遺体 震災、津波の果てに  石井光太  2013.2.18.


2013.2.18. 遺体 震災、津波の果てに

著者 石井光太 1977年東京生まれ。海外ルポを始めとして貧困、医療、戦争、文化などをテーマに執筆
アジアの障碍者や物乞いを追った『物乞う仏陀』
イスラームの性や売春を取材した『神の棄てた裸体』
世界最貧困層の生活を写真やイラストをつけて解説した『絶対貧困』
インドで体を傷つけられて物乞いをさせられる子供を描いた『レンタルチャイルド』
世界のイスラムや路上生活者に関する写真エッセー集『地を這う祈り』など

発行日           2011.10.25. 発行
発行所           新潮社

『週刊ポスト』2011.6.24.、『新潮452011.6,7.に掲載した記事に大幅に加筆修正し、書き下ろしを加えたもの
13.2. 映画化『遺体 あすへの十日間』監督:君塚良一、主演:西田敏行

震災に直面した1ジャーナリストが、釜石市で取材した事実を基に、報道が伝えきれなかった真実を描いたもの

プロローグ
3.11の翌日、釜石に住んでいて津波から免れた民生委員千葉が死体安置所を訪問

第1章        廃校を遺体安置所に
3.11の午後、港から2㎞内陸に入った工場地帯のコミュニティ消防センターでお年寄りを集めて卓球をやっていた時に、14:46地震に遭い、老人たちを自宅に帰した後5時くらいになって、中心地へ向かう道路が封鎖されて人も車も立ち往生していることが分かる
暫くして漸く津波で町が壊滅したことを知る
停電と携帯も通じない中、翌朝消防センターに行くと避難者が多勢いて、漸く大変なことが起きたと知る
葬儀社で働いた経験を生かして、災害対策本部に手伝いを申し出る
釜石医師会会長は、自宅で診療中に地震に遭い、患者を帰した後、翌朝遺体安置所に出動
岩手県歯科医師会常務理事は、翌日事務局に呼ばれ、ドクターを被災地に経遣するよう指示、自らも釜石に向かう
医師会長は検死
釜石歯科医師会長は、助手の実家からまさに津波が襲ってきた瞬間の電話で津波を知るが、全貌を知るのは翌朝になってから。歯型の検歯に向かう

第2章        遺体捜索を命じられて
釜石市職員・松岡は、遺体搬送班への転任を要請され、被災現場からの遺体回収に。以後たった1人で2か月以上にわたって従事
室浜(釜石市と大槌町の間にある小さな漁村)の消防団員は、海辺の小屋で被災、「津波てんでんこ」に従って高台に避難、津波の一部始終をただただ傍観するしかなかった。集まってきた他の消防団員と共に消防ポンプ車に乗って数カ所あった水門をすべて閉鎖した直後に津波が襲来、親戚の乗った車だ津波で流され、顔まで見えているが如何ともしがたい。さらに避難所に逃れてきた人を誘導して観世音神社まで退避。夜になって廃墟となった海辺の集落に生存者を捜しに行く。暗闇から「助けて」との女性の声がするも、海の方からで励ますしかなかった。夜が明けて、瓦礫の散乱する地平の広がりを見る
釜石市内の消防団員は、被災者を指定された避難場所へと誘導、近くで車両火災を消火
秋田の陸上自衛隊員は、震災発生を聞いて、すぐに出動を覚悟、部下に召集をかけ災害救助物資を積んで、夜釜石に向け出発。早朝到着直後から炊き出しと、生存者探索に出動。人命救助の目安となる72時間を控え時間との闘いだが、瓦礫の中で見つかるのは死体ばかり
釜石消防署員も遺体捜索に従事。出張所からの音信が途絶えた町に深夜に消防車で駆けつけ、町ごと水没した被災現場で生存者を探索。水が引いたのは15日。消防用の棒「鳶口」だけを手に必死の捜索が続く
松岡は、仮置き場の死体を安置所に移す作業をやっていたが、次々に運ばれてくる死体にお手上げ状態、その上瓦礫処理作業をやっているところから、新たに出てきた死体の搬送を依頼されるが、搬送班の同僚は疲労と精神的なショックもあって次々に抜けていく
海上保安部の巡視船乗組員も、間一髪で津波から逃れて海上に出たが、海上から罹災状況を見て呆然。翌日午前中本部との無線が繋がり、海上での生存者捜索に走る

