拗ね者たらん  後藤正治  2019.2.22.


2019.2.22. 拗ね者たらん 本田靖春 人と作品

著者 後藤正治 1946年京都市生まれ。ノンフィクション作家。『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞、『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞、『清冽』で桑原武夫学芸賞受賞。『後藤正治ノンフィクション集』(10巻、ブレーンセンター)

発行日           2018.11.27. 第1刷発行
発行所           講談社

初出 〈読書人の雑誌〉『本』(講談社) 20158月号から20175月号

ファイル「図書館 No.2 11-07より」の『13-06 我、拗ね者として生涯を閉ず』参照


第I部       
第1章        2の出発――『現代家系論』
96.7.27. 糖尿で右眼失明、左眼白内障、狭心症、人工透析、肝炎と満身創痍の本多が、元気なうちにと、ノンフィクション作家として歩んだ33年の後半期に親しかった編集者、いずれも講談社所属を呼んで、一足早い暇乞いを兼ねてということで宴席を設ける
人とは深くちぎらず――本田語録にあるが、逆行するかのように、本多は接した人々を自然と引き付けてしまう人
思想固きジャーナリストで、滑らかで艶のある文章を書く作家。その芯に優しき心根を宿す人。もとよりそれは品行方正という意味ではなく、喧嘩早く、博打事に長けた、諧謔と無頼風を好む人
生前2度会ったが、書きものと書き手の乖離感のない人で、接していて何とも心地いいものが伝わってくる。含羞を帯びた男気、あるいは強気と書くべきか。本多が生来宿した形質であったのだろう
読売の社会部記者として、山谷に潜り込んで売血現場の実態を伝えるルポを書き、長期にわたって「黄色い血」追放キャンペーンを展開、献血制度を定着させるきっかけを作ったことでも知られる
戦後読売が「下町の正義感」を掲げて果敢なキャンペーンを展開し、朝日・毎日の牙城に迫ったのを担ったのは社会部だが、次第に社会部の溌溂とした気風が失われた ⇒ 社主・正力松太郎が登場する「正力コーナー」のよいしょ記事で、本多は執筆拒否活動を呼び掛けたが、結局は一人残され挫折し、独立
初めて署名入りの原稿を書いたのは『石油戦争に生き残る法』(『諸君!715月号)で、元原稿のリライトを依頼されたもの。民族資本によるエネルギー確保の重要性を説くリポート ⇒ 『諸君!』と『文藝春秋』の編集長を務める田中健五が、新聞記者にしては文章がいいと褒めた
『文藝春秋』でスタートした『現代家系論』も田中の企画 ⇒ 羽仁五郎、美濃部達吉、鹿島守之助、湯川秀樹、永野重雄、西園寺公一、美空ひばり、武者小路実篤など、3代続きの家柄を背景に持つ著名人のルーツと人生模様を記した列伝。連載は727月号から翌年6月まで。単行本として刊行され、本多の処女作となる
新聞記者とノンフィクション作家は、もちろん発動源を同じくす連結体ではあるが、新聞と出版は同じジャーナリズム界にありこそすれ、位相を異にするものがある
本田がフリーの道を歩み始めた1970年代初め、世に「ノンフィクション」という言葉が聞かれ出し、その土俵が形づくられようとしていた時期

第2章        人間を描く――『日本ネオ官僚論』
講談社『現代』にて、7310月号から翌10月号まで連載したのが『日本ネオ官僚論』
歴史に立ち入り、人脈と体質を解きほぐしつつ、日本社会にもたらした功罪を書き込む
74年に本多第2作目の単行本
講談社の本企画担当の編集者が先に亡くなった時、社員が在職中死亡の場合社内報『講談倶楽部』で追悼のページが割かれることがあるが、作家による追悼文が寄せられたのはこの時が初めてでその後もない

第3章        己は何者か――『私のなかの朝鮮人』
朝鮮半島および在日韓国・朝鮮人に関わる本を2冊半刊行 ⇒ 『私のなかの朝鮮人』(74)、『私戦』(78年、金喜老事件の全容)、『私のオモニ』(92)
『私のなかの朝鮮人』は自己確認の書 ⇒ 朝鮮に関わることは「内的必然性」を持った、新聞記者時代から温めていたテーマ
朝鮮の春と言えばレンギョウを思い浮かべる
「植民地2世」は、韓国への再訪者なのか、自身の「出身地」はどこか、そもそも己は何者か長崎で貧農の次男だった父方の祖父が故郷を出て朝鮮に渡ったことから始まる

