「差別はいけない」とみんないうけれど。  綿野恵太  2020.2.24.


2020.2.24.  「差別はいけない」とみんないうけれど。

著者 綿野恵太 1988年大阪府生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に『谷川雁の原子力』(『現代詩手帖』20148-10)、『原子力の神―吉本隆明の宮沢賢治』(『メタポゾン』11)など

発行日             2019.7.17. 初版第1
発行所             平凡社


まえがき みんなが差別を批判できる時代――アイデンティティからシティズンシップへ
本書の立場:「差別はいけない」というのが大前提だが、「差別はいけない」ということに反発・反感を覚える人も一定数存在。本書はそのような反発・反感にはそれなりの当然の理由があると考える。その反発を手掛かりに、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫っていきたい。タイトルの「・・・・けれど」にはそんな意味が込められている
「ポリティカル・コレクトネス」が本書のキーワード
ポリティカル・コレクトネスに反発した人々が、トランプの勝利を後押ししたと言われるが、ポリティカル・コレクトネスとは、「みんなが「差別してはいけない」と考え、あらゆる差別を批判する状況」のこと
ハリウッドの大物プロデューサーのワインスタインの性暴力・セクハラに対する告発から始まった#MeToo運動や、ヘイトスピーチ問題がネットで炎上するのは日常茶飯事
みんなが差別を批判できる「ポリティカル・コレクトネス」の時代が到来している
本書は、みんなが批判できる時代を基本的には望ましいとしながらも、一方でいくつかの問題点があるとみる ⇒ 題名「・・・・けれど」に込められたもう1つの意味
みんなが差別を批判できるようになったのは、つい最近のこと ⇒ 「差別はいけない」という考えが広く世間に浸透したからではなく、差別を批判する言説に大きな転換があったため。その転換とは「アイデンティティ」から「シティズンシップ」へとまとめられる
当事者にしか被差別の痛みは理解できないというのが「アイデンティティ」で、痛みを理解できずに差別を批判はできないとする
一方で、ここ数年の炎上騒動では、本当に差別を理解していないかと省みることなく差別者を批判しているのは、差別批判のロジックが「シティズンシップ」に変わった証拠
差別は、特定の人種、民族、ジェンダー、性的指向や障碍などを持つ人間を不当に扱う行為で、個人が属する社会的カテゴリーに対する偏見から生じる。これら不当に扱われるアイデンティティ(帰属性)を持った集団が、社会的地位の向上や偏見の解消を目指す政治運動をアイデンティティ・ポリティックスと呼ぶ
「シティズンシップ」とは、当事者/非当事者を問わず、1人の「市民」として差別を批判する立場 ⇒ ヘイトスピーチを批判するロジックとして考えられるのは、あらゆる集団の平等なシティズンシップの尊厳を守ることであり、規制法が守るのもこの尊厳。ただ、あくまで「市民」の尊厳であって、「集団そのものの尊厳や、集団をまとめる文化的または社会的構造の尊厳」ではない。「市民」であれば誰もが差別を批判できるというのが「シティズンシップ」の論理
反差別運動は、差別する側に差別する意図がなかったとしても、差別者には責任があるという考えが前提であるため、マジョリティであるというだけで差別だと非難されるのか、という間違った被害者意識を持つ者まで出てきて、反ポリコレを訴えるマジョリティによるアイデンティティ・ポリティックスが登場しつつある理由はここにある
アイデンティティの論理はしばしば運動内部に亀裂や対立をもたらすため、当事者/非当事者を糾合した広範な形で反差別運動を進めるには、シティズンシップに基づく考え方が必要 ⇒ 最近の炎上騒動は、差別者を一方的に悪者に仕立て上げる傾向があり、シティズンシップに基づくとはいっても、本当に差別とは何かを常に省みる心構えが必要
反差別のロジック
政治思想
主体
他集団との関係
集団内
差別を批判できるのは
アイデンティティ
民主主義
集団
差異化
同質性
非差別者
シティズンシップ
自由主義
個人
同化
多様性
みんな(市民たる自覚ある者)
「自由主義」とは、「討論による統治」を信念とし、「民主主義」の特徴は「同一性」。治者と被治者との、支配者と被支配者との同一性、国家の権威の主体と客体の同一性、国家と法律との同一性、量的なるもの(多数)と質的なるもの(法律の正しさ)との同一性など
「同一性」を担保とする民主主義は、、同じ民族である、同じ言語を使うといった「同質性」が必要で、同質性を保つためには、必要であれば異質なるものを排除あるいは殲滅することさえ厭わない
あらゆる人間は平等であるという人権的思想は自由主義的であるが、絶対的な人間の平等は形だけで実際には経済のような不平等がまかり通る別の領域を作る
一方で、民主主義は、「国民としての同質性」があるために、1国内に限られるとはいえ、「国籍保有者間では、相対的に見て広範な人間の平等」が実現する

