連邦準備制度と金融危機  Ben Bernanke  2013.2.7.


2013.2.7.  連邦準備制度と金融危機 バーナンキFRB理事会議長による大学生向け講義録
The Federal Reserve and The Financial Crisis

著者 Ben Bernanke 1953.12.13.生まれ。ハーバード大で学士号、MITで博士号。計量経済学会とアメリカ芸術科学アカデミーの特別会員。06年議長就任、現在2期目。就任前にも理事会の理事としてニューヨーク連銀の学術諮問会議メンバー。05.6.06.1.大統領経済諮問委員会委員長

訳者 小谷野俊夫 学習院大非常勤講師。静岡県立大名誉教授。1969年早大政経卒。75年ウォートン終了(MBA)。第一勧銀調査部ニューヨーク駐在。DKB総研経済調査部長を経て97年静岡県立大教授(12年定年退職)

発行日           2012.6.26. 
発行所           一灯舎

この講義は,ジョージ・ワシントン大学ビジネススクールの前学部長であり,また,連邦準備の元理事でもあるスーザン・フィリップ氏が提案し,バーナンキ議長本人をはじめとする多くの関係者の協力によって123月に同大学で実現した14回の授業で構成される学部生向けの正規の授業「連邦準備と今日の経済におけるその役割」の一環として行われた。連邦準備のような強力な組織は聴衆を圧倒してしまうのではないかと思われるが,バーナンキ議長がかつて教壇に立っていたこともあり、また議長が金融政策に果たすコミュニケーションの役割を重視していることも動機になっているようで、非常に刺激的な親しみのある四回の講義に結実した。現職のFRBの議長がFRBそのものについて講義をするというのは,異例である。しかしそれ故に,現実との関わりが深く,説得力のある講義になっている。各講義の終わりには生徒との質疑応答が収録されており,講義の雰囲気を感じ取ることができる。生徒の質問に対してバーナンキ議長は丁寧に回答しており,講義に対する議長の熱意が伝わってくる。日本でも今後現職のトップによるセミナーが期待される
http://www.federalreserve.gov/newsevents/lectures/about.htm


第一回講義 連邦準備制度の起源と任務 2012.3.20.

中央銀行とは何か.その役割と起源を説明し,その後,1930年代の大恐慌にどのように取り組んだかを説明する

1.    講義の内容と計画

2.    中央銀行の任務と政策手段

中央銀行の役割

   マクロ経済の安定達成に努力 ⇒ 経済の安定的な成長

   金融の安定化

目的達成のための手段

    経済安定化のための手段 ⇒ 金融政策。金利操作や公開市場操作

    金融安定化のための手段 ⇒ 流動性の供給

    金融の規制・監督

 

3.    中央銀行の起源

最近発達したものではなく、古くから金を裏付けに紙幣を発行する金本位制を運営してきた

 

4.    金融パニックとは

ある機関に対する信頼の喪失によって誘発される

 

5.    金融パニックと中央銀行の最後の貸し手機能

パニックに陥った銀行を、中央銀行がその銀行から非流動資産を担保にとって、短期貸し出しをすることにより、パニックを回避

こういう仕組みを考案したのは、ウォルター・バジェット(18261877)というジャーナリスト

アメリカでは1914年にFRB創設 ⇒ それまでは民間の機関、例えばニューヨーク手形交換所などが最後の貸し手機能を果たそうとした

南北戦争以後FRB創設まで6回の金融パニックが発生、1893年には500を超える銀行が倒産

1907年の金融パニックがFRB創設の直接のきっかけ

 

6.    金本位制:制度と問題点

南北戦争から1930年代までは金本位制 ⇒ 中央銀行の金融政策の余地をなくすのみならず、経済の振れもインフレも大きくなった。多国間で通貨の間に固定相場制が成立したことはプラスだが、1国の経済政策が他国に伝播するのは両刃の剣

通常、マネーサプライの全額に相当する金は保有せず、中央銀行に対する信頼だけでシステムが支えられるため、一旦信頼が揺らぐと投機による攻撃を避けられない ⇒ 1931年のイングランド銀行が攻撃され、金本位制を廃止

 

7.    連邦準備制度の設立

1913年のパニックに際し、3度目の正直で中央銀行を設立。国を12に分割して、それぞれにFRBを設置

ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、クリーブランド、リッチモンド、アトランタ、シカゴ、セントルイス、ミネアポリス、カンサスシティ、ダラス、サンフランシスコ

