シネマ古今集  瀬戸川猛資  2020.1.30.


2020.1.30. シネマ古今集

著者 瀬戸川猛資 1948年東京生まれ。文芸評論家。現在『毎日新聞』書評欄執筆メンバー。『サンデー毎日』に『シネマ免許皆伝』を連載中

発行日           1997.7.10. 初版第1刷発行
発行所           新書館

初出誌 / 『サンデー毎日』1993912日号~95924日号
連載は3年半、173回続き、その後は『シネマ免許皆伝』と改題されて現在に至る
本書はその最初の100回分

20-01 ほんの数行』の89『今日も映画日和』で紹介

Ø  映画の質は変わったか――《ラスト・アクション・ヒーロー》
シュワルツネッガー監督・主演の、虚構と現実を往復する話。対比されてこそ味があるのに、いずれも同じ強さを取り戻しているのでは何にもならないし、ストーリーを作る意味がない
この2,30年で映画の面白さの質が変わってきているのではないか

Ø  傑作を紡ぎ出す緊張の糸――《麗しのサブリナ》(1954)の舞台裏
製作現場が修羅場だったという。ワイルダーとボガートが真っ向から対立してお互いに罵り合い、始終険悪な雰囲気の中で撮影が進行したという ⇒ 夢物語を支える荒んだ現実、幸福な物語の裏に潜む悪意。それらこそ傑作を紡ぎ出す緊張の糸なのかもしれない。和やかに和気あいあいと作られた作品は、恐らく退屈を誘うだけの代物に違いない

Ø  「追いかけてくる刑事」の系譜――《逃亡者》
1862年のユーゴーの『レ・ミゼラブル』に始まり、日本でも明治初年、黒岩涙香の翻訳『噫無常』で人気を博したが、サイレントからトーキーにかけて世界各国で映画化され、63年にはアメリカのプロデューサーが現代的に改変して連続テレビ映画《逃亡者》を作るとバカ当たり。さらに30年後に映画化。物語の伝統が感じられる
飢えた子供のためにパン一片を盗んだとして長い逃亡の人生に踏み出すジャン・ヴァルジャンを主人公としたストーリーが基本形

Ø  露骨はイヤだね、露骨は。――《北北西に進路を取れNorth by Northwind(1959)
北北西はnorth-north westというのに、どうしてこの題名になったのかとヒッチコックに聞いたら、「意味はない。でたらめな言葉だ」と答えた。典型的な巻き込まれ型ストーリーで、殺人犯にされ動顚して逃げ惑う主人公の心理状態を表した題名だという
このエピソードにこそヒッチコック映画の本質がある ⇒ スリルとサスペンスの巨匠には違いないが、それに加えて「人を喰ったユーモア」の巨匠でもある
ヒッチコック独特の筆法を分析すると、見えてくるのは、露骨を嫌う、という英国ミステリ伝統の精神。残酷な殺人の物語だからこそユーモアとエレガンスが盛られなければならない、とするリッチな精神であり、ヒッチ作品を理解するかどうかは、この点を理解するかどうかにかかっている
極端な異常性や残虐描写を売り物にし、狂気だあ!と凄んでみせる近頃のスリラー映画を観たら、ヒッチは恐らくこう呟くだろう。「露骨はイヤだね、露骨は」

Ø  題名に関するお話――カタカナ・タイトル批判
外国映画にカタカナの題名をつけて公開するのは控えるべき
この20年間、カタカナ邦題の洋画が猖獗を極めているが、題名は作品の顔であり、個性を決定する因子。日本語表記によって日本人の心に訴える独特のイメージを活用すべき
カタカナの題名では、映画文化が随分と貧弱な、味気のないものになってしまう

Ø  日本文学とハリウッドの関係――《痴人の愛》(1934)
サマセット・モームの『人間の絆』がアメリカで映画化された時の邦題が《痴人の愛》
近年テレビ局が放映する際、勝手に《人間の絆》に改題したもの
昭和初期の配給会社は題名には無頓着だったようで、ギャング映画に《暗夜行路》とつけたり、《破戒》というメロドラマもあった
谷崎は、ベストセラーの題名をアメリカ映画に使うことに対し寛容な態度を取ったのではないか ⇒ 女主人公の描写でいきなり女優のメリー・ピクフォードに似ているという文章がある。他にも女優の名前が何人か出てきて主人公のイメージ造型にハリウッド女優がくっきりと影を落としている。谷崎が映画を愛した文豪であることは疑いがなく、題名を使われても恕したのではないか

