ピアフのためにシャンソンを  Astrid Freyeisen  2013.2.24.


2013.2.24.  ピアフのためにシャンソンを 作曲家グランツベルクの生涯
Chanson fuer Edith: Das Leben des Norbert Glanzberg           2004

著者 Astrid Freyeisen 1969年ヴュルツブルク生まれ。同市の大学で歴史と中国研究を学び、中国の杭州大学に留学。98年『上海と第三帝国の政策』で博士号。97年からバイエルン放送局女性レポーター。97年ヴュルツブルクで「フランスへ亡命したドイツ人」展で、同市出身の音楽家グランツベルクのことを知り、同氏をパリに尋ね、インタビューを繰り返して本書を書く。大半が主人公の回想に基づく伝記。完成を待たずに本人は死去

訳者 藤川芳朗 1944年愛知県生まれ。都立大大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。現在、横浜市立大名誉教授

発行日           2012.12.10. 初版発行
発行所           中央公論新社

1.   ママ、この音楽、どうして笑っているの? この音楽は泣いているよ、どうして?
――ヴュルツブルクの子ども時代
ノルベルト・グランツベルク(19102001)は、ガリツィア出身のユダヤ人家庭でウクライナで誕生(当時オーストリア=ハンガリー帝国領)。父親はペンキ職人。西欧の優雅な社会に憧れて家族で西に移動、落ち着いたところがヴュルツブルク。父親はワインのセールスマンに
グランツベルクは、幼少から音楽の才能を発揮、最初の楽器は東欧から来たユダヤ人の金持ちオイストラフ夫人(後にオイストラフの演奏を聴きに行った時にデイヴィッドの叔母と名乗られて驚愕)から贈られたハーモニカ。27年実業高校から音楽学校に進路を変え、校長に才能を見出され、ヴュルツブルク市立劇場に売り込みに出かけ、コレペティートル兼指揮者見習いとして契約。28-29年のシーズンには猛威を振るったインフルエンザのお蔭で早々に指揮台に立つが、不況で歌劇場が閉鎖されたため、アーヘンの仕事を紹介してもらい、舞踏の伴奏をする
2.   ハンス・アルバースはとっても親切にしてくれたよ――ベルリン〈アドミラルパラスト〉で若い指揮者として
30年ダンスのオーディションの伴奏ピアニストとしてガールフレンドについてベルリンに出るが、そのオーディションの席で、ピアノの演奏から指揮者としての才能を認められて作曲家から声を掛けられ、瞬く間にベルリンの生活の中に溶け込む
3.   《私をつかまえて、さあ、早く!》――〈コメディアン・ハルモニスツ〉のための映画音楽とビリー・ワイルダー
次いで、ウーファ社の映画の伴奏音楽指揮の仕事が来る。最初にやったのが4歳上のビリー・ワイルダーが台本を書いた喜劇。フランス経由アメリカに亡命する前で、映画界に居場所を見つけるまではベルリンで波乱に富んだ生活を送っていた(エデンという名のホテルで、寂しいご婦人相手にダンスを踊る「ジゴロ」)
映画『偽りの夫』用に作曲した主題歌《私をつかまえて》が爆発的なヒット、1作にして既にウーファ社の最高のチームへと大抜擢
4.   「家に帰らないで! ゲシュタポが2人、待ち構えています」――フランスへの逃亡
32NSDPA(ナチの政党)が出した映画新聞に、ユダヤ人に対する病的としか言えない性的な中傷と告発の真っただ中に自分の名前を見出し、愕然とする
33.2. 国会議事堂が焼け落ちた後、ゲシュタポに追われてパリに逃げる、ビリー・ワイルダーもこの時逃げ、さらにアメリカへの逃亡に誘われたが、金が無くなったグランツベルクは、故郷のヴュルツブルクに戻るが、鉤十字の氾濫に恐れをなしてまたパリに戻る
パリでは、労働許可書がなく、危険で汚らしく悲惨な一角でいかがわしい踊り子や娼婦のけち臭いヒモ達と交わる日が続く。そこでもダンス音楽の伴奏から始まり、小さなオーケストラと共演、若干の作曲を買い取ってもらった
後にハリウッドで世界的なスターになったリリー・パルマ―が、妹と一緒にベルリンから亡命してきて歌っていた
場末の小さな楽団の固定メンバーとしてピアノを弾いていた時に現れたのが、小柄で丸背で、発声練習さえしたことのないような弱々しくか細い声で歌ったのがラ・モム・ピアフ。歌い終わるとブリキの皿をもって客席を回り、僅かばかりのチップを集めた
最初の頃こそ、フランス音楽を異質で誤っていると見做して、自ら心の中に築いていた壁が、場末で演奏しているうちに漸く消えて、既に耳の奥であるメロディーが響くようになっていた。そんなモチーフの1つを発展させたのが《パダム…パダム》
5.   2曲が大ヒットしたんだよ。でも印税は入らず仕舞さ――ナチがパリまで追いかけてきて
ようやく生活に余裕が出来た頃、オランダに演奏のアルバイトに行った際、フランスでリュシエンヌ・ボワイエと並んで最も売れっ子のシャンソン歌手だったリス・ゴーティに出会い、彼女の成功した作品を即興的にメドレーで演奏したのが彼女の耳にとまり、パリで作品を聴きたいとの申し出を受ける ⇒ パリで彼女に聴かせたメロディーの中から《知らぬ間に》が誕生。後のピアフも含め他の歌手が挙ってレパートリーに加えるヒットとなる
