心の糧(戦時下の軽井沢) 大堀聰 2021.6.23.
2021.6.23. 心の糧(戦時下の軽井沢)
著者 大堀聰 1956年生。79年上智大ドイツ語学科卒。キャノン入社。スイス、オランダ、ドイツに駐在。16年定年退職。00年ホームページ「日瑞関係のページ」を立ち上げ、戦時下の欧州邦人、同じく日本の外国人を広く取り上げる
発行日 2020.9.1. 第1版 2020.11.27. 第2版
発行所 銀河書籍
戦時下に軽井沢に疎開した外国人。
食糧不足に苦しんだ彼らに「心の糧」はそこにあったのか?
多くの証言からその時代を再現する
はしがき
本書を自身のホームページ「日瑞関係のページ」に公開したのは2017年。プロバイダー次第で消えてしまうネットではなく、書籍として残すことを考え、その第1弾が本書
第1部
Ø 序
「(戦時中の)軽井沢には食料がなくても自由主義の作家や政治家、中立国の外交官がいて”心の糧”があった」とは、文化学院創立者西村伊作の6女西村クわが、戦後だいぶ経って語った言葉。伊作は43年不敬罪で逮捕。新聞記事に出たが、その時いた軽井沢では、誰も気に留めず普通に接してくれた。親が思想犯で牢屋に入れられても、古姿が日本人離れしていても、誰も何も言わなかった。45年、クワは家族で疎開していた三島から、姉と2人で軽井沢へ向かう。三島でも食料が不自由というわけではなかったが、心の自由がある地に向かった
軽井沢には戦時下に本当に心の糧があったのか? それを確かめたくて、特に疎開を若い年代に経験した人の回想録をあたる。複数の人が書いていれば信憑性は高まる
Ø 歴史
軽井沢の別荘第1号は。在日英国公使館公式司祭を務めたアレキサンダー・クロフト・ショーによって1888年建てられた
日本人は、太平洋開戦後も避暑地として利用していたが、44年頃から縁故疎開の疎開地として長期利用し始める。45年3月の東京大空襲後急増
外国人のうち、同盟国人、中立国人は軽井沢がその居住地の1つに指定され移り住むが、冬の寒さと食料調達で苦労したが、外国人が多く集まることで安全が保たれた
「1943年軽井沢別荘案内図」では、約1/4が外国人名義
Ø 戦時下の様子
歌人窪田空穂は、45年7月に疎開、外国人の情景をうまく書き残す。「外国人は、旧軽一帯の碓氷の支脈寄りの傾斜地に別荘を構え、日本人は別山の山裾の平地を選ぶ。建築様式も一目で見分けられるほど異なる。外国人は樹木の多い陰鬱な地に、日本人はその正反対。外に出ると見かける人の9割は外国人。全部自転車に乗り、洋服も品は良い物ではなさそうだが格好良い」
Ø 外国人の数
38年、室生犀星が『都新聞』に寄稿。「西洋人が2000人。38か国の人種がいる世界にも珍しい”町”」。人数などは外事警察による
39年の独ソ不可侵条約が大きなショックとなり、外国人の引き揚げが加速
41年夏、滞在者は警察に届け出。外国公使館員は32か国、106名、内大公使は23名。一般外国人は38か国807名で前年比400名減
終戦時の欧米系外国人数は約1500名
Ø 亡命ロシア人 レオ・シロタ
ウクライナ出身のユダヤ系ピアニスト
44年まで東京音楽学校の教壇に立ち音楽活動を続けるが、任期満了で契約は更新されず、軽井沢に移り、旧有島武郎別荘「浄月庵」(軽井沢1068番)に滞在
冬は家の中が全て凍ったが、燃料はわずかしか提供されなかった
日本人との交際は禁止で、藤田晴子のような弟子たちは苦労して食料を運ぶ
他にもモギレフスキーやローゼンストックなどの音楽家も軽井沢に引っ越し、付き合いには事欠かなかった
Ø ピアノの授業
シロタは、ピアノのレッスンを禁じられ、夫人が外国人にピアノを教えて糊口を凌ぐ
東京から2台のグランド(ドイツ製ベックシュタイン)を持ち込む
ソニー社長大賀の妻・緑は、疎開先の上諏訪からシロタのレッスンを受けに来ていたが、交通事情が悪く駅で夜を明かすこともあったという
Ø アイザック・シャピロ 白系ロシア人
31年東京生まれ。東京大空襲の後軽井沢の白系ロシア人宅に疎開。ジフテリアに罹患した際には、シロタ夫人のくれたジャガイモで命を救われた
Ø アルメニア人 アプカー一家
1890年横浜に来て貿易商を営み、横浜の外国人社会の代表
開戦時はソ連邦に属していたので抑留対象にはならず。43年自宅が「居住禁止区域」に指定され退去命令により軽井沢に移る。三笠に家を見つける。アルメニア人は2家族だけ
Ø 燃料の確保
アプカーは在住外国人の代表のような立場にあり、燃料不足を警察に相談すると、薪の調達を示唆され、運搬用の列車の提供を受ける
暖房代わりとなったのが風呂
Ø 良き警察
評判の良くない警察も、個人ベースではある程度外国人のために協力したようだ
毎日シロタ家に様子を窺いに来た憲兵が、家事を手伝ってくれたこともある
Ø ロイ・ジェームス
後にテレビで日本語を話す司会者となったロイの父親は、ロシア革命で日本に亡命したタタール人で、日本で雑貨商を営む傍ら、代々木のモスクで導師を務めていた
29年生まれのロイは、軽井沢の生活を回想。「抑留とは軟禁で、1軒から1人づつ憲兵や特高の見張り付きの労働に徴用。日通の人夫として重労働に駆り出された。戦後も5年ほどいたが苦しい思い出しかない」