第4章        生涯、社会部記者――『体験的新聞紙学』
文も持って生まれたもの、文における素養が飛び切り豊かな人、とは潮出版の南社長
文章とは、書き手それぞれが持つ指紋の如きもので、本田は美文調の書き手ではなく、技巧的な作為も施していないが、表現の巧みさを自然と埋め込む術を持っている
『潮』での雑誌掲載がそのまま単行本になったのが『体験的新聞紙学』⇒ 76年当時ロッキード事件の報道合戦で、本田の『特別企画 日本の新聞を考える』が初出。事件を巡る各紙報道の検証、客観報道の陥穽、政治部と社会部、西山太吉事件、朝・毎・読3紙が抱える様々な課題を取り上げ、あるべき新聞像を探る
政治部記者に求められる要件は、派閥の領袖クラスに食い込み、コアの情報を得ることで、過去には貴社としての「柵」を越えて領袖と一体化し、政局の節目となるとフィクサー的動きをする記者もいて、それが優れた政治記者と思われる風潮があり、各社そういう意味で名物記者がいた。邉恒が大野伴睦や中曽根と懇意な関係にあったことはよく知られるが、本田は政局で蠢く政治記者には厳しい目を向ける。そもそも社会部育ちの本田には政治記者は肌の合わぬ連中だが、本田の視線は記者個人ではなく、記者の置かれた「位置と構造」に向けられている。本田と邉恒、同じ読売出身の2人のジャーナリストはその後も、記者のあり様において、この生き方において、相交わることのないままにそれぞれの道を歩み続けた
本田が訴えたかったのはただ1つ、記者における「言論の自由」とは言い立てるものではなく、日常の中で常に反復して自分の生身に問わなければならないものだということ
新聞は戦争ごとに部数を伸ばして来たが、言論の自由を貫かんとする抵抗は乏しく、私たちの側の番犬が、向こう側(体制側)の飼い犬に成り下がっている
近年新聞社が奔走してきたのは、紙面の充実より、常軌を逸した販売競争
首都圏と関西圏以外の国内全域でいえば、全国紙より地方紙のほうが大きな影響力を持ってきた
197080年代黒田清率いる大阪読売社会部は刮目に値する紙面づくりを見せ、本田を唸らせた。黒田の官房長官と言われたのが長く府警担当の事件記者だった大谷昭宏

第5章        世界を歩く――『ニューヨークの日本人』
本田がフリーになって3年半、講談社の『週刊現代』から、どこに行って何を書いてもいいと言われて書いたのが『ニューヨークの日本人』で、75年初から連載開始。無名の安野光雅に「大人っぽい絵を描ける画家」として挿絵を依頼
ハイテク時代の日本人の金満ぶりを取り上げ、豊かなモノと脆弱な精神を書く切実な現代日本論ともなった

第6章        事件の全体像を――『誘拐』
77年文藝春秋より出版された戦後最大の誘拐事件と言われた吉展ちゃん事件の全体像を、被害者側、加害者側、捜査陣、そして世相や社会の動向にも言及して書き込む
文春の編集者が、以前からカンザスの片田舎の一家4人惨殺事件を描いたトルーマン・カポーティの『冷血』に匹敵する作品をと温めていた企画 ⇒ 取材の全過程を1人でという条件下、13か月かかって書き上げた
事件発生は63年、日本社会は「1つの変わり目」を迎えようとしていた
テレビ朝日でドラマ化され、向田邦子が担当者ではないのに随分肩入れし、主役の小原保にフォーク歌手の泉谷しげるを推薦。向田が肩入れしたのは、本書に尋常ならざるものを、また書き手の本田に何事かを感じていたからなのだろう。79年高視聴率を記録、ギャラクシー賞、芸術祭優秀賞などを受賞。監督は本田の中学同級生・恩地日出夫。向田の直木賞受賞が翌80年、翌々年には台湾で事故死。本田は追悼文の中で、3つ上だった向田が本田に、「このままいくとただの拗ね者になる。好き嫌い云わずに今は黙ってどんどん書け。そういうことだって大切で、ここで約束しろ」と迫られたというエピソードを紹介。以後本田は「拗ね者」という言葉を好んで口にするようになった
放映の後恩地らが被害者宅に挨拶に出向いた際、遺族より、「これまでは被害者の憎しみでしか事件を見てこなかったが、これで犯人の側にもかわいそうな事情があったことを理解できた」との感想を述べられと聞き、原作者としてありがたく、やっと救われた気持ちになったと述懐