Ø  西部劇とチャイコフスキー――ディミトリ・ティオムキン追想
音楽もまた映画の価値を決定する重要な因子の1
ヨーロッパの映画音楽史を代表する巨匠をニーノ・ロータとすれば、ハリウッドの映画音楽の大作曲家がティオムキンで、19世紀末ペテルブルクで生まれ、ピアニストとして活躍したが、スターリンの弾圧から逃れて渡米、映画音楽の作曲家となったが、名声を決定づけたのは戦後手がけるようになった西部劇 ⇒ 《真昼の決闘》《OK牧場の決斗》《リオ・ブラボー》《アラモ》《ジャイアンツ》、テレビ映画《ロー・ハイド》
ティオムキンが晩年近く自ら映画をプロデュースしたのが米ソ合作の音楽映画《チャイコフスキー》
西部劇の音楽は、カントリー&ウェスタンと呼ばれるアメリカ独自の軽音楽とはほとんど関係がなく、ロシアからやってきたクラシックの作曲家ティオムキンによって形作られたもの。いかにもアメリカ的に感じられるあの旋律は案外ロシア的なものであり、チャイコフスキーの陽あかりを浴びていたのかもしれない

Ø  1944年のモーセ――《シンドラーのリスト》
旧約聖書は「創世記」の次が「出エジプト記」で、エホバの命を受けた指導者モーセがイスラエルの民をエジプトより導き出すおなじみの故事だが、デミルの《十戒》(1923)、同じくデミルの色彩版(1956)、プレミンジャーの《栄光への脱出》(1960)3回も映画化されており、スピルバーグの《シンドラーのリスト》はこのテーマの4回目の映像化といえる
白黒で最初から残虐で辟易とするが、画面がカラーに変わった後はリストの記載者たちと俳優が一緒に画面に登場、虚構と現実が見事に一体化して感動を呼ぶ
ハリウッドは上から下までユダヤ系が力を握っている王国といわれる。事実戦後45年間にわたり、大虐殺を行ったナチス・ドイツを執拗に告発、その残虐性を世界にプロパガンダする映画を作り続けてきた。ただ、ユダヤ人を導き出すモーセもまたドイツ人であるという点は興味深く、戦後生まれのスピルバーグならではの視点だろう

Ø  表に出ない男の話――《日の名残り》
同名のカズオ・イシグロ原作の映画化。英国上流社会の伝統的存在である執事(バトラー)の物語だが、映画は面白さを出し切れていない

Ø  無視されたアカデミー賞作品――《パットン大戦車軍団》(1970)
作品賞以下7部門で賞をとりながら日本では全く評価されなかった ⇒ 38
パットンを戦争を好きでたまらぬ男として描いているため異色
戦争の本質を冷静に見つめた秀作だが、「国を守る者は誰か」という問いかけが含まれているため、この問いに対する答えが複雑な現代日本では始末に困る作品となった
主演男優賞のジョージ・C・スコットは受賞を拒否 ⇒ アカデミー賞は嫌いだ

Ø  「物語」を愛する心――《怖がる人々》
唯一取り上げた日本映画。和田誠監督の5つのホラー短編集
5篇を通じて感じられるのは、「物語」を愛する心と知的で高級なエンタテインメントを作り上げてやろうとする作家精神。血みどろや幽霊が出てこないのも、日本離れした洒脱な味を深めているが、スプラッタ(猟奇的なシーンのある映画)慣れした今の若い客がどこまで味わうことができるかが問題

Ø  スローモーションの不快――《フレンチ・コネクション》(1971)
今やスローモーションを全然使用しないアクション映画は珍しいが、「バーカ」と胸の内で呟きながら見ている ⇒ 映画の時間を極端に遅滞させることで、乱発すればドラマ自体を破壊するだけ。CMの影響ではないか
《フレンチ・コネクション》は疾走の映画。全篇すごいスピードの映画で、スローモーションなど皆無に等しい

Ø  「スターの時代」の戦争映画――《史上最大の作戦》
英米独仏44大スター出演で、顔を見ているだけで飽きない
20世紀フォックス社長のザナックがプロデューサーとしての最後の傑作

Ø  西部劇が復活?――《ワイアット・アープ》
新聞広告にもパンフレットにも西部劇とは謳っていない。若い人を呼べないといって業界の絶対禁止用語になっているが、このジャンルを示す日本語はこの言葉しかない
ただ、この映画はどう見ても西部劇ではない。西部劇というのは簡潔でビシッと締まった男性的アクション映画のこと。だらだらとしたラブロマンスやベッドシーンなどいらない
ケヴィン・コスナーの愛のドラマで、若い女の子が長蛇の列をなした

