内閣調査室秘録  志垣民郎  2020.2.20.

2020.2.20. 内閣調査室秘録 戦後思想を動かした男

著者 志垣民郎(ミンロウ) 1922年東京生まれ。旧制東京高等学校、東京帝国大学法学部卒。43年の学徒出陣に召集され、中国戦線に従軍。復員後、文部省などを経て、52年から内閣総理大臣官房調査室勤務。第5部、第3部、第1部主幹を歴任。78年に退官後は、社団法人国民出版協会会長、千代田管財株式会社(現ALSOK保険サービス株式会社)社長・会長を務めた。父・寛は生活綴り方運動の指導者の1人、志垣太郎は妹の子
編者 岸俊光 1961年愛媛県生まれ。全国紙記者。学芸部の論壇記者や論説委員を務める。NPO法人インテリジェンス研究所特別研究員。日本の非核政策研究により早稲田大学で博士号(学術)を取得

発行日 2019.7.19. 第1刷発行
発行所 文藝春秋 (文春新書)

表紙裏:
内閣調査室は本当に日本を親米反共国家にするための謀略機関だったのか――創設から70年近くたった今日でも、なお闇に包まれた戦後史最後の謎を解き明かす第1級の資料!
内側の創設メンバーの1人が残した詳細な記録と手記をここに公表する


編者による前書き
内閣調査室(内調、現内閣情報調査室)は67年前の発足当初から、そのありようが議論の的になってきた政府機関
52年、内閣総理大臣官房調査室として新設
この首相直属の情報機関を取り上げた著作は多数あるが、代表的なものは61年『文藝春秋』連載の『深層海流』のほか、内調を厳しく追及してきたジャーナリスト吉原公一郎が内調の元職員から内部文書を入手し自らの著作に利用した『小説日本列島』『謀略列島 内閣調査室の実像』など
『深層海流』は『日本の黒い霧』の続編、占領下の奇妙な事件、下山事件、帝銀事件、松川事件や朝鮮戦争などを取り上げ、一貫して背後にGHQの謀略があったとしており、一部からの反発に対して清張は「帰納的にそういう結果になったに過ぎない」と釈明したが、『深層海流』でも連載終了後に執筆の意図を、「占領政策は終わったが、安保という形で継続されている。情報それ自体の蒐集は、国策運営上当然だが、内調の役目がその辺を逸脱して謀略性を帯びていたとなれば、見逃すわけにはいかない」と述べている
清張も吉原も、内調によって、日本を「親米反共」国家にしようという力が作用していたことを描こうとした
以後60年経つが、当時の内調の実情は明らかにされず、関連公文書も公開されず、組織の正史もない
本書の主人公の志垣氏は、吉田首相が国家地方警察本部警備課長だった村井順に命じ、内閣総理大臣官房調査室を創設した際の4人の配下の1人
内調の組織は、第3代古屋室長のときに6部制に整備 ⇒ 1部(治安・労働・経済)、国際1部(中国・東南アジア)、国債2部(ソ連・欧州・CIA)、3部(弘報関係)、4部(資料)、5部(学者)、総務部(人事・会計・総括)
志垣氏の手元には、長年書いてきた膨大は日記が残されている

第一部 回想編1
1 内調発足
初代村井室長(1909~88)は第1次吉田内閣(1946.5.~47.5.)の総理秘書官。内務・警察官僚。戦前は中国占領政策を一元的に統制する興亜院などに勤務。戦後青森県警察部長時代に吉田の知遇を得て秘書官に抜擢。特高に変わる警備警察創設の中心となり、内務・警察OBとして隠然たる力を持つ
52年日本の独立を前に、村井が吉田に、CIAのような機関の必要性を具申、一任されて内調が発足。最初に遭遇したのが皇居外苑で警察と極左が衝突してデモ隊側に死者を出したメーデー事件
著者は、村井の高校・大学の後輩、結婚の仲人。内調室長の辞令を見て挨拶に行くと、スカウトされ、内調勤務が始まる。村井のもと総勢僅か5人で発足
吉田が駐英大使のとき駐在武官で仕えた辰巳栄一中将(1895~1988)は、GHQと吉田の橋渡し役となって、旧軍人の追放解除リストを作るなど、警察予備隊の事実上の生みの親だが、村井を「室長閣下」と呼んでいた
吉田からの最初の指示は、在日韓国人問題の詳細を知りたいというもの。当時50~80万ともいわれ、革命勢力になる恐れがあった
外務省の曽野明(後にソ連課長、西独大使)が「強力な助っ人」 ⇒ 選挙の時に、左翼だが共産党でない人を応援すると言って、自民党最左翼に位置する宇都宮徳馬を応援。偽名で選挙資金を渡す。次いで右派社会党の菊川忠雄

2 進歩的文化人攻撃
進歩的文化人を批判するのも曽野のアイディアで、昔の言説と現在のを比べて攻撃するため、時事月刊誌を利用
清水幾多郎は、戦時中讀賣の論説委員を務め、戦後は平和運動や文化人の会などの中心をなしていたが、戦争中の戦争賛美、大東亜戦争の名称の底に潜む雄大な意図と構想とは生活観の是正を可能にするし、それを前提としてこの大規模な戦争の遂行も可能となるとか、ヒトラー礼讃しておきながら、戦後は平和論者に転向。その後再回天し、反共主義者になったが、オポチュニストであることに変わりはない
長田新も、教育思想家でペスタロッチ研究者として知られ、広島文理大(現広島大)学長だが、戦前は「事実上大東亜の盟主として10億の民族を引き具し」などと言って、天皇の楯となって外敵を防ぐ者を意味する「醜(しこ)の御楯(みたて)」論者だったのが、戦後は一転して「平和運動を結集すれば恐るべき力を発揮する」などと言って平和運動への参加を呼び掛けている
中村哲(あきら)は、政治学者で法政大総長、参議院議員だが、戦前は「八紘一宇の東亜政治の理想をその内在的な理念とする戦争論が樹立されねばならない」と言っていたのに、戦後は平和教育委員会委員など平和的団体に拠って「平和と民主主義の憲法を護るものは国民である」と変節している
『学者先生戦前戦後言質集』として54年出版。実質は内調(著者)が編者。30数名をやり玉に挙げる ⇒ 高良とみ(参議院議員)、末川博(立命館大総長)、帆足計(社会党代議士)、高倉テル(作家)、西園寺公一(公望の孫)、風見章(元司法大臣)、深尾須磨子(詩人、婦人団体連合会評議員)などで、共産主義批判の大柱となる
後年、再発行された際には、時事評論家の小汀利得が序文で、「戦前と戦後で180度の超人的飛躍といわねばならない」と皮肉る ⇒ 追加されたのは、吉野源三郎(岩波書店『世界』編集長)、羽仁説子(自由学園教授)、阿部知二(作家、日本文学学校長)、安井郁(法政大教授、原水協事務局長)ら10数名