第II部     
第7章        負の歴史を問う――『私戦』
刊行は78年。初出は『潮』7711月号から4回連載。68年の金喜老事件
事件の重大さは、在日朝鮮人の懸命の訴えを、権力とマスコミが呼応して葬り去り、差別と抑圧の構造を最悪の形で温存することに成功した点にある
本書に埋め込まれた主題は、事件の解剖を素材として、その背後に潜むものを見詰めることにあり、アウトローが生まれる足跡には、日本社会が向き合うことを避け、遠ざけてきた負の歴史と差別との関わりがある。そのことを炙り出そうとした
本田の書き手としてのスタンスは、常に弱者の側にあり、弱者を告発したり、非難したり、ましてや中傷したりすることを目的で書いてるわけではない。ペンは強者に向かうべき
事件から31年後の99年、70歳の金は仮出獄し釜山に落ち着くが、暮らした経験のない韓国で大丈夫かという本田の懸念が的中したのか、差別と闘ったヒーローとして迎えられる向きもあったが、1年後には男女関係のもつれから傷害事件を起こし有罪、10年後死去、享年81。母の眠る静岡への墓参のための再入国の希望は叶わなかった

第8章        雑兵への憧憬――『K2に憑かれた男たち』
山岳ノンフィクションは異色
79年から『週刊文春』に連載開始
K2登頂に賭けた山男たちのひたむきさや人生哲学の真面目さに注目して書き直したもの
本田にとって山の世界は、誘われて踏み込んだ縁遠い土俵ではあったが、人間が織りなす世界には変わりなく、彼らに接し、感受するものがあった。自身の来し方に密かに頷き、ふっと背中を押してもらうような、そんな仕事ともなった。異色作は、自己確認の書でもあった

第9章        国家を信ぜず――『村が消えた』
むつ小川原を主題として、79年『文藝春秋』に「国家」というタイトルで発表、翌年刊行
テーマが文春に馴染まず、以後本田と文春は疎遠になっていく
1度は満州へ、もう1度は六ケ所村へ、更に離農へ。幾たびか国策に翻弄された人々の足跡を、六ケ所村に点在した開拓者部落の1つの人々に焦点を当てて綴られる
開拓者部落の人々の大多数は、農民としては滅んだ。それを仕向けたのが「国家」だとして、いったい「国民」とは何であるのだろう、というのは本田が少年期に抱いた多分に疑念を伴った想念なのだろう。誰も、いつの時代も、「国」の埒外で生きることはできない。時々の趨勢に押し流される寄る辺なき存在ではあるが、そうではあってもなお1個の自立した「民(たみ)」として生きていきたいというような――

第10章     スクープ記者の陥穽――『不当逮捕』
57年の売春汚職でスクープを放った読売の司法担当のエース記者で本多の先輩記者でもある・立松が、検察内部の主導権争いに巻き込まれた形で逮捕され、読売が権力に屈服した事件
元原稿は82年『小説現代』に掲載
88年になって"ミスター検察とも呼ばれた元検事総長・伊藤栄樹が書いた『秋霜烈日』で、検察の内部から事件の真相が仄めかされ、改めて検察内部の権力闘争の恐ろしさが暴露
すぐれたノンフィクションの要件は、物語としての豊かさ、主人公の魅力、時代の息吹を伝えるもの、執筆の根拠などだが、本書はすべてを備え、84年の講談社ノンフィクション賞を受賞
本田作品の頂点を成すもの

第11章     アウトローの挽歌――『疵(きず)
「ステゴロ」(素手の喧嘩)を流儀とした花形敬の生涯を描く ⇒ 力道山を上回る最強のストリート・ファイター
初出は77年の『オール讀物』で、ようやくノンフィクション作品も扱い始めたころ
花形には顔に傷があり、当初『向う傷』だったが、彼が生きた時代も込めて『疵』とした
朝鮮から引き揚げてきた本田が通った千歳中学の2年上にいたのが花形で、戦時中の勤労動員で力に不良性が付け加わり、戦後の闇市で安藤組に入り、安藤組長が横井英樹殺人未遂で逮捕され組長不在の間代理を務めたことはあるが、組織を率いるのは柄ではなかった

