ペスト  Albert Camus  2013.2.20.


2013.2.20. ペスト
La Peste                 1947

著者  カミュ Albert Camus 後記参照

訳者 宮崎嶺雄 190880 東京生まれ。東京帝大心理学科中退。岸田国士に師事、バルザック、サンド、メリメ、カミュ等を翻訳紹介。41年フランス文学賞受賞。戦後創元社編集長を務めた

発行日           1969.10.30. 発行    04.1.20. 第64刷改定        05.4.30. 66
発行所           新潮文庫

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリゥーは鼠の死体をいくつか発見する。次いで原因不明の熱病者が続出。ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態の中で、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を呼んだ長篇

194Ⅹ年のオランに起こった特異な事件に遭遇した医師が、自らの体験を通してみた事件の顛末を記録した
4月半ばのある日鼠の死骸を発見したことを契機に、毎日何千匹もの鼠の死骸が片付けられていき、市中の不安が頂点に達した
同時に、首と腋の下と鼠蹊部に激しい疼痛が起こった病人を見かける
一方で、39.5度の熱と頸部のリンパ腺と四肢が腫脹し、脇腹に黒っぽい斑点が広がりかけている病人もいる
市には血清がなく、ペストだと公に認めると仮借ない処置を取ることを余儀なくされるため市長がペストだと認めたがらない
リンパ腺腫と斑点、錯乱性の高熱で、48時間以内に死をもたらす上に、伝染によって2か月以内に20万全市民の半数が死滅させられる危険がある
自ら我々自身を苦しめさせ、かくして自ら苦悩をうべなわせた
彼等はむきつけに天の気紛れに委ねられることになった
ようやくパリから血清が届いたが、最初は効いたものの段々効果が無くなる
3週には死者が302名との報道があるも、公衆の反応は弱く、一時的なものだと思っていた
病原菌の蔓延を防ぐために市の門が閉鎖され外部との往き来もストップ、県知事が採った対応は、乗用車の運行と食糧補給の制限。ガソリンが割当制となり、電気の節約も規定。必需品だけが陸路と空路で届けられ、贅沢品の店は閉じる。事務所の閉鎖によって、一時的に休暇状態となった市民が日中から町に溢れだし、映画館やカフェには人だかり
教会は、集団祈祷の週間を催し、彼ら独自の方法でペストと闘うことを決定
たまたま取材で町を訪れていた若い新聞記者は、町から脱出しそこなうが、パリに残してきた恋人のもとに戻ろうとして、金を払って密輸業者に脱出の手引きを頼むが、うまくいかない
8月の半ばにもなると、ペストが一切を覆い尽くしたといってよかった。個人の運命というものは存在せず、ただペストという集団的な史実と、すべての者が共にした様々な感情があるばかり。その最大のものは、恐怖と犯行がそれに含まれていることも加えて、別離と追放の感情だった。それゆえに筆者は、この暑熱と病疫の絶頂において、総括的な状況と、そして生存者市民の暴行、死亡者の埋葬、引き離された恋人たちの苦しみなどについて、書いておくのが適当だと信ずる
ペストの中心が、人口稠密の外郭区域から、町の中心部のオフィス街にまで拡大
市の各門口が襲撃されたり、保健上の理由から閉鎖された家屋が略奪に遭ったりした
ペストを追い払うために、自らの家に火をつける者もいた
市当局は、ペスト令を戒厳令と同一に扱い、窃盗犯人が銃殺された。すべての市民に感銘を与えた唯一の措置は消燈時刻の制定で、11時以降は街路から人っ子一人いなくなった
期間中を通じて何時も埋葬があった。すべての形式が簡素化され、葬儀の礼式は廃止、病人は家族から遠く離れて死に、すぐに埋葬された
家族には知らされたが、予防隔離で動けないため、遺体が清められ、墓地に出発するときに初めて呼び寄せられた
棺が無くなってきたため、一旦使われた後消毒してまた使用。埋葬も個別に収容するスペースがなく共同墓穴に、最後には男女も一緒に埋められ、生石灰で消毒された
人々は自らの有する個人的なものを断念し、他人が興味を持つことにしか興味を持たず、一般的な考えしか持たなくなり、その愛さえも彼等にとって最も抽象的な姿を呈するに至った。どれほどペストの蹂躙に委ねられていたかは、ときどきもう睡眠中にしか希望など抱かなくなった。彼等は実はすでに眠っていたのであり、この期間全部が長い眠りに他ならなかった
普通に都市の全てのさざめきをなしている車や機械の音というものが無くなってしまった結果、ただ鈍い足音と人声の巨大なざわめきだけになった
9月と10月、ペストは町をその足元にひれ伏させていた。医師が組成した保健隊も疲労の極地に達していた
神父も、医師を手伝って保健隊に協力していたが、ペストと疑わしい症状で死亡
年が明けて、異常な寒さが居座る中、突然のように鼠がまた現れて病疫が退潮の兆しを見せる
それとともに、脱走が急増、物価の顕著な下落が見られる。食糧補給が改善されたわけでは無かったが、修道院や兵営では再び集団生活が始まる
1月の終りになって、県庁からも病疫が防止されたものと見做すことが宣せられた
2月には市の門も開けられ、盛大な祝賀行事が昼夜を分かたず催された
町から出る汽車も、入ってくる汽車も満員。新聞記者の恋人もその中の1人だった
公式の祝賀行事の中で、あらゆる苦悩を乗り越えて、医師は自分が彼等と1つになることを感じ、この物語を書き綴ろうと決心した――黙して語らぬ人々の仲間に入らぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼等に対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災の最中で教えられること、即ち人間の中には軽蔑すべきものよりも賛美すべきものの方が多くあるということを、ただそうであるとだけ言うために ⇒ 決定的な勝利の記録ではなく、ただ恐怖とその               飽くなき武器に対して、やり遂げねばならなかったこと、そして恐らく、すべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなるであろうことについての証言でありえたに過ぎない
歓喜する民衆は知らないが、医師である自分は、ペスト菌は死滅することなく辛抱強く生存し、いつの日か人間に不幸と教訓をもたらすために、再び鼠どもを呼び覚まし、どこかの幸福な都市に彼等を死なせに差し向ける日が来るであろうということを知っている