3“腹巻事件”
村井が外務省を蔑ろにしてまで内調を大きくしようと思っているとして、曽野が反発、各紙の記者を反内調に手懐け、村井が英国で腹巻まで調べられて3,000ドルとられたという記事が捏造されたため、村井の信用が傷つき風当たりも強くなって、福永官房長官が村井の更迭に動く
副総理に昇格した緒方竹虎官房長官の後任の福永は村井より若く、村井は相手にせずに緒方とばかり話をしていたので、村井更迭を決断。村井は、吉田の指示で動いた案件でミソをつけたことから吉田の不信も買い、緒方も助けようとしないまま京都府警に飛ばされる
後任は警察官僚の木村行蔵。鳩山内閣が日ソ国交正常化交渉を開始するきっかけになったとされる元ソ連代表部主席代理による「ドムニツキー事件」の当事者。ドムニツキーが直接音羽御殿を訪問し国交回復を申し入れたため、重光外相らの外務省が反発したが、以後日ソ交渉の主導権は鳩山首相が握る

4 緒方竹虎の風圧
52年、緒方が公職追放を解除されて政界に復帰、吉田内閣の官房長官となり、村井は緒方と意気投合するが、讀賣の正力は緒方との対抗意識が強く、緒方の打ち上げる「内閣情報局構想」に挙げて反対し続ける
初めて会ってその風貌に触れ、いっぺんに緒方ファンとなる。小泉信三に匹敵、早逝しなければ日本の政界は大いに変わったであろう

5 藤原弘達との二十五年
政府に味方する保守の言論人の確保も著者の重要な役割
左右分からない有望な学者に、テーマと研究費を与えて保守陣営に繋ぎ止める。その象徴的存在が藤原弘達 ⇒ 東大で丸山眞男に師事。当時は明治大助教授。左翼の理論的リーダーとなる可能性も十分だったが、岸首相との会談を経て次第に保守色を強める。内調とともに出かけた調査等、「足で稼いだ」実態調査に基づき諸論文を書き、成果は博士論文となり、後年『現代日本の政治意識』として結実、彼の代表作となる
54年、内調の一員のツテで来訪。著者とは東大政治学科の同級生。79年まで頻繁に同行調査し接待。途中63年総理府からの委嘱で「日本青年海外派遣団」の団長・副団長として中東旅行に同行して親密度が増す
後年、『創価学会を斬る』で名を成したが、数々の出版妨害に対し、毅然として出版に踏み切った態度は仲間内からも喝采され、自民党の政治家には「藤原だけはどうにもならない」と言われ彼の声価を高からしめた
佐藤首相が65年の沖縄訪問に際し、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、我が国の〈戦後〉は終わらない」と言ったのも、原作は藤原で、内調が沖縄問題に関し上奏する時に借用したものが総理秘書官の目に留まって名文句に仕立てられた

6 日教組対策
53年日教組が政治組織として肥大化するのを抑えるために自民党が対抗措置を検討、内調も同調した。57年本格化し、自著『日教組と勤務評定』が好評。社会主義協会の中心人物の向坂(さきさか)逸郎(マル経学者、九大教授)批判文まで起草
58年には藤原に『日教組イデオロギー批判』の作成を依頼したが、助手に書かせたらしくワサビの利いたものではなかった

第二部 記録編
回想録は、印象に残る出来事や人物を資料や逸話で回想した部分と、日記から関係する出来事や人物を拾い出し、名寄せした部分とがある
7 CIA研修
CIA浜井敏内調メンバーを3人招待 ⇒ 著者も59年に50日にわたって渡米し、研修と観光。CIA東南アジア担当との関係親密化

8 中国核実験後の若泉報告
64年中国初の核実験は世界に衝撃を与え、内調も数年前から核政策を巡る委託研究を進めており、国際政治学者の若泉敬に報告を委託 ⇒ アメリカの核の傘下の保障を取り付ける一方で、核武装の潜在的能力を持つよう主張。若泉とは緊密で、準職員のような存在

9 核武装研究会「カナマロ会」
内調はさらに精密な核政策研究を進め、68年には委託先の学者4氏(永井陽之助、蝋山道雄ほか)の頭文字を取った「ナカマロ会」が『日本の核政策に関する基礎的研究』をまとめる ⇒ 佐藤政権の非核政策を裏打ち

10 各界トップの審議員会議
62年、内調は外郭団他の社団法人国際情勢研究会の1機能として「審議員会議」を発足させ、藤原他の有名人と内調との交流の一層強化が狙いで、2年後に著者も担当となる
初期メンバーは横田喜三郎(最高裁長官)、花井忠(検事総長)、福島慎太郎(ジャパンタイムズ社長)、加瀬俊一(国連大使)等官僚OB優先で、テーマは中国問題を主に、ソ連、東南アジア、日米関係、朝鮮半島、沖縄、北方領土など多岐にわたる
66年審議員の推薦を依頼しに行ったところ、竹内法務次官が林敬三氏を激賞(結果不明)

11 木村官房長官と学者
佐藤内閣の木村俊夫官房長官が力を入れていたのが「錦章会」 ⇒ 永井陽之助(政治学者)、石川忠雄(政治史学者)、神谷不二(国際政治学者)等の集まり
木村は佐藤の側近として沖縄返還交渉を担ったことで知られる。学者人脈を重視すると同時に、内調を重視し交流を深める

12 政策科学研究会(PSR)
71年、佐藤内閣終盤に作られた若手による研究会 ⇒ ニクソン・ショックのあと佐藤政権に黄昏が訪れ、安定成長の入口に立った日本経済は、国際政治が多極化へと向かう中、新しい針路、価値観の転換が求められていた。著者が声をかけたのは山崎正和(劇作家、評論家)、高坂正尭、黒川紀章、志水速雄(東外大、ソ連政治史)、公文俊平(東大、社会システム論、中島嶺雄(東外大、現代中国研究)ら。なかでも山崎を高く評価
長く続き、現実主義者のグループが交流する重要な「フロント」になる

