年住友との提携を発表し、大和証券SMBCを作るが、住友の色が強くなるのを嫌がって、09年には提携を解消

リーマン・ショックでシティが日興コーディアルを売却すると、三井住友が11年完全子会社化しSMBC日興証券とする

保険業界では、損保業界が日米構造協議で指摘された一律保険料を98年に解消したのが再編の契機となり、メガバンクの再編をにらみながらの展開となる。10MS&AD傘下に三井住友、あいおい、ニッセイ同和損保が、NKSJ傘下に損保ジャパンと日本興和損保が入り、東京海上日動と合わせ3大グループに集約

生保業界は、メガバンク再編の影響をあまり受けなかったが、逆ザヤ問題から中小の経営破綻が相次ぎ、97年の日産生命の業務停止命令以降5社が破綻、何れも外資系の傘下に

 

第4章     進まぬ新陳代謝

第1節        「火薬庫」で生き残った地銀

2015年時点で地銀は64行、第2地銀は41

地域経済の長期的低迷が契機となって地域を超えた再編に活路を見出そうとしている

関西の危ない銀行「火薬庫」の代表格が大阪銀行。94年大蔵省から送り込まれたのが谷口米生で、9500年頭取。母体行責任を放棄し関連ノンバンクの整理を地裁に申請した結果、実損500億以外に預金の流出がとまらず株価も下落、金融再編しようにも相手がいない

経営の合理化と地域に特化した営業基盤へのシフト、貸出金利の引き上げで立て直し、99年大和・近畿・大阪3行の提携に進み、大和の下で2行合併が実現し生き残りに成功

京都銀行の柏原は63年入行の生え抜きで98年頭取就任。不良債権の比率が低く、株式含み益が多かった京都銀は近隣府県への拡大路線を取る

 

第2節        スタートアップの狭き門

96年のビッグバン以降、異業種の銀行業参入が始まる

ソニーの新銀行は、78年に山一に入った石井茂は破綻後に、金融業をネットの有力なコンテンツと位置付けるソニーに入りネット金融業の立ち上げに参加。一旦円高で構想は頓挫したが、99年復活し、01年さくら銀行も巻き込んで個人の資産運用業務に絞った新銀行の営業開始。生保とともに金融持ち株会社の傘下に入る

安斎はIYバンク(現セブン銀行)立ち上げに参加。ATMの代行業で、01年営業開始するも、提携する金融機関は数行どまり。3年目にしてようやく単年度黒字転換。08年上場

日本振興銀行は、日銀出身の経営コンサルタントで金融庁顧問を務めた木村剛らが始めた中小企業向け融資専門銀行だが、不良債権の山を築き、ノンバンクの債権買取にも手を出して傷口を広げ、検査妨害で業務停止命令を受け、検査忌避で銀行法違反を犯し、10年経営破綻し戦後初のペイオフ発動。12年イオン銀行に吸収

新銀行東京は、石原東京都知事が金融機関の貸し渋りを見兼ねて中小企業向け融資を目的に05年開業したが、スコアリングモデルが機能せず多額の焦げ付きが発生。16TYフィナンシャルグループと経営統合し幕引き

2000年以降開業した新銀行は破綻した2行を除き8行。住信SBIネット銀行、ソニー銀行、楽天銀行(前身は商社が始めたイーバンク銀行)、じぶん銀行(KDDIと三菱UFJ)、ジャパンネット銀行(三井住友とヤフー)、大和ネクスト銀行、セブン銀行、イオン銀行。153末で総資産合計17兆円