45年2月、軽井沢691番に移住。盗んだトマトで凌ぎ、栄養失調で倒れた時は仲間が空き巣で食料を盗んで助けてくれた
Ø タタール人
終戦時、タタール人は日本に332名、内軽井沢に102名疎開
戦後プロレスら、レフェリーとして活躍するユセフ・トルコもタタール人
Ø 亡命ロシア人 スタルヒン
無国籍の白系ロシア人。44年8月軟禁状態となり軽井沢に送られ、ロイと一緒に労働に駆り出されたという
Ø ワルワーラ・ブブノワ他
ロシア人女流画家、バイオリニスト小野アンナの実姉で、23年来日
45年3月警察から立ち退きを命じられ軽井沢に来て、シロタの家に間借り。4月からは小野アンナも同居
白系ロシア人の舞台女優アンナ・ジミートリエヴナ・ロズヴァドフスカヤはニューグランドホテルに滞在
白系ロシア人バイオリニストのアレクサンドル・モギレフスキーも息子と軽井沢1245番に住んだが、バイオリンを弾いているのを聞いた人はいない
何もしない人には、憲兵も何もしなかったという
Ø 警察組織
警察、憲兵、特高などが一緒くたになって書かれている
憲兵は、軽井沢駅前の油屋旅館を宿舎にして、常時2,30名が詰めていて、外国人のみならず、日本の外務省職員の行動も監視
ロシア文学翻訳者湯浅芳子は45年3月突然別荘から引き立てられ、共産党に協力したという冤罪で拘束、岩波茂雄の尽力で解放
ドイツ人が2カ月拘束され、帰って来た時にはフラフラで、翌晩首を吊った
43年に東京日日新聞(現・毎日新聞)社員、伊東治正伯爵の別荘「翠雨荘」に鳩山一郎、近衛文麿らが密かに集まって和平への道を話し合ったが、「翠雨荘」は戦後ショール・アイゼンベルクの所有となり、今も小さな立て札にその名が残る
アイゼンベルクは、21年ミュンヘン生まれの亡命ユダヤ人で、41年来日、枢軸国人として振舞い、終戦時の外国人在留リストでは上山田村(御代田村)在住のオーストリア人画家ヘルマン・フロイドロス・ペゲン(フォロイデルスペルガー)と同じ住所で暮らしている。画家は日本人と結婚、その娘とアイゼンベルクは結婚、戦後進駐軍との間に立って貿易、不動産など多方面に活躍、ロスチャイルドに次ぐと言われるほど巨万の富を築く
Ø 疑われるスエーデン人
室生朝子によれば、中立国のスエーデン人も疑われたという
室生犀星旧宅の前は、松方正義の孫である春子が所有していた別荘で、今はカフェとして賑わうが、当時1138番で終戦時スエーデン公使館にもなった
Ø 警察関係者の証言
軽井沢分駐所長の話。「調査対象には短期間お手伝いさんを送り込む。駅前の油屋旅館には軽井沢警察分遣隊の看板を下げ、制服の憲兵が巡回して歩き、外国人を牽制」
Ø ドイツ人
戦時中最も多かった外国人がドイツ人で、3000人前後
43年夏、横浜に住むドイツ人248世帯523名に退去命令が出て、軽井沢に来たのは約45世帯88名
Ø オット(Eugen Ott) ドイツ大使他の外交官
42年夏には、ドイツ、イタリアの大使が軽井沢で過ごす。万平ホテルから三度山に向かったところに、国際特許事務所を開いていた玉置徐歩の別荘を挟んで両大使の別荘があった
オットはゾルゲ事件で本国召還となるが、直前の軽井沢では、オット夫人は元駐ドイツ大使の東郷夫人(ドイツ人のエディット)とすれ違っても無視、本国召還の腹いせ
イタリア大使は、夫人がギリシャ人で、40年イタリアによるギリシャ侵攻後は夫婦喧嘩が絶えなかったという
Ø ドイツ語教員 ヘルムート・ヤンセンとヘルベルト・ツァッヘルト他
各地の旧制高校にはドイツ人教師がいたが、41年松本高校でドイツ語を教えたのがヤンセンで、夏の軽井沢で出会った女性と44年軽井沢で結婚式を挙げる。44年の後半は授業もなくなり、自活しなければならなくなった夫妻は万平ホテルに移住、進駐軍に接収されるまで住んでいたという
ヤンセンの前任がツァッヘルトで、41年日独文化協会所長として横浜に移り、43年軽井沢に疎開
Ø ドイツ語教員 ロベルト・シンチンゲル
『新現代独和辞典』の編者で、三島由紀夫も彼からドイツ語を習った
23年神戸に来て、学習院、東大で教え、44年軽井沢に疎開
Ø フリッツ・カルシェ 旧制松江高校ドイツ語教師
松江で長らく教えたカルシェは、夏は軽井沢の別荘を借用
39年退任して帰国するが、翌年陸軍武官補佐官として再訪。終戦を軽井沢で迎える
多くの写真を残し、遺志を継いだものによって発刊
Ø カローラ・ティーデマン ドイツ人
商社員の妻。中国から異動。夫は東京勤務で妻子は44年軽井沢に疎開。日本人コックが人を集め4日かかって徒歩で荷物を運び、外国人が家具を山の中に運ばせたといって話題に
Ø ヨーン・パーシェ ユダヤ系ドイツ人
ヨーンは、ドイツ貴族の中でも図抜けて高貴な女性と結婚、ユダヤ系だったのでドイツを離れ横浜に滞在するが、45年3月軽井沢に疎開
スイスの新聞を読んでいたためドイツ大使館の警察担当により告発された
Ø ドイツ人牧師
米英の宣教師たちは帰国を強制されたが、ドイツ人宣教師は教会で働き続ける
44年ドイツの劣勢に伴い、宣教師たちは軽井沢に強制移住
皆プロテスタントで、ナチ党関係者から睨まれ、教会でもミサを上げられなかった
終戦時の外国人リストによれば、プロテスタントの牧師はドイツ人7名、スイス人2名、その他3名に対し、カトリックの神父はフランス人2名とスペイン人1名
Ø ドイツ人神父