13 委託研究を担った人々
個々の学者にはおおむね委託調査をお願いする一方、学者の会がいくつもあって種々のテーマで委託研究が発注され、それぞれの部局で役立たせている
一部例外を除き、左翼でないところに意味があり、当時の学界に大きな影響力を及ぼしていた
アメリア研究会、教育問題研究会、社会工学研究所、経済研究会、現代政治研究会など
並木書房会長で月刊誌『ざっくばらん』の編集長・奈須田敬の肝煎で64年に設立されたかすみ会(防衛問題懇談会)は、防衛庁の堀田政孝教育局長(後に内調勤務)、中村菊男(慶應大教授)、村松剛(仏文学者)、粕谷一希(『中央公論』編集長)等をメンバーとし、防衛問題を討議
会田雄次(京大教授、歴史学)、相場均(早大教授、臨床心理学)、相原良一(東京水産大教授、憲法学)、飽戸(あくと)弘(東大教授、社会心理学)、安津(あんづ)素彦(國學院大教授、神道学)、安藤瑞夫(みつお)(立教大、産業心理学)、生田正輝(慶應大教授、マスコミ論)、石川忠雄(慶應義塾塾長、中国政治史)、江藤淳(作家、評論家)

14 京都出張
著者は、政府に味方する学者をリクルートするにあたり、全国を飛び回って優秀な人材を直接確かめ、委託研究費を渡す。なかでも京都を重視
67年、朝日が学者への委託費を大きく取り上げ、内調が共産圏情報と交換で研究費を援助するなど、露骨な誘いかけを強めていると批判的な記事を書く
学者の中にも、「政府機関と関係を持つことは情が移り、国民の正確な判断を失うことになる」と言って、協力して意見を書くことを断る者もいた
朝日の記事により、会田氏に委託していた研究と20万円は凍結

第三部 回想編2
15 委託費を受けなかった人々
委託研究により、現実主義の論客を育て、それを政策にフィードバックしていたが、「オールド・リベラリスト」や、それより若い保守派の文化人、新京都学派などの面々(粕谷一希によれば「戦前からのアンシャン・レジームに属している人々」)は、委託費など簡単には口に出せない碩学ばかり
小泉信三(東宮教育参与、慶応義塾塾長、経済学) ⇒ 東京大空襲で火傷を負い、顔面は焼けただれていたが、風姿には気品があり圧倒され、委託費などは出さなかった
鶴見俊輔(哲学者、評論家) ⇒ 56年訴願資料(パージの資料)開示の要請あり、CIAが全てコピーしているので最終的に何かに役立ててもらおうとして要請に応じる。委託費は出さず。同氏夫妻の結婚祝賀会にも丸山眞男、高木八尺(政治学者)、無着成恭(教育家、僧侶)、久野収(哲学者)など有名人がずらりと並ぶ中参加
福田恒存(評論家) ⇒ 62年5部内の各省連絡会での講演を依頼。演題は「現代日本の教育的課題」で、人づくりがテーマ。世界観の不足、和魂の貧困、道徳問題、日本近代化など、エゴイズムの抑制が道徳であり、消費は美徳にあらずなど。多く付き合ったが委託費は出さず
上山春平(哲学者) ⇒ 高坂、奈須田などと懇談、委託費は受け取らず
安岡正篤(陽明学者) ⇒ 66年教育評論家伊沢甲子麿君肝煎の会で安岡を含む官財の要人と会食。74年、田中内閣はアクシデントで潰れると予測。委託費はもちろん受け取らず
堤清二(セゾングループを築く) ⇒ 個人的にも親密。堤主催の昼食会で官財の有力者と時事問題など議論。80年が最後で、以降執筆活動が忙しくなった。委託費は必要なし

16 一宿一飯組
吉田健一(批評家、作家)は吉田元総理の息子で酒好き、ゆったりした態度で菊正を飲む風情はなかなかのもの

17 ミスターXの退官
著者はその後内調の外郭団体「国民出版協会」に12年いて、「虎ノ門懇談会」を月1回開催
その後、村井のALSOKの子会社千代田管財(現ALSOK保険)に12年在職して79年退職
内調退職当時の心境を、東京新聞記者が『ミスターXの退場』と題して79年同紙に掲載している ⇒ 戦後一貫して公安、警備関係、それも国民意識の分析を専門の仕事として歴代保守内閣を裏側から支えてきた。学徒出陣が人生の原点。戦後多くの友人が「青年よ、銃をとるな」とのスローガンを掲げる社会党を要とする革命、革新の道を選ぶ中、公安の道を選んで心理状態は屈折したが、国際共産主義脅威論を自分なりに解釈して自らの役職を納得。当初は体制の危機をモロに肌身で感じたが、今や国民の90%が中流意識を持つようになり、怖いのはテロだけになったので退場する
川島?室長は副長官への昇格を狙って、あらゆる手づるに働きかけ、遂に副長官になるが、目に余る。官僚というものは政治家とは一歩離れて己を持するものと思う
下稻葉耕吉のように大臣にまで上り詰めたのもいるが、周囲の評判は決して芳しいものではなかった。この2人は権力亡者として著者の心に残る人

