モルガン家 金融帝国の盛衰  Ron Chernow  2014.4.5.

2014.4.5. モルガン家 金融帝国の盛衰
The House of Morgan An American Banking Dynasty and the Rise of Modern Finance             1990

著者  Ron Chernow エール、ケンブリッジの両大学を卒業。「20世紀基金」の金融政策担当ディレクターを経て、現在、経済・政治・歴史分野の著述・評論に専念。数多くの全国紙、地方紙、雑誌に寄稿。本書は初の単行本、1990年度全米図書賞(ノンフィクション部門)受賞を始め、ウォール・ストリート・ジャーナル、ニューヨーク・タイムズ等の書評でも最大級の評価を得た

訳者 青木榮一 1930年生まれ。東教大文卒。北海道新聞ワシントン特派員、論説委員、東京水産大教授を経て、現在は共立女子大教授

発行日           1993.7.23. 第1            1993.9.27. 第4
発行所           日本経済新聞社

世界で最も謎に包まれた一族の物語!
政府になりかわって国の外交を担い、まるで中央銀行のように金融界に君臨し、産業界を陰で支配した華麗なる一族の全て
全米図書賞受賞作!!
「チャーナウ氏は、私たちを数世代、数大陸にわたる途方もない旅に連れ出してくれる……これは、驚くほど巧みに書かれたウォール街の金銭欲の世界の物語である」(N.Y.タイムズ紙)

プロローグ
モルガン財閥は、アメリカ・ボルティモア出身の銀行家ジョージ・ピーボディがロンドンで1838年に創業したのが前身、後にモルガン一族が引き継いでニューヨークへ移し、そこで一躍有名に
本書の主題は、かつてのモルガン財閥ほど大きな力を持ち、謎に包まれ、しかも富裕な銀行は今後決して現れることがないだろうという点にある。国際金融が成熟段階に達した現在、金融という権力は多くの機関や様々な金融中心地に分散されるに至っているので、本書で回顧しようとしているのは、急速に姿を消しつつあるかつての金融の世界である

第1部        金融王の時代(18381913)
第1章        守銭奴
1835年、近代化に向けて鉄道、運河、高速道路の建設に狂奔していたアメリカは、資金の全てを州債で賄ったが、メリーランド州は他の州と同様、主にロンドンで売った州債の利払いを延滞、州議会の一行は債務不履行回避のためにロンドンの金融帝国に支援を求めたものの相手にされず諦めかけていたところに、ピーボディー1人が残って、追加の借款に成功
1837年、ピーボディ商会は、アメリカの州債をロンドンの金融市場で取り扱う大手業者にのし上がる
飢餓40年代 ⇒ 1840年代の10年間、飢饉による大不況で、州債の価格は1/2となり、ペンシルバニア、ミシシッピ、インディアナ、アーカンソー、ミシガンの5州とフロリダ准州が利払い不履行に陥ったが、ピーボディ商会はベアリングと共同で、各州議会に利払いの再開を働きかけると同時に、暴落した州債を買い占めて、利払いの再開とともに一財産を作る。48年ヨーロッパでのブルジョア革命勃発でアメリカの債券が資金の安全な逃避先となり、さらにカリフォルニアのゴールド・ラッシュとメキシコ戦争のお蔭で、40年代末までにはアメリカでは不況の名残が一掃された
吝嗇で独身だったピーボディが後継者に選んだのが、ボストンの同業者のジュニア・パートナーだったジューニアス・スペンサー・モルガンで、53年に一家でロンドンに移りパートナーとなる
クリミア戦争で米国の穀物価格が急上昇、穀物を輸送する鉄道株が熱狂的な投資をよんで、鉄道株を手広く扱うピーボディ商会はしこたま儲ける
1857年、クリミア戦争終結後の穀物価格急落に伴う金融恐慌では、ベアリングの保証のもとイングランド銀行からの緊急融資に救われる
南北戦争の頃を境に、ピーボディは守銭奴から慈善家に変身
1864年、ピーボディは引退と共に社名も引揚げ、モルガンはやむなくJ.S.モルガン商会として再出発(1910年モルガン・グレンフェルに改称)
1869年、ピーボディの死に際し、英国政府はウェストミンスター寺院内に墓を用意したが、個人の遺志により辞退、代わりに王立取引所の裏に像が建てられ、女王は遺体を建造したばかりの新鋭装甲艦に乗せて故国へ送った

第2章        口やかましい人
金融王の時代 ⇒ ジューニアスとピアポントの父子2人組が国際金融を舞台に活躍した時代。鉄道、重工業など新しい事業の勃興期で、どんな富豪でも応じきれないほど資金需要が膨れ上がり、資金の配分権限を持つ大手銀行は、企業を支配していた
1870年、普仏戦争で敗れたフランスの資金調達を引き受けたモルガンはペルーやトルコ並みの85でフランス公債を売りに出したが、その後のパリ陥落からパリ・コミューン誕生と続き価格は55まで下落、何とか持ちこたえるうちに73年フランスが満期前償還を行った結果、息を吹き返すとともにトップクラスの政府資金調達銀行の仲間入りを果たす

第3章        王子
ピアポントは、ジューニアスのウォール街での代理人として活躍
鉄道株の買収合戦に乗り出したのは69年のオールバニー・アンド・サスクワハナ鉄道が最初、ジェイ・グールドとの買収合戦を勝ち抜いて、企業支配の幕開けとなる
1871年、ペンシルバニア州政府資金取扱いのドレクセルと合弁会社設立
1873年、アメリカ連邦政府が南北戦争当時からの負債3億ドルの借り換えを企図した際、従来のジェイ・クック商会による独占を破ることに成功

第4章        コーセア(海賊)
ピアポントの関心を最も奪ったのは、英国国教会派に属する聖公会 ⇒ 息子のジャックが生まれたとき、その子の天宮図が不況を連想させる深紅の十字を示していたが、それがモルガン一族にとって適切な予言となり、1929年代恐慌をうまく切り抜けた
82年、ニューヨークの上流階級の間でヨット所有が流行ってくると、最初の大型外洋ヨットを購入、ファニー夫人や子供たちにも勝る社交の道具立となった
鉄道各社間の経営紛争の調停役として活躍したピアポントの仕事上も密議の場所として活用された
1890年、ジューニアス死去
ピアポントは、ジューニアスから構いすぎるほど目をかけられたのに対し、息子のジャックに対しては距離を置いた。ピアポントとジョンのあいだには、いつも何らかの距離、何とも言いようのないよそよそしさがあって、心が繊細で自信のないジャックにすれば、ギラギラ目を輝かせ、機関車みたいに驀進していく有名は父親にはついてゆけなかった
ジャックは、医者になりたかったが、父が一族の名誉の問題だからと迫ったので、やむなく銀行家になったという

第5章        ノーザン・パシフィック株買い占め事件
1879年、合衆国政府は、ドル通貨を金に兌換すると約束、通貨価値を維持するとともに、約束を担保するため最低1億ドル相当の金を保有することとしたが、90年代初めから大量の金が流出を始める ⇒ アルゼンチン向けの投機が政治危機により債務不履行の危機に瀕し、仲介したベアリングが倒産寸前となり、イングランド銀行が救済基金を設け、モルガン他が資金を拠出するが、英国の投資家は資金を引き揚げたためにアメリカの金が流出、そこへアメリカの銀行の倒産と鉄道会社の破産を伴う93年恐慌が重なる
モルガンはロスチャイルドと共同で合衆国政府の金防衛に協力、金本位制維持に貢献

