随行記  川島裕  2019.3.2.


2019.3.2. 随行記 天皇皇后両陛下にお供して

著者 川島裕

発行日           2016.8.10. 第1刷発行
発行所           文藝春秋

初出 第1(『文藝春秋』0511月号)、第2(156月号)、第3(069月号)、第5(0910月号)、第6(128月号)、第7(142月号)、第8(115月号)、第9(118月号)、第10(164月号)、第4(『皇室』07年冬号)、序・あとがきは書下ろし

H15式部官長就任直後に島根県で開催された全国豊かな海づくり大会ご臨席の両陛下に随行したのが最初。両陛下の皇居外での公的行事を見聞することの重要性から、式部長官が両陛下の地方ご旅行にお供することになり、以後新任の式部長官は必ず、就任後速やかにお供することとなった
なにより強い印象を受けたのが沿道での人々の歓迎ぶりであり、両陛下が出来るだけ11人と視線を交わしながら手をお振りになること

第1部        慰霊の旅
第1章        サイパン慰霊にお供して――平成1762728
終戦50年を翌年に控えたH6末の誕生日の記者会見で、とりわけ戦禍の激しかった土地に思いを寄せていくつもり、と述べられ、同年初めの硫黄島をはじめ、H7には長崎、広島、沖縄、東京下町を巡る戦争の犠牲者とその遺族のための慰霊の旅を続けられた
H17初め、戦後60年の節目に海外での慰霊が閣議決定されサイパンご訪問が決まる
羽田からサイパンに飛び、豪雨をついて着陸
両陛下のご訪問は開闢以来。中部太平洋戦没者の碑からスーサイドクリフ、バンザイクリフと回られる
H17.12.19.陛下お誕生日に際しての会見より ⇒ S19.6.15.米軍がサイパン島に上陸、77日日本軍玉砕迄、陸海軍43千、在留邦人12千の命が失われた。米軍も3.5千近い戦死者があり、900を超える島民が犠牲となったし、朝鮮半島出身の人々も命を落とした。61年前の厳しい戦争のことを思い、心の重い旅だったが、高齢のサイパン島民がかつて日本の移住者が島民のために尽くしたことを今も大切に思っている人がいることは嬉しく、私どもが温かく迎えられた陰にはかつての移住者の努力があったことと思われる。日本は昭和初期ほとんど平和な時がなかったが、この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思う。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願う
H17.10.皇后陛下お誕生日の文書回答 ⇒ サイパン陥落時の周囲の大人たちの動揺は今も記憶にあり、おそらく陛下や私たちの世代が戦争の報道に触れていた最年少の層に当り、戦争の記憶は真向かわぬまでも消し去ることのできないもので、戦争をより深く体験した年上の方々が次第に少なくなられるにつれ、続く私どもの世代が、戦争と平和につき更に考えを深めていかなければいけないとの思いを強くする。経験の継承は、戦争に限らず、誰もが自分の経験を身近な人に伝え、また、家族や社会にとって大切と思われる記憶についても、これを次世代に譲り渡していくことが大事だと考える。満蒙開拓の引き揚げ者が戦後那須の原野を切り開いて作った千振開拓地を陛下、清子、眞子と共に訪ねた

