戦後史の正体 1945-2012  孫崎享  2013.2.15.


2013.2.15. 戦後史の正体 1945-2012

著者  孫崎享 1943年生まれ。東大法中退。66年外務省入省。英国陸軍学校へ派遣、ソ連(5)、イラク(3)、イラン(3)、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、9902年駐イラン大使を経て0209年防衛大学校教授。『日本外交―現場からの証言』(2回山本七平賞)

発行日           2012.8.10. 第1版第1刷発行                 9.1. 第4刷発行
発行所           創元社 「戦後再発見」双書

「米国からの圧力」を軸に、日本の戦後史を読み解く
   日本の戦後史を動かす原動力は、米国に対する2つの外交路線 ⇒ 自主路線と追随路線
米国の対日政策は、世界戦略の変化によって変わる
日本の外交にとって、強い米国に対しどこまで自分の価値を貫けるかが最も重要なテーマ

序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか
イラン大使在任中、ハタミ大統領を日本に招聘、世界最大規模のアザデガン油田の開発権を獲得したが、米国の圧力によって放棄させられる
対米「自首」路線選択の政治家・官僚は排斥
米国から嫌われているというだけで重要なポストから外される
   米国からの圧力や裏工作は、現実に存在する
   米国の論法は、国家は自衛のために軍事力の嚆矢さえ許されているのだから、軍事力以下の形での干渉、違法行為を伴う裏工作についても、自衛のためなら当然に許されるというもので、ベトナム戦争の時のトンキン湾事件、第2次大戦後のイタリア反共勢力への資金提供、ケネディの反対で実行されなかったがキューバ危機の際のノースウッド作戦等、実例の枚挙にいとまがない
対日工作でも、5060年代にCIAが自民党や民社党の政治家に巨額の資金を提供
『昭和天皇・マッカーサー会見』(図書館08-11参照)の中で、天皇が「沖縄の軍事占領を無期限で継続して欲しい」と申し入れた事実を基に天皇の政治関与を克明に実証
   米国からの圧力とそれへの抵抗を軸に戦後史を見ると、大きな歴史の流れが見えてくる