ゴーティはそのころ初めて主演映画出演の要請を受けていて、その重要な処女作ための音楽をグランツベルクに依頼、37年夏にはすでに楽譜を渡している。映画は38年秋封切りの『酒場の女歌手』で大成功、グランツベルクの作曲した主題歌《心に愛を》と《あなたは私のすべて!》も大ヒットするが、印税が入るのはいつもだいぶ経ってから。ドイツ軍はユダヤ人の著作権はすべて没収するし、フランス音楽著作権協会も亡命者や外国人やユダヤ人を何年も前から無視していた
6.   「私の素敵なノノ! あなたのフィフィより」――エディット・ピアフと過ごした時
ヒトラーがヨーロッパへの攻撃を開始した直後、グランツベルクはフランスの役所が発行した旅券を渡される。出生地が当時のポーランドだったということでシコルスキ将軍の亡命ポーランド軍に召集され、マルセイユに向かう途中でドイツ軍の空爆を受けてチリジリとなり、マルセイユの難民センターで軍から解放される
マルセイユで、パリから避難してきたスターたちと交流を深めるが、ある日ゴーティに代わるまでに売れっ子になっていたピアフが現れ、前年に親独政権がユダヤ人を差別する法律の作成に取り掛かっているのを知りながら、ピアフが41.10.1か月間の公演のためのピアニストとしてグランツベルクと契約、南仏を演奏して回る
1m49で美人でもないピアフに女性としての魅力を感じなかったが、ピアフの方から愛を打ち明けられる(取り巻きの1人として拘束しておきたかっただけかもしれない)
1920年にアメリカに渡って成功していた叔父がグランツベルクの家族をアメリカに呼び寄せ、ノルベルトについてほとんど不可能とされていたビザが41.10.マルセイユのアメリカ領事館から下りるという通知がノルベルトに届けられたが、ピアフがその書類を横取りして隠した(死の危険が無くなった後にピアフが告白)
7.   《パダム・…パダム》――盗まれる寸前だった世界的なヒット曲
ピアフの周りにはいろいろな有名人がやってきたが、その1人に若き日のシャンソン歌手シャルル・トレネがいた。グランツベルクがピアノを弾き、メロディーを喉の奥で口ずさんでいると、トレネはすぐにそれを紙に写した。数か月後ニースの目抜き通りをピアフと連れ立って歩いていると、パリの有名な音楽出版社の男からトレネの飛び切りの新曲を吊り上げたところだと言われ、ピンと来た2人が追及したところ、まさしくグランツベルクが爪弾いていた曲で、急遽出版社に出版を思い止まらせる ⇒ 1951年ピアフの身に連続して恐ろしいことが起こる、自動車事故、麻薬、アルコールにまつわる事故。その時ピアフがこのメロディーを口ずさみ、作詞家に依頼して作られたのが心臓の鼓動を模した《パダム…パダム》 グランツベルクはその詩がいいとは思わず、自分の音楽にも合っているとは思えなかったが、ピアフが歌うとその年の最大のみならず永遠のヒット曲となり、20世紀におけるシャンソン界の伝説となる
66年ド・ゴールが初めて訪ソした際、クレムリンに入った時に迎えた音楽がピアフの歌う《パダム・…パダム》だったが、それを新聞で知ったグランツベルクはさぞビックリ仰天しただろうが、いつもは新聞に自分の記事が出ると鉛筆で線を引くのにこの時はそれをしていない。だが、大きな見出しが長いこと彼を満足感で一杯にしたことは疑いない。彼はド・ゴールを命の恩人として尊敬していた
8.   今はピエール・ミネがぼくの名前――偽名でティノ・ロッシと演奏旅行に
41年 ユダヤ人として勾留されるリスクを負いながら、ピアフのマネージャーを通して、もう1人のスターだったティノ・ロッシのピアニストも引き受ける。34年に彗星のごとく現れ、たちまち50万枚のレコード売り上げを記録したロッシについて、演奏旅行に回る
自由フランス内でも、ドイツと同様ユダヤ人を最下等とする特別法が制定され名前が抹消されたため、グランツベルクもいくつかの偽名のパスポートを手に入れたが、かなり後まで実名を名乗っていた形跡もある。演奏中も突然ドイツ軍兵士が乗り込んできて身分証明書の検査をしたり、街中でもゲシュタポの目が光っていたりするので油断はならなかったが、レジスタンスのように匿ってくれる人たちもいた
9.   ストップ・ウォッチ片手に鍛えたよ、手入れに備えてね――エディット・ピアフの口利きで伯爵夫人の城に匿われる
伯爵夫人は、アメリカ救済センターの後援者として、パブロ・カザルス、アンドレ・ジッド、アンリ・マティスらと共に活動、自らの城をアメリカ領事館に貸して賃貸料を亡命者のために役立てることにした ⇒ クララ・ハスキルも難を逃れて滞在、重い脳腫瘍で手術を待っていた。ハスキルは後にスイスでチャップリンの隣人となる。吝嗇漢のチャップリンがハスキルのためにスタインウェイを自ら用立てたとか、チャップリンは「私が天才と思うのは3人だけ。アインシュタインとチャーチルとはスキルだ」と言ったとか。ともあれ、チャップリンはいずれグランツベルクの人生で自慢できない脇役を演じる