第2章        「玉砕の島」ペリリュー島へ――平成27489
戦後70年の節目にパラオご訪問をご希望。10数年前にも諸国歴訪が計画されたが、移動のリスクの大きさから頓挫。今回はヘリでの移動、巡視船での宿泊を前提に進められた
慰霊と同時に、日系人への深い思い、日本人の移民が多く住む地域と日本との間の縁を大切にするというお気持ちが強い
ベルサイユ条約と国際連盟の決定により、日本はドイツ植民地だった南洋諸島を委任統治下に置き、T11年南洋庁を開設して、移民を奨励した結果、50,573人の島民を上回る51,861名の日本人が在住したが、第2次大戦でS19.9.レイテ島での戦闘に先立ってパラオのペリリュー島の日本軍飛行場の奪取を記して米軍が上陸、2か月の戦闘で日本軍の戦死者約1万、米軍の死者は1,700人。11月には「サクラ、サクラ」という電報で日本軍主力の玉砕が告げられた。南洋群島海域における戦没者総数は約247千、うち軍人・軍属が23万、一般邦人は15千を超えると言われる。うち、沈没した艦船が約530隻、約108千が犠牲となった
特別機でパラオに着かれた後、晩餐会、在留邦人との懇談の後、海上保安庁のヘリで巡視船「あきつしま」に移動ご宿泊。随員は市内のホテルに泊まり翌朝モーターボートでペリリュー島に向かう。途中遺骨探索の現場を訪れ、様子を両陛下にご報告
両陛下は、巡視船からヘリでペリリュー島へ。モーターボートはやはり無理、避けたのが正解。村木厚労省次官の先導で慰霊碑に、日本からご持参の白菊の花束を供花。その脇で、同様に激戦地となったアンガウル島を遥かに望む(ママ)地点で深々と拝礼
次いで、米陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花・黙祷、米軍が上陸作戦を展開したオレンジビーチを視察、丸24時間のご滞在を締めくくった
H27.4.8.ご出発にあたっての陛下のお言葉 ⇒ 太平洋に浮かぶ美しい島々で、悲しい歴史があったことを決して忘れてはならない。今回のパラオ訪問が、これまで築かれてきた友好協力関係のさらなる発展に寄与することを念願する。この機会にこの地域で亡くなった日米の死者を追悼するとともに、パラオの人々が厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に慰霊や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、心から謝意を表したい
H27.4.8. パラオ国王主催晩餐会での陛下の答辞 ⇒ 第1次大戦後多くの日本人が移住してきて交流を深め、協力して地域の発展に尽くしたと聞く。日本語の名を持つ方が多いことも歴史を思い起こさせ親しみを感じさせる。ただ、先の戦争においてはこの地域で日米の熾烈な戦闘が行われ、多くの人命が失われた。日本軍は貴国民に避難等安全に配慮したと聞くが、多くの犠牲者が生じたのは痛ましいことだった。この地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道を忍びたいと思う。パラオの人々が厳しい戦禍を体験したにもかかわらず、戦後に慰霊や墓地の清掃、遺骨の収集などに尽力されてきたことに対し、心から謝意を表したい。ミクロネシア3国と日本との外交関係樹立後20年以上たち関係が深まっていることは喜ばしく、一層交流が盛んになることを願う
H27.12.18.お誕生日の陛下の記者会見より ⇒ 戦後70年、戦争によって、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々の命が失われたことを思うと心が痛む。ペリリュー島には無数の不発弾が沈み、海の安全にはまだ大変な時間がかかることを知った。先の戦争が島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならない。この1年、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思う。年々戦争を知らない世代が増加していくが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思う。82となって年齢を感じることも多くなり、行事の時に間違えることもあった。11つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです
H27.10. 皇后陛下お誕生日の文書回答 ⇒ 平和な今の時代を生きる人々が、戦時に思いを致すことは容易なことではないが、若い人たちが、真剣に戦争や平和につき考えようと努めていることを心強く思う。愛子が、原爆直後に女子学生だけで電車を動かしていたという記事を読んでいたことを知って胸を打たれた。若い人たちが過去の戦争の悲惨さを知ることは大切ですが、愛子が、悲しみの現場に、小さくとも人々の心を希望に向ける何らかの動きがあったという記事に心を留めたことを嬉しく思った。今年のペリリュー島で陛下とご一緒に日米の戦死者の例に祈りを捧げることが出来たのは忘れられない思い出。戦争で、災害で、志半ばで去られた人々を思い、残された多くの人々の深い悲しみに触れ、この世に悲しみを負って生きている人がどれ程多く、その人たちにとり、死者は別れた後も長く共に生きる人々であることを、改めて深く考えさせられた1年だった

第2部        友好の旅
第3章        シンガポール、マレーシア、タイ、東南アジア歴訪――平成186815
シンガポール ⇒ 国賓としては初めてのご訪問
マレーシア・ペラ州 ⇒ 当日ドタキャンとなった15年越しの約束を果たす旅
タイ ⇒ 国王即位60周年祝賀行事ご参加。地元紙は、「国民が最も待ち望んでいた客人」と紹介、祝賀行事出席の王族皇族のうち最も感銘を受け洗練されていたのが両陛下と報道
H18.6.8.政府専用機でシンガポールにご到着後、36年前に植樹された蘇鉄をご覧になる
シンガポールの指導者たちは、建国後早い時期から日本との間で歴史問題に拘泥することは止め、日本との協力関係を進めることで国造りを進めてきた経緯があるものの、そうは言っても、戦争の被害者の記憶が継承されている国内の華人の間に複雑な感情が残っていることは否定できず、それだけに晩餐会の答辞で陛下が、「先の大戦で尊い命を失い、様々な苦難を受けた人々のあったことを忘れることはできない。我が国の人々は、この歴史に思いを致し、東南アジア地域の安定と発展、更には世界の平和と繁栄に貢献すべく力を尽くしてきた」と述べられ、それを地元の要路の人たちは高く評価、メディアも好意的に報道
マレーシアでは、15年前ご訪問を予定しながら、山火事で視界不良となり断念したことから、今回のご訪問でやっと約束が果たせた。サイド・シラジュディン国王王妃とは1970年同国ご訪問以来のご親交があり、前年3月には国賓としてお迎えしていることもあって、夕食は深更に及んだ
タイの5日間は、在位60年記念と同時に43年に亘る両国王夫妻のご親交の総決算