訳者解説
カミュは、こんどの大戦中に初めて現れた新人だったが、僅か数年にして早くも世界的な声価を担う作家となり、その作品は1作ごとに世界の視聴を集めつつある。戦後フランス文学における最大の存在はサルトルだったが、いまやそれを圧するかに見える声望は、いったいどこからくるのか。サルトルの極めて幅広い作家活動がしばしば誤解とスキャンダルを呼び起こし、フランス社会の良識に根強い反発を感じさせるのに反し、カミュの誠実にして清潔な文体と真面目な人柄が広く信頼感を持って迎えられているということも、1つの理由だろう。サルトルが文学者よりも哲学者であり、文学的にやや異質雑駁なものを感じさせるのに対して、青年時代から十分な文学的修練を積んだカミュの文体が、ジッドを通じて象徴派を継承しつつフランス古典の伝統に繋がっていることが、フランス文学の主流を代表する作家として、彼に大きな期待を抱かせる有力な理由となっていた
『ペスト』は『異邦人』に続くカミュの小説の第2作。この作品を迎えた爆発的な熱狂は、フランス文壇の近年の驚異と言われる。刊行後数日にして「批評家賞」を授与された時も、「これでこの賞も有名になるだろう」と憎まれ口をきくものがあったくらい。たちまち各国語に翻訳、6か月で世界に広まる。通常の成功作に見られるような想像や感情に強く訴える要素は極めて少なく、むしろ主として頭脳に訴える作品。成功の理由は、作品の簡潔なリアリズムが、様々な角度から極めて明瞭な象徴性を持っていて、読者の11人がその当面の関心を満足させるものをそこに見出しうるからだと言われる
カミュの並々ならぬ文学的修練に培われた文体の魅力が大きく貢献
心と心の触れあう微妙な感触を、これほど美しく伝え得る文体を持った作家は、かつてなかった
カミュがこの作品を思い当たったのは、メルヴィルの『白鯨』に感動した結果というが、この膨大な架空の事件の記録に十分な迫真性を与えるために、その構成上の苦心は容易ならぬものがあったらしく、1941年から着手して46年末にやっと書き上げたもの。彼の作品のうちで最も苦心したもの
「不条理の哲学」が初めて十全の具象的表現を持ちえたものとして、空の作家生活に一段階を劃した最も重要な作品。初めて連帯感の倫理が確立され、「不条理」との不断の戦いという、彼の思想の肯定的な面が力強く打ち出された
文学者の使命を、なにものにも屈せぬ「自由の証人」たることにありとし、たとい無秩序を容認する結果となろうとも、正義のために常に叫び続けようとする彼にとって、これはまことに理想的な戦いだった