第3章        歯型という生きた証
釜石歯科医師会長の鈴木勝は、同級生だった岩手の歯科医師・西郷の後を引き継いで13日から死体安置所で検歯。とても1人で処理しきれず、応援の声をかける
歯科助手も、遺体の身元確認の重要な決め手と知って寒さと疲れを振り切って必死。傍らでは、身元確認に来た遺族が身内を見つけて号泣する
応援に駆け付けた歯科医・工藤は、大槌町の被災現場に出向き、津波の後に起こった大火災のために黒こげになった遺体に向き合う
安置所の検歯は21日で終了
被災した歯科医師たちは、自分のクリニックを再開する代わりに、避難所を回って無料の巡回診療を続ける
刺身の盛り合わせが出たが、昔からウニは溺死体にへばりついて腐肉を食らうと言われていたため、震災後はどこの店に行っても刺身にウニが出ることはなかった

第4章        土葬か、火葬か
震災の翌日夜、葬儀社の職員が競合相手の葬祭会館に呼び出され、今後の方針を自治体と決める ⇒ 最大手の葬儀社が罹災したので、2社で協力して事態に当たることとなる
手分けして棺とドライアイスを手配
火葬場の再開の目処が立たなかったが、15日漸く再開
余りに膨れ上がった遺体の数に、関係者から遺体に払うべき敬意というものを少しづつ奪い去っていった ⇒ 遺体を番号で呼んだり、土足で跨いだり、笑い話をしたり
仙寿院住職が初めて遺体安置所を訪れたのは15日、新しい棺が到着し始めた時。仙寿院は石段の中途まで津波が来たものの辛うじて助かったが、周囲はすべて流され、今でも100人強の避難者が残る
16日から遺体の焼却が始まるが、1日最大14体、早朝から始めるが追い付かない。遺族から湯灌の申し出があっても物理的に応じられない
政府は土葬も許可したが、遺族の理解を得られるか疑問
釜石市長は、対策本部に詰めっきりだったが、火葬処理も大きな問題の1
20日 火葬がとても間に合いそうに無く、やむなく仮埋葬として土葬をすることを決定、対象を半数以上を占める身元不明の遺体とした
震災から10日も経つと損傷の激しい遺体が増えてくる
土葬と知って、遺体の確認に来る人の数も増える
仙寿院住職は、無傷の寺院が被災した寺院から檀家を奪う話を聞いて、釜石仏教会の立ち上げを決断、共同で遺骨を預かるとともに、読経のボランティア
遺体の確認が85%まで進んだことと、県外の火葬場の支援が増えたことで、土葬回避

エピローグ――2か月後に
市内の学校が再開、安置所が閉鎖されたが、まだ100体以上の身元不明の遺骨が残る
取材を開始したのは314日。東京の自宅で地震に遭い、テレビで被災状況を見て即座に現地に行く決心をした。新幹線で新潟に行き、レンタカーで蔵王経由宮城県に入る。その日からの3か月のうち、2.5か月を被災地で過ごし、現地ルポを送る
最も悲惨な光景が繰り広げられた遺体安置所で展開する光景を記録しようと決める



東日本大震災の内側とその知られざる真実を描く。
2013223日(土)全国公開。本年度モントリオール世界映画祭出品作品。

2011311日 144618秒 マグニチュード9.0 最大震度7

日本の観測史上最大の地震により、最大40メートルの津波が東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらした。警察庁の発表では死者、行方不明者、負傷者の数は合わせて2万人を超えたことが確認されている。(20121010日発表)

あの日、未曾有の災害に直面しながらも 困難な状況や悲しみに向き合った人々がそこにいた

舞台となるのは岩手県・釜石市にある廃校となった中学校の体育館。釜石の地形は壊滅的な被害にあった地域と難を逃れた地域が、1本の川を挟んで2つに分かれている。災害が起きた当初、残された市民たちは津波の状況を把握出来ていない中で、同じ町に住んでいた人々の遺体を搬送し、検死、DNA採取、身元確認を行わなくてはならない状況となった。犠牲になった人たちの尊厳を守りながら一刻も早く家族と再会させるため、懸命に尽くした。同じ被災者でありながら、つらい役割、現実を担わざるを得なかったのである。