第1章       ポリティカル・コレクトネスの由来
1990年代以前は、アメリカのフェミニズムや黒人運動の内部で、階級闘争を目指し共産党=前衛党を支持する古い左翼を皮肉った表現として用いられていたが、90年代初頭、保守派によりリベラルな価値観や教育を攻撃する言葉として転用。その背景には冷戦終結後の民族主義の台頭に直面した多民族国家アメリカの危機感があった
第2章       日本のポリコレ批判
内田樹の『ためらいの倫理学』こそポリコレ批判の典型的な言説
ポリコレを巡る論争を、アイデンティティとシティズンシップの観点から再解釈
第3章       ハラスメントの論理
現在の変質したポリコレ言説では、「ハラスメント」という考えが重要な役割を果たすが、なぜ「ハラスメント」が性表現や差別表現を規制する根拠になったのか考える
第4章       道徳としての差別
認知心理学や行動経済学などを通じて得られた人間本性に関する新しい知見は、「差別はいけない」という考えが一般的になった現在においても、差別が一向になくならない理由を教えてくれる
第5章       合理的な差別と統治功利主義
フェイクニュースの社会問題化に対し、将来より問題となるのはファクトやエビデンスに基づく差別的言説であることを指摘
差別的であることと合理的であることとは全く別という認識を持つことが重要
認知心理学など人間本性の新しい知見が、近代リベラリズムが理想とした「自律」的な「個人」という人間像を覆しつつある
個人の「自律」に期待してもかなわないので、周囲の環境を介して、パターナリスティックに個人の行動に介入し、よりましな行動を導こうとする「ナッジ」という手法を使った「アーキテクチュア」による「統治」が近年存在感を増しつつある
第6章       差別は意図的なものか
近代法の理念では、人間は原則的に自由意志の主体であり、主体は行為を選択できるので、その選択の結果生じる事態に責任を持つとされる
しかし差別においては、行為者の意図と関わりなく、行為の結果によって責任があるかどうか判定される ⇒ 差別に対する責任の過度な内面化を生む(「内なる差別」)
このような責任理論が、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスに悪用されていて、差別主義者も反差別主義者も互いの「責任」を追及し合うという現状に陥っている ⇒ 「ポリティカル・コレクトネス」が持つ息苦しさや鬱陶しさはこの責任の問題に起因する
第7章       天皇制の道徳について
平成の象徴天皇制に対しては、その「リベラル」な価値観を支持する言説が多い
立憲君主制を採用する世界各国の君主が「ポリティカル・コレクトネス」の道徳を体現するかのように振る舞っているが、君主のリベラル化は君主側と民主主義を両立させようとするパラドクス(矛盾)から生じる
近年、自由主義と民主主義の対立があらわになる中で、君主制がその対立を融和し、調整するかのような存在として支持されている現状を指摘

第1章       ポリティカル・コレクトネスの由来
2016年の米大統領選挙で、女性差別や人種差別的な発言を繰り返していたトランプが大統領になったのは、ポリティカル・コレクトネスの敗北と言われた
PCの意味は曖昧だが簡単に定義すると、「差別に反対する言説や運動。猥褻な表現、残酷な描写の規制を求める言説や運動」であり、しばしばそれらに否定的な意味合いを込めて指し示す言葉
意味が曖昧だったり、否定的に使われる背景には、この言葉が90年代初めにアメリカで広まった際、リベラルな教育を攻撃するために用いられた
元々は1798年のアメリカ最高裁の判決文が初出 ⇒ 「現在の政治的・社会的状況に対して適切な」といった意味で用いられたもので、今の使い方とはかなり違う
1970年代になって、アメリカのハーレム出身のフェミニスト活動家が、フェミニズムや公民権運動といった左派の中で使われたのが現在の意味の始まりだが、あくまでも批判や皮肉、ジョークとして使われるアイロニカルな言葉だった
90年代までは、古い左翼が理想化した共産主義の理念に対する疑いが込められた、アイロニカルな表現として左派内部で流通
90年代以降、意味や用法が変化 ⇒ 保守派が、大学におけるリベラルな教育や積極的是正措置(affirmative action?)を批判する際に使い始めた。特に全体主義と結びつけることで攻撃したが、共産圏崩壊後は冷戦の終結によってもたらされた民族問題が多民族国家アメリカに波及することを恐れた
文化的多元主義(多文化主義とは異なる)に基づき、私的領域での文化の多様性は認めるが、公的な面では文化の統一性が必要だとする立場からのPC批判で、その特徴は①マルクス主義と「新しい社会運動(アイデンティティ・ポリティクス)」に連続性・同一性を見る、②国家統合の理念の擁護、③ポストモダン(多文化主義)批判、など
現在では、マジョリティによるアイデンティティ・ポリティクスが、反差別言説(リベラルな言説)を攻撃するために使われている
排外主義や国内的な差別は経済格差と大きく関わっている
格差の是正を求めることと移民を排斥することとは、民主主義というコインの両面
経済の自由化や移民の受け入れといった自由主義的な政策をとるEUに対して、ヨーロッパにおける反緊縮運動が、民族という「同質性」を担保するために「異質なもの」を排除する民主主義的な傾向=排外主義的な傾向を持つ