第1章     「終戦」から占領へ
敗戦直後の10年は、吉田茂の「対米追随」路線と、重光葵の「自主」路線が激しく対立
   日本は降伏した。たんなる終戦ではない
   自分に都合の良い、しかしありえない分析をして、自分の望む政策を押し通そうとする、これが開戦時と終戦時に共通した日本の軍部の態度
世界の常識は、対日戦争の終了を45.9.2.降伏文書調印の日としているにもかかわらず、日本だけが815日を終戦としているのは、「降伏」という厳しい現実から目を背けさせるため
   92日降伏文書署名。文書を読んだことがあるか
   降伏文書によって、連合国最高司令官の要求に全て従うことを約束
マッカーサーの最初の意図は軍事占領 ⇒ 92日午後、日本政府に対し、軍管理の下、公用語を英語に、裁判権を米軍事裁判所に、通貨は米軍軍票という案が提示されたが、重光の説得によって撤回
   折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ 
所詮日本民族とは、自分の信念を持たず、強者に追随して自己保身を図ろうとする三等、四等民族なのか 重光葵
新政府は、進んで米国の対日政策に従って行こうとする熱意ある人が首相の条件とされ、吉田茂が米側との窓口になって人選
GHQを牛耳ったのはウィロビーで、諜報担当という非合法手段の担当者 ⇒ 日本の後はスペインのフランコ政権の顧問
   終戦3日目に内務省警備局長がやったことは、米軍用『特殊慰安婦施設』創設
東京裁判の最大の問題点 ⇒ 戦勝国が敗戦国を裁く権利があるか否か
   「自主路線」のシンボルが重光、「対米追随」が吉田、重光は当然のように追放
吉田を高く評価する高坂正堯は、「マッカーサーと対等の立場に立ち、日本の復興に反する場合は徹底的に反抗した」というが、吉田自身回顧録で「俎板の鯉」と言い、外相就任後の初訓示で「戦勝国の占領政策に誠意を持って協力する」と言っている以上、対等や反抗はありえない。外務省内にも賛否両論あったが、吉田は反対派を排除(Y項パージ)
降伏文書署名に立ち会った岡崎勝男次官は、重光から離れ吉田と「表裏一体」に変心(後に吉田内閣の官房長官、外相)
米国は日本を徹底的に破壊、方針が変わったのは冷戦の開始から
過酷な監獄生活を強いられる重光とその家族に対し、援助しようとの動きを岡崎が「GHQに叱られる」として一蹴
   日本は米国の保護領でしょうか。「そんなバカな」と言えない
米国人の発言の中にも「保護国」という表現が出てくる ⇒ カーター政権の国家安全保障担当補佐官のブレジンスキー
   日本は、戦前は軍人をボスとする奴隷国で、そこから戦後は占領軍をボスとする奴隷国に変わっただけとみられていた ⇒ トルーマンからマッカーサー宛ての権限示達
   思えば吉田首相は、占領下の首相に実に相応しい人物 ⇒ 対米追従路線に忠実
   占領のために「利用するものであって擁護するものではない」という姿勢は、天皇制に対しても適用 ⇒ 連合国の利益のために利用されたことがその後の天皇制に歪みをもたらす
講和条約締結が、完全な主権を回復する機会だったが、締結前後で日本の政権も変わらなければ、政策にも何ら変化はない
   「日本人の生活水準を、朝鮮人、インドネシア人、ベトナム人以下に落とそうとするおつもりですか」 ⇒ 賠償委員会に対する外務省(朝海浩一郎)の質問に対し、委員長の回答は「自分たちが侵略した相手より上であっていい理由はない」
   占領時代、日本は米軍駐留経費として莫大な金額を払った。減額を求めて公職追放されたのが蔵相だった石橋湛山
65年ベトナム戦争を批判したカナダ・ピアソン首相がジョンソンに呼ばれて1時間にわたり襟首を掴まれて吊し上げられたが、カナダではいうべき時には言ったことが賞賛され、その理念のシンボルとして外務省の建物にその名が付けられ、03年のイラク戦争でも参加を拒否
   憲法は、米国が作成した草案を日本語に訳し、少し修正を加えたもの
46.4.戦後初の選挙で勝った自民党の鳩山総裁は組閣直前に公職追放、吉田が首相となって憲法公布、新憲法下での選挙結果を見届けて47.5.辞任
   新憲法下の初の選挙で「片山社会党内閣」が誕生した不思議 ⇒ 社会不安も背景にあったのは間違いないが、マッカーサーが認めたのはキリスト教を基盤とする民主主義を広めるに当たり片山が信者だったことが好都合
大臣人事でGHQの意向を入れたために党内支持を失って総辞職
   48.3.芦田外相組閣するも、7か月で昭和電工疑獄事件により辞任
重光と同期の外務官僚。自主路線の双璧。GHQ内部の対立も巻き込んだ疑獄事件に翻弄
   検察も米国と密接に関係。特捜部は、GHQの管理下にスタートした「隠匿退蔵物資事件捜査部」が前身で、その任務は軍関係者の隠した「お宝」をGHQに差し出すこと
米国の情報部門が日本の検察を使って仕掛け、新聞にリークして特定政治家を叩き、首相を失脚させるのは、よくあるパターン
検察が、事件に直接無関係の首相を辞任させたうえ、起訴までした(無罪)背景は復活の可能性を消すこと
米国との間に問題を抱えていた首相クラスの政治家が、汚職関連の事件を摘発されて失脚したケースは多い
   芦田均 ⇒ 在日米軍の有事駐留を主張
   田中角栄 ⇒ 米国に先駆けて中国と国交回復 
   竹下登 ⇒ 自衛隊の軍事協力について米側と対立 ⇒ リクルート事件
   橋本龍太郎 ⇒ 金融政策などで独自路線、中国接近 ⇒ 日歯連事件
   小沢一郎 ⇒ 在日米軍は第7艦隊だけでよいと発言 ⇒ 陸山会事件
   戦後「天皇は象徴で政治に関与しない」と思ってきたが、昭和天皇は戦後の日米関係の核心に深く関与 ⇒ 沖縄の軍事占領容認発言

第2章     冷戦の始まり
   占領政策の急転換。日本をソ連との戦争の防波堤と位置付け
48.1. 米陸軍ロイヤル長官演説:「将来の極東での全体主義との戦争に対し、日本が抑止力となる様、自給自足の民主主義を作る」
   冷戦の始まり
将来の冷戦を予測した人物が岸信介
   「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用する」と言う考えは、具体的にどのようなプロセスで決定されたか
48.10.米国国家安全保障会議にて、日本の経済復興を目指す方針決定。マッカーサーの占領政策を真っ向から否定するものだったため解任
続いて起こった朝鮮戦争によって、対日政策の変化が確定。軍事力の利用まで考えた
49.12. 米国国家安全保障会議が防衛ラインをアリューシャン―日本―フィリピンとし、その外側の「朝鮮からの撤退」を決定したことが引き金になった可能性も
「歴史は過去ゆえに問題なのではなく、現在にとっての意味ゆえに問題となる」(英国の歴史家カーの言葉)
   冷戦の高まりの中、マッカーサーは日本の再軍備に反対
占領軍の1番の目標は、日本の非軍事化だったが、朝鮮戦争勃発により一変。国家警察予備隊の創設と海上保安庁の増員が決まる
吉田は、再軍備が経済的自立の障碍になると反対したが、マッカーサーの解任で後ろ盾を失う

