フルトヴェングラーがカラヤンか  Werner Thärichen  2020.2.7.


2020.2.7. フルトヴェングラーがカラヤンか
PAUKENSCHLÄGE(ティンパニの響き)――Furtwängler oder Karajan――   1987

著者 Werner Thärichen 1921年生まれ。ベルリン郊外の生まれ。ベルリン音楽大学で作曲と指揮を学ぶ。ベルリン国民歌劇場を振り出しに、ハンブルク、ベルリンの国立歌劇場の打楽器奏者を経て、48年ベルリン・フィルに加入。194884年までベルリン・フィルのティンパニ奏者。50年代から活発な作曲活動も行う。08年死去、享年86。藝大や武蔵野音大の講師

訳者 高辻知義 1937年東京生まれ。57年東大文独文科卒。専攻はドイツ文学。現在東大教養学部教授。共著に『ドイツ文学史』、著書に『ワーグナー』

発行日             1988.12.20. 第1刷発行         1989.3.10. 第4刷発行
発行所             音楽之友社

20-01 ティンパニストかく語りき』で言及

日本語版によせて テーリヒェン
ベルリン・フィルの幹事の1人に選ばれた最初の仕事の1つは、1957年カラヤンに率いられたオーケストラの最初の日本演奏旅行の準備をし、やり遂げること
1回、第2回の日本旅行で全国を回って、「心の奥底」まで感激を届けようとした
本書ではフルトヴェングラーとカラヤンを対比してみたが、そのことは、私たちが音楽を愛し、何としても芸術を相手に伝えたいと思うか、それとも、素晴らしい「商品」を「売って」どんどんその売り上げの記録を更新していくかということに関わる点が多い
残念なことに、私たちがお互いに「何を」与え合うかということの比重が次第に軽くなり、代わって、権力と地位と富とを手に入れるために、「どの様に」動き回るかに重点が置かれるようになってきた
利益を追求する連中が次第にのさばってくる中で、芸術と生活がその犠牲になってはならないという点は、日本の友人と私の気持ちが一致する点である
芸術と音楽に心をひそめるとき、人間と自然が持つ様々な価値を維持し、保護すること、責任を自覚して創造に勤しむことの大事さが痛感される。世間一般が成長よ、進歩よと囃し立てる傾向を捨てて心の内面に目を向けることが差し迫って必要であるように思われる
私自身、民主的な手続きの投票でカラヤンをフルトヴェングラーの後継者に選び、彼のものでもあり、また私たちのものでもあった数々の成功の恩恵に浴してきた。カラヤンは現代社会を体現する申し子だが、この世の中がこのまま変わらずにいることはない。フルトヴェングラーも警告を発していた。いま、フルトヴェングラーを振り返り、考え直してみることでよりよい未来への道が示されはしないか?


まえがき          マックス・ブッシュ
ティンパニー奏者の能力は音楽にアクセントをつける点に発揮される。本書で聞かれるのはむしろ穏やかな響きだが、それは大音声の連打よりも、様々な感情や緊張にもっと鋭く立ち入って描き出して見せる。ベルリン・フィルのソロ・ティンパニー奏者を35年にわたって勤めてきたテーリヒェンが日頃、演奏し、また聞き、心に留めてきた多種多様な響きがそれである
退団が1つのチャンスとなって、少し離れた立場から自分のもろもろの考えをまとめ、世に問うことができることになり、本書の内容がまさにそれ
中心となるのは、2人の首席指揮者についての音楽家テーリヒェンの芸術的体験。最近数十年における最高の2人の指揮者の下で音楽するということはどういうことか、つぶさに経験させる。フルトヴェングラーのアウフタクトでは、純粋に音楽的にどういうことが起こり、楽員11人の心理の中では何が起こるのか、そのすべてをこれほどまでに印象深く、かつ音楽の本質から描写した人間は恐らくいまい。フルトヴェングラーが楽員たちと協同作業を行い、まさに音楽の中に生きていたさまをこの本で読んだ人には、古いフルトヴェングラーの録音が全く別の耳で聞こえてくることだろう
テーリヒェンはフルトヴェングラーとカラヤンに2種の極端に相対する音楽行為の在り方、2人の天才指揮者の相反する姿勢を見て取ってそれを描き出す
カラヤンは単なる音楽の領域を超えた多彩な能力によって「統率者」というタイプの体現
それに対しフルトヴェングラーは、徹頭徹尾昨日の人間。観念論者、感情人間、夢想家だが、技術万能の風潮に反抗する彼の態度が今日迎えられるのだろうか。行き詰まった現代への新しい解答として
フルトヴェングラーは、その出身も教養も全く19世紀の伝統に根ざしていた。自分がドイツの伝統に深く根を下ろしていると感じ、傑出した芸術家である自分なら犯罪者的なナチスに対して抵抗を貫くことができるという幻想を信じていた。最後は44年ドイツを去り、戦後は47年に形式的な非ナチ化の処置を受けた後、ドイツでの音楽活動を再開、52年には改めてベルリン・フィルの首席指揮者に選ばれるが54年死去
カラヤンは指揮者の職業を下積みからたたき上げて身につけ、38年にベルリン・フィルに登場、戦後は外国で活動し、55年ベルリン・フィルの終身首席指揮者に選ばれる。通常の演奏会の枠を超え、レコード録音からビデオやテレビの録画へと拡大。後進育成のためのカラヤン財団を設立(後のベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミーの前身)
テーリヒェンは48年以降、ベルリン・フィルのあらゆる活動分野にわたって発言権を持ち、重要な役割を演じる。57年には2名の幹事の1人に選出、9年にわたっていくつかの困難な課題の処理にあたる。84年からはカラヤン財団の役職も占め、なかでも指揮者コンクールに注力
作曲活動も注目。ベルリン音楽大学在学中に作曲法と指揮法にもエネルギーを注いでおり、戦前戦後を通じて作曲を続け、60年にはベルリン芸術賞、64年にはデュッセルドルフ市のローベルト・シューマン奨励賞受賞
作曲家、指揮者、ティンパニー奏者であり、オーケストラ楽員であるテーリヒェンはその多岐にわたる活動から、この本を書く刺激を受け取ったのだろう。この魅力的な書物はインサイダーの報告として、私たちの知らなかった情報を教えてくれるが、その説得力は率直さ、繊細さ、批評の精確さから生まれるのである

はじめに
カラヤンの時代は終わりを告げようとしている。新しい時代がいずれ始まるだろうが、今こそ、ベルリン・フィルの過去を背景としてその未来を考えてみる時期
継承するにはカラヤンの路線がいいのか、それともフルトヴェングラーのそれか
全く性格の異なる2人の人物を自分の体験に基づいてまざまざと描き出してみたい

