考えるための日本語入門  井崎正敏  2019.3.18.


2019.3.18.  考えるための日本語入門 文法と思考の海へ

著者 井崎正敏 1947年東京生まれ。東大文倫理学卒。筑摩書房入社。「ちくま学芸文庫」編集長、「ちくま新書」編集長、専務編集部長などを経て、01年退社。評論活動に入る。この間、武蔵大客員教授、東大・明星大非常勤講師。著書に『天皇と日本人の課題』他

発行日           2018.11.30. 第1刷発行
発行所           三省堂

序章 日本語で考えるとはどういうことか?
言語によって考え方は違うのか?
言語と思考を因果論で結び付けてみても始まらない ⇒ 日本語は非論理的だから日本人の思考は曖昧だ、という類の短絡的な発想
本書は、日本語と思考の間の基礎的な関係に焦点を絞る ⇒ 思考という観点から日本語の文法構造を探求する試み。日本語で考えるとは、具体的に日本語の文法とどういうふうに関わり合うことなのか
考えるとは、言葉と共に考えること ⇒ 聴覚や視覚という感覚作用でも、言葉による文節作用と無関係に機能することはない。考えることは言葉と共に考えることであり、思考は初めから言葉とともにある
論理というのも、自分の感覚や考えを人に知ってもらいたいと思い、あるいは人の感じ方や考え方を知りたいと思って、お互い言葉をやりとりする中から、どちらにも納得いく筋道が見えてくる、これが論理 ⇒ 他者と思いを共有したいという意思がなければ論理は成立しないことから、倫理でもある
座談の席で話された言葉は、そのままではとても読める日本語にならなかった ⇒ あるテーマについて語り始めても、その話題が1つの文として完結しないうちに、他の話題が挿入され、その連想からまた違った話に展開する
日本語は題目を優先 ⇒ 題目と述部との論理的関係は、話された後でしかわからない
日本語は思いつくままに喋っても、大体意は通じるが、その調子で文章を書くと、しばしば意味不明な文章が出来上がる。日本語の特質を自覚し、活かす努力が足りないためだ
1章では、日本語において、話し手と聞き手はどのような関係になっているのかについて考える
2章では、題目と述部との関係。キーワードは助詞の「は」
3章は、日本語の世界をどのように構築しているのかといった問題。キーワードは助詞
4章では、話される内容と、話し手のその内容に対する態度や気持ちは、日本語の構文の中でどのように織りあわされているのかといった問題。キーワードは「詞」と「辞」、あるいは「コト」と「ムード」
5章では、「ある」について探求。哲学的な問題にも光を当てる
最後に、思考と日本語の関係を「隣接」という原理の問題として考える。この原理が、本書のすべての問題に関わる最も基本的な原理であったことを確認したい

第1章        「そこ」が対話のポイント――聞き手の場所へ
1.    「そこ」とはどこのことか?
「こそあど」の体系は、話し手と聞き手が物理的に同じ場所にいなくても成立する
話し手の領域が「ここ」、この領域にあるものが「これ」、体言を修飾する場合は「この」、用言を修飾する場合は「こう」→「近称」
同様に、聞き手の領域が「そこ」、以下「それ」、「その」、「そう」→「中称」
話して、聞き手双方から離れたところが「あそこ」、以下「あれ」、「あの」、「ああ」→「遠称」
場所が不定ならば、「どこ」、以下「どれ」、「どの」、「どう」→「不定称」

2.    現場指示の「それ」と文脈指示の「それ」
日本語では、「こ・そ・あ」のすべてを文脈指示に使い、現場と文脈の間がかなり連続的
自分のものでも相手の手許にあれば、「その茶碗」 ⇒ 現場指示として普通の用法
自分の体験談を語り終えたところで、すぐさま「それも今は昔の話です」とコメントするのは、聞き手に届けた話題は既に聞き手の手中にあるものとして、話し手は「そ」系で指示
「こそあど」の体系は、聞き手の共感と同意を常に求める形で、話を進めるように設定されていた