第6章        トラスト
1899年、ジャックはロンドンのモルガンへ異動
1901年、北大西洋航路の独占を狙って、世界最大の海運会社を経営するバリンを抱き込んだトラストを作ったが、ボーア戦争の終結後の海運市況の軟化で失敗
ピアポントには礼儀正しい銀行家と極端な好色家という2つの側面があり、女性に対する彼の態度はいつも相手によって極端に違った。銀行内では女性の雇用に厳しく反対、女性とは商談もせず、全く別な世界の住人と見做した
芸術の問題となると潔癖な基準を持ち、メトロポリタン歌劇場の理事だったとき、リヒャルト・シュトラウスの歌劇《サロメ》の上演に対し、洗礼者ヨハネの首を欲しがるサロメの話が大胆すぎて好みに合わないと初日の観客が騒ぎ出し、その稽古が日曜の午前に行われて地元教会の牧師たちの怒りを買ったこともあって上演が取りやめになったが、ピアポントも一役買い、別の理事はシュトラウスに弁解の手紙を書き、「サロメ中止の責任は、モルガンの全く頑迷固陋な信仰のせいだ」と言ったという

第7章        金融恐慌
1907年、3月のウォール街大暴落を銀行家が協力した買い支えで一時凌いだが、10月に投機化した信託会社の暴走が取り付け騒ぎを起こし、危機が再発したときにはピアポントの奔走で流動性を確保し乗り切る ⇒ ピアポントの影響力の頂点で、これ以降金融制度の整備が図られ、中央銀行としての連邦準備制度発足へと漕ぎ着ける
(悪徳信託会社の暴走を止めるためにモルガン他の銀行が中心になって1903年に設立したのがバンカーズ・トラストだったが、それでも信託会社の暴走は止まらなかった)
1909年大統領に就任したタフトは、国内でトラストに厳しく当たる一方、海外においてはドル外交を積極的に後押し、米銀による外国向けのシンジケート取りまとめには協力的だった ⇒ 中南米や中国での協力関係はその好例

第8章        タイタニック号事件
晩年のピアポントは、トラストをめぐる世間の非難から逃れて孤独に過ごすことが多く、気性が激しい彼に一番よく似ていた末娘のアン・トレーシーと特に反目しあい傷つくことになるが、アンや妻のファニーとの不仲の反動のせいで息子ジャックとの関係は晩年になってよくなる
1910年、モルガン・グレンフェル商会設立 ⇒ 初めて英国人の名前が商会名に加わるが、実質はモルガンが支配
晩年のピアポントは、次々と悲運に見舞われ、まるで神が彼の威光に相応しい桁外れな規模で罰の報いを加えているようだった
彼の作り上げた海運トラストが、英国政府の支援を受けて豪華客船を建造したキューナードに対抗して同様に建造した客船タイタニックが1912年の処女航海で沈没、事件を契機にトラストは崩壊への道を進む。ただし、処女航海を予約していたピアポントは
強奪金融資本の代表者として民衆の怨嗟の的にされたが、その糾弾の先頭に立っていたのは、民主党でプリンストン大の総長からニュージャージー州知事になったウィルソン(後の大統領)
共和党の大統領タフトも、モルガンの作った農機具トラストのインターナショナル・ハーヴェスターや、USスティールを反トラスト容疑で提訴、結果的には直接的影響は軽微に留まるが、空の英雄リンドバーグを初めとする世間の非難の目からは逃れられなかった
1913年逝去したとき遺言が明らかにされたが、意外だったのは非常に気前よくお金の分け方を決めていたこと
当時誰も予想出来なかったのは、かつてはピアポントに気圧されて片隅に縮こまっていた恥ずかしがり屋で気の利かないふらふらしていたジャックが、強情で口喧しい父親が支配していた時よりもずっと大きな権力を持った一大金融機関を統括するまでになったこと

第2部        ドル外交の時代(191348)
第9章        変容
ジャックは、父親崇拝に徹し、生活の多くの面で次第に気味悪いほど父を尊敬する行為を取り始め、父と瓜二つの人間になり変わろうと懸命に努める
父の死の直後2つの難題がジャックに降り掛かる。1つは父の膨大な美術品のコレクションの処理で、父が理事長を務めていたメトロポリタン美術館に一括して寄贈する代わりに、6割までは莫大な遺言執行に必要な資金調達のためにバラバラに解体して売却、美術界はコレクションの大虐殺だと言って非難される。2つ目の危機は、支配下にあった鉄道会社の相次ぐ事故処理を巡って、鉄道会社が従来からやってきた買収のあくどい手口が暴かれたこと
1914年になると、モルガン商会のパートナーたちが支配下企業の取締役を一斉に辞めてウォール街を驚かすが、前年には連邦政府に所得税の賦課徴集を認めた憲法修正第16条が批准され、その翌年所得税が引き上げられ、反トラスト諸法の監督・施行にあたる連邦取引委員会(FTC)が創設。革新勢力が最後に花を咲かせた成果は、ウィルソン大統領が13年に署名して成立した連邦準備法。連邦準備局は翌年から活動を開始したが、そのおかげでモルガンへの風当たりが緩和されるとともに、実際にヨーロッパ各国の中央銀行や外国為替市場との折衝で中心となって動いたのはニューヨーク連銀であり、モルガン商会とは共通の目的意識を分かち合うことが多くなり、モルガンの金融支配力は13年以降も増大していくことになる

第10章     1次世界大戦
特に儲けたのはグゲンハイム財閥 ⇒ 参加のケネコット・カパーが合衆国で生産する銅の大半を英国のために買い占めて
大戦を乗り切ったモルガン商会は、その支配力が大きく広がる

第11章     爆発
復興の資金需要を賄ったのはアメリカの金融機関で、戦後の栄光に浴したモルガン財閥は今や世界一の影響力を誇る民間銀行として、多くの国家を相手の巨額な公債発行を扱える唯一の存在
1920年に2件の爆発事件 ⇒ 4月に無政府主義者で精神病の男がモルガン一族の教会で侍医をジャックと誤認して銃殺、9月にはモルガン商会の前で荷馬車が爆発、死傷者数百名を出す惨事に
ジャックは、第1次大戦以来の反ユダヤ感情がさらに高揚

第12章     彷徨(オデッセー)
モルガン財閥の第1次大戦後の覇権というか、「ドル外交時代」のアメリカの政策との一心同体振りを最もよく表徴したものは、極東で同財閥が卓越した立場を新たに獲得したこと
当初は政府の要請で中国に進出したが、政府が方針を転換して外国への「干渉」を非難したため手を引いていたところ、終戦とともに中国向け借款団構想が再浮上、
23年の関東大震災の際は、震災復興公債を引き受け、日本政府の信頼を射止める

第13章     ジャズ・エイジ
24年の大統領選になると、モルガン財閥のアメリカ政治への影響力が非常に大きくなっていたので、どの大統領候補にモルガンの意気がより多くかかっているのか、いちいち区別できなかった
20年代は、アメリカがバブルに乗って好景気に沸き始めた頃で、金儲けが再び讃美され始め、モルガン財閥にとっても向かうところ敵なしの絶対優位を誇った時代

第14章     力の逆転
英国の国際金融における主導権回復のためには金本位制への復帰が大前提 ⇒ 金融に疎いチャーチル蔵相に代わって動いたのが20年から24年間イングランド銀行総裁の地位にあったモンタギュー・ノーマンが、モルガン・グレンフェルを取り込んで25年に金本位制に復帰したものの、ポンドの過大評価を望んで失敗、英国を復活させるどころか衰退に拍車をかける

