金の仔牛  


2013.1.30.  金の仔牛 Veau d’Or

著者 佐藤亜紀 1962年新潟県生まれ。成城大大学院修士課程修了。9905年早大文学部文芸専修で講師。91年『バルタザールの遍歴』で日本ファンタジーノベル大賞、03年『天使』で芸術選奨新人賞、07年『ミノタウロス』で第29回吉川英治文学新人賞及び「本の雑誌が選ぶノンジャンルのベストテン」1位受賞
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新潮社との関係途絶の経緯

佐藤亜紀と新潮社の確執は、平野啓一郎を巻き込んで以下のように展開した。
佐藤の『鏡の影』は新潮社から1993に刊行された。平野啓一郎の『日蝕』は1998に発表された。佐藤亜紀による『日蝕』についての1999時点の書評は非常にシニカルではあったものの、類似性を指摘するコメントは取り立ててなかった。
問題が表面化したのは、20003月に佐藤が「誰かに、あれって佐藤さんの『鏡の影』でしょ、と言われたらどう庇おうかと思いました」「このタイミングでは、まかり間違っても読み比べられたりしないよう、テクストそのものを消滅させるために絶版にしたのだ、と考えたくもなります」と「絶版の理由」を自らのウェブサイトで主張したことによる。 同サイト「大蟻食」によれば当時新潮社は、佐藤が執筆していたウィーン会議を題材とした作品の『新潮』掲載について「載せる余地が無くなった」として掲載約束を反故にし、前後して『鏡の影』『戦争の法』を絶版としていた。この掲載約束反故と相次ぐ絶版を新潮社による平野擁護策だと考えて反発した佐藤は、2000頃に『バルタザールの遍歴』の版権を新潮社より引き揚げ同社との関係を断つ。
この件はネットやゴシップ雑誌などで盗作疑惑として取り上げられたが、盗作というには少しも似ていないと栗原裕一郎小谷野敦は評している。佐藤も「ぱくり」「習作段階での補助輪」と言ったのであり「盗作」とは言っていないと主張、違法性のある盗作という言及の仕方はしていない。 平野作品の上梓された当初は若干揶揄的な言及はあれど後の強硬な姿勢はとっておらず、あくまで自作の絶版と「作品の類似」についてを問題視しての抗議である。
平野は20069月のブログで「私はこれまで佐藤亜紀氏の小説を1行も読んだことがないし、また今後も読むつもりがない。佐藤亜紀氏本人についても、何の関心もない。従って、「盗作」云々は、あり得ない話である」「(佐藤のウェブサイトでは)「盗作」という言葉の代わりに、「ぱくり」という言葉が使われているが、要するに同じことである」「まったく身に覚えのない濡れ衣」と言っている。
佐藤は20111のブログにおいて、『鏡の影』の連続的な一部分と『日蝕』の「プロットの流れがほぼ一致していることを示すための」表を示した後、「プロットの借用自体は格別問題はない」「しかし『日蝕』の作者が濡れ衣を着せられたと嘘を吐いたことは相当に問題だと、今も考えている。私の現在の見解を申し上げるなら、彼は盗作者ではもとよりないが、平気で嘘を吐く男ではある」と批判している 

発行日           2012.9.13. 第1刷発行
発行所           講談社
初出 『小説現代』20122月~5月号

ジョン・ローのミシシッピ計画にまつわるバブル騒動を、お伽噺風に再現した小説
舞台は1719年のイル・ド・フランス
若い小銭稼ぎの追剥が、たまたま襲った相手がミシシッピ株への投機家。追剥の才能を見込んで、投機の手先に仕立てる
近くの宿屋に雨宿りに入って、投機家が持っていた紙幣(小切手?)を持ち出して投機の仕組みを説明。通貨といえば銀貨か金貨で、紙幣には何の裏付けもなく人々が信用していないところから、当時でも既に紙幣との交換相場がたっていた。額面に関係なく、需給で相場が決まっていた
追剥はその仕組みに興味を覚え、投機家と組む
金持ちにミシシッピの株を渡し、それを見返りに100借りて、1か月後に150返し株を取り戻すとともに、追剥は返済額の10%を手数料として取る
東インド会社も、中国交易の会社も同じ仕組みで金を調達している
ルイジアナの煙草を扱う会社は王立銀行の持ち物、銀行が株/紙幣を発行している
特に、アングラの金を持っている連中には、マネー・ロンダリングの方法として利用された
瞬く間に金額が膨れ上がり、株価も高騰
1721年王立銀行は、ミシシッピの株を9000で買い取ると発表
相場はそこに向かって収斂し、そのうち銀行の外で行われていた公認の株取引も禁止に追い込まれるが、さらに投機熱を抑えるために、国がミシシッピ株と紙幣の段階的切り下げを公表
それでも表に出せない株の所有者を相手の取引は衰えず、私設の市場が開かれ、却って活発な取引が行われる
投機家と追剥は、底値に近づくと見るや、全てを売り払って市場から撤退