第2章       日本のポリコレ批判
日本では、左派による戦争責任の追及も、それに対する右派の反発も、「民族」という「同質性」に基づいた「アイデンティティ」の論理が支配的
内田樹『ためらいの倫理学』で展開するフェミニズム批判 ⇒ マルクス主義者とフェミニストを共に「正義の人」と指摘し、他者を糾弾し告発するという「審問の語法」が共通するが、自分が正しいことを論証できる知性はあっても、自分が間違っているかもしれないと考えることのできる知性はない
興味深いのは、「ポリティカリーにコレクトなムーヴメント」が、他者とのコミュニケーションを断念する点で、「排外主義的ナショナリスト」と共通
内田は、アイデンティティ・ポリティクス批判の矛先をマイノリティに向けることはなく、あくまでも弱者によるアイデンティティの論理を一旦受け入れ、自らの改悛を介して他罰的に振る舞う者、即ち、マイノリティに代わって差別を告発する(代行主義的)日本の知識人に向けられる

第3章       ハラスメントの論理
ヘイトスピーチの法的規制に対し、ヨーロッパ諸国は積極的だが、アメリカは憲法修正第1条で保障された表現の自由を尊重し消極的。とはいえ大学キャンパス内ポリシーの殆どは、雇用法において禁じられているタイプの言論を対象にしたハラスメント禁止規定から成り、キャンパスに於いて「脅迫的、敵対的ないし不快な環境」を作り出すヘイトスピーチは、処罰の対象となり得る差別の1形態であると定義される
アメリカでは、差別批判における「シティズンシップ」の論理の中心にあるのは、ハラスメント規制という考え
日本でも事情は同じで、セクハラとして広がる
欧米では、ポルノグラフィは社会秩序や性道徳を乱す「猥褻物」として規制の対象と見做されてきた ⇒ アメリカでは1970年代フェミニストの1部からポルノ批判が起こり、80年以降全米各地でポルノ規制の条例が制定されたが、表現の自由に反するとして違憲判決
ポリティカル・コレクトネスは、大学や企業のハラスメント規制を公共領域全体に広げるもの

第4章       道徳としての差別
アメリカでは、一見差別とは判断しにくい、新しい差別が確認されている ⇒ 黒人に対する「現代的レイシズム」あるいは「象徴的レイシズム」と言われる新しいタイプの差別で、差別はすでに解決済みにもかかわらず黒人が低い地位にとどまっているのは本人たちの努力不足によるもので、にも拘らず黒人はありもしない差別に対する抗議を続け、手厚い社会保障などの不当な特権を得ているとする見方で、女性や同性愛者に対しても同様
日本では、在日朝鮮人に対して「現代的レイシズム」が見られ、「在日特権」が批判の対象
認知システムには、「直観システム」と「推論システム」があり、前者は直観的な判断を行う非言語的・自動的な認知システムで、後者は言語的・合理的な判断を行う認知システム
近年の心理学の知見によれば、人々に根付いたステレオタイプはそう簡単に拭い去ることも出来なければ、変化させることも出来ないことが明らかになっている ⇒ 差別はいけないという考えを持ち、反差別運動にコミットしている人々の間でも、潜在意識下の選好が確認され、あからさまな偏見や差別よりも、「潜在的バイアス」が、「黒人への不利な状況の維持に貢献するような差別行動の原因」として大きな役割を果たしている。これこそポリティカル・コレクトネスの徹底を叫ぶだけでは差別がなくならない理由なのだ
差別につながるようなバイアスには以下のものが挙げられる
    内集団バイアス ⇒ 自分が所属する集団(内集団)に対して、外集団よりもより好意的な感情を持ったり、優遇したりするような行動を示す傾向。外集団に対してステレオタイプ化した認識を持ってしまう傾向を「外集団同質性バイアス」という
    公正世界信念 ⇒ 「良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こる」と、世界が不条理ではなく公正であると考える認知バイアス。この信念を強く持つ人は被害者を非難する傾向がある