第15章     聖者
モルガン商会を動かす実力者兼理論家としての栄誉をトム・ラモントと競ったのが、クーリッジ大統領とアマースト大の同級生だったドワイト・ホイットニー・モロー(マロウ)で、モルガン財閥に文化的な貫禄をつけ、エッセイを書き、講演をし、外交政策を論じ、各種の財団理事となるような教養ある銀行家の本拠という名声を与えた
モローは、若い時に決めた政治的大志を決して捨てずに、モルガン商会パートナーの地位を政治家になる踏み台と考えたところがユニークで、苦学してコロンビア大法科大学院を出てからウォール街の法律事務所のパートナーとなってからモルガンに転じたが、それが結果的には政治家の道を実現するためには裏目に出て、クーリッジが大統領となったときには財務長官との噂もあったが、側近の忠告を入れてクーリッジがモルガンと一定の距離を置こうとしたため実現しなかった
夫人・ベティは文芸誌に寄稿する詩人
25年、クーリッジが航空機の国防面への利用を検討するための委員会の委員長にモローを指名(ケネコット・カパーの株式公開を主導したのが契機となってモローとグゲンハイム兄弟が旧知の間柄で、グゲンハイムが政府に寄附した3百万ドルを基金に航空機開発が促進されることになった)、この仕事を通じて若きチャールズ・リンドバーグと知り合う
27年、リンドバーグの大西洋単独横断飛行の費用の足らず前をモルガンが寄附した経緯もある
同年、クーリッジからメキシコ大使に任命され承諾 ⇒ ボルシェビキ政権と非難された国に赴任して親善外交に務め、その一環としてリンドバーグに友好親善飛行を要請、1927.12.14.に悪天候をついてワシントンを飛び立ち、6時間遅れで無事到着、大歓迎を受ける。この時リンドバーグはクリスマス休暇をメキシコの米大使館で過ごし、クリスマス休暇で両親のもとに戻っていたスミス・カレッジの最上級生だったドワイトの娘アンに一目惚れ、29.5.27.イングルウッドのモロー家の新居で結婚式を挙げる
リンドバーグの父親は、ポピュリスト党の下院議員で、モルガンと連邦準備銀行との結託を痛烈に非難し、銀行家がアメリカを第1次大戦に引き込んだと手厳しく批判した張本人だった影響を強く受けて、父が抱いた東部の銀行家たちに対する疑念を受け継いで完全に脱却することが無く、30年代末には孤立主義の立場を取ってモルガン財閥と不仲になり、アンを苦しい目に遭わせることになる
モロー大使は、上院議員となる夢を実現するためには、モルガンと距離を置くことが必要だと考え、石油採掘権確保問題や教会領有地の国有化問題解決に奔走、対外債務支払い問題でモルガンのラモントと対立したところで、30年のニュージャージー州上院議員の候補者指名選出馬の話が持ち込まれ、ビッグ・ビジネスのために働く手先として厳しい批判に晒されながらも大勝利。ところが、30年代代恐慌の最中というのに、救済施策や公益事業の規制強化に反対票を投じ、長年かけて築いてきたリベラル派の名声をたった3か月でふいにしてしまう。批判を苦にしたモローは彼一流の徹底した頑固なやり方で動いたが、3110月脳出血によりまだ50代後半で死去
彼の死後5か月して孫のリンドバーグ2世が誘拐・殺害、悪夢から逃れようと両親は35年英国に移住。モルガンはパートナーの家族ために250人の護衛をつけることになった

第16章     株式大暴落
20年代の株式の強気市場は、20年代後半の、大体においてウォール街だけの現象
主としてインフレと労働争議、赤狩りと無政府的な社会混乱を伴った、第1次大戦直後の不穏な一時期に対する反動が楽観的空気を生み、史上稀に見る金余り現象が好況を生む
金余りブームに乗じて、アメリカの金融サービス業界は爆発的に急成長。債券に比べて重要性の低かった株式に、小口投資家の資金が殺到、企業も積極的に株式市場での資金調達に走る。ADRなる新商法が開発され外国株式への投資も活発に。インサイダー取引規制もなく、市場操作を図るための株買い占め連合的なファンドまで登場、株嫌いのモルガンまでが1枚噛んだ
29.10.24. アメリカ訪問中のチャーチルが午前中にニューヨーク証券取引所見学、立会から2時間足らずで、約100億ドルがふいになる ⇒ 主要銀行が資金を拠出して株を買い支えたため一時的に落ち着くが、翌週さらに売り浴びせが殺到

第17章     大恐慌
フーバー大統領は、減税と公共事業の実施を発表、立て続けに公定歩合を引き下げ、経済界の首脳たちに賃金水準維持を誓約させ、国民の購買力低下を回避しようとした
株価がじり安傾向を辿る最中、大統領の取った2つの失政で恐慌が加速 ⇒ 関税の引き上げと通貨供給量の圧縮

第18章     聴聞会
ウォール街は軒並み「アップル・デー」 ⇒ 困窮した店員たちが店を休んで街頭でリンゴを売って生計の足しにする毎日
出来たばかりのエンパイア・ステート・ビルも半分しか貸室が埋まらず、”Empty State Building”と呼ばれ、総人口の10%強が失業者
古典派経済学の説く自由放任政策に固守した結果、景気後退がさらに深まり、各地の連邦準備銀行が立て続けに公定歩合を引き上げる一方、財政均衡のために税率を倍に引き上げ
32年、復興金融公社RFCの設立で漸く財政難に苦しむ企業が一息つく
モルガン商会のパートナーたちの豪華な生活はびくともしなかったが、モルガン財閥の純資産は半減
32年、債券市場では禁止されている株式市場での空売りが景気回復を妨げていると考えたフーバーは、取引所が規制しないのであれば連邦政府が規制に乗り出すべきとして上院銀行・通貨委員会に調査を要請、聴聞会(プジョー委員会)が開催された ⇒ ウォール街への国民の怒りが津波のように押し寄せ、グラス・スティーガル法とモルガン財閥分割への直接の引き金に

第19章     崩壊
33年新証券法の成立 ⇒ 有価証券の新規発行の際の登録のほか、情報の完全公開の義務付け等、危険負担を買手から売手に転嫁
大部分のニューディール立法の精神的支柱となったのは、かつてモルガンによるニューヘイブン鉄道支配を厳しく批判した法律家で、その頃は連邦最高裁判所判事になっていたルーイス・ブランダイス ⇒ ユダヤ人による巻き返しであり、FDR(ルーズベルト大統領)もその理論に乗ってモルガン追放に動く
35年、大手銀行ではモルガンだけが商業銀行を選択、引受業務を一部同行の職員が退職して設立したモルガン・スタンレーに移管したが、親銀行が全面的に資金の面倒をみた
モルガンを包んでいた秘密のベールが剥ぎ取られ、初めて貸借対照表を公表

第20章     魔法使い
ドイツ国立銀行ライヒスバンクの総裁で経財相も兼務したヒャルマー・シャハト博士は第三帝国の財政立役者であると同時に、ナチス金融財政の悪質な魔法使いであり、ヒトラーのために魔術的な金融財政をやってのけられるペテン師との悪評を買う
33.5.シャハトは訪米して20億ドルの対米債券の利子支払いが困難だと示唆、帰国後長期海外債務の支払い停止を発表。その上ドイツとの貿易を梃に債権国と個別交渉に当たり、債権国間の足並みを混乱させた ⇒ 英米の親しい間柄にも楔が撃ち込まれ(英国の投資家を優遇)、開戦直前まで両国間に緊張が走るとともに、後にはJ.P.モルガンとモルガン・グレンフェルとの間をも分かつ最大の要因となる
1930年代半ばには、モルガン財閥が連合国向け借款を守ろうとしてアメリカを第1次大戦に引き込んだとする非難が渦巻いていた ⇒ 孤立主義者たちは、このデマを巧みに利用して、ヨーロッパで戦争が起きたとしてもアメリカに中立を守らせようと大わらわ

第21章     横領犯
妻に死なれたジャックは、16人の孫を自慢しながらも、男やもめの暮らしを続け、36年最初の心臓発作、神経炎を併発して歩行困難になった
37.10. 再び暗黒の火曜日と呼ばれる株式市場の暴落、経済も不振
リチャード・ホイットニー事件 ⇒ ボストンの銀行頭取の家に生まれ、ウォール街で出世して3035年取引所の理事長。公的ポストとは別に自らの投資商会は詐欺師たちのいいカモにされ、博打みたいな事業熱に溺れて借金に苦しんでいたが、モルガンのパートナーで兄思いの弟ジョージにいつも救われていた ⇒ 借金の返済のため自らの立場を利用して公的組織の金を横領したことが発覚、大々的なスキャンダルとなり、モルガンも隠蔽しようとしたため同罪として指弾