第4章        スウェーデン、バルト3国、ヨーロッパ歴訪――平成1952130
ロンドン・リンネ協会からのリンネ生誕300年記念行事へのご招待 ⇒ 80年に魚類学への貢献からわずか50人の外国会員の1人として選ばれていた
リンネの母国スウェーデンでも、国民的英雄の祝賀行事を予定、国賓として招かれる
冷戦終結後の欧州の新国際秩序形成を、バルト3国の独立回復過程を注視してこられた
スウェーデンは、S60年皇太子、H12年国賓として訪問されて以来3度目
スウェーデン国王は、12回訪日の親日家
スウェーデンは、18世紀初頭の大北方戦争(170021)でロシアに敗れ、バルト3国まで及んだ版図の過半を失い、国の再興を賭けて科学の振興の旗振りとなったのが自然科学者のリンネであり、今日、科学・技術立国を国是とするスウェーデンでは国家的英雄
誕生日当日の祝賀行事では、招待された外国の王族は両陛下のみ、分類学の研究に携わる科学者及びスウェーデンの理解者としての陛下に対するスウェーデン側の敬愛の念を示すもの。陛下はウプサラ大学の名誉学員として迎えられ、自らも名誉学員である国王が並んでメダルを紹介するというお茶目な仕草が満場の笑みを誘った。陛下は、リンネの分類法確立に寄り、文化を異にあうる世界の動植物学者が共通の言葉でコミュニケートできるようになったことに言及されつつ、科学の発展のための国際協力の重要性を強調されたが、これこそ科学者としての陛下が世界に向けて発信しようとされたメッセージ
バルト3国は、1991年独立、ソ連邦離脱の最初のケースであり、ソ連邦が一気に崩壊
旧ソ連邦内を両陛下が訪れるのは初めて ⇒ 24日エストニア、25日ラトビア、26日にはリトアニアという慌ただしいスケジュールの中、3国が歴史に翻弄され辛酸を嘗めた過去に思いを馳せられた
最後のロンドンではオックスフォード大をご訪問、リンネ記念行事では記念講演の後、バッキンガム宮殿に9年ぶりで女王陛下ご夫妻を訪ねられ旧交を温められた
一言で国際親善というが、両陛下の場合は、訪問国で出会った人々と心を込めて接し、人々は両陛下の優しさ、人柄、品位に感動し、その感動と喜びが人々の間で語り継がれ、あるいは現地の報道で伝えられることによって、その国の人々の日本に対する好感と友情の念が増すというプロセスであり、両陛下の強い思い入れがなければできない

第5章        カナダ、56年ぶりのご訪問――平成217317
カナダは、エリザベス2世女王陛下の戴冠式出席の途次以来56年ぶりであり、皇后陛下は初めて。日加修好80周年の節目を迎えてのご訪問
オタワでは、総督府債を訪問、日本のツガに由来するカナダツガを自ら選んで総督公邸の庭に植樹
カナダの日系人は約5万人で、ブラジル、合衆国、ペルーに次いで4番目に多いが、各地で日系人のこれまでの苦労を労う機会を持たれている ⇒ 1977年カナダ移住100年を機に、日系人の間で第2次大戦中の損害の補償を求める「リドレスredress運動」が始まり、88年に補償処置が決定
最後のハワイでは、両陛下のご成婚を記念してできた奨学金制度の50周年記念式典挙行
H21.12. お誕生日の陛下のご感想より ⇒ カナダが良好な環境を守り、この地に住む様々な民族を大切にしながら国を発展させている姿に接し、今日のカナダへの理解を深めることが出来た

第6章        英国ご訪問 歴史と向き合い続けた60年――平成2451620
エリザベス女王即位60年記念午餐会へのご招待を受けて実現した訪英だが、前年末の気管支炎に続くマイコプラズマ肺炎、更には年初の健康診断での心臓再検査があり、冠動脈の造影検査を経てバイパス手術、術後の胸水の問題が長引いたことから、正式な閣議決定はご出発の8日前という異例の外国ご訪問となった
昭和46年の昭和天皇ご訪英の際は、英国内の反日感情が強く、訪英反対の抗議活動があったり、ご滞在中に植樹された木が引き抜かれたり、皇太子が戴冠式ご出席の際も、ニューカッスル市立ち寄りが労働党議員の強い反対にあって中止されたりしている
一方で、昭和50年の女王陛下の日本公式訪問が実現し、その翌年女王陛下のご招待による東宮時代の両陛下のご訪英では、ウィンザー城で3日間女王陛下の賓客としてご一緒の野外騎乗も楽しまれたが、更に英国政府肝いりで、せっかくの機会なので滞在を1週間延ばし、お二人で自由にプランを立て英国を楽しんでいただきたい、という粋な申し出を受けて、両陛下はスコットランド・ウェールズまでご視察先を延ばされ、貴族の館でその家族と共に生活され、人々との交流の輪を広げられた
平成10年の国賓としての訪英の際には戦争捕虜問題が未解決として反日感情が再燃したが、その際も両陛下は、「戦争により人々の受けた傷を思うとき、深い心の痛みを覚え、こうしたことを心にとどめ、滞在の日々を過ごしたい。過去の苦しみを経ながらも、その後計り知れぬ努力をもって両国の未来の友好のために力を尽くしてこられた人々に、深い敬意と感謝の念を表したい」と述べられている