Ø  ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
2次大戦後、捕虜収容所から釈放され、大学で2学期神学を勉強した後、ハンブルクの国立フィルハーモニーを経由してベルリンの国立歌劇場管弦楽団に就職
47年、《トリスタンとイゾルデ》の稽古の指揮台にはフルトヴェングラーがいて、最初の出会いとなった。彼が振り下ろしたタクトの最初の1振りを私は忘れることができない
前奏曲は斉奏チェロのアウフタクトで始まる。フルトヴェングラーは右手を極めてゆっくりと沈めていった。こんな指図ではどうやって弾き始めたらいいのか。待ち受ける中、無の真っ只中から忽然として限りなく充実して温かい、よく透るチェロの音が展開した瞬間がいつだったのかわからなかった
フルトヴェングラーが指揮するとき、開始の和音をどう揃えるかの問題はどの奏者もよく知っている
48年、フルトヴェングラーとチェリビダッケに率いられた英国旅行で、目を病んだローゼに代わってエキストラとしてティンパニを引き受けた後、団員にならないかと誘われ、国立歌劇場管弦楽団から移る
ある日突然練習中に本番ででもあるかのような温かさと充実が現れたので何事かと思って同僚たちに目を移したら、彼らはホールの端の扉を見ていて、そこにフルトヴェングラーが立っていた。そこに立つことだけで、それほどの響きをオーケストラから引き出すことができた
指揮者は才能にもの言わせて優れた成果を上げることはできるだろうが、フルトヴェングラーの響きはそれ以上のもので、それは彼の人柄全体から汲み出され、彼自身の感動を伝えるものだった
「それではまるで芯の空っぽな麦わらだ」と言ったり、「その響きは美しくない!」と言って、何よりも楽曲の動機と旋律が啓示された
あとに幾度か弾むようなふるえを伴った彼のあの異様なアインザッツは合奏に加わっている全員に特別な精神の集中を要求した。フルトヴェングラーは、自分がただ振り下ろすだけでオーケストラが性格についてきたらアインザッツが冷たく硬いものになりはしないかと恐れたのだ。彼の響きには拡がりが必要なのであり、不意打ちも力も要らなかった。重み、充実と温かみこそが大事だった
わざとらしさがあってはならなかった。彼ほど自由自在にテンポとデュナーミクを変えることのできた人はいないだろう。測定し説明できるものは何一つなく、すべては体験し、感覚されねばならない。言葉をもってしては望んだ成果はまず得られない。稽古の途中でよく中断し、何にも言わずにそこを繰り返したが、身振りが言葉よりも雄弁に語った
彼はいつも職業欄に「音楽家」と記入していたが、自分の職業について抱く理想を包括するもので、指揮棒は表現の可能性のごく一部分にしかすぎず、彼は身も魂も捧げて「音楽」したかったのであり、音楽家仲間との連帯感を感じていたかった
晩年難聴に悩まされるようになった時は、生命に差し障りのある病気になり兼ねなかった
彼の死が伝わった時、同僚の1人が、「この人が亡くなった以上、僕は仕事を変えようと思う」と言った時、私たちは彼に賛意を表した