第22章     宥和
創業時から、モルガン財閥は、英国とアメリカの両国にまたがる気概と性格を備えていた。特に第1次大戦によって、モルガンのロンドンとニューヨークの両商会は1つに融合して、世界の平和と繁栄の維持は両国の責任であると、共に信じていた。ところが、第2次大戦は、その初期の段階で両者の仲を分裂させ、両者間に長くわだかまっていた緊張を表面に露出させることになる
モルガン財閥に見られた両国の僚友意識は、アメリカ側だけの一方的な片思いである点がいつも少しばかりあったが、こうした親英国感情は殆どのアメリカ側のパートナーたちの青年時代にはロンドンが国際金融の中心であったという事実に負うところが大きかった
グラス・スティーガル法の施行後、J.P.モルガン商会はモルガン・グレンフェルの単なる少数株主と化し、仕事上の関係も稀薄となったが、両者の一体性を最も深刻に揺るがせたのは、海外債務の取り扱い ⇒ 最初がドイツ債務で、ナチの選択的な債務不履行政策がロンドンとニューヨークのモルガンの間に悪感情を生み出したのに続き、38年のナチによるオーストリア併合によってオーストリア復興公債の債務不履行に対し、チェンバレン首相が対独宥和策をとったことから、モルガン・グレンフェルがイギリス政府に与するのか、モルガン財閥のことを優先させるのか問題となる
開戦直前英国国王夫妻の初のアメリカ公式訪問が実現。根回ししたのはジョーゼフ・ケネディ駐英大使だったが、その人事に関してジャック・モルガンは激怒。カトリック信徒にしてウォール街の相場師がロンドンの大使になったばかりか、大使館自体モルガンが国務省に寄附したモルガン家のロンドンの旧邸だった。建物の前に現在ある標識は、ケネディ大使の息子で後の大統領が少年時代をしばし過ごしたと記しているが、旧モルガン邸だったことには一言も触れていない
ナチのチェコ侵攻で、さすがの英国も宥和策を転換、ナチに宣戦布告。ニューヨーク証取は2年振りの大商い、債券市場も急騰、アメリカの投資家たちは好況の到来を見越し、結局大恐慌の名残を一掃したのは、ニューディール政策ではなく、第2次大戦だった

第23章     人質たち
40.6.独仏休戦協定で、パリのモルガン商会(1868年にドレクセル一族が創業し、26年からモルガン商会に変更、ニューヨークが大部分の資本を出していた)は苦境に立つが、資産を南仏に隠し、ナチに抵抗しながらも営業を継続
アメリカの参戦によって、モルガン財閥の内部分裂は修復されるとともに、国内政策の対立を脱却してFDRとモルガンのパートナーたちも急速に親しくなる

第24章     転換期
40.2.J.P.モルガン商会は、従来のPrivate Partnershipから最終的にCorporationに転換、J.P.モルガン銀行となる ⇒ 主要パートナーの老齢化につれ資本金が減耗するのを心配したことや、信託業務への進出、連邦準備制度への加入等が転換の理由
43.3.ジャックが心臓発作と脳卒中で急逝。ピアポントと同じ75歳、父と同じように気前よく振る舞ったが、生前の寄附は35百万ドルにのぼり、遺産は税引き後で4.6百万ドルのみ ⇒ ジャックの歴史に占める位置をめぐる評価は二分されたが、公正で手堅い商法で知られた銀行の名声を死ぬまで守ったことは間違いない
古臭い経済真理を繰り返し、自分が敵と思い込んだユダヤ人、カトリック教徒、ドイツ人、リベラル派、改革派、知識人に対しては冷酷
48年モルガンの大黒柱だったトム・ラモント死去 ⇒ 楽天主義を武器に周囲から尊敬されるリーダーにのし上がったが、その底には機を見るに敏な日和見主義の考えも働き、その結果日本軍部やムッソリーニと関係するという生涯の汚点も残したが、各国のトップの信頼を勝ち得た[ドル外交の時代]の最後を飾る卓越した銀行家

第3部        カジノ経済の時代(194889)
第25章     メトセラ
ラモントの後任の会長はレフィングウェル ⇒ 古代ユダヤの長老メトセラ風の賢さを備える
2次大戦の間、国際金融秩序を主に支配していたのは、イングランド銀行、ニューヨーク連銀、それにモルガン財閥という不可解なトロイカ体制だったが、世銀とIMFの設立で旧体制は覆され、戦後の通貨安定とヨーロッパ再建を超国家的局面に乗せることになり、モルガンの影は薄くなる
50年ホイットニーがレフィングウェルの後任会長になった時、モルガン銀行の規模は10大銀行の後塵を拝するほどに弱体化
モルガン神話の1つに、個人が当座を開く時には百万ドルの残高が要求されるというのがあった ⇒ その代わり、モルガン銀行の小切手は世界中どこでも一覧払で現金化できた
モルガン財閥がかねてから推進してきた国際経済協力重視の考え方は、アイゼンハワ―政権になって漸くワシントンの連邦政府内に定着

第26章     異端児
銀行に代わってウォール街を仕切ったのはモルガン・スタンレー商会 ⇒ 大企業の多くを顧客として、戦後急拡大した資本市場で引受に特化して業容を拡大。単独引受を原則とし、唯一の例外がファースト・ボストンとの共同幹事となった世銀債。チェースの上級副社長から3代目の総裁に就任したユージン・ブラックが、引受業者を決めるのに競争入札を短期間試した後、2社を恒久的な引受業者に選んだ
モルガン・グレンフェルも、ウォーバーグの企業買収戦略に刺激されて時代遅れの雰囲気を一掃、企業乗っ取りに積極的に関与し始める ⇒ カジノ時代の到来の予感

第27章     ヨナ
新しい金融取引の時代 ⇒ 取引規模拡大を狙って銀行間の合併、統合が進む。チェースはモルガンとの合併に失敗した後マンハッタン・バンクを乗っ取り、ケミカルはニューヨーク・トラストを買収、マニュファクチャラーズ・トラストはハノーバー・バンクと合併、モルガンも規模で全米2位のギャランティ・トラストと合併
60年代のCDやフェデラル・ファンドの登場は、銀行業に劇的な変化をもたらし、銀行業がバンキング・フロアからトレーディング・ルームへと軸足を移し、より投機的な傾向を帯び始め、巨額に上る多様な投資ポートフォリオを築き上げる
ユーロ市場の台頭は、60年代初めのこの銀行改革に拍車をかける ⇒ 各国の規制の外にあるこの海外金融市場はグラス・スティーガル法の精神を覆す
63年、利子平衡税実施
モルガン・ギャランティとモルガン・スタンレーの間に一番しつこい軋轢を引き起こしたのは日本 ⇒ 両社が一体と考える人が多かったが、この混同が一番ひどかった
東京との地方債発行に際し、日本側はまずファースト・ボストンに打診、好感触を得る
次いでモルガン・スタンレーに打診したが、もともと日本での商売に熱心でなかったことや単独主幹事以外は受け付けないという方針に加え、人種差別主義的偏見から拒絶
そんな中で、モルガン・ギャランティの東京支店開設の動きが表面化 ⇒ ラモントと親交のあった樺山愛輔元伯爵が、モルガンの顧問として、日本の上層部との取次に奔走。さらに最後の武器としてサトシ・スギヤマともデイビッド・フィリプスとも呼ばれる、国籍不明の人物がいた。1950年代に、ジョン・フィリプスなるアメリカ人教授が在日アメリカ空軍に勤務、朝日新聞の杉山氏と親しくなる。杉山氏が息子のサトシにアメリカでの教育を受けさせたがっていたので、フィリプスはサトシを養子としてデイビッドと名付け、アメリカで一家とともに13年過ごさせ、カリフォルニア大学バークレー校を卒業後、ニューヨークでモルガン・ギャランティに勤務。移民帰化局が彼の養子縁組に疑問があるとして国外追放処分を仄めかしたので、64年でビッド・フィリプス(別名杉山サトシ)はモルガン・ギャランティの東京事務所に配属、支店開設を目指した日本政府向けの秘密工作に関わるようになり、69年目出度く支店開設に漕ぎ着ける。さらに日本嫌いのモルガン・スタンレーにも働きかけて、デイビッド・フィリプスを責任者にすることを条件に東京事務所の開設同意を取り付ける