第5章       合理的な差別と統治功利主義
合理的であることと差別的であることの区別が重要なのは、差別的言説はファクトやエビデンスに基づかないフェイクである、という先入観・固定観念がしばしば私たちに見られるから。そのような先入観によって、インテレクチュアル・ダークウェブIWD(進化心理学者や知識人らのネットワーク)やオルタナライトのような合理性を盾にした差別的言説が蔓延する余地が生まれている
反差別運動はフェイクに対する闘いだった ⇒ ハンセン病やHIVにおいては、病気への間違った認識・偏見によって差別的な扱いがまかり通った
ファクトが反差別運動に重要な役割を果たしたのは間違いないが、IDWやオルタナライトは、科学的エビデンスを掲げて人種や性別間の格差を肯定しようとした
差別的な言説の典型的なレトリックとして、黙説法や言い落としがある ⇒ 黙説法とは、あえて言葉を省略することで読者に省略した部分を推測させ、より深い印象を残すというレトリックで、「○○さんは実はあれなんだよ」というように、例えば「在日朝鮮人」とは明示していないが、聞き手は話相手の口ぶりからその内容を推測して了解する。いざ責任を追及された時は、そんなことは言っていないと言い逃れできる
英国の『デイリー・メール』紙はウィイペディアでは信用できない情報源として、引用が原則禁止となっているニュースメディアであり、それを情報源とする言説は信用できない
「政治家や官僚」「有識者」を持ち出しながらも「情報源を公開しない」のは、芸能ゴシップ記事によく登場する「芸能関係者」から情報を得たとするのと同じ手法で、取材源の秘匿というジャーナリズムの原則を悪用した、論拠やエビデンスを明示しない書き方
「エビデンス」に基づかないフェイクニュースにおいては、黙説法や言い落としといったレトリックが使われるが、それは情報の信憑性が高いと読者に思い込ませるため
差別的な言説は、論理的な矛盾を抱えた、不合理なものである場合が多いが、IDWのように科学的なエビデンスや統計的なデータに裏付けされた合理的な差別的言説はこれからの問題 ⇒ 2018年の東京医科大学の入学試験における男女差別は、卒業した女性医師が離職する率が高いことを前提にした一見合理的な差別
貶価(へんか:demean)=他者を不完全な人間として、または同等の道徳的価値を持たないものとして扱うこと ⇒ 「シティズンシップ」の論理に基づく「差別はいけない」の定義
さらに問題なのは、「コスト」と「便益」といった効率性を強調する言説で、テロリストの航空機登場を防ぐためにアラブ人だけを検査するというのは、テロリストにアラブ人が多いという判断は合理的かもしれず、アラブ人だけを検査するのは効率的かもしれないが、合理的であり、効率的であることと差別的であるかどうかは違う
功利主義とは、人々の「幸福」を最大化する規範理論だが、そもそも「統治」のための理論であり、現実世界の道徳的不一致を解決する優れた規範 ⇒ 幸福の総計の最大化に資するならば、諸個人の自由や自立を侵害するような統治や立法も良しとするのが「統治功利主義」

第6章       差別は意図的なものか
人間には差別的に振る舞いをしてしまう生得的な性質が備わっている
私たち人間集団は「利己的な理由から、ある道徳的価値観を他の価値観より支持する場合がある」という「道徳部族=moral tribes」である ⇒ 差別的な言動に繋がりやすい
ヘイトスピーチを例外として、多くの差別的発言が明確な「意図」を伴ったものではないことが重要

第7章       天皇制の道徳について
立憲君主制においては、君主が「道徳的中心」という役割を果たすことがその正統性を保証するとされるが、天皇制の道徳とは何か
天皇が果たすべき「道徳」の内実は国民の広い支持を獲得するために、その時代状況によって変化する
原武史は天皇制における皇后の役割に着目し、平成における象徴天皇制にとって美智子の影響は大きく、「皇后美智子こそは最高のカリスマ的権威を持った〈政治家〉」とさえ述べる ⇒ 血統で歴代の天皇に繋がっている天皇とは異なり、皇后は努力を重ねて神功皇后や光明皇后のような過去の偉大な皇后と一体となろうとする。皇后のモデルとされてきたのが、日本武尊の子である第14代仲哀天皇の妃で「三韓征伐」に於いて自ら兵を率いて海を渡り、新羅と戦ったとされる神功皇后と、第45代聖武天皇の妃で仏教を信仰し、悲田院・施薬院を設立し、貧窮者やハンセン病者らの救済を行った光明皇后。光明皇后と美智子は皇族以外の出身で皇后になった女性で共通点が多い
平成の天皇のリベラル化には美智子の影響が否定できないが、一方で、天皇制が民主主義と共存するにあたり、リベラル化は不回避であり、世界の立憲君主もリベラル化している