第12章     わが青春記――『警察(サツ)回り』
私史的ノンフィクションで、58年入社4年目で上野署の担当になったときの若き日の経験を詳述。天声人語を担当して洛陽の紙価を高からしめる名文家となった深代惇郎亡き後、上野のバーの亡くなったばあさんの遺言代理人。警察回りは花形
元原稿は『小説新潮』で86年に4回連載
目の肥えた、生粋の文芸編集者のお眼鏡にかなう作品
区版と警察回りを統括する警察(サツ)デスクの加藤。東大出、戦後第1回目の採用試験合格者の1人だったが読売争議最中の混乱期で採用取り消しとなるが、あまりに成績が優秀なので手放すには惜しいと、1人だけ採用された逸材。後年朝刊コラム『編集手帳』の書き手となり、編集局長も務めたが、「加藤学校」から社会部の精鋭が数多く育った。警察回り当時、加藤の下で本田は28回の連載を担当、直接個人指導を受ける ⇒ この指導がなかったら、今日物書きの端くれに連なっていたかどうかわからない。ノンフィクションライター本田が生まれる遠い日のルーツの1

第13章     大スターの物語――『「戦後」 美空ひばりとその時代』
講談社の『現代』で、人物を通して戦後を描く、という企画の対象としてあげられたのがひばりと長嶋、裕次郎の3人。うち、ひばりなら面識があるし、ともに〈戦後〉という1つの時代を潜り抜けた共有感がある
87年『現代』誌上で連載、同年刊行
日本社会が〈戦後〉を脱却していく中でひばりの歌もまた変容 ⇒ スポ根の《柔》が大ヒットした時、〈戦後〉を体現してきたひばりの輝きは失せ、本田の彼女に対する訣別の理由もそこにあった。ひばりのせいというより、「1億総中流」へと向かい始めた時代の流れが彼女をしてそうさせたというべき。《柔》の翌年の《悲しい酒》が彼女の代表作とされるが、本田にとってのひばりはあくまで《悲しい口笛》であり、《東京キッド》《私は町の子》で、時代的な線を引くなら57年の《港町13番地》まで
ある時期ひばりは「いばり」と陰口されたが、本田の傍にいたのは歌謡界の女王というより、胸の孤独を隠そうとしない1人の女性
取材の過程で、彼女の歩き方に異常を感じてから間もなく、入院の報に接し、それも「両側大腿骨骨頭壊死」という難病とされた
編集者が、ひばりが朝鮮半島出身だという噂を質してほしいと持ち掛けてきたとき、本田は、「人がもし秘匿したいと思っている事柄があるとすれば、それに踏み込む権利は誰にもない」として拒否、結局ひばりからもその話題は出ず仕舞い
本田は取材力に富んだ人だが、奥座敷に土足で踏み込む図々しさではなく、まずは礼儀を踏み、筋を通す。それは相手に伝わるものであって、相応しい見返りが返ってくる、そういう関係性を熟知するプロのジャーナリストとしての取材力である

第14章     放牧の自由人――『評伝 今西錦司』  
編集者のサポートのウェートが高い作品
『山と渓谷』編集長の神長と取材を開始したのは89年、すでに高齢の今西は病床にあってインタビューがかなわず、連載開始は8910月号だが、2度の長期休載を挟んで完結したのは9112月号。単行本はさらにその1年後

第III部   
第15章     インタビュー人物論――『戦後の巨星 24の物語』
『週刊現代』で連載した『委細面談』というインタビュー人物論をまとめたもの。連載開始は84年で、51回続いた中から24人を抽出、没後にまとめて出版
2回刊行の雑誌『ダカーポ』でも、84年から社会時評コラム『今の世の中どうなってるの』を連載、単行本となるが、時評コラムはやがて柱の仕事となる
外国人力士・小錦への偏見、ジャパンカップに出場押した外国場への悪罵、帰化した新井将敬代議士への露骨な差別記事・・・・など、国際化を標榜しつつ、「世界の田舎」に染み入った「偏狭なジャーナリズム」批判を行っている
マイホーム至上主義、飽食時代のグルメ、"名水やスポーツ・ドリンクなどいかがわしい流行りもの・・・・。一方で「いじめ」「父権の放棄」「男性の女性化」・・・・など、社会病理的な現象への考察もいくつかある
時の政権は「新保守主義」を推し進めた中曽根内閣。野党の非力と相俟って本多の嘆き節は尽きないが、30余年前にすでに排外的な国家主義、歴史修正主義と呼ばれる風潮がはびこりつつあったことを知る