Ø  ヘルベルト・フォン・カラヤン
フルトヴェングラーの死から間もない頃、生前から予定されていた最初のアメリカ旅行をどうするかという段になって、既に売れっ子になっていたカラヤンに声をかけたが、フルトヴェングラーの後継者の地位が保証されるのでなければ同行しないとの回答があり、ベルリン・フィルはその条件に同意
オーケストラが支配人に出した推薦状には、契約期間は後の交渉に待つと記されていたが、カラヤンはその条件に反発。アメリカでは、フルトヴェングラーがナチスに自身を第3帝国の金看板として利用させたとして攻撃、カラヤンについてはナチ党員だったためにどう出るか知れなかった
カラヤンからすると、政治的な危険に加えて、フルトヴェングラーと比較されるという芸術的なレヴェルの危険も存在。フルトヴェングラーに馴染んだこのオーケストラに自分の考えを伝えることがどれほど困難であるかは、何人もの指揮者がつぶさに体験している
まずはこの旅行にカラヤンは代理として臨んだ方が関係者すべてにとって好ましかったはずだが、カラヤンはそのような曖昧さの危険には陥りたくはなかった。彼が目指すのは終身の地位であり、アメリカ旅行をするためには迅速な交渉が必要という情況を利用して、後継者問題を自分の有利なように向けさせようとした
カラヤンは後にも繰り返し同じような行動をとるが、自分にとって不意打ちとなりそうな事柄には一切同意しなかった。全ての不安な因子は取り除かれていなければいけなかった
記者会見の場でベルリン州政府の文化大臣からフルトヴェングラーの後継者になる覚悟はあるかと問われたカラヤンは、「幾重もの喜びをもって!」と答えた
アメリカでは予告通りデモが行われ、カーネギー・ホールの前では抗議の行進が行われたが、演奏旅行は挙行され、新しい時代へのアウフタクトは大きな成功をおさめ、聴衆は指揮者とオーケストラに有頂天の称賛を送り、批評は賛辞に満ち満ちていた
それまでにもカラヤンとは何度か協演したことがあり、大多数の団員はカラヤンが留まることを望んだ。挙動にはコントラストと矛盾をなす点が多々あり、それが人の心を捉え、指揮についても同じことがいえた
カラヤンの演奏解釈では楽曲構造をくっきり露出させること、分析と構築とが同時に行われた。何物も朦朧としてはならず、感情によって変形されてはならない。誰からも透視かつ概観できるよう、作品は純粋かつ異論の余地のない形で立ち現われねばならなかった
自身にもオーケストラにもいかなる気儘も許さず、拍子通りに「折り目正しく」なければならず、またそれが魅力だった
心の深みを探る前任者の行き方をフィルハーモニーの団員は愛し、何十年にもわたって体験することができたのだが、今や、明確な意識に裏打ちされながらしかも把みにくい、新しい行き方に取り組まねばならぬ時期が来ていた
カラヤンはその人柄についても、指揮のサインの出し方についても、決して証明することも反駁することも出来ないような憶測の働く余地を十分に残しておいたので、千差万別の聴衆の期待が満たされた
新しい首席指揮者候補と行ったアメリカ旅行は大成功だったが、カラヤンとベルリン州当局との契約の締結は長引く。カラヤンは前任者と同一の条件で王座に就けるものと期待していたが、1項目だけ、支配人の選出に対する同意だけが削除された
カラヤンが就任する直前、フィルハーモニーの団員は公務員となり、ベルリン・フィルはベルリン州のオーケストラとなって、すべての契約は州当局と締結。オーケストラの幹事会は州政府の考慮事項に属すこととなるが、オーケストラの団員はカラヤンの契約の細部についてはもはや知らされなかったので、84年に例の紛争が起こった時、カラヤンが前任者よりも少ない権限しかもっていないことが明らかになると大いに驚いた。カラヤンの行動からは、むしろその反対を想像していた
州政府からフルトヴェングラーと違った評価を受け、扱われているという事実が知れたら、カラヤンは間違いなく恐ろしい紛糾を引き起こしていたに違いない
フルトヴェングラーは何と懇願するような眼差しで私たちを見つめたことだろう。高潮した瞬間には、切望の気持ちを伝えるその身振りばかりでなく、その瞳までもが私たちに訴えかけてきたが、目を閉じたまま指揮棒を振るカラヤンからは、一瞥だに与えられず、よそよそしさが指揮者とオーケストラの間に広がる。ベームがよく口にした軽口、「全ての明かりが消えた時、わしが慌てず指揮を続けなかったら、大混乱が起こっていたこったろう」
カラヤンは自分の内面を見つめ、内面の声に耳を傾けていたのだろうが、楽員は彼との間に遠い隔たりを感じ、置き去りにされたと思った。視線による接触こそ重要なコミュニケーションの手段のはず
最初のアメリカ公演では、フルトヴェングラーとの協演で慣れ親しんだ成果に比較すると、楽員たちにはいいろいろと不満な点が残った視線のコンタクトが欠け、指揮者の身振りが控え目なために隙間が生じたものは填められねばならず、その方法を手探りしながら進む
フィルハーモニーの楽員たちは以前から非常に室内楽的な演奏を心掛けていたが、その時から更にお互いの音に注意するようになり、よく考え抜かれた柔らかい響きが流れ出た。オーケストラに自立心が増し、責任感すらも増大。途方に暮れた最初の感じは大いなる努力によって克服された。これまでもベルリン・フィルは献身的に演奏することに慣れていて、今回も磨き抜かれた響きが如何にもやすやすと作り出されるかのような印象を伝えている。カラヤンの態度そして、フルトヴェングラーのそれに比べれば倹約した身振りは、それによってこれほどの凄い結果が達成されるとすれば、奇跡と解されるほかはなく、「奇跡のカラヤン」が話題となる。批評家もカラヤンの統率下に入ったことで、ベルリン・フィルが初めてその優れた力量を十分に発揮する機会を与えられ、国際的にも相応しい評価を受けることになったと囃し立てる
カラヤンは団員に対して極めて愛想がよかったが、彼があまりに親切で思い遣りを見せる時は眉に唾をつけないわけにはいかない。どのレヴェルでものを言っているのか、よく思案してみる必要があった
カラヤンがオーケストラの首席に座ったころ、彼との共同作業は快適で有益だと私も思い、交渉に加わる誰もがくつろいで協力的だった。一緒に幹事を勤めたユルゲンスはいつも楽観的。支配人のヴェスターマンの交渉態度は穏やかで角が立つことはなかった
そのうち、カラヤンが何でもかでも気にする傾向があることにやがて気づく。オーケストラの共同決定権、つまり口出しの権利は彼には思いもかけぬ挑戦となった。ザビーネ・マイヤー事件に似たような件はいくつかあった
オーケストラの管理規則の重要な1項に、「あらゆる芸術上、組織上の問題についてオーケストラの意見はその幹事会を通じて聞かれねばならない」というのがある。創立以来、団員は新しいメンバーの採否について共同決定の権利を持っているか、自分たちだけで決定することも出来たが、指揮者の声望が高まるにつれ、彼らはより大きな決定権を要求するようになり、新しい団員の受け入れには首席指揮者を含む団員の過半数が必要とされ、1年の試用期間のあとの正式採用には、首席を含め2/3の賛成が必要とされた。ところがカラヤンと意見の食い違いが起こるとなぜか大抵は劇的な経過をたどることになる。60年にはカラヤンが採用したがった音楽家をオーケストラが拒否。投票の結果をカラヤンに伝えると大目玉を食らっただけでなく、2週間後に計画されていたパリ旅行とレコード録音は中止にすると脅かされた。オーケストラは、管理規則に従って共同決定権は侵害されてはならないという条件付きで私がカラヤンとの交渉を一任されたが、カラヤンが指定した交渉時間は何と公演の幕間。いくら何でもといって翌日時間をとり2時間にわたって堂々巡りの議論をすることになる。カラヤンはフィルハーモニーの団員の就職と解任についてすべてを決定する権利を握りたいと要求したものの、突然気を変えて折れてきた。彼はその後にも一旦強硬に主張して決めたことを面目も失わずに自分で変更できる人であることを暴露、逆に人々に同意を与えておいて、後で彼らに痛い失望を味わわせることも間々あった
愛情や憎しみが極度に昂進しているときには、お互いが縛られていることを認めたがらないが、これらの感情が突如として激変することを体験すれば、愛憎が併存する情況を認めようという気にもなる。カラヤンとベルリン・フィルとの関係はこのようなことが経験される場だった
カラヤンは、自分の正しいイメージを世間に示そうとする性向が強い。見てくれが大衆の期待に添えば添うだけ成功は大きくなる。彼の肖像については彼が予め認めた写真しか公表してはならなかったし、テレビ映りも自らチェックして理想像にそぐわない瞬間は決して撮影されぬよう注意が払われる。多くの領域で図抜けた能力を持っていたが、何より、至る所で能力を示さなければいけないという不安と猜疑心が強い
カラヤン演奏会の料金はどんなことがあってもほかの演奏会より高くなければならない。入場料金を吊り上げて、自分が例外に属することを印象付けようとした
カラヤンの演奏会は視覚も楽しませねばならず、舞台上には普通の枠をはみ出た数の楽員が勢揃いしていやが上にも人の目を引く。客演指揮者が同じ規模の動員を要求しても徒労に終わるし、全ての指揮者を同じように満足させるように楽員たちに余分の勤務をしてくれるよう期待しても無駄。フィルハーモニーの団員は年間140回の演奏会に出演。カラヤンに我慢してもらうことなど到底無理。今日ではカラヤンに許されているのと同じ大編成でベルリン・フィルを指揮することを要求する者はいない、皆慣れてしまった
フィルハーモニーの演奏会場が1961年に新築された際、コンペで入賞したシャロウンは、1回の公演には常にただ1人の指揮者しか出演しないことを確認して、その1人のためにあらゆることを考慮したが、完成した時カラヤンは、自分が出演していないときでもその部屋の使用を認めなかったため、控えの間に新たに化粧室を設置しなければならなかった
若いころ工学を学んだことから、レコードや映画の収録技術の新しい発明をどう評価するかという時に、他の指揮者に差をつけ、誰も彼より優秀な器械を手に入れて彼を凌駕してはならなかった。最近では彼の考え通りに完璧に広告ができないと言って自ら興行主や主催者にすらなったこともあり、趣味が昂じて広告業の専門家になった
若い楽員が昇進するにつれて、優越感を覚えるようになり、カラヤンという名が畏敬の念を人に吹き込み、彼は尊敬され神格化された。彼が敬意の表示に極めて敏感であることは、パートナーたるものはとうに気付いていて、自分はほとんど誤りを犯さないという自惚れを彼に植え付けた。このような地位をカラヤンは享受し、それをさらに確かなものに作り変えていった

