ダウン・ザ・フェアウェイ  Robert T. Jones、Jr. and O.B. Keeler  2014.4.28.

2014.4.28. ダウン・ザ・フェアウェイ
Down the Fairway             1927

著者  Robert T. JonesJr. and O.B. Keeler

訳者 菊谷匡祐(きくやきょうすけ) 1935年横浜生まれ。早大大学院了。日本リーダーズダイジェストを経て、フリー・ジャーナリスト、翻訳家、作家として活躍中

発行日           1996.6.10. 初版発行                   98.1.28. 第2版発行
発行所           小池書院

絶版になって15年たった1989年、豪家限定版として刊行され、金箔押しの皮革で表紙を包み、金で縁どりした美麗なケースに収められた。その新装版として本書を刊行

「ゴルファーのバイブル」と称される本
28歳で年間グランド・スラムを達成、球聖と称賛されたボビー・ジョーンズ25歳の若き日の自叙伝。既に全米オープン2勝、全英オープン1勝、全米アマ2勝などゴルフ史に輝く実績を残し、理想的なスポーツマンとして常にルールに忠実であり、ゴルフの精神に忠実であった彼は、28歳でアマチュアのまま引退。その後、あのマスターズ・トーナメントを創設

                1927.6.21. グラントランド・ライス(20世紀初期のアメリカ・スポーツ・ジャーナリズムの大御所。キーラーとともにボビーの後ろ盾)
僅か25歳というような年齢で、その自叙伝が世間の関心を惹くなどという人物は、恐らく10百万人に1人でしかない。ボビーの場合はいわば超少年であって、14歳にして既に多くのチャンピオンたちと対戦し、打倒し、ほとんど老練の域に達していた。あらゆるスポーツの歴史の上でも、こうした例は見られたことがない。13年の競技歴で、60歳まで競技生活を続けてもごく僅かの人間が達成できるかどうかという偉業を実現。彼のほとんどのプレーを目にしてきたゴルフ・ジャーナリスト・キーラの協力を得て本書が完成
ボビー・ジョーンズの物語は、フィクションよりも劇的で遙かに興趣に富み、この現代的なゲームのなかでのみ歌われる青春の頌歌なのである


第1章        幼年期
私はまだ25歳で、自叙伝とか回想録を書くほどの年ではない
ゴルフには2種類――ゴルフとトーナメント・ゴルフがあって、決して同じではない
1916年フィラデルフィア近郊のメリオン・クリケット・クラブでの全米アマに、14歳にして初めて参加、予選をトップで通過したことを知って全身が硬直し、午後のラウンドでは大叩き
幼少時、身体は痩せ、内臓が弱く、5歳になるまで人並みの食べ物を全く食べられなかった。遊び友達も、コック兼乳母とそのボーイ・フレンドだけ
5歳で元気になってからは野球に夢中だったが、キャッチャーをやっていて頭にバットが当たり止めた
父は大学時代に野球の選手で、ナショナル・リーグのブルックリン・クラブと入団契約を交わしたとき、父親に怒られ、大リーガーとしての歴史は芽のうちに摘み取られた
私が父母とゴルフを始めたのは1907年の初夏、アトランタ・アスレチック・クラブの2番フェアウェイに近接するサマーハウスを借りたことから
一緒に住んだ2歳上の子と、本物のコースに隣接して2ホールを作って遊んだ記憶がある
翌年も同じサマー・ハウスに行ったが、その時クラブ・プロとしてスコットランドのカヌースティから来たのがスチュアート・メイドンで、そのプレーに魅せられてゴルフに夢中となる
競技としてのゴルフを初めて経験したのは6歳の時、全米女子選手権で3連勝したアレクサ・スターリングが近所に住んでいて、6ホールのコンペを主催、アレクサに勝ってトロフィーをもらったが、そのカップは生涯傍らに置くつもりでいる
2年前まではパットのラインをほとんど読むことなくすぐに打っていたのでラウンドに2時間ぐらいしかかからなかったが、2年前からラインがはっきり見えるまではパットをしない
選手権試合のゴルフについて言うならば、間もなく私は愛用のクラブを置くつもりだ。そうしたらどれほど気分が楽になるだろうかと思う。それでもなお、幼友達と初めてプレーした時代を呼び戻すすべとてもない