Wikipedia
アルベール・カミュAlbert Camus、フランス語[albɛʁ kamy]1913117 - 196014)は、フランス小説家劇作家フランス領アルジェリア出身。アルジェ大学卒業後ジャーナリストとして活動、第二次大戦中に刊行された小説『異邦人』、エッセイ『シーシュポスの神話』などで注目される。また『カリギュラ』『誤解』などを上演し劇作家としても活動。戦後に発表した小説『ペスト』はベストセラーとなったが、エッセイ『反抗的人間』はその思想をめぐって毀誉褒貶を受けた。1957年、史上二番目の若さでノーベル文学賞受賞。1960年、交通事故により急死。
カミュの著作は「不条理」という概念によって特徴付けられている。カミュの言う不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことであり、そのような不条理な運命を目をそむけず見つめ続ける態度が「反抗」と呼ばれる。そして人間性を脅かすものに対する反抗の態度が人々の間で連帯を生むとされる。しかしプロレタリア革命を含め、あらゆる政治的暴力を忌避しようとするカミュの姿勢は盟友サルトルとの間で論争(カミュ=サルトル論争)を引き起こし、戦後文壇においてその立場を孤立させていく原因ともなった。
生涯 [編集]
形成期 [編集]
1913年、フランス領アルジェリアのモンドヴィ(現ドレアン英語版))近郊に生まれる。父リュシアン・オーギュスト・カミュはフランスから渡ってきた農場労働者であり、この地でスペイン系の大家族の娘であるカトリーヌ・サンテスと結婚、リュシアンとカミュの二人の息子をもうけている。しかしカミュが生まれた翌年、この父はマルヌ会戦で戦死しており、このためカミュはフランスとのつながりを実感するための生きた手がかりを失うことになった。以後母と二人の息子はアルジェ市内のベルクール地区にある母の実家に身を寄せた。この家には祖母のほかに叔父が一人同居していたが、聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいなかったという。カミュはこの家で、貧しくはあったが地中海の自然に恵まれた幼少期を過ごした。
1918年に公立小学校に入学。貧しいサンテス家ではもともと高等学校へ進学する希望はなかったが、この学校の教諭ルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜いて彼の家族を説得し、おかげで1924年に、奨学金を受けながらアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学することができた(カミュは彼から受けた恩を生涯忘れず、ノーベル賞記念講演の出版の際に「ルイ=ジェルマン先生へ」との献辞を添えている)。リセ時代のカミュはサッカーに打ち込み、ときにアルバイトなどしながらも優秀な成績を取っている。しかし1930年より結核の徴候が現れやがて喀血、病院を退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送った。この結核は以後生涯を通じてカミュの健康をおびやかすことになる。
またリセ時代にカミュはリセの教員ジャン・グルニエフランス語版)と出会っており、彼の著書『孤島』やアンドレ・ド・リショーフランス語版)の『苦悩』などに触発されながら文学への志望を固めていった。グルニエとは卒業後も書簡を通じて交流を保っており、カミュは彼の影響を受けて古代インド思想や仏教などの素養を形作った。
1932年、バカロレアに合格しアルジェ大学文学部に入学、在学中の1934年、カミュは眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚するが、これをきっかけに結婚に反対していた叔父と疎遠になり、カミュはアルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けた。しかし奇矯で派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚にいたることになる。カミュはまた1935年に、グルニエの勧めもあって共産党に入党している。カミュは共産主義の思想自体にはそれほど共感を寄せていなかったが(マルクスもエンゲルスもほとんど読んでいなかった)、党の文化活動の一環として劇団「労働座」の創設に関わり、アンドレ・マルローの『侮蔑の時代』を翻案し舞台にあげるなどした。しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けている。
ジャーナリズムと創作 [編集]
