ロイヤル・コンセルトヘボウ 青木卓 2014.4.7.
2014.4.7. ロイヤル・コンセルトヘボウ
Royal Concertgebouw Orchestra Amsterdam
Koninklijk Concertgebouworkest
著者 青木卓(たかし) 1965年大阪生まれ。建築設計事務所勤務。金沢市在住。2001年よりクラシック音楽サイト”An
Die Musik- http://www.andiemusik.jp/”にて、コンセルトヘボウのページを担当
発行日 2013.11.5. 第1刷発行
発行所 アルファベータ
Ø プロフィール
1888年、アムステルダムにコンセルトヘボウ(演奏会場)が言説され、その専属オーケストラとしてコンセルトヘボウ管弦楽団が創設。常任指揮者は、ウィレム・ケス
創立100周年の1988年に女王から「ロイヤル」の称号をあたえられ、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団から、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団に改称(略称RCO)
Ø 演奏者
ヘルマン・クレバース ⇒ 伝説の奏者。1962~80年第一コンサートマスター。ソリストとしてもコンセルトヘボウと録音。王立音楽院ヴァイオリン科主任教授。1957年コンセルトヘボウ管弦楽団の主力メンバーによってアムステルダム室内合奏団創設
ティボール・デ・マヒューラ ⇒ 1912~82年。ハンガリー生まれ。47~77年第一チェリスト
ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン ⇒ 1960年アムステルダム生まれ。79年最年少でコンサートマスターに就任。95年退団。以降指揮者として活躍
Ø ホール
オーケストラの個性の形成に大きく影響
Ø 作曲家との関わり
マーラー ⇒ マーラーの伝統はここで指揮をした夥しい演奏に基盤を置いており、楽団もその演奏によって喝采を受けてきた。ハイティンクがマーラーの伝統を一段押し上げ、95年のマーラー音楽祭はコンセルトヘボウ管にウィーン・フィルとベルリン・フィルを加えて完全に国際的な感銘をもたらす。自ら指揮をするだけでなくメンゲルベルク指揮の自作の演奏会も聴いて作品の改訂や補筆に繋げている
ブルックナー ⇒ マーラーに次ぐレパートリー。ベイヌムによってはじめられ、ハイティンクで完成
R.シュトラウス ⇒ 《英雄の生涯》がコンセルトヘボウ管とメンゲルベルクに献呈されている。1897年に初めて指揮をして以来の関係
Ø 指揮者
期間
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第一指揮者(首席)
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常任指揮者
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第二指揮者(副)
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補佐指揮者
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1888.10.~95.11.
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Willem Kes
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1895.11.~1945.7.
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Willem
Mengelberg
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1908.6.~25.9.
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GustavKogel
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21.10.~25.9.
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Karl Muck
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25.10.~34.9.
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Piere
Monteux
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31.9.~38.1.
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Eduard van
Beinum
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34.9.~39.9.
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Bruno
Walter
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38.1.~59.4.
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Eduard van
Beinum
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49.9.~55.9.
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Rafael
Kubelik
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58.9.~61.9.
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George
Szell
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61.9.~88.9.
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Bernard
Haitink
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61.9.~64.9.
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Eugen
Jochum
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66.9.~67.9.
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Edo de
Waart
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79.9.~81.3.
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Kirill
Kondrasjin
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88.9.~04.