「内閣調査室秘録」解題  岸俊光
学者との夜な夜なの濃密な付き合いが内調の学者人脈を強くするとともに、様々な委託研究の充実に繋がったのは間違いなく、歴史は夜作られる
内調の「文化面」を担当する著者が知識人対策に深く関わることになったのは、進歩的文化人を攻撃する雑誌の連載を執筆してからで、吉田首相、緒方副総理の目に留まり賞賛され、著者の評価を高めた ⇒ そこから転じて、将来有望な学者を左翼にせずに取り込んだり、政府の味方になってくれる学者を育てたりする仕事に邁進。60年代に幹部になると一気に花開き、新聞で叩かれながらも、日本の核政策研究などで重要な成果を上げる
著者は神田の生まれ。両親とも熊本出身。父は教育評論家。関東大震災で莉彩以後の型に住むが、自宅近くに不破哲三が住み、その父上田庄三郎と寛は共に教育畑で交流があり
青年期の著者の節目となったのが、官立の7年制高校でリベラルな校風で知られる東京高校尋常科への進学
東高は21年設立、51年東大教養学部に解消。英語を第1外国語とする文甲を選択。高3で全寮制の寮頭、弓道部で村井と出会う。同窓では、内調で親しく付き合った先輩に糸川英夫(ロケット工学者)、桶谷繁雄(金属学者)、同級の土田国保(警視総監)がいる。4年後輩の讀賣の渡辺恒雄とは30年の交流在り、歴代の室長を紹介
最も深く付き合った同級生が吉田満(日銀、小説家、『戦艦大和ノ最期』の著者)
著者の戦争体験記には、「開戦を肯定できなかった。戦中吉田との友情に明け暮れる」と綴る。吉田に兄事し、「ゲーテ的天才」と呼び、「俺の如き現実的小市民の近寄る所ではないかもしれない」とも書く。80年吉田死去当時の思い出文集に著者は学校関係の代表として刊行世話人の1人を務め、『愛と意気を』と題した一文を寄せる
42年東京帝大政治学科入学、43年学徒出陣、仮卒業。雨中の神宮外苑の壮行会のニュース映画に東大の7番目の列に著者の姿が映る。中国の配属先は野戦飛行場設定隊で、南京などに行き、敵と対峙することはなかった
44年陸軍経理学校入校。『文藝春秋』の「同級生交歓」に味の素の鈴木三郎助、新日鐵の武田豊、東大名誉教授の三ケ月章、ブリヂストンの石井公一郎と一緒に収まる
終戦当時、主計将校として徐州に駐在、南京迄350㎞を歩いて金を受け取りに行く「現金搬送指揮官」を務め、5日かけて運んだ金で部隊は翌年3月の復員迄食いつないだ
捕虜生活を経て帰京するが、復学する気にならず、総括無き戦後日本に対する割り切れない気持ちから、欝々と読書して過ごす
半年後、文部省に「雇(やとい)」という最下位の事務官から戦後社会に復帰
52年、先輩の村井と会って、内調の文化面担当として入室
自ら役人としてのテーマを「日本を共産革命の脅威から守る」ことに置く一方、戦後周囲の素早い転身に違和感を覚え、戦争への考察、反省なしに民主主義をどうして理解できるのかと、疑問を持ち続けた側面にも注意
「どのような主義主張であれ、社会が一色に染まっては危うい」との姿勢を貫く
内調の知識人対策は、進歩的文化人への攻撃に留まらず、「現実主義者」とのパイプを築き、内調の協力者とした ⇒ 東大法学部を中心とする学生有志の研究団体として50年発足の「土曜会」への接近は重要で、若泉(50年入学、その後国際政治学者)、粕谷(『中央公論』編集長)など、言論界のキーパースンが含まれる。マルクス主義に対する不信感や容共的な学生運動に対する嫌悪感を共有、芦田均元首相と交流、資金援助を受ける
内調は、機関誌『時代』の創刊を支援。月々45千円(上級職初任給の6か月分に相当)わたし、雑誌も大量に買い上げ
当時政府の情報機関と関係を持つことはタブー視されていたため、学者たちは内調と距離を置こうとする中、若泉との交流は53年ごろから始まり、種々の論文に稿料を渡し支援。保安庁保安研修所に就職して交流が深まり55年のロンドン大留学まで続く
粕谷は本間長世など学者肌の仲間に近く、血の気の多い土曜会とは遠い存在だったが、突然機関誌『時代』の編集長を頼まれ、落第するほどのめり込むなかで内調とも接触
鶴見俊輔と内調の仲を取り持ったのは粕谷。初めて著者が会った56年当時鶴見は東工大助教授、粕谷は『中央公論』編集部
内調と何らかの関係を持った知識人は少なくないが、公にしたのは鶴見位。鶴見は、吉田の『戦艦大和ノ最期』の解説で吉田の死に際して「私たちの世代の最良の人を失った」と綴り、粕谷は21年間の中断を経て『鎮魂 吉田満とその時代』を書き終え、「自分のアイデンティティを確認できた」と振り返った
3人は、世間的な立場こそ違っていたが、その精神には響き合うものがあったというべき。内調は進歩的文化人を目の敵にしたが、著者自身は人間的な幅を持ち合わせていた
鶴見と若泉は内調と重要な関わりを持ったが、2人の立ち位置は全く異なり、面識もなかったよう。鶴見は2011年の日記に、「核持ち込みを嘘で隠した当事者として、自殺。若泉のような役を務めなかったことを有難く思う。若泉に良心あり。悼む」と記している
著者がなぜ内調の仕事を書く気になったのか ⇒ 内調の仕事に対する自負心であり、自分の仕事が正しかったという確信を持ったことと、内調の組織原理に囚われない価値観



文藝春秋Books 発行所紹介
内閣調査室は本当に謀略機関だったのか……謎のヴェールを剥がす第一級の歴史史料!
松本清張は、昭和36年に「文藝春秋」に連載した『深層海流』で、「内調の役目がその辺を逸脱して謀略性を帯びていたとなれば、見逃すわけにはいかない」と書いた。あれから60年たっても、内調については関連する公文書も公開されなければ、組織の正史も作られておらず、依然としてその実態は謎のままだ。
本書は、昭和27年に吉田茂首相が、旧内務官僚の村井順に命じて内閣調査室が発足したときの、4人のメンバーの1人、志垣民郎氏の手記である。
この手記のポイントは、内調は日本を親米反共国家にするための謀略機関だったのか、という問いに明解に答えているところにある
志垣氏の主な仕事とは、優秀な学者・研究者に委託費を渡して、レポートを書かせ、それを政策に反映させることだった。これは、結果的に彼らを現実主義者にし、空想的な左翼陣営に行くのを食い止めた。そして本書には、接触した学者・研究者全員の名前と渡した委託費、研究させた内容、さらには会合を開いた日時、場所、食べたもの、会合の後に出かけたバーやクラブの名前……すべてが明記されている。まさに驚きの手記だ。
100人を超えるリストの面々は豪華の一言に尽きる。時代を牽引した学者はすべて志垣氏の手の内にあった。
とくに重要なのが藤原弘達。「時事放談」で知られる政治学者は、東大法学部で丸山真男ゼミに所属した俊才であった。「彼が左翼に行ったら、厄介なことになる」。そこで志垣氏は、彼を保守陣営に引っ張り込むために、あらゆる手立てを尽くす。
戦後思想史を塗り替える爆弾的史料である。
担当編集者より
令和の時代になって、やっと昭和の闇のひとつが明らかになりました。97歳にして、すべてを公表する決心をした志垣氏の国を思う心に敬意を表します。日本の保守論壇がどのようにして形作られていったのか。戦後思想史に新たなページを付け加える必要が出てきました。また、本書は、風俗史の貴重な史料でもあります。当時流行りの飲食店、キャバレー、バー、クラブなどが克明に記されています。その意味でも本当に貴重な史料です。






