大名家の秘密  氏家幹人  2019.3.22.

2019.3.22. 大名家の秘密 秘史『盛衰記』を読む

著者 氏家幹人 1954年福島県生まれ。東京教育大学文学部卒業。歴史学者(日本近世史)。江戸時代の性、老い、家族を中心テーマに、独自の切り口で研究を続けている。著書に『江戸時代の罪と罰』、『江戸人の性』『武士道とエロス』『江戸人の老い』『江戸の少年』

発行日 2018.9.25. 第1刷発行
発行所 草思社


高松藩士・小神野(おがの)与兵衛が十八世紀半ばに記した『盛衰記』。そこには、高松松平家やその本家の水戸家の殿様たちの生々して行状や、大名父子の壮絶な確執、大名と家臣たちの濃密すぎる関係性が鮮明に描かれている。武士の忠臣美談など「武士道」のイメージとはまるで異なる、江戸前期の激越な武士世界をつまびらかにする。

家康の子、孫、ひ孫の、奇矯な行状!
宿場の焼き討ち指令──〈水戸藩・初代〉徳川頼房(よりふさ)
(しかばね)漂う川を遊泳──〈水戸藩・2代〉徳川光圀(みつくに)
将軍家光とお風呂で指切り──〈高松藩・初代〉松平頼重(よりしげ)
罪人試し斬りと解剖──〈高松藩・2代〉松平頼常(よりつね) 


はじめに――高松藩『盛衰記』の世界へ
主な登場人物は高松藩の初代藩主松平頼重と二代頼常だが、2人の評伝でもなければ、高松藩の藩政史でもない
高松藩士小神野与兵衛が晩年記した『盛衰記』には、高松藩松平家とその本家である水戸徳川家の興味深い話が記録されている。小神野は藩の諸記録に漏れた様々な逸話を、古老からの聞き取り(オーラル・ヒストリー)によって採録し、後世に伝えようとした
藩主の心の中まで照らし出すような記述は貴重
頼重は徳川頼房(家康の末子)の長男でありながら、父の命で水にされるところを家臣に救われ、英勝院(頼房の養母)の尽力で家光に拝謁し、高松藩主となる
頼重の弟光圀は、兄が継ぐべき水戸家を継いだことを悔い、自らの子・頼常を水にして兄の子を水戸藩主にしようとしたが、頼重の尽力で無事誕生し、極秘裏に高松に迎えられる
家光もまた長男でありながら父母に嫌われ、祖父家康の力で継嗣となる
『盛衰記』には、頼房と頼重、頼房と光圀、頼重と頼常の父子がしっくりいっていなかった様子が描かれ、堕胎や間引き、更には「子殺し」の伝統という「大きな歴史」と向かい合うが、それは現代の親子が抱える問題にもつながる
もう1つのテーマは、大名家の主従関係 ⇒ 江戸前期(元禄以前)の武士の世界の情念と情欲がささやかな逸話から浮き彫りになる
頼重と頼常が表の主人公なら、小神野与兵衛と、小神野の死から半世紀以上たって『盛衰記』の記述を徹底的に検討し、削除と加筆を施して『消暑漫筆』を著した中村十竹は裏の主人公。『消暑漫筆』によって『盛衰記』は歴史的資料としての輝きを獲得

序章 三人の殿様の死頼房、頼重、頼常
Ø 寛文元年(1661)――水戸藩初代・徳川頼房の臨終と、息子頼重(英公)との和解
頼房は家康の11男。死因は癰(よう、腫れもの)
危篤の報に、4人の息子は江戸藩邸から水戸へ向かうが、頼重のみ幕府の許可が下りず3日遅れて出立、駿馬を駆って1日で到着、他の兄弟に追いつくが、徒歩で従った家来が2人、最後まで付き従った渡徒士(わたりかち)の八木弥五左衛門に対し、頼重は「馬鹿者」呼ばわりをし、家来は「無駄な奉公をした」と吐き捨てたという
頼房は、頼重到着と知って頼重を呼び寄せ、最期の瞬間に息子と和解したが、両者の関係は良好だったとは言い難い ⇒ 子を甘やかし必要な躾や教育を施さないことを「姑息の愛」と呼ぶが、頼房は「姑息の愛」を戒めた結果、息子との間がしっくりいかなかったという
頼重主従は、その後も関係を続け、頼重はその労を高く評価して御小性(ママ)組に昇進

Ø 元禄八年(1695)――龍になって昇天した、高松藩初代・松平頼重(英公)
英公の死を巡っては、奇譚ともいうべきドラマが語り継がれた ⇒ 生前龍に憧れ龍になりたいと思っていた英公は、金龍の衣を纏って龍に跨った自らの木像を彫らせていたが、英公没後85年たって死んだ小神野が『盛衰記』に納棺の日龍が天に昇ったという話を書き残した
頼房は、自らの死を覚悟すると、光圀に家臣の殉死を禁ずるよう命じたが、数十人が言うことを聞かなかったため、家臣の関係を断つ義絶宣言までして止めたのを聞き、頼房も満足したという。ほどなく幕府も全国的に殉死を禁じた
英公の没後、禁を破って殉死したのが高井角右衛門広利。姉妹の松月院は、英公の侍女となって生んだ子・頼候で、その子は後の高松藩三代目藩主頼豊。英公から破格の厚遇を得て君恩に感涙、その死に際して自刃。お家断絶となったが、彼の死を哀れんだ藩主・頼常(節公)は、英公の墓の横に小さな塔を立てて墓としたという