聖パウロ教会は、アントニン・レーモンド設計による1935年建設のカトリックの教会
創設者の英国人レオ・ウォード神父は太平洋戦争勃発で拘束、42年の交換船で本国帰還
44年頃名古屋の南山大学からアロイス・パッヘ、アルベルト・ボルト両神父が来任
旧軽の「日本キリスト教団 軽井沢教会」は、1905年ダニエル・ノルマン宣教師により日本人のための超教派の教会として設立
Ø レオポルド・ウィンクラー 牧師
ウィーンで育ち、シーメンスの駐在員らと1913年日本アルペンスキークラブを設立
上智、慶應医学部(20~44年)、東外大でドイツ語を教え、慶應大名誉教授で、牧師、ドイツ語教師、スキーの先駆者として知られる。44年軽井沢に疎開。899番はアントニン・レーモンドの夏の家で、タリアセンのペイネ美術館として一般公開されている
Ø ドイツ人外交官 フランツ・クラップフ
日本留学の経験があり、45年5月の大空襲でドイツ大使館が焼失したころ軽井沢に疎開
ドイツ大使館員の多くは河口湖に疎開し、軟禁状態となったが、クラップフは軽井沢にスエーデン人の婚約者がいたので別行動。ナチの人種政策で外国人との結婚が認められなかったために、終戦後漸く結婚
Ø ドイツ人元外交官 フレデリック・デラトロベ
情報官だったがオットに解任され、失意のうちに43年軽井沢に移住、翌年腫瘍で死去
Ø ドイツ人スパイ リヒャルト・ゾルゲ
41年、逮捕の2カ月前軽井沢を訪問。38年東京でオートバイの事故を起こしているが、軽井沢でもオートバイに乗る姿が目撃されている
Ø ウィリー・ザイラー(ドイツ人画家)
37年来日。東京にアートスクール開講
戦時中は日本政府に雇われ従軍画家として日中戦線へ赴く
45年3月軽井沢に疎開、軽井沢にもスタジオを開く
戦後まもなく、アメリカ兵が彼の描く日本の農村風景を好んで購入。マッカーサーの肖像画も描いた。フランス人画家ポール・ジャックレーと双璧
軽井沢にはルドルフ・ザイラーという日本人を妻とする画家もいたが、恐らく兄弟
Ø 集会堂
ドイツ人社会は大人数がいて集会場も持っていた
草軽軽便鉄道の旧軽井沢駅近くに”軽井沢ホール”があった。1922年日本人有志によってヴォーリズの設計で建てられた軽井沢集会堂だろう。44年には東大理学部植物教室でも、研究資料の疎開先として集会堂が当てられた
集会堂ではドイツ人教師によりドイツ人学校開設、生徒100人。教員はナチ教育連盟に所属しなければならず、恐らく思想統制の目的で、全国のドイツ人教師が集められたようだ
軽井沢1411番には、ドイツ人保養所があった
Ø ドイツ人保養所
大森ドイツ学園校長のレーデッカーの夫人が代表となったペンションで、疎開者用の宿
戦後も暫く営業を継続
Ø ドイツ人の学校
44年、大森のドイツ人学校が軽井沢に疎開。それまでドイツ人師弟は家庭教師
学校は週3日で、後は食料と燃料の調達に費やされた
日本人の子供たちが集団で行動するのが怖くて、見かけると自転車で逃げ、接触を避けた
Ø ルートヴィッヒ・フランクの学校と悲劇
横浜のセント・ジョセフを34年に卒業し、自宅に学校を開設。44年学舎兼居宅全焼
半分ユダヤ人で、45年にはドイツ国籍剥奪。兄も拘束され獄死
Ø 学校焼失
遅れて消火に来たが消火作業は緩慢で全焼。フランク夫妻に保険金目当ての放火の疑いがかけられたが、付保されていなかったために釈放。女中が警察に唆されて放火したようだ
Ø カール・キンダーマンの学校
夏の間だけ軽井沢の自宅での個人教授のようなものをやっていたという
共産主義でナチスの迫害を受け日本に亡命したというが謎の多い人物
42年ユダヤ人ということでドイツ国籍剥奪
ユダヤ人ゆえにドイツで教壇に立てず、日本に亡命したが、亡命には反共キャンペーンで協力したゲシュタポのサポートがあったという。戦後米軍によってナチ残党として逮捕されたが、50年のドイツでの裁判では嫌疑なしとして無罪
Ø ミッション系の学校
横浜のサン・モール女学院の修道女が頼まれて軽井沢在住の外国人の子弟を教えていた
横浜のセント・ジョセフ出身で軽井沢に疎開していたアルメニア人が開設した学校は各クラスに6人ほどいたが、授業はすべて英語で、敵国民のアメリカ人も教壇に立った
Ø 日本人の学校
軽井沢在住の女学生は、小諸高女まで汽車で通学。クラスの半数までになった
芹沢光治良、反骨のジャーナリスト清沢烈、高木子爵(娘は後の三笠宮妃)、石橋正二郎、西村伊作、円地文子らの娘が通っていた
正田美智子上皇后も44年5月軽井沢第一国民学校初等科5年に転入。同じ歳の浅利慶太は沓掛にあった国民学校まで3.7㎞を歩いて通い、いじめにもあって良い思い出がない
終戦直前の朝日新聞は、全国初の疎開者ばかりの村が出現し分校が作られたと報じる。「千ヶ滝、星野温泉両別荘地約1000戸の解放を機に、80戸の疎開家族ばかりで新千ヶ滝村を建設。学校も軽井沢第一国民学校千ヶ滝分教場と改め、50余名の入学開校式挙行」
八丈島からも1800名が避難、現在の72コースの押立山麓に集団疎開。地元の子どもたちから「南洋猿」とからかわれ悔しい思いをしたという
Ø 山羊
軽井沢の生活で山羊が重宝された。牛乳配達停止を予測して疎開の時連れてきたもの
東郷家でも鹿島家でも山羊が飼われ、陸奥家や堀口大学家は共同で農場を買う