Wikipedia
内閣情報調査室(Cabinet Intelligence and Research Office)は、内閣官房の内部組織の一つ(情報機関)。略称は内調(ないちょう)、CIRO(サイロ)。
概要[編集]
内閣情報調査室は、「内閣の重要政策に関する情報の収集及び分析その他の調査に関する事務(各行政機関の行う情報の収集及び分析その他の調査であつて内閣の重要政策に係るものの連絡調整に関する事務を含む。)をつかさどる」(内閣官房組織令(昭和32年7月31日政令第219号)第4条)組織で、内閣官房に属する情報機関である。定員数は415名(内閣情報調査室194名、内閣衛星情報センター221名、2018年(平成30年)4月1日現在[1])。所在地は内閣府庁舎6階[2]。
日本政府の情報機関を代表する取りまとめの役割で、最高位の内閣情報官は指定職8号の事務次官級で、内外の特異情報の分析を内閣総理大臣に直接報告している。原則的に定例報告は週1回、各20〜30分程度行われる。情報収集の手段別では、シギント(通信情報)は情報本部が、国内の諜報や防諜に関わるヒューミント(人的情報)は公安調査庁や公安警察がそれぞれ主に担っており[3]、内調は内閣の重要政策に関する国内外の政治や経済、テロなどの治安に関しオシント(公開情報)、ヒューミントを中心に担っている[4]。2013年にヒューミント専門部署の内調設置が政府内で検討された[5]。内調の下部組織の内閣衛星情報センターは、情報収集衛星からイミント(画像情報)の収集及び分析を行っている。内調はアメリカ合衆国中央情報局(CIA)・イギリス秘密情報部(SIS)などの外国政府の情報機関との公式なカウンターパートとなっており、ほかに合同情報会議の事務手続きも行っている。そのため、一部報道では「日本版CIA」と称されることもある[6]。
日本の国家安全保障に関する司令塔として国家安全保障会議ならびに事務局の国家安全保障局が設立されているが、国家安全保障局が国家安全保障に関する政策提言・立案を行うため、内調が必要な情報を国家安全保障局に提供している[7]。この連携のため国家安全保障局の情報班長には内調出向者が当てられている[8]。
安倍晋三政権下では、選挙の街頭演説における、いわば「ご当地ネタ」の収集などにも当たってきた[注釈 1]。残っている報告書の中で、2008年より前のものでは、1選挙区当たりA4用紙1枚、2018年頃では多い時で30枚にものぼる事がある[9]。
内調は生え抜きの職員をはじめとして様々な省庁からの出向者が所属しているが、内閣情報官を筆頭に警察庁からの出向者が多く、霞が関では警察庁の出先機関と捉えられている。
シギントを行っていた情報本部の前身組織のひとつである陸上幕僚監部調査部調査第2課別室(調別)は、実質的に内閣情報調査室の下部機関で歴代トップは内調から出向してきた警察官僚が占めており、この経緯から現在も情報本部の電波部長は内調出向者の指定席である。
歴史[編集]
日本版CIA構想の頓挫[編集]
内閣情報調査室のルーツは総理府に設けられた内閣総理大臣官房調査室である。調査室設置の背景は「治安関係者だけでなく、各省各機関バラバラと言ってよい内外の情報を一つにまとめて、これを分析、整理する連絡機関事務機関を内閣に置くべきだ」「外務省情報局に代わるべき内閣直属の情報機関が必要」[12]とする吉田茂の意向を受け、戦前に朝日新聞社副社長や情報局総裁を務めた緒方竹虎副総理と、元内務官僚で国家地方警察本部警備課長の村井順を中心に日本版CIA構想の先駆けとして創設された。
吉田はこの調査室を土台として、組織の拡張または別組織の立ち上げを行うことで日本のインテリジェンス機能を強化しようと考えており、関係各省庁も国警の村井順が「内閣情報室設置運用要綱」を、外務省が「内閣情報局設置計画書」を、法務府特別審査局が「破壊活動の実態を国民に周知させる方法等について」をそれぞれ提出するなど、情報機関設置に関して警察・外務・法務各省庁がそれぞれ案を提出した。最終的に村井の案が通り、調査員は各省庁から出向させた。1952年(昭和27年)4月9日に総理府内部部局組織規程(総理府令)の一部改正により、内閣審議室の調査部門を独立させて[13]、内閣総理大臣官房調査室が設置された。ほかに法務府特別審査局を発展させた公安調査庁も法務省の外局として設置されている。同時期に有末精三や辰巳栄一などの旧軍人グループにより「内閣調査室別班」の設立が提唱されて「睦隣会」が発足し、のちに世界政経調査会となっている。
しかし、この後調査室が大規模な「中央情報機関」となる事はなかった。原因の1つは当時の世論である。緒方は内調を「世界中の情報を全てキャッチできるセンターにする」という構想を持っていたが、これに対して読売新聞を中心とする全国三紙が「内調の新設は戦前の(マスコミの統制やプロパガンダを担った)内閣情報局の復活である」として反対運動を展開した。これにより内閣情報局創設構想は後退を余儀なくされる。もう一つは内務官僚と外務官僚の縄張り争いであった。インテリジェンスに理解のあった緒方が1956年に死去したことも大きかった。
1957年(昭和32年)8月1日には内閣法(法律)の一部改正、内閣官房組織令(政令)の施行及び総理府本府組織令(政令)の一部改正により、内閣総理大臣官房調査室が廃されるとともに、内閣官房の組織として内閣調査室が設置された。
冷戦時代の内調[編集]
1955年には国際部に「軍事班」が設けられ、元海軍中佐の久住忠男らを中心としてベトナム戦争の推移や沖縄に駐留するアメリカ軍の動向などを観察した。
60年安保をきっかけに内調は論壇の流れをフォローするようになり、安全保障論の育成のために中村菊男、高坂正堯、若泉敬、小谷秀二郎ら現実主義的な論客の結集を助け、論議を普及するなどした[15]。現在でも内調は勉強会を数多く行っており、学識経験者や企業を招いて情勢分析を聞くなどしている[16]。
1977年(昭和52年)1月1日には内閣調査室組織規則の施行により、内部体制が総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、資料部門の5部門となる。
第1次中曽根内閣時代には当時内閣官房長官だった後藤田正晴の決断により[17]それまで官房長官に行っていた「長官報告」が「総理報告」に格上げされ、世界的スタンダードである国家最高権力者への直接報告体制が確立された。
1986年(昭和61年)7月1日に内閣官房組織令の一部改正により、「内閣調査室」から現在の「内閣情報調査室」となる(5部門体制は継承)。
冷戦後の世界へ[編集]
1995年には阪神・淡路大震災が発生した。この際、政府の立ち上がりが遅れた教訓から1996年(平成8年)5月11日に内閣情報調査室組織規則(以下「規則」という)の一部改正により、内部体制に内閣情報集約センターが加えられた。阪神大震災をきっかけに官邸が自衛隊機を飛ばすなどして積極的に情報収集を行ったり、民間との協力体制の確立、マスコミへの情報発信など官邸の情報収集体制や危機管理体制の改革が行われた[18]。
北朝鮮のミサイルや核兵器も重要な課題であった。米朝が核兵器を巡って対立していた1994年2月に行われた日米首脳会談で、アメリカは細川護熙首相(当時)に強硬策も辞さないとする意志を伝えた。首相は帰国後直ちに米朝開戦に備えて内調に北絡みの情報収集を指令。内調は「空爆は最後の手段で、海上封鎖か公海上での臨検が主となるだろう」という情勢見通しを行った[19]。北朝鮮工作員による破壊工作に備えて朝鮮戦争時の破壊工作の状況について研究を行った。金日成死去にあたっては米国の情報もあって朝鮮人民軍の動きを把握しており、体制が安定していることを掴んでいる[20]。