第7章        思い出の菩提樹の下で インドご訪問――平成251130日~126
53年ぶりに、国交樹立60周年のインドご訪問が実現
昭和24年独立直後のインドから、まだ国交もなかった日本の子どもたちのために象が贈られたのは、戦前からインド国内に日本に対する親近感が育まれていたことが背景にある
インドは、日本が最初に円借款を供与した国だが、輸入代替を軸に閉ざした形で国内経済を発展させようとしていたために、日印関係は他の東アジア諸国との関係に比べて緊密化を欠いていた。20年程前から、インドが開放的な経済運営に路線変更したところから、急速に経済面での協力関係が進み、今回のご訪問の下地ができた
53年前のご訪問で日本大使公邸庭に植樹された菩提樹は、幹7m、高さ17mに育っていた
晩餐会では、陛下がお言葉、「大仏開眼供養に際してインドから来日した僧侶が司式を行い、大仏に目を入れるために使われた筆は今なお正倉院に保存されていることなど往時のインドとの交流に触れ、更に毎年8月インドの議会が原爆の犠牲者に追悼の意を表明していることに対し、国を代表し、とりわけ犠牲者の遺族の心を酌み、心から感謝の意を表する」と述べられ、この英文テキストは多くの出席者から感銘の言葉を持って迎えられた
初めて南部都市のチェンナイ(マドラス)も訪問され、伝統芸能の舞踏など鑑賞、インド料理にも舌鼓を打たれた

第3部        被災地を訪ねて
第8章        東日本大震災発生 両陛下の1週間――平成2331118
大災害についての天皇陛下のお気持ちは316日に放映されたお言葉に尽きる
伊勢神宮に献進される神馬をご覧になった後宮殿に向かい、皇后様は陛下を御座所の芳菊の間までお送りになり、御所に戻られるところで最初の揺れが来た。陛下はいつものようにすぐにテレビをつけられ、皇后さまは前庭に面する重いガラスの引き戸を少し開けて出口を確保された。母上からのお教えとして皇后さまがいつも守っていることだった
陛下は皇后様を伴われ、前庭の中頃までお出になったあと、人落ち着きしてお部屋に入られたが、再度の揺れでまた前庭へ。御座所に戻られた後、皇后さまは御所の状況を案じてお帰りになり、今しがた会われた勤労奉仕の人たちなどを気遣われる。一部約60名はやがて「帰宅難民」となって皇居内窓明館で一晩過ごしている
陛下は16年前の阪神大震災のことを如実に想起されたのであろう
外国元首などからのお見舞いの最初は、40年を超すご親交があおりのスペイン王室ソフィア王妃から皇后様への電話
両陛下からの災害に対するお見舞いは、災害発生県の知事に伝えるのが常だったが、今回の規模の大きさを勘案し、宮内庁長官から菅総理大臣に伝えられた
皇后さまは、早朝窓明館に赴かれ、大半は早朝出発していたが、残った一団を見舞い、発熱の学生1名を宮内庁病院に手配して御所に戻られた
13日になって計画停電への全面協力のご指示あり、第1次オイルショックに始まった御所内での節電努力が一層進められた
被災地ご訪問についても、できるだけ早期にとのお気持ちだったが、災害対策を最優先に、現地の関係者の判断を待つことになるとともに、元々のご予定行事についても極力先延ばしとなり、特にお彼岸前後の武蔵野陵、武蔵野東陵へのご参拝は中止、3月下旬の御料牧場へのお出まし、4月の園遊会も取り止めが決まる
宮殿の閉鎖使用停止、計画停電の実施
15日になって初めて警察庁長官から被害状況全般をご聴取、原発事故については原子力委員会の前委員長代理を招いて基礎知識を蓄えられる
同日、ビデオメッセージをご決断。翌日16:30一斉に放映。緊急ニュースが入った場合にはビデオ放映を中断して速報を流すようにという陛下のご意向があらかじめ断られていた
原発事故で県外に避難した人々の為に、那須御用邸施設開放の可能性や宇都宮市に近い御料牧場の製品を県内に移住した人々に提供する可能性などの検討を命じられる
H23.3.16.陛下のお言葉 ⇒ 悲惨な状況に胸を痛めるとともに、多くの人の無事が確認されることを願う。原発事故では事態の更なる悪化が回避されることを願う。速やかな救助により被災者の状況が好転することを願い、自らを励ましつつこれからの日々を生きようとする人々の雄々しさに胸を打たれる。救助活動の努力に感謝し、その労をねぎらう。外国の元首からも相次いで見舞いが来たことを伝える。皆が相携え、いたわり合ってこの不幸を乗り越えることを衷心より願う。皆が様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であり、被災者が希望を捨てずに明日からの日々を生き抜いてくれるよう、国民1人びとりが被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に復興の道のりを見守り続けていくことを願う