42.11.城はドイツ軍に接収されたが、匿われていたお客連中は疾うに立ち退いていた
10. 作曲したのはぼく、でも売れっ子になったのは別人――生き延びるために、はした金で作品を売る
ピアフのほかにもグランツベルクの逃亡生活を助けてくれた人がいた ⇒ 戦後パリ・オペラ座の音楽監督になったジョルジュ・オーリックで、アンティーブの別荘を持っていて、隣がかつてモナコを支配していた一族の居城でピカソが一時アトリエにしていたところから60年代以降ピカソ美術館となった建物、隠れ家となる
足元を見られて、格安に曲を売ったこともある
11. 大型高級乗用車と白手袋をしたオートバイの男たち――強制移送を前に、信じ難い救い主の登場
43.5.ニースで、実名でホテルに投宿、密告者によって監獄行きとなり、ピアフが旅券偽造の罰金を肩代わりしたが、そのまま留め置かれるどころか、強制収容所行きになり兼ねなかったところ、看守がコルシカ出身だと聞いて、ティノ・ロッシの友人だと打ち明けた途端看守の態度が変わる。コルシカ人にとってロッシはナポレオンの次に島の英雄だった。看守はグランツベルクの言葉を頼りに早速ロッシの所に行ってサインをもらい、ロッシにグランツベルクの状況を伝え、ロッシがコメディ・フランセーズの大スターマリー・ベルに頼んで彼女に惚れこんでいた県知事を動かし監獄に知事の公用車が密かに迎えに行き看守の手引きで脱走に成功
12. まるで備え付けの家具になったみたいだった――楽園のような地中海沿いの隠れ家
アンティーブでレジスタンスに匿われた後、トゥールーズに移る
13. ではこの人が9番目のご家族なのね!――解放
終戦が迫り、ドイツ軍に協力した人たちの粛清が始まる ⇒ モーリス・シュヴァリエも、ドイツ軍司令官と握手している写真が問題とされたが、親交のあったグランツベルクがレジスタンスの知識人たちに紹介したことに加え、拘束後は証言台にも立って彼の命を救う
ところが、シュヴァリエは、解放後にグランツベルクとその友人たちを招いたディナーで、医者が処方してくれた薬だと言い訳しながら自分だけ上等の赤ワインを飲み、助けてくれた友人たちに対して恩知らずな真似をした。大金持ちにもかかわらずとんでもないけちん坊だった
往年の大女優ミスタンゲットについても、昔グランツベルクが匿われていたことを証言して、彼女の無罪を確定させた
占領下のパリで公演したことを咎められ、アーティストの浄化の対象とされたロッシの場合は、グランツベルクが有利な証言をしたにもかかわらず3か月勾留されたが、出獄後は直ぐに舞台に立つ
44.10.パリに向かう。パリを退去する前に滞在していたホテルを探し当て、預けていた思い出の詰まった2つのトランクを取り戻そうとした。ホテルはなくなっていたが、当時住んでいた住人が覚えてくれていて、トランクも1つだけだが戻った
14. そのバーにはフレンチ・コネクションの半分が顔をそろえていた――パリの芸術家カフェと世界の半分を巡る演奏旅行
パリに腰を落ち着けると、グランツベルクの道は一挙に開け、躍進に次ぐ躍進を遂げた
エディット・ピアフがその成功を妬んだほどの歌手ルネ・ルバとも共演、レコード吹込みの指揮者を務める
46.11.ロッシの伴奏者を引き受け初めて自由な人間として13年来初めて国境を越える。破戒された故郷ドイツの荒廃を目の当たりにして引き裂かれる思いをしながら、デンマークからスウェーデンに向かい、そこに逃れていたヴュルツブルク時代の友人に劇的な再会を果たした後アメリカ東海岸からアルゼンチンへと演奏旅行を続ける
ニューヨークでは家族とも再会、家族はグランツベルクがどこで何をしていたのか全く知らなかった
今や名を挙げたグランツベルクではあったが、そのチャーミングさ、才気、相手が嫌とは言えない厚かましさのために、有名でもあれば悪評にも事欠かなかった。例えば、有名な歌手の多くがどんなに音痴だったか、彼は繰り返し笑いものにした。ロッシも例外ではなかったが、アルゼンチンに向かう船が時化で遭難しかかった時、船長の機転でロッシに歌わせた時だけは一度として音を外すことはなかった
48.4.ルネ・ルバの海外公演に参加。エジプトに向かう時初めて飛行機に乗り、青ざめてルバにからかわれ、すぐにこれからの旅は飛行機に限ると強がりを言ったが、その後も飛行機には乗ろうとしなかった
15. 《私の回転木馬》――イヴ・モンタンに断られ、ピアフに買われ
無国籍のまま、フランスに居住中という証明書の交付を受ける
50年シャルル・トレネとロンドン公演するが、伴奏者の方が脚光を浴びてしまい、仲違い
54年と57年に急逝の抑鬱状態となり、完全隔離で安静療法をする ⇒ ドイツ軍の占領による窮乏、虐待、精神的物質的な損傷が原因
ただ、音楽は何が何でもドイツだった
イヴ・モンタンの最初の伴奏者でピアフに頼まれて最初の曲を作曲したのはグランツベルク。戦時中だったが、マルセイユの造船所で働いていたところをピアフに見出される。50年代に彗星のごとく売れっ子となったが、グランツベルクはピアフが楽譜は読めなかったが稀有な音感の持ち主だったのに比べて、モンタンは音感がダメと厳しい評価を下している。ピアフによる評価も同じで、小節の真ん中で音を間違えても自分で気づかなかった