あとがき ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび
狭い世界で差別に反対しているようで、「安心」を求めて管理・監視社会の強化に邁進する自称「左派」に対する不満が本書を書かせている
差別を差別として認識しない(できない)私たちにいかに差別を認めさせるか、これが反差別的な言説や運動が持たざるを得ない困難
ポリティカル・コレクトネスは、反差別闘争に取り組む「新しい社会運動」(新左翼)が、階級闘争に忠実な古臭い左翼(前衛党)を揶揄した言葉を、保守派が全体主義のイメージを利用して、リベラルな価値観や教育を攻撃するために、歪曲・流用したもの
それに対して本書の立場は、ポリティカル・コレクトネスという汚名を逆に好機として捉え、経済と差別という2つの領域で平等を求める闘いをすべき、つまり、ポリティカル・コレクトネスを大義とした、古臭い左翼であり、新しい左翼でもある





出版社
セクハラや差別が跡を絶たないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫る。『週刊読書人』論壇時評で注目の、気鋭のデビュー作。
【詳細内容紹介】
 
足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない。「足を踏まれた!」と誰かが叫び、足を踏んだ人間に抗議するのは当然である。しかし、自分の足は痛くない私たちも、誰かの足を踏んだ人間を非難している。「みんなが差別を批判できる時代」に私たちは生きている。だから、テレビでもネットでもすぐに炎上騒ぎになるし、他人の足を踏まないように気をつけて、私たちは日々暮らしている。このような考え方は、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ、PC、政治的正しさ)」と呼ばれている。けれども、世の中には「差別はいけない」という考えに反発するひともいる。ポリコレはうっとおししい……正しさを考えるだけで息が詰まる……ハラスメントだってわざとやったわけじゃない……。セクハラ、パワハラは無くすべきだし、ヘイトスピーチを書き込んではいけない。それは大前提だ。しかし、ポリコレへの反発・反感が存在するのにはそれ相応の理由があるはずだ。みんながポリコレを自覚して、合理的に行動すれば、差別はなくなるのだろうか。もっとも人間はそんなに賢い生物ではないかもしれない。セクハラや差別が後をたたないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。本書は反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫っていきたい。



週刊朝日書評 20191011日号
《ベストセラー解読 (週刊朝日)
「差別はいけない」とみんないうけれど。 綿野恵太著
永江 朗2019.10.2 17:50書評#ベストセラー解読
反差別を嫌う心理
 女性差別や民族差別、障害者差別などに反対する運動が起きると、それに対する批判(というより悪口)が囁かれるようになったのはいつのころからだろう。ネットが普及して、匿名で発言できるようになったからだとぼくは思っていたのだけれども、どうやらそれだけではないらしい。
 綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は、反差別運動への批判がなぜ起こるのか、そのメカニズムについて考える本である。
 なかなか込み入った話で、参照・言及される文献もたくさんあるから、限られたスペースで紹介するのは難しい。かなり乱暴にまとめてしまうと、反差別には2種類ある。ひとつは差別されている当事者によるもの。もうひとつは、その人自身は差別されているわけではないが、差別がないほうが社会の居心地はよくなるはずだという思いからの反差別。反差別に対する反発や批判は後者に対してのものだというのである。
 しかも、2種類の反差別の論理の根っこにはそれぞれ自由主義と民主主義がある。ふだんぼくたちは両者を一体のものとして考えがちだけれども、じつは別物。世界が経済成長し続けている間は両者間の矛盾も目立たなかったが、成長が止まってほころびが見えてきた……というような話で、だんだん壮大になる。最後は天皇制議論に行き着く。
 半分ぐらいは納得できるけど……というのがぼくの評価だ。反差別運動を嫌う心理のメカニズムはわかった。でも、じゃあ、差別に傷つき苦しむ人はどうすればいいのか。もちろん著者も差別容認者ではない。「けれど」という3文字は重い。





