教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代  竹内洋  2020.2.5.


2020.2.5.  教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代

著者 竹内洋 1942年東京都生まれ。京大教育学部卒。同大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。京大大学院教育学研究科教授などを経て、現在、関西大東京センター長。同大名誉教授、京都大名誉教授。教育社会学・歴史社会学専攻。著書に『日本のメリトクラシー』(39回日経経済図書文化賞)、『革新幻想の戦後史』(13回読売・吉野作造賞)、『教養主義の没落』など

発行日             2018.9.15. 初版第1刷発行
発行所             筑摩書房(筑摩選書)

大正教養主義の代表者・阿部次郎。その著『三太郎の日記』は自己の確立を追求した思索の書として、大正・昭和期の学生に熱烈に迎えられた。だが、彼の人生は、そこをピークに波乱と翳りに包まれていく――。本書は、同時代の知識人たちとの関係や教育制度から、阿部次郎の生涯に迫った社会史的評伝である。彼の掲げた人格主義とはいかなるものであったのか。落魄の中でも失われなかった精神の輝きに、「教養」の可能性を探る

序章 阿部記念館
山形県庄内町余目(あまるめ)の次郎の生家跡の阿部記念館(91年開館)は、阿部家一族が対象で、仙台の阿部日本文化研究所跡の阿部次郎記念館(99年開館)は次郎個人を顕彰
阿部次郎は大正教養主義の代表であり、『三太郎の日記』は知的青年の必読書として大正時代から戦後もずっと読まれてきた。60年代まではそうだったが今は昔
本書は阿部次郎を中心に論述するが、同時代の知識人たちとの関係、そして知識人が組み込まれている教育制度との関係でみていくことで評伝と知識人の社会史、さらに教養主義の普及やその意味の変遷を考えていきたい。「作品中心主義」的アプローチではなく、「文脈主義」の社会史的分析を目指す。阿部次郎の人と思想というより、人と時代に狙いがある

第1章          前途暗澹
1900年、山形中学(現・山形東高)で、学園紛争から放校となった次郎と旧友2人は、中学卒業資格もないまま上京。高校の入学試験受験資格がなく、中卒資格による私立専門学校への無試験入学も出来ない。中卒資格を取るために他の中学に転学編入するにも、在学証明書や成績証明書がなければそれも出来ない。なんとか母校の書記官の計らいで成績証明書をもらい、東京の私立中学転編入の道をつけてくれる人がいて、京北中学に入学
半年後の高校入試では一高を受験、9番で合格 ⇒ 2番が鳩山秀夫(一郎の弟)
小学校から首席で、高等科3年を修了し、鶴岡の荘内尋常中学校(現・鶴岡南高)に入学、寄宿生活をし、1年生の時に南洲の道徳政治が哲学志望として固まる
庄内藩の人々にとって西郷隆盛は、戊辰戦争の宿敵であり、江戸薩摩藩邸を焼き討ちにした張本人にも拘らず、寛大な処分しかしなかった西郷は、仇敵から敬愛すべき存在
山形県内に中学は3校のみ、全国でも中学への進学率は2.1
父親が余目小学校長から山形県視学として県庁勤めとなったため山形市に転居、次郎も山形中学に転校
明治20年代から全国の中学校や師範学校に学校騒動が頻発 ⇒ トラホームの蔓延で試験を延期するかしないかとか、校則を厳格化するかどうかなど
山形中学の場合は、校長の武道偏重に次郎らが反発、同盟休校に発展、校長辞任で終息したが、大量の放校処分が下された

第2章          捨てる神あれば拾う神あり
次郎たちを京北に仲介したのは同郷の先輩。哲学館(現・東洋大)の創立者で京北中校長の井上円了に頼み込み、無事受け入れ
京北は開校2年目。足尾鉱毒事件で直訴した田中正造のもとに応援に駆け付け逮捕された後の雪印乳業創業の黒澤酉蔵を、出所後に迎え入れ1905年に卒業させている
1902年、哲学館事件 ⇒ 倫理科の卒業試験の生徒回答に「動機善なれば君主を弑逆するも可なり」とあるのを文部省視学官が見つけ、国体論に反するものとして、見過ごしていた学校を糾弾。当時文部省の指定校の卒業生には無試験検定が適用され教員免許が交付されていたが、その代わり視学官が立ち会うことができたため、問題があれば無試験検定を取り消す権限を持っていた。文部省は哲学館に対し5年にわたって無試験検定学校指定を取り消す。創設者の井上円了は、処分にひるむことなく、特権に依存せず、半官半民ではなく自主独立の純然たる私学になること、さらに哲学館を大学にすることを決意する。当時はお上による私学圧迫の一環とも捉えられた
02年、学資に窮した次郎に、母方の伯母の嫁ぎ先に養子に入った母方の叔父の娘と婿養子の話が進み、弟たちの学資のことを考えて応諾する
長兄一郎は跡継ぎで中卒後県の農業技師に、3男三也だけが陸軍士官学校を経て軍人、砲兵大佐まで行くが東条英機に疎まれ予備役となり、軍需会社の社長となる。4男余四男は生物学者、5男勝也は母方の竹岡家を継いで文化史学者、6男六郎がドイツ文学者。兄弟に学者が多いのは次郎の影響で、一郎の息子・襄(のぼる)も余四男の影響で生物学者に
1901年、第1回の卒業式では総代として証書を受け取る。学校騒動で転学したこともあってか最優等生ではなかったが、優等生で卒業。その後一高の受験
86年の学制改革で全国に7つの高等中学校(第一~第五、山口、鹿児島造士館)設立
77年設立の東京大学が、当時有力なテクノクラート養成学校だった司法省の法学校や工部省の工部大学校、開拓使の札幌農学校、内務省勧業局直轄の駒場農学校などを吸収し、法医工文理の5分科大学を持つ総合大学になって帝国大学と名称変更。従前の東京大学は研究・教育職を含めて文部省の役人や教師になるルートが主で、各省の高等教育機関より不利な位置を占めていたが、新しい帝国大学は有力な高等教育機関を吸収しただけでなく、法科大学と文科大学卒業生は無試験で高級官吏になる特権を得て、帝大は「高級官吏製造学校」となった。その予備学校として全国に高等中学校が作られた
この学制改革は、漱石が大学予備門在学中に起きたため、大学予備門が第一高等中学校に改組され、その後は東京大学ではなく、帝国大学文科大学に進学することになり、言ってみれば漱石は棚ボタ学歴エリートになった
一高は全国の高等中学のパターンセッターとして、入学試験のレベルも高く、定員200に対し倍率は5倍で、高山樗牛は福島中学を中退して受験したが落ちて二校に行く
94年、高等学校と改称。第八までの高等学校と山口高等学校の時代になる。以後私立も創設され、戦前期における旧制高校は35(帝大予科を入れると38)で、同年齢男子の1
01年の一高入試では、合格者320人のうち、英法科文科合格者79人中9番で合格。岩波茂雄は1浪して英法文科65番で合格
卒業中学別では、一中が32名、私立独逸中が28名、開成が22名、府立四中が20名、京北は3(6年後には21名で6番目に躍進)