Ø  フルトヴェングラーとカラヤン
フルトヴェングラーは、自分をまず作曲家と考えていて、創造芸術家としての在り方が指揮者としての彼の音楽に利益をもたらしていた。53年には自分の作曲という仕事のために、指揮活動全体を見直したいと支配人に書き、ベルリンとヴィーンの演奏会の指揮すら諦めようとした
彼の指揮は、聴衆の前に作曲家の総譜を展げて見せ、彼の内面に侵入することができ、その音楽が彼自身の世界でもあるかのようにその中に生き、他人の作曲を完全にわがものにした。彼ほどその演奏解釈が何の妥協もなく主観的である指揮者は他にいない
フルトヴェングラーはまず作品の総譜を自分の血肉と化したのち、オーケストラを彼の体験世界に引き込むという感じを私は持ったが、カラヤンは作品を目の前で組み上げていく偉大な音響監督であることを実感した。彼が総譜に読み取った通りのものが完璧な現実と化さねばならなかった
フルトヴェングラー党から見ればカラヤンの考えは個性を欠いていて打算的であり、カラヤンの信者にとってフルトヴェングラーの情熱は不愉快で癇に障り、時として彼らはそれを気の毒にすら思った
フルトヴェングラーの頃は演奏会の模様を広めるためには貧弱な技術手段しかなかったため、自分の音響に対する責任を手放したくなかったフルトヴェングラーは、自分の活動が劣悪なメディアで広まることを進んで断念した。録音の際にどうしても生じる音楽の流れの中断に我慢がならず、彼のような水準の高い演奏解釈にあっては感情に即した発展を細切れに生産することは不可能
カラヤンは、テレビが普及した時に映像と音声の収録に明快な考えを持って取り組み、1小節とか、1つの映像を切り取って、より良いものに置き換え、細かいモザイクの断片を使って楽々と壮大な画面を組み上げて見せた
なぜ、フルトヴェングラーとカラヤンは互いに共感を抱けなかったのだろうか
オーケストラの首席指揮者が自分の楽団をいつ、どのように他の指揮者に提供するかは、なかなか興味深い。そこで重みをもつのが演奏旅行。フルトヴェングラー時代には多くの指揮者がベルリン・フィルの演奏旅行で指揮して大きな成功を収めている
フルトヴェングラーは、カラヤンを評価するにあたって芸術家と人物を峻別 ⇒ 芸術家カラヤンの能力は認めるが、人間としての行動については、「権力への渇望からどんな手段にでも訴えようという、この人物の極めて不愉快な挙動」とにべもない
61年末のカラヤンとベームに率いられたアメリカ演奏旅行は、同じように好評だったが、その後は演奏旅行を客演指揮者が振ることは稀になり、以後カラヤンはそんな旅行を許さなくなった。各地の音楽祭に出演する際も客演指揮者にチャンスは与えられなかった
常に成功していなければならないという強迫観念は大きな不安感の反映であることは簡単に見て取れる。カラヤンは生涯の最後まで成功に心を奪われていることだろう
フルトヴェングラーは、オーケストラと対決しながら相互に刺激を与え合うことを好み、指揮が最も濃密になるのは繊細極まる静かな個所であり、音量の強い箇所では響きは抑制が効き崇高でなければならなかった。カラヤンは静かな個所でも強い表現を求め、フォルティッシモでは無慈悲な大音量を要求しさえしたので、私も含め特にティンパニ奏者は辛い耳鳴りや難聴に悩まされ、木管奏者も背後の金管が自分たちに向けた時は耳栓を使用
楽員同士でも騒音に対する苦情が出て、カラヤンは奏者たちの間隔を広げたが、強烈な音量だけは断念しようとせず、遂にはティンパニの横に透明な隔壁を立て音響を分離させようとまでした
ベルリン・フィルは図抜けた適応能力を持つだけでなく、指揮者に対して自身の強い立場を示すことも出来る団体だった。音楽への異常なまでの献身という伝統を団員たちが捨てなかったことで、カラヤンは決定的な利益を得ていた筈
ベルリン・フィルは自ら「伝統あるオーケストラ」であると感じ、独特の響きと音楽に対する姿勢を維持し、保持していかねばならない。そうやって維持されるオーケストラの個性は数十年経ってもほとんど変化していない。数多くの、実に様々な客演指揮者に素早く順応するこのオーケストラの響きが、それにもかかわらず今日なおフルトヴェングラーを思い起こさせる
フルトヴェングラーの下で身も心も磨り減るような辛苦に喘いでいた団員には、カラヤンの演奏のスタイルは長所もあった。彼らを悩ませていた不眠症や血行障害が次第に消えていった。フルトヴェングラー自身が言っていることだが、自分はただ音楽家でありたい、そしてオーケストラに融合していると感じていた。団員も同じことを感じ、その場に居合わせる者皆がフルトヴェングラーの努力に力を合わせた時に生じる統一は、お互いの関係がどうのこうのという余計な詮索を無駄にした

Ø  ベルリン・フィルハーモニー・オーケストラ
ベルリン・フィルの歴史はまだ100年余り、オーケストラと指揮者との揉め事から発展したもので、創世記物語は「ビッグ・バン」によるもの
楽員が独立すると、それまでの指揮者ベンヤミーン・ビルゼも新しいオーケストラをまとめたため、楽員は自分たちで指揮者を選び、「ベルリーナー・フィルハルモニッシェス・オルケステル」と命名した自治組織を作る。楽員たちの投票によって物事を決めていったが、決定的な影響を持つのは常に感覚、今日でいえば腹であった。議論の内容は詰め切れていなくても、感動を呼び、心を納得させるものでなければならなかった
オーケストラの決定の中で重大なのは指揮者を選ぶことで、ハンス・フォン・ビューローこそうってつけの人であり、厳格な芸術指導によって高尚な響きを実現
後継者のニキシュは、習得した成果を土台に悠々と大らかに建設を進めるのに最適な指揮者であり、オーケストラの最も幸せな時期を築く
3代目は崇高な音楽演奏の精髄だったフルトヴェングラーしかいなかった。単に総譜を指揮するだけでなく、身振りの指示によって、およそ音楽が人間の心の中に呼び覚まし得るすべてを表現できるという類ない能力があった
大戦後チェリビダッケが、廃墟と絶望のあとに若々しい力と生きる意志を体現。恐ろしい例外的な情況を利用して、初めて音楽に喜ばしい作用があることを実証
カラヤンがオーケストラを手中に収めると、新しい技術の時代が始まる。音響の魔術師とそのオーケストラを世界中の人間が体験できるようにした。芸術上の可能性ばかりでなく、技術上の、商業上のチャンスもぬかりなく利用すれば、どれだけの利益があるか、誰もわかってきた

Ø  支配人たち
一方には自己の見解を強烈に主張できるオーケストラがいて、他方には自分の指示が守られることを望むオーケストラの芸術上の首席指揮者がいる。その間で両者をひどく刺激せずに、自分のアイディアを実現していくのが総支配人の仕事
ヴェスターマンは作曲家で音楽学者だったが、自作をベルリン・フィルで上演させることは許されていなかった。ベルリン芸術週間を作り上げ主宰。フルトヴェングラーとはどちらも創造的気質で、音楽についての考えも似ていた
後継者がシュトレーゼマンで59年就任。高名な首相・外相の息子で、法律家であり、指揮者で音楽著述家、ブルーノ・ワルターの弟子。何時もカラヤンの肩を持っていたが、私がカラヤンを宥めた際には介入せずに中立を貫いた
そのあとがペーター・ギルト。著作権問題専門の法律家でチェリスト、ドイツ・オーケストラ連盟の事務局長からの横滑り。カラヤンが病気で倒れた時、支配人がバレンボイムを立てた時、カラヤンは病気が治ってしまうくらいショック。バレンボイムはある席で自分はフルトヴェングラーの後継者だと名乗ったという噂があり、カラヤンにはそれが許せなかった