Wikipedia
ポリティカル・コレクトネス(: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、性別人種民族宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正中立な言葉や表現を使用することを指す[1][2][3]。「政治的妥当性」、「政治的公正」、「政治的適正」、「政治的正当性」、「政治的正義」などの訳語も使われる[4]
1980年代多民族国家アメリカ合衆国で始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。
ポリティカル・コレクトネスは差別是正活動の一部として、英語だけでなく日本語など英語以外の言語にも持ち込まれ、一部の表現の置き換え・言い換えにつながった。
目次
概要[編集]
政治的立場では区別する以外の目的で、容姿職業性別文化人種民族信仰思想性癖健康障害)・年齢婚姻状況などによる社会的な差別偏見が含まれていない、公正・公平な表現・用語を使うよう推奨している。適切な表現が存在しない場合は、新語が造られることもある。
英語敬称においては、男性を指す「Mr.(ミスター)」が未婚・既婚を問わないのに対し、女性の場合は「Miss(ミス)」(未婚)、「Mrs.(ミセス)」(既婚)と区別されるが、それを女性差別だとする観点から、未婚・既婚を問わない「Ms.(ミズ)」という表現に置き換えられるようになった。この語は、「mister」の女性形で、未婚・既婚を問わない語として17世紀頃に使用されていたが、その後、「Miss」「Mrs.」に置き換えられていた。それがポリティカル・コレクトネスによって復活したことになる。
人種・民族においては、黒人を指す「Black(ブラック)」がアフリカ系アメリカ人を意味する「African American(アフリカン・アメリカン)」に置き換えられた。一方、本来はインド人を意味する「Indian(インディアン)」がアメリカ州の先住民族を指すことが多かったため、カナダでは「First Nation」、アメリカ合衆国では「Native American(ネイティブ・アメリカン)」という表現に置き換えられた。
職業名に(伝統的に男性であることを示唆する)「~man」がつくものは女性差別的であり、ポリティカル・コレクトネスに反するとして、「~person」などに変更されているものがある。以下のようにすでに定着している表現も多くなってきた。
職業
伝統的な表現
ポリティカル・コレクトな表現
議長
chairman
chairperson または chair
警察官
policeman
police officer
消防官
fireman
fire fighter
実業家
businessman
businessperson
写真家
cameraman
Photographer
要の人物
key man
key person
専業主婦や家政婦など、女性であることが当然と決め付けるような表現も問題となる。固有名詞であるウルトラマンスーパーマンは言い換えない。
また、身体的特徴を持つ人を述べる際には、その特徴に直接言及することは避けて、婉曲表現を用いる。例えば、「精神障害のある」を意味する「mentally challenged」という表現、「耳の不自由な」を意味する「hearing-impaired」という表現。
特定の用語の使用だけでなく、言葉の表現の仕方だけで問題になる場合もある。例えば、アメリカ合衆国大統領候補であったロス・ペローは、ある公開質問の場において、黒人の観衆からの質問に対して「あんたたち」(: You People)という表現を多用した。これが黒人をよそ者扱いしているとして批判された。
2004の年末の記者会見では、ブッシュアメリカ合衆国大統領も「メリー・クリスマス」ではなく、「ハッピー・ホリデーズ」と述べた。
また、イタリアでは小学校の年末の演劇会において、例年恒例であったキリストの降誕劇を止めて、『赤ずきん』に変えるというところも現れた。しかし、これらに対しては伝統や文化の否定であるという意見もあり、論争となっている。
1993年には「ポリティカリー・コレクトという概念を盲目的に信仰する」姿勢を皮肉り、敢えて自分の意見を主張するという趣旨のトーク番組(Politically Incorrect)の放送が始まった(ビル・マーも参照)。
一部の言語では、元来女性がその職務に就くことが想定されていなかったため、単純に女性形にすると「(職業名)の妻」などの意味になってしまうなど、適切な女性形がない場合もある。
言語
言葉
Zimmermann(大工)
timmerman(大工)
koopman(商人)
timmerman(大工)
köpman(商人)
fackman(専門家)
また、名詞によって動詞形容詞の活用が左右されるため、男性形と女性形を分けるス語のように、このような言い換えが全く出来無い言語も少なくない。
日本における実例[編集]
日本においても、ポリティカル・コレクトネスの考え方により、用語が言い換えられた事例がある。
一般用語[編集]
従来の用語
中立の用語
備考
看護婦
看護士