第28章     タブロイド大衆紙
グラス・スティーガル法が銀行を証券市場から追い出したはずだったが、銀行は信託部門を通じて株式市場に大きな影響力を振るっていた
信託業務を拡大し、顧客の資産の運用管理を任される
企業買収案件の急増とともに、インサイダー取引が俎上に

第29章     サムライ
1963年、モルガン・スタンレーが初めてユダヤ人を採用
モルガンという名義を巡るいざこざは、特に日本や中東で目立っていて、常に3社間の軋轢の原因になっていた ⇒ 73年、3社の代表が合体に向け協議。手始めは海外証券業務での連携だったが、3社ともそれぞれの属する国の国益に沿って行動していたため、キューバや北朝鮮に対する融資など、米英の地政学的隔たりが3社の協力を困難にしたため、提携は立ち消えとなり、情け容赦なく戦う間柄へと発展
SECが株式売買手数料を自由化した75年以降、ウォール街のM&Aへの進出が加速、海賊まがいの戦術が荒れる海に横行

第30章     シャイフ(首長)
7374年、アラブ原油の禁輸とその結果起きた世界的な原油価格の急騰のせいで全世界がインフレとなり、金融市場が不振に陥る。それに加え、70年代初めの固定為替相場制の終りとともに、外為取引は激しく投機化の度を強める
74.5. フランクリン・ナショナルが為替差損を出し、30年代の大恐慌以来初めて大手銀行の取り付け騒ぎを引き起こし、米銀行史上最大の倒産に発展、モルガンも大きな損失を蒙る
アラブは金融危機を引き起こした張本人であると同時に、オイルダラーの提供で、救い主にもなった ⇒ 徹底して格式ばるアラブ人たちは保守的な超一流銀行を好み、なかでもモルガンの伝統的な金融業者としての権威、慎重で手堅い商法、それに頑固にキリスト教徒として生きてきた歴史(アラブ人が敵視するユダヤ人の役員は、80年代になるまでモルガンには1人もいなかった)も高く評価
モルガンとサウジの関係は、30年代初期にイブン・サウドが王国を創り上げた頃に遡る
アラムコの銀行取引をいてに引受たのがギャランティ・トラストで、アラムコの建設工事を一手に引き受けていたべクテルの取引銀行がモルガンだった
1952年、中央銀行に相当する通貨庁SAMAの設立も、サウジの金融改革を指導したのもすべてモルガン・ギャランティであり、75年にサウジ・インターナショナル・バンクSIBを設立したときもSAMA50%に次ぐ20%を出資
中東で商売した経験が全くなかったモルガン・スタンレーは、サウド国王の侍医の息子で世界一の金持ちの実業家という触れ込みのカショギなるいかがわしい人物と結ばれることとなり、彼が持ち込んだいくつもの金儲けの計画に巻き込まれる
モルガン・グレンフェルにとっても、オイルダラー・ブームは60年代後半のM&Aブーム終息後の不景気を救う天与の幸運で、特にロンドンのマーチャント・バンクのなかではユダヤ人の色がついていないことが取引を有利に運ばせた
73年、第4次中東戦争の最中に巨額の対アブダビ融資を取りまとめセンセーションを巻き起こすとともに、アラブ色を強める
アラブの石油禁輸の結果起きた原油価格の暴騰と金利の急騰によって、多数の倒産が引き起こされ、モルガン・ギャランティは75年のほとんどを必死の防戦対策に追われた ⇒ 同行がメイン・バンクだったアメリカ第3位の雑貨店チェーンW.T.グラントが倒産、50百万ドルを償却
75年のニューヨーク市の財政危機に際しては、連邦政府の救済を仰ぐ ⇒ ピアポントが1枚の小切手を切るだけで救えた14年や33年の時代はとうの昔に過ぎ去った

第31章     ツームストーン(墓石広告)
60年代末から70年代初めにかけて、最上段のブラケット(バルジ・ブラケット)を占めていたのは4社 ⇒ モルガン・スタンレー、ファースト・ボストン、クーン・ローブ、ディロン・リード。特に上位2社が突出
モルガン・スタンレーは単独のトップレフトを要求、固執したが、70年代後半になると時代錯誤と化し、企業を銀行に拘束してきた鎖を侵食する新興勢力が台頭
79年、IBMの初の起債の引き受けに際し、ソロモンとの共同主幹事を拒否したのが契機となって、モルガンの顧客が次々に浸食され、遂に共同主幹事を呑むことになり、さらに80年にはアップルを始め新興企業のIPOにまで進出

第32章     サンバ
ラテン・アメリカ諸国向け融資と債務不履行の繰り返しは、少なくとも1920年代にまで遡り、その後の30年代代恐慌の際にも、アルゼンチンを除くすべてのラテン・アメリカ諸国は、対外負債について債務を履行しなかったが、オイルダラーに溢れたロンドンの若い銀行家たちは過去の教訓をものともせず、同じ国々向けの巨額融資の胴元を務めた
かつては債券の形にして小口投資家にリスクを分散していたが、今回は商業銀行間でのリスク分散だったが、モルガン・ギャランティはラテン・アメリカ融資でもアメリカの態度の変化を常に先取り、巨額の融資を積み上げたのは、利益を求めて次第にリスクの高い融資への依存を強めた現れ
国家は破産しないという幻想に加えて、国際通貨基金の存在が銀行に安心感を与えた
824月のフォークランド戦争が、ラテン・アメリカ向け融資見直しの契機となり、同年8月にはメキシコが債務不履行を宣言。12月にはFRBのボルカー議長の代行的な立場でモルガンとシティが取りまとめ役としてブラジルのリスケ交渉が始まる
モルガンのラテン・アメリカ向け融資の遅れを取り戻したのはベネズエラ国籍のゲバウアーだったが、同時に不法な資金流用で私腹を肥やしてもいた。マイアミに子会社を開設して受け入れたラテン・アメリカからの追逃避資金の預金額は、ラテン・アメリカ向け新規融資の額を遙かに上回っていたといい、推定ではメキシコの債務総額の半分、アルゼンチンの場合は1/3が逃避資金の形で国外に流出した
累積債務の最終的な解決までは10年以上の歳月を要する

第33章     トレーダー
80年代初め、モルガン・ギャランティが大口金融業務を断念して世界を相手の投資銀行業に参入すると、モルガン・スタンレーと真っ向から衝突
モルガン・グレンフェルともぶつかる運命にあり、81年にはギャランティが持ち株の1/3を放棄(対価40百万ドル)、グレンフェルはニューヨーク証取の会員となり、ギャランティはユーロ引受業者として躍進し、剥き出しの競争が始まる
モルガン・ギャランティの投資銀行業務への傾倒を指揮したのは、海兵上がりのプレストンとロンドン出身の外為の専門家ウェザーストンの2人組
84年、コンチネンタル・イリノイの救済劇 ⇒ 名門の大口金融専門銀行として中西部のモルガンと呼ばれていたコンチが、短期のホットマネーをベースに貸し出しを急増させた所へ、82年ペン・スクエア銀行破産の煽りで短期資金市場が急騰、連鎖倒産の危機に陥ったが最終的にはFDICが株式の80%を保有して国有化
82年、SECルール415の制定により証券発行の「一括登録」が認められ、古き時代のウォール街を葬る葬式となった ⇒ 2年以内ならいつでも証券発行を可能とするもの。しかも引受リスクを分散するシンジケートなしに、引受業者による一括買い取り引受の形をとったため、資金調達や売買取引の力がものを言うようになる
ルール415がウォール街の銀行の束縛から企業を解放し、両者の間に恒久的な距離を生んだと思われたその頃、その傾向を打ち消すようにマーチャント・バンキングと呼ばれる新傾向が起こる ⇒ 自己資金を使って投資家として活動
引受業務縮小につれ、モルガン・スタンレーは以前ならにべもなく拒否した業務にも目を向け、遂にジャンク・ボンドの地獄に足を踏み入れる ⇒ 82年の格安航空会社ピープル・エクスプレス社の株式公募引受が始まり。同社は急拡大を期して結局破綻
さらには、メイサ・ペトロリアムのブーン・ピケンズとも関係を持ち、彼の買収話に加担
80年、個人や機関投資家のための資金運用を始めたのも伝統を破った事業 ⇒ 巨大化した各種基金の運用が目的