3.    文脈をつくる「それ」
話題は話し手が提出するものなので、自分から言い出す限りは「こ」の領域に属するが、それがすぐさま「そ」の領域に移行。ただし、話題が共有されるためには、話し手の側に言葉の工夫が必要
指示対象が眼の前にないときが、文脈指示語の出番 ⇒ 「そ」系の指示語が前の分を受けて、文脈を形成する。「しかし」は「しかしながら」に由来し、この「し」は「そ」と同源なので「そ」系とみられ、「のみならず」も「それのみならず」の省略形とすれば「そ」系といえる
日本語には本来(人称)代名詞はない ⇒ 人称代名詞は英語と同じようには使われない。「私」は、一般名詞から人称名詞に転用されたもので、元は1人称専用の言葉ではない
「あなた」は、元々遠称の指示語で、変転を重ねて、相手を指す言葉として部分的に定着
「かれ」も、元は遠称の指示語で、人称名詞に転用されてからも男女双方に使われた言葉
語法の面で「代名詞」に特別の機能がなければ、文法上の品詞としてわざわざ「代名詞」を立てる必要はないが、意味の上で一般の名詞とはかなり違うので、名詞の下位分類として「人称名詞」を立てておけば十分
「こそあど」は、「人称代名詞」という文法用語を不要にするほど、日本語のコミュニケーションの鍵となる体系だった
いかなる言語にも、すでに言及された事物、前段の主旨などを指し示す言葉が存在する ⇒ 英語で言えば「it」だが、日本人が初めて「it」に接した時、それに相当する日本語の代名詞はなかったので、翻訳者は日本語の中で同じような役割を果たしていた「そ」系の指示語を、翻訳語として選択し、定着した
it」は3人称の代名詞であり、1人称や2人称とは区別された領域を支配し、my bookyour deskitで置き換えられた瞬間に、Iからもyouからも文法的に切り離される
ところが、itの訳語の「それ」という語は、3人称の代名詞でもなければ、話し手からも聞き手からも独立した第3の領域を指示する言葉でもなかった。「それ」は本来聞き手の領域にあるものを指す言葉であり、転じて文脈内の事柄を指示する言葉になっていた
「それ」という指示語が、文脈指示の役割を担ってきた長い歴史があったので、明らかに背景の異なるitを「それ」と訳し、theyを「それら」と訳しても不便を感じない

4.    敬語の鍵も聞き手にあった
他者に対する敬意や礼儀が存在する限り、どんな言語にも尊敬表現があるのは当たり前だが、日本語の敬語が煩雑なのも事実。それは敬語と人称との間に深い関係があるから
用言が敬語であれば、1人称、2人称の主格をわざわざ表示する必要がなかった
敬語の法則が最も整頓されていたのは口語 ⇒ 談話の現場において敬語の体系が最も発達したこと、敬語と人称との間に深い関係があること、人称が「こそあど」の体系と密接な関係にあること、を考え合わせると、敬語の体系もまた、話し手と聞き手を2つの焦点とする談話の場をベースに発達したことがよく理解できる

5.    まとめ
「こそあど」という指示語の体系は、言葉を話すとき、言葉で考えるとき、聞き手というコミュニケーションの相手を常に配置させるステム
敬語の世界も、話す人と聞く人の関係をデリケートに表現