第2章        オールドマン・パーの発見
初めて獲得した大きなカップは、9歳の時アトランタ・アスレチック・クラブのジュニア選手権でのもの。90前後のスコアで回っていた
191311歳の時、私のゴルフに決定的な影響を及ぼしたことが2つ起こった
1つは、イギリスから来たハリー・バードンとテッド・レイのプレーを見たこと。ハリーは着実にパーを重ね、テッドは絶体絶命のスタイミーの状態から垂直に上がるようなボールを打って切り抜けたこと
もう一つは、ゴルフが、誰かに対してプレーするのではなく、何か形のないもの、いかなる敵よりも手強い相手、オールドマン・パーに対してするものだということを知ったこと。この時初めて80で回り、ゴルフに熱中するようになった
小さい頃から他人の真似がうまかったが、当時のゴルフ・スウィングはスチュアートのカヌースティ・スタイル
ボールは、ゴム芯のもので、最初に使ったのはハスケル・ウィズ、次いでダンロップ。逆風ではスモール・ボールを、追い風ではラージ・ボールを使い分けた

第3章        14歳、州選手権に出る
1915年、南部アマチュア選手権が自分のホーム・コースで開催され、団体戦のメンバーとして出場し83で回って優勝に貢献
生涯のベスト・ラウンドは、1922年全米アマで負けた1週間後に父や友人とホーム・コースを廻った時の636700ヤードのパー72、ノー・ボギー
どれほどの名手にしてもゴルフを思うがままにプレーは出来ないし、完璧なラウンドなどなしえない。だからこそ、恐らくゴルフほど素晴らしいゲームはない。人間を相手にプレーするのではなくて、ゴルフそのものをプレーする。オールドマン・パーが相手なのだ
バーミンガムで開催された大きな招待試合で、初めて大きなトーナメントに勝ち、以後続けて大きな試合に勝ったが、翌年から各地を転戦するうちに腰痛に悩まされる
ホールインワンは27年に一度だけ

第4章        全米アマチュア選手権の壁
1916年のメリオンに初出場。146か月は史上最年少。予選の初日は74でトップだったが、2日目は脅えてしまって89、何とか予選を通って前全米チャンピオンと対戦
当時は、ミス・ショットをすると自分に対して腹が立ち、感情を爆発させクラブを投げ出したりしたため、新聞等でも大分批判された
3回戦まで進んだが、この時初めてチャンスという重圧に押しつぶされた経験をする
ゴルフのメカニカルな面についてなら理論化して説明できるかもしれないが、心理的な側面についてはほとんど解明できない。ゴルフにおける運というものの背後には――あるいはそれを覆って、誰もが知りえない何かが存在していると思う

第5章        プロたち、そして赤十字マッチの旅
1次大戦参戦により、赤十字マッチとよばれた試合と戦時慰問試合に駆り出され、国中を転戦、初めてプロ選手たちと遭遇
1917年、南部アマチュア選手権に優勝。153か月で初めて手にした地方タイトル
1919年は、ほとんどの大会で2

第6章        オークモントで2位に
1919年、オークモントでの全米アマ選手権 ⇒ 2回戦のチック・エバンスとフランシス・ウィメットとの試合が圧巻、37ホール目でフランシスが勝利
決勝戦、3ダウンで迎えた12番、相手がバンカーに打ち込みそこからのショットもミスするのを見て、勇んで第2打を打とうとしたとき、競技委員が観客の動くのを見て「フォア!」と大声で叫んだためにトップしてバンカーに打ち込み、そこからの脱出に失敗してギブアップ ⇒ メガホン事件として話題になったが、それが無くても負けていたが、メガホンほど最も警戒しなければならないハザードもないという事実は競技委員も認識してほしい。ギャラリーは他の障害物と同じようなもの、時には役立つことも
6日間の選手権競技に出ると1015ポンドは体重が落ちる ⇒ 選手権競技というのはそれだけ精神が激しく燃焼するもので、普通のゴルフとはまったく異なるスポーツ
1920年、トレドのインバネスで開催された全米オープンに初出場。5打差で迎えた最終日、最後のハーフで大叩きし8位タイに終わるが、初めてラウンドについてみて他の選手たちも最終ラウンドで崩れることがあることを目撃。4ストロークリードで最終ハーフを迎えたハリー・バードンも最後に疲れて7ホールで6ストローク失い、20年振りの優勝を逃す