 

8.    大恐慌

1次大戦の戦争景気が終わった1929年からの大恐慌で世界中がパニックに

20年代の過剰の全てを取り除き、国を根本的により健全な経済に戻さなければならなかった

 

9.    大恐慌時の連邦準備の金融政策

FRBによる金融緩和が不十分、金本位制維持のために金利を引き上げ ⇒ 33年金本位制廃止、金融を緩和した結果、景気は持ち直すが、銀行の倒産は34年に預金保険制度が創設されるまで続く

 

10. ルーズベルトの政策

ルーズベルトは実験を重視、いくつもの役に立たないことをしたが、FDICの創設と金本位制の廃止は有効な政策となる

 

11. 質疑応答

金本位制への復帰はあるのか ⇒ かなり長いレンジで強いドルを維持し、物価の安定を望むという切り口からの議論。ただ歴史は必ずしもそれを証明しない

 

 

第二回講義 第二次大戦後の連邦準備           2012.3.22.

中央銀行の歴史,特に第二次大戦後の活動を回顧する.更に,最近起きた危機の形成,2008年及び2009年の危機の要因を解明する

1.    前回のまとめと本日の講義予定

2.    第二次大戦の終結と連邦準備の独立性の獲得

2次大戦によって不況が終焉

戦時中は、戦費調達のため、低金利を維持

戦後、急増した債務の利払いのため政府からは低金利維持に圧力がかかったが、景気の回復と経済成長の最中にあって経済を過熱させないためには金利を上げざるを得ない ⇒ FRBが政府から独立して利子率を決められるようにしたが、これが成功して、今日では中央銀行の政治的圧力からの独立は世界の常識となっている

 

3.    マーチン議長:風に向かって立つ金融政策

50年代、60年代は経済が成長していたため、金融政策は簡単 ⇒ 過熱を抑制し、インフレと成長を安定的に保つ

60年代半ばから70年代にインフレ率が上昇しすぎる問題 ⇒ ある程度のインフレが失業率を低く抑えるという楽観論が強かったことと、ヴェトナム戦争の戦費調達のための財政赤字が続いた

 

4.    バーンズ議長:インフレ期待の定着

さらに、73年の石油ショック、食糧価格の高騰が重なり、インフレの抑えが利かなくなる

Fine Tuning(微調整)という言葉がもてはやされたが、経済を思い通りにコントロールすることは、傲慢以外の何ものでもない

 

5.    ヴォルカー議長:インフレ期待を払拭した強力な引締め政策

インフレ制御が最大の課題となり、79年には金利を急激に引き上げ、80年代前半にはインフレが鎮静化

 

6.    グリーンスパン議長:グレート・モデレーション(超安定化)

インフレ終息後の経済に、より一層の安定をもたらす ⇒ GDP成長率の変動幅が急速に縮小、インフレ率の変動幅も比例して縮小

長期で低く安定したインフレは、経済をより安定的にし、健全な成長と生産性、経済活動を支えることが証明された

 

7.    住宅バブルの発生:借り手側の問題

金融危機の序幕となるいくつかの現象 ⇒ その1つが住宅価格の大幅な上昇と住宅ローンの質の劣化(ノン・プライム・モーゲージ)

住宅価格は、2006年にピークアウト(90年代後半から130%上昇、その後現在まで30%低下)

 

8.    住宅バブルと貸し手側の問題

住宅ローンの延滞の急増によって金融機関が打撃を蒙むり、脆弱な金融システムによって厳しい不況をもたらす

9901年のドットコム・技術バブル崩壊で、多額の評価減が発生した時も、それほど深刻ではなかったため、住宅バブルの崩壊でも高をくくったところがある

資産の劣化と同時に、金融取引が複雑化してリスクの監視・計測・管理が追い付いていなかったことが、金融破綻を加速

民間金融部門の脆弱性は、複雑なデリバティブ等新種金融商品の利用に起因 ⇒ クレジット・デフォルト・スワップ

公的部門でも、どの金融規制当局からも監督を受けない重要な金融機関が多数存在したことは、金融システム上の抜け穴 ⇒ 保険会社AIGにしても保険商品は監督していたが、スワップなどはほとんど見ていなかったし、政府系金融機関の規制・監督も不十分

