逆転の大戦争史 不戦条約はどう使われたか  Oona A. Hathaway/Scott J. Shapiro  2019.3.8.


2019.3.8.  逆転の大戦争史 不戦条約はどう使われたか
The Internationalists How A Radical Plan to Outlaw War Remade the World 2018

著者
Oona A. Hathaway イェール大法学部教授。専門は国際法。米国国務省の国際法に関する諮問委員会の法律顧問。1415年イェール大を休職し、国防総省の国家安全保障法の委員会の特別顧問。17世紀から今日までの戦争の性質の変遷を綴る本書の執筆に、同僚のシャピーロと共に5年を費やした
Scott J. Shapiro イェール大法学部教授。専門は法と哲学。

解説 船橋洋一 現代日本が抱える様々な問題をグローバルな文脈の中で分析し提言を続けるシンクタンク財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブの理事長。現代史の現場を鳥瞰する視点で描く数々のノンフィクションをものにしているジャーナリストでもある。『カウントダウン メルトダウン』で13年大宅壮一ノンフィクション賞

訳者 野中香方子(きょうこ) 翻訳家。お茶大文教育学部卒。訳書『隷属なき道』(ルトガーブレグマン、ビジネス書大賞2018年準大賞受賞)

発行日           2018.10.10. 第1
発行所           文藝春秋

ペリーによって砲艦外交の屈辱を嘗めた日本は西周が「侵略は善」たる「旧世界秩序」を学ぶ
朝鮮を併合した日本にしかし、満州国は認められなかった
1928年に世界は大きく変わっていたのだった
「旧世界秩序」。戦争は合法。政治の一手段。戦争であれば、領土の略奪、殺人、凌辱も罪に問われない。しかし、経済封鎖は違法
「新世界秩序」。戦争は非合法。侵略は認められない。経済封鎖と「仲間外れ」によって無法者の国を抑止する。
が、どんな失敗国家も侵略されず内戦の時代に
「パリ不戦条約」という忘れられた国際条約から鮮やかに世界史の分水嶺が浮かび上がってくる


序章 1928年という分岐点
パリ不戦条約の重要性は明らかに過小評価されている。これ以降、戦争は違法とされた。1928年を起点として中世から今日までの世界史を見ると、鮮やかに世界秩序の分岐が見て取れる
28.8.27. パリにて戦争放棄に関する一般協定(ケロッグ=ブリアン条約)の調印 ⇒ 戦争が違法だと宣言したが、その後大方の歴史家は無視
63か国によって批准されたが、3年後には日本が中国に攻め入り、その4年後にはイタリアがエチオピアに侵攻、更に4年後にはドイツがポーランドとヨーロッパの大部分に侵攻、その時点で条約署名国のうちアイルランドを除きすべて戦争状態にあった
不戦条約は世界平和をもたらさなかったが、人類史上画期的な出来事の1つには間違いなく、世界を以前より遥かに平和にした。国と国の戦争をなくすことはできなかったが、戦争のない世界の幕開けを記し、この条約により世界の秩序は新たなものに置き換えられた
パワー・ポリティックスの世界で戦争を違法とするなどナンセンスといわれるが、文明国にとって戦争が逸脱ではなく、洗練された政治の手段だった時代から、国策としての戦争を放棄することで国家間戦争を終わらせようとしたこの条約は間違いなく変化の始まり
不戦条約は、その後の世界大戦、国際連盟の崩壊、国際連合の設立という20年に及ぶ葛藤を経て、新しい世界秩序が打ち立てられていった
旧世界秩序とは、ヨーロッパ諸国が17世紀に採用し、以来3世紀にわたって他の国に押し付けてきた法的秩序 ⇒ 戦争は不正を正す合法的な手段であり、「力は正義」。中立国が交戦国のいずれかに経済封鎖を科すことは違法
不戦条約がうまく機能しなかったのは、武力で不正を正すことを許した既存のシステムを覆したが、それに代わる新たな秩序を築くことが出来なかったこと。国際連盟が存在し、紛争解決を担うと期待されたが、連盟が不正を正しルールを遵守させる手段としたのは戦争と戦争の脅威であり、各国が行使を躊躇う武力を土台としていた。そのため、日本が満州を侵攻した時、国際連盟は麻痺状態に陥り、なす術もなかった
新世界秩序が視界に入ってきたのは、第2次大戦終了後。旧秩序のすべてが逆転し、侵略戦争は違法とされ、砲艦外交も非合法、経済制裁が標準的な手段として国際法の順守が後押しされる
2014年ロシアがクリミアを併合、重大な領土強奪だが、その規模のものとしてはこの数十年で初めて起きた侵略
明らかに不戦条約を境として国と国の関係が変わり始めた ⇒ ある主権国家が他の主権国家を動かすには、双方に利益をもたらす協力を申し出るしかなく、新たな通商協力関係が生まれた。国連条約集には何十万もの国際協定が記され、最小の国でさえ、戦争ではなく相互協力を通して世界のほぼすべての国と接触できるようになった
国家間戦争と領土侵犯が急速に減る一方で、新秩序は失敗国家と国内紛争の増大に繋がる
近代の国際秩序は、1648年のウェストファリア条約によって築かれた体制とされるが、同条約の目的は、ヨーロッパ諸国に主権国家の原則を課すことではなく、神聖ローマ帝国に再び秩序をもたらし、それによってドイツにおけるカソリックとプロテスタントの宗教的・政治的紛争に決着をつけようとしただけの遥かに視野の狭い条約
本書では、更に40年先立つオランダの哲学者グロティウス(15831645)の業績に注目する ⇒ 国際法の父と見做され、過去何世紀もの間に西洋の文化と政治に見られた慣例と思想を述べ、国家には自らの法的権利を行使するために他国と戦争する権利があるという概念を明確に説明。本書はそこから、国際システムの特徴を、武力紛争の扱い方で決めるとしている
戦争はいかなる場合に合法となるのか、という最も重要な問いに応えようとした ⇒ 過去数世紀においてその問いの答えが変わった重大な瞬間に焦点を当て、その変化を2つのグループの行いと生き方を通して追跡する
1のグループは「干渉主義者」 ⇒ グロティウスが主導した思想で、権利を行使するための合法的手段として戦争を位置づける。西周(182997)はグロティウスに従って西洋流の国際法を理解しようとした。ドイツではカール・シュミット(18881985)が戦争違法化がもたらす変革を予想し、第3帝国の最も権威ある法学者の1人として尽力。エジプトではサイイド・クトゥブ(190666)が自国における西洋主義と非宗教主義の高まりにうんざりして過激なイスラム思想を政治的な思想へと変貌させ、現在のイスラム国への道筋を開いた
2のグループは「国際主義者」 ⇒ 紛争解決の手段として戦争は野蛮であり、最善の方法は国際機関を介すことと主張。サーモン・O・レヴィンソン(18651941)とジェームズ・トムソン・ショットウェル(18741965)、ハーシュ・ローターパクト(18971960)
本書の軸となるテーマは、思想こそが重要、更には、思想を持つ人間こそが重要ということ ⇒ 戦争を巡る思想の歴史と、そのような思想が世界に根付くまでの歴史を綴ったものであり、思想がどのようにして生まれ、ぶつかり、進化していくかについての物語であるとともに、思想が人間の繫がりを再構築しようとする機構にどのように組み込まれ、その過程で世界をいかに作り変えてきたかという物語
同時に、まだ全ては語られていない物語に於ける、私たち世代の立ち位置を考察したものでもある ⇒ かつてないほどの平和で国々が強調する時代となったが、過去の教訓を忘れたら再び変更される。不戦条約締結に終結した各国の大使が終わらせようとした世界を厳しい目で見直してほしいし、この条約が苦労の末に実現させた世界についても、更には、未来の世代のために私たちがその世界を維持し、より良い世界にするにはどうすればよいかについても思いを巡らせてほしい