第3章          運動部系vs文藝部系
ある書物がベストセラーになるには、人々にその本の読書ハビトゥス(実践感覚となる性向)があらかじめ準備されていなければならない。『三太郎の日記』を争って読むような知的青年の心性ができていいなければならないということだが、実は次郎自身が一高でキャンパス文化を大きく変えることに一役買ったことで、波を作った張本人の1人だったと言える
一高の公式学校文化は、籠城主義や勤倹尚武で、東洋豪傑風筋肉文化を謳歌。私学のハイカラ(西欧気取り)風や長袖者(袖の長い衣服を着る公家、僧侶、神官、学者などのこと)流に対し、蛮カラの質実剛健を看板とする
当時の生徒の団体である一高校友会は、90年の設立で、当初は9部、うち8部が運動部で、あくまで「体を練る」ための組織。音楽部は92年認められたが3年後には廃止、庭球部は「女々しい」として95年廃止、弁論は軽薄才子の所業と見做され99年に漸く認可
次郎は唯一例外の文藝部委員に選出されるが、校友会雑誌編集のための脇役として辛うじて存在を認められていたにすぎない
永井荷風の小説『すみだ川』(1909)には、「狂暴無残な寄宿生活を知って、高校へ入ろうという気は全くない」との記述がある。荷風は97年一高の受験に失敗
94年頃から鉄拳制裁を含むキャンパス文化に対する「非運動家」からの批判が出始め、旧制高校の剛毅な国士風の学校文化に対抗する内省思考が芽生え始める
次郎も、総代会の議題として、皆寄宿制廃止を提案
1年下の藤村操が投身自殺 ⇒ 01年京北に5年で編入、優等で卒業後一高に入学した3学期のこと。次郎は校友会雑誌に追悼文を寄稿。煩悩が時代の青年の病になり出した頃の自殺で、内省を欠く勤倹尚武という生徒文化への対抗文化として勢いを増す事件にされていく
次郎が卒業した翌年05年の全寮茶話会で再び皆寄宿制廃止が議題となり、開会の辞を述べたのが3年の鶴見祐輔。直後の校風問題演説会では次郎も卒業生として演壇に上がり賛成論をぶつが、まだ少数派だったが、翌年に新渡戸稲造が校長に赴任、和辻が1年、谷崎が2年に在学したころから、鶴見、前田多門らの弁論部が勢いを増してまとめ役に回り、新渡戸も弁論部を支持母体にして自己の教育理念を推し進め、運動部と文藝部の力を合成することで文藝部的なものを中和して、教養思想の誕生に結び付ける
和辻も翌年08年に『精神を失いたる校風』を書き、豪傑的態度と運動主義のみを重視する因習的悪習慣を批判した
紆余曲折を経て、旧制高校文化に次第に読書による人格形成という意味の教養思想が定着していくのは大正時代になってから
大正7年に高等学校の目的が、大学予科から高等普通教育の完成になったことで、カリキュラムが変更されたことが大きい。同時に帝大文科出身の学士が増えたことも教養思想推進の一助となった

第4章          高等遊民の群れに
04年、次郎は帝大文科大学哲学科に入学。同年の帝大入学者は908人、内文科大学生は161人で、哲学は69人と人気が高かった
卒業しても食えない状態で、大学院の授業料が無料だったこともあって、就職待機場所となるが、一方で パンのための学問にあらずという矜持や、文名を上げるという大志、文壇の登竜門でもあった ⇒ 94年には文科大学教授たちを発起人とした帝国文学会が発足、その機関誌『帝国文学』が創刊されるが、漱石が『倫敦塔』を発表する頃には衰退期に入り、早稲田派に押されていた
大学ではロシア生まれのケーベルの人気授業「哲学入門」を聴講、以後個人的にも親しく付き合う ⇒ ケーベルは次郎をファースト・アベ、安倍能成をセカンド・アベと呼ぶ
許嫁との約束を破棄 ⇒ 5歳違いは大きく、3男が接近したこともあって身を引いたため、学資・生活費に困窮。学士になっても就職は見つからず、家庭教師などをしながら大学院へ