第2章        「は」は語りかけのサイン――対話をつくる構文
1.    「姉さんは男の子です」
「は」という助詞は、聞き手との間に共有された話題を指し示す指標を意味するので、その話題が話し手と聞き手の間に了解されていれば、その先は、文法的にはかなり自由に文章を展開できる
「は」は「既知」の事物を指し、「が」は「未知」の事物を指すという、情報論的な説明が一般的だが、本筋を外した議論で、「既知」とか「未知」というのは単に聞き手に知られているということではなく、話し手の差し出した話題が聞き手にすでに了解され共有されているということで、この手続きが済んだことを「は」という助詞が保証している
「姉さんは男の子です」というのも、一般の包摂文では「姉さん」とは年上の姉弟という把握しかできていないので、文章として意味が取れないが、「姉のところの子どもの内訳が問題になっている」ということが話し手と聞き手の間で共有されていれば、「姉さん」という言葉が具体化されているので文章としても成り立っている。「は」という助詞には、話し手のそのような了解と共有の意識が示されている
「は」という助詞の前にくる言葉がすべて題目というわけではない ⇒ 題目を提示する使い方は3,4割程度、あとは文中のどこにでも入り込んで、それより後の部分に「差異化」の力を働かせるつかいかたで、そちらのほうが本領。「は」という助詞自体に題目を提示する働きがあるのではなく、「差異化」の力によって題目も提起される
「白夜あける」 ⇒ 額縁的詠嘆
「ボクハウナギダ」とか「象は鼻が長い」
AB(である)」のような多義的な名詞文を、日本語学では「ウナギ文」と呼ぶ。これこそ日本語は非論理的だと非難する人々の格好の標的とされるが、仲居に「お客さんは」と注文を聞かれて「ボクハウナギダ」は十分すぎる応答で、非論理的な隙などない。「は」によって題目と説明とが連結された過不足ない「題述関係」である
日本語独特の表現ではなく、中国語や韓国語にもみられる構文である

2.    「は」が係助詞であるわけ
題目を「は」で表示し、それについての説明を加えるという題述関係の文は、語り手が聞き手に語りかけるための1つの装置
眼前描写のなかの「が」と「は」 ⇒ 台風のニュースなどを伝えるレポーターはほとんど区別せずに使っていて、どちらでもいい場合もあるが、微妙に意味が違う。「は」によって示された言葉は、レポーターが視聴者に共有されていると判断した題目
「は」という助詞によって示された名刺はどこに繋がるか。「てにをは」という「係り詞(かかりことば)」に大事な鍵がある。「は」「も」「こそ」「さえ」「でも」「しか」「だって」など文末まで係る助詞を「係助詞」とし、「が」や「を」などの格助詞と区別
西洋語の構文に於いては述語動詞は不可欠だが、日本語では形容詞も単独で文を成立させる力を持つので、西洋語の述語動詞に相当するのは、日本語では、動詞と形容詞からなる「用言」
日本語には、西洋語の主語+術後のような文構成に不可欠の文法要素は存在しないが、係助詞「は」は、「一定の陳述(=結び)を要求する」という点で一文を構成するための大きな枠組みを作り出している

3.    「は」はどこまで係るのか?
「は」は題目を提起し、述語と呼応して一文を完結させる ⇒ 「題述の呼応」こそ「は」の本務(⇔兼務)だが、それに留まらず、文末を越えて、次の題目が提示されるまでは効力を持続する(=ピリオド越え)
「が」という主格補語でも、ピリオド越えすると強弁できないことはないが、「は」はピリオド越えした後に自然に(隠れた)格関係を変更することまでやってのける
「鱧は夏の魚だ。(鱧は)梅肉で食べる。」(主格→対格)
「次の停車駅は(ドコカトイウト)石神井公園にとまります。」「停車駅」を主格ととると非文(文法上成立しない分)だが、()内のように解すれば通用する

4.    まとめ
題目提示の指標となる「は」は、「が」「を」「に」などの格助詞とは全く役割の異なる係助詞で、後に続く述部の全体に勢力を及ぼし、更には文を完結させるところに主要な役割があった
意味の面からみれば、係助詞としての「は」の本領は、話し手と聞き手の双方に共有された話題を提示し、それに対する新たな説明を要請するとことにあった
1章との関連でいえば、話し手・聞き手双方に共有され、「そ」の領域に位置を占めた話題だけが、「は」で受け止められる資格を得た。その話題が実際に共有されていなくても、フィクションとして相互了解されれば、それでも通用した
日本語には、「は」で示された話題から始まる題述文が多いが、それは日本語が常に聞き手による了解を確認しながら、話を進めていく言語だということを物語っている
題述文は、話し手と聞き手の間に成立する語りを構成する文型であり、一方で言葉によって世界を組み立て上げるために使われるのが「てにをは」という格助詞