第1部        旧世界秩序
第1章        戦争を合法化したオランダ人弁護士
戦争を合法とする理論は、17世紀のオランダ東インド会社の社員の略奪行為を正当化するために、オランダの弁護士が考えた。本国の主権が及ばない範囲の戦闘行為は合法とした
1603年シンガポールでオランダの東インド会社所属の船団がポルトガルのサンタ・カタリナ号を拿捕、帰国して海事裁判所に正当な所有者としての処分を認めさせ、莫大な利益を得たが、株主から海賊行為への批判が高まったのを鎮めるためにグロティウスに頼る
グロティウスは、戦争を巡る法的根拠を見直し、一から築き直した ⇒ 武装した敵対者に対する武装行為の遂行は「戦争」と呼んでいい。戦争は権利の行使としてなされた場合は「公正」と見做され、侵害するために行われた場合は「不正」と見做される
西洋に長く根付く「正戦論」という道徳思想を利用 ⇒ キケロ、聖アウグスティヌス、トマス・アクイナスに共通、戦争を道徳的に正当な行為と見做し、戦争の基本的機能を平和的解決という選択肢がない場合に威嚇や不正行為に対抗する手段とした
グロティウスは正戦論を更に進めて、戦争の機能は不正を正すことゆえ、正義のための戦争で強奪した財産は、強奪者の所有物になるとした。戦争の権利を持つのは国家だけでなく個人も持つが、国の司法権が及ぶ範囲では国民が私戦権を国に引き渡したので侵害を受けた場合は国に助けを求めなければならない。国の司法権の及ばない場所では私戦権が復活するとしたが、盗人は法的な所有権を移転できないとしたローマ法の基本法が支配した17世紀のヨーロッパでは、全てのものの所有権が正当なものかどうかを確定することは不可能であり、世界的に拡大しつつある交易に甚大な影響を及ぼしかねず、私戦権の理論は立ち消えになった
グロティウスの功績は、商人とそのスポンサーたる祖国にとって有益な、戦争への体系的アプローチを発展させたことに留まらず、より重要なのは、戦争に確固たる道徳的基盤を与えたこと ⇒ 戦争の道徳的権利と法的権利は、いずれも個人の自然権に起因。国民から委ねられた道徳的権利を奉じて戦われるときにのみ、正義の戦争となる

第2章        450の宣戦布告文書を分析する
戦争を起こすには常に正当な理由が必要とされてきた
米墨戦争は、君主がどのように武力紛争へ突入するかを示す好例 ⇒ 1821年メキシコがスペインから独立した時に遡り、政情不安の国でビジネスをしていたアメリカ人が被った損害を都度賠償請求し、不払いの代償として領土割譲を迫るとともに他の領土の購入を提案、いずれもメキシコ政府が拒否し、偵察に派遣した米軍部隊をメキシコ軍が攻撃したことに対し、アメリカ政府が宣戦を布告
戦争のルールは、2000年以上も遡る長い伝統がある ⇒ 共和制ローマの時代、聖職者が攻撃を仕掛ける相手国の国境で「賠償請求」の告知を行い、相手側が33日間無視すれば、元老院は戦争を許可できた
宣戦布告War Manifestは、その戦争が正当である法的根拠を広く「布告」するもので、説得力が求められた ⇒ 自衛のため(69%)、条約上の義務不履行(47%)、不法行為に基づく損害賠償(42)、戦争法や国際法違反(35%)、パワーバランスの崩壊阻止(33%)など
マニフェストを読むときの古い諺 ⇒ 法が自分の見方をしているときは法を叩け(主張せよ、の意)、事実が見方をしているときは事実を叩け、どちらも味方でないときはテーブルを叩け
マニフェストの目的は、不正に対する正しい行動として、自らの行動を弁護するところにあり、戦争を始めるにはそれなりの理由が必要で、戦争は正義の名のもとになされる必要があった

第3章        殺しのパスポートをいかに得たか
なぜ戦時では殺人も合法となるのか? 米騎兵隊員を虐殺したスー族の男が無罪となるまでを見ながらその論理の起源を考える
1890年サウスダコタ州パインリッジ居留区のウンデット・ニー川で武装解除にやってきた騎兵隊とスー族が衝突、スー族が大量虐殺される事件が発生した直後、騎兵隊員をスー族の若者がライフルで射殺したため、捕らえられて裁判にかけられたが、スー族の若者はまだアメリカと戦争状態にあると考え、騎兵隊も大量虐殺を戦闘中の行為として認めさせるために、戦争状態にあることを認めざるを得ず、殺人も戦争中の行為として無罪に
グロティウスの答えも、征服や戦利品獲得の権利について、戦争法は不正な侵略者を保護する、何故なら正しい者を守るにはそうするしかないからというものだった
旧世界秩序にも戦争のルールはあったが、それは戦争を禁じるものではなく、戦争を正しく遂行するためのもの ⇒ 適切な宣戦布告は第1の法的義務であり、戦闘に関する特別なルールを忠実に守ることが第2の義務で、それを犯した者は刑事責任を問われた
グロティウスは3種類の戦争犯罪を認める ⇒ 毒物の使用、裏切りによる暗殺、強姦の3つで、捕虜の奴隷化や拷問などを認めているのは驚き

第4章        経済制裁は違法だった
米国に赴任したフランスの大使が私掠船を仕立てて英国船を拿捕。仏英は戦闘状態にあったが、米国領土内でこうした行為を許すと、米国は中立を放棄したと見做される
外交官とは、2度熟慮した末に何も言わない人(元英国首相ヒースの言葉)
1793年米国に赴任した仏大使ジュネは、ヨーロッパでの四面楚歌の中で、かつて独立の際支援したアメリカに支援を求めようとしたが、アメリカにその余裕がないどころか、英国と対決すれば多くの同盟国を敵に回し、財政的・軍事的自殺行為となるのは目に見えていたため、ジュネは信任状をアメリカ政府に捧呈する前から勝手に私掠免許状をばらまき、英艦船を拿捕したため、英国は米政府に抗議、狂信的なフランス贔屓だった国務長官のジェファソンですらジュネの行為を違法として非難させた
旧世界秩序では公平性の義務が重要視 ⇒ 政治家はどちらかの支援者(パルチザン)のように見られることさえ警戒する。ジュネが望んだアメリカの助力は、アメリカにとっては軍事的に報復されても仕方のない交戦行為とみなされるので、ありえないことを望んだことになる
旧世界秩序は戦時の中立性を認め、国家に中立の選択肢を認めるとともに、価値ある権利を数多くもたらした ⇒ 他国と共に戦うことを強制されず、領土は不可侵、交戦国とビジネスを行う権利が認められたので、戦争による経済的混乱は最小限に留められたが、権利を認められる一方で責任が伴い、厳密な公平さが求められ、戦争状態にある国々を区別することが禁じられ、紛争状態にある国の一方からの要求を拒絶しなければならない