Ø 宝永元年(1704)――あまりに冷静な死の迎え方、高松藩二代・松平頼常(節公)
節公は、ある日突然病のため藩主の任に堪えないと年寄りたちに申し出、甥の頼豊(恵公)を三代目に据えて隠居
崩御後、中村十竹の『消暑漫筆」によれば、生前実母が節公の作る「つや餅」を好物にしていたが、死後節公のそばで作り方を見ていた老女が作っても生母は味が違うといって気に入らない。ある夜老女の夢の中に節公が現れ、もち米を入れずにうるち米だけで作るのだと教えたところ、生母がこれこそ節公の味だと言って満足したという



第1章 歴史を編んだ男たち
Ø 高松藩主の「秘史」を描いた小神野与兵衛の『盛衰記』
『盛衰記』の著者小神野与兵衛とは、高松藩士の子で、小神野家の養子となり、養父没後徒士並から徒士目付に昇進、蔵奉行から留守居番に転じる、36代の4藩主に仕える
若いころから20年在任した目付の仕事柄もあって藩の旧記の調査に従事、家康の事績と逸事を編年体で記した『落穂集』に触発されて『盛衰記』を書いたという
『盛衰記』で伝えようとしたのは、藩の正史には書かれていない逸事や伝承で、それも具体的資料名を挙げて公文書の記述に言及しているので、単なる噂話ではない
それだけにのちのちまで他家の者に見せてはならないと子孫を戒めていた


Ø いくつも生まれた『盛衰記』の写本
にもかかわらず、高松藩士の間で評判となり、いく種類もの写本が出回り、勝手に加筆・削除されていった


Ø 『盛衰記』を批判し『消暑漫筆』を書いた中村十竹
『盛衰記』を読んで、その誤りを放置しておけないと考えたのが、同じ藩士(経歴不詳)の中村十竹で、題名からして「盛ありて衰ない」高松藩なのに怪しからんとし、小神野が昇進に不満をもって藩主を悪しざまに述べたり重役を誹ったりしていると非難

Ø 中村による間違い探し
まずは頼房に関する記述。隠居して水戸にいたとあるが藩主のまま、死因は癰腫(とうしゅ)とあるがほかの文献には記載なし、義公と呼んでいるが義公は光圀の諡で、頼房は威公
龍身昇天も奇談を超えて虚談と切り捨てる
節公の死病告白については記述を認めているが、細かい誤記を見逃さない

Ø 小神野と中村という絶妙コンビ
中村は、57年前に亡くなった小神野に強烈なライバル意識を持ち、厳しい言葉を浴びせているが、『盛衰記』の記述は、中村という緻密で執拗な批判者を得ることで、歴史書としての厚みを増し価値が磨かれた

第2章 頼房と、その子、頼重、光圀。父は息子をにしようとした。
Ø 江戸時代の「父と子」の意外な真実
親子の深い情愛という幻想
江戸時代の親不孝と親孝行、父子の不和 ⇒ 大田南畝の随筆に、孝行者として奉行から褒美をもらった帰り道、与力に呼び止められ、褒美をもらった後慢心して不孝者になってお叱りを受ける者が少なくないので気を引き締めて一層孝行するようにと戒められた話が載っている。このことから少なくとも江戸時代の息子や娘が今日よりずっと親孝行だったという幻想は覆された
荻生徂徠のような一流の儒者の中にも、親孝行は人間の天性とする常識に異論を唱える人がいる ⇒ 「道」は中国古代の聖人が統治のために人為的に定めたもので、父母を敬う孝も人為的な「道」に他ならない
儒教で基本とされる5つの人間関係(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)のうち、人間の天性といえるのは夫婦の愛くらい
室鳩巣は、邪説として徂徠を激しく非難したが、親子の間が夫婦の間ほどしっくりいかないのは事実

繰り返される大名家の父子不和
藩主と嫡子の間に大きな溝が生じた例は枚挙にいとまがない
1670年代、表向き病との理由で廃嫡された例が7例もある

親に愛されなかった武家の御曹司たち松平忠輝、徳川家光
乳幼児のころからしっくりいかないのは、父親の側に原因があったのではないか
誕生した息子の容貌を忌み嫌う父 ⇒ 家康は誕生したばかりの6男松平忠輝(15921683)の顔が黒く眦が逆さに裂け恐ろしげなので憎み嫌い捨てるよう命じたが、他人によって養育され、7歳の時その利発さを耳にした家康が側に召して顔を凝視して、幼いころの長男信康(155979)にそっくりだといったという。信康は誕生当時から家康に嫌われ、不和が故に21歳で切腹を命じられた。幕末の旗本が、維新後に著した随筆で、切腹を命じた家康の行為を失徳の1つと言って批判、いくら維新後とはいえ、神君家康を非難するのは余程のこと
忠輝は8歳で長沢松平家を継ぎ、信濃・越後に75万石を与えられたが、1616年改易となり、83年に92歳で没
家光は、父にも母にも愛されず、家光の弟忠長を世嗣(せいし)にしようとしたのを、乳母の春日局が家康に訴えて回避させたという