第16章     未完のノンフィクション――『岐路』
『週刊現代』に951月からスタート、半年後の21回目をもって病の進行が原因で中断されたが、最初は71年のダービーを劇的な逆転劇で優勝した競馬ノンフィクションで始めた競馬私史
『不当逮捕』と並ぶ代表作的なものを目指し、讀賣を辞めたころ、自分に隠れてやった前妻の借財を背負い込んで、離婚はするは子供の養育は引き受けるは、借金まみれの地獄だったことにも踏み込んで書くつもりでいた

第17章     灯を手渡す――『複眼で見よ』
『ちょっとだけ社会面に窓を開けませんか』は83年潮出版から出た大阪読売社会部を取り上げた作品。その後社会部長の黒田と部下の大谷は独立して黒田ジャーナルを立ち上げ、『窓友新聞』を発行するなど活発なジャーナリズム活動を展開
後輩の育成に心血を注ぎ、数々の書き手を世に出している ⇒ 本田の残した灯は、小さくとも確かな明かりとして在り続けている
生前、妻の早智に、「俺が死んだらたぶん、いろんな話が持ち込まれてくるが、そんなものはうっちゃっておいて構わない。ただ作品を読んできちんと対応したいという若者が来たら、その時は考えたらどうかな」といったという
生前、本田は講演の依頼などは断ることが多かったが、憲法擁護の集いや学生たちの催し、その趣旨に賛同できると判断するものには手弁当で出かけて行った。別段若者層に甘いという人ではなかったが、次世代へ何事かを伝えておきたいという気持ちを持ち続けた書き手だった
2010年河出書房新社がムック『文藝別冊/本田靖春 「戦後」を追い続けたジャーナリスト』を刊行。その9か月後、同じ編集者が本田の署名記事を収集、宝探しのようにして選び出した短編を集めた『複眼で見よ』を編纂、本田の"最後の著が若い編集者の発掘によって世に出たもの。複眼であることが本田作品に貫いてあるものと思ったのがきっかけ

第18章     病床にありて――『時代を視る眼』
コラム連載の皮切りが『ダカーポ』の『いまの世の中どうなってるの』
以降90年代のコラムは、進行する糖尿病の合併症と共に歩んだ年月を記録していく
特に社会時評は本田の持ち味を発揮する1つであって、このジャンルを得て広がった視野と筆致もあったように思える
その日々を『現代』の『時代を視る眼』(911月~9412)が表出

第19章     自伝的ノンフィクション――『我、拗ね者として生涯を閉ず』
『現代』の連載が始まったのは004月、編集長の渡瀬は本田と昵懇だったが、タイトルを任され、尋常ではない中身を覚悟を決めた上でのラスト原稿として受け止めた結果決まった。最終回は051月だが、体調によって何度も休載が挟まる。1回分残して0412月死去、翌年2月渡瀬の責任編集で単行本が刊行された
肩書とされたノンフィクション作家という呼称を気に入らず、社会部記者の問題意識であり生き方を貫いた人生だった
本田にとっての原点的なものは、少年期の引き揚げ体験がその1
食べ物の唯一の好き嫌いがサツマイモで、サツマイモ好きな女性が10回生まれ変わっても食べきれないほどの量を戦後の1時期にこなしたので、死ぬまで口にしないと決めた
讀賣入社の動機は、全国紙を呼号しつつ「関東圏のブロック紙」の域を出なかった同紙が、新宿の暴力団と警察の癒着を暴く果敢な「粛正キャンペーン」を展開していたのに刺激されたことだが、まだ内定時期に初めて書いた原稿が宿酔の抜けない論説委員から依頼されて書いた「10大ニュースと世相」の下書き原稿で、ほぼそのまま社説に載ったという