第2部        移行期
第5章        戦争はこうして違法化された
パリ不戦条約の起源は、シカゴの企業弁護士が戦争自体を違法化することを思いつき、アメリカ大統領が多国間協定として提案に結び付けた
1次大戦でウィルソン米大統領は中立を保とうとしたが、ドイツ潜水艦による無差別攻撃と、ドイツがメキシコに対しアメリカに奪われた領土の奪還をけしかけていたことが判明したため、「あらゆる戦争を終わらせるための戦争」になると約束して参戦を決断
国際連盟の限界 ⇒ 連盟は必要とあらば戦争という手段に訴えてでも強制することとした旧秩序に従ったもの
シカゴの企業弁護士レヴィンソンが、あらゆる戦争を終わらせる唯一の現実的な方法は「戦争の違法化」だとするアイディアを提供、他国の内部紛争に引き込まれる恐れのある生煮えの国際連盟規約に失望した州上院議員の目に留まり、外交委員長も巻き込んで全米に活動を広げ、仏外相ブリアンが賛同、アメリカのケロッグ国務長官に呼び掛ける形で2国間の不戦条約構想へと発展、更に戦争違法化への多国間協議の提案に拡大
失意のウィルソンは議会が否決した直後に脳梗塞を患い、3年後には死去
フランスの狙いは2国間の同盟関係にあり、一方でアメリカはヨーロッパ諸国の関係に巻き込まれることを回避したかったため、多国間協議として特定国とのつながりを回避した結果、レヴィンソンが当初構想した通りの方向に向かうが、強制力がない条約には価値がないとする批判に対しては、ある国が条約を破った場合他の加盟国は条約から解放され、自らがその交戦国に相応しいと思う行動をとることが出来るというもので、締約国に特定の対応を求めないことであり、戦争に訴えてくる国に対しては戦争をしないという義務から解放されることを意味する
1928年パリに15か国の代表が集まり、戦争放棄の条約に署名、米上院も翌年批准
翌年ケロッグは、先に候補に挙がっていたレヴィンソンを退けてノーベル平和賞受賞
数年のうちに世界のほぼすべての国が条約を批准

第6章        日本は旧世界秩序を学んだ
ペリーの砲艦外交で日本は旧秩序を苦渋の中に学び、それを朝鮮併合に利用。更に日清・日露戦争とその旧秩序を利用しながら大陸に進出し、パリ不戦条約の精神を揺さぶる
1931年奉天における日中衝突(柳条湖事件→満州事変の発端)が不戦条約と国際連盟規約にとって「最初の大きな試練」
1852年ペリーによる砲艦外交によって、日本は初めて旧世界秩序と接触
江戸の町の政治的混乱から、西洋の学問の習得を必須と考えた西周は脱藩してオランダ語の学習から始め、蕃所調書の同僚津田真道と共にオランダに留学、グロティウスの研究者から国際法を学ぶ
帰国後幕府の外交政策の構築に貢献、明治維新後もそのまま権力の中枢に留まり、陸海軍の重要な法規のほぼすべての考案を助ける
1871年西は明治天皇の家庭教師となり、西洋史と哲学を教え、直に天皇は初の対外戦争へと日本を導く
日本にとって朝鮮が脅威となったのは、その弱さ故で、西洋諸国にとっては格好の獲物であり、心臓に突き付けられた短剣だったが、それだけでは攻撃が出来ないため、江華島に測量と称して軍艦を派遣、水や薪を求めて朝鮮の港に入ったため、地元民からの反発にあい、日本はこの攻撃を正当な法的根拠として朝鮮に挑みかかった
1894年農民戦争の脅威に晒された朝鮮が中国に支援を求め、中国が朝鮮に派兵したのを契機に、日本は天津条約違反を名目に中国に宣戦布告、たちまちのうちに朝鮮を占領、更に遼東半島まで割譲させる
三国干渉は、旧秩序に基づく列強の圧力であり、日本も屈せざるを得ず、軍事力の支えのない外交は無力であることを学んだ日本は軍備に邁進、次のロシアとの戦争に勝った日本は、遼東半島の領有とロシアが作った満州鉄道網を獲得
1931年満州事変に際し国連から派遣されたリットン調査団は、日本の軍事行動を正当防衛とは認めず、満州国も自発的な独立運動によって生まれたとは言えないと結論付け、国際連盟は日本を除く満場一致で中国に味方したため、日本は連盟を脱退

第7章        満州事変は新世界秩序の最初の試金石だった
不戦条約に署名しながら日本は満州国を「立国」したため、新秩序を奉ずる国々は日本に対する石油の禁輸措置などの経済制裁で応じた
「羅生門効果」 ⇒ 心理学用語で、同じ事実でも見る人によって解釈が異なり、矛盾しやすいこと。レイプかもしれない性的体験と、殺人かもしれない侍の死が、44様に語られ、映画を最後まで見てもどれが正しいのかはわからないまま
日本の不戦条約署名も同じこと
西欧列強による「過去」の征服は擁護されても、「未来」の征服は擁護されない ⇒ 日本では、旧秩序のルールを習得し、自国に有利になる様に使い始めた途端、そのルールが変更されたことへの不満が爆発
不戦条約の批准は、国際連盟にとって深刻な問題をもたらす ⇒ 国連と戦争違法化は、加盟国に矛盾する法的義務を課したため、連盟規約の修正が議論されたが、紛争解決の別の手段を合意できないまま漂流、当座は軍縮条約の採択という形で、国家から戦う力を削ごうとしたが、33年にはナチス・ドイツも脱退し、連盟の麻痺状態が続く
平和のための条約を強制する手段として、戦争を排除する代わりに、「平和的制裁」という概念を導入 ⇒ 違法な征服に法的効力を一切認めない、すなわち、征服に走る国は何に対しても恒久的な権利を確保できない。「モラルに基づく不承認は、全世界の不承認になるとき、過去の国際法には持ち得なかった重要性を帯びる」という、米国務長官のスティムソン・ドクトリンが発効、国際連盟もそれを採択
1934年イタリア軍の植民地部隊に雇われたソマリ族の武装非正規軍がエチオピア民兵と衝突、エチオピア皇帝はイタリアを侵略行為で連盟に仲裁を求めイタリアも反論、連盟はどちらにも違法行為はなかったとしたが、その直後にイタリア兵がエチオピアに侵攻したため、連盟はイタリアを侵略国と宣言するも、連盟加盟国は正式な不承認政策をとる準備が出来ていなかった ⇒ 当時満州国に対する不承認政策の成果がはっきりせず、日本は態度を軟化させる気配もなく、逆に他の国は満州国との特に日常の経済関係を断つのは不可能との経験もあって、しかも今回のイタリアはヨーロッパの中心に位置する国であり、関係を断つことなどありえなかったため、中途半端な経済制裁に終始。結果イタリアは36年エチオピアを制圧。さらに日本も中国侵攻をエスカレート
国際システムの無法状態を阻止しようとしたのがアメリカの国務長官コーデル・ハルで、新たな中立性の考えに基づく経済制裁によって世界戦争への奔流を食い止めようとした
日本の真珠湾攻撃は違法ではなく、1854年のペリー提督が持ち込んだ国際法に倣っただけであり、日本の失敗はそのルールが1928年に放棄されたことを知らなかったこと。アメリカ辞退不戦条約に始まる法秩序の根本的変化を完全に受け入れたのは、新たな中立性の見方が定着した19413月の武器貸与法可決が契機であり、真珠湾の僅か半年前
中立には公平性が必要だという信念を固持するか、それとも「平和の制裁」を法執行の基本的ルールと見做すかの闘い

第8章        新世界秩序の勝利
2次大戦は、それまでの植民地支配を固定化する連合国と、侵略戦争によってそれを阻もうとする枢軸国との戦いであり、新旧両秩序の激突
1次大戦の終結後、戦後計画の遅れが致命的な過ちとなって、パリ講和会議が戦勝国による戦利品の分捕り合戦となってしまったことへの反省から、アメリカは参戦前から戦後の秩序についての検討を開始 ⇒ 418月米英間の大西洋憲章が翌年連合国宣言に発展、国際機関の設立に帰結

第9章        ソ連を組み込む
拒否権とX事項(11票という総会での代表性の問題)に拘るソ連と妥協してでも、国際連合にソ連を組み込むことは、戦後の大きな成果となり、他方敗戦国の憲法には戦争放棄が入る
451月ヤルタ会談 ⇒ 世界の平和確立のために3国の指導者が合意