2002年、保健師助産師看護師法改正。男性も職業に就いているため。
障がい者
障碍者
「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため。2001年(平成13年)に東京都多摩市が最初に採用。
助産婦
2002年、保健師助産師看護師法改正。ただし現行では資格付与対象は女性限定である(同法3条)。
保健婦
2002年、保健師助産師看護師法改正。
保母
保父
1999年、児童福祉法改正。男性も職業に就いているため。
スチュワーデス
スチュワード
客室乗務員
フライトアテンダント
キャビンアテンダント (CA)
1996年に日本航空が従来の呼称を廃止。他社も追随した。世界の航空会社では、男性も従事している。
トルコ人留学生、ヌスレット・サンジャクリの抗議により、1984年に改称。
肌色
ペールオレンジ
うすだいだい
人種により、肌の色は異なることから。
女優
男優という言葉があるのにもかかわらず、男性のみに俳優という肩書が使われることが多いため。[要出典]
メクラフランジ
閉止フランジ
JISなども改正済み 英語ではblank flangeblind flangeなどと云い、JISでも記号はBLと残る
学校などで名前を呼ぶときの敬称に、男子に「君」、女子に「さん」を用いていたのを、男女とも「さん」で呼んでいることが一部で行われている。
医学用語[編集]
従来の用語
中立の用語
備考
1999年、伝染病予防法廃止
痴呆症
2004年、厚生労働省による改名
精神分裂病
2002年、日本精神神経学会による改名
らい病
癩病
1996年、らい予防法廃止
認知症、統合失調症などにおける当事者や家族の心理を慮ったものである[要出典]
生物名[編集]
魚類標準和名には、現在では差別的とされる語が使われていることがある。このため博物館や水族館ではしばしばそれらを言い換えた別名を使用することもあった[5]。しかしその言い換え方には統一性がなく、かえって混乱をもたらす懸念があった。そこで、日本魚類学会では、差別的名称と考えられる和名について検討した結果、「メクラ、オシ、バカ、テナシ、アシナシ、セムシ、イザリ、セッパリ、ミツクチ」の9つの差別的語を含む魚類の標準和名については、(1)今後新規に発表する和名についてはこれらの語を含まないようにすること、(2) 従来の名称についてはすべて改名すること、という結論に達した[5]
この結果を受けて、日本産魚類のうち、差別的語を含むと考えられる51タクサ(分類単位)について改名の必要ありと判断され[5]、これらのタクサについて、例えば「メクラウナギ」を「ヌタウナギ 」、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」に変えるなどの改名案[6]が勧告された[7]
また、1999年に日本昆虫学会日本応用動物昆虫学会は「差別用語を用いた昆虫和名の扱いに関する要望」を連名で提出し、学会員に対し差別的な名称に関して、改称も含めて今後の命名や運用に関する配慮を要望した[8]2000年には「メクラカメムシ」が「カスミカメムシ」と改称された(ただしこの改称は形態学的に不適当というのが理由であって差別的表現については言及されていない)[9]
レプリゼント[編集]
レプリゼント(represent)は「代表する/典型となる」と訳される[10]。イギリス人俳優のリズ・アーメッド(Riz Ahmed)は、政治家たちと役者には大きな共通点があるとする。政治家は国民を代表して(=レプリゼントして)議会で発言しているため、レプリゼンタティブ(representative)と呼ばれる。同じように、物語の中で、人々は自分の存在が代わりに体現される(=レプリゼントされる)ことを求めているとした[10]。職業、身体的特徴、性別、年齢、出自、性的指向、疾患、障がい、など自分が抱えている属性がテレビや映画で取りあげられることに特別な興味を持ち、自分が社会から価値を認められているという感覚を得られるが[10]、偏った描かれ方は社会からの疎外感を生み出す可能性があるとした[11]
アメリカでは、アジア人が物語に一切登場しないか、仮に登場しても、女性は「寡黙かつ(男性に対し)従順」「過剰にセクシーなゲイシャ」キャラで描かれることが多く、男性は「大人し」くて「オタク」な「笑いの対象」として描かれることが多かった[11]。作品にこれらの偏りが出ないよう求める気運が、ポリティカル・コレクトネス(PC)のひとつとして挙げられる。
起源と変遷[編集]