Ø  音楽学生たち
ベルリンでは、音楽大学の学生たちがフィルハーモニーの団員たちの、その首席指揮者に対する反抗的姿勢をよく知っていて、特定の教授を教師として受け入れることを拒み、彼らのオーケストラの将来の指揮者は試験的な指揮をさせたあと彼ら自身で選ぶ権利を主張。69年に私が試験的な指揮につくことを決定したというので引き受けた
オーケストラ科、指揮科、作曲科の学生をゼミに招き、現在と将来の職業生活で生じるはずのすべての問題を論じようと思った。この時に学んだ創造的な相互の理解、協力は新たな権力闘争の事態になった時、より良い論拠を展開するのに役立つはずだった

Ø  危機へ至る道
危機への道を準備したのは大小さまざまの不一致であり、それがカラヤンとオーケストラの間の、そしてオーケストラ自体の内部の空気を変化させていったのだった
首席指揮者は、ソロ奏者の位置にある楽員のどちらが自分の指示に快く従うか精確にわかるので、どの楽員がどの席に座るかについて首席の権利をふんだんに行使。それが一部の楽員には差別と映り、緊張を生むもととなった ⇒ カラヤンは楽員の気持ちを汲み取る態度を示さず、楽員を選ぶやり方がしばしば侮辱的であると受け止められた。フィルハーモニーの楽員はカラヤンの楽員配列案をいつも恨みを抱いて受け取る。下げられた楽員は不安になり、そこで生じた緊張がミスを生じさせ、指揮者の判断が「やはり正しかった」と証明される。カラヤンが命令的に楽員を扱って成し遂げた結果は私たちの視点からすると、折々の演奏会の役にほとんど立たず、指揮にははっきりと影響を及ぼした
新たな楽員の候補がオーケストラの面々の前で弾いて合格した後、何週間もたってカラヤンの前で1人で繰り返すことが慣例化し、その間の緊張から演奏者は2度目の演奏でうまくいくことは珍しく、カラヤンはオーケストラが判断を誤ったと非難する。このやり方が無茶であることをカラヤンに納得させるのに大変な苦労をする
コンマスやソロ奏者がオーケストラ外の活動で成功を収めることはオーケストラの全員にとって喜ばしいこととされてきた。以前は彼らもそのポストを跳躍台と考え、出来るだけ早くソリストだけの活動に移ろうとしたが、今日ではベルリン・フィルを辞めて出ていく人は滅多にいない。カラヤン自身が、同時にいろいろな関心を追求できることの範をフィルハーモニーの団員たちに垂れてきたため、あるコンマスが特別の契約を要求し、カラヤンも一度それを認めてしまい、支配人と州当局も口を挟まず、オーケストラの幹事会もその決定を飲んだ。そのコンマスは月に1回しかベルリンでのコンサートで弾かず、それもたいていはR.シュトラウスの《英雄の生涯》で、給料以外に特別手当まで支払われた。似たような野望を抱くソロ奏者が次々に輩出、ベルリン・フィルの名を嵩に着て新しい活動の可能性が考えられた。これまでにもオーケストラの中に傑出した室内楽の団体は存在したが、新しい団体が結成され、すぐに評判を呼ぶ。東西の壁ができた時、失業した音楽家を収容するため、西ベルリンの各オーケストラは増員を行い、ベルリン・フィルには15人の定員が割り当てられ、各楽器群に奏者が1名づつ増えたこともあって、ある室内楽団体はオーケストラの演奏旅行と組み合わせて行く先々で出演することすら計画された。オーケストラの演奏会が楽員個人の活動で損害を蒙らないよう一定の歯止めが必要だったが、成功の経験が重なり、余暇が増せば、欲も深くなる。2人の幹事すら自身の組織を作り上げる。1人はチェリストのヴァインスハイマーで、チェロ奏者全員で「ベルリン・フィルの12人のチェリスト」というアンサンブルを組織、もう1人に至ってはれっきとしたベルリン・フィルの室内オーケストラをまとめ上げて世界旅行に出かけた。この種のもので唯一の作品はクレンゲルの《12のチェロのための讃歌》だったが、現代作曲家と連携して多くの新しい作品を生み出し、大成功を収めた
カラヤンが首席として強大になればなるほど、独立行動という逃げ道が魅力的になり、楽員はマエストロに劣らない多面的な活動を展開
カラヤンは新しく会社や催しや音楽祭を創設したが、それらの個人的な利益のためにもベルリン・フィルを頼りにし最大限利用したのであれば、団員も小規模のグループで活動する時に自分たちの有名なオーケストラの名を引き合いに出していけない理由はない
それがまた必然的にカラヤンとの緊張の生じる場を広げ、カラヤンは支配人を通じて室内オーケストラを禁止ないし奏者数を制限し、オーケストラの中のオーケストラとは呼べなくなった
幹事はオーケストラの要お坊を代弁する能力を期待されるが、カラヤンの勝手気儘を大目に見ることができない同僚が幹事に選ばれた際、休憩時間を過ぎて練習を止めないカラヤンに対し、ごく当たり前に楽員のために休息を求めたが、日ごろの鬱積していたカラヤンに対する気持ちが出てしまい、カラヤンは何も言わずにステージを去り、あとでこの幹事とは以後仕事をしたくないと要求。カラヤンの警告はその幹事を選んだオーケストラ全体に向けられ、オーケストラに激しい動揺が走る。カラヤンはごく日常的な問題にまで自分の特別扱いを要求、多くの団員はとっくにそれに甘んじるようになっていたため、オーケストラ内部でも分断が始まる。カラヤンが成し遂げ、現に行いつつある成果は団員に大きな利益をもたらしているにもかかわらず、次第に批判的な目で見られるようになってきた
ベルリン・フィルの世紀転換期頃のプログラムは相当長く、途中で2回休憩を置くことも稀ではなく、アンコールにもかなりの長さの曲が演奏されていたが、カラヤンは短縮
演奏会のプログラムについてはオーケストラは何の権限もなく、早く解放されるのは不愉快ではなかったが、聴衆からは不満の声も上がり、ある中都市ではカラヤンの演奏会が社交行事の花形で、休憩時間に立派な晴れ着を見せびらかすことができなくなり、チケットが完売にならず、カラヤンは会場の空席に気付き以後その町では指揮しなくなった
演奏旅行の目的地もカラヤンの興味、利害で決定され、高級になって小さな都市は削られ、西ドイツまで外されそうになって、さすがに莫大な国庫補助に対する感謝の念として年10回の公演をすることになった。他方、ザルツブルクでは、復活祭と8月の他にも聖霊降誕祭の音楽祭は譲らなかった。観光シーズンのピークにベルリンにいないのを市議会も問題視したが、カラヤンを怒らせたくないとして口出ししなかった
カラヤンが何もかも貫徹してのける様子には何か不気味なものがあり、それに眩暈を覚える団員もいたが、オーケストラにも恩恵を施しており、そのような成功者を背後から襲うのは躊躇され、あまりいろいろ考えずに利点だけ享受するというのが賢い手だった

