バルカンの歴史  柴宜弘  2013.1.31.


2013.1.31. 図説 改訂新版 バルカンの歴史

柴宜弘 1946年東京生まれ。早大大学院文学研究家博士課程(西洋史学専攻)修了。その間ユーゴスラヴィア政府給費留学生としてベオグラード大学哲学部歴史学科に留学。敬愛大経済学部助教授を経て、東大教養学部助教授。現在東大大学院総合文化研究科教授。東欧地域研究、バルカン近現代史を専攻

発行日           2001.12.20. 初版発行                 2006.4.30. 改訂新版初版発行
発行所           河出書房新社(フクロウの本)

バルカンとは
Ø  トルコ語で「樹木に覆われた山」の意
Ø  最初で最後のヨーロッパ
「第1のヨーロッパ」=ギリシア・ローマ時代 ⇒ ヨーロッパで最初に農業が始まったのも、都市が築かれて民主制が進展したのもバルカン ⇒ 395年ローマ帝国の崩壊で、西欧世界とビザンツ世界に分割。14世紀以降はオスマン帝国の支配下に
「第2のヨーロッパ」 ⇒ 産業革命と市民革命を経た西欧に最後に加わったのがバルカン
ナショナリズムが個人の権利や国民主権と結びつく政治制度を生み出すことにはならず、集団としての民族の解放の道具となった
「最後のヨーロッパ」 ⇒ いまだに「国民国家」への転換を試みている最中
「第3のヨーロッパ」 ⇒ 東西冷戦、東欧革命を経て、国民国家を否定する方向でヨーロッパ統合の試みが進む
Ø  90年代に入り、ユーゴでは分離・解体が進む ⇒ クロアチア内戦、ボスニア内戦、コソヴォ紛争を経て、ヨーロッパ統合から取り残される
Ø  ここではバルカンを、歴史的にビザンツとオスマン両帝国の影響を強く受けた地域と規定、オスマンの支配を一時的にしか受けなかったハンガリーは除かれ、ルーマニアは含まれ、旧ユーゴから独立したスロヴェニアは除外 ⇒ 北からルーマニア、クロアチア、ユーゴスラヴィア(03年にセルビア・モンテネグロと改称)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリア、アルバニア、マケドニア、ギリシアの小国8か国とトルコのヨーロッパ部分からなる

Ø  自然環境
南北に連なる山脈の間を縫って、古来ヨーロッパとアジアとを結ぶ交通の要衝として、軍事上も商業上も重要な地点であり、極めて多くの民族がバルカンに流入
主要幹線は、ベオグラード近郊でドナウから分かれるモラヴァ川とスコピエからテッサロニキでエーゲ海に注ぐヴァルダル川流域
Ø  民族・宗教・言語
民族構成は複雑、それに伴い宗教も多様、民族が多いだけでなく混住。先住はギリシア人(ダルマツィアに植民)、アルバニア人(バルカンの先住民)、ルーマニア人(先住民ダキア人とローマ人の混血)だが、最大多数は南スラヴ人で、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、モンテネグロ人、マケドニア人、ブルガリア人
少数民族ではドイツ人、ヴラフ、ロマ(ジプシー)、ユダヤ人、アルメニア人の存在は重要
Ø  多様性と共通性
民族構成の複雑さを反映して、いく種類もの文化が外部から持ち込まれ、各地に多様な文化圏が形成 ⇒ 民族の境界線とも、国境線とも一致しない
1819世紀にかけてロマン主義の時代に、ヨーロッパの周辺地域として、西欧知識人の関心を呼ぶ ⇒ 南スラヴやアルバニア人の農村に中世以来続く父系性の大家族共同体(ザドルが)への関心はその典型。民俗を超えて共通する生活空間もあった
バルカン・イメージと日本
対立・抗争の地としてのイメージが強いが、共存・協調の関係を築こうとする側面もあり、1860年代から様々な形でのバルカン連邦構想が提起されたし、地域協力の試みは現在に至るまで続いている