一人のジャーナリストが実際に目撃し、取材した事実を基に描く 報道が伝えきれなかった真実

原作はジャーナリスト・石井光太氏の著作『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社刊)。当時の報道では伝えきれなかった東日本大震災の知られざる事実を描いたこの壮絶なルポルタージュ本を読み、映画化に向け突き動かされたのは、『誰も守ってくれない』(08)で、モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞を受賞した君塚良一監督。原作を読んだ監督はこの事実の中にある真実を映像を通して伝えるべきだと確信。製作にあたっては何度も現地を訪ね、実在のモデルとなった方々のもとへ足を運び新たに取材を行った。「未曾有の災害に直面し、立ち向かった人たちの姿を多くの人に伝えたい。災害や被災地への関心を薄れさせてはいけない。その想いを胸に作りました」と語る。

「風化させたくない」 その想いで日本を代表する俳優陣が集結

出演者もそんな君塚監督の想いに共鳴し集結した。遺体安置所でボランティアとして働き、安置所で働く人たちに遺体に対する尊厳を伝えていく相葉常夫に西田敏行。「ご遺族の方々の心境を考えると、劇化するのが正しいかどうか判断には非常に迷いました。しかし劇化することによって事実とは違う真実が引きだせるのではないかと思い、出演を決意しました」と胸の内を語る。その他、緒形直人、勝地涼、國村隼、酒井若菜、佐藤浩市、佐野史郎、沢村一樹、志田未来、筒井道隆、柳葉敏郎(50音順)などの俳優陣が本作に賛同し、後世に遺すべき作品を作り上げた。

あらすじ
2011311日、日本の観測史上最大の地震により発生した津波が岩手県釜石市を襲った。
一夜明けても混乱状態が続く中、市では廃校となった旧釜石第二中学校の体育館が遺体安置所として使われることになった。次から次へと運ばれてくる遺体に、警察関係者や市の職員も戸惑いを隠せない。釜石市職員の松田信次[45](沢村一樹)は、遺体の運搬作業に就くが次第に言葉を失っていく。急ぎ駆けつけた釜石市の葬儀社に勤める土門健一[39](緒形直人)も経験したことがない犠牲者の数を聞き、ただ立ち尽くすしかなかった。
ただ立ち尽くすしかなかった。 医師や歯科医師たちは遺体の身元確認作業にあたることになった。暖房もなく冷えきった体育館の中で、医師の下泉道夫[53](佐藤浩市)や歯科医師の正木明[51](柳葉敏郎)、歯科助手の大下孝江[36](酒井若菜)らは、いつ終わるのかもわからない検案や検歯の作業に取り組んでいく。時には顔見知りの市民が遺体となって搬送されてくることもあった。
そんな遺体安置所を訪れたひとりの男・相葉常夫[66](西田敏行)は、定年後、地区の民生委員として働いていた。定年前は葬祭関連の仕事に就いていた相葉は、遺体の扱いにも慣れ、遺族の気持ちや接し方も理解していた。混乱した安置所の様子に驚愕した相葉は安置所の世話役として働かせてもらえるよう、旧知だった市長の山口武司[58](佐野史郎)に嘆願し、ボランティアとして働くことになった。
運び込まれてくる遺体ひとりひとりに生前と変わらぬような口調で優しく語りかけていく相葉。「遺体には生きている人と同じように接しなさい」と語る彼のその言動に、それまでは遺体を死体としか見られず、ただ遺体を眺めることしかできなかった釜石市職員たちも率先して動くようになっていった。平賀大輔[36](筒井道隆)は最初は戸惑いながらも少しずつ遺体に話しかけるように。自分のアパートが流された上に親友が行方不明になってしまった悲しみから遺体安置所の中に入ることすらできなくなっていた及川裕太[25](勝地涼)も、いつしか遺族の拠り所になっていた。照井優子[19](志田未来)も複雑な気持ちを乗り越え、安置所に祭壇をつくろうと提案。地元の住職・芝田慈人[55](國村隼)も駆けつけ供養をすることに。安置所に響き渡る読経に、終わりの見えない作業に向き合っていた相葉たち、そして遺族も自然と手を合わせていた。
震災から10日目。目の前にある現実を直視しながらもそこから逃げない。残された人々は、今自分が出来ることをやり遂げ一人でも多くの遺体を家族の元に帰すことだけを考えていた。
そして、震災から2ヶ月後の518日。遺体安置所はその役目を終え、閉鎖された。
しかし、その後も犠牲者の遺体は見つかっている。