第34章     ビッグバン
8610月、イギリスのビッグバンと呼ばれた金融・証券の自由化措置発令 ⇒ 金融業務の壁を撤廃、外国金融機関にも門戸を開放、固定されていた証券売買手数料を自由化
シティ内の統廃合が起こる中、モルガン・グレンフェルは必要な資金集めのため、伝統を破って一般投資家に株式を公開するが、業務がM&Aに偏り過ぎていたためにビッグバンへの対応が中途半端

第35章     ブル(強気)
ウォール街は顧客企業にへつらうのでもなく、顧客の希望の単なる実行者でもなく、自分自身で企業乗っ取り屋となる方向へ転じる ⇒ 顧客企業に買収話を持ち掛けては膨大な手数料収入を得る
87.10.19. ブラックマンデー ⇒ 株式指数裁定取引によって、巨額の資金が瞬時に動く相場の問題点が浮き彫りとなる。世界中で一緒に株価が上がり、暴落し、そして反騰。世界各国の市場を結びつけた金融自由化が今回は同時に暴落を引き起こす原因となる
J.P.モルガンのムーディーズの格付がAAAから格下げ

第36章     摩天楼
89年、モルガン・スタンレーは、証券引受業務ではなく、M&Aやマーチャント・バンキング業務を主にしていた
ミルケン逮捕後のジャンク・ボンド市場ではトップの取扱業者
40社以上の株式を保有、投資利回りは40%以上、特にLBOの収益が大きく貢献
モルガン・ギャランティの商業銀行業務も、89年にはFRBが社債発行の限定的権限を認めたことから、子会社を通じて引受業務に進出
いずれ、アメリカの内外で証券業務を兼営する総合銀行が出現する可能性が出てきた
ウォール・ストリート23番地は、常にモルガン財閥の歴史を反映してきた。ドアの内側の1900個のクリスタルをちりばめた光輝くルイ15世風シャンデリアの下に立つとこの建物の自信感というか伝統の重みというか、そういうものが感じられた。60番地に移った時、23番地の建物を売る話があったが、プレストンは否定して、「あれはモニュメントだ。我々にしか価値のないものだ」と述べている。アメリカの他のどの銀行よりも遙かに歴史の証人であった。この小さな金融の殿堂も、今や消滅した礼儀正しい世界の高価な遺物になった。旧モルガン商会ほどの神秘さを備えた銀行は今後現れることはないだろう
モルガンの特質の多くは、グローバルなものの見方から来ていた。アメリカとヨーロッパとの間の資本移動の誘導役として、旧モルガン商会は自然に海外に目を向け、アメリカがまだ田舎者で孤立主義だった時代にユニークな世界的視野に立つコスモポリタンだった
1つの銀行が、かつてピアポントとジャック・モルガンの父子が支配したモルガン商会ほどに威厳のある、あるいは傑出した存在となることはもう二度とあるまい