Ø  日米剽窃騒動について――《ライオン・キング》
ディズニーの《ライオン・キング》が手塚治虫の《ジャングル大帝》に酷似している
サンフランシスコ・クロニクルが火付け役で、「ディズニーが《ジャングル大帝》にヒントを得たのだとしたら天国の手塚も喜んでいるだろう」と静観していることに「理解しがたい」といったのが日米両国で大きな波紋を呼んでいるが、手塚漫画全体がディズニーの漫画映画と切っても切れない関係にあることを忘れてはいけない
手塚自身も、「私のディズニーへの思い入れは、私の絵を見てもらえればいうまでもない」と言っているように、その影響はあまりにも明白な事実。《ジャングル大帝》にしても手塚が80回も見たという《バンビ》の影響が強すぎるきらいあり
ディズニーと言えど今や個人のものではなく企業のもの、企業は利益のためにはなりふり構わない。この騒動も芸術面よりも経済面から眺めた方がすっきりする

Ø  大ヒット映画の正体――《フリントストーン モダン石器時代》(1994)
スピルバーグ自身の映画会社創立10周年記念作品がこのほど公開
原作者ハナ&バーベラの有名なTVアニメ作品《強妻天国The Flintstone》であり全米で公開され空前の興行収入を上げたが、日本ではスピルバーグの名前だけで原作者の正体を一切隠して公開
ハナ&バーベラは、1940年代《トム&ジェリー》で一世を風靡したあと独立。この作品、日本でも61年と3年に2回にわたってゴールデンアワーにテレビ放映されているが、30年も経つと完全に忘れ去られ、映画化されても正体は伏せられ、映画の専門家たちもそのことに気付かないというのは信じられない

Ø  暴力が好きなあいつ――ロバート・オルドリッチ研究
20年以上の監督キャリアがあって、傑作や秀作とか呼ばれる作品を5本発表していれば監督本人の力と言っていいし、堂々と映画作家と呼ばれる権利があるし、7本なら巨匠
オルドリッチの場合、《何がジェーンに起こったか?》など8作もあり、立派な巨匠のはずだが、そうは見られていないのは、執拗に暴力を描いているからではないか
アメリカ軍の腐敗ぶりを描いて国防総省の激怒を買ったという

Ø  さわやかさの裏にあるもの――《ギルバート・グレイプ》(1997)
差別意識をテーマにした映画。主人公の身障者への差別ではなく、肥満者差別で、一般的でない差別概念に対しては鈍感であることを見抜いた鋭い視線に注目

Ø  駄菓子の味わい――《エ-ス・ベンチュラ》(1997)
B級作品でスタンダップ・コメディ ⇒ ピン芸人が喋りまくって笑いを取る

Ø  映像タイム・マシン――《日曜日のピュ》
ベルイマン一家の映画。父親のイングマール(愛称がピュ)が書いた脚本を息子のダニエルが監督し、主人公も本人で、1926年に実際に体験した出来事の映画化
映画作りはあくまで興行で、お金を取って観客に見せるものであり、個人的な心象風景を描き出すような映画を平然と作れるのは、己の創作力に微塵も疑いを抱かない田舎モノ芸術家だけ。フェデリコ・フェリーニはその典型。ベルイマンも同類かと思って見たら、ベルイマン生涯のモチーフが宝石のようにちりばめられていて面白い

Ø  字幕絶対主義は片腹痛い――字幕スーパーを疑え
勝手な恣訳は困る。固有名詞では意味不明として勝手に変えてしまうのは翻訳という行為とはいえない
女ギャングの対決でビビった相手が「おシッコもれちゃうよお」の訳が「トイレに行きたい」
字幕絶対主義を標榜する人は、吹替をひたすら蔑視するが誤り ⇒ ドラマは「台詞を耳で聞く」ということを大前提に成り立っているので、目で読むのは異常な鑑賞法であり、台詞の面白さが半減するし、字幕を追うことに神経を集中する結果全体や細部のニュアンスが掴めなくなる

Ø  なめんなよ、アメリカを――《今そこにある危機》
アメリカの麻薬汚染をテーマにした、組織論と戦略論を軸とする国際政治の映画
『レッド・オクトーバーを追え』の戦略論作家トム・クランシーの原作
危機はためらわずに排除せよ、やられたらやり返せ、アメリカをなめる奴には躊躇わずにドスを抜け、そうアピールしている気配がある