Ø  大危機
83年に起こった1人の管楽器奏者のポストを巡る騒動は、世界の果てまで響くセンセーションとなる
カラヤンとオーケストラの摩擦を劇的に高めたのは、カラヤンが行使した圧力でもなけれ傑出した指揮者を欲していて、人間的な欠陥はそのうち克服できるものと思って、ヴィーンのことをば、カラヤンが年を取って辛抱する気持ちが薄れたのでもなく、対立が世間の目に触れたためで、オーケストラの伝統が危機に瀕していることが世間に知れ渡ったことが問題
カラヤンは、好ましくない投票結果が出た場合、以後のベルリン・フィルの協演を客演指揮者並みに圧縮し、オーケストラの種々の対外活動を即時停止すると書き送ってきて、団員はそのコピーを受け取ったが、どこかからそれが報道機関に漏れた
支配人は、カラヤンの側に立ってマイヤーとの契約に署名したため、敵味方の争いに発展
芸術の殿堂の崩壊が聴衆の面前で行われ、予約の取り消しが相次ぐ。金色の表面の後ろにいがみ合っている当事者を見出そうとは予期しておらず、あまりに唐突な興ざめだった
ベルリン・フィルの不服従に対しカラヤンは、846月のザルツブルクでの聖霊降誕祭の演奏会でのこのオーケストラとの契約を解除し、ヴィーン・フィルと契約
カラヤンはヴィーン国立歌劇場の総監督だった64年に、オーストリア国家全体を敵に回して今後国内での指揮はしないと宣言したことがあり、その時カラヤンはベルリンで終身の契約を結び、私たちも傑出した指揮者を求めていて人間的な欠陥はそのうちに克服できると、ヴィーンの芝居を楽しみさえしていたことがある
カノッサの屈辱をもじって、法皇ヘルベルトが引見してくれるやもしれぬカノッサ城へベルリン市長が歩いていく戯画が新聞に載る
120人の楽員が一致して足並みを揃え市議会を応援したため、まずは支配人ギルトが解雇、議論の焦点になることに疲れたマイヤーもポストを諦めてベルリンを去り、オーケストラの民主的なもろもろの権利は楽員たちに勝利を与え手つかずのまま残った
火中の栗を拾ったのは元支配人だったシュトレーゼマン。首席に謝罪させろというオーケストラの要求を引っ込めさせ、敬虔な宗教音楽、バッハの《ロ短調ミサ》の演奏によって感動的な再会が祝われた。カラヤンは、指揮台に戻るについて、より大きな克己心を奮い起こさなければならなかっただろうが、既にそういう機会があったように、彼は自分が行っていた脅迫と、味方に与えていた約束とを忘れた。特に後者はつらい思いを彼に与えたことだろう

Ø  その後
和解ののち、ベルリン・フィルの内部には見解を異にするいくつかのグループが生まれ、以前の党派と同じではなかったが、全体の心の底には、カラヤン時代をそれに相応しい結末へと運び、人間臭かった過去を忘れ素晴らしい成果を輝かせようという意志があった
楽員たちは心の中で訣別を決意していたので、協同作業再開の喜びは同時に、この男にはついに何一つ手出しができなかったという無力感をも意味していた。カラヤンに反抗して遂に目標を達しなかったあらゆる情動は、今やオーケストラ内部でぶつかり合う。以前なら楽員はよく話し合い、時間をかけて相手に納得してもらおうとし、満足な結論に達したものだったが、オーケストラがその後幹事に選ぶようになったのは、オーケストラの利害を役人のように良心的かつ適正に調整するような同僚だった
ホルン、トランペット、トロンボーンのソロ奏者は特別の地位を与えられている。絶対にぐらつかない自信に裏打ちされているので、彼らの挙動は時として大目に見ねばならないことで意見が一致していた ⇒ 25年前のこと、ホルン奏者を試験演奏に呼ぶ。溢れんばかりの自意識の持ち主で、言動にブレーキがかからないと警告されていたが、すぐれたホルン奏者を必要としていることから、寛容な態度で臨むべきとして彼を採用したところ、演奏旅行中に許可なしに丸1日ほかのオーケストラの応援のために部署を離れた。同僚は良心的に話し合って彼の欠席を気づかれないよう処理していたが、あとになって幹事のいる前で本人が暴露したため、オーケストラが投票する前に幹事会の指示により即時解雇が支配人から通告された。カラヤンは無論了解
ベルリン・フィルは今やカラヤン・フィルになってしまったが、それは輝かしい長所とともにあらゆる短所も伴っての話
楽員の誰にも法律上の後ろ楯がつくようになり、懲戒処分が不適切であることについて法廷の判断を仰ぐのだ。懲戒解雇という過度の処分を受けた同僚は、その後楽員として復帰することを許されているが、このような訴訟が起これば、それがフィルハーモニーの協調精神に与える影響は予断を許さない
創設時代のビルゼとの、そして最近のカラヤンとの摩擦はオーケストラの音楽的使命の何ら妨げにはならなかったし、将来を悲観する理由は1つもないが、新しい時代の要求に応えるためには、楽員たちはどのような美徳を備えたらいいのか

Ø  ヘルベルト・フォン・カラヤン財団の国際指揮者コンクール
1969年カラヤンによって創設され、爾来700名以上の若い指揮者がこの専門での規範的な能力試験と見做されるまでになったこのコンクールに参加を申し込む
審査員としては各国の支配人や、レコード・テレビ等報道機関の責任ある人がおよそ12人並ぶ。専門の指揮者が2人以上入ることは滅多にない、そのほかにベルリン・フィルの団員が1人か2人、オーケストラの立場を代弁する
オーケストラや歌劇場支配人や演奏会企画者は、この審査委員会の判定を目安に用いる
審査員は各候補者につき112点の評点をつけるが、その判定基準は人によってまちまち
点数のみ紙に書いて投票し、最高点と最低点を除いて集計される。誰が何点いれたかは明らかにされない
オーケストラの質は専ら指揮者が左右するという見方が妥当と考える人は少なくない
聴衆に投票権を与えるコンクールもあるが、それを拒否するオーケストラもある。聴衆の判断力はしばしば不当に低く評価されているが、公演は聴衆のためにあるともいえる
仮借ない断固とした身振りがかなりの印象を与え、判定に影響したが、次第に、相手を引き寄せるような、もっと内面的なジェスチュアの方が高く評価されるようになる
指揮と結びつきの強い能力とされる統率力、貫徹力、説得力を女性が身につけることを好まない男性は今なお多くいるし、女性に高い点をつけると女びいきに分類されたり、差別されかねなかった
民族感情が評価に影響を与えた場合があることには訝しく思う
指揮者について判定を下すことの難しさから、審査の目標として、この職業に対して大きな素質の持ち主を探すことになったが、それはさらに難しい要求だった
カラヤンは良く自分の修業時代の話をして、傑出した才能はもっと早く見つけ出して昇進の苦難の道を短くしてやらねばと思っていたようだが、本来深い意味のあったはずの修業時代はあっさり縮めていいものではないことがカラヤンにもわかってきたようで、コンクールの結果が投資や労力を正当化できるか疑い始める
ベルリン・フィルの楽員の大多数はこの催しは、マエストロの自己演出の1つの演技で本質的な利点はないもないと、冷笑を投げかけるばかり。結びの演奏会も、ベルリン・フィルなら眠っていても弾けるようなプログラムで、入賞者全体に対して1回しか練習がなく、演奏に自分の持ち味を加えることは不可能
83年、ベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミーの校長であり、コンクールの実行責任者のアーレンドルフが重病に陥り、私がコンクールについての危惧を話すと、カラヤンは私に実行を委ねた。カラヤン自身も本腰を入れる気でいて、次回のコンクールは2年にわたることになり、最初の年はアメリカ、ソ連、北朝鮮の3人の最優秀の指揮者が選ばれ、翌年カラヤンの主催する1週間のワークショップに招かれた。オーケストラが12回練習用に供され、カラヤンが教師役としてオーケストラの真ん中、指揮者のすぐ目の前に腰かけたが、勝者が決まった後85年のワークショップでは1日しか入賞者のための指導に割いてくれなかったし、授賞式もカラヤンが出なかったことはなかったのに私1人で行う
北朝鮮のいるジン・キムはチャイコフスキーの《悲愴》を誰もが息をのむほどの感激を込めて指揮したが、カラヤンは一言「リズムが悪い」と言って、彼は金メダルを取りそこなう
このコンクールはカラヤンの後継者問題にどう影響したのか ⇒ 応募者の年齢上限は30歳で、30と言えば過去の偉大な指揮者たちがとっくに衆目を集めていた年齢であるにもかかわらず、カラヤンの後継者について憶測が囁かれるとき、カラヤン財団の入賞者の名が一度として言われないのは奇妙なことだった
86年には新しい方式でコンクールをすることを話し合い、応募者は自分が格別好きな作品を探し出すこと、または、好きな作曲家に自分の考えを話して新しい作品を書いてもらい、それを本選で応募者に指揮させた。我々の側も若い人々を虜にするのはどんな音楽か知ろうと思った。作品に対して自分なりの姿勢をとることは多くの指揮者にとっては演奏の自明の前提条件であり、たとえば、ある応募者は5人の楽員と1人の女性歌手で演奏
ところが契約に署名して期日も決定した後、このコンクールがあまり成果を上げていないという認識を持ったカラヤンが突然延期を言い出す。85年の3人の入賞者のための120分の最終演奏会も実施するばかりになっていたが取りやめ。カラヤンにとってはコンクールの延期はいとも簡単な事だったが、関係者間には大混乱を招来