第10章     ナチスの侵略を理論化した政治学者
カール・シュミットは、侵略戦争を非合法と見做す新秩序を、所詮連盟を軸とした米英露仏の権益固定化に過ぎないと非難、ナチスの拡大政策を理論づけ
ドイツの指導的政治学者で、ヒトラー帝国の知的支柱の1
国家の決定的な仕事は、政治論争を調整し、強い対立(共同体の生活様式を脅かすような対立)の解決を図ることであり、究極の仕事は、友と敵を区別し、あらゆる武器の中で最も政治的な武器である戦争を活用すること
シュトレーゼマンは、第1次大戦では強硬派の1人となり、世界制覇を目指したが、突然の降伏の報に衝撃を受けるとともに、戦後は軍事力では列強と互角に戦えないことを悟り、世界経済のメンバーとして活躍することこそ世界における正当な地位を回復する方法として、不戦条約にも外相として積極的に参加したが、29年暗黒の火曜日の3週間前に脳卒中の発作で死去、アメリカ頼りのドイツの経済復興はアメリカの大恐慌と共に失墜、ヒトラーの独走を留める人間はいなかった
シュミットは独裁を美化、議会制民主主義を痛烈に批判、ワイマール憲法に関する立派な研究でベルリン商科大から憲法学教授をオファーされ着任すると、連邦議会から権力を奪取しようとする政府の計画を正当化する法的見解を書いて、政府の陰の実力者だったシュライヒャーの信任を得、ヒンデンブルク大統領の独裁樹立を手助けする
連邦議会を迂回し緊急命令による政治を是認したシュミットの論理が、ヒンデンブルクの緊縮政策に不満を抱く大衆に支持されたナチスの手によって悪用される ⇒ シュミット自身はナチスをイデオロギー的にも政治的にも未熟としていたが、ヒトラーの出現によって地位を失う恐怖心から逃れるために党員となり、国家評議会委員の地位を手に入れ、ドイツの法律学者にとって最も名誉あるポストだったベルリン大の公法の教授職に就く
シュミットの業績の中で最も悪名高いのは、34年のナチスによる政敵粛正となった「長いナイフの夜」におけるシュライヒャー暗殺の弁護で、独裁とそれを守るために法を冒す権利を説いた自らの論文に基づいてヒトラーを弁護、「総統は、危機においては、総統としての支配権と最高の司法権によって自ら法を作り出すことにより、法を最悪の濫用から守る」と記して法の歴史に汚名を刻む

第11章     ニュルンベルク裁判の論理を組み合立てる
どうすればナチの戦争指導者を罪に問えるか? チェコの法律家は、パリ不戦条約に署名している枢軸国には旧秩序下ではあった戦争時の殺人罪の免責はないことに気付く
シュミットにケルン大教授の地位を追われたケルゼンは、国際法と戦時国際法の専門家だったが、ヨーロッパにおけるファシズムの拡大から逃れるため、ハーバードに亡命
恩師ケルゼンより早く大陸を離れたハーシュ・ローターパクトは、英国で頭角を現し、戦争勃発とともにカーネギー基金の支援を得て全米で国際法を説いて回り、アメリカの孤立主義者を相手に中立について論じるうちに、不戦条約がどのように国際法を変えてきたかについてより鮮明な絵を描けるようになる ⇒ ロバート・ジャクソン米司法長官から、レンドリース法(武器貸与法)の法的正当性を求められ、不戦条約の効果として、条約に反する戦争を違法な戦争と見做せるようになったため、絶対的な公正の姿勢と見做されてきた中立という主義の歴史的・法的基盤は崩壊し、中立国が侵略者と犠牲者を区別することを法的に許可したと断じた。ジャクソンはその後最高裁判事になった後も、ニュルンベルク裁判でアメリカの主任検察官になった後もこの見解を積極的に支持し続けた
ローターパクトは、42年の覚書で更なる一歩を踏み出し、不戦条約が侵略国に対する中立国の権利を変えたのであれば、侵略国に対する被侵略国の権利も変えたとし、被侵略国が侵略国を罰することが出来るのみならず、兵士の残虐行為についても、「上からの命令」という「ニュルンベルクの弁護」と呼ばれた言い訳を否定、侵略戦争をした枢軸国の指導者を起訴できるとも主張

第12章     戦争犯罪を個人の責任として裁く
裁判が始まり、原告側はパリ不戦条約を援用し、戦争犯罪を個人の責任として裁くが、それは旧秩序への弔鐘。ナチスの侵略戦争を理論づけしたシュミットも逮捕
ニュルンベルク裁判 ⇒ 街の91%は廃墟となったが、裁判所と付設された拘置所は修復可能、宿舎とするグランドホテルは無傷で残り、「実に正確な爆撃」と皮肉られた。と同時に、毎年ナチスの党大会が開かれた象徴的な場所であり、ドイツ国民議会がユダヤ人から公民権を剥奪した地でもある
侵略戦争が罪であることを法的に論証する責任は、英国の首席検事ショークロスに委ねられ、ローターパクトが練った草稿が読み上げられた ⇒ 従来の国際法は集団責任の原則の上に成り立つが、国際軍事裁判所憲章は個人責任という新たな法を創出、集団責任を個人責任に置き換えたと説明、その法を侵害して自国と他国を侵略戦争に陥らせた人間は絞首刑に値するとの論法
判決では、不戦条約を理由に、侵略戦争を違法とする憲章の条項を正当化したが、個人の犯罪を処罰する根拠として不戦条約を利用したことは、失望に値し、衝撃的でさえあった
シュミットの昔の同僚だったユダヤ人法律家のカール・レーベンシュタインは、アメリカにわたってアマースト大で政治学を教えるが、ナチ法について多くの論文を出版、その専門性を買われて、45年ベルリンの占領政府に法律顧問として加わり、最初の任務がシュミットを逮捕することだったが、どこも彼の裁判管轄権を引き受けようともせず、軍事政権は罪状不明のまま逮捕、いったん釈放され、再逮捕されたが、詳細な戦争計画会議に参加していない人は、侵略戦争の計画や準備の責任を負わないとした判決が引用され、無罪で釈放、ベルリン大学での教鞭をとることは禁じられたが、年金は支払われ、故郷で96歳で没するまでを過ごし、新しい世代の学者に影響を与えた
ケルゼンはUCバークレーの政治科学の正教授となり、革新的な法学の業績により多くの大学から表彰され、オーストリアは彼を「憲法の父」と呼んだ
新世界秩序の父ローターパクト ⇒ ニュルンベルク裁判で、最も大きな痕跡を刻む。侵略戦争を犯罪と見做し、訴追の仕組み、検察側の主張の土台となった英国の陳述の草稿に至るまで、裁判は彼の計画に従った。一族のほぼ全員がホロコーストで殺され、法廷に居辛くなった彼は、自らの計画の実行を他の人に委ね、ケンブリッジに戻ってグロティウスの業績をまとめることに専念。新たに形成された国際法委員会委員に就任、不戦条約を境に基本的原則が変わったことを説き、新たな法秩序が確立されると、国際司法裁判所の判事となる

第3部        新世界秩序
第13章     1929年以降、永続的侵略は激減した
1816年以降侵略された土地の総面積は、1929年以降激減 ⇒ 第2次大戦までに侵略された土地も連合国は元の持ち主に返還
2014年ウクライナの親ロシア大統領の腐敗政治に抗議した群衆の蜂起により政権は国外に逃亡、一方クリミアでは新ロシア派がロシアの特殊部隊の支援を得て半島の戦略拠点を占領、ウクライナ政府からの独立を問う住民投票を実施、ウクライナの憲法裁判所は投票を無効としたが、結果は独立派の圧勝に終わり、クリミア最高会議はクリミア共和国の独立を宣言、その後独立を放棄してロシアへの編入を求めプーチンはその要求を聞き入れた
プーチンの行為は新秩序のルール違反に間違いないが、注目すべきは、このような出来事がこれまでほとんど起きていないこと
18162014年における国家間の領土変更は800を超す。うち軍事行動によって征服と見做せる領土の奪取が254例 ⇒ かつて一般的だった征服は1928年を境にほぼ消滅したことを示している
不戦条約までは、約10か月に1件の割で征服が起きていて、平均的面積は1年当たり30万㎢弱。条約発効後の20年間も、ほぼ同程度の征服が行われていたが、国連が動き始めた時から劇的に減少、3.9年に1件となり、面積も1年あたり15千㎢に激減した
征服を終わらせたのは第2次大戦だったが、過去に起きた広大な領土の征服が覆され、1928年に遡って本来所有されていた国に返還された
1928年以降なされた永続的な占領で承認されていないものは10件 ⇒ カシミール紛争におけるインド・パキスタン間の移譲、1955年の中国による台湾の一江山島の奪取、67年の六日戦争でイスラエルがヨルダンから東エルサレム支配を奪取、73年リビアがチャドからアオズ地帯を奪取、75年のベトナム民主共和国によるベトナム共和国の吸収併合、76年のインドネシアによる元ポルトガル植民地東ティモールの併合、2000年エジプトとスーダンの国境地帯をエジプトが実効支配、14年のロシアによるクリミア奪取。49年のヨルダンによるヨルダン川西岸地区を領土に加えたが後に覆された