Ø 父に流されかけた英公(頼重)出生から成人まで
頼房はなぜ、英公と光圀をにしようとしたか
頼房の長子英公は1622年の誕生。尾張や紀州の兄たちに先んじて子を設けるのを避けるために堕させようとしたが、家康の側室で頼房の養母でもあった英勝院にも諮って密かに出産。光圀も水にするよう命じられたが公式記録にも理由不明とされるのみ。英公と光圀は同じ側室から生まれ、その間生まれた14女は堕胎を命じられていないどころか、頼房は終生正室を持たず、側室との間に26人の子を設け22人が成人したが、堕胎を命じられたのは2人のみ。一部資料には、側室の中で権威があった老女が、他の側室が懐妊すると必ず堕胎させたとあるので、事実であれば女の嫉妬が原因ということになる

父を恐れて京都に潜伏
英公は、9歳の時伝手を頼って京都へ。英勝院が将来を案じて秀忠に相談、秀忠が頼房に英公の江戸帰還を命じ、英公は16歳にして初めて頼房と対面、家康の孫に相応しい処遇として右京大夫に叙任せられ、間もなく家光にも拝謁

老中松平信綱、英公の栄達を祝す
英公の処遇について、知恵伊豆と言われた信綱(15961662)が、頼房と相談のうえ、常陸国下館藩6万石を与えたが、小神野の『盛衰記』では、常陸国生まれの藤原鎌足がお供で上京したのち才智を買われて右京大夫という高官に出世し、蘇我入鹿を誅、殿上人として華々しく宮中に仕えた顰に倣ったとしているが、中村は右京大夫拝命の経緯をすべて小神野の作り話として、よくここまで嘘が書けるとまで言い切っている

江戸城、湯殿のエロス
英公は、21歳で元服すると、家光により高松12万石を与えられる
家光は、男色の嗜好があり、幕府の正史にも、将軍になる4年前湯殿で他の小性(ママ)と男色にふける小性を「御手づから誅し給ふ」と記されているが、斬首された小性はその家の歴史からも抹殺されていた

家光と英公、湯気の中の誓い
39歳の家光は、21歳の英公がお気に入りで湯殿に呼ぶ。湯殿はサウナ式蒸し風呂、その中で英公の将来を約束し、2人で「ゆびきりかまきり」と2回も唱えている

ゆびきりかまきりとは何か
ゆびきりかまきり」とは誓いの言葉で、江戸初期から昭和20年代まで全国各地で広く唱えられていたという ⇒ 「かまきり」とは、遊里の「髪切り」が子供の世界ですり替わった
この場面に対する中村の批判は、珍しく見当たらない

Ø 嗜虐的な頼房、かぶき者光圀、増長する英公
徳川頼房は名君だったのか
幕府編纂の『藩鏡』(1853年完成、諸大名の優れた言行を採録、登場するのは約500)には、頼房名君の証の数々の逸話が記載 ⇒ 気性が激しかったが、身体能力に優れ、品行にも優れていた。若くして倹約に努め、義理を正す名君
ところが、水戸藩編年史『水戸紀年』では、青年時代に放埓な行為を繰り返していた"かぶき者"で、幕府からも問題児と見做されていたとの記述がある
家康から付家老として水戸家に使わされた中山備前守が切腹覚悟で諫め、漸く収まった

幼い息子光圀に首を拾わせ、屍漂う川を泳がせた頼房
頼房は自ら手打ちした罪人の首を、光圀7歳当時、肝試しに夜とってくるよう命じる
光圀12歳の時にも屍漂う川を泳がせた
厳格な武士教育に光圀が応えた美談ととるか、頼房が光圀を愛していなかったととるか

ワルだった青年期の光圀、兄・英公に挑む
頼房の光圀に対する仕打ちは、スパルタとしても度を越えていた ⇒ 水に流されかけ、5歳で頼房の子と認められ水戸城に入り、翌年幕府の命で世子に決定したことへの頼房の不満の爆発も関係しているかも
光圀も相当のワルで乱暴、相撲好きで柔術に長けた6歳上の英公に勝負を挑み、負けても食い下がった
世間も、言語道断のかぶき者として、後ろ指をさす

頼房の光圀への態度は、虐待かしつけか
頼房には過剰に激しやすいと同時に、加虐的な気性が顕著
家康も、臨終の床で秀忠に、まだ14歳だった水戸藩主・頼房の気性を心配して、不慮の事態に備えよと警告

東海道蒲原宿一件
蒲原宿で同宿した鑓の名人高松藩士・大久保甚太夫一行と大和の郡山藩一行が喧嘩となり、無礼を働いた郡山藩士を高松藩士が誅殺したため、郡山藩士の仲間が高松藩士一行を襲って惨殺、高松藩士は蒲原宿本陣に葬られたが、本陣は事の顚末を英公が高松にいたため父の水戸藩主に報告

頼房激怒、「蒲原宿の男女問わず焼き殺せ」
激怒した頼房は、惨殺に協力したとして蒲原宿の男女を残らず焼き殺す決意を固め、高松藩と挟み撃ちの手はずを整えたが、尾張と紀州が間に入って頼房を諫め、幕府の手によって蒲原宿を竹垣で覆う。あわや全滅のところに上野輪王寺門跡と芝増上寺の住職が助命を嘆願、直接手助けをした17,8人のみを処刑して済ませた
後世、静岡県が作成した解説版では、郡山藩士が薩摩藩士にすり替わり、甚太夫70人切りとなっているが、"薩摩の鞘割"と諺に言われた危険な連中のほうが話が面白いとされたようだ。「鞘割」とは、一度抜いた刀を再び鞘におさめぬ覚悟で戦うことで、獰猛で着火しやすい薩摩藩士は大久保の格好の敵役だった