第5章          「ファースト・アベは何にもしない」
友人の勧めでその妹との結婚の話が進み、惹かれるが、付き合っていた「影の女」の存在もあって、1年後輩に横取りされ、失恋の痛手から酒、女、義太夫、芝居などに耽り、皮肉・冷笑の生活を送っていたため、ケーベルからも「ファースト・アベは何にもしない」と言われる。先輩の小山内薫に執筆の機会の紹介を依頼するが、紹介先に行った形跡はない
安倍能成は一高で1年留年し09年大学卒業。大学院に進むが健筆。藤村操の妹と結婚
「影の女」とは1歳年上で後の妻となる恒。東京高等女学校校長を母に持ち同じ学校の教壇に立つ。次郎の哲学科の先輩と結婚し子供2人を設けるが、夫の不始末から離婚しており、次郎が付き合い始めた時期は不倫関係になる恐れがあるため自身明確にしていない。結婚も当初父に反対されたが子どもができて父が折れる
09年、漱石が平塚らいてうとの心中未遂事件の後で生活に困窮していた森田草平を始め若い人たちの糊口を凌ぐ助けになればとして『東京朝日新聞』に「朝日文藝欄」を始めた日に、初めて漱石を訪ね、最初の原稿『驚嘆と思慕』を掲載、彷徨の季節を抜け出る切っ掛けとなる
創作などの文化生産は、個人やその才能のみに帰属させることはできず、人脈やネットワークによって開化していく。次郎の漱石山房入りは次郎の創作活動への意欲に弾みをつける

第6章          スターダムに
『驚嘆と思慕』は、当時飛ぶ鳥落とす勢いの自然主義についての関心を表明する序章となり、続いて本論を連続して掲載
自然主義の本家は、ゾラやフローベール、モーパッサンで、文壇の主流となっていた。自然科学の権威で武装しつつ人間と環境の問題を単に再現するだけではなく、社会批判運動の一翼を担うものとしてあったが、日本では性的な除き趣味的「出歯亀主義」や、技巧もなくありのままにだらだらと記述する「牛の涎」などと揶揄されるような、現実暴露や自己暴露の私小説として定着したきらいがある
次郎は、自然主義の牙城である『早稲田文学』が、享楽主義の永井荷風を過去1年の文勲に対する推讃の標目としたことを批判し、自然主義の覇権に疑問を投じた
11年、大逆事件で幸徳秋水が刑死。西田幾多郎の『善の研究』刊行。次郎、安倍能成、小宮豊隆、森田草平の共著『影と声』刊行、森田以外にとっては最初の書物
11年、「朝日文藝欄」廃止。次郎は読売新聞の客員となり、日曜付録の寄稿家となる。徐々に新聞雑誌に顔を出し、文壇人としてのプレゼンスを高め始める
その前09年には美学会幹事となり、美学こそ次郎の研究の本店であり、大学で専攻した美学についての本をまとめることが念頭にあった
14年、読売の日曜文藝付録の愛読者だった出版者社長から、連載をまとめて『三太郎の日記』として発行したいとの申し入れがあり、印税なら5分、原稿買い切りなら150(高文合格の高級官吏の初任給が55/)を提案され、金に困っていた次郎は買い切りを選ぶが、たちまちベストセラーとなり重版
0814年までの日記、真理への旅であり、自分探しで、煩悶青年の内面の波長に合致
文芸誌でも賛辞が並び、一躍文壇のスターダムに上がる
7年後には激しいバッシングを受けて墜落するが、この時はfameの絶頂に
哲学者谷川徹三は13年一高入学で、読後次郎に教えを請いに訪問
河合栄治郎は法科大学生で読み、「年少諸友に送る」に感銘を受ける

第7章          岩波書店の看板学者になるも
岩波は、当時漱石の『こゝろ』の出版に奔走していたため大魚を逃したことになる
一高2年を2度落第したため退学となり、帝大の選科に入り、女子教育に関心を持って次郎に紹介を依頼、恒と付き合っていた次郎はすぐに神田高等女学校(元・東京高等女学校、現・神田女学園中高)を紹介、漢文と英語を教え熱血先生として人気があったが、その後長野の実家の財産売却で得た金をもとに、13年古本屋岩波書店開業。漱石の『こゝろ』の出版により出版業として成功。岩波は莫逆の友・安倍能成の紹介で漱石山房入り
15年、『三太郎の日記 第弐』を純益折半で岩波から、18年には『合本 三太郎の日記』を出版
当時の文士の職業は、新聞雑誌記者が最も多く(38)、次いで教師(18)。職業として作家が成り立つのは19年以降と言われる
岩波はその後、次郎や安倍能成を編集委員に、西田幾多郎らを編集顧問として、全12篇の哲学叢書を出版し、「哲学書の岩波書店」というブランドを確立
17年創刊の岩波の雑誌『思潮』の主幹となり、安倍能成、小宮豊隆、和辻哲郎らを同人とし、文化界の覇権を握ったことを思わせるものがある ⇒ 次郎の発刊の辞には、「優れたる文明を建設し、豊かなる生活を開展せむがためには、その基礎を広く大らかに築かなければならない」とし、「狭隘なる国粋主義」と同時に批評を欠く「外国摸倣」を排することを宣言、本誌が知識の提供にとどまらず、知ることを通じて「味はう」こと、そしてその知識が生活の中に働いて生活を深く、高くすることだとしている
『思潮』は1年もしないうちに、売れ行き不振から廃刊の話が出て、18か月で廃刊。21年には和辻を編集として「岩波の雑誌」として『思想』に衣替えして再出発