規制機関の在り方も再考の要あり ⇒ FRBOCC(Office of the Comptroller of the Currency通貨監督官)OTS(Office of Thrifts Supervision貯蓄金融機関監督局)など個々の規制当局は特定の企業業種についてのみ責務を負っていて、システム全体に注意を向ける必要

 

9.    連邦準備の金融政策が住宅バブルの原因の一つだろうか

01年不況の後、FRBが金利を低く据え置いて住宅需要を増加させ、それによって経済を強化しようとしたことは事実だが、そのことが住宅バブルに繋がったとは見ていない

 

10. 危機の経済的影響

株価の急落、住宅着工件数の急減

 

11. 質疑応答

 

第三回講義 金融危機に対する連邦準備の対応

金融危機の緊迫時の状況,その原因と影響を説明し,更にその際に連邦準備や他の政策立案者が行った危機への対応を詳説する

1.    前回のまとめと本日の計画

2.    公的部門の脆弱性

政府支援機関ファニー・メイとフレディ・マック ⇒ 議会により設立されたが、民間企業で、モーゲージの証券化を行う

 

3.    新種のモーゲージとその証券化の発達

住宅価格の上昇がないと返済されない新種のモーゲージが出回るとともに、貸し手は証券化によって資金を調達 ⇒ 証券化商品がどんどん複雑になっていったにも拘らず、投資家が高格付に魅かれ喜んで債券を購入

 

4.    2008年、及び2009年の金融パニック

0607年住宅価格が下落、モーゲージのデフォールトが引き金となって、モーゲージの投資家がパニックに陥る

アメリカにおけるサブプライム・モーゲージの全てが無価値だと想定しても、金融機関の全損失は株式市場の悪い1日の規模とほぼ同じだったにもかかわらず、損失が様々な債券と様々な場所にばら撒かれていて、損失がどこにあるのか、誰が損失を蒙るのか、誰もわからなかったことが問題を加速した

1930年代と違う所は、大手の金融機関にまで大きな圧力がかかったこと

最初に破綻したベア・スターンズは、FRBの支援付きでJPモルガンに売却、ファニーとフレディは政府が保証して投資家を保護したが、リーマンは破綻。同日メリルはBofAに売却。さらにAIGが政府に救済される

 

5.    金融危機に対する政策対応

30年代の大恐慌の教訓は、①FRBは金融システム安定化のために自由に貸し出しすべきこと、②緩和的な金融政策を取る必要があること

今回の危機は世界規模の危機 ⇒ リーマン倒産後の危機を、世界が協力して対応することを約束。FRBも流動性を供給しパニックを制御するのに重要な役割を果たす

バジェット・ルールに基づいて、銀行以外の金融機関にも融資を実行、企業への流動性を供給する道を広げた(30年代以降初めて発動)

 

6.    ケース・スタディ:マネー・マーケット・ファンドMMF

短期余剰資金の運用先として利用され、ファンドの運用も短期の優良資産を対象とする

リーマンの破綻により、資産の毀損が懸念されたMMFに投資家からの支払い請求が殺到

財務省が臨時の保証を提供して、投資家のパニックを鎮める

 

7.    ケース・スタディ:ベア・スターンズとAIG

ベア・スターンズを救済したのは、まだ支払い能力があると判断したので、保証もした

AIGの場合は、同社のモーゲージ担保証券に所有者に対する信用保証が危機に瀕したものの、膨大な健全な資産を保有しており、それを担保に流動性を提供するための貸し出しが出来た

Too big to failな企業を抱えているシステムは根本的に間違いであり、そうならない対応・体制が必要

 

8.    危機の経済的結末

世界の金融のメルトダウンを防いだが、世界経済への深刻な影響は避けられず、ひどい不況となった

1929.8.100とする株価推移と、2007.10.100とする株価推移を比較すると、最初の1516か月はほとんど同じように下落しているが、その後は29年が下落を続けたのに対し、今回は急回復し、3年間で二倍以上になっている

 

9.    質疑応答

 

第四回講義 金融危機の余波

危機に続いて起こった不況,それに対する連邦準備の金融政策を述べる.更に,今回の危機が中央銀行の役割に与えた影響,中央銀行が果たす今後の役割など,中央銀行の将来を考察する