スイス公使館からは山羊飼育の許可願いが出されたが、終戦で実現せず
Ø 万平ホテル
1894年、佐藤万平が「亀屋ホテル」として創業
38年、ヒトラー・ユーゲント30名が滞在。軽井沢全町をナチス一色に染め上げた
41年夏にはグルー駐日米大使も夏期休暇に滞在
毎年5月には営業を開始していたものと思われる
44年央には宿泊者名簿にソ連人の名前が急増、夏にはソ連大使館員が疎開。冬は箱根強羅ホテルが借り上げられそちらに移動
44年8月よりドイツ人協会に賃貸され一般営業を休止とあるが、一部開業していた
9月にはバタビアからドイツ人婦女子600名が引き揚げてきて滞在
Ø 警察がとらえたソ連人
革命後のソ連から来て終戦時留まったのは、大使館関係者とタス通信支局長と事務員、その家族。大使と参事官及びその家族を除く33名が44年5月軽井沢万平ホテルに疎開。8月には大使館員も疎開。警察の監視下、大使の息子が別荘に侵入して酒を飲んだとの報告
暖房設備の不備や食事の粗悪を理由に9月末で引き揚げ箱根に向かう
Ø ドイツ人の見たソ連人
ソ連人子どもたちは赤旗をつけた自転車で走り回り、大人はホテルで夜遅くまで騒ぐ。「プロレタリアが着飾っているのが不思議だった」と、ソ連外交官と家族の派手な生活ぶりをドイツ人が皮肉っている
Ø 蘭印からのドイツ婦女子
41年8月、蘭印やアメリカから引き揚げてきたドイツ人婦女子慰安のため、枢軸国親善オリンピックを軽井沢国民校庭で挙行。夜は戦没勇士慰安(ママ)の灯篭流しと花火大会
600名の引き揚げ者のうち何人かは軽井沢にも来て、アクセントの強いドイツ語がいままでの英語に代わって商店に反響した
ドイツ人神父夫妻がよく面倒を見ていた
Ø ヘルマン・ボーネル(ドイツ人・教育家)
第1次大戦で捕虜となり坂東俘虜収容所で過ごし、戦後も日本に残って大阪外大でドイツ語を教えていたボーネルも、西宮から毎夏軽井沢に来ていて、ドイツ人引き揚げ婦女子を軽井沢や神戸で世話
三笠のそばにドイツ人の別荘地区があり、第1次大戦後の反独気分盛んな頃には、アメリカの老婦人が、「あそこにはフン族がいる」と叫んだという
Ø ヨーゼフ・ローゼンストック
ポーランド生まれのユダヤ人で、36年新響(現・NHK交響楽団)の指揮者。36年ヒトラーのオーストリア併合で無国籍に
44年2月で活動休止。目黒の指揮者用宿舎を出て軽井沢に移住。ドイツから来日したポーランド人のバイオリニスト、ウィリー・フライ夫妻が山中湖退去を命じられた時は引き取る
Ø ポーランド人
終戦時の軽井沢在住ポーランド人は8名。ドイツとソ連に分割されてから6年が経っていて、ポーランド人を名乗らない人もいた
バイオリニストのジグモンド・メンチンスキーも非道いポーランド訛りのロシア語を話す
Ø マンフレート・グルリット
オペラの作曲家で指揮者のグルリットもユダヤ人だがナチスに入党。ドイツ大使館から食料の配給を受けることができた。早くから軽井沢に疎開、東京に通っていた
Ø テオドール・シュテルンベルク (法学博士、東京帝大教師)
1913年、東京帝大法学部の招聘で来日。ユダヤ人でナチ政権誕生後は日本で亡命生活に
来日早々に軽井沢万平ホテル傍らの丘の上に別荘を買い(1313番)、晩年は常住
Ø 無国籍者
ドイツ人のうち4,50人の無国籍者が軽井沢にいて、厳しい生活を強いられていた
ドイツ人集団とは没交渉で、警察の調査は厳しく、告げ口で逮捕されることも頻発
軽井沢の住人は概していつも友好的か、あるいは外国人に対しては無関心
Ø ステフィ・コーン (ドイツ系ユダヤ人 無国籍)
父親カールはチェコ生まれのバイオリニスト。ドイツのユダヤ人弾圧で日本に亡命
日本からの招聘状を書いたのはスズキ・メソードの鈴木鎮一、夫人がドイツ人
42年国籍剥奪直後に死去、4歳だったステフィは母親に女手一つで育てられ、43年軽井沢に移住
Ø ルネ・マルセル 横浜フランス領事館副領事
在日のフランス人は、ヴィシー政権発足後もドゴール派だったため、日本の官憲の監視も厳しく、ドイツ降伏後はさらに強まった
Ø ロベール・ギラン フランス人
フランス・アヴァス通信社の日本特派員
45年3月、フランス人に対する強制移住命令が出て、軽井沢に移住するが、居住地が決められ憲兵がパトロールしていた。中立国人よりも厳しい監視
Ø ポール・ジャックレー (フランス人、版画家、浮世絵師)
1899年、お雇い外国人の息子として来日。油絵と日本画を学び戦時中は万平ホテルの側の別荘に疎開。日本生まれだが敵国人として厳しい監視下に置かれた
戦後も軽井沢に定住し、間もなく作品が注目を浴び、マッカーサーもお気に入りとなる
彼の住まいには碑が立っている。「1245(実際は1371) 若禮」
Ø アンドレ・ボッセ フランス人
横浜在住の会社役員。44年軽井沢に疎開。スパイ容疑で逮捕、拷問にあい軍事機密漏洩の罪で4年の禁固となるが、終戦で釈放。終戦時の外国人リストの軽井沢の欄に名前がある
Ø ゲイマー康子 (事実上のフランス人の妻)
1925年フランスに留学、帰国後丸ビルに日本初の高級ブティックを開業
フランスで知り合ったゲイマーが追っかけて来日、開戦後は2人とも軽井沢に強制疎開
終戦直後の外国人リストに康子の名はないので、日本国籍のままで、事実婚だったのでは?