第8章          人格主義という倫理的前衛
吉野作造(18781933)は宮城県出身、二高から法科大学に進学、09年法科大学助教授。3年間欧米留学ご教授に就任。二高の後輩で『中央公論』を立て直した滝田樗陰の勧めで、14年同誌に『学術上より観たる日米問題』という論文で論壇デビュー、その直後に『三太郎の日記』が出る
『万朝報』の黒岩涙香が、貴族主義や軍人政治に反対して「人民を主とする」思想として使用していた「民本主義」を用いて、普通選挙制と政党内閣制の意義を強調、中庸の漸進的改革の位置取りに成功。大正デモクラシーの旗手として論壇のスターダムに駆け上がる
19年、吉野が次郎に白羽の矢を立てて依頼してきたのが満韓講演旅行で、題目は『人格主義の思潮』で後に刊行。人格とは、内面的活動の主体であり、統合の原理であって生命であるとし、人格の成長と発展を第1義に考え、その第1義の価値との関連で他のあらゆる価値と意義の等級を決めていこうとする考え方

第9章          雉も鳴かねば
大正期は、左右を問わず社会改造を志向する「革新」が沸騰した時代で、社会主義を「誇張された革変」、民族主義を「偏狭な主張」とした次郎は、特に社会主義やその影響下にある労働運動に嘴を挟み批判したため、次郎の人格主義がせっかく台頭した労働運動から熱と力を奪うものとされ猛烈な反対を受ける
次郎の『人格主義』は、次郎が論壇中心部から離れる境界石になり、同時に『中央公論』を一躍雑誌界の花形にのし上げた吉野の民本ブームも長くは続かず左右両派から叩かれた
『三太郎の日記』は、36年に36版、『合本』は43年で30刷を数えているところからすると、読んだうえで否定しなければならない書物だった

第10章       大学教授バブル
22年、東北帝大の法文学部新設に伴い、次郎が美学担当の教授に招聘され、着任前に1年半にわたり欧米に留学

第11章       小春日和の中の嵐
次郎は、留学後日本文化研究に軸足を移す ⇒ 帰国後いち早くコスモポリタン的遍歴である大正教養主義的なものを自省。『徳川時代の芸術と社会』は7年かけた大作
30年、女子高等師範国文科に進んだ娘・和子は、無産青年同盟女高師連盟に参加して検挙され自主退学。岩波書店に世話になるが、その後も検挙、釈放を繰り返す ⇒ 3代にわたる父と子の確執だが、娘は次郎の人格主義を異なるか姿で継承したともいえる

第12章       哲郎の憤怒と能成の毒舌
和辻は次郎より6歳下、06年一高入学で九鬼周造音同級。12年に結婚した後から次郎との交流が始まる。「好きな人」として次郎を妻に紹介。以後頻繁に書簡を交換、行き来して、3人手を繋いで寝る仲になる
和辻は1歳上の谷崎などとともに8歳上の小山内薫が創刊した文芸誌『新思潮』の仲間に加わるが、興味のある哲学研究では売れない。次郎にも助言を乞い、19年の『古寺巡礼』や翌年の『日本古代文化』では日本文化に造詣の深い次郎に感謝するとの序まで書くが、文壇の寵児・次郎と妻・照の仲睦まじさに、雌伏の時代にあった哲郎の猜疑心が燃え上がり、次郎の洋行で一層深まる。24年、西田幾多郎の招きで京都帝大文学部の哲学講師となったのも次郎の来訪を避けるためだったという
和辻が教授になる前の恒例の留学をしている間に次郎と照の間に起ったことを、後に哲郎が『中央公論』に『自叙伝の試み』を連載している最中に入院により中断、そのまま没したため、照が後を引き継いで書いた中で暴露 ⇒ 27年、次郎が哲郎の留守宅に照を訪ねて泊った際言い寄っているが、それは『三太郎の日記』の付録『西川の日記』に書いたシナリオ通りのことが起こっている。1年後に帰国した哲郎に照が打ち明けると、哲郎は『偶像再興』に書いた次郎への献辞を破棄
09年、照は哲郎に打ち明けたことを次郎に知らせ、次郎は哲郎に謝りの手紙を書き、双方に罪があり、双方が踏みとどまったのだと釈明したが、哲郎は情理を尽くし次郎の反論を封じる理詰めの手紙を返し、絶交となった ⇒ 遺族は和辻宛の書簡を記念館で開示せず
和辻と次郎の関係は、研究業績で後の和辻が追い越したものであり、安倍と次郎の関係は、社会的経歴で後の安倍が先になったもの
安倍は次郎と同年生まれ、松山中卒後1年浪人して02年一高入学、前田多門と同期、藤村操の自殺の煽りで2年を落第、09年帝大文科大を卒業、次郎とともに一高文藝部委員、漱石門下、共著もあり友人関係にあったが、『思潮』では同じ同人だがほとんど寄稿していない
法政から京城帝大に移ったころは随筆が多くなり、「神童に見る影なし」とまで陰口されたが、橋田邦彦が一高校長から近衛内閣の文部大臣に就任、安倍がその後任の一高校長に就任したことから戦後の活躍に繋がる。戦後貴族院議員に勅選され、前田多門によって慫慂され幣原内閣の文相に就任するが、4か月で内閣総辞職により辞任。僅か4か月だったが位人臣をきわめる。以後政府の要職に就き、戦後の進歩的文化人の牙城となった平和問題懇談会の中心的位置を占める。4666年学習院院長
一方の次郎は、41年脳溢血から眼底出血となり、教壇には戻ったが、42年以後執筆もほとんどできなくなり、戦後は全く人前に出ず
次郎逝去のときは、『朝日新聞』が能成に追悼文を頼むが、一高時代から自分は及ばないと次郎に兄事したとしながら、その後の二高時代は我が強く自己中心的な性格で学内がまとまらず、定年後の生活は寂しかったと書き、遺族の反感を買ったため、『阿部次郎全集』の月報に能成の寄稿がないどころか、次郎からの能成宛書簡も収められていないのは当然
和辻と能成の話については、14章に結末を記載