第7章        イギリスへ初めて遠征する
1921年初夏、全英アマチュア(ホイレーク)、全英オープン(セント・アンドリュース)に出場。翌年から始まるウォーカー・カップの前身となる団体戦にも出場して優勝
全英オープンでは、第3ラウンドの前半で46を叩き、10番で611番ホールでも6となるところ、パットを打たずにボールを拾い上げて途中棄権。プレーは続行して第4ラウンドは72をマーク、棄権等しないで試合を続けていたら結構いいところまで行けたはず
アメリカに戻ったワシントンのコロンビア・カントリー・クラブでの全米オープンの第3ラウンド、最悪の40パットを記録。その次は26年の全英オープンでの39

第8章        セントルイス――選手権ってなんだろう?
クリーブランド近郊のオークウッドでの西部オープンでは、初めて強風に翻弄され、風のなかでのプレーを研究することになる
セントルイスでの全米アマチュア選手権では、3回戦で全英アマを制したウィリー・ハンターと戦い、優勢の予想を裏切って敗戦 ⇒ 敗戦の契機となったのは、リードしていながらリスクを負ったショットを失敗したこと。以後マッチプレーの選手権に勝てるようになったのは、相手のゲーム運びに関係なくパーだけを目標にプレーするようになってから
選手権への道は、私にとって厳しいものだった。上り詰めるまでに7年かかった
1922年、静脈瘤の手術で始まり、術後2週間で最後となった南部アマチュア選手権で優勝。同年シカゴ郊外のスコーキーでの全米オープンでは最終日トップタイで出たが4打差で出たサラゼンに1打及ばず逆転負け
私はかつてナショナル・オープン選手権で思うとおりのいいゴルフをできたことがない。カナダ1回、イギリス2回を含めて10回のナショナル・オープンに参加し、計40ラウンドで70を切ったことがない

第9章        進撃
1922年、ボストン近郊のブルックラインでの全米アマチュアは、ジョージア工科大学卒業直後、ロングアイランドのサザンプトンにあるナショナル・リンクスでのウォーカー・カップに出場して勝利を収めた勢いでブルックラインに乗り込んだが、準決勝で敗退
どの試合でも優勝候補に挙げられていながら勝てないことがいつか神経に影響を及ぼしていた。父親も期待して一緒にラウンドしたが、遂に疫病神だと思い込むようになって、翌年の全米アマを最後に来なくなった
1923年、ハーバード大へ進学、暫くゴルフから遠ざかる
同年、インウッドでの全米オープンは、直前まで練習もせず出場する意味もないと思っていたが、スチュアート・メイドンに進められて出場。練習では80も切れなかったが、いざ試合になると緊張感が漲り、2日目の午前の第3ラウンドが終わったところで3打差のリード、午後のラウンドでは75までで回れば勝てるかもしれないと、初めてオールドマン・パー以外を目標にするという致命的な誤りを犯す
上がりパー43ホール、それまでの3ラウンドとも12以下で回っているのに、最終ラウンドは5564オーバーもして危うく初のタイトルを逃すところだった
スコアをあらかじめ予定したことが自分を窮地に追い込んだのだ
16番でダボを叩いたクルックシャンクが18番をバーディーで上がってプレーオフとなる。クルックシャンク有利の予想のなか、18ホール中3ホールしか同じスコアではないという奇妙な展開。6ホールで2ストロークリードされた7番のパー3。クルックシャンクが安全にアイアンでグリーン手前に運んだあと、勝負に出てスプーンでグリーンを捉え、1ストローク縮める。その後も抜きつ抜かれつで、タイで迎えた18番、ドライバーをスライスしてベア・グラウンドから200ヤードの池越えを2番アイアンで勝負に出た結果、見事グリーンを捉えてパーとし、ダボのクルックシャンクを破って初の栄冠に輝いたが、2番アイアンのショットのことは記憶に残っていない