戦後、神奈川県唯一のシャトー・ワイン会社の社長になる
Ø 配給
配給は米とパンと味噌だけ。町には米屋とパン屋と新聞販売店だけ。『ジャパンタイムズ』だけは毎日並んでいた。食料が尽きると農家への買い出し
白系ロシア人への配給は、1人毎週2オンスの米と1日4本のゴールデンバット、1家庭に500ミリの料理油と火鉢用の木炭1袋。木炭は料理用に使用、煙草は農家で食料と交換
Ø ドイツ人向けの食料倉庫
ドイツ人は独自に物資を貯蔵
終戦1年ほど前には配給も減り、1人1日1ポンドのパン、1週間に1個の卵、1月に1家庭1カップの砂糖、時々ジャガイモ。ドイツ人はそれに加えて2.5ポンドのパン、ミルク、時々魚の缶詰、缶ミルク、ラード、バターをこの貯蔵庫から支給
Ø 食料調達
疎開者の最大のテーマ
厳禁だった屠殺も強行
室生朝子によれば、「食料難といっても、東京に比べれば、極楽のようなもの」
Ø 草津軽便鉄道
物々交換したヤミの牛肉を北軽井沢から運ぶのにも、車掌を買収して利用された
Ø 短波ラジオ
多くの外国人が所有が禁じられた短波ラジオを隠し持って海外の放送を聞いていた
受信状態は現在よりよほど良かった。各国が競ってプロパガンダを流すため、強力な短波放送局を備えていた
外務省の軽井沢出張所にも短波放送の受信機があった
Ø スイス人 カミーユ・ゴルジェ公使
外交官、赤十字のほか、民間人も多く滞在
ゴルジェは、42年以降軽井沢に避暑旅行、滞在中各国公館員と接触していたので日本の外事警察の観察(ママ)対象
外国公館で働く日本人は、警察に行動を逐一報告させられた
44年8月、公使館を軽井沢に移転、徳川義親公の別荘を借り受け、三笠ホテル向かいの深山荘を公使館とする。ゴルジェは軽井沢全外交官の代表として日本側と交渉
Ø スイス人 F.W.ビルフィンガー
国際赤十字委員会の臨時代表
終戦直前にジュノー博士らの来日が決まり、軽井沢の家を探す。終戦間際でも意外に空き別荘があったことがわかる
Ø マリー・エルゼ・バルク (スイス人の妻)
無国籍のバルクには2人の娘がいて、長女は国際赤十字代表のスイス人と結婚、次女は学校を経営していたルートヴィッヒ・フランクと結婚。長女は外交官と同等の待遇だった夫の地位ゆえに結婚、外交官やスイス人とのみ付き合い、軽井沢に来てそれまで無縁のテニスを始め、役にも立たない母親ともほとんど会わず。次女はつましく夫を支えた。母親は長女の変貌を苦々しく思った
Ø スイス人 サリー・ワイル
国際赤十字委員会職員の中には、日本に本格フレンチを伝えた伝説の料理人ワイルもいた
44年軽井沢に居住所届を提出
Ø スイス籍 スタンヂ・サカエ(栄)
オットはスイスの商社シーベルヘグナーの神戸支店マネジャーで副領事を兼ねる
栄は戦時中を通じて軽井沢に留まるが、外国籍ゆえ配給が受けられなかった。28年から60年余り軽井沢で暮らし、亡くなると別荘をスイス大使館に寄贈。大使館はそれを売却し、「サカエ・シュトゥンツィ基金を設定
Ø イタリア人 マライ―二一家
民俗学者マライ―二は、京都帝大のイタリア語の教師。娘は戦後小説家として活躍
毎年のように軽井沢に避暑に来ていたが、43年は自宅監禁命令が来て京都に送還される
ムッソリーニがドイツの傀儡政権を樹立した際、新政権への忠誠を拒否した在日イタリア人は収容所に抑留。マライーニも拒否した1人
Ø フィンランド人 渡辺シーリ
フィンランド人シーリ・ピッカネンが神学生の渡辺忠雄と結婚し来日したのは1910年
戦前は文化学院で音楽を教える。息子が指揮者の暁雄
軽井沢の別荘は桜の沢にあり、何頭も家畜を飼っていたので、戦時中は恵まれていた
軽井沢のフィンランド人は4人、ソ連との戦いで本国が独立を保ったことを喜び合った
夫は44年、シーリも50年逝去
Ø 闇商人
外国人の闇商人がいて、バターや肉、砂糖は白系ロシア人の専売
ドイツ人は大使館からの配給も多かったので、交換する物資には恵まれていた
Ø ハンガリー人 フランシス・ハール
写真家で、40年夫妻で来日。東京に写真スタジオを開設。家族は43年軽井沢に疎開
スタジオを空襲で焼かれ、軽井沢でも金が底をつき、カメラの1台をジャガイモ1袋と少しの野菜と交換
Ø ハンガリー人 エルンスト・クァスラー
ウィーン生まれのユダヤ人。日本に亡命し、家族は軽井沢に疎開
45年本国がソ連軍によって崩壊すると無国籍に
Ø ランジェル一家 ポルトガル人
横浜で絹の輸出に関与。43年軽井沢に疎開。まだ潜りで乗馬が出来た
Ø 南京政府大使
学校兼自宅を焼け出されて教会に避難する途中でフランク一家が声を掛けられたのは南京政府(汪兆銘)大使の娘で、軽井沢のサマーハウスを無料で提供したという
Ø 泥棒
物資欠乏の時代、治安はそれほど良くはなく、44年千ヶ滝で別荘12,3件が荒らされ、警防団が組織された。住民による自警団もあった
思想犯的な泥棒もいて、ブルジョアに対する反感の暴力行為も出来
Ø 敵国人
軽井沢にいたアメリカ人イーストレイク一家の祖父は日本の近代歯科医学の父、父は「博言博士」の名で知られた人で日本人女性との間に生まれたのがローランドで兄。慶應大で教え、42年帰化申請。妻は日本とスイスのハーフ
そのほかの敵国人で軽井沢にいたのは、イギリス人女性6名(うち5名が修道女)、カナダ人女性4名(うち看護婦1、修道女2)、オランダ人1名(語学教師) 。何れも特別の事情があって認められた
Ø 敵国人 アントン・グディングス
神田外語学院の院長を務めたイギリス人。日本国籍も保有していたので抑留は免れた
日本人の父は新聞記者だったが、徴用されて南方の捕虜収容所長として派遣、イギリス人母はスイス領事館に保護を求め、45年春軽井沢に避難。外国人扱いで切符が買えず、無賃で連結器に乗って東京のスイス領事館まで配給を取りに通った