東洋経済 Online 20130223

釜石にカメラを向けたことは生涯責任を取る
君塚監督が映画に込めた覚悟
壬生 智裕 :映画ライター
角丸四角形: 君塚良一(きみづか・りょういち)
日本大学芸術学部卒業後、萩本欽一に師事。番組構成からテレビドラマの脚本家として活躍。「ずっとあなたが好きだった」「ナニワ金融道」など数々の人気ドラマの脚本を手掛ける。
1997年からは人気シリーズ「踊る大捜査線」の脚本を手がけ、スピンオフ映画『容疑者 室井慎次』では監督も務めた。その他の監督作として『MAKOTO』、そしてモントリオール世界映画祭最優秀脚本賞を受賞した『誰も守ってくれない』などがある。
東日本大震災からまもなく2年を経ようとしている。そんな中、ジャーナリストの石井光太が、東日本大震災の知られざる真実を描き出した渾身のルポルタージュ「遺体 震災、津波の果てに」を映画化した『遺体~明日への十日間~』が223日より公開される。
2011311日。東日本大震災により発生した津波で、岩手県釜石市は未曾有の被害を受けた。遺体安置所に選ばれたのは、廃校となった中学校の体育館。次々と運ばれてくる遺体を前に現場は混乱する。
本作の「災害や被災地への関心を薄れさせてはいけない」という君塚良一監督の熱い思いに共鳴したのは、主演の西田敏行をはじめ、佐藤浩市、佐野史郎、緒形直人、勝地涼、國村隼、酒井若菜、沢村一樹、志田未来、筒井道隆、柳葉敏郎といった俳優陣だ。