56年映画音楽で成功 ⇒ 当時最高の監督だったジャック・タチの作品『ぼくの伯父さん』の音楽を担当。ブリジット・バルドー主演。のちに《私の回転木馬》として有名になる曲を書いてタチに主題歌として採用されたが、ピアフが聴いて忽ち欲しがり、タチに違約金を払って取り戻し、ピアフの不滅の1曲となる。たまたまモンタンのために書いたルンバの曲と取り違えて《回転木馬》を聴かされたモンタンはクズだと取り合わなかったが、後に自分でも歌っている
93年には同じ曲がフランスで最も知れたポップス歌手エチエンヌ・ダオによって採りあげられ、シンセサイザーを使った軽快でポップス調のヴァージョンとなりヒット、ダオも自分の最も成功したアルバムに収録したが、グランツベルクは「クズだ」と悪態をついた
16. チャップリンのギャラでは写譜の謝金も払えない――1950年代のすぐれた映画のための音楽
後年のグランツベルクは、自分が作曲を担当した映画について、滅多に好意的な評価を下すことはなかった。大半がテクニックだけの監督だったと酷評。50年代に30編以上の映画で音楽を担当。バルドー主演の映画の主題歌《美しすぎる花嫁》は4年後の60年にティノ・ロッシが歌う《クリスマス、それは愛》と変わり、フランスのクリスマス音楽のクラシックとなった。そのクリスマス直前ほとんど諦めていた息子セルジュ誕生、溺愛したが、息子は音楽に全く興味を持たず、夫婦喧嘩の時も立場の弱い母親に味方だった
映画音楽の作曲家として随分人気があったが、彼の採用を危惧する声も大きかった ⇒ 余りにも完璧主義だったために、立て込んでいる録音スタジオの時間を超えたり、当時の技術ではあとから修正がきかずライヴでやらなければならないために最初からやり直したり、一切妥協を許さなかったので、最高のチャンスを逃した
57年 音楽出版社から、名前を伏せてある高名な人の名で作曲してくれと頼まれ、引き受けると依頼人はチャップリンだった。ソフィア・ローレンの主演映画。自らも作曲家として傑出していることを示そうとしていたチャップリンがどうして依頼してきたのか不審に思ったが応諾。ローザンヌの自宅に行って作曲することになったが、傍らでチャップリンが映画をコマ送りしながら作曲をせかす。挙句の果てに提示してきた金額は、写譜の謝礼金にもならない額で、文句を言うと、「チャップリンに代わって作曲するって、名誉なことでしょう!」と言われ、足元を見られて自分の曲をロッシに叩き売った痛みを思い出し断った ⇒ 貧しいロシア人のコントラバス奏者を見つけて仕事をさせ、映画は古典的作品となる。チャップリンの映画なら出来が悪くても古典的作品だ(67年作品『伯爵夫人』?)
17.    残念にもロックンロール・ガールズたちの世になって――作曲家から映画館主に転身
グランツベルクは、自分を二重の犠牲者だと感じていた ⇒ 最初はナチのせいで人生最高の時期を奪われ、後には時代の波が彼を含む古い流儀の作曲家を無用にし押し流した。そのあとロックンロール・ガールズが来て誰も音楽なんか聴こうとしなくなった
《回転木馬》で最大の成功を祝っていた頃、アメリカで奇矯な青年が頭にポマードを塗りたくり腰を振って歌ったのがフランスの若者にも映り、ただ怒鳴って飛び跳ねていた
60年代に入るとイングランドからも同じ音がし出した
61年 ロックに対抗して新しいヒット曲を作ろうとして親友のフランク・プゥルセルに聴かせたところ、フランクが買い取りたいと言い出し、妻子のための新しいアパートの費用が必要だったグランツベルクは応諾。フランクは、自分のオーケストラで演奏しながらアメリカのオーケストラによるアメリカ生まれの曲だとして《シャリオ》と名付け、当時売れ出していたペトゥラ・クラークに歌わせ、その後も様々な歌手が様々な編曲で歌い世界的なヒットに繋げる。ハリウッドのヒット映画『天使にラブソングを…』では、《アイ・ウィル・フォロー・ヒム》を手拍子で声高らかに歌っている。グランツベルクは自分が全く置いてきぼりにされたことにどれほどの敗北感を覚えたことだろう
作曲者はデル・ローマとストールとなっているが、これはポール・モーリアとフランク・プールセルの変名で作者がアメリカ人などの外国人に思わせたかったそうです。『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』のタイトルでアメリカのリトル・ペギー・マーチが英語で歌い全米NO.1ヒットとなり、さらにイタリアでは『アル・ディ・ラ』のヒットで知られるベティ・クルティスがイタリア語で歌いこちらもNo.1ヒットとなる。これほどそれぞれの国で違うアーティストで違う言語でNo.1ヒットとなるのもたいへん珍しい
63年ピアフ肝臓病で逝去 ⇒ 60年ニューヨークのウォルドルフ・アストリアで出演中に倒れ手術を受けたが、酒と薬に溺れた挙句の緩慢な自殺
安定した仕事をしたくなったグランツベルクは、友人夫妻とカルティエ・ラタンに映画館を買い取り経営する ⇒ ある日ヒッチコックがチケットを買う列に並んでいるのを見て、直に入口に案内した