第13章       残照
43年の勅令で、「在学徴集延期臨時特例」で学徒出陣となった際、後年のドイツ文学者・作家の中野孝次は五高に在学中で友人らと仙台に次郎を訪ね、もうじき国のために戦争に行かなければならない身にとって、内面的に充実するまで待ってくれと言っても待ってもらえないときはどうすればいいのかと詰め寄る。次郎が、「若者に成長を許さない歴史的現実と、普遍的価値の問題とは別だ」としか言わないのに失望して、中野たちは次郎の本を全部古本屋に売り払ったという
453月東北帝大を定年退職するが、慣例で1年は嘱託講師として授業を持つ。7月の仙台大空襲の後山形に疎開、疎開先で玉音放送を聞き、仙台に戻る
戦後、デモクラシーとヒューマニズムに基づく新日本文化創造を目指す「文化人連盟」への誘いが来るが、戦前の「報国会」から横滑りする文化人の名前を見て、報国会の時と同様断わる。岩波から新しく創刊した『世界』への執筆依頼が来るが、健康状態すぐれず断る
46年岩波茂雄急逝
戦後出版が活況を呈し、次郎の既存の刊行物を新たに出版したいとの申し出が多くなる
その1つが羽田(はた)書店。公職追放になった創業者の政治家が二高で次郎の教え子だった関係もあって、その長男孜の名付け親となり、その縁で『安倍次郎選集』全6巻が出され、予約だけで16万部を超える
角川からも、創業者の源義が仙台まで足繁く通った結果、次郎を動かして続々と刊行
『三太郎の日記』のリバイバルブームは、戦後の読書ブームの中で起きる。教育爆発で高等教育進学率が上昇、読書人口が急増
旧制高校や帝大を卒業した教養既修世代である唐木順三、古在由重、亀井勝一郎らは、「大正の教養派、「大正的教養人」を批判、野性的な反逆心を欠き、徹する信仰も理想もない、聡明ではあっても「実生活を犠牲にしようと苦闘した時の傷痕といったものは遂にみられない」、微温、保身だとする。大正教養派の言う教養とは、社会的関心を封印し、自己の内面に集中しようとする「小市民の自己優越と自己逃避」だと断定

第14章       三女の執念
次郎の3女・大平千枝子は和子の7歳下で42年東北帝大法文学部を卒業、童話の著作などあるが、66年に照が「事件」の真相を書いた後、『文藝春秋』から寄稿を依頼され書いたのが『父・阿部次郎と和辻哲郎と一人の女』で、半年後に掲載したが、直接父から何も聞いていないので反論のしようもないまま、「2人だけの会話を公表することのモラルについて疑念を持つ」とだけ書いたために、かえって事件を世間に拡散させる結果の終わるどころか、直後に照の連載が『和辻哲郎とともに』として単行本化され、千枝子の寄稿がその販売促進にさえなってしまった気配さえあった
04年刊行の『阿部次郎とその家族』で千枝子は、ジャーナリスティックな刺激的な題名を拒否しなかったのは偏に世間知らずの幼稚な自分の怠慢だったとする一方、照の暴露記事には、「次郎の妻・恒が、お願いだから次郎を返してくれという手紙をよこした」とまであったので、父の無念だけでなく、母の無念も雪ぎたいと筆を執ったのに、話を蒸し返し事件を世間に広めてしまうことになってしまったと書いている
事件後6年も経った33年になっても、当時スター・ジャーナリスト大宅壮一さえ知らなかったところから、事件が知られていたのはあくまで学者知識人界というムラの一部に限られていた ⇒ 大宅が『人物評論』に『遊蕩人格4兄弟』として、次郎、能成、小宮、和辻を取り上げ仮面を剥ぐとして、スキャンダラスに書いているが、事件への言及はない
焼却されていたと思っていたはずの和辻夫妻からの次郎宛の書簡100余通が自宅の思わぬところから出てきて、千枝子はそれをもとに04年『阿部次郎とその家族』に『出逢いと別れ――和辻哲郎夫妻との交流』を書き、照からの手紙に、「次郎の結婚を嫌だと言い、久しぶりで一緒に歩くのが楽しみでたまらない」とあるのを見つけ、次郎の一方的な照への愛ではなく2人の関係が兄妹愛以上のものを醸し出していたことを跡付けする言葉として引用
他にも、照は「自らの罪に泣く」と書き、和辻も「照が、私に済まないと思う種類の愛が宿っていることを認めた」と次郎に認め、次郎はそれを受けて照に「哲郎の心を煩わすことを恐れる。哲郎を苦しめないよう、お互い無邪気な心持を保とう」と宥め、諫めている
真相は不明だが、次郎も照も双方自ら知られざる「媚諛(コケテリー)」を行使していくことで事態は昂進し、あの結末を迎えたのではないか。「愛の遊戯形式」である媚諛を飼いならすには、次郎はあまりにも真面目で不器用だったと言える。照の暴露記事の最後には、「どうぞ許してください。浅はかな私があんなことをあなたに言わせてしまった。どうぞ堪忍してください」と書き添えられている
能成の追悼文については、遺族が事実に反すると憤慨 ⇒ 41年学部長を半年余りで辞任(任期2)した理由を、後日本人が弟子に修業年限の6か月短縮案が出た際、橋田文部大臣に反対の意見書を出したのに却下された手前、辞職せざるを得なくなったのだと話している。その直後に病で倒れたので、病気のための辞職でもないことを、千枝子が『安倍次郎全集』に『1つの訂正』として披露している。父は決して「親分にされれば平気で親分になっていられる人」ではなかったと書き添えたのは、戦後次々と要職を歴任した能成へのいささかの当てつけが入っているかもしれない