この映画は創作がない
――所轄と本庁との対立軸を分かりやすく描き出した「踊る大捜査線」の例を出すまでもなく、世界観をきっちりと固めたテンポのよい物語作りが君塚ドラマの醍醐味だと思います。しかし今回はそれを封印し、淡々としたドラマづくりが印象的でした。やはり東日本大震災を題材にしたということで、気を遣われた点があるのでしょうか?
脚本にいちばん大事なのはストーリーラインなので、そこを強化していくのは脚本家のいちばん大切な仕事です。たとえば僕の監督作である『誰も守ってくれない』などは、とある事件をモデルにしたにせよ、創作も加えてストーリーを強化していく作業がありました。お客さんを喜ばせること、楽しませること、何かを考えてもらうこと、あるいは人生を変えるぐらいに衝撃を与えることなどが、僕の仕事の大前提としてあるわけです。
だけど、今回こういう作品になったのは石井さんのルポルタージュに衝撃を受けたことが大きい。釜石で起きた事実をありのままに伝えることが僕の役割だと思ったし、それをもっとうまく伝えるために、僕の今までの脚本術や演出術を使うことはできないと思った。つまり、そうやって伝えることにあまり意味を見いだすことができなかった。だったらありのままに描くほうがいいと考えた。当然のごとく、この映画には創作がありません。それが面白いのか、つまらないのかという判断さえもなかった。ただ伝えたいというだけで。だから僕にとっても新しい試みだし、特別な作品だと思います。
同じ町の人たちが、同じ町で犠牲になられた方々のご遺体をきれいにして、検視して、家族の元に返そうとしていた。彼らだって同じ被災者。水もなければ食べ物もなかったのに、それを行っていたというのは、日本人の良心だと思いますよ。それを世界に伝えたいし、多くの日本人にも見てもらいたいと思いました。そんなにひどい国ではないですよ、日本はね。システムが壊れちゃっただけで。
一方、映画を作るということはおカネがかかることだと思います。たとえば今回ですと、西田敏行さんや佐藤浩市さん、志田未来さんなど、そうそうたるキャストが出演しています。そういった題材と興行とのバランスは考えられたのでしょうか?
今回、そういうことはほとんど考えていません。これがたとえ西田さんに断られて、無名の人にお願いしたとしても、それでも作るべきものだと思いましたから。ただ、僕は今まで、観客のことを絶対に忘れないでものを作ってきました。それは僕の中で消そうと思っても消せないことです。
意識をしてはいませんでしたが、やはり見てもらう以上は、窮屈な映画、退屈な映画を作るわけにはいかないという気持ちはあったのかもしれません。きちんと描けば3時間半以上になる題材ですしね。そういう僕がもともと培ってきたことや、僕が正しいと思ってやってきたことが無意識に出ていたということはあるかもしれません。
確かに今回の映画のキャスティングに関しては、プロデューサーに頑張っていただいた。キャストの皆さんには、僕がどうしてこの映画を今撮らなければいけないのかといった思いを、まず伝えました。僕と思いが一緒である人に出演してほしかったですから。最初から有名な人を集めようという思いはなかったですね。
届いた被災地からの声
――本作を撮るにあたり、監督も被災地に行ったそうですがそこで何を感じたのでしょうか。
被災地では、とにかく関係者とご遺族の方にできるかぎり会いました。「今、映画を作る企画を立てているんですが、それに対してどう思いますか?嫌だったら嫌だと言ってください。そうしたらやめますから」と。皆さんの気持ちだけをずっと聞き続け、それ以外はほとんど何もしていません。どう考えてもこの原作を映像化するためには当然、画面の中には、ご遺族の方もご遺体も映るわけです。だからこそかかわった人たちが嫌だと、遺体を映してカネを取るのかと言われるなら、僕はやめるつもりでした。
――その中でご遺族からはどのような声が返ってきたのでしょうか?
事実を伝えてほしいという声が多かったです。もちろん面白おかしくしないという条件付きですが。それと皆さんが言っていたのは、またこれから先、ほかの場所でもこういった大きな災害が起きる可能性があるから、災害への心構えみたいなものを持つためにも、ぜひとも多くの人に見てもらいたいということでした。どうしてもやめてくれという人が一人でもいたら、やめるつもりでした。
もちろんプロデューサーやおカネを出す方たちも、全員がどうしてもやりましょうというわけでもなかった。むしろやめた方がいいという人たちもいましたから、やらないという選択肢は簡単だった。ただ、今まで僕が20年以上作ってきた中で、例えばワイドショーで見た事件や恋愛沙汰に対して、これを素材に面白いものが作れるな、なんていつも思っているのに、どうして震災だけは口に出さずに逃げるのかと。そういう考えは僕の中でいくと卑怯な感じがして。それはもう生き方の問題ですよね。
映画ではご遺体を写さないようにしましょうとか、『遺体』というタイトルをやめて『希望』にしましょうとか。そういうことを考えていくと、最後は撮らないほうがいいという選択肢になってしまう。でもそれは僕が言ったような「生き方」の問題で、自分に嘘をついていることになるのではないか、という気持ちになるんです。