第9章        7週連続・16県 被災地お見舞い――平成23330日~511
3月末武道館に被災者を見舞われて以来7週連続日帰りのお出ましは、511日福島県相馬市原釜・尾浜地区での津波による死者146人へのご黙礼によってひとまず完了
被災の中心地へのご訪問を優先すべしとの周囲の思いとは異なり、被災地の関係者に極力負担をかけずに少しでも早く被災者の近くに行くため、まずは出来るところからという両陛下のご気迫がこのスケジュールとなって実現
H23.12.お誕生日に際してのご感想、文書回答 ⇒ 被災地の訪問を通して、被災者が強い連帯感を持ち互いに助け合って困難を乗り越えようとしていることを心強く思った。各地で始まった支援活動も心強かった。明治29年の三陸地震を始め幾度となく災害を被ってきたが、施設面の充実とともに、避難訓練や津波教育の必要性を認識した。日本の自然災害の厳しい現実を認識し、災害時における人々の悲しみを記憶から消すことなく、常に工夫と訓練を重ね、将来に備えていかなければならない
H23.10.皇后陛下お誕生日のご回答 ⇒ 今年は各地で厄災があり悲しみの多い年。大震災を受け止めるのはたやすいことではなく、ともすれば希望を失い無力感にとらわれがちになる自分と戦うことから始めなければならなかったが、陛下が苦しむ人々の傍らに行き共にあることをご自身の役割とお考えでいらしたのが分かっていたので、お供することに躊躇はなかった。深い絶望感から私を立ち直らせたのは、人々の健気で沈着な振る舞い。自分の持ち場で自分の務めを心を込めて果たすことで、被災者との連帯を感じていたと思われる人々が実に多くあり、こうした目に見えぬ絆が人々を結び、社会を支えている私たちの国の実相を誇らしく感じた。被災した地域が真に良い復興を遂げる日まで、この地に長く心を寄せ、その道のりを見守っていきたいと願う

第10章     両陛下 厄災から5年間の祈り――平成23311日~平成28311
その後も両陛下お二人して様々に考えを巡らされ、それぞれが少しづつ異なる視点に立ってのご訪問を続けられる
この5年間に多くの人々を御所に招かれ、大震災を様々な角度から多岐にわたって知識を蓄積された
H28.3.11.5周年追悼式お言葉 ⇒ 仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は決して忘れることが出来ない。自らの危険や労を厭わず救助や捜索活動に携わった人々に深い感謝の念を抱く。原発事故では事態の改善のために努力が続けられているが、未帰還者を思うと心が痛む。多数のボランティア、160を超える国など、また在日米軍の多大な支援は忘れられない。困難の中にいる人々が取り残されることなく、一日も早く普通の生活を取り戻すことが出来るよう、これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切。美しい自然に恵まれるが、時に危険な一面を見せるので、今回の大きな犠牲の下で学んだ教訓を生かし、国民皆が防災の心を培うとともに、それを次世代に引き継ぎ、より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望する。いまなお不自由な生活の中で、たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、被災地い一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉とする

あとがき
熊本地震が依然終息の気配を見せない中であとがきを書く
H2510月全国豊かな海づくり大会のため熊本をご訪問。水俣は初のご訪問で、稚魚をご放流、大きな厄災をもたらしたあの地域の海が漸く蘇ったことを寿ぐ意味合いもあったが、両陛下と水俣病患者とのやり取りは感動的だった
地震に加え、海水温度の上昇とともに大雨による被害が毎年のように発生、陛下はH25年伊豆大島の被災者を見舞われ、翌年は広島の土砂災害の被災者を見舞われた
次第にお年を召される両陛下にとって、これからはもう少し平穏な時間が流れることを切に願う





随行記 川島裕著

2016/10/16付 日本経済新聞
象徴としてのお務めについて、8月に天皇陛下が述べられたお言葉は、生前退位のご意向を強くにじませ大きな反響を呼んだ。本書では、象徴としての公務の重要な一角を占める先の大戦の激戦地への慰霊や、各国との友好を深めるご訪問、さらに国内の災害の被災地への慰問など、数々の足跡を先の侍従長がまとめた。天皇・皇后両陛下の旅に寄せられる強い思いが伝わってくる。(文芸春秋・2500円)