第14章     国の数が増えたのには理由がある
戦争の違法化、征服の終焉、地球規模の自由貿易は、小国が存在できるだけでなく繁栄できることを意味した。旧秩序では植民地で調達した物資は、今では貿易で手に入る。植民地の独立が始まる
国連本部建設当時、加盟国は51か国で、総会ホールの座席数は最大で+20もあれば十分と考えられたが、かつて傍聴席だった座席のほぼすべてが新しい国家に宛てられ、14年の改築では204か国を収容できるようになっている
近代国家は近年の発明 ⇒ マックス・ウェーバーが提示する国家の最小限の定義は、「一定の領域において、武力を合法的に独占する共同体」であり、戦争が国家を作り、国家が戦争を作った。重商主義の発展も国家の誕生を促した
戦争の違法化が、世界のパワーバランスを根本的に変え、国家そのものも変えた ⇒ 大国や帝国である必要がなくなった
自由貿易の隆盛は、国家が領土を支配しなくても市場にアクセスできるようになったことを物語る
広範な活動に焦点を当てた国際機関の出現も、国家が互いに協力する方法を提供することによって、国家の存在を助けることになった
戦争の違法化がもたらした最後の大きな変化は、国内の人々が自身の国家を求め始めたこと ⇒ 征服の崩壊によって解き放たれた脱植民地化の力ほど強い遠心力はなかった
1945年以降国家の数は激増 ⇒ 脱植民地化と、大国の小国への分割が2つの大きな力
大英帝国の崩壊、フランスの植民地解放、共産圏諸国家の崩壊

第15章     失敗国家の内戦
現在、国と国との争いは、旧宗主国が領土線を曖昧なまま引き継いだことによって発生。もっと深刻なのは、失敗国家ですらも侵略されないことから、内戦が新しい時代の戦争となったこと
戦争が違法化になったにもかかわらず、戦後の世界がずっと平和とはほど遠い状態にあったため、多くの人は戦争の違法化の事実に気付いていない ⇒ カシミール、インティファーダ(イスラエルとパレスチナの紛争)、朝鮮、ベトナム、ユーゴ・ルワンダの民族紛争・大量虐殺、スーダン、そのほかにも各地で内戦が続行中
国境線が曖昧な場合、法的状況は急速に複雑化する ⇒ 真の主権国は1928年に領有権を有した国だが、当時曖昧なまま残された土地がいくつも残っていた ⇒ ベトナムとカンボジアでは54年のフランス撤退後に国境紛争が勃発、収束したのは2012年だし、旧英領パレスチナは1923年英国が管理を掌握したが、委任統治終了時に将来の計画が明確にされていなかったため、いまだに紛争が続いている
力が正義をもたらさない世界では、領有権を巡る衝突は解決できない可能性がある ⇒ 国際司法裁判所や常設仲裁裁判所は1つの選択肢だが、強制力はない。国連の安全保障理事会も信託統治領を独立させたり、東ティモールでの紛争を解決に導いたりしたが、クリミアの紛争では拒否権で立ち往生
最も新しい国家は2011年に独立した南スーダンだが、独立直後から2大民族による暴力的対立が深刻化、失敗国家の典型となる ⇒ 法と秩序を守るために必要な警察、裁判所、軍隊などの国の機関が崩壊したが、豊かな石油埋蔵量に支えられ、破綻したまま存続
失敗国家における暴力と紛争は、しばしば国境の外に広がる ⇒ イスラム国や、アフガンやパキスタンに展開するアルカイダのテロリスト集団
国際法は、ある国が他国に国際法を遵守させるために武力を行使することを禁じる ⇒ 新秩序のもとでは、国家は国際法を執行する1つの方法として、戦争の代わりに一揃いの手段を開発してきた。「仲間はずれ」と呼ぶ

第16章     「仲間はずれ」という強制力
戦争が違法である新秩序では、「仲間はずれ」によって無法国家を牽制する。アイスランドの自治に用いられたこの方法には、ブッシュ政権も従わざるを得ず、イランの核放棄にも有効だった
2000年ブッシュは大統領選で民主党の追い上げに対抗して、ウェスト・ヴァージニアの鉄鋼会社で演説を行い、業界の窮状救済のため輸入関税を約束、当選後30%もの関税を賦課したため、EUWTOに提訴、違法との決定に対しブッシュは関税の撤廃に追い込まれる ⇒ 安保理を軽視したり、国際法廷とテロリズムを同列に並べてそれらの挑戦に立ち向かうとまで宣言したブッシュだが、「仲間はずれ」にされることを恐れて後退
870年古代スカンジナビア人はアイスランドに上陸、驚くほど平等主義の社会を樹立。正義を冒すものは、小さな違反には罰金か賠償、重い犯罪には「社会的追放」が言い渡された
アイスランド政府には、行政機関が存在せず、検察官も軍隊も徴税官も警察、死刑執行人もいない ⇒ 追放という刑は、すべての国民を法の執行機関に変えた
1969年条約法に関するウィーン条約は、条約についての条約であり、条約に対する重大な違反があった場合、全ての当事国は該当条約の全部もしくは一部の運用を停止、または、条約を終了させることが出来る、と明言
仲間はずれのシステムを可能にしたのは、中立法の変化であり、その変化のきっかけとなったのは不戦条約と、ローターパクトによる定義と解説 ⇒ 不戦条約は、加盟国に侵略国を差別的に扱う義務は課さなかったが、そのように行動する権利を認めた。差別の禁止から許可への移行は、かつては公平を保つことが求められた中立国が、交戦国を差別できる
ようになったことを意味する
GATT(関税・貿易に関する一般協定)とそれに続くWTOが自由貿易を推進した結果、全ての商品のコストが下落、消費者の購買力を飛躍的に増大させた ⇒ 促進の手段の中心となる信条は「最恵国」の原則。当初は当事国を含む満場一致の合意で正邪を決めていたが、55年に全面的改組でWTOに移行する際、採決から当事国が除外された
「仲間はずれ」の力も、北朝鮮のように自ら仲間はずれになろうとする国に対しては無効であり、仲間はずれの効果が双方向に向かうことも難点であり、更に最大の問題は「しっぺ返し」が常に有効なわけではないこと ⇒ 国連拷問等禁止条約では、他国が拷問しているからといって、こちらも拷問するというわけにはいかない
1960年独立したキプロスで、ギリシャへの統一を望む強硬派がクーデターに訴えた際、ギリシャと英国は介入を拒否したが、トルコはキプロスに侵攻、ギリシャ系キプロス人の所有地を奪取。その際難民化したギリシャ系キプロス人女性がトルコの不当な侵攻と占領に抗議してトルコ占領地にデモ、欧州人権条約による救済を求めて欧州人権裁判所に提訴。裁判所はトルコによる人権侵害を認めて賠償を命じ、トルコはそれに従ったが、強制力を発揮したのは、欧州評議会における経済制裁から除名処分まで広範囲での協力の恩恵と、人権侵害を天秤に掛けさせることだった
フロンガスによるオゾン層の破壊防止が叫ばれ、87年にはそのためのモントリオール議定書が締結されたが、その内容は、締結国間で一種のクラブを作って、フロンガス消費の段階的削減の実施と、フロンガスの原料供給の制限を取り決める ⇒ クラブに入らないことには原料の供給を受けられないことから、議定書の実効力が増した
198090年代に普及した経済制裁もこの一種だが、独裁国家の場合権力者は既に金と富を手中にしているので効果は薄い ⇒ アメリカのイランへの制裁
ロシアのクリミア侵攻の際は、個人と団体に絞って、渡航制限などの制裁を課した
仲間はずれの進化は、試行錯誤を繰り返すうちに、国際的課題に取り組むための数々の驚くべきテクニックを開発。完璧ではないとしても、極めて適応力のある手段であることが証明された ⇒ 国際貿易の維持から、国際郵便サービス、人権保護、環境、核拡散に至るまで、力は正義をもたらさないというルールに従わない国を罰し、ルールに従わせる手段になってきた。「戦争の代替策」とまで言われる