第10章     稔りなき7年の後に
23年のインウッドをターニング・ポイントとして事態が些か変わり始めた
それまで勝てなかった11回のナショナル選手権のプレーと比べて特筆すべきことがあったとは思えないが、後の10回では5度も勝ててしまった
23年の終りのシカゴ・フロスムーアでの全米アマチュア選手権では2回戦で敗退
マッチ・プレーでなかなか勝てないところから、世間ではメダル・プレーに長じたプレーヤーだという定説があるが、自分自身では両者の間にそれほどの違いがあるとは思っていない。フロスムーアの後20試合して2敗しかしていないし、いずれも12オーバーで回っているので、相手がたまたまいいスコアだっただけ
オールドマン・パーを友とし、いつも競い合うなら、他のプレーヤーに心を乱されることはない。実際これまで参加したオープン競技で、ごくわずかな例外を除けば、パー・プレーで優勝できなかった試合はなかった
24年、デトロイトのオークランド・ヒルズでの全米オープンでは2位に甘んじたが、メリオンでの全米アマチュアではパーで上がることに専念したお蔭で、十分すぎる結果となり、初の栄冠を手にする
25年、マサチューセッツ州ウォーセスターでの全米オープンではまたもや1打差の2

第11章     最大の年
26年はウォルター・へーゲンとのプロ・アマ対決で幕を開けるが、2試合とも惨敗
ウォーカー・カップの代表に選ばれセント・アンドリュースに行き、前週のミュアフィールドでの全英アマと併せて出場。その後全米オープンに備えて帰る予定が、そのまま全英オープンにも出場することになった
全英アマは、全選手が18ホールの試合を毎日2試合ずつ戦い、最後に残った2人が36ホールの決勝戦を行う方式だが、早々と敗退したため、もっといいプレーを見せようとしてセント・アンズでの全英オープンに出ることを決める
全英オープンでは1897年以降アマチュアが勝っていない
ウォーカー・カップは1ポイント差でアメリカが勝利
予選から出場した全英オープンは、予選から絶好調、本選でもオープン史上最少スコアで優勝。最終ラウンドで39パッとしながら、拾い捲っての勝利だった
ニューヨークに凱旋した時は、ブロードウェイを行進してシティ・ホールに向かった
すぐに全米オープン出場のためコロンバスに行き、最終ラウンドの強風の中を最後の12ホールを46で回るという途方もない幸運に恵まれて優勝、同じ年に全英と全米のオープンを勝ったのは初めて
全米アマチュアでは、前人未到の3連覇に挑んだが、予選でメダリストとなり決勝まで進んだが惜敗。26年という最大の年は敗戦によって始まり敗戦で終わる

第12章     パッティング――ゲームの中のゲーム
ゴルフにもがき苦しんだ物語の締め括りにゴルフの技術について書いておいてみたい
ゴルフはどうプレーすべきか、その方法を模索してきた
最初で唯一の手本でもあるスチュアート・メイドンからも、考え過ぎるとの指摘がある
バック・スイングもリズムもゆっくり長めにとって出来るだけ楽なストロークをし、アプローチ・パッとでも何でも、カップにやっと届くぐらいのボールを打つこと ⇒ 距離さえ合えばカップの入口が4つあることと、強過ぎた場合は3パットの危険がある
6フィートくらいまでの短いパットはラインを合せることがほとんどすべてだが、アプローチ・パッとは距離を合せることが何より肝心
ボールをカップの中に入れることに精神を集中させることこそ、最も基本的な目標

第13章     ピッチ・ショット――ひとつの謎
クラブはロフトが多いほど扱い難い
ピッチ・ショットは2種類
   ノック・ダウン ⇒ 鋭角に振り下ろしてボールを打ち抜く。ボールの1インチぐらい先のターフを削る
   カット・ショット ⇒ クラブを飛球線の外側から降ろし、ボールの下側を打つ。ボールの下から脚を切り取るため、フェード回転となる

第14章     アイアン・プレー
4番アイアンで160175ヤード
ゴルフのストロークにおける微妙な動きについて、言葉で表現するのは不可能、自分の経験から得た方法でプレーするしかない

第15章     大砲
ティー・ショットとスルー・ザ・グリーンからのウッド・ショットは、本質的に似ている
通常のウッド・クラブのロフトは、ドライバーが79度、ブラッシーが75度、スプーンが71度 ⇒ ボビーのは、それぞれ82度、79度、73(計測の仕方が現在とは逆)