被災地へカメラを向けたことは生涯責任を負う
――3.11以降、いろいろなエンターテインメントが自粛、延期され、作り手の皆さんが悩んでいた時期がありました。それでも君塚監督は向き合わなければいけないという選択をされたということですね。
被災地にカメラを向けたということは、おそらく僕は生涯責任をとらなければいけないことだと思う。「じゃあこれで公開は済みました。震災というテーマの映画は終わったので、次はこんなテーマで撮ります」というわけにはいかない。やはり映画を作って偉そうなことを言っていた以上、おいしいところだけをいただいて、そのあとは面倒くさいし批判されそうだから、ここはやめておこう、というような考えを持つわけにはいかない。そうでないと、僕が今まで作ってきたものが全部ウソになってしまう。
――アメリカの場合は、9.11があって、クリエーターの意識が変わらざるを得なかったと思うのですが、3.11以降、君塚さんも含めて日本の作り手の意識も、やはり変わりましたか?
もちろん。『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』にしたても、あれはプロットを書いている時点で震災になっていますから。あのとき主人公の青島は震災を経験しているのか、していないのかということも議論になってくるわけです。とにかく僕たちはずっとリアリティーを追及して創作をしてきたわけです。だから本当にリアルな現実の映像を見せられると、やはりかなわないなとは思いますよ。
9.11のときもそうでした。つまり、創作によって現実を見せようとしているのに、現実にビルに突っ込む飛行機を見せられたら、作り手はどうしたらいいの?という状態になる。ハリウッドでは、5年間くらい「どうしたらいいの?」という状況に陥った。その5年の間に、大きな大作が日本に来なかったから、日本の邦画バブルにつながった。
だけど、僕らは5年間の空白というのを知っている。5年後に9.11を撮ったところで、物語化が起きてしまう。5年経ったフィルターがかかってしまう。監督や映像作家にとって、あの日はなんだったのかという話になってしまう。それがわかっていたから、僕はこの映画を今作らないといけないと思った。何年経たないとれは作れないという発想は、自分の中にはありませんでした。
今回の映画を作るにあたっての葛藤はあります。これを簡単に「いけ」というわけにはいかない。つまりみんな、僕も含めて葛藤があって。それを自分にすべて問いかける必要があるんですね。震災のときに自分は何をしていたのか。もっと言えば、それ以前にどう生まれ、どう育ってきたのか。何に傷つき、何に喜んできたのか。何が正しいと思い、何が正しくないと思っているのか。全部、自分に問いかけられている感じがしています。
――真実を伝えるだけなら、ドキュメンタリーでもいいではないか、という意見もあるかもしれません。そんな中で、君塚監督は物語をどのように位置づけているのでしょうか?
真実を伝える手段として、ドキュメンタリーや、ジャーナリストが文章にするといったことはあると思いますが、僕は創作物によって、ウソを作ることで真実に向き合えることもあると信じている。僕が今まで培ってきた技術を使って、入り口の広い、けれども見終わったあとに、知らなかった世界、あるいは知ろうともしなかった世界を感じてもらったり、知ってもらうことをやりたいと思っているんです。かつてそういう日本映画がたくさんありましたからね。
――遺体安置所のセットも真に迫るものがありました。おそらく現場にいたら相当な圧力を感じるのではないかと思うのですが。
スタッフも毎日つらかったと思います。ただ、どこかでスタッフたちは、映画人ができる供養はこれしかないんだという気持ちを持って、歯を食いしばって撮ってくれました。

この作品に込めた「覚悟」
――ご遺体も一体ずつ作らなければいけない。ドロだらけのご遺体は硬直していて、安らかな体勢に戻してあげるために筋肉をほぐしていくといった描写なども、きちんと目をそらすことなく描き出しています。
伝えることが大前提だと思うんですよ。お客さんがどうとらえるのかはわかりませんが、自主規制で描くのをやめるようなことはダメだと思います。僕は、この作品に関しては、覚悟決めて生涯責任を取りますよ。
――3.11を経験したわれわれは今後、どのように生きていくべきか。若きサラリーマンたちに向けて、アドバイスをいただけないでしょうか?
3.11以降、被災地以外の人たちは、心から被災地のことを心配していたと思います。でもそのうちに何もしていない自分に気づいた。テレビや報道を見たり、本を読んだりしても、向こうの人たちの苦しみが分からないという後ろめたさや不平等感は、僕も含めてみんなものすごく感じていたと思う。
だけど、少なくともこの作品を撮ったことで、僕がその不平等感や後ろめたさが減ってきたと感じられたのは、例えば相手のことを思うようになったり、作品を見た人が元気になってくれたからだと思うんです。それは自分が動いたから。あるいは嫌われることを恐れないで伝えようとしたから。僕個人で言えば、そういうことを感じました。とにかく動かないとだめですよね。
こういう言い方は偉そうに聞こえてしまうかもしれませんが、たとえば黙っていることで、そこで起きているトラブルを回避するこができてしまう。でもやり過ごしてしまうと何も進まない。僕がこれを撮って、公開したらいろいろと問題が出てくるかもしれません。もしかしたら僕のやり方は間違っていたのかもしれません。それでも少なくともやり過ごさなかったということだけは自信を持って言えます。
(撮影:吉野純治)

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