Ø  ベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミー
ベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミーは後継者育成の問題解決に向けて1972年設立。団員が直接指導に当たる。教育期間は最大2年で無料、月900マルクの奨学金支給。能力に応じて日常の演奏会にも加わることができる
ベルリン・フィルは、トップ・オーケストラとして何人の外国人を受け入れることができるかという問題もある。カラヤンは世界中の最良の楽員の所属するオーケストラを指揮したいが、オーケストラは数十年を経て確立し、まがうことのない個性を示す独特の響きを守り続けたいと願う ⇒ 平均10人の外国人を加えてきており、皆私たちの文化圏のヨーロッパ人だったのは、私たちが恐れるのが響きの性格と演奏の仕方が変化することで、そ
れが変わればどのオーケストラもその金主と指揮者が把握する楽器に過ぎなくなる
このアカデミーの設立と存立は、主としてカラヤン財団と暗殺された財界人ユルゲン・ポントのイニシャティヴのお陰。後に私も校長となるが、オーケストラから生まれたものではなく、カラヤンとそのオーケストラを崇拝する人々からのプレゼントであり、それが有難く受け入れられたもの
カラヤンとベルリン・フィルの仲が疎遠になり、危機の頂点では共同の演奏会も開かれなくなった頃、この遺憾な状態が続く限り新しい奨学生の入学停止の措置が取られた。アカデミーの生命を延ばす計画がいくつもの出されたが、なぜか実行に移しても部分的にしか実を結ばなかった
ポントが暗殺された後、ベルリン・フィルの楽員たちはカラヤンに耐え切れなくなっていて、カラヤンが受け入れそうもない条件を突きつけ、一致して反抗した

Ø  即興演奏
私の小さい頃からの音楽教育は、即興演奏が中心。ただし、でたらめな即興ではなく、節度と明快な構造を持った演奏
フルトヴェングラーやカラヤンのような音楽家について、どのような角度から、どのような姿勢で述べるかが重要
この数十年のいろいろな現象や、とりわけ私の同僚たちの振る舞いとそれに対するカラヤンの反応から学んだことは、人々は自分の責任で新しい意見を出し、いわが主題を変奏する努力を次第に面倒がり出したということで、それだからこそ即興的変奏のような実に生産的な方法こそ、私の夢や作曲の中まで現れて私を追いかけまわすカラヤンという人物との対決にはうってつけのやり方なのだ

Ø  私のカラヤン作品
2人のティンパニ奏者、1人の歌手、合唱とオーケストラのための私の協奏曲が生まれたのは、カラヤンがハンマーの選択について決定を下したり、私の同僚の方が強い音を出せると言い張ったりしたために、2人のティンパニ奏者の力競べを表現しようとして作曲
この曲をカラヤンに送って、きっかけを与えてくれたことに感謝したところ、自分で初演したいと言ってきて、77年のベルリンの芸術週間で実現、私は同僚と「太鼓合戦」をした。この曲に込めた真意をカラヤンに告白したのは、初演が終わってから。後にクルト・マズーアから招かれ、ゲヴァントハウスで東の同業者に対抗して西のパートを演じて愉快な合戦を行う。どちらも合戦に勝ったと思っていた
もう1つ作曲したのは、詩篇139番に作曲した《全能の神》で、83年後半、カラヤン危機が頂点に達した時にベルリン・フィルの団員によって演奏されたが、全能の父が、彼を崇拝すると同時に抵抗もする子供たちの間に引き起こした矛盾した反応を扱っている。当時の批評家の1人が『特異な平和コンサート』と題して寄稿、私の作品が「ベルリン・フィル内部のグループダイナミクスに関係がある」と見た。作曲者が、このオーケストラの父親で必ずしも敬愛ばかりされているわけではない偉大な人物に対する自分の関係を詩篇の詩句を借りて表現したことを明察していた
レシェク・コラコフスキーの映画脚本『楽園追放』がドイツ出版協会の平和賞を受賞したのを機に、オペラに作曲したいという希望と意図を話したところ、彼は笑うばかりで取り合わなかったが、後になって題材について変更や補充や拡大が必要になった時、彼はこちらの気持ちまでよく汲んで協力してくれた。カラヤン問題が私をこの題材に向かわせたが、コラコフスキーがカラヤンを念頭に置いていなかったことは確か ⇒ 楽園での幸せだが退屈な生活から逃げ出したが、そこには激しく危険な上昇志向の競争が待っている物語