第3章     講和条約と日米安保条約
独立と対米追随路線がセットでスタートし、両者が戦後日本の基礎となる
   51.9.講和条約がオペラハウスで、安保条約が米陸軍基地内の下士官クラブで調印
米国の狙いは、安保条約に基づいて締結された日米行政協定にあり ⇒ 安保条約に基づいて駐留する在日米軍と米兵他の法的地位を定めたもので、国会の批准の必要がない「協定」に都合の悪いことは全て押し込んだ
安保条約の調印者は吉田1人、しかも占領軍の下士官クラブで!
   51.9.講和会議でのトルーマンの演説:「我々の間には勝者も敗者もなく、ただ平和に協力する対等な者だけがある」
47.3.最初の講和条約草案では、無期限に連合国の統制下に留まることを想定
占領時代は、「格子なき牢獄」(外務省与謝野調査局長)、「厳格な意味での主権などは存在せず、自由は完全に縛られていた」(寺崎太郎元外務次官、吉田首相と衝突して辞任)
   占領期の日本人には象徴的な2つの道 ⇒ 公職追放と占領軍の検閲への参加
20万人以上が追放に。石橋のように戦後の行動が原因となった人もいる
その一方で、日本人のインテリ層を中心に、検閲に参加したものが5千名いた
   経済界でも、財閥解体と同時に対米追随勢力ががっちり作られている
46.4.経済同友会設立 ⇒ 米国の青年会議所がモデル。親米路線。櫻田武、永野重雄、小林中、藤井丙午、中山素平、正田英三郎。労働組合もGHQの指示で結成
   歴史書には「日本占領は稀に見る《寛大な占領》だった」とあるが
間接統治が「寛大」とは言えず、米国の一般的占領モデルに過ぎない
ガリオア・エロア資金にしても、生活必需物資の緊急輸入であって、約1/3はその後返済しているし、在日米軍経費負担に較べれば極めて少額
   アメリカ専門の学者は大勢いるのに、「米国からの圧力」をテーマに歴史が書かれていない何故
終戦直後にアメリカ学会創立。マッカーサーの援助で、東大と京大に親米的な学者を育成
   講話の準備が開始されたのは1945年。マッカーサーは早期講和を提唱したが、冷戦の開始で断念
   米国の目標 ⇒ 米国が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保することを独立の条件とした。この目標は今でも変わっていない
   安保条約に署名したのは吉田首相1人 ⇒ 独立国が結ぶべき内容の条約ではないことを知っていたからで、その内容は行政協定によって明らかにされる
   米軍の常時駐留を認めたのは吉田首相
早期独立のためには米軍駐留が必要とする吉田の見解は、冷戦の開始とともにその根拠を失った
   吉田政権の最後と鳩山政権の誕生 ⇒ 対米追随の吉田も、最後は再軍備に消極的だったために、米国から切られた
   55.7.鳩山内閣の副総理兼外相となった重光が、米軍の12年以内の完全撤退をアリソン駐日大使に提案。ダレス国務長官にも安保条約の改定を直接申し入れ
   鳩山政権の位置付け ⇒ ソ連との国交回復に邁進
米国は、ソ連に対日参戦の見返りとして国後・択捉を与えたが、日本は講和条約でも国後・択捉を千島列島の一部として放棄を約束、国交回復交渉でも譲る積りでいたところ、米国から国後・択捉を放棄するのであれば米軍は沖縄を領土とすると脅され、領土問題の火種を残させた ⇒ 56.10.日ソ共同宣言では、ソ連が歯舞・色丹を日本に引き渡すと譲歩
鳩山が日ソ国交回復を急いだ理由は、①日ソ間の戦争状態を法的に終結、②シベリア抑留者の帰還、③国連加盟へのソ連の拒否権行使の阻止
   日本の原子力開発が始まったのも、米国の意向を反映したもの。第5福竜丸被曝事件勃発で、日本人が急速に反原子力・反米に動くのを阻止するため
   中曽根康弘が法律や予算を整備し、日本に原子力発電所を作る地均しをした ⇒ 53.12.アイゼンハワー大統領の国連での原子力平和利用宣言に呼応