第1章     ビザンツ帝国とバルカンの中世国家
Ø  紀元前3千年から2千年ごろに、ギリシア人がバルカン半島を南下して海岸部に定住
Ø  紀元前8世紀ごろに誕生した共同体国家ポリスで発展する芸術や哲学、民主政治の仕組みは、近代ヨーロッパにとって模範とされ、古代ギリシアがヨーロッパの古典古代と考えられるようになった
Ø  紀元前4世紀には、山岳部に移住したギリシア人が建国したマケドニアに中心が移り、アレクサンドロス大王がインダス川まで進出、自らの文化をヘレニズム文化として伝える
Ø  次いで、古代ローマが征服し、その中心にバルカンが据えられるのは衰退し始めた3世紀から
Ø  ダルマツィア出身のディオクレティアヌス帝が284年に即位
Ø  4世紀コンスタンティヌス帝の時代に再びローマ史がギリシア史と重なる ⇒ ビザンツ帝国の基礎をつくる(キリスト教公認、コンスタンティノポリスの建設)
Ø  395年ローマ帝国が東西に分離、東に中心が移る ⇒ 西は476年ゲルマンに滅ぼされたが、東はビザンツ帝国として栄える。ギリシア人が多数を占め、東方正教会の公用語もラテン語からギリシア語となり、これ以降バルカンはビザンツ帝国とスラヴ人を含む異民族との関係の歴史を刻む
Ø  410世紀の民族大移動の際、バルカンではスラヴ人とブルガリア人が重要な役割
Ø  スラヴ人はカルパチア山脈の北側からフン族に追われるように南下してエーゲ海の島々にまで達する
Ø  パンノニア(現在のハンガリー)からバルカン西部に移住してきたのが南スラヴ人
Ø  フン族に押されたトルコ系遊牧民のブルガール人もカフカス北部から黒海北岸に大部族連合を築く ⇒ 一時ビザンツ帝国に滅ぼされるが、1187年復活、1393年オスマンに征服
Ø  セルビア王国 ⇒ 7世紀にバルカンに移住したセルビア人(南スラヴ)1168年にビザンツから独立して建国、初代戴冠王
Ø  クロアチア王国 ⇒ 7世紀にバルカンに移住したクロアチア人(南スラヴ)925年建国
Ø  ボスニア王国 ⇒ 6世紀にバルカンに移住した南スラヴが12世紀後半に建国
Ø  ルーマニア ⇒ 紀元前8世紀バルカンに移住したダキア人とローマ人との混交が起源。紀元前70年に部族連合を統一した国家が誕生

第2章     オスマン帝国の支配
Ø  13世紀末、小アジアに成立したオスマン朝がバルカンを4500年支配
Ø  1389年から、内紛に乗じてビザンツ帝国内に侵入、1453年コンスタンティノープル陥落
Ø  16世紀スレイマンで最盛期を迎える ⇒ 支配下の諸民族を、宗教別に区分して一定の自治権を認めたことがバルカンを長期間支配出来た理由とされる

第3章     ナショナリズムの時代
Ø  1571年レパント沖海戦でオスマンがスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇庁の連合艦隊に敗北、ヨーロッパ進出が止まり、次第に領土を縮小
Ø  世界史的規模の変化がオスマン帝国にも多大な影響を及ぼす ⇒ 人口増加とインフレが既成制度を破壊
Ø  オスマンの統治下で、バルカン全体に交通網が整備され、社会の流動化が進む
Ø  1789年フランス革命以後ヨーロッパにナショナリズムの思想が浸透、バルカンにももたらされ、セルビアとギリシアで反オスマンの蜂起が展開
Ø  1830年セルビアが自治獲得、同年ギリシアも王国として独立を承認
Ø  1861年ルーマニアの2公国がロシアとオスマンの支配から独立・統一 ⇒ 正式にオスマンから独立するのは1878年のベルリン条約による

第4章     民族国家の建国――対立と強調
Ø  19世紀、ヨーロッパのナショナリズムの影響がバルカンにも及び、様々な民族集団の解放と国家を求めるイデオロギーとしての役割を担う ⇒ 基礎に民族の歴史が置かれ、中世の王国が強調されるのがバルカンでの特徴
Ø  1830年のギリシアに続き、露土戦争後の1878年のベルリン条約によってセルビア、ルーマニア、モンテネグロ各王国の独立とブルガリア公国(1908年独立)が承認、1913年アルバニアの独立承認 ⇒ ヨーロッパの王家出身の国王が多く、相互の対立が深まる
Ø  オスマンの衰退で、ヨーロッパ列強とロシアがバルカンに興味 ⇒ 東方問題/東方の危機
Ø  競って資本が投下され、1888年ウィーンとイスタンブール間に鉄道開通
Ø  1860年代~ バルカン連邦構想の提案
Ø  クロアチア人の民族再生運動に、セルビア人も立ち上がり、相互に南スラヴとしての共通性を認め、ユーゴスラヴィア統一主義の動きに ⇒ 共同してハプスブルクに立ち向かう

第5章     危機の時代
Ø  オスマン時代は宗教共同体が自他を分ける基準だったが、西欧からもたらされた民族という基準に目覚める
Ø  1次大戦では、敗戦国となったブルガリアを除き、領土を拡大。民族自決の原則がバルカンでは多数民族の自決による国民国家への再編成へと進み、国境が高い壁となり少数民族問題が先鋭化 ⇒ 現在でもコソヴォやマケドニア内のアルバニア人問題として残る
Ø  少数民族保護のため国際連盟が積極的に内政干渉したり、隣接する2国間で相互に抱える少数民族を国際的な承認のもとで交換するという政策が採られた
Ø  191213年 2度にわたるバルカン戦争 ⇒ 第1次はロシアの支援でバルカン同盟がオスマンを撤退させ、第2次は1次の事後処理に不満だったブルガリアと、ギリシア・セルビアの戦い。第1次大戦は第3次バルカン戦争でもあった
Ø  典型的な農業社会から成り立っていて、大戦後の領土拡大による住民の増加を吸収する産業革命が伴わず、土地改革が緊急の課題に ⇒ 地主層の反対にあって徹底せず、29年の恐慌の影響をまともに受け農業恐慌に陥る
Ø  西欧型の立憲制が導入されたものの政治的体験の乏しい国民のもとではなかなか円滑に進まないまま、ユーゴ、ブルガリア、ルーマニア等では国王独裁に戻る
Ø  1930年代 危機意識を強めたバルカン諸国が、大国の後ろ盾なしに地域協力を進め、同盟体制を築く貴重な体験をするが、イタリア・ドイツの対外侵略に恐れをなしたブルガリア、ルーマニア、ユーゴの方向転換で協商は崩壊