1.    これまでのまとめと本日の計画

2.    連邦準備と財務省および海外当局との協力

パニックを断ち切るために短期の流動性を提供するという基本的な考え方は普遍

また、FRBが単独で行動したのではなく、国内の他の当局者や海外諸国の当局と緊密な協力のもとに行動

金融システムを強化する努力が続けられている ⇒ ストレス・テストといって大手銀行の財務ポジションがどうなっているかを市場に公開し、銀行の信用を高める

 

3.    伝統的金融政策

金融政策は、大統領任命の7名の理事と12の地方連銀総裁からなるFOMCにより実施

 

4.    非伝統的な金融政策

通常の金融政策は、実質ゼロ金利で底をついたため、経済をさらに支援するために量的緩和(QE:Quantative Easing)に踏み切る ⇒ 国債とファニーかフレディの債券に限定して大規模購入を行うことによって、国債や政府保証債の市場の需給関係を逼迫させ、他の証券の価格を引き上げ、利回りを下げさせた

量的緩和によって金利が下がり、成長と回復を促進 ⇒ 目的は①雇用の最大化と②デフレ化の危険の回避

政府の行う財政政策の柱は、①支出政策と②課税政策

 

5.    金融政策に果たすコミュニケーションの役割

FRBが達成しようとしていることを市場に明確に伝えることによって、投資家に理解を求めその協力を得て、金融政策をより効果的にする ⇒ 「物価安定」を2%のインフレと定義づけることを公表

 

6.    緩慢な景気回復プロセス

今回の不況は、2007.12.2009.6. ⇒ 不況からは戻ったといっても成長ベースに戻ったというだけで、過去の平均的な回復状況からはまだ下回っている。失業率の回復が緩慢のみならず、住宅着工件数でも低水準に留まる

金融危機であり、信用市場に与えた衝撃の大きさも、回復が緩慢な理由の1

ヨーロッパの金融危機も、障碍となっている

 

7.    アメリカの潜在的な成長力は強い

アメリカ経済は1900年以降ほぼ3%でほとんど変わらず成長してきた ⇒ この2年はその平均をまだ下回っている

 

8.    金融規制改革

金融危機の下となった金融システムの脆弱性に対しては、大幅な金融規制改革を実行

最大のものは、2010年夏のウォール街改革・消費者保護法(通称ドット・フランク法)で、当局が金融システム全体を見張る体系的アプローチを創る(金融安定監視評議会)。その具体化の1つがストレス・テストであり、デリバティブ・ポジションの透明化

 

9.    結び:危機から得た教訓 

金融安定の維持こそ、FRB創設の本来の目的であり、そのための手段として、最後の貸し手機能と、経済安定を高めるための金融政策の利用がある

これからも、規制当局者が金融システム全体を監視し続け、問題を見極め、持っている手段を使って対処することが必要

 

10. 質疑応答

 

訳者あとがき

議長がFRBの責任を認めず議論の余地ありとしたのは、政策金利を低くしたことが住宅バブルの誘因になったか否かで、自らの責任を認めるわけにはいかなかった
そもそも実体経済が好調で、積極的に新たな信用創造がなされるようになると、資産価格は当然上昇する。議長は「この程度の金利低下」と言ったが、物価上昇率3%に対し政策金利が1%では実質マイナス金利であり、「この程度」との評価は正当ではない
政策金利を上げてからも住宅価格が上昇したのは、それこそまさにバブルであり、少々金利を上げても資産価格の上昇は直ぐには収まらないのはむしろ当然
02年以降急激な低金利政策を取らざるを得なかった理由は、00年のITバブル崩壊のマイナスの資産効果を懸念した結果であるとすれば、ITバブルとFRBの金融政策についても論じなければならないだろう
議長の議論を定式化しようとする前に、尽くすべき研究・議論が必要