文藝春秋 Books 紹介
12年間にわたりお側に仕え、「生前退位」問題にいたる陛下のお気持ちをもっともよく知る前侍従長が、克明に記録した両陛下の旅の記憶。カラー口絵12ページに写真を収録。
「国内で、海外で、被災地で、両陛下はいつも心を込めて人々と接せられた。一つ一つの場面を思い起こすと、今も感動は新たである」
2003
年に宮内庁式部官長に就任、2007年から2015年までは侍従長をつとめた著者は、両陛下の国内外の旅に同行した。戦後60年にあたる2005年のサイパンご訪問、戦後70年のパラオ・ペリリュー島ご訪問という「慰霊の旅」。東南アジア、ヨーロッパ、カナダ、インドなどで国際親善につとめられた「友好の旅」。そして20113月の東日本大震災発生以後の、「被災地への旅」。
本書はその旅の克明な記録である。
「何よりも強い印象を受けたのは沿道での人々の歓迎振りであった。空港から田園地帯を通過して御宿舎のある町に向かう途中、多くの人々が道沿いに出ていて、数十メートル毎にいわばかたまりを形成し待ち受けている。そして御車列は、こうした人々のかたまりの前を通過する際にはスローダウンし、両陛下は、御料車の中を覗き込みながら手を振り、あるいは声を上げて歓迎の意を表している人々に対し、出来るだけ一人一人と視線を交わしながら、手をお振りになる。一つのかたまりの前を通過するとスピードを上げ、次のかたまりの前で再びスローダウンするということで、急加速、急減速を繰り返しながら御車列は進むわけである。宮内庁の随行者は御料車の数台後を走行するミニバスに乗っているが、直前に御料車の両陛下をお見上げした達成感からか実に嬉しそうになった人々を次々に眺めると、我々も嬉しくなり、実に素晴らしい体験であった。」(序より)
12年間にわたり両陛下のお側に仕え、国内外の様々な旅に随行した前侍従長の記録です。戦後60年目、70年目の節目に赴かれたかつての激戦地への旅、東南アジアやヨーロッパで国際親善につとめられた友好の旅、東日本大震災の被災地への旅。各地で著者が間近に目撃した両陛下のお姿には、胸をうたれます。カラー口絵12ページに多くの写真を収録しましたが、被災地やかつての戦地で深く拝礼されるお姿が強く印象に残ります。


(38)2130 震災 異例のビデオ放送
「苦難の日々分かち合う」
日本経済新聞 朝刊
2019126 2:00
災害時の流言飛語がどれほどの悲劇を生むか。関東大震災での朝鮮人虐殺は痛恨の歴史だ。平成は大災害の多い時代だったが、人々を狂気に走らせるような事態は起きなかった。
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東日本大震災発生5日後に国民に向けてお言葉を述べる天皇陛下(20113月、皇居・御所)=宮内庁提供

しかし、2011(平成23)年311日の東日本大震災のあまりにも巨大な災厄は、平成の災害時に培われた非常時での冷静さ、助け合いの心などを吹き飛ばしかねなかった。
福島の原発事故に関して、ネットでは不安をあおる根拠不確かな情報があふれていた。地震数日後、パニックになり"疎開"しようとする人たちで、東京駅などは大混雑となっていた。
極め付きは「天皇陛下はすでに京都に避難した」というデマだった。当時の侍従長、川島裕さん(76)は「陛下が東京の人々を見捨てて避難することなどあり得ないこと」と、この話を聞いて仰天したという。
平時では一笑に付されるようなことが、人々の恐怖を増幅させ、無用の混乱を引き起こす。人はかくも流言に弱いものなのか。
川島さんによると、天皇陛下は毎朝6時の起床とともにテレビで災害の状況を注視し続け、何度も宮内庁長官、侍従長を呼んで、皇室として何ができるかを相談していた。節電のための宮殿の閉鎖、皇居のある千代田区は対象外だったが、計画停電に合わせた御所の電気使用停止等々――
これでは足りない。しかし、被災地を見舞うには日が浅すぎる。陛下はそう考えられたのか、15日になって映像によるメッセージを国民に伝えることを決めた。前例のない試みだった。
動きは早かった。翌16日の午前中にはお言葉の草稿を仕上げた。メッセージを出すと発表されたのが昼すぎ。午後3時から御所で収録を行い、4時半からテレビ各局で、メッセージを読み上げる天皇陛下の映像が放映された。災害関連の緊急ニュースが入った際はそちらを優先することになっていた。
陛下は原発の状況が予断を許さないこと、避難生活を送っている人々が厳しい環境にあることに触れ、「何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」と述べられた。
それは自身をも励ますような言葉だった。世界各国の元首から見舞いが届いていることを伝えたあと、「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合っていくこと」「被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくこと」を訴えられた。
放送は約5分半。川島さんは「象徴とはこのような役割もあったのかと思った」と言う。「未曽有の国難のとき、自らの姿を国民に見せて、言葉を伝えて、動揺を鎮める、落ち着かせる。非常時だからこそ、メッセージに意味があった」
被災地では「励ましになった」という受け止めが多かった。「平成の玉音放送」ともいわれたが、そのような上からの響きはそぐわなかった。悲しみ、苦しみの分かち合いを実践する7週連続の被災者見舞いが、2週間後から始まる。
(編集委員 井上亮)