19365月、学位論文「キリスト教形而上学とネオプラトニズム」を提出しアルジェ大学を卒業。19375月には処女作となるエッセイ集『裏と表』を出版するが、生活の安定のため12月からアルジェ大学付属の気象学・地球物理学研究所でデータ整理の職に就く。1938年、パスカル・ピアに誘われ人民戦線寄りの新新聞『アルジェ・レピュブリカン』(のち夕刊紙『ソワール・レピュブリカン』となる)の記者となり、冤罪事件や植民地経営の不正を暴く記事を書いた。平行して『異邦人』の原型となった小説『幸福な死』を書き上げるが、これは完成度に不満があったため出版を見合わせている。
1939年、第二次世界大戦の開始にともない徴兵を志願するも、健康上の理由で拒否される。戦争開始前後より、カミュは『ソワール・レピュブリカン』紙上で、当局の厳しい検閲を受けながらで平和主義を唱え続けており、このために1940年ついに同紙は発行停止処分となった。同紙から責任を問われ解雇されたカミュは、しかしまたもパスカル・ピアの助力で『パリ・ソワール』紙の編集部に雇われ、ここで印刷関係の仕事をしつつ、その傍らで不条理をテーマにした三部作『異邦人』『シーシュポスの神話』『カリギュラ』を書き進めていった。
1940年、ナチスドイツによりパリが占領されると、『パリ・ソワール』紙編集部の移動に伴って自由地区のクレルモン・フェラン、ついでリヨンへと移り、占領体性下の194012月に同地にてオラン出身の女性フランシーヌ・フォールとの婚姻届を提出した。しかし物資の不足と読者の減少から『パリ・ソワール』紙でも人員整理が進み、失業したカミュは妻の実家のある北アフリカのオランに一時身を寄せた。この地で前述の三部作を完成、さらに『ペスト』の執筆に着手するが、1942年に喀血し、療養のため夫妻でフランス自由地区シャンボン・シュール・リヨン付近の小村ル・パヌリエに移る。そして6月に小説『異邦人』、12月にエッセイ『シーシュポスの神話』を刊行した。1943年からは非合法誌『コンバ(戦闘)』の発行に関わり、また占領下のパリでサルトルボーヴォワールらとも知り合い親交を深めている。
19448月のパリ解放後は、それまで地下発行であった『コンバ』を公刊し同紙の編集長となった。なお同紙でカミュは対独協力派(コラボ)に対しては厳しい姿勢を取り、極刑もやむなしという意見を示して寛容派のフランソワ・モーリヤックと対立したが、後に自説を修正し死刑には反対するようになる。終戦前後にはまた『カリギュラ』『誤解』が上演され、1946年にはアメリカのコロンビア大学に招かれて講演を行い、現代に蔓延する物質崇拝に警鐘を鳴らした。同年、ガリマール社の企画審査委員会のポストにつき、ここで無名の思想家だったシモーヌ・ヴェイユを発見し彼女の叢書を企画、彼女の「永久反抗論」に影響を受ける。
1947年、極限状態での市民の連帯を描いた小説『ペスト』を刊行、復興期のフランス社会で幅広い読者を得てその文名を高めた。しかし1952年に刊行されたエッセイ『反抗的人間』は毀誉褒貶を受け、特にサルトルはいっさいの政治的暴力を斥けるその「反抗」の論理を、革命へと踏み出さない曖昧な態度だとして徹底的に批判した。(カミュ=サルトル論争)さらにカミュは故郷で起こったアルジェリア戦争に対しても、フランスとアラブの共同体という考えを捨てきれずに曖昧な態度を取って批判を受け、これらによってフランスでのカミュの立場はしだいに孤立を深めていった。
ノーベル賞とその死 [編集]
1956年、現代人の二重性と罪の意識をテーマにした中編『転落』を発表、翌年6篇からなる短編集『追放と王国』を発表した。同年、彼の「この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して」ノーベル文学賞が贈られた。当時カミュは43歳であり、これは戦後では最年少の受賞である(史上最年少はキプリング)。
受賞後、カミュはプロヴァンス地方の田園地帯ルールマランに家を構え、しばしばパリとの間を往復する生活を送っていた。1960年、友人ミシェル・ガリマール(ガストン・ガリマールの甥)が運転する自動車(ファセル・ヴェガ)でパリに向かう途中、ヨンヌ県ヴィルブルヴァンにおいてタイヤがパンクし、立ち木に衝突し事故死した(カミュは即死、ガリマールも手術中に死亡。同乗していたガリマールの妻子は怪我だけで済んだ)。未完の自伝的小説『最初の人間』が遺稿として残された。
思想 [編集]
カミュはその思想的な近さから実存主義者に数えられることがしばしばあるが、カミュ自身は実存主義との関係をはっきり否定していた。『シーシュポスの神話』の中でもキルケゴールシェストフヤスパースら実存主義哲学者の名を挙げ、その思想が不条理から発していながら最終的に不条理の世界から飛躍し、理性の否定へと向かってしまう「哲学上の自殺」だとして批判している。