これらの経験から関係者や国民の間で情報収集衛星の需要が徐々に高まった。1998年にテポドン1号が発射されると世論が一気に高まり、1999年(平成11年)3月1日に規則の一部改正により内部体制に情報収集衛星導入準備室が設置され、本格的に情報収集衛星の計画がスタートした。
1996年(平成8年)〜 1998年(平成10年)の橋本政権で、後藤田正晴の発案で内閣情報局設置法案が用意され、実現一歩手前まで漕ぎ着けていた。これは、「内閣情報局」を創設して、戦前の情報局を復活させることを目指したものだった[21]。
2001年(平成13年)1月6日には中央省庁再編に伴う内閣法及び内閣官房組織令の一部改正により、内閣情報調査室長(政令職)が廃され内閣情報官(法定職)と改められた(組織の長の格上げのみで組織の名称・内容には変更なし)。4月1日には内閣官房組織令及び規則の一部改正により、情報収集衛星導入準備室が廃され内部組織として内閣衛星情報センターが設置される。室内の他の部門・センターが規則に基づく区分呼称に過ぎないのに対し、このセンターは規則より一段上の政令で設置された内部組織である。7月1日には規則の一部改正により、資料部門が情報管理部門に改称されたものの、2004年(平成16年)4月1日には業務は総務・国内・国際の3部門に分散承継され、情報管理部門は廃止された。
2008年(平成20年)4月1日には規則の一部改正により、内閣情報分析官が新設され、内閣衛星情報センターの「管制部」が「技術部」に改編された。政府機関の防諜を取り扱う「カウンターインテリジェンス・センター」も設置された。
2013年11月13日には同月にフィリピンをおそった台風30号の被害状況を情報収集衛星の画像情報、公開情報等を集約した情報を基に作成したレイテ島の中心都市タクロバンから南約20キロ、東西約15キロの台風被害の被災状況推定地図をNGOなどの活動支援のため一般提供を開始した[22]。
2013年(平成25年)12月、第2次安倍内閣で「国家安全保障会議」(日本版NSC)が設立され、2014年(平成26年)1月、国家安全保障会議の事務局「国家安全保障局」が設立された。国家安全保障局は国家安全保障に関する政策提言・立案を行うため、これに資する情報を得る必要があり、内調とのインテリジェンス面での連携強化が必要であり、国家安全保障局の参事官の情報班長には内調出向の警察官僚が就任している[8]。
設立時の主要メンバー[編集]
村井順(内務・警察官僚、内閣総理大臣秘書官、内務省警保局公安第一課長、国家地方警察本部警備課長)
前田稔※(海軍中将、海兵41期、ソ連・中国大使館付武官、第二復員局長)
矢部忠太※(陸軍大佐、陸士33期、ソ連大使館付武官)
末沢慶政※(海軍大佐、海兵48期、海軍省軍務局第二課長)
浅井勇※(陸軍中佐、陸士42期、ソ連大使館付武官輔佐官、参謀本部ソ連課参謀)
※内閣総理大臣官房調査室顧問
組織[編集]
内閣情報調査室は4部門・2センターで、総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、内閣情報集約センター、内閣衛星情報センターを置く。各部門の長は慣例的に「主幹」と称される[23]。
内閣衛星情報センターを除く4部門・1センターは内閣情報官と次長両者の管理下に属するが、内閣衛星情報センターは内閣情報官の管理にのみ属し他の部署より1ランク上で次長とほぼ同格の扱いで、自前のセンター所長・センター次長の下に内部組織の分課・副センターなどを持ち、情報収集衛星の管理・分析などを統合的に行っている。ほかにカウンターインテリジェンス機能を強化するため、内閣情報官をセンター長とするカウンターインテリジェンス・センターを置く。
内閣情報官を長に、管理職の内閣審議官1人、次長1人、内閣参事官、内閣情報調査室調査官9人、内閣情報分析官6人[24]、ほかに事務を整理する事務官らが業務に従事している[25]。内調では情報を迅速に伝達するために課係制を採用せず、フラットな組織としている[25]。
辞令上「専任者」と「他省庁との官職併任者」がおり、時局に応じて専門知識を持つ出向者などを柔軟に受入れるために職員数は法令で規定しない。業務の内容から警察官僚の出向者も多い。
2005年(平成17年)4月1日時点の所属職員数は併任者を含み、内調職員として採用された者が約70人、警察庁からの出向派遣者が約40人、公安調査庁から出向派遣者が約20人、防衛庁から出向派遣者が約10人、外務省、総務省、消防庁、海上保安庁、財務省、経済産業省などから若干名の計約170人、と第162回国会の衆議院安全保障委員会で政府参考人が答弁[26]している。
内調職員[編集]
内調に勤務する職員は、内部職員と警察庁警備局、公安調査庁、防衛省情報本部、外務省国際情報統括官組織などインテリジェンス・コミュニティーからの出向者で構成されている。内部職員は、国家公務員一般職(旧II種)合格者のうち、旧帝大、有名私大等から優秀な人材が毎年数人規模で内閣事務官として採用され、入室後、人事院の主催する初任者研修を受けた後、各部署に配属され、基本的にOJTによって業務に必要な能力等を学んでいくことになる。最近では、採用人数が昔より微増していると同時に、以前より所管業務が増えたことで組織が大きくなったため、新規採用者は、最初の概ね数年間は情報業務を担う国際部や国内部等ではなく、総務部に配属される傾向あり。総務部での基礎的業務を終えた後、情報業務に携わる国際部、国内部、経済部等に本人の適性を考慮した上で配属され、大学や研究機関での研修、警察大学校での語学研修、在外公館への出向、ほかに防衛省等への出向などのキャリアを積みながら主査あるいは情報専門官(情報専門官、上席情報専門官、特任情報専門官と昇格する)を経て管理職への道が開かれる[25]。内部職員は情報収集又は情報分析の専門家としてキャリアパスを想定した採用だが、最近は特定秘密保護法を所管するなどの理由で、一般行政官庁的業務が増加し、近年入庁した若手の内部職員は情報業務の訓練が十分にされておらず、情報の専門家が育ちにくいという問題もあるという。一方、独自採用で国家総合職をとっていないことから、他省庁と比べて研修受講など、キャリア形成のチャンスは多いようである。
加えて、内調プロパーは、内閣の重要政策に関する情報収集・分析に2年程度で親元省庁に戻ってしまう出向者と異なり、長く携わることができるため、内閣総理大臣や内閣官房長官等が必要とする、内閣の重要政策に資する情報収集及び分析のプロフェッショナルとして、日本の政府機関職員の中でも、特殊な立場といえる。
プロパー職員は、国内外の人的情報収集であるヒューミントに携わるケースオフィサー、公開情報であるオシントや秘密情報に基づいて分析するアナリスト、総務部などでマネジメント業務を行う行政職、に大別される。
業務の特性[編集]
内閣情報調査室は、内閣の重要政策に関する情報の収集分析が所管業務であることから、治安維持のための情報収集を目的とする警察や公安調査庁とは、収集すべき情報の種類が異なり、内閣が重要な政策を遂行する上で必要とされる情報を対象としており、国内や国外の情勢により求められる情報が変化する。
一部報道では、内調職員による週刊誌等のマスコミへの頻繁な接触や政治家スキャンダル収集、閣僚候補に対する身体検査、政局の動向や世論の動向の調査が報じられており、ほかの情報官庁と比して政治色の強い情報の収集を行っている。
組織図[編集]
内閣情報官┬次長┬┬総務部門
         │  │├国内部門
         │  │├国際部門
         │  │├経済部門
         │  │└内閣情報集約センター
         │  └内閣情報分析官
         └内閣衛星情報センター