終章 次郎の面目
照との事件について、照の同級生の西郷春子(三渓園の娘)に和辻夫妻が話し、春子から次郎宛に非難の手紙を寄こしたことに対する次郎の返事と思われるが投函されなかった書簡を千枝子が発見、そこには「2人で哲郎の心を痛めることはしないと誓って断崖の上で踏留まったのに、最後になって次郎から誘惑されたと哲郎に言ったとは、照を信じられない。哲郎のために責められるのは当然だが、照のために責めるのは取り消してください。この弁解を最後に貴方がたの前を隠れましょう。照を真っ直ぐな人にしてあげてください」と書き残している
30年に和辻夫妻が小宮に「阿部のこと」として手紙を書き、読後京城の能成に転送してくれと依頼している記録が松山市に安倍能成関係史料として保管されているが、封筒のみで中身の詳細は不明
春子への手紙も「あなただけですぐに焼却してくれ」とあり、事件を知って小宮から聞かれても何も話をしている節はない。事件を知っていそうな周囲の者にも一切弁解や憤懣をまき散らすようなことをしなかったところに次郎の面目がある
次郎の『讒謗(ざんぼう)』は34年に書かれたものだが、「自ら弁解して廻る者を私は卑しいと評価する」とあるのはこの事件が念頭にあると推測。「讒謗は、真に彼に属する者としからざる者とを鑑別すべき機会を与える」と続く
「あとの雁が先になる」とは、社会的地位や業績で後輩が先輩を追い越していくこと。先輩のほうが、後輩が仰ぎ見るほどの存在でありながら、時間の経過とともに先輩のほうが忘れ去られ、指導や助言を受けた後輩が遥か高い頂に輝くことになる。人生行路の逆転劇はよくあることだが、先輩の振る舞い方には人となりが現れる。落ち目な時ほどその人間の品格が問われる。次郎と和辻、能成の関係がまさにその例
和辻については次郎もあとの雁が先になったと思えただろうが、能成の場合はほとんど見るべき学問的業績がなかったところから次郎の評価は低かったはず ⇒ 能成の大臣就任の日の日記には「ご苦労の一言につく。前田よりは気骨あらむ。頼むぞ」との暖かい言葉が残る。能成の毒舌はもともとで、次郎の追悼文に限ったことではなかった
次郎は、文壇や論壇では過去の人になったが、孜々(しし)として研究を続け、東北帝大教授として後進の教育に情熱を注ぎ、放火犯とされて無名の庶民の冤罪を晴らすために特別弁護人として奔走、晩年は私財を抛って阿部日本文化研究所の設立にこぎつけている
戦後滿洲から引き揚げてきた甥の襄が自宅を生物研究所にして生物学者として生きようとするのを見て、「あらゆる境遇の下に生甲斐を発見し得る能力――これは彼の長所にして我等阿部一家の等しく所持するところ、少しは誇りとしてもよさそうなり」と自負している
高貴なる落魄だが、それに負けぬ不敗の精神を思い起こさせるもの
戦後の次郎は、健康状態が悪化、52年白内障手術が思わしくなく、手紙も口述筆記となるが、それも終わる
53年、自分がさらに深めることがかなわなかった日本文化研究を更新に託す阿部日本文化研究所の建設着工。東北大キャンパス横で現在の阿部次郎記念館。総工費300万の一部は角川源義が寄付、維持費は次郎の印税半分を充当。翌年の開所式は次郎の古希の祝いを兼ねて天野貞祐、安倍能成らが出席
58年東北大附属病院に入院し、翌年死去。死の直前仙台市名誉市民となり市葬
和辻はテレビで次郎の死を知り、「今なら決してあんなに怒りはしなかった」と、深い悲しみを込めて言ったといい、それを伝え聞いた恒は「生前聞かせてやりたかった」と涙ぐむ
哲郎は翌年、翌々年には小宮、能成と相次いで逝去
『三太郎の日記』に始まる大正教養主義は、唐木順三によって様々な花(古典)から蜜を集め、あれもこれも貯めこむ式の教養であり、行為と鍛錬を欠いた観照的教養であると批判され、その顛末が岩波文庫を何冊読んだかを自慢したり、そんなことも知らないのかという多知多趣味を「ひけらかす」教養のイメージを作り、教養主義となって批判の対象となる
しかしその成り立ちを探ると、次郎は漢籍に親しみ、『南洲遺訓』を愛読、知徳に優れた「聖人になりたい」と思うと同時に、「聖人志望の随伴者」として西洋哲学を修めようとしたことを思えば、次郎が教養という言葉よりも修養や修行を使ったことが分かる。次郎が強調したのは聖人への道を示唆する人格主義であり、教養とは人格を鍛えることで、自らを省みることで力を内に貯め、それによって他日の出力を大きくするもの
儒学研究の泰斗加地伸行が『論語』の「小人」(つまらないひと)を「知識人」、「君子」(学徳のある立派な人)を「教養人」と名訳したが、奇しくも近年いわれる「近代型能力」と「ポスト近代型能力」にそれぞれが重なる。「ポスト近代型能力」とは、知識の習得と操作が意欲や創造性、交渉力などと繋がったもの。現代の教育における課題であるポスト近代型能力を考える際に、次郎たちの大正教養派の営みが意外な手掛かりを与えてくれるのではないか