第17章     イスラム原理主義は違う戦争を戦う
イスラム原理主義の起源は、ダイイド・クトゥプというエジプト人が1948年に米国留学して、アラブの神のために侵略戦争をすべきと主張、それが「イスラム国」に受け継がれる
クトゥプは、アメリカ留学中にアフリカ系アメリカ人と間違えられ、人種差別の対象となったことをはじめ、空しい物質主義の空虚さに我慢がならず、アメリカに対する疑念を憎悪に変え、帰国後ムスリム同胞団に参加
1954年エジプトで軍事クーデターに成功していたナセルが群衆の前で演説している最中、ムスリム同胞団の襲撃を受けるが奇跡的に助かり、首謀者らを処刑し、ムスリム同胞団を潰そうとした。同胞団機関誌の編集長だったクトゥプも逮捕、見せしめ裁判で有罪判決、10年間の投獄、拷問の囚人生活が、彼をイスラム過激派に変え、イスラムの理想を叶えるための戦争を正当化すべく、狂信的でねじ曲がったイスラムの政治理論を熱心に伝播し始め、イスラム過激派の知的な父となり、その著作はイスラム世界全体で読まれる
侵略戦争としての聖戦を認めるのは、イスラムの本質と、世界におけるイスラムの役割、則ち、イスラム教誕生前から世界を覆っていた「無知」であるジャーヒリーヤから解放し、1人の人間を神の地位に持ち上げて、究極の主権者として扱うことを実現するため
1966年釈放。64年出版の著作『道標』は、すぐに発禁処分となったが、5刷まで刊行され、イスラム世界では広く読まれた。エジプト政府はすぐにまた逮捕し、破壊活動をしたとして死刑判決が下され、即執行となり、預言者は殉死者となる
1年前にムスリム同胞団に加わったばかりの15歳のザワヒリが復讐を誓って、ナセル政権の転覆とイスラム教徒の国の樹立を目指す地下組織を結成
何年もたたないうちにオサマ・ビンラディンというティーンエイジャーがサウジでムスリム同胞団に加わる
イスラム国は、決して孤立した存在ではない。現代の主権国家システムを消し去ろうとする彼らの思いは、クトゥプの世界観の影響を受けたほかの集団――アルカイダ、タリバン、ファタハなど――の中で生き続けるだろう
未来の世界秩序を決める戦争に勝つには、強い兵器ではなく、強い思想が必要なのだ

終章 国際主義者たちを讃えよ
米国はテロに対する「自己防衛」を理由にシリア、イラクの領土に空爆を実施。国連憲章で、自己防衛の権利が認められるのは、「武力攻撃」を受けた場合に限られる。「新世界秩序」は不完全なのか?
新世界秩序は、現在危機に瀕している ⇒ 1つはイスラム国など聖戦のビジョンに感化された集団の台頭による危機であり、それに対してアメリカがイラクとシリアへの爆撃を自己防衛と主張している事で、国家がいつでも武力行使の言い訳として自己防衛を標榜できるのであれば戦争禁止は無意味になる
もう1つは、人道主義的理想に基づく活動と、国連安保理が認めない限り不正を正すための戦争が許されないという状況との衝突 ⇒ シリアでは、内戦によって50万もの犠牲が出た上に、空前の難民危機を招いているが、救済のための人道的介入を国連安保理が拒否権行使して、大虐殺を阻止できないというジレンマ
ロシアや中国、北朝鮮などがもたらす破壊的な危機もある
最終的に新世界秩序というシステムが成功するかどうかは、アメリカが、こうした多くの課題にも拘らず、法秩序を維持するための中心的役割をするかどうかにかかっている
新世界秩序にとっての最大の脅威は、この役割を放棄して自国の利益ばかり追うようになった国々によってもたらされている。世界中で反国際主義が台頭しつつある
国際主義者は、戦争が違法化されると、それに代わるものとして自由貿易を考え、国家は支配ではなく連携を通じて豊かになれることを見出した


訳者あとがき
世界史を、ある一つの国際条約を起点に描くことで、こんなにも分かり易く、今日までつながる様々な問題が整理されてくるのか、という新鮮な驚きがあった
日本国憲法第9条と同じ、戦争放棄の文言が、ドイツやイタリアの憲法にも入っていること。そしてそれは、パリ不戦条約を奉じて戦った連合国が、その精神を貫徹するためにそうしたこと。第2次大戦という巨大な犠牲を払って、1928年の忘れられた国際条約の精神が新しい世界秩序となったこと。どれもただ歴史を眺めているだけでは分からなかった

「世界秩序」という永遠のプロジェクト           船橋洋一
本書は、新世界秩序の下で戦争をいかに法的に位置づけるかを巡る思想のドラマであるとともに、レビンソン、ショットウェル、サムナー・ウェルズ、ローターパクトといった献身的な努力を捧げた国際主義者に対する賛歌でもある
不戦条約によって戦争禁止を成約した世界は無力に陥り、国際連盟も機能しなかったが、不戦条約の理念はその後の英米の大西洋憲章や国連憲章に引き継がれ、条約の思想的水脈は、ニュルンベルク裁判におけるニュルンベルク原則(国際法廷が国家指導者個人の責任を裁く)へと結実
不戦条約は、伝統的なレアリストの観点から、「魅惑的だが、無意味」とか「子供じみた/子供騙し」と一蹴され、条約の条文にも不明瞭なところがあって、締結国の多くは、加盟国の自衛権保持を認めていると受け止めたが、自衛権自体の定義はなく、その解釈は各々に委ねられた
新世界秩序は、大戦の最大の勝利者であるアメリカの普遍的理念を濃厚に反映し、米国の世界戦略にとって望ましい枠組みであり、米国の国益を内在させる設計だったことは疑いない
国々の興亡の決定的要素は、地政学的条件であり、国際環境の動態であり、新世界秩序がもたらした安定した国際環境こそが、戦後の平和と繁栄を可能にした
日本は、条約を批准したが、「外交的ジェスチャー」に過ぎず戦略的視点が希薄 ⇒ 自衛権の定義の曖昧さに付け込んで、機会主義的に利用、関東軍の暴走を黙認
21世紀に入って、新秩序の第2幕が始まったのではないか ⇒ イスラム国のような原理主義・過激主義的潮流と、ロシアや中国の南シナ海の国連海洋法違反といった地政学的勢力拡大の潮流が、戦後築いてきた国際協調秩序LIOを根底から揺さぶっている
トランプの既存秩序に対する破壊衝動は、米国の経済、社会、政治の地滑り(dislocation)から生まれており、一過性と見るべきではなく、米国はもはや、国際政治における確固とした安定勢力ではなく予測しにくい不確実な変数になりつつある
ドイツのメルケルが提唱したように、日独は単なるルールの追随者ではなく、協力して国際秩序を企図し前に進めるルール形成者(rule shapers)にならなければいけない ⇒ 日本がEUと経済連携協定EPAに合意したことが契機となって、両国が協力してリーダーシップのあり方を探求するまたとない機会
トランプの米国に欠けているのは、ギブ・アンド・テークと覇権国の自己犠牲の要素であり、WTOの取り決めに背馳するような貿易戦争を仕掛け、戦後自ら構築してきた世界秩序を歪めつつある
世界秩序は結局のところ、終点のない永遠のプロジェクトと見做すべきものなのだろうが、重要なことは、そのプロジェクトに常に参加し続けること。当事者意識を持ち、建設者として参画し、それを擁護し、進化させ、世界の平和と安定を追求すべき
日本に何よりも必要なのは、国際主義者だ