18.    《イディッシュ組曲》――根っこへの回帰
グランツベルクはどこにも帰属意識の持てない人間だった
自らの人生に最大の称讃をもたらしたシャンソンですら、彼は価値が低いものと見做していて、いつも別な何かを求めるということを遂にやめなかった
ドイツの崇高で偉大な音楽を彼なりのやり方で追い求めることをやめなかったが、50年テアトル・ド・パリで《チャールダーシュ公爵夫人》を指揮したものの、たった1回の客演で、それ以外指揮者としての地歩を固めようとしたことはない
76年離婚。息子は両親の間を行ったり来たりしていたが、父親の嫌っていたロックにはまる
80年代に有名なアンソロジー『死はドイツ生まれのマイスター』を読んで感激し、久しぶりに曲をつけ、数年後にブレヒトの作品を歌わせれば最高といわれた東ドイツ出身の歌手ギーゼラ・マイと知り合って、91年彼女に歌ってもらう
両親が生まれ育ったガリツィアのユダヤ人の音楽を思い出して、2台のピアノのための曲《イディッシュ組曲》を作曲。自らの代表作と位置付け。のちに友人によってオーケストラ・バージョンも編曲された

19.    ハンナ・シグラならうたえるかな――ヴュルツブルクで遅ればせながら名誉回復成る
94年にヴュルツブルクに帰って《イディッシュ組曲》とナチの犠牲者を採りあげた歌曲をハンナ・シグラが歌うコンサートを開く
ハンナ・シグラシレジア地方(現在はポーランド)出身の女優・シャンソン歌手。
ミュンヘンで演技を学び、1980年代にライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督作品に多く出演して世界的に知られるようになる。1990年代以降はシャンソン歌手としても活躍している。
1979年の『マリア・ブラウンの結婚』でベルリン国際映画祭女優賞を、1983年の『ピエラ・愛の遍歴』でカンヌ国際映画祭 女優賞を受賞している他、2009年には『そして、私たちは愛に帰る』で全米映画批評家協会賞助演女優賞を受賞している。
アンコールとして自分のヒット曲を弾いたが、聴衆は一人残らずすぐにメロディが分かったが、多くはこの時初めて作曲者が誰かを知った。《パダム》や《シャリオ》が始まると手拍子が現れ、すべての人々を感激させ、この晩だれもが直感的に、音楽が泣いたり笑ったりするとはどういうことかを悟った