第3章        「が」は組み立てのツール――世界を構成する構文
1.    係構文と格構文
日本語の構文は、題述文(有題文、係構文)と無題文(格構文)とに2分できる
事態を構成するのはもっぱら格構文の役割で、格助詞をツールにしてどんどん言葉を組み立てていくことで世界を表現する
格構文は語り手によって構成されるので、構成の仕方には語り手のものの見方が反映されている
係構文は、話し手と聞き手に共有された題目について語る構文なので、小説の中でも読者との間に共有された話題や人物は係構文で語られる

2.    日本語は用言1本立ち
日本語では、用言(+僅かの付属語)だけで意味が通じることが多い
英語を含むラテン文法では、主格だけが述語動詞と特権的な関係を結び、その他の目的語は動詞に従属するが、日本語の場合、主格だけが用言に対して特別の強制力を持つことはないところから、主格がなくても文章として成り立つ(→主格が用言の中に含まれている)

3.    「格」とはなにか?
格助詞を連用助詞と連体助詞に区別した上で、連用助詞の中にも「が・を・に」と「と・へ・から・で」などとの間に職能上の大きな違いがある ⇒ 前者は無形化(省略)されることが多いのに対し、後者では無形化は起こらない。一方で、後者は連用助詞という職務を果たさぬまま連体助詞「の」が付くことで連体成分の素材に変身してしまうことがある
「仏語の本()読んだよ」⇔「ロンドン再会する」
「ロンドンでの再会」
格構文は事態の写像ではなく、話し手による事態の組み立てであり、組み立ての大半は慣用に従ったもの

4.    漢文には「てにをは」がなかった!
日本語は「てにをは」なしでは文を成さないが、中国語は助字がなくても成立する
漢文訓読の際、日本語として読みこなすために必要となったのが「てにをは」 ⇒ 訓読の際に補読しなければならない助詞、助動詞、活用語尾、接辞の類の総称
漢文訓読によって今日まで伝えられた独特の語法が少なくない
    古代の語や語法が、漢文訓読のなかに保存されたために、今日まで伝えられたもの ⇒ 「ごとし」「いわゆる」「しむ」「いわく」「あるいは」
    漢文訓読のために新たに案出された語や語法が、国語の中に定着したもの ⇒ 「かつて」「すでに」「かつ」「ゆえに」「いまだ」「ために」「ところ」
日本語の単語が細分化していないのは、意味を抽象化した結果ではなく、むしろその逆で、意味に従って新たな語彙を生み出さずに、語彙はそのままに新たな意味だけを派生させてきたからではないのか。日本語は「抽象性」「論理性」に富んでいるのではなく、喩の能力に富んでいたというべき

5.    まとめ
格構文とは、話し手が自分の内外の出来事や思いを、1つの事態として構成する構文
世界を構成する格構文は、基本的に用言とその補語から成り立つ ⇒ 用言の中に主格が含まれ、必要な場合にだけ表に出る
格表現は格助詞によって表示される。格助詞の中でも「が・を・に」で表示される格は、述語との関係が密接であるため、「あの本読んだよ」のように助詞がしばしば省略された
「と・へ・から・で」は述語との強い結びつきのため省略されない。一方、連用の役目を果たさぬまま、「の」が付くことで連体成分の素材に変身することがある
体言や用言という詞は、世界に存在する事物の概念だが、格助詞「が」、係助詞「は」やその他の助詞・助動詞は世界中どこにも存在しない
漢語を日本語として読み直そうとした訓読という作業の中で「てにをは」を学問的に考えるようになった

第4章        「私」は言葉のどこにいるのか?――日本語の中の主観と客観
1.    時枝誠記(もとき)の主客二元論
言語主体(話し手と聞き手)による言語行為が根幹に据えられる
語彙でも文法でもなく、言語主体相互の言葉のやり取りの過程そのものに言語の本質を見た
言語において単語が単位になるのは、言語主体が主体的意識において、1つの統一体として単語を認識しているからであり、言語学という学問の分析の結果ではない。文についても同様、言語主体が主体的に文を1つの統一体として認定しているということが根拠となり、文と認識された
言葉は線上に11つ並べていくことしか構成の手立てがないので、前と後ろの関係から、全ての構造が構築される。しかし、前後といっても隣同士の場合と間を飛ばして前から後ろに係る場合とがある。前者を隣接関係、後者を呼応関係と呼ぶ