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川島 裕(かわしま ゆたか 194252 - )は、日本の官僚、元外交官侍従長(第8代)。外務事務次官を務めた。
略歴[編集]
慶應義塾幼稚舎東京都立日比谷高等学校東京大学法学部を経て、1964(昭和39年)、外務省入省。外務上級職同期には加藤紘一法眼健作原口幸市橋本宏渡辺伸らが、その他採用組には松尾克俊(ノンキャリによる外務省機密費流用事件首謀者)らがいた。
1966(昭和41年)、ケンブリッジ大学トリニティカレッジ卒業(ケネディスクール同窓会)。官房人事課長、官房審議官、在大韓民国日本国大使館公使を経て、1992(平成4年)10月、駐韓国特命全権公使1994(平成6年)、アジア局長、さらに柳井俊二の後を受けて1995(平成7年)に総合外交政策局長(199584-199781日)に就任、1997(平成9年)、駐イスラエル大使、1999(平成11年)8月、外務事務次官就任。総合外交政策局長次官コースを切り拓いた。就任後、外務省事務官による機密費流用事件や私的不正流用事件、田中真紀子外務大臣との省内騒動を受けて辞任、2001(平成13年)8月、野上義二にバトンタッチした。2003年から宮内庁式部官長20076月から渡辺允の後を受けて、侍従長就任。侍従長としては、今上天皇の在位20年記念式典や心臓手術の対応に当たった。また天皇、皇后の東日本大震災における被災地訪問やパラオ訪問に随行した。201551、侍従長を退任した。
2016春の叙勲で瑞宝大綬章を受章。20168月に『随行記 天皇皇后両陛下にお供して』(文藝春秋)を上梓した。
アジア局長在任中、北朝鮮に対するコメの有償・無償支援に絡み、日本政府に先を越されることを恐れた当時の韓国政府・安全企画部に足をすくわれていたのではないかという憶測記事が、時の橋本龍太郎首相の対韓関係の身上と併せて週刊誌上にて取り上げられていたこともあった。
親族[編集]
元国連難民高等弁務官の緒方貞子とは従姉弟同士、曽祖父は首相犬養毅、祖父は犬養の下で外務大臣も務めた娘婿の芳沢謙吉。おじに外務事務次官、駐アメリカ大使を務めた井口貞夫がいる。妻は、民法・法社会学者で東大名誉教授であった川島武宜の娘である。

時事問題 2016.07.17 2018.08.01
天皇生前退位は宮内庁前侍従長のリーク!川島裕が怪しい!
前回の記事では、天皇生前退位を「政治利用」している者がいるという内容を書きました。
リーク元は「政府関係者」だという結論を出し、その中でも予想として安倍政権や改憲派が黒幕なのではという話をしました。それに関しては多くの方からコメントなどを頂き、まだまだ考察の余地があるなと感じました。
そこで、今回はリーク元の「政府関係者」について考えを巡らせたところ、もう少し詳細な説明ができると思ったので、ここではそれを説明していきたいと思っています。
紆余曲折はあったものの、最終的に考えたポイントとしては
・天皇陛下のご意向を真っ先に知れるのは誰か
宮内庁侍従長)
・宮内庁長官、次長は「生前退位のご意向」を否定
・「天皇陛下のご意向」は5年前から
前侍従長など、以前の関係者もリーク容疑)
というところでした。
注意して情報を見つめ直すと発見はあるものです。
「天皇生前退位」に関するこれまでの考察

この2つ目の記事に関連して、詳細な考察をこれからしていきます。

まず、「火のないところに煙は立たぬ」と言う前提、つまり「天皇陛下の生前退位のご意向」があるものとして議論を進めていきたいと思います。
逆に、「天皇陛下の生前退位のご意向」がデマだったとしたら、天皇陛下直々に「報道で言われているような、生前退位はありません」と発言すればそれで終わってしまう話であるからです。
さて、前回の考察のおさらいですが、
・リーク元は「政府関係者」
・黒幕は安倍政権や改憲派?(予想)
と結論していました。
ここで、「政府関係者」という所に関してはあまり深く考えず、単なる政府の関係者が情報をつかんでリークしたという扱いで議論を進めていました。