ネット取引に強味を持つ程度で、既存銀行と比較して新味があるわけでもない

フィンテックの広がりで、決済業務を営むIT企業などを持ち株会社の傘下に置けるよう新法が検討されている

新規参入勢を苦戦させ、閉塞感を生んでいる背景にあるのはオーバーバンキング。「貸出過剰」「銀行数の過剰」「預金過剰」の3つの意味があり、貸出過剰は収益を生まない貸し出しが多く不良債権が生まれている状態であり、銀行数の過剰は経営が悪化しているのに生き延びている銀行が多いとの批判に繋がり、銀行合併や再編すべきとの主張となる。預金過剰は、預金が集まり過ぎて資金運用に困る現象。預金保険で保護されるために預金者は銀行の信用力に無関心で、不良債権を生む温床となり兼ねない

公的金融の合理化も検討され、05年には完全民営化の方向付けがなされたが、リーマン・ショックや東日本大震災などで先送り、15年完全民営化は実質見送られた。政府系金融機関3行で総資産53兆円、総貸出42兆円。貸出過剰に拍車をかけている

05年の郵政民営化法に基づき07年発足した日本郵政グループは、金融2社の株式を17年までに処分するとされたが、その後は迷走。ゆうちょ銀行の総資産は208兆円(153月末)で国債の有力な受け皿。「暗黙の政府保証」が付いたままで貸出業務の過熱を煽る

 

第5章     銀行に未来はあるか

第1節        銀行業の本質とは

銀行取引が必要になるのは、個人の家計や企業といった「経済主体」が所得を得るタイミングとお金を出すタイミングが必ずしも一致しないためで、家計は余裕資金を金融市場に提供する「黒字主体」であるのに対し、投資資金を必要とする企業は金融市場から資金を調達する「赤字主体」となる。市場メカニズムが完全な状態であれば、資金は黒字主体から赤字主体にスムーズに流れるので銀行の役割は大きくないが、市場の様々な「不完全な要素」を抑えて資金の流れをスムーズにするために銀行の役割が期待される

不完全な要素の1つが「情報の非対称性」であり、「契約の不完備性」

銀行の仲介機能は、「決済機能」「期間変換機能」「情報生産機能(非対称性を軽減)

銀行のそのほかの機能としては、「委託された監視者」「取引費用の節約とリスクの分散」

 

第2節        異色官僚"が説く制度論

銀行は制度や政策と強く結びついた存在であり、それは世界的な傾向

ビッグバンを主導した大蔵官僚が大森泰人

 

第3節        着地点はどこに

バブル崩壊後の日本の企業は「黒字主体」に転換、有利子負債を減らし手元資金を積み上げている一方で、個人の家計もこの20年手元資金の1/2以上を現・預金に回す傾向は不変で、オーバーバンキングに拍車がかかっている

投資の成功体験がほとんどないからで、政府が注力すべきは個人投資家に魅力を感じさせる投資対象を増やすような政策だろう

「貯蓄から投資へ」の誘導役として銀行に期待している金融庁の思惑通りに規制が緩和されてきているが、形は整っても結果は出ていない

金融リテラシーを鍛える

 

 

 

 

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経済人・金融関係者必携! 日経新聞編集委員が描く、激動の20年史。

バブル崩壊、不良債権、追い貸し、合併というどん底の時代に、経営陣はいかに苦闘し、どう行動してきたのか?

メガバンク誕生、長信銀の消滅、規制緩和、その背景・功罪とは? 私たちは今、どう銀行と付き合うべきか?

銀行とはどんなところで、何を考え、どう行動しているのか、よく知っている人は少ないのではないだろうか。

「銀行業とは何か」「銀行は安全なのか」という疑問に答え、これから銀行とどう付き合うべきかを考えるヒントを提供するのが本書の狙いだ。

日本の大手銀行がバブル崩壊後にどのような運命をたどり、5大金融グループがどんな経緯で誕生したのか、その時代を象徴する経営者らが傾いた銀行の再生に奮闘する姿を描き出す。

また、銀行の「新陳代謝」をテーマに、地方銀行・第2地方銀行と、インターネット銀行などの新設銀行を取り上げる。

最後に、銀行業の 本質を、経済理論を紐解きながら解説し、銀行はどうあるべきか問題を提起する。

 

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