2.    コトとムード
コトとは、文が伝えようとする内容のこと。述語の語幹とその補語、連用修飾語から成り立つ
ムードとは、話し手によるその伝え方を意味

3.    発話はつねに「主体」的である
生物学的には同じ魚を成長期によって呼び分けるのは日本語の習慣であり、牛肉の部位を呼び分けたのは英語の習慣 ⇒ それぞれの呼び分け方はその言語共同体の勝手だが、この勝手にはその共同体なりの理由があった
言語を獲得した人間は、身体的な分節を基盤にして、渾沌とした外界のカオスを言葉によってさまざまに切り分け、11つに名前を付けた。それは生活上の必要や文化上の要請に根差していた
日本語の基本構造は詞と辞の組み合わせから成り立つ

4.    まとめ
日本語の構文は、基本的に、実態を指し示す言葉(詞、語幹、コト)と、それらを関係づけ、話し手の心持を示す言葉(辞、活用語尾、ムード)との組み合わせによって成立した
言葉の選択、接続の仕方の中には、言語主体の意思や感情が鮮明に込められている
客体表現の基盤には、常に言語主体の主観があり、主体表現の基盤には、言語共同体の厳然たるルールが存在する

第5章        「ある」は語りの出発点である――構文を発掘する
1.    「ある」は「存在する」ことなのか?
存在詞「あり」の多様な働き
自発・可能・受身・尊敬の助動詞といわれる「る・らる」の語源は、「事態が生まれ出る」という意味の「生()る」とされるので、存在を意味する「あり」の語根と同一

2.    「がある」ことと「である」こと
現代語の「がある」と「である」は、古語の「あり」と「なり」にほぼ相当
助動詞「なり」は、格助詞「に」に「あり」が付き、縮約されて「なり」となったので、「なり」の中には格助詞「に」が含まれる。元々場所や方向を示す名詞の下に直接付いて存在することを表した
現代語の「である」も、「なり」と同じ構造を持つ ⇒ 「で」は格助詞「に」に接続助詞「て」の付いた「にて」という格助詞から転じたもの

3.    指定文の構造
「机の上本がある」は、存在文
「その本は哲学書ある」は、指定文/断定文
「に」も「で」(もとは「にて」)も、格助詞「に」の本来の役割としては場所を示していたが、「で」の前に場所といえないものが来ると、指定文になる

4.    まとめ
「ある」という認識が、語りの出発点にある ⇒ 「ある」と認定された志向対象について、判断や感想を抱いたとき、思考が始まる
「あり」は、様々な言葉の中に潜り込み、表現を多様化
「ある」は、意識の思考対象の認定から事態の認定まで、言語主体による世界の分節と構成を表明する根底的な言葉だったが、現代日本語の話者にとって、「である」には指定の意味しかなく、存在の意味など念頭にない
指定文は、存在文のなかの補語によって示される具体的な場所を、概念的な場所に読み換えることで、種にとっての類という場所を獲得した

終章 日本語とともに考える
l  思考の筋道と言葉の組み立て方は一致しない
言葉で道順を教えるのは厄介だが、地図を渡せばたちどころに解決する ⇒ 地図に目印の名前を書き込むように、言葉によるサポートは不可欠
言葉なしには何も考えることが出来ないが、言葉の組み立ての順序が、考える順序に一致するわけではない
人間の思考も、概念と概念を連結させて遂行されるが、概念をただ前後に組み合わせるだけの構文法に比べると、ずっと自由なネットワーキングをしている ⇒ 言葉の場合、前後に接続するか、前の方から呼び掛け、後ろの方が応じる、といった形でしか、表現のしようはない。この呼応の関係には、係構文の他に隣接という形態がある