しかし、「宮内庁で天皇陛下のご意向を真っ先に知るのは誰なのか?」ということに考えを巡らせると、この「政府関係者」の尻尾をつかむことができました。

「宮内庁で天皇陛下のご意向を真っ先に知るのは誰なのか?」という問いを考えるにあたって、宮内庁の組織説明を参照したところ、
「侍従職侍従長」の統括の下に
「侍従職」の職員が
「天皇皇后両陛下の直接お身近のこと」を担当している
との記載がありました。
と言うことで、先ほどの問いについて、
「宮内庁で天皇陛下のご意向を真っ先に知れるのは、侍従職の人間」
であるというのが答えになります。
 前回記事(天皇生前退位が政治利用で違憲!黒幕とリーク元の真実真相)でも引用した、皇室ジャーナリストの神田氏の言葉によると、
「もし ご意向だとすれば、急に出た話ではないと思います。ご意向が真っ先に伝わるのは宮内庁の侍従長。そして長官、政府官房長官という流れです。そこから総理大 臣のところまでいく。ご意向は政府からではなく宮内庁からくるんです」と、政府関係者が情報の出元だという点に違和感を示した。
とのこと。
つまり、天皇陛下のご意向が伝わるときの正しい経路を細かく見ていくと、
「宮内庁侍従長宮内庁長官政府官房長官」
という順であるということです。
そして、ここに注目すべき事実があると考えます。
「生前退位」のご意向が存在するという前提のもとの考察です。
1、宮内庁侍従長は「生前退位のご意向」を真っ先に知れる
2、宮内庁長官は「生前退位のご意向」を否定している
ただし、「ご意向を知らない」 or 「ご意向を知っているが公的に認めない」というシチュエーションに二分される
ソース
NHKが「生前退位のご意向」について報じたのは713日の19時でしたが、続いて朝日新聞から、以下のような「宮内庁トップ2による完全否定」のニュースが報じられている。
20167132150
宮内庁の山本信一郎次長は13日夜、NHKが最初に生前退位について報じた後に宮内庁内で報道陣の取材に応じ、「報道されたような事実は一切ない」と述べた。宮内庁として生前退位の検討をしているかについては「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語った。さらに「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」とも話した。
宮内庁の風岡典之長官も報道陣の取材に対し、「次長が言ったことがすべて」とした。
次長は宮内庁ナンバー2、長官は宮内庁トップ
引用:朝日新聞
3、「政府関係者」が「生前退位のご意向」をリークした
を参照のこと。

すると、上記2のシチュエーションがどうあれ、
「宮内庁侍従長宮内庁長官政府官房長官」
といった情報連携が今回なされていないということになります。
なぜ正規のルートをたどっていないと言えるかというと、宮内庁長官に情報が行った時点で、長官が「ご意向を知っているが公的に認めない」というスタンスを取ったとしたら、その情報が政府側に伝わることはありえないからです。

すると、情報のリーク元は、「宮内庁侍従長」または「宮内庁侍従職の職員」ということがわかってきます。そして、情報が「政府関係者」に伝わったと言えます。
この考察は以下で少し変化していきます。

さて、今回話題にあがった宮内庁侍従長(じじゅうちょう、と読みます)は現在誰が勤めているのでしょうか。
宮内庁の幹部名簿によれば、河相周夫(かわい ちかお)という人物であるとわかりました。

上の画像は、前侍従長の川島裕の後任として、現侍従長の河相周夫が決定したときのものです。以下は前侍従長の川島裕の画像。
川島ゆたか
河相周雄は、元外務事務次官であるとのこと。
おなじく、川島裕も元外務事務次官です。侍従長は外務事務次官OBが務めるものなのでしょうか。

ふと気になり、侍従長の就任期間などを調べて見ました。
・川島裕 侍従長:20076~20155
・河相周夫 侍従長:20155月~現在

これを見た時、ある記事を思い出しハッとしました。
713 2033
「天皇の務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」と考えられ、「務めが果たせなくなれば、譲位すべきだ」というお気持ちだということです。今後、 年を重ね、ご自身の考える天皇としてのあるべき姿が体現できなくなる前に天皇の位を次の世代に譲られたいということだと思います。天皇陛下がこうした考え を示されたのは、5年ほど前のことで、以来、この考えを一貫して示されてきたということです。
引用:NHK
仮にNHKが言うように天皇陛下が5年ほど前からそのような(生前退位の)ご意向をお持ちだったとします。
すると当然ですが、
前侍従長であった川島裕はその事実を知っている
ということになります。現在の侍従長がリーク元かとも思ったのですが、こちらの筋も十分にあり得ますね。

そうなると、選択肢として
1、元侍従長の川島裕がもともと知っていてリークした
2、現侍従長の河相周夫が事実を知り、リークした
が浮かんできます。

しかし、このようなスクープが現侍従長からリークするというのは立場上考えにくいです。それだとしたら黒幕は容赦ないですね。
ここでは元侍従長の川島裕が5年前から知っていた情報をリークしたと考えるのが妥当な筋ではないでしょうか。

先ほどは、侍従長または侍従職職員が政府関係者にリークしたと書きましたが、前侍従長がリークするということを考えていなかったので、結論が変化しています

また、こう考えていくと今までのニュース報道が情報の出所について
「政府関係者によると」
とか
「宮内庁によると」
とかいう言い回しをした理由がわかってきます。
なぜなら、リークしたのが前侍従長である川島によるリークだったため、
「政府関係者(外務事務次官OB)」
でもあるし
「宮内庁前侍従長」
でもあるため言い回しが混同した報道になったと考えられるからです。
前侍従長が「宮内庁ではこういう話だった」と言うと、そのソースが宮内庁であると書かれる可能性もあるため

さて、ここまででリーク元についての考察は以上です。
前侍従長or現侍従長がリーク元だと考えられますが、ここでは前侍従長の川島裕が怪しいと結論づけました。
今後の議論としては、侍従長から誰に情報が流れ、「政治利用」しようと目論んだのかというところですね。川島裕や河合周夫という人物について深く調べてみる必要がありそうです。
また考察が出来次第追記していこうと思います。


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