カミュによれば、「不条理absurde)」という感情は単にあるものの感覚や印象の検討から生じるものではなく、馬鹿げた計画と明白な現実との比較、理に合わない結果と当然予想される結果との比較というように、「事実としてのある状態と、ある種の現実との比較から、ある行動とそれを超える世界との比較から噴出してくる」ものであり、したがってそれは人間のなかにあるものでも世界にあるものでもなく「両者の共存のなかにあるもの」「両者を結ぶ唯一のきずな」である。そしてカミュは自殺を不条理な運命を見つめない態度として退け、逆に不条理を明晰な意識のもとで見つめ続ける態度を「反抗」と言い表し、それが生を価値あるものにするものだとして称揚している。
『反抗的人間』でカミュはこの「反抗」に対する考察をさらに深めていく。「反抗」とは、例えば長く虐げられてきた奴隷が突然主人に対して「否(ノン)」を突きつける態度である。このときこの「否」には、「これ以上は許すことができない」という境界線の存在が含意されている。つまり境界線の外側のもの「否」として退け、内にあるものを「諾(ウイ)」として守ろうとすることであり、言い換えれば自分の中にある価値に対する意識である。そして不条理の体験が個人的な苦悩に終わるのに対して、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる反抗は超個人的なものであり、そこから連帯が生まれる。また『反抗的人間』ではかなりのページを割いて革命を中心とした歴史の記述に当てられており、そこでは「無垢への郷愁」であるところの反抗から起こったあらゆる革命が必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌していく様子が考察される。
しかし革命に必要な政治的暴力さえ批判するカミュのこのような態度は、上述のように(コミュニストでもある)サルトルとの間の論争を呼び起こすことになった(カミュ=サルトル論争)。論争の直接のきっかけはフランシス・ジャンソンがサルトルの雑誌『レ・タン・モデルヌ(近代)』に『反抗的人間』に対する批判的書評を載せたことで、これに対してカミュがサルトル宛に反論、さらにジャンソンとサルトルが反論するという形で起こったが、ここでサルトルはカミュの思想を曖昧な態度と見なし、彼がモラリスムに陥り「美徳の暴力をふるっている」として徹底的に批判している。この論争ではカミュの文章が文学的な曖昧さを持つこともあり、論理の明晰さにおいてサルトルのほうが優勢なのは明らかだが、カミュの思想もまた革命や党派性の限界を示すものとして今日的意義を失っていない。
作品リスト [編集]
小説 [編集]
·         1942年 『異邦人
·         1947年 『ペスト
·         1956年 『転落
·         1957年 『追放と王国』(短編集)
·         1971年 『幸福な死 - 『異邦人』の初期草稿で、1936年から1938年にかけて執筆された。大筋は完成していたが放棄され、カミュの死後に刊行された。
·         1994年 『最初の人間 - 1950年代半ばに構想し、1959年から執筆を開始したが、翌1960年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作
戯曲 [編集]
·         1936年 『アストゥリアスの反乱』 - 3人の友人との合作
·         1944年 『カリギュラ
·         1944年 『誤解
·         1948年 『戒厳令』
·         1949年 『正義の人びと
·         1953年 『十字架への献身』 - スペインの作家ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの神秘劇の翻訳
·         1953年 『精霊たち』 - 16世紀の劇作家ピエール・ドゥ・ラリヴェイ作のコメディア・デラルテの翻案
·         1955年 『ある臨床例』ディーノ・ブッツァーティ作の小説の翻案
·         1956年 『尼僧への鎮魂歌』ウィリアム・フォークナー作の小説の翻案
·         1957年 『オルメドの騎士』 - 16-17世紀スペインの劇作家ローペ・デ・ベーガ作の戯曲の翻訳
·         1959年 『悪霊』ドストエフスキーの小説の翻案
エッセイ、評論など [編集]
·         1936年 『キリスト教形而上学とネオプラトニズム』 - 学位論文
·         1937年 『裏と表』
·         1939年 『結婚』
·         1942年 『シーシュポスの神話
·         1943 - 1944年 『ドイツ人の友への手紙』
·         1951年 『反抗的人間
·         1954年 『夏』
·         1957年 『ギロチン』