Ø クラウス・プリングスハイム2世
父は著名な指揮者。トーマス・マンは叔父
ユダヤ人でドイツ国籍を剥奪され、スイス公使館に雇われる
軽井沢の公使へ使いに行ったついでに農家に食料の買い出しに行くと、金さえ払えばいくらでも食料はあったという
Ø 列車
軽井沢まで準急で3.5時間、鈍行で5時間。2等車が1両ついて扇風機が回っていた
朝吹登水子は44年妊娠を知って鎌倉へ疎開、相模湾に敵が上陸する危険が迫り軽井沢に移動、やっと手に入れた切符だが、大宮で空襲警報が鳴り、一晩過ごしてから無事到着
1日1往復、外国人専用の車両が1両ついていた
45年3月の東京大空襲では、長野県から救護班が帝都に向かう。軽井沢と諏訪に出張所開設、罹災者の相談にのる
Ø 第二六トンネル
横川・軽井沢間に26のトンネルがあり、最後のトンネルを抜けると別世界。帰りは最後のトンネルの入り口まで軽井沢に残った人たちが自転車で送りに来て、花を投げて別れる
Ø 帰化日本人 ウィリアム・メレル・ヴォ―リズ
建築設計家で、メンソレータムを普及させた実業家。アメリカ人だが41年帰化
華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子と結婚、一柳米来留と名乗る
42年、軽井沢移住。満喜子は軽井沢幼稚園、保育園の園長
第2部
Ø 日野原重明
41年聖路加国際病院内科に赴任、7~9月は聖路加の軽井沢診療所に勤務
軽井沢に来るとすぐに子供たちがよく下痢をしてあちこち往診して回る
Ø 緒方貞子
中村豊一元フィンランド公使の長女
45年3月の東京大空襲で学校が焼けると、卒業式を済ませて家族で軽井沢に疎開
三笠ホテルの外務省出張所で下働き
Ø 外務省出張所と若い女性
三笠ホテルの外務省出張所は、元ハンガリー公使の大久保隆元が所長で、職員5名
若い女性が徴用回避のために働いたが、ここでは外交官の令嬢たちが雇われていた
Ø セルゲ・ペトロフ・白系ロシア人
三笠ホテルは白系ロシア人の疎開場所
セルゲの父は、日本在住亡命露人協会の会長。45年大空襲の後一家で軽井沢に疎開
Ø 堀辰雄
『美しき村』『風立ちぬ』はいずれも軽井沢が舞台
20歳からつるや旅館に泊まり、39年から638番の山荘を借りて住み、41年1412番を3,500円で買い取るが、44年6月疎開するが、直後に喀血で追分油屋隣に引っ越し
1412番は、戦後画家の深沢紅子が20年ほど住む
Ø 室生朝子
犀星の長女。27~61年まで毎夏軽井沢で過ごす。44~49年は疎開。堀辰雄が弱い身体をおして疎開したのがきっかけとなって、半身不随の母も疎開を納得
Ø 正宗白鳥
室生家と相前後して軽井沢に疎開。45年5月に洗足池畔の堅固な家が爆撃され焼滅するまで、交通難を耐え忍んで17回も往復、家財を運ぶ
野上弥生子が44年晩秋に疎開したのは北軽井沢で、同士が21軒協力したとある
Ø 前田公爵
加賀前田家16代の当主、利為の別荘・山欣荘はお水端(旧軽ゴルフそばの泉)のそば
42年当主は戦死
Ø 坂本直道
坂本龍馬の孫で満鉄参与。開戦後は官憲の監視を受け軽井沢に隠棲
フランスに駐在して、一見識ある人。リベラルな言動が官憲に目をつけられた
Ø 清沢烈(きよし)
ジャーナリスト。『暗黒日記』に軽井沢で会った様々な要人について書く
43年9月、軽井沢町の運動会で、宇垣一成大将に会うために出かける。国家を救うのはやはりこの人だろう。もっとも誰がやっても手遅れではあるが
45年4月に軽井沢を訪問したあと急性肺炎により急逝
Ø 三島由紀夫
三谷隆信元フランス大使の長男信は三島の幼少期からの無二の親友で、三島はその妹邦子に恋心を抱き彼女をモデルに『仮面の告白』を書く。45年6月の軽井沢が舞台
Ø 企業
1889年、鹿島組2代目の岩蔵は碓氷峠のアプト式鉄道敷設工事を請け負い。1年9カ月の工事期間中、軽井沢に本拠地を置き、気に入った彼は万平ホテルの佐藤と共に種育場跡地15万坪を購入し、貸別荘6軒を建てたのが鹿島の森の始まり
戦時中は本社の一部を疎開
Ø 朝吹登水子
サガンの『悲しみよ、こんにちは』の訳者。『私の軽井沢物語』『37人の語るわが心の軽井沢 1911~45』など出版
朝吹ユカと結婚、44年建築家志望の青年と再婚
円地文子も、朝吹同様鎌倉から軽井沢に疎開した1人
Ø 篠沢秀夫(フランス文学者)
著書『軽井沢、日比谷、パリ』で、40~43年の夏を軽井沢で過ごしたとある
貸別荘族だった。42年には自由学園の夏季学校に入り、羽仁説子の教えを受ける
Ø 佐々木(現・坂野)惇子
レナウン創業者佐々木八十八の3女。44年軽井沢の別荘に疎開するが、越冬を不安に思って、荷物を残したまま神戸に戻るが、45年6月の神戸大空襲で岡本の自宅も被災、岡山に疎開。軽井沢に残していった荷物が戦後貴重な財産となり、子供服のファミリアを開業
Ø 小坂敬 (銀座 小松ストア社長)
父はロンドン留学中にイギリス人と結婚。37年敬が生まれる。母は日本に帰化したが、戦時中敵国人と間違えられる恐れあり、父が満州にいる間軽井沢に移住、終戦も軽井沢で
Ø 西村クワ
1927年生。著書『光の中の少女たち』で軽井沢について多くを語る
一緒に遊んだのはほとんど外国人との間に生まれた子供たち。来栖大使夫人はアメリカ、東郷外相夫人はドイツ。陸奥宗光の孫、軽井沢の別邸・莫哀山荘の尾崎行雄の孫も混血
Ø マンロー病院
西村クワがボランティアで勤めたのが軽井沢病院。28年から病院長は加藤伝三郎博士で夫人はドイツ人。現在の軽井沢会テニスコートの第3駐車場にあった
入院患者の大半はお産で、安川加寿子も45年長女を出産