ピアフのためにシャンソンを アストリート・フライアイゼン著 ユダヤ人作曲家の数奇な運命 
日本経済新聞朝刊 2013/2/3
フォームの始まり
フォームの終わり
 数奇な運命を辿(たど)ったユダヤ人作曲家を語り部とする、20世紀ヨーロッパ文化史についての貴重な証言。ドイツのヴュルツブルクで育ったノルベルト・グランツベルク(19102001)は、10代でリヒャルト・シュトラウスの演奏困難な新作オペラを暗譜し、アーヘン市立劇場でアルバン・ベルクの助手を務めるほど早熟だった。ベルリンではオペレッタの作曲家カールマンのもとで劇場指揮者となり、やがて映画音楽や流行歌の世界に生きる術を見出し、フランスへと移る。そこで出会った輝かしい人々の一人が、若き大歌手エディット・ピアフであった。ピアフはグランツベルクがユダヤ人であることを意に介さず、彼を愛し、楽団へと招き入れる――
(藤川芳朗訳、中央公論新社・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(藤川芳朗訳、中央公論新社・2800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ナチスからの追跡を何度も命からがら逃れ、ついに収容所に入れられるがピアフら多くの仲間によって救い出されるくだりは迫真的で、頁をめくる手がもどかしく感じられるほど。レジスタンスに身を投じたフランスの文化人たちの暮らし、そして対独協力者への過酷な裁判ぶりも赤裸々だ。やがて時代に取り残されたグランツベルクが、90歳を目前にした最晩年になって突如脚光を浴び、故郷に戻って演奏会を開くという結末は、まるで映画のよう。
 いかにしてヒット曲は生まれたのかという秘密が、ここでは明かされている。まず曲があり、その魅力を鋭く見抜く歌手がいてこそ、ヒット曲は不滅のものとなるのだ。良い曲こそが売れるのであって、歌手は作曲家あってのもの。それが、音楽がもっとも輝いていた時代の真理だったのだ。
 音楽家として本能的に生きようとすればするほど、それは国家とも戦争とも本質的に相容れなくなっていくというくだりも興味深い。戦争体験ゆえにグランツベルクがあらゆる「愛国」を警戒し、最終的に「無国籍」を選んだという生き方も、私たちに大きな問いを投げかけてくる。
 脇役も多彩。ロマの音楽家ジャンゴ・ラインハルト、喜劇王チャーリー・チャップリン、大指揮者エーリヒ・クライバーとその息子カルロスなど、思わぬところで登場する人々とのエピソードに、眩暈を覚える読者も多いに違いない。
(音楽評論家 林田直樹)