中村十竹、蒲原宿一件の誤りを指摘する
中村は、蒲原宿の目撃者の供述記録を紐解き、事件発生の日付や喧嘩の場面を細かく補足したうえで、頼房が一介の藩士の犬死で軽々しく出馬したとは思えないと、浄瑠璃本のような作り話としている。静岡県の解説よりかは信憑性が高いとしても小神野の記述はどこか嘘くさい

泰平の世でもありえた、武士の残虐な復讐劇
幕府の使番の著した雑録では、1754年旗本の同心が尾張藩の積み荷に接触したのを理由に惨殺されたことに起こった旗本が、尾張藩に加害者の首を差し出せと迫り、出さなければ自分が腹を切ると迫ったため、尾張藩は旗本に切腹させるわけにはいかず、加害者の首を差し出したとあり、その後旗本の行為が一度言い出したことを貫き通す大丈夫の為す事だとして世間からも称賛されたという記載がある
1678年にも、市谷の研屋と口論になった尾張藩の家来が刃傷沙汰を起こしたために町人に取り押さえられ、町奉行所に入れられたが、尾張藩は町奉行所から引き揚げる途中で藩の名誉を汚したとして処刑、その後同町内の人を一人残らず引き渡すよう幕府に要求したが、さすがに幕府も研屋を閉戸、監禁処分にしただけで済ませたという
家臣やその従者の命の償いに多数の庶民の命を要求して憚らない感覚は、当時の武家には一般的で、必ずしも頼房だけが激しかったのではなく、江戸初期には想像を絶する報復がありえた

家光に愛される英公、嫉妬する頼房
頼房には激情的で嗜虐的な傾向があった
家光に気に入られて派手な振る舞いをする英公に嫉妬するとともに気に入らなかった頼房が英公を疎ましく思うようになったきっかけは、老中が列座する中、英公が自らの家のように振る舞い、馴れ馴れしく老中に声をかけた場面に遭遇したことだったと、『盛衰記』にはあるが、相手の老中の名前が土屋相模守となっていて、時代が全く異なる

頼房に拒絶された英公を重臣たちが必死にフォロー
何かにつけて折り合いが悪かった頼房と英公の間を取り持ったのが重臣たち

Ø わが子を流そうとした光圀、そして節公(頼常)誕生
光圀が男子誕生を望まなかった理由
光圀が英公を差し置いて水戸徳川家の世子に選ばれた理由は定かでない
光圀は、164518歳の時、『史記』の列伝『伯夷伝』を読んで、兄の子に家督を譲ろうと決意し、1661年幕府の命によって水戸徳川の家督を相続した光圀が英公ほか兄弟を集め、英公の長男で14歳の松千代(のちの綱方)を養子にして水戸を継がせると宣言
英公は固辞したが、許されなければ自らの家督相続を断るといって、強行した
綱方は水戸の世子となったが、1670年疱瘡に罹り23歳で逝去、5年前光圀の養子となっていた英公の次男・采女(のち綱条(えだ))が光圀の跡を継いで水戸家を相続
光圀の正室は子をなさないまま亡くなり、側室との間で生まれた子はすぐに水に流させ実子が授からないようにしていた。それを聞いた英公は多くの水子を不憫に思ったという

水にされかけた頼常(節公)誕生の経緯
25歳の光圀が湯殿の雑用女に手を出して孕ませたのが頼常(節公)
光圀は、懐妊を知って、男児なら流せと命じたが、英公は光圀と相談の上引き取る

英公の指示で、生後一ヶ月足らずで京都に逃げた節公
英公は、水戸藩主頼房には内密のまま節公誕生直後、高松に呼び寄せる

第3章 子流しと子殺し
Ø 日本で古くからあった堕胎と間引きの慣行
かつて日本では、生まれたばかりの赤子の命を人為的に絶つ間引きが盛んにおこなわれていた ⇒ "神に返す"意味があり、死骸は川に流すところが多く、特別の葬儀や供養は行われなかった

Ø 宣教師たちを驚かせた日本の嬰児殺し
間引きや堕胎の風習は、16世紀にはすっかり浸透。驚いた宣教師が本国に報告
原因は、貧困と育児の忌避、僧侶が尼僧との関係を隠蔽するためとしている

Ø 飢饉や貧しさに迫られて。いや、そうでなくても
貧者でなくても間引く例は多く、子を殺して余った乳で他人の子を養育し、養育費を得ようとしたり、あんな暮らしぶりで子を育てるのかといわれるのが嫌で村人たちへの体面から殺す場合すらあったという

Ø 武士の家でも行われた子流しと子殺し
1727年水戸藩では間引き禁止の触書が出たが、藩士の家でも時々行われていたとの記述が残されている

Ø 徳川将軍家の場合保科正之の誕生とその後
徳川将軍家も例外ではない ⇒ 1611年秀忠の側室が生んだのがのちの会津藩主・保科正之。最初の子は堕したが、2度目は密かに生んで育てられた

Ø 堕胎は"子殺し"
江戸後期から幕末にかけて、幕府や諸藩が堕胎や間引きを厳しく取り締まるようになったが、人道的な教戒は二次的なもので、人口増加による租税の増収が目的
 
第4章 傍若無人な父、頼重(英公) 復讐する息子、頼常(節公)
Ø 英公と節公、どちらも名君だった
英公の事績 ⇒ 1644年市街の拡張や干害の影響で飲料水が不足した際の治水と利水事業。玉川上水より9年早い。讃岐はもともと雨量が乏しくたびたび干害に見舞われた。大小の溜池を築造、大規模な新田開発を行う。寺社の再興と保護にも積極的。文武両道
節公の事績 ⇒ 徹底した倹約実行により藩財政の立て直し。貧民救済の公共事業を行い、餓死者を出さなかった