正式名称は「軽井沢サナトリウム」で、1921年軽井沢避暑団(現・軽井沢会)の要請で設立され、夏季は長期滞在者を診察。初代院長がニール・ゴードン・マンロー博士だったので、マンロー病院と呼ばれていた。マンローは42年死去。開戦後だったが残留米人牧師がミサ
Ø ユダヤ人医師 ヴィッテンベルク
東郷外相の娘いせは、45年1月双子の男の子を出産。ユダヤ人の亡命医師に見てもらうが双子を否認。朝吹も同じユダヤ人医師の下で出産
ヴィッテンベルクは、42年ドイツ国籍を剥奪。マンロー病院にいた3人のユダヤ人医師の1人。親しくしていた同胞でも信じられずに、戦後ナチスとして告訴
Ø ドイツ人医師 ステッドフェルド
独身のドイツ人。耳鼻咽喉科
37年版の『ドイツ大観』には、麻布在住で妻もいる。38年オートバイ事故に遭ったゾルゲの命を救っている
Ø リトアニア人医師 ブレッド・サンダース他
内科医だったが、44年ドイツ大使館が外務省に、日本の医師免許を持っていないと訴え、厚生省も免許交付を拒否したが、サンダースが医療行為をやめたか否かは不明
34年からドイツ人女医として開業していたユダヤ人医師もいた。日本人と結婚、手塚姓を名乗っていたが、42年からドイツ人が1人も来なくなり、軽井沢全体がナチに支配されたようだったと証言
Ø 服装
戦時中でも女性がスカートをはいていたのは珍しい
45年3月大空襲の後軽井沢に疎開した鹿島卯女は、「空襲がないのでモンペもはかず、別天地なのには驚いた」と述懐
Ø ダンスパーティー
雲場池の畔には、横浜ニューグランドホテルの支店・軽井沢ニューグランドロッジがあり、20室くらいが外国人ばかりで混雑、40年夏は毎土曜日にダンスパーティーが開かれた
Ø ダンスパーティーとフランス人の少女
外国人の青年たちはダンスなどで青春を謳歌
Ø 自転車
外国人は全て自転車に乗っていた
多くの日本人も自転車を利用
Ø テニス
43年から日本ではミックスダブルスが禁止となったが、軽井沢では終戦までやっていた
43年の軽井沢会庭球部クラブハウス委員長は、長谷川(旧姓安宅)登美子、西村ヨネ(伊作3女)、朝吹登水子
Ø ゴルフ
1919年オープンの旧ゴルフ場と、32年オープンの新ゴルフ場があった
43年6月に閉鎖。補助作物の作付けに好適として翼賛会が大農地化に乗り出すとある
Ø 戦時下らしくない生活
逓信省工務局長の松前重義が、転地静養した軽井沢を評して、「戦争もどこへやら、遊人閑人の群れが毎日遊び歩いていた」と、戦時とは思えないような暇人が溢れていたと呆れる
Ø 神谷恵美子
政治家で実業家の前田多門の長女。45年3月軽井沢・南原の別荘に疎開。東大精神科病棟に勤務し、軽井沢との間を往復
南原の別荘は、長倉出身の政治学者・市村今朝蔵が「友達の村」を作って代表的な知識人を誘った。松本重治、蝋山政道、我妻栄、松田智雄、野村胡堂、前田多門らが参加
Ø ドイツの降伏
44年末、上田にB29が襲来、軽井沢にも灯火管制が敷かれる
45年、ヒトラー自殺をドイツ人は軽井沢ホールに集まって大使館員から聞かされる
直前のヒトラーの誕生日にはドイツ人の少年少女がヒトラー・ユーゲントの制服を着てメインストリートを行進していた
Ø エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 1 (ドイツ人の音楽家)
カトリックで反ナチ。41年の独ソ開戦直前に来日、そのまま留まる。中禅寺湖から45年6月軽井沢に。毎日曜自宅でコンサートを開く
Ø 外交官 東郷茂徳と娘・いせ
開戦時の外相東郷の夫人はドイツ人。その娘がいせで、44年冬に夫・文彦の気管支炎が長引き、療養を兼ねて軽井沢に疎開
別荘は、旧軽ゴルフに歩いて20分くらいのところ
Ø 外相再就任
東郷は、42年外相退任後は専ら軽井沢で過ごしたが、45年4月鈴木貫太郎内閣の外相に返り咲き、近衛に特使としてモスクワに行くことを頼みに軽井沢に向かう
Ø 外国人の増加
45年の東京横浜の空爆激化により疎開外交団員数急増が予想されたが、6月初現在248名、一般罹災外国人約1000名で、終戦時も約1500名、それほどの増加はなかった
赤十字事務所には16人の職員がいたが、無国籍者を雇い入れることで彼らを保護、それが軽井沢の外国人の顔ぶれを豊かにしたともいえる
Ø 外交官の関心事
45年4月現在、大使館がアルゼンチン、フランス、ドイツ、中華、イタリア、トルコの6か国、公使館がルーマニア、ポルトガル、スエーデン、スペイン、スイス、アフガニスタン、デンマークの7か国
最大の関心事は食料で、配給に関する苦情、トラブルに外務省も対応に苦慮
Ø 近衛文麿公
近衛が40年、民主主義を否定する大政翼賛会構想を練ったのも軽井沢の山荘だった
45年7月24日、秘書の細川護貞が公爵別邸まで同行を求められ、初めて公爵から和平斡旋のためソ連普門(ママ)の勅命を受けていることを打ち明けられた
Ø 最後の軽井沢入り
45年8月9日、神谷恵美子は軽井沢行きの切符を買うため朝4時半起床で上野に向かい、正午過ぎに入手、翌日最終列車で軽井沢に向かう
終戦間際でも要人のために特別な列車が用意されていた。外相秘書加瀬俊一夫人は、前年夏から軽井沢に疎開、特別列車で往復したことが記録に残る
Ø 外務省 天羽英二、鈴木九萬
天羽は戦時中外務次官、内閣情報局総裁。軽井沢に疎開先を探しに行く
鈴木は、中立国外交官との連絡担当で大久保公使のカウンターパート、毎月軽井沢に通う
Ø ソ連の参戦と白系ロシア人
8月ソ連の参戦時、白系ロシア人は終戦が早まるなら良いことだと考える。ソビエト体制に反対はしたが、政治思想は違っても同じロシア人として親近感も根底にはあった
Ø ジュノー博士
終戦直前に来日、他の赤十字の同僚とともに車で5時間かけて軽井沢入りする