ジョン・ローのル・システム
1637年のオランダの「チューリップ・バブル」は、あくまでチューリップの球根の投機ブームと価格の高騰であって、その崩壊は既に株の先物取引まで行われていたオランダ経済にさしたる影響を及ぼさなかった
イギリスの「南海バブル」は、ミシシッピのちょうど半年後に始まり、半年遅れで崩壊したが、イギリスの株式市場もフランスより遥かに進んでいたため、影響の規模こそ大きかったが、英国経済の18世紀における発展を阻害することはなかった
フランスの場合は、最悪の状況にあった経済全体がこのシステムの成否に懸っていたため、バブルの崩壊が深刻な後遺症を生む ⇒ システムの根幹だった紙幣に対する根強い不信感と、植民地交易を一手に引き受けたミシシッピ会社がその保有する潜在価値莫大な資産を担保に紙幣(実際には株だが、発行会社が王立銀行の所有下にあるため紙幣と同じ)を発行し流通させる。ルイジアナ会社の株は1718年に新規公開され、手付金10%で株が入手できたり、貸し株制度まであって、2年後には400の株が10,100にまで急騰、何度も乱高下を繰り返した後、財務総監にまで上り詰めたジョン・ローがミシシッピ株と紙幣の段階的切り下げを公表、一気に4000まで株価が下がり大混乱、一時的に回復を見せたものの市場の信頼は回復せず、王立銀行は破綻。インフレだけが残る


金の仔牛 佐藤亜紀著 18世紀欧州のマネーゲーム 
日本経済新聞 書評 2012/11/4
フォームの始まり
フォームの終わり
 18世紀ヨーロッパは詐欺師の時代だった。彼らペテン師によって国政、経済、文化がどれほど甚大な影響を受けたことか。たとえば有名なところでは、色事師カサノヴァ、錬金術師カリオストロ、国際的山師サン・ジェルマン伯爵、そして史上初の経済学者ジョン・ローなどの暗躍。
(講談社・1600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(講談社・1600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 いまあげた人物たちの中で最大のイカサマ師にして大天才は最後のジョン・ローだろう。なにしろ、チューリップ狂時代(オランダ)や南海泡沫事件(イギリス)とともに史上3大バブル経済の喩えのひとつとして知られるミシシッピ計画(フランス)の仕掛け人である。
 「需要と供給で価格が決まる」という法則を発見したジョン・ローの巧みな市場操作によって、パリでバブルが発生したのが1719年から20年のこと。本書は、そうしたミシシッピ会社に対する熱狂的な投機ブームを背景にした歴史経済小説の秀作だ。
 若き追い剥ぎアルノーは襲った老紳士から1枚の紙切れをもらう。いわゆる「紙幣」という代物。その紙切れを集めて王立銀行の所有するミシシッピ会社の株を転がせば大儲けができるらしい。謎の老紳士の手先となって働くアルノーは、みるみるうちに株式相場の金融錬金術師となり、いつのまにか美女を愛人とする富裕な青年実業家に! だが、その麗しき乙女のおかげで思わぬ落とし穴が……
 こうした大筋に加え、裏街道を歩む故買屋、泥棒の親方、冷酷非情な貴族、老獪な投資家、策士にして金細工師の3兄弟、狡猾な金貸しなど一癖も二癖もある魅力的なキャラが狐と狸の騙しあいよろしく命をかけたマネーゲームを繰り広げるさまがスリリングかつ知的に語られる。
 もちろん、紙幣というのは経済システムにおける関係性と信用という危うい場に生成する表象作用であり、それは記号=言語と完全に同じものだ。となると紙幣(同様に株)もまた言語と等しく多義性・曖昧性をはらみ、意味のインフレーションをおこす。本書は、そうしたお金=言語をやりとりする人間たちの錯綜した不確実性をも省察した、実に今日的な文芸作品である。
(翻訳家 風間賢二)