Ø 互いに何が不満だったのか
節公が藩主になってからも、隠居した英公の実質支配が続き、2人の間はしっくりいかなかった ⇒ 節公は家督を放棄し高野山に向かうと告げたので、英公も口出ししないことを約束したが、その後も必ずしもうまく入っていない
英公は、すべて節公の今日あるのは、自分のお陰のはずなのにしばしば反抗的だと不満
節公にしてみれば、もともと自分は水戸家の世子なのに、英公の長男、次男が水戸を継いだのはあまりの仕打ちだと不満

Ø 御隠居英公の、あまりに不遜で気ままなふるまい
御隠居・英公の気ままな振る舞いは、節公にとって癪の種

Ø 英公の独断決定と、節公の報復
数年来の財政難で家中の者が困窮しているのを見て、英公は家中への給付を増やすよう指示したが、現状では無理となったため、自らの隠居料を削って家中に給付するよう、独断で宣言、藩主の面目は丸潰れとなった
英公死後も確執は続き、3回忌の法要が済むと、青年期の姿を模した像を生前の位階に合わせた座像に作り替えたという
他にも『盛衰記』には2人のしっくりいかない場面が赤裸々に書き留められているが、中村は詳しいことは知らないといいながらも、委細を知らぬ小人の推量にて作り出した傅会(ふかい)の説なるべしと批判

第5章 わが子に一度も声をかけなかった冷たい殿様
Ø 寡黙すぎる父、節公
命の恩人である養父とも親しまなかった節公は、わが子に対しても良い父親とはいい難い
1687年長男の右衛門が生まれたが、長じてからも声をかけようとしない。13歳で急死した際も悲しみを露にすることもなく、今まで病で保養していたのかと聞くのみ
天性寡黙にて、家臣に対しても口を利くことは少なかったが、人柄や働きぶりはきちんと見極めていたという
次男も3歳で亡くなり、弟の子を養子として高松藩3代目の藩主としたのが頼豊(恵公)
中村は、人間関係や年齢の間違いを指摘する傍ら、12歳の息子に全く声をかけないというのはでっち上げられた嘘話と切って捨てる

Ø わが子を流すようみずから命じたのに
節公は、養子に入ってから藩主になるまでの部屋住み時代に女中に孕ませた子を堕ろすよう命じたが、密かに生むことを期待していた節があり、手を下した守役の英公の従兄・谷某を生涯いびり続けたという
中村は、確かなことは知らないし、話の根拠も疑問だが、ありえない話ではないとする

Ø 節公の子を流した家臣・谷を襲う苦難
いびり倒した果てが隠居、さすがに子供2人には知行が与えられたが、家はその後絶える

Ø 百年続いた水子の祟り
流された節公の子が埋められた屋敷はその後も不幸が続き、100年後に7代藩主の屋敷になった際、ようやく祈祷をして石塔に収め、水子の霊魂が鎮められた

Ø 光圀と節公、打ち解けなかった父子初対面
1701年編纂の光圀の逸話集『桃源遺事』に、13歳で節公と初めて対面した時の光圀が、親らしい愛情を全く見せなかったと記されている ⇒ 兄頼重の養子となったからには、実の父子であっても叔父と甥の間柄だと自らを戒めたとして賞讃する記録もあり、誕生を望まない子だったからか、それとも兄の嗣子(しし)である節公は我が子であって我が子ではないと突き放したのか、光圀の胸中はわからない

第6章 家臣という名の曲者たち
Ø 「お風呂のお下がり」を許された有馬大学の悲劇
英公、節公に仕えた家臣たちの逸事も記録。主従関係は後代と比べてずっと親密
英公から風呂のお下がりを許された小性が、はしゃぐのに嫉妬した仲間3が風呂で蒸し殺しにしようとして発覚、切腹となった

Ø 有馬を蒸し殺そうとした三人の切腹と、英公の後悔
切腹を命じた英公は、隠居後に後悔し、3尊仏を造らせて冥福を祈った

Ø 渡辺伊賀の「顔面大疵」事件
英公が高松入りした際船奉行として従った渡辺伊賀の逸事は、甥を叱ったところ逆上して切りかかられ、危うかったが妻の薙刀に助けられたが、頬に大きな疵(きず)が残った

Ø 「うろたえ者」の一言で武士をやめた鳥井三右衛門の意地
『盛衰記』には、後の高松藩士には理解し難い"こだわり"も遺されている ⇒ 奥右筆の鳥井が城内を早足で奥に向かっていたところ、路地で英公と出くわし、「うろたえ者」と一喝されたのが理由で、妻を離縁し主家に暇乞いをし、英公に慰留されながらも意思を曲げず、高松から去った
中村は、主君の慰留に従わずに藩を去るのは「不義不臣の至」「鳥獣にも劣る」と罵る

Ø 芹沢水之助の保身術
英公の行列を見て身を隠した芹沢を、英公が見咎めて理由を質したところ、「うろたえていた」と答えたので「それなら仕方ない」と許したという。小神野が、彼の父が若者たちを相手にいつもこの話をしてどちらが正しいと思うかと問いかけていたと記す