第16章     様々なショット――そしてトラブル
アベレージ・ゴルファーにとてトラブル・ショットの問題は、トラブルに陥らなかった場合と同じ結果を出せるショットを試みようとすること ⇒ 正確な状況判断が重要で、トラブルから脱出することだけに集中すべき

第17章     トーナメント・ゴルフ
トーナメント・ゴルファーとして成功するかどうかの分かれ目は気質が作用
自分が鼓舞されるような緊張感に襲われ、次第にナーヴァスになっているときほどいいプレーができる
忍耐こそが鍵、オールドマン・パーと戦いながら一つのショットに集中

主な戦績
本書出版時点までの優勝は、全米アマ2(24,25)、全米オープン2(23,26)、全英オープン1(26)
その後30年の引退まで、全米アマ3(27,28,30)、全米オープン2(29,30)、全英アマ1(30)、全英オープン2(27,30)30年に全米アマを勝って年間グランドスラム達成

訳者あとがき
ブロードウェーの凱旋パレードも、全英オープンに勝ったのは過去にもへーゲン他いたし、パレードの栄に浴したのは過去に4(1次大戦のパーシング将軍、リンドバーグ、第2次大戦から凱旋のアイゼンハワー将軍、宇宙飛行士ジョン・グレン)いたが、2(1926年と30)までもパレードしたのは彼一人
グランド・スラムを達成した後引退を発表したが、『ニューヨーク・タイムズ』は第1面の大見出しで採りあげ、記事の最後をシェークスピア流の無韻律の詩文で「威厳もて、他の何者もなしえざりし不朽の舞台より彼は退場せり」と結んだ。それ以前も以後も『ニューヨーク・タイムズ』が第1面でスポーツ選手の引退を報じたことはない
ジョージア工科大からハーバードに進学、英文学とヨーロッパ史を学んだあと、エモリー大のロー・スクールに進み、在学中に司法試験を通って弁護士を生涯の仕事とする。フランス語、ドイツ語にも堪能。趣味はウィスキーを啜りながらクラシック音楽を聴くこと