Ø  孤独の香り――モンゴメリー・クリフト再考
テネシー・ウィリアムズ、トルーマン・カポーティと同性愛関係にあった米人作家のドナルド・ウィンダムが、モンティも同性愛者だと暴露
2次大戦後の一時代を画した知性派青春スターBCD(マーロン・ブランド、モンティ、ジェームズ・ディーン)と言われていたのでびっくり
14歳でブロードウェイの舞台に立ち、天才少年の名をほしいままにし、20代後半でハリウッドに行くが、活躍期間はわずか5年ほどで、56年には自動車事故で顔が無残になり、手術後は別人のようになって、66年死去、生涯独身

Ø  11は美しい――早撃ちガンプレイの本質
早撃ちとは倫理の世界 ⇒ 相手より遅く拳銃に手をかけ早く抜く。正々堂々、礼儀正しく、勇気と技術に命を賭ける。そこにあるのは肉体的暴力ではなく、精神の美への憧憬であり、それこそがアメリカ西部劇のベーシック
《必殺の一弾》のグレン・フォード対ブローデリック・クロフォード
《ヴェラクルス》のゲーリー・クーパー対バート・ランカスター
《ガンヒルの決斗》のカーク・ダグラス対アンソニー・クイン

Ø  ジョン・ウェインする――俳優の神秘
スカイ・ダイヴィングの映画で「それでジョン・ウェインしたってわけ」というセリフが出てきて初めてそういう動詞があることを知る
79年死去のジョン・ウェインは、不思議な個性の持ち主。演技を感じない、激情とか歓喜とか落胆の感情表現がない。西部劇スタートしてもおよそ俊敏なタイプではない。ライフルと体当たりの格闘しか似合わない
アメリカ人が彼の映画を観ると胸がスカッとする、そこにジョン・ウェインという俳優の神秘がある。俳優という演技する者ではなく、行為する者だった
80年代初め、ニューヨークの地下鉄でチンピラに金をたかられた青年が拳銃をぶっ放してヒーロー扱いされる事件では、地下鉄のジョン・ウェインと渾名がついた

Ø  いけない楽しみ――《裸の町》(1948)
映像メディアの発達によって失われたものの典型が「評価の神話性」
一度しか観られないと、鑑賞していない者は反論しようがなかったが、ビデオの普及によって評価の神話性が崩壊
「ハードボイルド」という言葉の映像化として語り草になった《裸の町》も本邦公開は48年の1回のみで、ビデオ化もされていないが、今後ともビデオが発売されないことを祈る

Ø  話題作に八つ当たり――《フォレスト・ガンプ》
IQ75の少年が活躍するが、古典落語の与太郎と同じキャラ。最近日本では身障者差別を理由に与太郎をやらなくなったため、《ガンプ》に騒いでいるが、自国の同類を規制する不誠実さと鈍感と思想的貧困には困ったもの。与太郎を復活させてほしい

Ø  映画の酷薄さについて――《クイズ・ショウ》
ロバート・レッドフォード監督の最高傑作の噂が高い、実際にテレビ界で起きたクイズ番組の八百長事件を描く社会派的な作品
釈然としないのは、実名による映画化で、実名公表により汚名を雪ごうとしたものだが、当人は協力を拒否、別の登場人物の遺族も抗議しているというが当然だろう
部外者の生半可な同情は当事者を傷つけるだけで、映画人ならではの鈍感さ露わにも拘らず、映画賞をもらっている

Ø  新聞記者映画について――《ザ・ペーパー》
ニューヨークの新聞社の1日を描いた映画で、新聞記者映画の中でも屈指の出来栄え
日本の新聞記者映画では、記者が記事を書く場面がほとんどないのに対し、これは新聞がどのように作られるのかを具体的にきちんと見せたシステムの映画

Ø  表記の問題――固有名詞の発音
ハリウッド・スターの表記、特に濁音の使い方が気になる
ジンジャー・ロジャーズは、ロジャーとしてほしい
「発音通りの正しい表記」というのは間違いないが、本気で信じているとしたら、言語や文化に対する感覚が鈍いと言わざるを得ない
音を文字に書き表せないケースは少なからずあり、何を根拠に「正しい」とするのかも曖昧
国や民族はそれぞれ独自の言語・文字の文化を持っていて、固有名詞はその文化の伝統に従って書き表されるべきもの
さらには、固有名詞もまた言葉であり、発音や表記にはその民族の美意識が反映する
ワーナー日本支社は「ワーナー・ブラザー」であり、阪神球団も「タイガー」 ⇒ ズ音が日本人には汚らしく響くからではないか。日本人の美意識の表れ

Ø  世評は当てにならない――《太陽は光り輝く》(1953)
石川淳は『森鷗外』という有名な文芸評論の中で、「鷗外に『抽斉』と『霞亭』の2篇を措いてもっと傑作があると思う人々を信用しない。『雁』や『山椒大夫』は児戯駄作」と断定したが、ジョン・フォードでいえば、『荒野の決闘』や『駅馬車』よりも、《太陽は光り輝く》こそ、彼の南部愛が最も美しい形で結晶した作品と言える
映画の価値は自らの目で確かめよう