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Riccardo
Chailly
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04.~
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Mariss Jansons
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ベイヌム(1900~59)は、2人の先輩と同じくオランダ人音楽家。アルンヘムのコントラバス奏者の息子に生まれた彼は、幼い頃からピアノとヴァイオリンを学び、アムステルダム音楽院卒後、27年からハーレム交響楽団の指揮者でデビュー、2年後にコンセルトヘボウを指揮し、31年に第2指揮者に就任、38~45年はメンゲルベルクとの2人体制、メンゲルベルクの追放後は単独。彼は独裁的なメンゲルベルクとは対照的で、楽員の信望が厚く、楽譜に忠実な新古典主義的な演奏で、コンセルトヘボウに新しい風を送り込んだ
このオーケストラはメンゲルベルク時代から、マーラーやR.シュトラウスと深い関係があり、これらの作曲家の演奏で定評を得ていた。加えて、ベイヌムの時代には、ブルックナーの演奏で名声を高め、さらにオランダの現代音楽を数多く紹介して、この国の作曲の新興に寄与。メンゲルベルクが半世紀近くも育ててきたオーケストラに対して、彼とは対照的とも言えるような解釈の演奏をさせるのは容易なことではなかったろうが、その存在と音楽性のお蔭でいわば戦後の「近代化」に乗り遅れることなく実演や録音の新時代にスムーズに対応できたといえる。このオーケストラは既にメンゲルベルクの時代から複数指揮者制をとっていたが、常任指揮者としてはカール・ムック(1859~1940)、ピエール・モントゥー(1875~1964)、ブルーノ・ワルター(1876~1962)らが大きな功績を遺した。またベイヌム時代から、ジョージ・セル(1897~1970)が毎シーズンのように来演した
59年、ブラームスの交響曲第1番のリハーサル中に心臓発作で死去
ハイティンク(1929~)はアムステルダム生まれ。8歳の時メンゲルベルク指揮の演奏会を聴いて感銘を受け、同地音楽院でヴァイオリンを学び、オランダ放送フィルに入団、55年に次席指揮者としてデビュー。同年カルロ・マリア・ジュリーニの代役としてコンセルトヘボウ管にデビュー。61~88年第一指揮者(99年名誉指揮者)、67~79年ロンドン・フィル首席指揮者、77年名誉ナイトに叙されたが英国籍ではないので「サー」を名乗ることは出来ない。78~88年グラインドボーン音楽祭音楽監督、87~02年ロイヤル・オペラ(コヴェントガーデン)音楽監督、95~ボストン交響楽団首席客演指揮者(04年名誉指揮者)、02~04年シュターツカペレ・ドレスデン首席指揮者、06~10年シカゴ交響楽団首席指揮者
コンセルトヘボウ管へのデビュー当時から順調だったわけではなく、62年の対日公演も概して不評、録音上も60年代前半にはこれと言った成果はなかったが、楽団側がハイティンクのリーダーとしての成長が自分たちの未来に繋がると考え未熟なハイティンクを全面的にバックアップし、共に努力する道を選んだ結果、無名に近い指揮者が大家の域に達するまで、名門と呼ばれるオーケストラと行動を共にするという異例な幸福な関係が築かれた
ヨッフム(02~87)が初めてコンセルトヘボウ管を指揮したのは41年。59年ベイヌムの後任としてハイティンクとの2人体制を打診される(伝統に則って自国の指揮者を迎えたいが、最適任のハイティンクがキャリア面で不安が残ったための対応)
シャイー(53~)は15歳で指揮者デビュー、72年にはミラノ・スカラ座のアシスタント指揮者。82~89年ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督、82~85年ロンドン・フィルの首席客演指揮者、86~93年ボローニャ歌劇場の音楽監督、99~創設後間もないミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の音楽監督。コンセルトヘボウ管にデビューしたのは85年。楽団員の選挙で選任された初の首席。自国主義の伝統は消滅。シャイーがコンセルトヘボウ管にもたらした変化は、まず近・現代音楽の導入であり、次がオペラの上演。04年ライプツィヒに去る(08年退団、17年からミラノ・スカラ座の音楽監督就任が決まっている)
ヤンソンス(43~)はリガ生まれ。レニングラードとウィーン国立音楽アカデミーで学び、71年カラヤン国際指揮者コンクールで2位、同年レニングラード・フィルを指揮してデビュー。73年からはムラヴィンスキーの助手としてレニングラード・フィルの副指揮者。79~00年オスロ・フィルの首席指揮者、92~97年ロンドン・フィルの首席客演指揮者、97~04年ピッツバーグ交響楽団の首席指揮者、03年~バイエルン放送交響楽団の首席指揮者、04年~コンセルトヘボウ管の首席。コンセルトヘボウ管への初登場は88年で、以降毎年のように客演
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