終章 漢(おとこ)たらん
本田が壊疽の進行で右足を切断したのは00年末
本田から伝播してくるのは、「戦後の青空」を大切に思う良きリベラリストであり、人とのつながりを大事にする情誼の人であり、座談の名手というもの
自身に忠実であること、それこそが本田の根っ子にあるポリシー
全集収録の『「戦後」美空ひばりとその時代』の解説文を伊集院静が書いたのは本田の意向による。競馬場で数回すれ違ったくらいの知り合いでしかなかったが、お互い何事かを感受していたのだろう。伊集院の両親は朝鮮半島南部出身、少年時代に徒手空拳で来日し事業家となった苦労人で、伊集院は本田の『私のなかの朝鮮人』に出会ったことが大きな転機となる。全く対等の同じ人間という目線で朝鮮と朝鮮人を見詰めてきた日本人がいたんだということに衝撃を受け、書き手の慈愛と寛容ともいうべきものに心打たれ、日本社会でどう生きていけばいいのかと思い悩んでいた時にこういう人もいる、日本人と日本社会を信じていいんだというずしんと来る安堵感を残してくれた、伊集院にとってコペルニクス的展開を促す本だった ⇒ 伊集院は本田とは何者だったのかと問われて、「今や滅多に出会うことのなくなった漢(おとこ)という言葉が似合う人だった」と答えている
『我、拗ね者・・・・』最終回(051)で本田は2つのことを書いたが、どうしても書き残しておきたいということだったのだろう
1つは、文藝春秋の田中健五との親交と別れについて ⇒ 『諸君!』『文藝春秋』編集長だった田中は本田の力量を高く評価し、何度も雑誌に起用し、本田もまた田中に好意を寄せていた。ノンフィクションの黎明期で、やがて隆盛期が来ると見抜いた田中は柳田邦男、立花隆、上前淳一郎、沢木耕太郎、児玉隆也などを登用し、原稿料を格段にアップして職業としてのノンフィクションライターが成立するよう環境整備にも努めたが、かなり確固たる信念に基づく保守主義者だったところが本田とは相容れず、執拗な中国敵視や朝日新聞批判といった「右」寄りの誌面内容に違和感を抱き、執筆依頼を断る様になっていった。人間的には好きでも越えられない一線があり、いわゆる信条の差であり思想であって、本田のいう「小骨」そのもの
もう1つは、『諸君!』に掲載された鈴木明の南京虐殺に関わる一文で73年出版され大宅壮一ノンフィクション賞受賞するが、本田は「百人斬り」は虚妄だったのだろうが、ノンフィクションとして書かれてはならない典型だと断じる。中国侵略という歴史的事実に全く触れずに、作為的に部分拡大し、南京虐殺もなかったと言わんばかりの文脈には、右傾化の風潮にも乗って歴史的事実の変造を企図する試みであり、危うい行方が見えたからこそ、最後の気力を振り絞って書き遺したのだろう
高級老人ホームで余生を過ごす田中を訪ねて、本田の最終原稿に対する感想を聞く。田中は文藝の社長時代『MARCOPOLO』誌上で「ナチのガス室はなかった」とする虚偽の記事を掲載、会長に退くが、本田は『VIEWS』連載のコラムで痛烈に批判したこともあったが、人間的には好きだったというメッセージは確実に届いていた
本田は自らを「センターレフトでいい」という。リベラルの原意である「個人として自立した自由の民」という意味でのリベラリスト。戦後の民主主義を大切に思う人で、理屈として身に着けたものではなく、時代的世代的体験の中で体内に染み入った思想だった
イデオロギーの人でも思弁の人でもない
「義の人」こそ、本田靖春をトータルに表す言葉かもしれない ⇒ 日本人が義というものを失っていった戦後の社会の中で、『不当逮捕』や『疵』のように、どこかで義を秘めて生きんとした人を描いた作品が光る
絶筆となった原稿を受け取ったのが死の10日余り前、死ぬのは一向にかまわないがペンを持てなくなるのは困ると言っていた本田には、近々右腕も壊死で切断手術が予定されていた



拗ね者たらん 後藤正治著 「記者」の歩みに見る戦後日本
2018/12/1付 日本経済新聞
読売新聞記者からフリーに転じ、数々のノンフィクション作品を世に送り出した本田靖春。2004年に71歳で死去した元「社会部記者」の作品群をノンフィクション作家の著者がたどり、編集者らの回想を交えて足跡を振り返った。本田が生涯のテーマとした戦後の日本社会の断面が改めて浮かび上がる。
本田は1933年に日本の植民地支配下にあった朝鮮で生まれ、中学1年で敗戦を迎えた。早大を卒業して55年に読売新聞の記者となる。社会部記者として東京五輪などを取材し、後の献血制度定着につながる売血追放キャンペーンを手がける。
37歳で退社して以降はフリーの書き手として盛んに作品を発表した。自身のルーツを朝鮮半島にたどった『私のなかの朝鮮人』、63年に起きた吉展ちゃん誘拐事件の全体像に迫った『誘拐』、検察による先輩記者の逮捕の裏側を追った『不当逮捕』など。こうした著作を振り返ることで、敗戦から戦後復興を経て高度経済成長へと向かう日本社会の歩みが透けて見える。
自ら「拗(す)ね者」と称し、「内なる言論の自由」を守ろうとし続けた本田の壮絶な姿も印象深い。作家の伊集院静は彼とその作品を「漢(おとこ)という言葉が似合う人」「風情ある大人のたたずまい」と評した。著者が本田に寄せる敬愛の念も随所ににじんでいる。(講談社・2400円)