連邦準備制度と金融危機 ベン・バーナンキ著 危機に対する中央銀行の役割説く 
日経 書評 2012/9/16
フォームの始まり

フォームの終わり
 米大統領に次いで「世界で2番目に影響力のある人物」とも言われる米連邦準備理事会(FRB)議長。この本は、現職のバーナンキ議長が今年3月、米国の経営大学院で実施した講義の一部始終だ。
(小谷野俊夫訳、一灯舎・1500円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(小谷野俊夫訳、一灯舎・1500円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 講義は4回に及ぶ。米国の中央銀行制度であるFRBの成り立ち、1930年代の大恐慌から得た教訓、2008年のリーマン・ショックに直面して自らが下した数々の決断、その苦い経験を踏まえた金融システムやFRBのこれから――
 「中央銀行とは?」「取り付けとは?」といった初歩からかみ砕いて解き明かそうとしている。翻訳がですます調でもあり、専門家でなくても抵抗感を感じずに読めそうだ。
 焦点は、3回目の講義の中核を占めたリーマン・ショックに違いない。「最後の貸し手」として市場や金融機関に資金を大量投入し、どうにか危機を封じ込めた。議長は大恐慌研究の権威でもあり、FRBが当時得た経験を生かした。
 しかし、本人は納得していない。暴走した保険大手アメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)など、破綻すべき金融機関を経済全体を守るために救わざるを得ず、競争原理をゆがめたからだ。
 「悪の度合いが最も小さいもの(手段)を選ばざるをえない状況に追い込まれた」。議長は救済の決断をこう説明した。リーマン・ブラザーズが破綻した衝撃は想像を超え、きれい事は通用しなくなっていた。
 金融工学が複雑にした金融商品は世界に散らばり、そんな商品に金融機関は大量の資金を投じ続ける。こうして「大きすぎてつぶせない」状況にならないうちに、危機の芽を摘んでおくべきだった。ところが安定した経済情勢が続き、危機への警戒は逆に薄くなっていたと議長は自戒する。そもそも1世紀前にFRBを立ち上げたのは、金融パニックを減らすためではなかったかと。
 リーマン・ショックは欧州の債務危機に転じ、4年後の今も世界経済を脅かしている。議長も認めるとおり、危機は今後もつきまとうだろう。苦闘している当事者の肉声は、今を理解するのにも役立つ。
(編集委員 梶原誠)


Wikipedia
ベンジャミン・シャロームベンバーナンキBenjamin Shalom “Ben” Bernanke19531213 - )は、アメリカ合衆国経済学者で、専門はマクロ経済学である。第14連邦準備制度理事会 (FRB) 議長である。姓の Bernanke はベルナンケやバーナンケと表されることもある。

経歴 [編集]

家族構成 [編集]

バーナンキは19531213ジョージア州オーガスタで生まれ、サウスカロライナ州ディロンで育つ。父・フィリップは薬剤師や劇場の支配人、母・エドナは学校教員をつとめていた。兄弟は弟と妹。弟・セスはノースカロライナ州シャーロットで弁護士をつとめており、妹・シャロンはボストンバークリー音楽大学で学んだのち長年にわたって同校の経営に携わっている。
当時、家族はいくらかのユダヤ系市民が暮らす地域に住んでおり、オハブ・シャロムと呼ばれる地元のシナゴーグに通ったり、バーナンキ自身も東欧ユダヤ系の母方の祖父からヘブライ語を学んだりした。父方の祖父もユダヤ系で第一次世界大戦後にオーストリアからアメリカに移住し、その後の1940年代ニューヨークからディロンへ移り住んでいる。その祖父から、父と叔父が薬局を譲り受けて経営をしていた。

高校・大学にて [編集]

バーナンキは地元の高校に進学。学校では微分積分学を独学したり、学校新聞の編集に携わるなどした。SAT (大学進学適性試験)では1600満点中1590点というその年の州で一番の成績を収め、卒業生総代をつとめる優秀な生徒だった。その他、高校のマーチングバンドに加わっており、全米サクソフォニストにもなっている。
1972ハーバード大学へと進学して経済学を学ぶ。在学中は勉学に励むなか、夏には地元・ディロンにあるロードサイド・アトラクションサウス・オブ・ザ・ボーダーを手伝うためにウェイターをした。1975、最優等学位をもって同大を卒業。1979にはマサチューセッツ工科大学で経済学博士号を取得しており、博士論文の題は「長期コミットメント、動的最適化とビジネスサイクル」("Long-term commitments, dynamic optimization, and the business cycle")。それを書き上げる際にはタンレー・フィッチャーの助力があったという。

研究業績 [編集]