Wikipedia
ジョン・ピアポント・モルガンJohn Pierpont Morgan1837417 - 1913331)は、アメリカ5財閥1つ・モルガン財閥の創始者。投資家、銀行家、社会奉仕家であり、そして金融業と産業界を合併し支配する傍ら、芸術品収集に励んだコレクターでもあった。20世紀初頭、モルガンが絶頂期の頃、彼とビジネスパートナー達は多くの大企業に財政投資を行なった。1901年までに、彼は世界で最も裕福な人物の1人になっていた。
略歴[編集]
ゲッティンゲン大学を卒業後、父の始めたイギリスロンドンにあるJS・モルガン・アンド・カンパニーを受け継ぎ、着々事業を発展させて、19世紀末には世界最大の銀行家となった。多くの鉄道を経営・統合し、のちには海運会社も同様に経営・統合し、それぞれ一大トラストを作り上げた。また、いくつかの製鉄会社を統合したUSスチールを設立して製鉄業にも進出。19世紀末には金融界産業界を支配するアメリカ最大の財閥1つとなった。
モルガンは二度、アメリカ経済を、場合によってはアメリカ連邦政府を救済したと広く信じられている。また、彼は巨大な芸術品コレクションをニューヨークメトロポリタン美術館コネチカットハートフォードワズワース図書館に遺贈した。
1913イタリアローマで死去。75歳であった。彼の財産とビジネスは息子のジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア英語版)、通称ジャックに引き継がれた。
生誕から青年まで[編集]
ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードで生まれた。父はマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン1814 - 1891)、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポント(1816 - 1884)。
ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミー(Episcopal Academy、現チェシャ・アカデミー)に首席で進学。18519月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているボストン・ハイスクールに入学した。
18529月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほどになった。ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。約1年後に回復し、ボストンに戻って勉学を続けた。
ハイスクール卒業後、ジューニアスによりスイス ヴェヴェイ近くにある学校に進学。流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学。6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとヴィースバーデン経由でロンドンに戻り、学業を修了した[1]
1857、モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に入社。翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーのアメリカ代理店であるダンカン・シェアマン・アンド・カンパニーに勤務。1860には、JP・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。1864には、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーを構成。1871フィラデルフィアの銀行家であるアンソニー・J・ドレクセルAnthony Joseph Drexel I)と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。ドレクセルが1893に死去した後、1895JP・モルガン・アンド・カンパニーとなり、現在のJPモルガン・チェースへとつながる。
南北戦争時には、モルガンは旧式のライフル13.50ドルで購入し、改良したのちに22ドルで北軍に売却するというスキャンダルがあった。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。
JP・モルガン・アンド・カンパニー[編集]
JP・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアドレクセル・アンド・カンパニーをはじめ、パリモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJS・モルガン・アンド・カンパニー1910からはモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニー)と密接な関係を持ち続けた。1900までに、JP・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となり、とりわけ再編・再建と統合を手がけることで知られた。そのころ、モルガンは、ジョージ・パーキンスをパートナーとした。
モルガンの権力志向はダイナミックな金融の競争において見られた。1869ジェイ・グールドジム・フィスクからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪取。モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて、ジェイ・クックが独占していた政府の資金調達の役割を奪取。また、鉄道開発への投資に深く関わるようになる。
モルガンはヨーロッパで多額の資金を調達したが、単にそれだけではなく、鉄道の再建と効率化も併せて実行し、投機的な利益に興味を持つ投機家たちと戦いながら、革新的な鉄道輸送システムというビジョンを作り上げた。1885、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、ニューヨーク・セントラル鉄道NYC)に貸し付けた。1886にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道C&O)を再建した。そして、「レールロード・タイクーン」と言われたジェームズ・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道GN)の経営に深く関わっていく。
鉄道トラストとモルガニゼーション[編集]
1887州際通商法が成立した後、モルガンは18891890に鉄道会社の首脳を集めた会議を開き、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。
このような、モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法はモルガニゼーションと呼ばれた[2]。モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編し、利益が出せるようにした。モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた[3]
こうしたトラスト形成の過程で、1901にはエドワード・ヘンリー・ハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道CB&Q)の争奪戦が起こり、ノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発した。それが原因で起こったのが1901年恐慌である。経緯についてはノーザン・パシフィック鉄道を参照されたい。
合衆国の「中央銀行」として[編集]
18951893年恐慌英語版)の影響でアメリカ合衆国財務省の保有していたの海外への流出が続き、底を突きかけた。シャーマン銀購入法英語版)により、アメリカが事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいてアメリカの有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったのである。
当時の主党グロバー・クリーブランドアメリカ合衆国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500ドルの金を調達するよう要請。その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用されることとされた。このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済したが、クリーブランドにダメージを与え、1896の大統領選挙において共和党ウィリアム・ジェニングス・ブライアンにより激しい非難を浴びた。モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党のウィリアム・マッキンリーに多額の寄付を行い、マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900の大統領選で勝利した[4]。マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。
なお、クリーブランドはモルガンの義父の法律事務所で働いたことがあり、モルガンと近い間柄であり、かつ金本位制の推進者であった。
海運トラストの形成[編集]
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていたが、その頃、アメリカ西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないとし、海運業界の統合・支配を画策した。これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンの息のかかった運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
1902JP・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざし、モンテズン・ラインやイギリスの海運会社を買収、国際海運商事International Mercantile Marine Co.IMM)を設立した。IMMホワイト・スター・ラインの親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。
鉄鋼トラストの形成[編集]
モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、 カーネギー・スチールCarnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併して USスチールを設立。カーネギー・スチールの買収額は48700万ドルであった[5]。この取引は弁護士や契約書が介在しない取引であった。
この買収劇がメディアに届いたのは19011月半ばであった。同年、モルガンはいくつかの鉄鋼会社を統合しUSスチールを設立した。USスチールは世界初の10億ドル企業となり、株式の時価総額14億ドルとなった[6]
USスチールは輸送経費・生産経費の削減と配当の増大とを両立させ、生産性の拡大をめざした[5]。これはまた、アメリカの製鉄が国際的な市場においてイギリスとドイツを打ち負かすための計画でもあった。USスチールは、初代社長のチャールズ・シュワブらにより、グローバリゼーションのために必要だと主張された [5]USスチールはアメリカン・ブリッジアメリカン・スチール・アンド・ワイヤーなどの企業を傘下に納め、鉄鋼生産だけでなく橋梁製作、造船、鉄道車両やレールの製造、ワイヤーその他の生産においても他を圧倒しようとしており、シュワブは、1901には鉄鋼生産の3分の2を占めたUSスチールのシェアはすぐに75%にまでなると信じていた[5]。批評家たちはUSスチールをトラストだと考えていた。
しかしながら、1901以降、シェアは落ち込んだ。シュワブ自身が、自らの予測を覆す役割を演じたのである。すなわち、USスチールは巨大に過ぎた。シュワブは1903USスチールを辞し、ベスレヘム・スチール(現ミッタル・スチール)を設立。建設現場で使用されるH形鋼を開発するなどしてアメリカ国内のシェアでは第2位となったのである。
電気・無線への投資[編集]
モルガンは後のゼネラル・エレクトリックを作るためにエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックの合併を実現させた。後述のように、自邸を初の電化住宅とし、個人の家として初めて電灯が灯った。 1900、モルガンは発明家ニコラ・テスラが行う無線送電の実験にウォーデンクリフ・タワーWardenclyffe Tower)の建設費を含めた15万ドルを融資した。これは、無線送電の途中でフリー・パワーなるものを吸収し、送信時よりも受信時のほうが大きな電力になると主張するものであった。