第4章     保守合同と安保改定
岸信介が保守勢力を纏めて安保改定にも乗り出すが、本質的な部分には手をつけず
   石橋首相は、独自路線を鮮明にし、米国は長続きしないと見ていた
55.10.統一社会党誕生、翌月保守合同で自由民主党誕生
56.12. 石橋首相誕生 ⇒ 米国の2つの「虎の尾」である「在日米軍問題」と「中国問題」の両方で自主路線を打ち出すが、2か月足らずで肺炎となり退陣
   岸首相は、イメージと違って、大いに研究すべき人物
当時の安保条約改定が現在の日米関係の基礎となっている ⇒ 56.12.石橋内閣の外相として不平等条約の改定を企図、対米従属路線からの脱却を図り、駐留米軍の最大限の撤退と、沖縄・小笠原の権利・権益の10年後の返還を求める
米国は、日本を共産主義に対する防波堤とすると決断した時、岸など戦犯勢力の利用を考え、積極的に資金援助もした。安保改定交渉でも譲歩したと見せかける
岸は、「行政協定」も見直すと約束しながら、「地位協定」と名を変えただけで存続
   安保反対運動は、百万を超える国民がデモに参加し、岸政権を崩壊させる。日本の歴史上かつてない事態が発生
   安保闘争と金。財界が打倒岸のために資金提供
中心には中山らの経済同友会メンバーがいて、岸政権の独自路線に危惧を持った米国からの働き掛けで、反政府デモに味方をさせた ⇒ 反対闘争が過激になったので、岸退陣の見込みが立ったところでデモを抑え込もうとした
   60年安保をどう評価するか
安保闘争が一気に国民的規模に盛り上がったのは樺美智子の死去以降で、戦犯岸の復活に対する怖れが噴出。岸退陣とともに、対米自主路線も消し飛ぶ
新安保条約の評価できる点 ⇒ ①武力行使に「国連の目的」という枠をはめた、②日本の施政下の領域での武力攻撃に対し守る
   岸首相は、中国貿易の拡大にも努力
「沖合列島」防衛の米国の政策に呼応して、日本は台湾に接近、一方中国は岸に嫌悪感を抱いていたが、岸は「政経分離」を明言
   米国の岸への反応 ⇒ アイゼンハワーは支持、軍部やCIAは池田支持へ
CIA長官(ダレス)が最初に岸の引退が望ましいと言っていることに注目
欧米の植民地支配の常道は、少数派を手掛かりに支配権を確立 ⇒ 吉田も池田も同じ