第6章     多様な国家を求めて
Ø  アルバニア ⇒ イタリアに併合
Ø  ルーマニア ⇒ ソ連、ハンガリー、ブルガリアに領土蹂躙され、枢軸国入り
Ø  ブルガリア ⇒ 中立宣言したが、ヒトラーの圧力の高まりにより枢軸国に加盟
Ø  ギリシア ⇒ 中立を宣言、イタリアの攻撃に対しイギリスの支援で撃退したが、ドイツ軍により占領、国王と政府はクレタ島に避難するも、そこも蹂躙、バルカンは全て枢軸国傘下に
Ø  ユーゴ ⇒ 中立を宣言するもドイツの侵攻で国王はイギリスに亡命、ドイツ軍制下に
Ø  クロアチア ⇒ 39年自治州創設したが、ボスニアと併合してドイツ軍の傀儡政権下に
Ø  44.10. 「バルカン勢力圏分割(パーセンテージ)協定」が取り決められ、チャーチルがスターリンにルーマニアはロシア90、イギリス10、ギリシアは10:90、ユーゴは50:50、ブルガリアは75:25として統治することを提案・同意し、以後の枠組みが出来る
Ø  ギリシア ⇒ 挙国一致内閣が戻るが、共産党が蜂起して内戦へ、冷戦の本格化でアメリカが支援、50年にはNATOに加盟し西側陣営に組み込まれる。67年軍事クーデターにより軍事独裁政権樹立。トルコとの戦争を経て社会主義政権へ
Ø  ユーゴ ⇒ 45年の選挙で共産党が圧倒、ユーゴ連邦人民共和国を建国、社会主義陣営入りを果たし、チャーチルの構想が崩れる。独自路線を進もうとするがソ連の締め付けに
Ø  ルーマニア ⇒ 47年連合国と講和条約締結、政治・経済共にソ連への依存を深める
Ø  アルバニア ⇒ 45年の選挙でソ連型の社会主義国家建設が決まるが、スターリンの死とともに中国へ接近するが、米中交流開始によりその後は鎖国政策に移る
Ø  ブルガリア ⇒ ソ連占領下で改革が進む
Ø  89年の「東欧革命」 ⇒ 各国各様に一連の体制転換が進む

第7章     ヨーロッパ統合のもと
Ø  冷戦後のバルカン ⇒ 域内諸国が一様に市場化と民主化を求めたが、凄惨な民族対立から、「危険地域」に逆戻り。ヨーロッパからは、政治的・経済的・文化的に異質な地域と見做され、「他者」として否定的なイメージが付与
Ø  90年旧ユーゴ各国で自由選挙 ⇒ 2か国(セルビア、モンテネグロ)が共産党、4か国(クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、ボスニア)が民族派の勝利。民主4か国はそれぞれ独立を宣言、共産2か国もユーゴ連邦として建国を宣言。多民族国家ユーゴは完全に解体
Ø  コソヴォ紛争 ⇒ 1980年代からセルビア人とアルバニア人の対立が続く。中世はセルビア王国の中心としてセルビア人揺籃の地だったが、ハプスブルク時代にドナウの北に移住させられ、代わってムスリムに改宗したアルバニア人が入植、以後アルバニア人の民族運動の中心となる。ユーゴ連邦下でセルビアのミロシェヴィチがコソヴォの自治権を剥奪したことが契機となって紛争激化。NATOがセルビアを攻撃、99年和平実現。08年独立宣言(日本を含め世界の約1/2が承認)
Ø  マケドニア問題 ⇒ 1913年の第2次バルカン戦争の結果、ギリシア、セルビア、ブルガリアの3か国に分割、第2次大戦後ユーゴ連邦の下でマケドニア人が初めて民族として承認される。91年独立宣言がギリシアとの対立を先鋭化(国名や国旗を巡る問題)30%を占めるアルバニア人との対立も問題化、NATOが介入して共存を模索
Ø  1997年 第1回バルカン・サミット ⇒ バルカン諸国の自立的な集まり
Ø  99年 南東欧安定協定 ⇒ EUNATOによるヨーロッパ統合過程にバルカンをとりこむ動きで、日本も含む28か国、17の国際機関が参加。民主主義、人権、市場原理に基づく欧米社会の基本的価値観をバルカンに根付かせるのが目的




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