逆転の大戦争史 オーナ・ハサウェイ、スコット・シャピーロ著
不戦条約はどう使われたか
日本経済新聞 朝刊
2018128 2:00  
本書は、近代以降の戦争に対する国際法の変化と、それがもたらした国際政治への影響を2人の米国人法学者が一般読者向けに書いた著作である。本文だけで600ページ近い大著だが、3部に分けられた全体の構成によって、その主張は簡明に示されている。
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17世紀にグロチウスらによって国際法が整備された時には戦争が合法とされ、その構造が第1次世界大戦まで続いた。この旧世界秩序に対して、第2次世界大戦後には戦争を違法とする規範が確立され、より平和な新世界秩序が実現した、というのが本書の趣旨である。第1部と第3部では新旧両秩序でいかに戦争の頻度や暴力性が異なるかが詳細なデータと共に分析される。
内容豊富な分析は興味深いが、野蛮な旧秩序と文明的な新秩序を対照させるという結論自体はさほど目新しくない。本書で最も興味深いのは旧秩序から新秩序への移行期を扱った第2部であろう。第1次世界大戦後に始まった戦争違法化活動が結実して、1928年に米仏が主導して不戦条約が締結されたときが一大転機であった。当初は単なる宣言的文書と捉える雰囲気が強く、日本も含めた多数の国が批准した。
しかし第2次世界大戦へと向かう過程で米英は枢軸国に対抗するため、不戦条約を法的根拠として積極的に用いるようになった。連合国の勝利によって不戦条約の精神が国連憲章に武力行使禁止原則の形で書き込まれた経緯や、戦争指導者を裁く「平和に対する罪」の根拠として不戦条約がいかに用いられたかを詳しくたどっていく叙述が本書の白眉であろう。第2次世界大戦は戦争違法化をめぐる旧秩序と新秩序の争いでもあったのである。
本書の主張に善悪二元論の色合いが強いのは否めない。グロチウスは全ての戦争を正当化したわけではないし、戦後の秩序がアメリカの力に支えられてきた点や、今日の世界が内戦やテロ、人道的介入といった難問を抱えている点もやや軽視しているように思える。とはいえ、戦後秩序をリベラルな国際秩序と捉えてその擁護を訴える国際主義者(トランプ政権の支持者はグローバリストと蔑称するが)の歴史観を知る上でも学ぶ所の多い著作である。
《評》京都大学教授 中西 寛
原題=The Internationalists
(野中香方子訳、文芸春秋・2450円)
著者2人はいずれも米エール大法学部教授。