1979からはスタンフォード大学経営大学院で教鞭をとる一方、ニューヨーク大学客員教授職にもついている。1985プリンストン大学経済学部教授に就任し、の政策がいかに間違っていたかを研究。1996から2002までのあいだは学部長もつとめた。またこの間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでの金融理論・金融政策の講義を行っているほか、マクロ経済学の教科書を3冊、ミクロ経済学の教科書を1冊執筆、全米経済研究所の金融経済学における教程監督、アメリカン・エコノミック・レビュー誌編集者などを歴任している。特にデフレ史の研究に優れ、友人であり同僚でもあったポール・クルーグマンとともに、インフレターゲットの研究者として名を高める。この間、多くの人材を育てた。

政府機関にて [編集]

2002ブッシュ政権下でFRBの理事に指名されたが、もともと政治色の薄い人物で、同僚にも共和党員であることはあまり知られていなかった。FRBによる通貨の供給不足が1930代の大恐慌の原因だとするミルトン・フリードマン教授の学説の信奉者で、2002のフリードマンの90歳の誕生パーティーにおいて「FRBは二度と同じ過ちは繰り返しません」と誓い、さらに「デフレ克服のためにはヘリコプターからお札をばらまけばよい」と発言。「ヘリコプター・ベン」の異名をもつ。2003には「日本の金融政策に関する若干の考察」という表題で講演し、20013月からの日銀量的金融緩和政策は中途半端であり、物価がデフレ前の水準に戻るまでお札を刷り続け、さらに日銀が国債を大量に買い上げ、減税財源を引き受けるべきだと訴えた。2005には米国大統領経済諮問委員会 (CEA) の委員長となる。200621日にFRB議長に就任。戦後生まれでは初のFRB議長である。
2008に発生した金融危機ゼロ金利政策など緩和政策を実施し、金融機関の救済にあたったほか、景気後退への対応で成果を上げたと評価する声がある一方、金融危機への対応が遅れた、金融危機を招いたのは資産バブルを放置したためという批判の声もあり、2010128米上院FRB議長に再任されたものの賛成70票、反対30票と、信任投票が始まった1978年以降、最大の反対票を集める結果となった。
2009、市場の不必要な混乱を避けるためインタビューには応じないという歴代FRB議長の慣行を破り、現職FRB議長として史上初めてテレビインタビューに応じ、自らの出自や金融恐慌の現状等について語った
20093月から1年間、住宅ローン担保証券などを1.75兆ドル買い入れる量的緩和1弾(QE1)を、201011月から20116月には米国債6000億ドル買い上げる量的緩和第2弾(QE2)を実施した。
2012125日、FRB議長として、かねてからの持論であるインフレターゲット導入を実施した(2%目標導入、毎年1月に見直し)

年譜 [編集]

·         1953年 ジョージア州オーガスタで誕生
·         1975年 ハーバード大学経済学部を卒業
·         1979年 マサチューセッツ工科大学にて経済学博士号を取得
·         2005年 CEA委員長に就任
·         2006年 FRB議長に就任
·         2010年 FRB議長に再任

バーナンキの背理法 [編集]

バーナンキの背理法は、日本のインターネット上で流通した論法である。バーナンキは、デフレ不況に陥った後も、ゼロ金利下でデフレ克服に向けて有効な手だてを施せない日本銀行金融政策を批判し(インフレターゲット#日本の項も参照)、金融政策によるリフレーションの可能性について自らの論文で以下のように説明した
貨幣は、ほかの政府債務とちがい、利子の支払いも満期もない。通貨当局は貨幣をすきなだけ発行することができる。だから、もし本当に物価水準が貨幣の発行と関係なければ、通貨当局は、財や資産を無制限に得るために貨幣をつくってつかえることになる。これはあきらかに均衡しない。そういうわけで、たとい名目利子率の下限がゼロであっても、貨幣の発行は物価水準をひきあげるはずである。
 Ben S. Bernanke , Japanese Monetary Policy: A Case of Self-Induced Paralysis? 
これが日本でバーナンキの背理法と呼ばれるものであるが、バーナンキ本人にとってこの論法は、特定の個人名をつけて呼ばれる程のものではなく普通の論法であるという。なお、高橋洋一によれば、この背理法での難点は、いつインフレになるのか、そのために必要な国債買いオペ額を特定できないことである。
·          
官職
アメリカ合衆国の旗 FRB議長
14代:2006 -
次代:
(現職)
アメリカ合衆国の旗 CEA委員長
23代:2005 - 2006


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