第5章     自民党と経済成長の時代
60年代に日米関係は黄金期、高度成長が始まり、安全保障問題は棚上げ
   安保で危機に陥った日米関係は、池田首相とライシャワー大使の下で黄金期を迎える。ライシャワーは日本人の言葉に誠実に耳を傾けようとした米国大使
ライシャワーのモットー「イコール・パートナーシップ」が、日米の黄金期を支えた
大使が注目されたのは、安保闘争直後に『フォーリン・アフェアーズ』に掲載された「日本との損なわれた対話」という論文 ⇒ 日本のあらゆる層とのコミュニケーションの大切さを説く
最大の功績は、日米関係に安定を取り戻したことと、沖縄返還の糸口を作ったこと
日本の左派勢力を米国協力者にしたことの意味は大きい
   池田内閣は、「外交追随、経済自主」という90年まで続くパターンを取り、経済面では米国の反対を押し切って対中貿易に「LT貿易」の枠組みを作る
   佐藤政権で、ジョンソンから対ベトナム戦支援を求められたが、やんわりと拒否
   核兵器に対し日本の外務省は、「核保有国は、非保有国を攻撃しない義務を負うべき」との政策を立案
   65年 佐藤首相沖縄訪問、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り戦後は終わらない」と発言。67.11.ジョンソンとの会談で数年以内の返還合意
   ニクソンにとっては、繊維問題が大統領選に直結するほど重要だったが、日本側にその認識はなかった
69.11.沖縄への核再持込みのための事前協議と、繊維輸出の抑制を秘密裏に合意
佐藤首相がニクソンとの密約を愛知外相にも宮澤通産相にも秘密にしたため、核問題は09年まで事実が明かされなかったが、繊維問題は国内事情から佐藤が公表せざるを得なくなったばかりか、業界がニクソンの政敵ミルズに対し自主規制を約束したため、米国からの数々の報復に会い、72.7.辞任 ⇒ ①71.7.ニクソンの事前通告なしの訪中発表、②ドルと金の交換停止、③10%の対日貿易課徴金(円切り上げで実行せず)、④尖閣支持の態度不透明化
佐藤・ニクソンの密使となってキッシンジャーと交渉した若泉敬氏は96年自殺
   米国が政治的に葬った政治家は田中角栄
日の丸原油を掲げてメジャーを刺激したのが原因とされているが、田中降ろしのスタートはロッキード発覚前に立花隆が発表した金権政治批判、それに外国特派員協会が乗り、新聞も追求、財界も経済同友会一派が反田中に回って、僅か1か月半で74.11.田中辞任
後継を弱小派閥の三木の暫定政権にして(芦田失脚の後もGHQから首相を打診されている)、田中辞任のあと13か月して発覚したロッキード事件で三木首相が日米政府間に「司法共助協定」を締結、米国の未公開資料の提出を求めた上、「司法取引」によって得た証言で田中の政治生命を断つ
米国の田中放逐の真の原因は、対中成果の横取り ⇒ 72.2.ニクソンの訪中実現後も国交樹立は79年までできなかったが、72.9.田中が日中国交正常化を実現
   福田内閣(76.12.77.11.)は、米国からの圧力がない時、日本がどれだけ立派な自主外交が出来るのかを示している
75年サイゴン陥落を機に、米国のアジア離れが始まる中、福田政権の基本方針は「全方位平和外交」で、特に対中、対ASEANに注力
   大平首相(78.12.80.7.)は、「対米協調路線の前進」を打ち出し「日米同盟関係」に発展
   鈴木首相(80.7.81.11.)の外交政策は、「アジアの善隣外交」にあり、対ソ脅威に向けた軍事協力を求める米国の圧力に遭って辞任
   中曽根首相(82.11.87.11)は、米国との軍事協力に踏み込む ⇒ 「不沈空母」発言
   米国は経済競争で負けるはずがない。米国が負けるとすれば相手国が不公正なことをやっているから。そうした怒りの矛先が日本に向けられる。米国にとって日本は、もはや打倒すべき相手になった
レーガンは、映画俳優組合委員長時代、共産主義と思しき人々をFBIに通報していた
レーガンの軍拡路線が米国に深刻な双子の赤字をもたらし、その対応策が日本を直撃 ⇒ ①プラザ合意(主要通貨の対ドル上昇)と、②新通商戦略(相手の不公正を徹底的に叩く)
   88年 BIS規制導入 ⇒ 日本の銀行の競争力をそぎ落とす狙い
   竹下内閣(87.11.88.12.)は日米関係にあまり関心がなかった
消費税の導入が焦眉の急で、米国が経済的側面に加えて軍事面での責任分担を求めてきたときも、中曽根路線を覆して、できないと受け流したのが原因で、リクルート事件を仕掛けられ失脚へ