Ø  マーチ家の4人姉妹――《若草物語》
映画化は今回が3回目。1933年セルズニック製作作品、49年のマーヴィン・ルロイ作品、今回がジリアン・アームストロングという女流監督による作品
次女ジョーの回想記で、原作家ルイザ・メイ・オルコットの自画像でもある

Ø  時代劇・決闘名場面集――《スパルタカス》
西洋時代劇・決闘名場面のベスト3は、
《スパルタカス》(スタンリー・キューブリック)のカーク・ダグラス対ウッディ・ストロード
《ヴァイキング》(リチャード・フライシャー)のカーク・ダグラス対トニー・カーティス
《四銃士》(リチャード・レスター)のマイケル・ヨーク対クリストファー・リー
《スパルタカス》は名優勢ぞろいで豪華だが、キューブリックはこの映画を嫌っている。プロデューサーのカーク・ダグラスに牛耳られた苦い思い出ばかりなのだろう。カーク・ダグラスの方でもキューブリックの悪口を言っている。そういうトラブル大作だが、作品としては素晴らしい

Ø  「ミステリーの女王」の謎――《アガサ》(1979)
クリスティの本質は劇作家で、文章が平明なので味わいに欠けるため小説は迫力がない
映画化されたものは玉石混交だが、《アガサ》は本人が起こした失踪事件を描いたもので、一種の実録映画で忘れがたい作品
26年、自宅を出た後忽然と姿を消す。美貌の人気推理作家の失踪事件とあってマスコミ挙げての大報道となったが、9日目に発見。本人の記憶喪失が原因で、翌年離婚

Ø  てんこ盛りメロドラマ――《マディソン郡の橋》
ロバート・ジェームズ・ウォーラーの同名の大ベストセラーの映画化
日本でも224万部売れた


2008.3.6.

ブログ
『シネマ古今集』『シネマ免許皆伝』
 新旧の映画を取り上げた、サンデー毎日の連載コラムをまとめたもの。『古今集』の後書きにあるように、筋の紹介だけで半分くらいの枚数を費やしてしまう原稿用紙3枚半のコラムではあるけれど、著者の揺るぎない批評軸を感じさせる本だ。
 「自他ともに認める天邪鬼」と自らいうが、天の邪鬼を通すのは、実は大変なことなのである。著者の天邪鬼の裏には、幼少時から観まくった豊かな映画体験に基づいた確固たる映画観がある。
 だから、蓮實重彦が、40年代の米コメディの監督プレストン・スタージェスを称揚した一文の中で、「ジョンを名乗る同姓の二流作家が結構もてはやされもしたのだから」という箇所を引き合いに出して、
 「こういう文章を読むとうれしくなる。ジョンの一連の秀作がルビッチ馬鹿やプレストン馬鹿の魔手から逃れられるからだ」
 と啖呵を切って、「二流作家」ジョン・スタージェス擁護をやってのける。
 ウッデイ・アレンが嫌い、『グロリア』を「つまらぬ映画」、『パルプ・フィクション』を安っぽく退屈、クリント・イーストウッドの演出を鈍重、女性の映画は理解不能、といってのけられるのも、上に同じく。
 「おもしろさには昔からの型がある。だから、型破りというのは、実はおもしろくない」(『ナバロンの要塞』の項)と書く著者は、一見コンサバティブのようでいて、物事の本質を衝いている。
 加えて、鑑賞眼の背後には、純文学からエンターテインメント小説まで、膨大な知識と鑑賞の蓄積がある。「西欧の劇映画を支えているのは言うまでもなく、ドラマの力であり、それは、文学と演劇、即ち文芸的基盤の上に成り立っている。そこに歴史や文化が投影されて豊かな味が生み出されているのである」という著者は、その点に着目した批評を心がけている。かくして、『逃亡者』や『ナバロンの要塞』に隠れた物語の系譜、『恐怖の報酬』の怖さの本質、『エド・ウッド』はベラ・ルゴシを描いた映画、寅さんシリーズの背景に落語がある、などなどの慧眼が導かれるのだ。
 『夜明けの睡魔』や『夢想の研究』もそうだったが、惜しくも早逝した著者の本からは、作品を読んで(観て)、あれこれ考えることの楽しさが伝わってくる。そうした「夢想」こそが作品を豊かに味わうことであり、作品を楽しみ方を増やす方法なのだ、ということを、我々に教えてくれる。











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