Ø 英公へのゆえに出奔した新井源六
英公に、7歳の長男の御付きとして江戸藩邸に詰めるよう命じられた新井が、英公1人に仕えるつもりだったのに長男に仕えるよう仰せ付けられたのを心外として無断で出奔(脱藩)。以外にもお咎めはなく、出家して3年後にやはり高松で死にたいと戻ってきた時も「勝手次第」と見逃された
中村は、日時等修正の後、無断出奔の家臣がここまで厚遇されたのは、よほど英公に愛されていたからではないかと推測しているが、新井について「短慮にして思慮なき拙き人」「人倫に絶えたる不忠不臣の至り」と口汚く罵っているのは、衆道(男色)絡みを嗅ぎつけたから。新井の拘りは「二夫にまみえず」という貞女の意地に通じる

Ø 英公にひとめ惚れした米原惣兵衛
幕府の旗本だった米原も英公の姿を一目見て、主君として仕えるのは英公をおいてほかにないと思い詰めて旗本をやめ、英公に仕官
小性組に配属されたが、英公の気に障ることばかりしていたので、周囲も手打ちが行われると大騒ぎになったが、英公の怒りは米原の肝試しにとどまり、江戸詰めの徒頭(かちがしら)に出世。英公死後は、役職も知行も返上、生涯無妻無子で、死後お家は断絶

Ø 家臣たちに男ぶりを求めなくなった晩年の英公
かぶき者の青年時代には、過剰な装飾の風俗を好み、道具持ちにも男ぶりの良いマッチョな髭男を引き連れていた英公も、最晩年の藩士への訓示では、鑓持ち(道具持)を男ぶりや髭などの外見で採用する愚を説く

Ø 若き日の英公が惚れた、渡辺彦右衛門と八木弥五左衛門の男ぶり
英公が江戸で見惚れたのが渡辺という渡徒士。渡徒士とは、仕官先を求めて大名や旗本の家を渡り歩く男で、自身の身体能力や容貌を磨くのに余念がない
下館藩主の時に仕官を求めてきたのが八木で、両者とも引き立てられ出世している

Ø 小柄だった英公のマッチョ願望
英公が小柄だったことは諸大名の間でも知られていて、それを理由によくからかわれ、それを英公が言い返したことが記されている ⇒ 伊勢津藩主藤堂和泉守から背の低さをからかわれた際は、貴殿の首を切ってその上に乗れば貴殿の高さになると言い返し、婚礼の翌日彦根藩主井伊掃部守直孝から、誰もが認める醜男の土井利勝の娘ならさぞかし器量良しでしょうねとからかわれた(実際は評判の美女だった)のに対し、直孝の兄が彦根の2代目藩主を継いだがあまりのうつけで直孝に藩主を譲った(表向きは病が理由)ことを皮肉って、兄が馬鹿なら弟も必ず馬鹿だろうと言い返したという
中村は、嘘か真かわからないうえ、相撲取りの自慢話のようで、読む価値もないと一蹴

Ø 高禄を求める家臣と、駆け引き上手の英公
英公は、家臣に対しても言葉合戦の能力を惜しみなく発揮
讃岐国の前の領主生駒家の旧臣が英公に仕官する際、英公は将来の禄高引上げを約束したが、なかなか上げてもらえないため、永の暇を願い出たのに対し、英公は代わりに息子に知行を与え慰留、旧臣没後は召し上げて結局約束を反故にした
高慢で無礼な旧臣に対する英公の復讐だったが、旧臣の5代目がこの話を小神野にしたのは、すこしでも初代の無念を晴らそうとしたのかもしれない

Ø 武術をウリに仕官した浪人たちと、中村十竹の猛批判
中村は、仕官の話も、特に太閤や明智光秀、家康、信玄などから下された文書の話が出てくることもあって、嘘が多いとして痛烈に批判する

Ø 水戸藩から送り込まれた重臣、肥田和泉守と彦坂織部の逸事
英公には父・頼房から後見役・監視役として付けられた家臣がいた ⇒ 肥田政勝は、君命を受け家督を息子に譲って6千石の後見として高松入り、西丸に住居を構え本丸へのすべての出入りを監視、英公ですら鷹狩で帰りが門限を過ぎ、肥田が西丸に帰るまで本丸に戻れなかったという。165490余歳で没するまで、まさに目の上のたん瘤でい続けた
彦坂織部玄年は、英公が下館藩主になったときに頼房から家老として付けられ、高松に移ってからは大老を務めた、肥田にもまして逸事に富む重臣 ⇒ 彦坂の妻は頼房の娘で英公の養女。家臣に嫁いだため最初は抵抗したが、すぐに離縁と言われ大人しくなり、彦坂没後は後継ぎが夭折したため子供がおらず御家断絶で水戸に戻る。政務に私なく、家中の誰とでも心安い間柄で、家には大勢の家中の面々が集まったという

Ø お手討になった女中と、英公の悔恨
城に火をつけて一緒に逃げようと書いた恋文を見つけた英公は、犯人を探し出して手打ちにし内々に処理したが、隠居後有馬の一件とともに、我が身の過ちと認め彼女の菩提のための仏像を立てたという
中村は、内容は疑わしく信じ難いとしたが、真相は不明

第7章 名君・頼常の後姿
Ø 節公の家臣イジメの真意
『盛衰記』の中で最も個性的なのは節公 ⇒ 藩財政立て直しの名君だが独特の人柄
頭脳明晰で、家臣も御意に戸惑うことが少なくなかったという
嗜虐的な反応があり、特に羽振りの良い出頭人(出世頭、主君に覚えめでたい家臣)ほどいびられたので、言動を自制せざるを得なかった