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不戦条約(ふせんじょうやく、戦争抛棄ニ関スル条約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。パリ不戦条約とも。
目次
概要[編集]
1928(昭和3年)827アメリカ合衆国イギリスドイツフランスイタリア日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。
この条約の成立は、国際連盟規約、ロカルノ条約と連結し国際社会における集団安全保障体制を実質的に形成することになった[1]。すなわち19世紀の国際法によれば至高の存在者である主権国家は相互に対等であるので戦争は一種の「決闘」であり国家は戦争に訴える権利や自由を有すると考えられていたが、不戦条約はこの国際法の世界観(無差別戦争観)の否定であり、一方で連盟規約違反やロカルノ条約違反をおこなう国に対しては不戦条約違反国に対する条約義務からの解放の論理が準備され、「どの国家にせよロカルノ条約に違反して戦争に訴えるならば、同時に不戦条約違反ともなるので、他の不戦条約締約国は法的に条約上の義務を自動免除され、ロカルノ条約上の制約を自由に履行できる」[2]と解釈された(制裁戦争)。
この条約はその後の国際法における戦争の違法化国際紛争の平和的処理の流れを作る上で大きな意味を持った。一方で加盟国は原則として自衛権を保持していることが交渉の過程で繰り返し確認されており、また不戦条約には条約違反に対する制裁は規定されておらず、国際連盟規約やロカルノ条約など他の包括的・個別的条約に依拠する必要があった。そのほかにも自衛戦争の対照概念たる「侵略」の定義がおこなわれておらず、第一次大戦で多大な効力を発揮した済制裁(ボイコット、拿捕や敵性資産の没収等)が戦争に含まれるのか不分明であり、また戦争に至らない武力行使、国際的警察活動(海賊やテロリストの取締、とくに他の締約国内での武力行使を伴う)、中立国の権利義務など不明確な点を多く含んでいた。
条約批准に際し、アメリカは、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出した。またイギリスとアメリカは、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行った。アメリカは自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言した。アメリカは1927年にニカラグアへ内政干渉しており、その積極的な役割をヘンリー・スティムソン(のち国務長官)がおこなっていた。また1929年の大恐慌以降、30年から31年にかけて中南米20カ国で10回の革命が発生するなど現実的な事情を抱えていた[3]。一方でアメリカのヘンリー・スティムソン長官は錦州および南満州問題に関する「スティムソン・ドクトリン」(19321月)において明示的に不戦条約(パリ平和条約)に言及し道義的勧告(moral suasion)に訴えた。
世界中に植民地を有するイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのかすらも明言しなかった。国際法は相互主義を基本とするので、「侵略か自衛か」「どこが重要な地域であるのか」に関しては当事国が決めてよいのであり、事実上の空文と評されていた。
例えば、日本を代表する国際法家の信夫淳平は、第三十三回学士院恩賜賞を受けた戦時国際法講義に次の辛辣な不戦条約評を引用している。
「ケロッグ氏の原提案は戦の無条件的抛棄であった。然るに仏英両国の解釈の限定を受けたる結果として、本条約は最早や戦の抛棄を構成せざるものとなった。当事国各自が勝手に解釈し、勝手に裁定する所の自衛という戦は、本条約に依り総て認可せられる。これ等の例外及び留保の巾さを考うるに於ては、過去一百年間に於ける何れの戦も、また向後のそれとても、一つとしてその中に編入せられざるものありとは思えない。本条約は戦を抛棄するどころか、之を公々然と認可するものである。戦なるものは過去に於ては、適法でも違法でもなき一種の疾病と見られた。然るに今日は、この世界的の一条約に依り、事実総ての戦は公的承認の刻印を得たのである。本条約第一条の単なる抽象的の戦の放棄は、本条約に付随する解釈に依りて認可せられたる具体的の戦の前に最早や之を適用する余地は全然無いのである。」(Borehard Lage,Neutrality for the U.S.,pp.292-3
信夫も不戦条約の解釈を分析した上で「自衛の果たして自衛なるやは、個人間の正当防衛が裁判所に依りて判定せらるるのとは異なり、戦を遂行する国自身が判定するのであるから、自衛戦を適法と認むる不戦条約の下にありては、殆ど全ての戦は適法の戦として公認せらるるのである。不戦条約は不戦どころか、大概の戦の遂行を適法のものとして裏書きするものである」と指摘し、不戦条約による戦争の違法化を否定した[4]
しかもこの条約は加盟国の戦争放棄を一方的宣言するものではなく、あくまで「締約国相互の不戦」を宣言する(前文・1条・2条)ものであり、その加盟国相互の国家承認問題についても曖昧に放置されたものであった(後述)。
加瀬英明によれば、1948127、ケロッグ国務長官はアメリカ議会上院の不戦条約批准の是非をめぐる討議において、経済封鎖は戦争行為そのものだと断言したことを挙げて、日米戦争については、日本ではなくアメリカが侵略戦争の罪で裁かれるべきだったとしている[5]
この条約は192746日、アメリカの第一次大戦参戦10周年記念日にフランス外務大臣ブリアンが米国連合通信に寄稿したメッセージが端緒であり、611日にアメリカがフランスに交渉の用意ありと通知したことから具体化した。当初は米仏2国間だけの恒久平和条約を想定していたがアメリカの提案により多国間条約として検討することとなった。日本政府は19276月の段階で主要6列強国(日英米仏独伊)による条約締結に内諾を通知した。
不戦条約が持ち上がった1927年春から1928年当時、日本は田中義一内閣で、1927年当初の中国は上海クーデター以降の混迷状態にあり、日本は奉天派北京政府を中華民国(支那共和国)の正統政府としていた。これは対華21カ条要求など条約上の対中権益を維持するためであったが、1928年春には第二次北伐が開始され、山東出兵張作霖爆殺事件など中国大陸をめぐる政情は急激に変化しており、日本政府が不戦条約を打診された1927年春の段階とは情勢は大きく異なることになった。
日本にとっては蒋介石国民党政府が中華民国としてこの不戦条約に新規加盟するかどうかは重要な問題であり、外務省はこの問題について192811月の段階で、蒋介石政府を中華民国正統政府とみなしていないので蒋介石が中華民国として不戦条約に加盟申請しアメリカが受理し日本に通告してきても日本政府は拘束されない、国家として未承認の政治上のグループ(主体)がこの条約に新規加盟を申請することについて、その取り扱いについて条約上不分明であるが、既存加盟国はその申請を明示的に拒否しなければ申請した主体を国家主体として暗黙に承認したということにはならない(過去の外交事例上)、アメリカが条約上の義務(3条)として中華民国の批准を電報通告してきた場合、明示的に拒否しなければ承認した、ということにはならない(過去の外交事例上)、と解釈していた[6]。不戦条約は新規加盟国は自動的に従来加盟国との間での不戦を相互に承認する構造となっていたが(第3条)、正式に国家承認していない組織・集団(ここでは蒋介石政府)の参加は想定されておらず、「締約国相互の不戦」を宣言する(前文・1条・2条)ものであるため加盟国の国家承認問題は重要であった。また叛徒政権・革命政権の承認問題は民族自決原則への移行期にあり、国家の条約継承問題については包括的継承説が主流学説であり、継承否定説に立つ中華民国蒋介石政権を日本政府は正統政府としない立場であった。
調印にあたって日本国内では、その第1条が「人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言」するとされていることから、枢密院右派から大日本帝国憲法の天皇大権に違反するとする批判を生じ、新聞でも賛否両論が起こった。そのため外務省はアメリカに修正を申し入れたが、修正には応じられず、人民のために宣言すると解釈するとする回答を得たに止まったので、日本政府は、1929(昭和4年)627、「帝国政府宣言書」で、該当字句は日本には適用しないことを宣言し、27日に批准された。実際に発効されたのは田中内閣総辞職後の同年724であった。
芦田均によれば日本国憲法91項は不戦条約第1条の文言をモデルにアメリカにより作成されたとする。
不戦条約と侵略戦争[編集]
不戦条約では第一条において国際紛争解決のための戦争の否定と国家の政策の手段としての戦争の放棄を宣言しているが、侵略についての言及をしているわけではなく、また「国家の政策の手段としての戦争」(第一条)についての詳細な定義を置くこともなかった。侵略の定義は1933年に「侵略の定義に関する条約」(the LondonConvention on the Definition of Aggression)により初めて法典化の試みが行われた。この条約はわずか8カ国(ルーマニアエストニアラトヴィアポーランドトルコソヴィエトペルシアアフガニスタン)の間で結ばれるにとどまった[7]
極東国際軍事裁判における言及[編集]
極東国際軍事裁判では、日本側弁護人の高柳賢三が、裁判所に提出した「検察側の国際法論に対する弁護側の反駁」(1947224日第166回公判では全文却下全面朗読禁止、1948334日第384385回公判にて全文朗読)の中で、各国の指導的政治家の言明、特にアメリカ上院におけるケロッグ長官およびボラー上院議員の明瞭かつ疑いの余地を残さない条約案の説明に照らして、パリ不戦条約締約国の意思が次のようなものであったことを説明し、不戦条約が満州事変以降の日本の戦争を断罪し被告人を処罰するための法的根拠には成り得ないと論駁した[8]
本条約は自衛行為を排除しないこと。
自衛は領土防衛に限られないこと。
自衛は、各国が自国の国防または国家に危険を及ぼす可能性あるごとき事態を防止するため、その必要と信じる処置をとる権利を包含すること。
自衛措置をとる国が、それが自衛なりや否やの問題の唯一の判定権者であること。
自衛の問題の決定はいかなる裁判所にも委ねられるべきでないこと。
いかなる国家も、他国の行為が自国に対する攻撃とならざるかぎり該行為に関する自衛問題の決定には関与すべからざること。
極東国際軍事裁判所インド代表判事のラダビノッド・パルは、パル判決書の中で不戦条約に関して博引傍証した上で次のように結論づけた[9]
「国際生活において、自衛戦は禁止されていないばかりでなく、また各国とも、『自衛権がどんな行為を包含するか、またいつそれが行使されるかを自ら判断する特権』を保持するというこの単一の事実は、本官の意見では、この条約を法の範疇から除外するに十分である。ケロッグ氏が声明したように、自衛権は関係国の主権下にある領土の防衛だけに限られていなかったのである(中略)。
本官自身の見解では、国際社会において、戦争は従来と同様に法の圏外にあって、その戦争のやり方だけが法の圏内に導入されてきたのである。パリ条約は法の範疇内には全然はいることなく、したがって一交戦国の法的立場、あるいは交戦状態より派生する法律的諸問題に関しては、なんらの変化をももたらさなかったのである。」
現代的意味[編集]
条約には期限や、脱退・破棄・失効条項が予定されていないため、この条約は現在でも有効であるとの論がある[10][11]。しかし国際連合憲2条によりあらためて「武力行使」の慎戒が協定されており、歴史に属する条約として象徴的あるいは学術的に言及されるのが一般的である。
注釈[編集]
^ 綱井幸裕2010.12
^ チェンバレン外相宛アサートン駐英アメリカ大使信書1928.6.23
^ 中沢志保2011.1.31PDF-P.5
^ 戦時国際法講義第1巻(信夫淳平著、丸善、1941年)702703頁。
^ 加瀬英明/ヘンリー・S・ストークス『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』祥伝社新書
^ 「支那国政府の不戦条約加入と国民政府承認問題との関係」昭和3116[1]アジア歴史資料センター:レファレンスコードB04122285900
^ 「国際刑事裁判所規程検討会議の成果及び今後の課題」竹村仁美(九州国際大学法学論集2010[://www.kiu.ac.jp/organization/library/memoir/img/pdf/hou17-2-001takemura.pdf]
^ 東京裁判日本の弁明-却下未提出弁護側資料抜粋(小堀桂一郎編、講談社、1995年)172頁。
^ 共同研究パル判決書上(東京裁判研究会編、講談社、1984年)316352頁。
^ Eva Buchheit: Der Briand-Kellog-Pakt von 1928 – Machtpolitik oder Friedensstreben? (Studien zur Friedensforschung, 10), Lit Verlag, Münster 1998, P.358
^ イギリス司法長官は「(この)条約は現在も有効でありイギリスは加盟している」とする。イギリス議会20131216日議事録[2]




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