Wikipedia
ボビー・ジョーンズBobby Jones1902317 - 19711218)は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ市生まれのゴルファー弁護士。本名はロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニア(Robert Tyre Jones, Jr.)。
人物[編集]
その自制心に富むプレー態度から、球聖(きゅうせい)と呼ばれたゴルフ史を代表する伝説のゴルファー。彼は終生、アマチュアを貫いたことでも有名である。19216月、19歳で全英オープン(セント・アンドルーズ、予選:エデンコース、本選:オールドコース)に初挑戦して、強風の本選3日目に最初の9ホールだけで10オーバーの46を叩き、10番ホールもダブルボギー、11番ホール(パー3)もティーショットをバンカーに入れ、脱出に3打で4オン、ダブルボギーパットも外して茫然自失、6打目のパットを打たずに棄権した。これをジョーンズは終生、痛恨の記憶とした。1925の第29回全米オープン(ウォーセスターカントリークラブ)では、初日の11番ホールで、ジョーンズは「アドレスの際、ラフにあったボールが動いた」と申告し、自らに1打罰を課した。同伴プレイヤーのウォルター・ヘーゲンは「誰も見ていないので、ペナルティは必要ない」と進言したが、ジョーンズは「銀行で金を盗まなかったからといって誰も褒めない。ゴルファーとして当然の行為である」と聞き入れなかった。この一打で最終的にはウィリー・マクファーレンとのプレイオフとなり、1度目の18ホールのプレイオフでは決着がつかず、2度目のプレイオフの最終18番ホールでボギーを叩き、1打差で敗れた。
アマチュアでありながら実力はプロを上回るほどで193028歳のときに当時の世界4大タイトルを全英アマ(セント・アンドルーズ開催、マッチプレイ形式で18ホールの7試合を行った後、36ホールの決勝戦を実施)、全英オープン(ロイヤルリバプール)、全米オープン(インターラッセンカントリークラブ)及び全米アマ(メリオンゴルフクラブ)の順に優勝し、年間グランドスラムを達成した。スポーツ界において「グランドスラム」という言葉が用いられたのはこれが最初とされる。同年、全米アマチュア最高の賞である第1ジェームスサリバン賞を受賞し、年間グランドスラム達成の7週間後、28歳で競技生活から引退した。
1923に有名な「カラミティ・ジェーン」という名のパターを手に入れ、初のメジャータイトルである全米オープン(インウッドカントリークラブ)を制した。大会前のジョーンズはショット、パットがともに不調で、大会の1週間前にコーチのスチュアート・メイドンに連れられ、ナッソーカントリークラブに立ち寄った。ラウンド後、練習グリーンにいたジョーンズに、スチュアートの兄であり、このゴルフ場所属のプロであるジム・メイドンが自分で製作したヒッコリーシャフトの中央部3カ所にテープが巻かれているパターを手渡した。ジョーンズが打ってみると、実によく入り、早速借用して、翌週の全米オープンに勝利した。翌年、ジョーンズはシャフトにテープを巻いた同じ型のものを作らせ、それを1930年の年間グランドスラムまで愛用、さらに6本同型のコピーを発注した。ジム・メイドンは自分で作ったクラブには必ず名前をつけた。カラミティはゴルフ史家ロバート・ブラウニングの著作「History of Golf」中の文「ショートパットを外したときは最悪のカラミティ(災難)であり、ロングパットを成功させるとカラミティから最も離れる」から採用、ジェーンは西部開拓時代のヒロインの名前であった。シャフト中央部のテープは、シャフトにひびが入っていたのを修繕するためのものであった。ジョーンズは全英オープンに計4度挑戦したが、カラミティ・ジェーンを入手してからは3戦全勝であった(24歳で臨んだ1926の予選はサニングデールゴルフクラブのオールドコースで33ショット33パット、アウト33イン3366を記録して突破、本選は全英初開催のロイヤルリザム&セントアンズで72-72-73-742912位に2打差で英国メジャー初優勝。1927は棄権から6年後のセント・アンドルーズで予選76-71・本選68-72-73-722852位グループに6打差での優勝であり、1955ピーター・トムソン281で優勝して更新するまで全英オープンコースレコードであった。1930年は年間グランドスラムの2勝目)。1930年の全英オープン後、米国へ帰国する際、ジョーンズはカラミティ・ジェーンも入っていたゴルフバッグをロンドンのホテルに置き忘れたが、無事速やかに手元に戻った。ジョーンズのクラブのヒッコリーシャフトは1000本以上から厳選された物で、このセットを失っていたら、年間グランドスラムはあり得なかったであろう。
引退後もゴルフにかかわり、弁護士業務の傍らにマスターズ・トーナメントの創設やそのマスターズが開催されるオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブのコース設計にも携わった。
競技ゴルフの使用クラブ数の決定にも関与した。例えば、19341935に全英アマと全米アマを連続制覇したローソン・リトル31本使用し、これに対しイギリス人キャディが「重すぎる」とクレームして、クラブの本数制限の議論が活発化した。これに対し、1936ウォーカーカップが開催されたパインバレーゴルフクラブの駐車場のロールスロイス車中でジョーンズ(アメリカ代表)とトニー・トーランス(イギリス代表、ウォーカーカップ5回出場)が会談した。ジョーンズが年間グランドスラム時に使用したクラブの本数は16本、トーランスが使用したクラブの本数は最多12本で、ジョーンズが「中間をとって14本にしよう」とトーランスに告げ、トーランスがそれをR&Aルール委員長のロバート・ハリスに伝え、これが1939年制定の規定へつながったという。
また、競技ゴルフを止めて6年ほど経ち、セント・アンドルーズでプライベートに友人とプレーをしている時に、それを聞きつけた近所の住民 2,000人ほどが彼を一目見ようとコースに集まってきたというエピソードがある。後に車椅子生活を強いられるようになった時に、「セント・アンドルーズでの経験さえあれば、たとえ生涯で得た他の全てのものを失っても、私の生涯は本当に満たされている。」と後日談を語っている。
ボビーの没後、1974世界ゴルフ殿堂が設立された。ボビーは最初に殿堂入りした名選手のひとりに数えられる。



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