『ペスト』(フランス語:La Peste)は、アルベール・カミュが書いたフランス小説。出版は1947ペストに襲われたアルジェリアオラン市を舞台に、苦境の中、団結する民衆たちを描き、無慈悲な運命と人間との関係性が問題提起される。医者、市民、よそ者、逃亡者と、登場人物たちはさまざまだが、全員が民衆を襲うペストの脅威に、助けあいながら立ち向かう。
よく言われるのは、この作品は第二次世界大戦時のナチズムに対するフランス・レジスタンス運動メタファーではないかということだ。さらに、実存主義文学の古典とも言われるが、カミュはこのレッテルを嫌っていた。語り口は、個々のセンテンスが複数の意味を内包し、その一つが現象的な意識および人間の条件の寓意である点で、カフカの小説、とくに『審判』に通じるものがあると言われている。
カミュのアプローチは非情で、語り手である主人公は、自分たちは結局何もコントロールできない、人生の不条理は避けられないという考えを力説する。カミュは不条理に対する人々のさまざまな反応を例示し、いかに世界が不条理に満ちているかを表している。

登場人物 [編集]

·         語り手:その正体は最後になって明かされる。
·         ベルナール・リウー:医師。
·         ジャン・タルー:よそ者、手帳はこの作品のもうひとつの物語手。
·         ジョセフ・グラン:作家志望の下級役人。
·         コタール:絶望に駆られた男、犯罪者。
·         カステル:医師。
·         リシャール:市内で最も有力な医師の一人。
·         パヌルー:博学かつ戦闘的なイエズス会の神父。
·         オトン氏:予審判事、「ふくろう男」。
·         レイモン・ランベール:新聞記者。
·         喘息病みの爺さん:リウーの患者

あらすじ [編集]

はじまりは、リウーが階段でつまづいた一匹の死んだ鼠だった。やがて、死者が出はじめ、リウーは死因がペストであることに気付く。新聞やラジオがそれを報じ、町はパニックになる。最初は楽観的だった市当局も、死者の数は増える一方で、その対応に追われるようになる。
やがて町は外部と完全に遮断される。脱出不可能の状況で、市民の精神状態も困憊してゆく。
ランベールが妻の待つパリに脱出したいと言うので、コタールが密輸業者を紹介する。コタールは逃亡者で町を出る気はなかった。パヌルー神父は、ペストの発生は人々の罪のせいで悔い改めよと説教する。一方、リウー、タルー、グランは必死に患者の治療を続ける。タルーは志願の保険隊を組織する。
ランベールは脱出計画をリウー、タルーに打ち明けるが、彼らは町を離れる気はない。やらねばならない仕事が残っているからだ。ランベールは、リウーの妻も町の外にいて、しかも病気療養中だということを聞かされる。ランベールは考えを改め、リウーたちに手伝いを申し出る。
少年が苦しみながら死んだ。それも罪のせいだと言うパヌルーに、リウーは抗議する。確かに罪なき者はこの世にはいないのかも知れない。パヌルーもまたペストで死んでしまうのだから。
災厄は突然潮が退いたように終息する。人々は元の生活に戻ってゆく。ランベールは妻と再会でき、コタールは警察に逮捕される。流行は過ぎたはずなのに、タルーは病気で死んでしまう。そして、リウーは療養中の妻が死んだことを知らされる。

他の作品への言及 [編集]

·         最初のパートで、リウーは、浜辺で射殺された男の話を耳にする。おそらくカミュの『異邦人』で主人公が射殺したアラブ人のことであろう。
·         初めの方で、コタールがカフカの『審判』について言及する。

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