Wikipedia
本田 靖春(ほんだ やすはる、1933321 - 2004124)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。
来歴・人物[編集]
朝鮮京城生まれ。東京都立千歳高等学校早稲田大学政治経済学部新聞学科卒。高校時代の同級生に映画監督の恩地日出夫がいる。1955年、読売新聞社に入社。直後から社会部に在籍、朝日新聞社の深代惇郎とは同じ警察担当記者として接点があった。 1964年、売血の実態を抉った「黄色い血」追放キャンペーンは大きな反響を呼び、献血事業の改善につながった。その数々の功績から「東の本田、西の黒田」と称えられるエース記者だった。ニューヨーク支局勤務ののち、1971年、退社。フリーでルポルタージュを執筆し、1984年、売春汚職事件で一時逮捕された立松和博記者を取り上げた『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞。主な作品に、吉展ちゃん事件を取材した『誘拐』(1977)、金嬉老事件を取材した『私戦』(1978)がある。大宅賞選考委員も務めた。
2000年に糖尿病のため両脚を切断、大腸癌も患い、同年から『月刊現代』で「我、拗ね者として生涯を閉ず」の連載を開始、46回で中絶した。その綿密な取材は後続のノンフィクション作家たちの尊敬を集めていた。『本田靖春集』全5巻がある。趣味の麻雀は阿佐田哲也も賞賛した実力者で「昭和の雀豪」の一人。競馬ファンでもあり、日本中央競馬会の広報誌『優駿』に連載を持っていたこともある[1]
著書[編集]
現代家系論 文藝春秋, 1973
日本ネオ官僚論 正続 講談社, 1974
私のなかの朝鮮人 文藝春秋, 1974 のち文庫
世界点点-ニューヨークの日本人 講談社, 1975 副題を正題にして文庫
サンパウロからアマゾンへ 北洋社, 1976
世界点点-裸の王国トンガ 講談社, 1976
体験的新聞紙学 潮出版社, 1976
消えゆくオリエント急行 北洋社, 1977 「オリエント急行の旅」と改題、潮文庫
誘拐 文藝春秋, 1977 のち文庫、ちくま文庫
私戦 潮出版社, 1978 のち講談社文庫
K2に憑かれた男たち 文藝春秋, 1979 のち文庫
栄光の叛逆者 小西政継の軌跡 山と渓谷社, 1980
村が消えた むつ小川原農民と国家 潮出版社, 1980 のち講談社文庫
ドキュメント脱出 4600キロ・イランからの決死行 PHP研究所, 1982
ちょっとだけ社会面に窓をあけませんか 読売新聞大阪社会部の研究 潮出版社, 1983 「新聞記者の詩」と改題、潮文庫
花形敬とその時代 文藝春秋, 1983 のち文庫
新・ニューヨークの日本人 潮出版社, 1983 のち講談社文庫
不当逮捕 講談社, 1983 のち文庫、岩波現代文庫
ロサンゼルスの日本人 学習研究社, 1986
警察(サツ)回り 新潮社, 1986 のち文庫
いまの世の中どうなってるの 文藝春秋, 1987
「戦後」美空ひばりとその時代 講談社, 1987 のち文庫
私たちのオモニ 新潮社, 1992
評伝今西錦司 山と渓谷社, 1992 のち講談社文庫
時代を視る眼 講談社, 1993
本田靖春集 5 旬報社, 200102
1 誘拐 村が消えた
2 私戦 私のなかの朝鮮人
3 戦後-美空ひばりとその時代 疵花形敬とその時代
4 K2に憑かれた男たち 栄光の叛逆者
5 不当逮捕 警察回り
我、拗ね者として生涯を閉ず 講談社, 2005 のち文庫
戦後の巨星二十四の物語 講談社, 2006


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