教養派知識人の運命 竹内洋著 「ポスト近代」先駆けた生き方
2018/10/27 6:00 日本経済新聞
思想の歴史を描く際の技法に「評価の反転」がある。丸山眞男のようなヒーローについては、むしろその地位を相対化し、蓑田胸喜らのヴィラン(悪役)には、一定の同時代的な意義を認めたほうが深みが出る。竹内洋氏による戦後論壇史や戦前の日本主義の研究は、まさにその精華であった。
(筑摩書房・2000円)
その氏が今回取りあげるのは、大正教養主義の代表とされる阿部次郎。1914年に『三太郎の日記』を学生の必読書と呼ばれるベストセラーにするも、その後はさして活躍もなく、敗戦後は「舶来の概念を衒学的(げんがくてき)にもてあそぶ、底の浅い日本のインテリ」の典型のように言われてきた人物だ。
そうした通説に対して、阿部の著作の意外な現代性が解明されるのか。それとも阿部やパトロンの岩波書店のような、高踏的な知識階層の限界が暴かれるのか。じつは予想外の展開が待ち受ける。
『日記』のヒット後、阿部は東北帝国大学教授となるも、研究業績では和辻哲郎、立身出世では(戦後に文相を務めた)安倍能成という学友に追い抜かれた。特に和辻とは、その妻によせる阿部自身の慕情のために、中途から絶縁状態となっている。それにもかかわらず、旧友を妬むことなく内心エールを送り続けた晩年の生きざまが、本書の阿部評価の中心なのだ。
阿部らの文芸趣味が台頭する以前、明治半ばの学生文化の主流は儒教道徳と武道の折衷からなる運動部だった。その背景を持ち、自身の生き方・人格の修養に重きを置く阿部の教養主義は、単なる知識の披瀝に留まらなかったと著者は総括し、本人の人間性と一体になった教養は「ポスト近代型能力」の先駆だとも示唆する。
しかし近代的な学問の権威が凋落し、実践に基づく人生訓や聖者伝が求められるさまは、書店に積み上がる自己啓発本の山や、成功者のライフヒストリーを流布するTV番組やSNSでこそ顕著であろう。阿部を「現実を知らない学者」と蔑んだ戦時下の学徒が、戦後に大学教授となり全共闘から同じ罵声を浴びたように、近代という時代も最後には、前近代の掌上の猿だったと悟るのだろうか。
明治から戦後に至る文化資本の変遷を解明し続けた泰斗による、この国に根づかなかった「近代知」への静謐な挽歌である。
《評》歴史学者 與那覇 潤


(耕論)「身の丈」発言 松岡亮二さん、竹内洋さん、斎藤孝さん
2019116 500分 朝日
 近代日本の建前が崩れた 竹内洋さん(関西大学東京センター長)
 明治以降の日本には、誰でも試験でいい点を取れば立身出世できるという「ジャパニーズ・ドリーム」がありました。受験が「身の丈」に左右されないという建前が重視されており、萩生田文科相の発言は、その近代日本の伝統に反するものといえます。
 かつての学習院は上流階級の子弟中心でしたが、中等科を卒業して高校を受験しても、合格率は高くありませんでした。華族の子であっても、優遇されることはなかったわけです。
 それが大正から昭和に入ると裕福な家庭の方が受験に有利という傾向が顕著になります。家庭に本が多い、親が勉強を教えるといったことが子の学力につながるので、必然的にそうなる。明治維新で生まれた機会の均等という建前が徐々に崩れていきました。
 しかし、敗戦で誰もが貧乏になったことで、またリセットが起きます。戦後しばらくの間は、難関大学でも貧しい家庭出身の学生が多くいました。明治維新や敗戦という「ガラガラポン」があったことで、機会の平等が担保されたという側面があるんです。
 明治維新から敗戦までが77年、敗戦から今年で74年ですから、経済的理由で教育格差が広がってきているのは、ある意味、必然ともいえます。
 さらに大きいのは、中央と地方の格差です。旧制高校は一高が東京、二高が仙台、三高が京都、四高が金沢、五高が熊本と各地に分散してつくられました。近代の日本には全国で優秀な人材を育成するという理念がありました。戦後も各都道府県に国立大学が置かれ、広く人材を育てる伝統は受け継がれました。
 しかし今はそれが崩れ、東京と地方では「身の丈」が違う社会になってしまいました。
 右肩上がりの時代は、格差があっても、努力すれば追い越せるという希望が持てました。しかし低成長の時代になるとそれが難しくなる。格差解消の手段として、米国のように、経済的に恵まれない学生らを優遇するアファーマティブ・アクションが言われつつありますが、萩生田文科相の発言はそうした現代の潮流にも逆行しています。
 一方で、格差を容認するような空気も生まれています。昔は、苦学して東大を出て、官庁や大企業に就職すると、裕福な家庭出身の人より高い評価を受けました。いわば「後払いされるアファーマティブ・アクション」です。親が偉いと「七光り」といわれて苦労するくらいでしたが、今は「サラブレッド」として評価されたりします。
 受験で競い合うことで、国が良くなっていく時代は終わりました。でも、その次が見えてこない。萩生田発言を契機に、今後の教育のあり方を議論すべきだと思います。
 (聞き手 シニアエディター・尾沢智史)
    *
 たけうちよう 1942年生まれ。専門は教育社会学。著書に「立志・苦学・出世 受験生の社会史」「教養派知識人の運命」。