当時軽井沢には2本の道しかないと言われたが、1本は旧軽銀座通りで、もう1本はその南側の水車の道、堀辰雄の別荘638番地に繋がる道を指す
Ø 終戦直前
8月11日、ジュノーの元に、「BBCは今夜、日本のポツダム宣言受諾を報じる。人々はトラファルガー広場で踊っている」との電報が入る
神谷恵美子の日記では、「10日午後8時50分ごろ、同盟のラジオを通じてポツダム宣言に基づく降伏を申し入れた旨、短波と首っきりの弟から聞かされる」
終戦前日の夜、23歳の誕生日だった東郷いせは、父親からお祝いの電話を受ける
Ø 鳩山一郎
43年以降、軽井沢で隠遁生活を送る
終戦前日まで優雅な毎日。玉音放送を自邸で石橋、坂本、陸奥らと謹聴、涕泣する者多し
Ø 8月15日
午前中から在住外国人間には口伝えで終戦の報が広まる
町は死んだように静まりかえっていた
Ø 終戦と警察
終戦から3,4日して官憲の姿は町から消えた
皇太后陛下避難所が、軽井沢町旧道二手橋際の資産家近藤友右衛門の別邸が選ばれ8月18日行啓と決まったが、終戦の混乱で2日遅れて来軽、12月まで滞在
開戦直前の町の人口が1078世帯、8746人、終戦直後は3475世帯、15374人。19年6月は19千余り
Ø 近衛公最後の会見
戦後の東久邇宮内閣の国務大臣に任命された近衞公は、週末を軽井沢で過ごし、フランス人ジャーナリスト、ギラン氏と最後の公式インタビューに応じる
Ø 米兵出現
9月初めて米兵が来訪、11月には万平ホテル接収
戦争終結とともに再び国際的軽井沢の姿を見せ、アメリカの新聞、雑誌、放送局の特派員が詰めかける。応対に暇がなかったのは来栖三郎
自然消滅していた軽井沢会も復活、テニスも始まったが、間もなく接収
Ø 上京組
ジュノーは、慎重な人の忠告を振り切って列車で上京
前田多門も同日上京、文相を拝命
Ø 上京する若者
終戦後地元の警察は、外国人は家に留まるよう警告を出していたが、何人かは振り切って上京。進駐軍に通訳として雇われたり、GHQの放送部門に雇われたりした者もいた
Ø エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 2
終戦を軽井沢出迎え、3日後には東京を往復。教会での活動を再開、22日のコンサートは超満員。音楽への強い需要を信じられない思いで実感
Ø ドイツ人の対応
ドイツ人学校では、終戦までナチスの教育システムが続行していたため、黒塗りが施されたお陰で、終戦後も存続
Ø 終戦直後の学校
疎開の引き揚げが始まる中、白系ロシア人がアメリカ兵相手の土産物店を軽井沢に開く
女子のみ、サン・モールで修道女から個人授業を受けていた
Ø 軽井沢のユダヤ人
世界ユダヤ人会議のニューヨークの本拠宛に、軽井沢在住者30家族のリストが送られる
Ø ハインリッヒ・ゼールハイム ドイツ人/横浜領事
親ナチの外交官で、横浜では在留ドイツ人の思想チェック強力に進めた
戦時中は軽井沢に疎開。終戦直後同僚のパスポートの延長に領事館のスタンプと共に署名しているが、もちろん無資格
Ø 戦後の闇商人
米兵出現と共に、新しい闇屋が出現。進駐軍物資専門の花子。独身で週末前に上京して仕入れてきたものを売っていた。最初は煙草だけだったが、そのうち生活必需品は何でも
駅裏(草軽電鉄駅)に米軍から流れた品を扱う闇市も出来た
外国人が引き揚げた後の別荘を政府は管理人に払い下げ、転売して儲ける奴も現れたが、間もなく町から姿を消した
Ø 朝日新聞より
終戦直後、軽井沢、強羅、河口湖で米第八軍がナチの残党を逮捕・拘留
戦災孤児救援バザーが華族夫人らによって開催され、進駐軍将兵で大賑わい
Ø 1946年の西村クワ
進駐軍に学徒動員されたイェール大の学生兵3人が、お茶の水の文化学院を訪れ、日本の学生との交流を申し出、夏休みには軽井沢にジープで現れ交友を続ける
クワは現在ジュネーブに住むが、夏は軽井沢で過ごす。「人生の中で一番悲境であったあの終戦の年の高原生活は、私にとっての心のふるさとである」
以下は追加内容
Ø アイケルベルガー中将
マッカーサーの右腕で、東日本の占領を担当した第八軍司令官
川崎肇第百銀行頭取の別荘を愛用。セスナ機で週末訪れ、新軽でゴルフの後、旧軽の7番ホールから飛び立つ
47年には地方巡幸中の天皇陛下のお召し列車と碓氷峠ですれ違う際、お召列車の方が5分間退避したという
Ø ノルベルト・ベルシュテット (ドイツ陸軍武官補佐官)
愛宕951番の別荘を手に入れたが、元の所有者はハーレーダビッドソン日本支社長
46年、米陸軍大尉となった支社長の息子が別荘を訪問、ベルシュテットの息子をジープに乗せて浅間の方に連れて行ってくれた。ドイツ人でも敵として扱わなかった
Ø 終戦直後の外国人
1946年8月末現在、292人(うち99人は中国人)の軽井沢在住外国人が占領軍から食料その他の物資の援助を受けている
白系ロシア人が66名、トルコ人が38名など
Ø ドイツ人の送還
47年、進駐軍の命令で軽井沢在住のドイツ人の強制送還開始。第1次はナチス寄りと判断された211名、第2次は希望者も入れ133名
あとがき
1984年初めての海外駐在でスイスに暮らした時、海外での日本人の暮らしに興味を持ち、元々ドイツ現代史に興味があったことから、特に第2次大戦中にドイツに駐在した日本人の話を中心に資料を集め、2000年に「日瑞関係のページ」というホームページを立ち上げ
スタートから20年間に187万人が訪問
同時期に日本に暮らした外国人にも興味を広げ、横浜地区に焦点を当ててブログ「日瑞関係のページ(補足版)」を立ち上げ
これまで100編近くの論文もどき、エッセイをアップ
「日瑞関係のページ」から
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