l  「隣接」の原理
言葉を11つ前後に連ねていくという作業の中で、私たちがしているのは、どの言葉を選ぶか、その選ばれた言葉をどう結び付けるかという、2つの操作だけ
選び出された言葉と、選ばれなかったけれども選択可能だった言葉群との潜在的な関係を、言語学では「連合/範列」と呼び、言葉と言葉を結びつける関係は「連辞/統辞」と呼ぶ
どのような意味的結合もすべて、言葉と言葉を前後に隣接させることでしか実現されない。しかし文法上の「隣接」と意味関係上の「隣接」とは別物

l  何と何が「隣接」するのか?
種と類の関係は上下関係で結びつき、包摂文を作るが、水平軸上にあるもの同士は隠喩文(相似関係)となる
文法上の「隣接」は話し手が文を組み立てた結果に表れるものなので、話し手が何と何をつなぎ合わせたかということが重要 ⇒ 日本語において、この結合の接着剤が「てにをは」なので、そこには話し手の思いが込められている
言葉と言葉が結び付けられるというのは、話し手と聞き手の間に「意味」が成立しさえすれば、どんな言葉でも可能
「隣接」を原理とする換喩の働きによって、「目」という基本的な言葉が、「ひどい目にあう」というように「体験」という意味にまで意味を発展させ、「見る」という基本的な言葉も、「味を見る」というように、「調べる」という意味にまで、意味を派生させ、豊かな意味の世界を開拓していった
どの言葉もこの「隣接」の原理にしたがって、言葉を線上に11つ並べていくことにしか表現の手立てはなかったが、その並べ方が諸言語ごとに少しづつ異なっていた

l  言葉は一方的な支配を許さない
言語と人間の関係の基本 ⇒ 話し手と聞き手による相互性と対等性がなければ、言語コミュニケーションは成立しない
言語という基盤は、人間を人間として存立させる根底的な基盤なので、現実を解決する最終的な可能性もまたそこに見いだされる ⇒ いじめの場合も言語の対等性に対する信頼を失うことさえなければ絶対的に敗北することはない。いじめる側が言葉を放棄せざるを得なくなれば、暴力的な支配は貫徹できても、言語主体としての根源的な敗北となる

l  人間の言葉を破壊することはできるのか?
国家レベルで考えてみると、国民の心のうちまでを支配しようとすれば、言葉の働きそのものまで統制する必要がある
ジョージ・オーウェルの『1984年』は、独裁者が言語を封じた世界を支配したが、支配対象はもはや言語主体としての人間ではない ⇒ 人間を根底的に支配することに失敗

l  日本語という条件と可能性
日本語は豊かな言語
日本語とともに考える限り、ともに考える日本語の個性をよく知っておきたい
言語の組み立て方は、極めて素朴なもので、日本語も素朴な組み立て方を駆使して、様々な語法や構文法を発展させてきた
本書はその個性の基本にあるもの、特に文法的な個性の基本について考えた
ともに考える日本語のこの個性をよく知ることによって、日本語で考えることの可能性はさらに開けてくるに違いない


(書評)『考えるための日本語入門 文法と思考の海へ』 井崎正敏〈著〉
20191260500  朝日
 世界はさまざまな意味をもって現れる。そうした意味は私たちが使う言葉と本質的に結びついている。だから、世界と言葉と人間は相互に結び合い、切り離すことはできない。
 そんなことに興味をもっていて、しかも日本語という言語にも興味をもっている人に、本書を薦めたい。とくに、山田、時枝、三上らの日本語学に興味をもちつつも、勉強してこなかったので山田孝雄(よしお)を「ヤマダタカオ」などと読んでしまう人(ああ、私だ)、この本はとても勉強になるに違いない。そして、私たちが何気(なにげ)なく使っている日本語が、人と世界の関係を語るためにいかに精妙に作られているかを、深く感じさせられるだろう。
 ただし、相手は日本語であるから、そう一筋縄ではいかない。少なくとも一読すっきりとはいかないだろう。むしろ私は日本語文法の海の中に突き落とされたような心持ちがしている。そして溺れそうになって、喜んでいる。
 野矢茂樹(立正大学教授)
     *
 『考えるための日本語入門 文法と思考の海へ』 井崎正敏〈著〉 三省堂 2052円


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