Ø 小者と狩猟を楽しむ、奇人・節公
限られた寵臣を相手に、とても名君とは思えないような言動を示したり、奥女中の前で子供っぽいふるまいを見せて憚らなかったともある
野合(のあわせ)と称して、小者とともに野山を駆け巡って狩猟をしたが、下々の暮らしぶりをお忍びで視察する手段でもあった

Ø 「腑分け」見物とカニバリズムごっこ
節公の希望で処刑された罪人の死骸を解剖 ⇒ 『解体新書』より67年も前、画期的なことだが、その際節公は正直者の小者に「一切喰へ」と迫り、小者は「まず御前上がりませ」といったという
中村が激怒したかと思いきや、「委細は知らねど実記なるにや」と肯定的に捉え削除せず

Ø お気に入りは変人奇人か足りない人ばかり
節公は、変り者や愚か者ばかりを仕えさせたが、共通点は「善悪正直にまっすぐ申述」ことで、何よりお追従や嘘を嫌ったという
お気に入り以外の家臣に対しては異様なほど冷淡

Ø 財政再建を果たしたマニアックな節約精神
小神野は節公の治世を「前代未聞」と評したが、節公の節約癖についての逸事をいくつも記している
光圀の側室で節公の生母・親量院は、1694年節公の希望で光圀の許しを得て高松に迎えられたが、生母に対しても食べ残した塩瀬饅頭を蒸し直して届けたという
箸をつけただけの小鯛を捨てた料理人をいったんは処分しながら3年後に取り立て、その腕前に褒美を取らせたという、粋で心優しい側面もあったが、何かと面倒な殿様だった

Ø 教育者にして、人情家
家臣が忖度することを求めた殿様でもある ⇒ それでいて、本人が気づくまで何度もシグナルを送っていたという、教育者の資質もあった
梅毒で鼻が欠けていた家臣に対しても、忌み嫌う様子も見せずに撫ぜ擦ったりしたことから、家中でも容貌をとやかく言う者がいなくなったという

Ø お忍びで茶屋遊びと廓通い。そして女性の趣味
英公が城下に遊女屋の営業を認めて以来、殿様もお忍びで通い、節公も例外ではないどころか、享楽的で危険な振る舞いには忠臣も我慢がならず、茶屋の座敷の隣で大声を出して邪魔をしたという。吉原の遊郭でも同じようなことが起こった
小神野は、これらの妨害行為を単に忠義の真似をして主君に無礼を働いたとし、その証拠に無礼に及んだ者のその後は不遇だったという
中村は、節公の廓通いを「甚だしき虚談」と全否定。たとえ事実だとしても高松藩の禄を食みながら殿様の不品行を記録した小神野の姿勢が許せなかった

Ø 英公と対照的だった節公の金銭感覚
節公の金銭感覚は、節約と貯金に向けて研ぎ澄まされていた
英公の場合は、金と銀の価値にすら無頓着

Ø 藩主みずから「罪人斬り」。英公と節公の剣の腕前は 
英公と節公の違いで印象的なのは、罪人手打ちのスタイル
江戸では、死罪を宣告された罪人を大名屋敷が貰い受け、「生袈裟(いきげさ)(生きたまま袈裟切りにする試し切りの一種)にする慣習があり、綱吉の「生類憐み令」まで続く
英公は、襷掛け尻を端折った凛々しい姿で切り捨てたが返り血を浴びる
節公は、身内の罪人だったが、だらしない恰好ながら一刀のもとに切り捨て返り血もかわしたというので、英公より達人だったかも
中村は、生袈裟そのものが感覚的に理解できなかったのか、コメントできないとしている

Ø 高松藩士による赤穂城潜入記
浅野の刃傷事件が起こったのは、節公死の3年前 ⇒ 浅野家中の籠城に備えて高松藩から間者を赤穂城に潜伏させた記録が残り、間者はすぐに見破られたが、浅野家中は城明け渡し後全員切腹するとして城内を案内され、全員の姓名も明かされたという
四十七士伝』にこの話を載せた水戸藩儒者もいたが、中村によれば、間者に姓名を明かそうはずもなく、作り話として退ける一方、間者の働きについては異なる事実を記載

Ø 「拙者どもを捨て殺しになさるのか」。憤る高松藩士と動揺する節公
赤穂籠城の際出陣することになっていた3人の番頭に、下っ端の役人が赤穂からの第1報が入り次第すぐに出立するようにと連絡を直接してきたことに3人が立腹、盃ももらえずに出陣するとは藩主に見限られたも同然と騒ぐ。節公は生涯最大の失敗として何とか3人をなだめ、君臣の和解が実現したが、赤穂開城で出陣せずに終わる
中村は、出陣命令は事実だとしても、3人が立腹して節公が過ちを認めるなど全てウソとしているが、お互い初めての出陣のこと、緊張が極度に高まって主従間の意思疎通にも障害が生じたとしても不思議はない

高松藩のオーラル・ヒストリーとして貴重なだけでなく、1つの藩を超えて、江戸時代前期の殿様と家臣のメンタリティを生き生きと描き出している
小神野の記録した興味深い話の数々は、中村の執拗な間違い探しによって、面白さこそ半減したが、史料としての価値を倍増。より真実に近い姿が炙り出された