ブリタニカ百科事典に依ると、ポリティカル・コレクトネスという用語自体は、1917年のロシア革命後に成立したマルクス・レーニン主義の語彙の中に初めて登場し、当時はソビエト連邦共産党の政策と原則の遵守を求める言葉として使用されていたという[12]。なお、1930年代にはナチス・ドイツも「純粋なアーリア人のみが『政治的な正しさ』を有する」という一文でこの言葉を用いており、概ねこの時期までは「党の教義路線英語版)に忠実な党員」を賛美する意味で用いられていた[13]。用語の意義に変化が生じたのは1940年代後半で、マルクス・レーニン主義が米国内で力を増す中で、アメリカ社会党社会主義者が、アメリカ共産党共産主義者に対して「『政治的には正しい』が、党路線を遵守する余り、道徳的思想が蹂躙されている」と非難を加える際に利用された[14]1960年代には米国の教条的で過激な左派の学生グループが性差別主義者や人種差別主義者とみられる学生を吊るし上げる際、しばしば「それは政治的に正しくないぞ!同士!」という言い回しが用いられたとも伝えられている[15]1970年代には、この言葉は米国内の新左翼過激派の主張を自己批判的に揶揄する意味(例えばフェミニストによる「それは政治的に正しい」という言及が、反ポルノグラフィ運動英語版)に対する皮肉を込めたものであった等[16])で用いられ[12]1980年代末から1990年代初頭には(共産主義からの転向者も少なくなかった)新保守派が主に大学内のリベラル系の教授達(進歩主義)を攻撃する用途で、その後はコメディアンが主に新保守派の政治家の政治的言い回しを揶揄する目的で使用するようになったが、1990年代中盤以降はサピア=ウォーフの仮説言語的相対論を下敷きにした「差別的用語の使用がその差別をより助長する」という理論の元での歴史的用語の修正運動へと変化していき、検閲の反対や言論の自由の維持を求める反対派との間の激しい論争や、「政治的発言(ヘイトスピーチ)の弾圧の為に用いられた」とするレイシストによる反論を招いているとされる[12]
1980年から1982年に掛けて、フランスの対外諜報機関である対外治安総局(DGSE)に勤務したドミニク・ポワティエ(Dominique Poirier)に依ると、DGSE1980年代初頭からソビエト連邦ソ連国家保安委員会(KGB)が対外情報工作指針として用いていた積極的措置英語版)と呼ばれるドクトリンを解析し、自らの行動指針に取り入れていったが、DGSEが入手したKGBの内部資料の中に19683月頃に概念が誕生した「сенсибилизация(Sensitization感作)」と呼ばれるメソッドが存在したと記述している。「感作」の主目的として「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のステレオタイプ大衆刷り込む」という心理操作が含まれており、一例を挙げれば「右は悪、厄介、危険だが、左は善良、愛情があり、思いやりがある。」「明るく光沢のある派手な色彩の食材は見た目に反して味が悪く、薄暗く茶色い色調の食材は味が良い」といった、エビデンスの無い思い込みを国の東西を問わず広く大衆に植え付けていく事で、その国が従来から伝統的に持つ観念を破壊する意図が存在したという[17]。ポワティエは「ロシア人は西側諸国に対して「ポリティカル・コレクトネス」という概念を定着させる事に成功した。その国の言語が本来持つ意味を変え、可能な限り暴力的な意味と関連付けて「毒」化させる事によって、国内に不和の種をばら撒き、この概念を信じない者から見れば文化的な自己破壊や自殺を誘発しているように見える事態を招いた。」と指摘している[18]
ポリティカル・コレクトネスとマルクス主義を関連付ける主張は、1990年代初頭より米国の保守的な評論家の間で「ポリティカル・コレクトネスと多文化主義は、フランクフルト学派批判理論に基づき、ユダヤ-キリスト教倫理英語版)を破壊する目的で考案された思想運動である」として、「文化的マルクス主義」の名称で喧伝されていたものであるが、当時は典型的な「フランクフルト校陰謀論」の一つとして、余り広くは支持されていない説であった[19]。こうした説の初出は1992年にリンドン・ラルーシュ英語版)率いるラルーシュ運動英語版)の機関紙に掲載されたエッセイで[20]2001年にはパット・ブキャナンが著書『西側の死英語版)』に於いて、「ポリティカル・コレクトネスとは文化的マルクス主義であり、そのトレードマークは不寛容である。」と記述した[21]
一方、自由主義の観点からは、元々は左翼同士が相手に対する皮肉を込めて用いていたポリティカル・コレクトネスという用語を、最も強く政治利用したのは1980年代中盤以降の新保守主義者達であり、彼らがポリティカル・コレクトネスという言葉を使う度に、人種社会階級性別、その他様々な法的な不平等の本質的な問題点から人々の政治的議論を逸らしてしまう効果を生んだと主張されている[22]。英国のジャーナリスト、ウィル・ハットン英語版)は、「ポリティカル・コレクトネスという用語は、1980年代中期以降米国の右派がアメリカ合衆国の自由主義英語版)を解体する為の素晴らしい道具となった。最も先鋭的な右派の思想家は、自由主義的な文化的表現英語版)の実践に対して、この言葉を用いて宣戦布告する事をすぐに思いついた。議論の提唱者に対して『それはポリティカル・コレクトネスである』と非難を行う事により、あらゆる自由主義的な問題を平準化してしまい(この観点に立つと、ウィリアム・シェイクスピアが差別主義者だと主張する者も、性的嫌がらせに関与した純粋な青年も、未開の地の保護に奔走する環境主義者も、全て同じポリティカル・コレクトネスの犠牲者や提唱者であると結論づけられ、本質的な議論が行えなくなってしまう)、結果として政治全体に対する信頼性を損なってしまった。」と指摘した[23]


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