        カウンターインテリジェンス・センター
総務部門:人事、予算、室内の総合調整、総合分析、学識経験者の意見取りまとめ、政府全体の情報機能の強化業務などを扱う
国内部門:国民の意見や政治情報の収集分析や国内の新聞・放送・雑誌などの論調分析を行う
国際部門:国外の政策に関する情報収集・分析や新聞・放送・雑誌などの論調分析に加え、日本国の情報機関の代表として各国の情報機関との情報交換(コリント)を行うとともに防衛省の情報本部から入るシギント(電波傍受)情報も扱う
経済部門:国内外の経済状況の分析を行う
内閣情報集約センター:下記で詳述
内閣情報分析官:特定の地域や分野に関する分析を行う。
内閣衛星情報センター:下記で詳述
カウンターインテリジェンス・センター:政府の定めた「カウンターインテリジェンス機能の強化に関する基本方針」に基づいて政府の防諜に関する連絡調整を行う組織。カウンターインテリジェンス・センターは、日本版CIAの原型となる組織であるとされ、創設には安倍晋三が尽力したという[27]。内閣情報官がセンター長を兼務する。
歴代内閣情報官[編集]
内閣総理大臣官房調査室長【総理府事務官】
1. 村井順 1952.4.~53.12. 前国家地方警察本部警備部警備課長
2. 木村行藏 1954.1.~55.7. 前国家地方警察本部警務部人事課長
3. 古屋亨 1955.7.~57.8. 前警視庁総務部長
内閣官房内閣調査室長【内閣調査官】
1. 古屋亨 1957.8.~62.5.
2. 石岡實 1962.5.~64.7. 前九州管区警察局長
3. 本多武雄 1964.7.~66.3. 前皇宮警察本部長
4. 大津英男 1966.3.~71.1. 前警察庁警務局長
5. 川島廣守 1971.1.~71.11. 前警察庁警務局長
6. 富田朝彦 1973.11.~74.11. 前警視庁副総監
7. 渡部正郎 1974.11.~77.8. 前内閣総理大臣官房広報室長兼内閣官房内閣広報室長
8. 下稻葉耕吉 1977.8.~79.2. 前大阪府警察本部長→警察庁警務局付
9. 森永正比古 1979.2.~80.8. 前警察庁刑事局保安部長
10. 福田勝一 1980.8.~82.5.  前警視庁副総監
11. 鎌倉節 1982.5.~84.2. 前警視庁副総監
12. 谷口守正 1984.2.~86.7. 前大阪府警察本部長
内閣官房内閣情報調査室長【内閣調査官】
1. 谷口守正 1986.7.~87.6
2. 大高時男 1987.6.~89.6. 前皇宮警察本部長
3. 森田雄二 1989.6.~92.9. 前警察庁長官官房長
4. 金田雅喬 1992.9.~93.3. 前警察大学校長
5. 大森義夫 1993.3.~97.4. 前警察大学校長
6. 杉田和博 1997.4.~01.1. 前警察庁警備局長
内閣情報官
1. 杉田和博 2001.1.~01.4.
2. 兼元俊徳 2001.4.~06.4. 前警察大学校長
3. 三谷秀史 2006.4.~10.4. 前警察庁警備局外事情報部長
4. 植松信一 2010.4.~11.12. 前大阪府警察本部長
5. 北村滋 2011.12.~19.9. 前警察庁警備局外事情報部長→警察庁長官官房総括審議官
6. 滝沢裕昭 2019.9.~ 前内閣官房内閣情報調査室内閣審議官
内閣情報集約センター[編集]
大規模災害など緊急事態における情報の集約・分析・連絡と体制整備を行う。阪神大震災の際に官邸の情報収集体制が機能しなかった反省から創設された部門で、元々は国際部にあった「国際2部」という部門を改組したものである。人員は20名ほどで、防衛省、警察庁、消防庁、海上保安庁から出向した職員からなる[29]。
組織は緊急時の連絡網を整備する「システム整備班」、内外のマスコミの報道をチェックする「庶務班」、通信社のフラッシュを整理する「ニュース班」からなり、5個班がローテーションで常駐して24時間体制で内閣に入る大災害や重大な事故・事件に関する情報を処理している。防衛省、警察庁、消防庁、海上保安庁、気象庁等と直通のホットライン等で結ばれている[29]ほか通信社との専用回線も保有しており、緊急時には自衛隊や警察のヘリコプターを利用してヘリテレを使った情報収集も行う[25]。
実際に緊急事態が発生した場合はすぐに内調から内閣総理大臣に報告され初動対応態勢が整えられる。総理大臣官邸の地下に内閣危機管理センターがあり、初動対応時における内閣の指揮所になる。初動体制が整えられると内閣危機管理センターに内閣危機管理監と、これを補佐する内閣官房副長官補以下所要の職員(旧内閣安全保障・危機管理室構成員に相当)が参集する仕組みとなっている。
内閣衛星情報センター[編集]
英称:Cabinet Satellite Intelligence Center(略称CSICE)。「中央センター」、「情報分析センター」とも呼ばれる。日本国の安全の確保、大規模災害への対応その他の内閣の重要政策に関する画像情報の収集を目的とする情報収集衛星の運用、情報収集衛星により得られる画像情報の分析その他の調査に関する事項及び情報収集衛星以外の人工衛星の利用その他の手段により得られる画像情報の収集及び分析その他の調査に関する事項を担当する組織。東京都新宿区市谷本村町に所在する。定数は219名(2011年7月現在)[30]。
1999年に設けられた情報収集衛星導入準備室を発展して2001年に設置された。2018年6月までに光学衛星6機、光学実証衛星2機、レーダ衛星7機(予備機含む)の情報収集衛星を軌道に上げ、光学衛星とレーダー衛星の2組4機で運用するほか、日本スペースイメージングからイコノス、デジタルグローブからクイックバードとワールドビュー1の画像を買い取り分析していたことが判明している[31]。
機密の安全を保持するため、プリンターは設置されずインターネット接続機器や記録媒体などの持ち込みは厳禁で、アメリカの衛星情報も扱うためにアメリカ国家地球空間情報局に倣い、私物は「ビニルバケツ」に入れて管理する規則でかばんなどの持ち込みは厳禁である。衛星情報は各省庁共通の「衛星秘密」を設けており安全が確認されない限り機密情報を扱えない[32]。
在日ロシア大使館のコンスタンチン・ベラノフ二等書記官らに、内調職員が情報を漏洩したベラノフ事件は、内閣衛星情報センターの衛星画像が漏洩した[33]。
組織編制[編集]
所長(将で退職した幹部自衛官が、内閣事務官として務める[34]。指定職6号で次官級審議官と同格。)
次長(警察庁から警視監が出向、官名は内閣事務官。指定職3号で局次長級で内閣官房の内閣審議官と同格。)
管理部(総務課、会計課、運用情報管理課)
分析部(管理課、主任分析官5人)
技術部(企画課、管制課、主任開発官3人)
総括開発官1人(警察庁技官の出向)
副センター(別称・北浦副センター:中央センターのバックアップ、撮影データのメイン受信局。茨城県行方市長野江)
北受信管制局(別称・苫小牧受信管制局:副センターの受信域外のカバー。北海道苫小牧市)
南受信管制局(別称・阿久根受信管制局:副センターの受信域外のカバー。鹿児島県阿久根市)
副センターなど施設の銘板に別称を使用している例もあるが、規則上・辞令上の正式な名称は左記のものである。
データ[編集]
利用目的
外交・防衛等の安全保障及び大規模災害等への対応等の危機管理のために必要な情報の収集(外交等の安全保障及び危機管理)
利用省庁
総理大臣官邸、内閣官房、外務省、防衛省、警察庁、公安調査庁、国土交通省(海上保安庁、国土地理院)、経済産業省、消防庁など
歴代の内閣衛星情報センター所長
氏名 在任期間 前職
1 國見昌宏
2001.4.1 - 2005.3.31 情報本部長