終章 歴史を編む人、ふたたび
Ø 五代藩主・松平頼恭(穆公)の最期まで
1771年高松藩5代目藩主・松平頼恭(よりちか、諡号を穆公(げいこう)という)
穆公死後半世紀を経て側に仕えた瀧信彦が『増補穆公遺事』を著す ⇒ 正史の記録では、10代将軍家治からの見舞いと「鱠残魚(きす)」の干物が届けられ、穆公は見舞いを拝受し病で家督を嫡子に譲る手続きも老中宛に済ませて往生したとなっているが、史実はその前日に死去。将軍からの見舞いとキスの干物の下賜は、すでに絶命している場合のしきたりで、周囲もその人物の死を察知できる仕組みになっていた
瀧によれば、穆公は世上に稀なる厚味(こうみ:濃厚な味)好きで、酒肉の毒と重なって病根となったとされ、死の4年前に発作を起こし、黄疸症状が急速に進んだとある

Ø 瀧信彦はなぜ『増補穆公遺事』を著そうと決意したのか
幼いころから穆公の御側に仕えたところから、親しく見聞したことを書き残そうとしたものの浅学菲才の身には重荷過ぎて断念。50年もたって後、藩儒臣の書いた『穆公遺事』を読んで、自らの見聞を追加すべきと考え増補の形で残すことを決断

Ø 穆公とは、どのような殿様だったか
穆公は英公の甥。4代藩主頼桓(よりたけ、懐公)20歳で早逝したのを受け、29歳で藩主に迎えられた
相次ぐ自然災害と放漫財政で危機的状況にあった藩財政を、倹約政策によって立て直し
「訴訟箱」を設置して、領民の冤罪防止に努める
特産物の開発、塩田の築造、物産開発で本草学を研究、文武両道、人格才知とも卓越
瀧の記述は、穆公の魅力を語って余りある。迫真性において遥か上をいく

Ø 穆公の試し斬り未遂、そして、驚きの閨房話
日常的で些末な話題「鄙言」も事実として記録するのを躊躇わなかった
容貌や身体的特徴、癖などの詳細とともに、幼年の男子を側に置くことを好んだが、男色は記憶にないとする
13歳で初めて試し斬りを体験、高松藩主になってからも定期的に行う一方、周囲の若輩者にもやり方を伝授し手本を示した
生きた罪人を斬ろうとしたのを老臣が制止した話も記載。本来載せてはいけない話
閨房の密事にも及び、正室の産後の健康問題で、実家の細川家から「御交り御断」の申し入れあり、夫婦仲が悪化していたが、需臣の諫言により再び仲睦まじくなったという

Ø 瀧が抱いた小神野へのシンパシー
瀧の増補には、穆公が正確な記録に拘り続けた殿様だったということがある ⇒ 1747年記録所を設置、歴代藩主の事績を編纂、藩士の履歴もまとめるなど、記録の利用と保存に意を注いだほか、日頃の出来事もこまめに『御手帳』に書き留めていた
瀧はその後記録所を管轄。『増補』の随所で小神野の著述に言及し、引用もしている。どうやら小神野と自分の間に、精神的血縁を感じていたようだ


大名家の秘密 氏家幹人著
渾沌奔放の時代伝える逸話
日本経済新聞 朝刊 2018年12月1日 2:00 [有料会員限定]
江戸幕府第三代将軍・徳川家光は、父・秀忠の弟の子、つまりいとこにあたる松平頼重(よりしげ)が大好きだった。何とまあ、いっしょに江戸城内の風呂にも入っている。家光39歳、頼重21歳、ちょうど家光が頼重に讃岐国高松藩12万石をあたえたばかりのころだった。
 

風呂といっても、おそらくこんにちのサウナに近いのだが、そこでの会話がまた生々しすぎる。意訳するとこうだ。まず家光が、
「頼重よ、水戸殿がうらやましくないか」
水戸殿とは徳川光圀。頼重の実弟でありながら兄よりも大きな水戸藩28万石の世子となった。頼重はこたえた。
「いいえ、ちっとも。私はこのように上様のお風呂の相手まで許されていますので」
「いずれは同格の大名にしてやろう」
「ほんとうですか」
「いつわりではない」
ふたりは手に手をとって、
「ゆびきりかまきり、ゆびきりかまきり」
盗聴器のない時代に、こんな湯殿の煙のあたたかさも伝わるような逸話をいったい誰が書きのこしたのか。
高松藩士・小神野与兵衛(おがのよへえ)である。長らく藩史編纂(へんさん)のような仕事にたずさわっていたらしく、諸記録を自由に閲覧した。それが刺激になったのだろう。退任後には古老とさかんに会い、藩主や藩士の逸話をいろいろと聞き取って『盛衰記(せいすいき)』にまとめ、門外不出の書とした。
結局はまあ評判となり、藩内外へさかんに写本が出まわったため21世紀の歴史家がそのひとつと出合い、こうして仕立て直されたわけだけれども。上の「ゆびきりかまきり」も、おそらくは頼重自身の回想を、誰かが聞いて記憶していたのだ。
『大名家の秘密』は、そんなわけで、逸話そのものを楽しむ本である。ショートショート集のおもむきが濃く、そこから人物論や社会論への展開はないし、それが著者の目的でもない。そのかわり読者はこの江戸初期という、戦国の遺風を濃厚にのこす時代のざらざらとした素肌にじかに手でふれることができる。人々がたいてい気が短く、衆道の気があり、藩主の子ですら堕胎される渾沌(こんとん)奔放の時代の素肌に。
《評》作家門井 慶喜
(草思社・2000円)
うじいえ・みきと 54年福島県生まれ。歴史学者。『武士道とエロス』『不義密通』『サムライとヤクザ』など著書多数。
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