Wikipedia
阿部 次郎(あべ じろう、1883明治16年)827 - 1959昭和34年)1020)は、哲学者美学者、作家仙台市名誉市民
l  生涯[編集]
1883年、山形県飽海郡上郷町(後の松山町、現・酒田市大字山寺に生まれる。父は教師。8人兄弟の次男。8人兄弟のうち、阿部余四男(動物学者、広島大学教授)、竹岡勝也(日本史学者、九州帝国大学教授)、阿部六郎(ドイツ文学者、旧制成城高校東京藝術大学教授)と、次郎を含む4人が大学の教師となる。
荘内中学(現・山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現・山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキを起こして退学。その後、上京して京北中学校へ編入。
1901(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫岩波茂雄荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907(明治40年)、東京帝国大学に入学し、ラファエル・フォン・ケーベル博士を師と仰ぐ。卒業論文「スピノーザの本体論」で哲学科を卒業。夏目漱石に師事していたこともあり、森田草平小宮豊隆和辻哲郎と親交を深めた。
1914大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった[1](大正教養主義を主導)。1917(大正6年)に一高の同級生であった岩波茂が雑誌『思潮』(現在の『思想』)を創刊。その主幹となる。
慶應義塾日本女子大学校の講師を経て1922(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く(人格主義を主張)。
帰国後の1923(大正12年)東北帝国大学に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間美学講座を担当。1941(昭和16年)、法文学部長を務める。1945(昭和20年)、定年退官。1947(昭和22年)、帝国学士院会員となる。1954(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所を設立して理事長兼所長を務める。
大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』で、歌舞伎浮世絵といった徳川時代芸術に、人を明るくさせる、高める性質がないとし、それは抑圧された町人たちの文化だからだと説いた。また遊里の文化的生産性を認めつつ、それが女奴隷が女王であるという矛盾を抱えていることも明らかにした。
哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斎藤茂吉土門拳との交流は有名。第二次世界大戦後は角川源義と親しみ、ために『三太郎の日記』ほかの著作は角川書店から文庫版などで刊行され、没後、全17巻の全集が角川書店から刊行された。
1958(昭和33年)、脳軟化症のため入院。1959年、仙台市名誉市民の称号を贈られる。同年1020日、東北大学医学部附属病院にて死去[2]戒名は老心院殿仁道次朗居士[3]。現在、酒田市(旧・松山)の生家は阿部記念館となっており、東北大学には阿部次郎記念館がある。
l  記念賞[編集]
阿部次郎文化賞(酒田市)[編集]
旧・松山町では阿部次郎文化賞を設けていたが、2005年に酒田市と合併したことで、現在は酒田市は引き継ぎ、2008年には長谷川公一東北大学教授が受賞するなど、合計17の個人と3つの団体に授与されている。
阿部次郎記念賞(東北大学文学部)[編集]
東北大学創立100周年を機に2008年に創設。全国の高校生からエッセーを募集し、顕彰している。
l  主な著作[編集]
1911(明治44年)『影と聲』(森田草平小宮豊隆安倍能成と共著)
1912(明治45/大正元年)『痴人とその二つの影』
1914(大正3年)『三太郎の日記』(岩波書店)、のち角川文庫・角川選書
1915(大正4年)『三太郎の日記 第弐』
1916(大正5年)『倫理学の根本問題』(岩波書店)
1917(大正6年)『美学 哲学叢書』(岩波書店)
1919(大正8年)『ニイチェツアラツストラ解釈並びに批評』(新潮社)
1922(大正11年)『人格主義』『地獄の征服』(岩波書店)、『北郊雑記』(改造社)、『学芸論鈔』(下出書店)
1931(昭和6年)『徳川時代の藝術と社会』(改造社)、のち角川選書
1933(昭和8年)『游欧雑記 独逸の巻』(改造社)
1934(昭和9年)『世界文化と日本文化』(岩波書店) 
1937(昭和12年)『秋窓記』(岩波書店) 
1938(昭和13年)『日本の文化的責任』(教学局) 
1945(昭和20年)『万葉時代の社会と思想』(生活社)、『万葉人の生活』(生活社) 
1949(昭和24年)『残照』(羽田書店)
1949(昭和24年)阿部次郎選集 1-6(羽田書店)
1950(昭和25年)『勤労』(労働文化社)
1953(昭和28年)『点描日本文化』(角川書店)
1960(昭和35年)-1966(昭和41年)阿部次郎全集 17巻(角川書店)
l  脚注[編集]
1.      ^ 【時代の証言者】中西進(14)学友3人「源氏」読破『読売新聞』朝刊2019114日掲載によると、出隆『哲学以前』、西田幾多郎善の研究』と並ぶ旧制高校生の必読書であったという。
3.      ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版1997年)9
l  参考文献[]
大平千枝子『父阿部次郎 愛と死』角川書店、1961日本エッセイストクラブ賞受賞
新版『父阿部次郎』東北大学出版会1999
末永航「一人旅の視線――阿部次郎」-『イタリア、旅する心-大正教養世代のみた都市と文化』青弓社2005年、ISBN 978-4-7872-7196-9
l  評伝[編集]
大平千枝子『阿部次郎とその家族 愛はかなしみを超えて』 東北大学出版会、2004 - 続編
『阿部次郎をめぐる手紙』 翰林書房「日本女子大学叢書」、2010
新関岳雄『影と声 ある阿部次郎伝』 深夜叢書社、1985
竹内洋『教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代』 筑摩書房「筑摩選書」、2018


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