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ミシシッピ計画 : Compagnie du Mississippi)は、18世紀初頭に北アメリカ植民地を有していたフランスが立てたミシシッピ川周辺における開発・貿易計画。ミシシッピ会社とも言う。
フランスで立てられたこの計画は、開発バブルを引き起こし、会社の業績が極端に悪いのに発行価格の40倍にまで株価が暴騰する事態を招いた。チューリップ・バブルオランダ)や南海泡沫事件イギリス)とともに、三大バブル経済の例えとして知られる。

概要 [編集]

17178月、スコットランドの実業家ジョン・ローが、当時は誰からも見放されていたミシシッピ会社の経営権を入手し、西方会社(Compagnie d'Occident)と名を改めた。当初のジョン・ローの狙いは、ルイジアナ植民地など、ミシシッピ川の流域のほとんどを含む北アメリカフランス植民地との貿易にあった。
西方会社の経営権を入手したことで、フランス政府は北アメリカおよび西インド諸島との貿易に関する25年の独占権をジョン・ローに対して保証した。1719、西方会社は東インド会社、中国会社、その他のフランスの貿易会社を併合してインド会社(Compagnie des Indes またはCompagnie Perpétuelle des Indes)となり、またジョン・ローが総合銀行(Banque Générale)として1716年に設立した王立銀行(Banque Royale)までも所有するに至った。
ジョン・ローは、ルイジアナの富を巧みなマーケティング戦略を用いて宣伝した。その結果1719にインド会社に対しての熱狂的な投機買いが起こり、株価は500リーブルから15千リーブルまで高騰した。しかし、1720の夏にかけて急激な信用不安が起こったため、1721には再び500リーブルまで下落した。同年摂政フィリップ2はジョン・ローを解任し、ローはフランス国外へ逃亡した。

政府債務の転化 [編集]

ミシシッピ会社の発行済株式の量は、1720年には50万株程度だった。すなわち株価が15千リーブルだった時の会社の時価評価額は75億リーブルとなる。株価が500リーブルまで崩壊した17219月時点では、時価評価額は25千万リーブルにまで下がった。ちなみに、当時のフランス政府の歳出規模は15千万リーブル(1700)で、政府の負債額は16億リーブル(1719年)であった。
政府とジョン・ローは16億リーブルの政府負債の全てを会社の株式で買い上げることにした。この計画は成功した。政府の負債の債権者達は、債権や手形でこの株を購入し、1720年には政府の全負債はこの会社に移った(債権と資産の変換)。これによって、元の政府に対する債権者が今度はこの会社の所有者(株主)となったが、会社経営は政府によってコントロールされていた。政府は毎年3%にあたる48百万リーブルの利息を支払った。これによって、政府は歳入の10倍(GDPの約24倍)もの多額の債務の返済を一時的に免れ、債務免除されたような状況になった。この成功によって株価は高騰したが、その後1720年から1721年にかけて、この会社の市場からの資本調達が破綻した。
イギリスで南海泡沫事件が発生したのもこの時期である。こちらの場合、5千ポンドの政府負債の80%を南海会社が取得し、インド会社(ミシシッピ会社)の株価が最高値を記録したよりもほんの数ヶ月後の17208月に、株価が最高値1000ポンドまで上昇した。

事業再開後のミシシッピ会社 [編集]

ミシシッピ会社は1721年に倒産した。そして、組織を再編し、1722に事業を再開した。1723、再開した会社はルイ15から新たに特権を与えられた。主な特権は、タバコやコーヒーの専売権や、国発行の宝くじを催行する権利である。この会社に関して金融市場は再び賑わいをみせ、株価や社債は値上がりし、自己資本は膨れ上がった。
1726から1746にかけて、国外貿易事業と国内事業が繁盛した。これによって、主要港であるロリアンをはじめとして、ボルドーナントマルセイユなどの港湾都市も栄えた。この時期に西半球に関する貿易権は失ったが、東側との貿易事業は繁栄を続けた。この時期の貿易品目は、中国からの陶磁器壁紙、中国やインドからの織物、モカイエメン)からのコーヒーマヘインド)からのコショウ西アフリカからの象牙奴隷などがあった。
1746年以降、フランス政府の公共事業拡大路線は会社に負担を与えるようになり、七年戦争1756-1763)が特に大きな打撃となった。17702月、同社に対し、当時3千万リーブルに及んだ全資産と権利を国家に譲渡する命令が下った。なお、国王は会社の全負債の返済と利息の支払いを約束した。同社は1770年に解散し、弁済1790年代まで引き継がれた。


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