Wikipedia
エディット・ピアフÉdith Piaf, 191512月19 - 196310月11)は、フランスシャンソン歌手
フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴であった。彼女の音楽は傷心的な声を伴った痛切なバラードであり、その悲劇的な生涯を反映していたのが特徴であった。有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l'amour 1949年)、「ミロール Milord 1959年)、「水に流して Non, je ne regrette rien 1960年)などがある。

生涯 [編集]

生い立ち [編集]

数々の伝記が書かれているにもかかわらず、エディット・ピアフの生涯の多くの事実と出来事は謎に包まれている。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Édith Giovanna Gassion)としてパリの貧しい地区ベルヴィル(Belleville)に生まれた。 ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのテノン病院で誕生したというのが事実である。エディットという名はドイツ軍に処刑されたイギリス人看護婦イーディス・キャヴェル(Edith Cavell)にちなんでいる。(キャベルが処刑されたのはこの年の10月でパリでも大きな話題となっていたのだ)。(ちなみにパリジャンの俗語で雀を意味するピアフが彼女のニックネームになるのは20年後のことである)
母親のアンネッテ・ジョヴァンナ・メラール(Annetta Giovanna Maillard, 1898-1945)はイタリア系であり、出産当時17歳であった。彼女はリヴォルノの出身でリーヌ・マルサ(Line Marsa)の芸名のもとカフェのシンガーとして働いていた。エディットのミドルネーム「ジョヴァンナ」は母親からのものであった。父親のルイス=アルフォンス・ガション(Louis-Alphonse Gassion, 1881-1944)は、過去に劇場で演技をしたこともある大道芸人であった。両親は経済的に貧しく幼いエディットを養う経済的な余裕がなかったため、まもなく母方の祖母の元に短期間預けられた。しかし彼女はエディットを忌み嫌い育児そのものを拒否したため、ほどなく父親はエディットを、ノルマンディーで売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後彼は1916フランス軍に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。
3歳から7歳にかけて彼女は角膜炎で目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦がリジューのテレーズへ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。1929になるとエディットは大道芸をする父と行動を共にする。その後1930年には父に反発してグラン・オテル・ドゥ・クレルモン(Grand Hôtel de Clermont)に一室を取り、父と別れてパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになる(「Elle fréquentait la Rue Pigalle」を参照)。彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎でこの世を去った。

歌手活動:第二次大戦期まで [編集]

1935にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレー(Louis Leplée)によって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルイは彼女が極端な神経質だったにもかかわらず、店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルイは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの年に録音された。ほどなくルイは殺害され、ピアフはその共犯者であると告発されるが、無罪とされた。
1940にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifférent』を執筆する。ピアフはまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。
彼女の代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦ドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンス運動への貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。