第6章     冷戦終結と米国の変容
冷戦が終わり、日米関係は40年振りに180度変化。米国にとって日本は再び最大の「脅威」と位置付け
   91年冷戦終結で、米国の厖大な軍事支出や対外政策はどのように変化するか
強大な軍事力を維持していくために、イラン・イラク・北朝鮮という「ならず者国家」という考えが出て、そこへの「同盟国日本の貢献が必要」となる
   91年湾岸戦争への経済援助に対し、遅すぎる、少な過ぎる、人的貢献がないとの批判
批判は、アマコスト駐日米国大使の工作が奏功したからで、クウェートは日本の貢献を十分評価している
   細川政権(93.8.94.4.)が日米同盟の重要性の軽減を画策したため、米国は政権を潰しにかかる
「日米安全保障」より「多角的安全保障」に重点を置いた政権の動きに対し、米国はまず北朝鮮に近かった武村官房長官の更迭を要求したが、更迭する前に佐川事件で首相辞任
   CIAは日本の経済力を米国の敵と位置付け、対日工作を大々的に行うようになる
軍事安全保障と同じことが経済安全保障でも行うべきとの議論が支持され、対象は日本
   裏社会でCIAが「経済的な敵」に対し工作している中、表では日本政府と米国政府との厳しい交渉が行われた
8090年代 「日米構造協議」や「日米包括経済協議」を通じて、日本の市場開放を迫る
   米国は、「日本が米国の世界戦略と一体として動くよう」新たな工作を始め、成功する
95年米国の「東アジア戦略報告書」 ⇒ 日本の国際的平和維持活動の活発化を歓迎、秋山昌廣防衛局長とナイ国防次官補との間の協議内容が新防衛大綱に反映
冷戦終結後、米国は露骨に自国の利益を押し付けるようになり、日本にはそうした変化に対する危機意識がなかった
   クリントンの女性スキャンダル事件と関連し、橋本・クリントン関係は一気に悪化
橋本政権(96.1.98.7.)時代、日米安全保障関係は協力体制を強化したが、天安門事件以降西側閣僚(蔵相)として初めて訪中した橋本は対中接近を図るとともに、米軍の普天間返還を要求、クリントンがスキャンダルの弾劾裁判と引き換えにイラク攻撃(共和党がイラクを攻撃すれば弾劾訴追を取り下げると約束)をしようとしたとき、橋本は長野五輪中の武力行使の自粛を求め、クリントンの激怒を買い、同年7月の選挙で敗退・退陣
   小渕首相(98.7.00.4.)、森首相(00.4.01.4.)とも、クリントンと密接な関係は築けず
クリントンが日本への関心を失っていた。中国首脳とは知的会話が出来るが、日本の首脳とは全くできないと嘆く

第7章     9.11とイラク戦争後の世界
唯一の超大国米国の暴走が始まる。国連を軽視した軍事力行使に日本の協力を要求
   同時多発テロ以降、米国の政策は大きく変化、アフガンとイラク戦争を開始、いずれも正当化できるか非常に疑問
アフガニスタンで民衆から一定の支持を得ているタリバンを、アルカイダを匿ったという理由で一掃しようとしたが、民衆を巻き込んだ戦争となり、いまだに先行きの目処がつかない
   イラク戦争も、開戦の理由を米国自ら否定、それに日本が参加した理由は、「米国からいわれたから」以外の理由はない
   小泉首相(01.4.06.9.)は、誰よりも強い対米路線を歩む。そのきっかけは北朝鮮政策を巡ってブッシュ大統領から脅かされたことにある
クリントンはテポドンの時も宥和策を取ったのに対し、ブッシュは9.11以降強硬策に出て、同盟国にも同調を迫るが、小泉は02.9.平壌を訪問して「日朝平壌宣言」を発表
訪朝直前ブッシュを訪問した小泉は、米国の厳しい姿勢に恐れをなし、以降歴代のどの首相よりも対米追随姿勢を鮮明にする
   05年 日米同盟は新安保条約の枠外へ
日米双方の外務・防衛両相の間で「日米同盟 未来のための変革と再編」と題する文書署名により、日米の安全保障関係の新たな時代に突入 ⇒ 日本の軍事協力の対象が世界に拡大され、国連の制約を除去
   小泉首相の下で起きたもう1つの動きは、日本社会と日本の経済システムを米国流に変えること
   ウィキリークスが米国の外交機密文書を公開
福田康夫首相(07.9.08.9.)に対しブッシュから、アフガン戦争へ自衛隊のヘリ派遣強要、米国の政府系金融機関の破綻に際し融資を強要したが、首相の退陣表明で実現せず。いずれも辞任することで米国の圧力に抵抗したとも考えられる
   09年民主党政権誕生。日米地位協定の改定や東アジア共同体構想を提言、歴史的に見れば米国の反撃が予想される
   鳩山首相は、普天間基地を「最低でも県外移設」を提言して潰されたが、その時直接手を下したのは、米国の意を汲む日本の官僚、政治家、マスコミ
   菅首相になって突然TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の参加問題が浮上
TPPの狙いは、日本社会を米国流に改革し、米国企業に日本市場を席巻させること
米国に潰された鳩山首相を見て、菅首相、野田首相とも極端な対米追随路線に転換、その代表がTPP ⇒ TPP加盟国はごく一部、日本の加盟国への依存度は僅少、一方TPP参加による被害はほぼ全分野に及ぶ

あとがき
書いたことで確認できた重要なポイントは以下の3
   米国の対日政策は、あくまでも米国の利益のためにあり日本の利益と常に一致しているわけではない
   米国の対日政策は、米国の環境の変化によって大きく変わる
   米国は自分の利益に基づいて日本に様々な要求をするので、日本の譲れない国益については主張し、米国の理解を得る必要がある





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