しかし、1903、タワーが完成する直前に、やむを得ない設計の変更が生じた。モルガンが、どこに電力メーターを置けばいいのかを質問した際、テスラは答えなかった。'フリー・パワー'なるものが、モルガンの世界的な視野では理解できなかったのである。テスラは送信システムのメンテナンス費用を支払うこともできなくなった。建設費は当初のものを使い切り、なんとか追加融資を得たが、19047月までにモルガンと他の投資家はこれ以上の融資をしないと決定。モルガンは他の投資家にも、この計画から手を引くようアドバイスした。
モルガンの敗北場面[編集]
ロンドン地下鉄[編集]
1902、モルガンにとっては珍しいことであるが、他者の後塵を拝した。当時、ロンドンの地下交通網において、地下鉄を掌握していたチャールズ・ヤークスCharles Yerkes)とモルガンが勢力を争っており、モルガンは地下鉄と対抗するための地下道路建設に関して議会の賛成を得るための努力を企図していたが、ヤークスが勝利した。モルガンはこの件に関して「知りうる限り史上最悪の卑劣な謀議だ」とコメントしている[7]
モルガンを襲った敵[編集]
モルガンは、三度、「銀行の敵」に襲われた。一度目はモルガンが金の買い付けで連邦財務省を援助している間、二度目は1907年恐慌の後、三度目はニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道NH)の財政悪化時である。
財務省を援助している間というのは、モルガンが金を買い戻し、アメリカの信用を回復したときである。1893年恐慌英語版)が長引く農村地帯では、金銀複本位制を歓迎していた。金本位制であれば、通貨の供給量には限度があるために不況は長引き、農民は苦しむことになるが、金銀複本位制であれば通貨の供給量を増大させることができ、インフレーションが起こり、農産物価格も上昇する。ところが、モルガンをはじめとしたシンジケートが金本位制を定着させたとして、モルガンらは憎まれ役となってしまった。
1907年恐慌の後というのは、恐慌のたびに銀行に経済を救ってもらっていた合衆国政府は中央銀行の必要性を強く意識した。連邦準備制度を創設し、モルガンら銀行の勢力を削ぐことに力を注いだのである。これをもって、銀行と政府との関係も大きく変化していくことになる。
NHの問題というのは、ニューイングランド南部の交通網にモルガニゼーションを実施したために起こった問題である。問題はさらにふたつあり、ひとつはNHがその後、多くの事故を起こしたこと、もうひとつは、トラストを目の敵とするルイス・ブランダイスの関心を引き、モルガンの死期を速めたとも言われるプジョー委員会Pujo Committee、金融・通貨委員会内の小委員会)の介入を招いたことである(後節参照)。
NHは、設立時にモルガンの祖父が出資をしていたという経緯があり、モルガンが経営を握っていた。1903には社長にチャールズ・サンガー・メレンを指名し、ニューイングランド州におけるモルガニゼーションに着手。鉄道、汽船、路面電車などの交通機関に敷衍し、ニューイングランドの交通機関の独占を図った。
その手法は、利益のまったく出ていない競合他社までをも巨額で買収するもので、その費用がかさみ、従業員は必要以上に増加した。さらに一部には近代化を施す費用もかかった。モルガン自身はその費用を調達するための社債等の発行手数料を100万ドルも得ていたほか、株主への配当は高配当であった。モルガンの後ろ盾があるため、超優良株でもあった。
しかし、経営状態は惨憺たる状態であった。前述の費用を賄うために、従業員の解雇や賃下げ、保線の間引きなどが行われた。そのために鉄道事故が立て続けに起こってしまった。メレンが社長を去り、モルガンが逝去した後までも、多数の死亡者が出る事故が続いた。
こうした状況を見たブランダイスは、企業と銀行の関係を公共の利益に反するものとして、目ざとく追求していくこととなった。
プジョー委員会による聴聞[編集]
191212月、モルガンはプジョー委員会で証言した。委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。 ファースト・ナショナル銀行ナショナル・シティ銀行の取締役として、JP・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに合衆国最高裁判所裁判官となったルイス・ブランダイスはこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした[8]
イギリスとアメリカのモルガン系企業の系譜[編集]
ロンドン[編集]
·         1838 - ピーボディ・アンド・カンパニー
·         1843 - ジョージ・ピーボディ
·         1864 - ジュニーアス・モルガンがピーボディのパートナーとなる
·         1934 - JP・モルガン・アンド・カンパニー保有の株式が3分の1となる。のち1981から翌年にかけてすべて売却
·         1989 - イツ銀行がモルガン・グレンフェルを買収
ニューヨーク[編集]
·         1895 - JP・モルガン・アンド・カンパニー
·         1935 - グラス・スティーガル法を受け、JP・モルガン・アンド・カンパニーは商業銀行になる。投資信託業務はモルガン・スタンレー・アンド・カンパニーに分離(後述)
·         1940 - JP・モルガン・アンド・カンパニーが会社組織となる
·         1959 - ギャランティ・トラストと合併、モルガン・ギャランティ・トラストとなる
·         1969 - 持株会社制に移行。グラス・スティーガル法により分離されていた業務に再度進出
私生活[編集]
家族[編集]
モルガンは終生米国聖公会のメンバーであった。1890までは指導的立場でもあった。
1861にアメリア・スタージス(Amelia Sturges。愛称ミミ。1835 - 1862)と結婚。結婚前から肺病を患っており、結婚の翌年、ミミは逝去。1865531、フランセス・ルイーザ・トレーシー(Frances Louisa Tracy、愛称ファニー、1842 - 1924)と再婚し、4人の子供を儲けた。ファニーとの結婚生活は早くに破綻し、モルガンは老齢となってなお数々の浮き名を流し続けた。
4人の子供は以下の通りである。
·         ジャック・モルガン英語版)(1867 - 1943
·         ルイーザ・ピアポント・モルガン(1866 - 1946 - ハーバート・リビングストン・サタリーと結婚
·         ジュリエット・モルガン(1870 - 1952
·         アン・モルガン1873 - 1952
モルガンの叔父にあたるジェームズ・ピアポントJames Pierpont (musician))は有名な作曲家で、ジングルベルの作曲者としても知られる。
容姿[編集]
モルガンの容姿は人々に強い印象を残している。ある者は「モルガンが訪ねてくると同時に強風が吹いたようだった」と語っている[9]。モルガンの両肩は量感があり、体は大きく、目は見開かれ、酒さによって鼻は紫色であった。この鼻は、モルガンにとって、生涯、非常に気にするところであった[10]。場合によってはその鼻を侮蔑されることもあったが、侮辱した人間はモルガンによって報いを受けた。そのため、モルガンは写真に撮られることを極度に嫌った。肖像写真では、鼻を修正したものしか使用を認めなかった。
嗜好[編集]
モルガンは葉巻、とりわけハバナが好きで、日に1ダースほども喫煙した。
邸宅[編集]
モルガンの自宅はマディソン通りにあり、ニューヨークで初の電灯を備えた個人住宅であった。彼の新たなテクノロジーへの興味は、1878トーマス・エジソンエジソン電灯会社への融資からも見て取れる[11]。また、ニューヨーク州グレン・コーブのイースタン・アイランドを所有し、そこに別荘を持っていた。
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モルガンは熱狂的なヨットファンとして、いろいろなサイズのヨットを所有していた。この場合のヨットは、大型で豪華なレジャーのための船である。「維持費を気にするような人間には、ヨットは買えない」という言はよく知られている。
このヨットは、経済界の機密会議に使われることもあれば、私的な女性関係に使われることもあった。
また、モルガンはタイタニックの実質的なオーナーであったため、初航海に乗船する予定であった。しかし、その直前になってキャンセル[12]。タイタニックはホワイト・スター・ラインが保有し、運航したものであるが、モルガン専用の特別室とプロムナードデッキがあった。
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1913331、モルガンは旅行先のーマ グランドホテルで就寝中に死去した。76歳の誕生日の直前であった。50歳代から医者に不摂生をたしなめられ、生命保険の加入を求められないほどであったが、晩年でもなお葉巻を吸い、大食漢であった。モルガンに連なる人々は、プジョー委員会からの攻めによる精神的疲労が死因であると主張したが、現実の健康面はそのような状態であった。
モルガンの死にあたり4000を超す弔辞が寄せられ、ウォール街半旗を掲揚した。モルガンの遺体がウォール街を通過する間、株式市場は2時間閉鎖された[13]
死去時、モルガンの資産は6830万ドルであった。今日の貨幣価値では139000万ドルにあたる金額であった。そのうち3000万ドルは株券としてニューヨーク・アンド・フィラデルフィア銀行にあった。また、芸術品のコレクションの価値は5000万ドルに上った[14]
おおよそ庶民の感覚からかけ離れた金額の遺産ではあるが、カーネギーに言わせると「彼が思ったほど金持ちではなかった」という。カーネギーやハリマンらの足下にも及ばない金額であった[15]
モルガンの遺体は、彼の生誕の地であるコネチカット州ハートフォードのセダー・ヒル墓地Cedar Hill Cemetery (Hartford, Connecticut))に埋葬された。
モルガンの金融事業は、息子のジャック・モルガンが引き継いだ[16]
モルガンと芸術作品[編集]
モルガンは書物、絵画、時計などの芸術作品の著名なコレクターであった。その多くはニューヨークメトロポリタン美術館に寄託、あるいは贈呈されている。モルガンはそのメトロポリタン美術館の設立に深く関わり、館長を務めた時期もあった。また、彼のロンドンの邸宅や、マディソン大通り36番街にある彼のプライベート文庫に保管されているものもある。
モルガンの息子、ジャックは父を記念して 1924モルガン・ライブラリーを公共化。モルガンの私的な司書であったベラ・ダ・コスタ・グリーンBelle da Costa Greene)を初代の館長とした[17]
モルガンは多くの画家により肖像画を描かれていた。特筆すべきはペルー人のカルロス・バッカ・フローCarlos Baca-Flor)やスイス生まれのアメリカ人、アドルフォ・ミュラー・ウリAdolfo Müller-Ury)らも描いていることで、アドルフォはまたモルガンが愛した孫、マーベル・サターリーとの肖像画も描いている。この絵はマーベルの家の前でイーゼルに架けられたまま置いてあったが、あるとき失われてしまった。
宝石コレクション[編集]
20世紀になるころには、モルガンはアメリカでもっとも重要な宝石や原石のコレクターとなっていた。その数は1000を超した。初めてのコレクションはティファニーのもので、ティファニーのチーフ宝石鑑定家にして宝石学の大家、ジョージ・フレデリック・クンツGeorge Frederick Kunz)がそれをセットした。
このコレクションはパリ万国博覧会 (1889)にて公開されたもので2つの金賞を受け、一般見学者だけでなく、学者や宝石関係者からも注目されたものであった[18]。クンツは続けて第二の、さらに上質のコレクションをつくりあげ、パリ万国博覧会 (1900)に出展した。これらはニューヨークアメリカ自然史博物館に寄贈され、モルガン・ティファニーと呼ばれている[19]。他にもモルガン・ビーメント・コレクションと呼ばれるものも展示されている。
1911、クンツは新たに発見された宝石を、モルガンにちなんでモルガナイトと命名した。
後援者として[編集]
モルガンはアメリカ自然史博物館の後援者でもあるほか、上述のメトロポリタン美術館、グロトン・スクールGroton School)、ハーバード大学(とくにハーバード・メディカルスクール)、トリニティ・カレッジ、ニューヨークの産科医院、ニューヨークの職業訓練学校などの後援者でもあった。
モルガンはまた、写真家のエドワード・カーティスEdward S. Curtis)のパトロンでもあった。1906には75,000ドルでネイティブ・アメリカンシリーズを発注している。カーティスは結局20巻におよぶ大作、北アメリカインディアンを刊行した[20]
カーティスは映画も撮影し、1914にはイン・ザ・ランド・オブ・ザ・ヘッド・ハンターズ(首狩り族の大地)を完成させた。これは1974に修復され、イン・ザ・ランド・オブ・ザ・ウォー・カヌー(戦闘カヌーの大地)として公開された。また、1911には自らの写真とヘンリー・F.ギルバートの音楽を組み合わせた幻灯機によるスライドショー、インディアン・ピクチャー・オペラThe Indian Picture Opera)を完成させた[21]


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