歌手活動:第二次大戦後 [編集]

戦後、彼女は世界的な人気を得、ヨーロッパアメリカ合衆国南アメリカで公演旅行を行った。ピアフのアメリカでの人気は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどのものであった。1947年のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリッヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。フランス語を話せたディートリッヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。
彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イヴ・モンタンジルベール・ベコージョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出された歌手は多い。
ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーマルセル・セルダンとのものであるが、セルダンは1949に飛行機事故死している。
1951にピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。
ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952に結婚し、1956に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカスTheophanis Lamboukas,「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はマレーネ・ディートリッヒの介添えのもと1962に結婚した。夫であるサラポは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
パリの「オランピア劇場」はピアフが名声を得た場所であり、またピアフが病死する数ヶ月前に、衰弱してようやく立てるという体調でコンサートを開いた場所でもある。1963、ピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」を録音している。

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47歳になってまもなくの19631010日、ピアフはリヴィエラにより死去する。 死はその翌日に公表されたが、同日友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。彼女の公式の命日は死が公表された1011日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女のそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブールは第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。
パリ11のクレスパン・ドゥ・ガスト通り(Rue Crespin du Gast)5番地にエディット・ピアフ博物館がある。
今日、彼女はフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている。フランスではいまだに彼女のレコードが売れ続けている。彼女の生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして現れたものであった。

主な作品 [編集]

歌唱曲 [編集]

·         「アコーディオン弾き」- L'Accordéoniste (1939)
·         ばら色の人生 - La Vie en rose (1945)
ピアフの持ち歌の中でも最も有名な曲で、各国語で歌詞が付けられ、多数の歌手によって歌われている。
·        「谷間に三つの鐘が鳴る」- Les Trois Cloches (1945)
·        「街に歌が流れていた」- Un refrain courait la rue1946
·        「小さなマリー」- La p'tite Marie1950
·        愛の讃歌 - Hymne à l'amour (1950)
マルセル・セルダンに捧げられた情熱的な曲で、「ばら色の人生」と並んでピアフの代表作となっている。この歌はJean-Paul Civeyracの映画『Toutes ces belles promesses』の触発となった。
·         「青のシャンソン」- Chanson bleue1951
·         「パダム・パダム」 - Padam... Padam... (1951)
·         「あなたに首ったけ」- Je t'ai dans la peau1952
·         「かわいそうなジャン」- La goualante du pauvre Jean1954
·         パリの空の下 - Sous le ciel de Paris (1954)
·         「憐れみ」- Miséricorde1955
·         「いつかの二人」 - Les Amants d'un jour (1956)
·         群衆 - La Foule (1957)
·         私の回転木馬- Mon manège à moi1958
·         「エデンブルース」- Eden blues1958
·         「ミロール」 - Milord (1959)
·         水に流して- Non, Je ne regrette rien1960
·         「私の神様」- Mon Dieu1960
·         「恋は何のために」- A quoi ça serf l'amour1962)共唱テオサラポ
·         「愛する権利」- Le droit d'aimer1962
·         「ベルリンの男」- L'homme de Berlin1963

映画 [編集]

·         La garçonne (1936), Jean de Limur ラ・ガルソーヌ
·         Montmartre-sur-Seine (1941), Georges Lacombe モンマルトル・スル・セーヌ
·         Etoile sans lumière (1946), Marcel Blistène 「光なき星
·         Al diavolo la celebrità (1949), Mario Monicelli Steno アル・ディアボロ・ラ・セレブリタ
·         Paris chante toujours (1951), Pierre Montazel パリ・シャント・トゥジュール
·         Boum sur Paris (1953), Maurice de Canonge 「パリは踊る
·         Si Versailles m'était conté (1954), Sacha Guitry シ・ベルサーユ・メテ・コンテ
·         フレンチ・カンカン - French Cancan (1954) - キネマ旬報ベスト・テン 7

伝記映画 [編集]

·         Piaf: The Early Years (1974), Guy Casaril  愛の讃歌 エディット・ピアフの生涯
·         Edith et Marcel (1983), Claude Lelouch 「恋に生きた女ピアフ
·         La môme (2007), Olivier Dahan 「エディット・ピアフ~愛の讃歌~


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