2 小田邦博
2005.4.1 - 2008.8.31 航空総隊司令官

3 椋木功
2008.9.1 - 2012.10.1 情報本部長
4 下平幸二
2012.10.1 - 2016.3.31 情報本部長
5 木野村謙一
2016.4.1 -2018.7.20 情報本部長
6 宮川正
2018.7.20 - 情報本部長
内閣情報会議[編集]
日本国や日本国民の安全に関する情報のうち、内閣の重要政策に関するものについて、官邸と外交・防衛・治安等の情報を担当する省庁が緊密に連携して情勢を総合的に把握するため、原則として年2回開催される内閣情報会議が設置されている。この内閣情報会議の下には合同情報会議、情報収集衛星推進委員会、情報収集衛星運営委員会が置かれており、内閣情報調査室はこれらの会議の運営を担当している。
情報調査委託団体[編集]
内閣情報調査室はシンクタンクなどに調査の一部を委託している。なかでも世界政経調査会、国際情勢研究会、国民出版協会は幹部に内調や警察のOBが就任しており、資金もほとんどが内調から支出されるなど、事実上内調の「別働隊」として機能している[35]。これらのシンクタンクは公開情報を元に海外の情勢や国内メディアの動向を分析する活動を行っている[35]。
内閣官房から情報調査委託費が交付されている団体[編集]
※は補助金依存型公益法人(国から交付された補助金等が年間収入の3分の2以上を占める公益法人)
財団法人世界政経調査会 ※
社団法人国際情勢研究会 ※
社団法人国民出版協会 ※
社団法人内外情勢調査会
過去に情報調査委託費の交付が確認されている団体[編集]
アジア動態研究所
アジア問題研究会
海外事情調査所
社団法人共同通信社
株式会社共同通信社
国際経済調査会
国際問題研究会
株式会社時事通信社
ジャパン・オバシーズ・ニューズ・センター
東京出版研究会
社団法人東南アジア調査会(平成15年(2003年)度末に世界政経調査会と統合)
内外事情研究会
日本社会調査会
日本文化研究所
日本放送協会(NHK)
社団法人民主主義研究会(平成15年〈2003年〉度末に国際情勢研究会と統合)
財団法人ラヂオプレス


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