おわりに
ナチスの時代に危険に晒された人々を助けるため、フルトヴェングラーが自分の生活と生命を賭したことは周知の事実。彼は自分の考え方を私たちの前で自ら生きて見せた。オーケストラの団員も彼に従うが、それはどんな権柄づくのやり方をもってしても達成し得ないことだった。たとえ、祖国に留まることが誤解されようとも、危機の時代に彼は親しい人々を見捨てることはできなかった。それはただの一面でしかない
いま1つの面では、フルトヴェングラーは決してアメリカに魅かれてはいなかった。親切な招待と同時に同業の指揮者たちは彼を中傷した。イタリアのファシスト党員だったトスカニーニも、フルトヴェングラーの本当の姿勢を知っていたらあれほどの非難を浴びせることはなかったろう
カラヤンもナチス党に2度入党してはいるが、確信あっての党員ではなかった
フィルハーモニーの団員はカラヤン党の党員だったろうか。彼らはカラヤン党に共同責任を担っているが、84年の聖霊降誕祭の時のようにあっさり他の者と取り換えられることに甘んじなければならなかったこともあり得る
指揮者がオーケストラに対して自分の意志を融通させるためにあたって、決定的なものはボディランゲージ。あらゆる些細な動きや表情が全て音楽に影響する。目が霊感を送り出し、オーケストラの奏者がそれを正しく解釈した時は、頷いて見せる
フルトヴェングラーの生誕100周年の機会に、テレビに向かって話すことを求められたカラヤンのボディランゲージを正しく解釈したことに私は自信がある
カラヤンが前任者にどれほどよそよそしい気持ちでいるかは隠れようがなく、最後の「感謝します」という言葉は冷たかった。大多数はカラヤンが記念演奏会でフルトヴェングラーの交響曲を指揮することを期待したが、1楽章すら指揮しなかった
2人がじかに話し合ったのは1回だけ。フルトヴェングラーがベートーヴェンの第7交響曲を指揮した際に自分が味わった特別の緊張はどうやったら達成できるのか、それを聞き出すためにカラヤンがフルトヴェングラーを招いたとき。フルトヴェングラーはこの出会いのことが気に入っていたようだ。年下の同僚からそのような質問を受けるのが嬉しいのだった
この記念の日にカラヤンが選んだのは《ドン・キホーテ》で、フルトヴェングラーがリヒャルト・シュトラウスに強い親しみを感じていたからだったが、フルトヴェングラーのプログラムには一切出てこないどころか、この曲はカラヤンの十八番で、ライヴァルを凌いで見せようとしたのかもしれない
198082年にかけて、東京で指揮科の入学試験の際、どの指揮者を見習いたいかとの質問が出され、フルトヴェングラーが圧倒的な1位で、2位以下は意見が分かれた。没後38年も経って東京という遥か離れた世界でもこのようなことが起こる
指揮者たちがフルトヴェングラーを引き合いに出しても、その結果はさまざまになるに違いないが、創造のプロセス、様々な創作、創作そのものに畏敬の念を覚え、それらに対して共同責任を自覚する点では意見が一致するかもしれない
カラヤンの名は、最近30年間という時代に成し遂げられた多くの見事な発展の代名詞となり得るもの。彼ほど時代の世界的流行の本質を見て取った者はいない
フルトヴェングラーとカラヤンとの対決は、たとえ団員のある者がそのプロセスを意識することがないにせよ、このオーケストラの内面に強く根付いている。将来どの道を辿ろうかと考え、そのためにどのような指揮者を望むべきか、いずれ彼らは決心しなければならないが、その時2人はそこに姿を現すことだろう








2008.05.02
ヴェルナー・テーリヒェン(ティンパニ奏者・作曲家・指揮者) 逝去
 ブログ「Timpani Bar」の記事で知ったのですが、1948年から84年までベルリン・フィルのティンパニ奏者として活躍した打楽器奏者のヴェルナー・テーリヒェンが、先月24日に亡くなっていたことが明らかになりました。享年86歳。心からご冥福をお祈りいたします。
 テーリヒェンは演奏活動の傍ら、作曲家としても70以上の作品を遺し、中でも「ティンパニ協奏曲」は打楽器の重要なレパートリーの一つとして現在盛んに演奏されています。晩年はオペラの作曲も行っていたとのことです。
 またテーリヒェンは「フルトヴェングラーかカラヤンか」(アマゾ)「あるベルリン・フィル楽員の警告-心の言葉としての音楽」()などの著作でも知られています。フルトヴェングラーへのリスペクト、そしてヘルベルト・フォン・カラヤンに対する痛烈な批判の数々は、日本の音楽ファンの世論にも少なからず影響を与えました。
 ネットで見つけたテーリヒェンの言葉です;
 「大切な事は、表面的な事、キャリアとかお金とかを目的にしないで、他人の人間的質を高めること。それによって自分自身の質を高めることを目的とするのです。」


20101014
指揮者とティンパニスト。あれかこれか。否、あれもこれも。
ある本を読んでいてあのヘルベルト・フォン・カラヤンがティンパニを勉強したことがあって、オケのなかで、ティンパニに対してのこだわりが大きかったというようなくだりがあった。
そういえば、カラヤンがベルリン・フィルの常任になってからしばらくして、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー時代に活躍していた首席のティンパニストのヴェルナー・テーリヒェンを干して、オズヴァルト・フォグーラーをもっぱら起用した。そして後年テーリヒェンは「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本まで著し、カラヤンを非難した。
フルトヴェングラーはカラヤンを毛嫌いした。カラヤンはフルトヴェングラーが重用したテーリヒェンを嫌い、カラヤンが重用したフォーグラーはテーリヒェンを技術的にはまったく認めていなかった。音楽の良し悪しというのは、好き嫌いの問題でもあるし、言い換えれば技術的なものを優先するのか感情的なものすなわち人間的な部分、つまり曖昧な部分を重んじるのかどうかである。またあるいはそれらのバランスか。音楽演奏においては技術的にある程度のレヴェルに達すると、その先の良し悪しはまったくもって演奏家や聴衆の趣味性の問題ということができる。
カラヤンはあれだけの録音、映像を残し、世界最高峰のベルリン・フィルに長きにわたり君臨した人気指揮者であったが、私として心に残る、座右におくべき録音にはまだにめぐり合う事が無い。多くのオペラやオペラの序曲、間奏曲やチャイコフスキーなどで良いものはあるが。
フルトヴェングラーの音楽はカラヤンのそれを批判する人が多いということに反して、悪く言う人はほとんどいないようである。丸山眞男のような高名な学者が礼賛し、こぞって日本の文化人やスノッブが賞賛をしてきた結果だからというわけではなく、日本人が好む精神性とかドイツ的(実はどちらも?もの)な感覚が強いからなのであろうか。しかし私は、「そんなに良いのか?」という気持ちになる。確かにベートーヴェンのいくつかとウェーバーなどドイツロマン派の管弦楽曲に良い物はあることは認めるが。
私も感覚的な好き嫌いで単に良し悪しを言っているわけであるのだが、クラシック音楽の特徴はその名の通り歴史が長いということで数多くの楽曲と非常に多くの演奏が存在するのであり、瞬間に消えゆく音楽を同じ条件で複数比較することは出来ないことからして相対評価は難しい。指揮者・オケ・ソリスト・演奏会場・お客の質、量、湿度、温度、聴き手の状態で変化する。比較的CDなどの録音されたものについては再生装置が一定ならば比較はし易いのだが、しかしやはりその録音現場で作られる瞬間はまったく違うし、年代による録音技術、エンジニア、プロデューサーの考え方や嗜好によっても大きな違いがでてくる。
ということであんまり、あれは良い、これは悪いと決めつけないで、色々な音楽を聴いてその中で少しでも感動したり、良い気持ちになることができるのであればいい。コンサートホールで、あるいはスピーカーの前で一人悦に入り、さまざまなことを考えるのである。それが一番と思いますね。

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