フェリックス・ロハティン自伝  Felix Rohatyn  2013.2.4.


2013.2.4. フェリックス・ロハティン自伝 ニューヨーク財政危機を救った投資銀行家
Felix Rohatyn, Dealings a Political and Financial Life            2010

著者 Felix Rohatyn 1928年生まれ。ミドルバリー大卒。ラザード・フレールのマネージングディレクターを経て米国の駐仏大使。7593年ニューヨーク州の自治体援助公社マック(Municipal Assistance Corporation)会長をつとめ、財政危機に直面したニューヨーク市の救済に多大な貢献をしたことで知られる

訳者 渡邉泰彦 慶大経卒。ペンシルヴァニア大ウォートンスクールMBA。東京三菱銀行退任後三菱地所にて丸の内再開発事業に携わる。アーバンランド・インスティチュート・ジャパン会長。日本ファシリティマネジメント推進協会副会長などを歴任。現在慶大ビジネススクール顧問、筑波大大学院システム情報工学科客員教授

発行日           2012.12.15. 第1刷発行
発行所           鹿島出版会

ナチス占領下からの逃亡にはじまり、米投資銀行ラザード・フレールでのエイビス再建、
RJR=
ナビスコのLBO、松下のMCR買収……金融界を縦横無尽に活躍し、いまなお大きな発言力をもつ、F・ロハティンのめくるめく人生。
融界を縦横無尽に活躍し、駐仏大使を経て、いまなお現役の投資銀行家として大きな発言力をもつ、F・ロハティンのめくるめく人生。

プロローグ ナチス占領下のパリを逃れて
1940年 ナチ占領下のパリから脱出するため、義父と母とともに車でスペインを目指す。スペイン国境が閉ざされたことを知り、マルセイユから船で脱出を考える
ドイツ人の検問にかかったが、母が身分証明書の代わりに運転免許証を出し、兵士が煙草の火をつけながら前に手を振ったのを見て運よくそのまま通り過ぎた
マルセイユでも、「ブラジルのシンドラー」となった駐仏大使ルイ・マルタン・デソウサ・ダンタスが、本国の独裁者ヴァルガスからのユダヤ人以外のヨーロッパ移民に入国ビザを800限定で出せとの指示に対し、ユダヤ人にビザを発給、ロハティンは447番目に滑り込んだ ⇒ 大使は、その後解任・本国送還され、貧困のうちに死去
1942年 スペイン・ブラジル経由でニューヨークへ
2000年 大使として再びマルセイユへ。ゲシュタポのみならず自国国務省からの激しい反対を浴びながらナチスから多くの芸術家や知識人(大半がユダヤ人)を救おうとしたヴァリアン・フライに因んで、町の広場を彼の名前にしようとする式典に臨んでいた ⇒ 中東の緊張が高まるなか、フランス内務省の危惧にも拘らず、何事もなくスピーチをした

第1章        人生を変えた最初の幸運 エディット・ピアフ、そしてアンドレ・マイヤーとの出会い
バーモントの大学の最終学年の時、物理を専攻したがMITの受験に失敗、オルレアン郊外にいたビール醸造家の実父を訪ねて跡を継ごうと考えたが、重労働で断念、アメリカでの生活を覚悟して戻る途中の船中でエディット・ピアフと知り合い、彼女の英語の家庭教師となるが、彼女の失恋で英語が不要となり失職。義父の勧めで、同じヨーロッパにルーツを持つラザード・フレールのシニア・パートナーだったアンドレ・マイヤーに会いに行く
マイヤーから、ヨーロッパに行ってビジネスの基本を学ぶよう勧められ、ロンドンのサミュエル・モンターギュ、スイスのドレフェスで働き、通貨取引や貴金属取引を学ぶ
1950年徴兵 ⇒ 諜報部隊に配属、西ドイツにおけるソ連の軍部隊の位置確定を担当
1953年 除隊。1955年 他に仕事もないままラザード・ニューヨークに戻る
ラザード・フレール ⇒ アルザスから来た2人のニューオーリンズの綿花商人が1848年に創立した、アメリカのディープ・サウスにルーツを持つ幾つかの投資銀行の1つ。1927年に入社したマイヤーが、不況の最中にシトロエンを救って、ヨーロッパの金融界で頭角を現す。1940年マイヤーはニューヨークに移住。強力な人脈を築いてラザードを牽引

第2章        人生を変えた第二の幸運 合併買収部門への配置換え
ニューヨークで知り合った女性の父親が、シーグラムの創立者サミュエル・ブロンフマン
ブロンフマンの勧めで、マイヤーのやるM&Aを志願、57年からM&Aの道を進み始める
61年にパートナーに昇格

第3章        最初の大仕事= エイビス買収 「いっそう、がんばります」
RCA会長のデイビッド・サーノフの依頼で、サーノフの親族のためにAVISの買収を手掛けるが、事業の相乗効果のないことが分かり、ラザード自身による買収に切り替え、ハーツから人材をスカウト、ロハティン自身がラザードの利益代表として乗り込み、旧経営陣に代わって会社を切り回す ⇒ ビジネス旅行の急増もあって2年で黒字転換に成功
株価の急騰に気をよくしたマイヤーは、国際コミュニケーション網を拡大中のITTのハロルド・ジニーンに売却を持ちかけ、6535百万ドルの株式交換で成立、ラザードの当初5百万ドルの投資は5年で4倍になった。ただし、12年後にITTが売却した時は174百万ドル
人間関係の大切さを学ぶ
企業買収の成否は、偏に新会社が顧客により良いサービスを提供できるか否かに懸る。それまで頑張るしかない

第4章        「イケイケどんどん時代」の到来 ITT会長ジニーンとの親交
株式市場も合併主導型企業を好む
1959年ジニーンが会長に就任した頃のITTは、電話機の製造会社。海外事業の閉塞感を打破するために国内の事業基盤作りに走り、サービスと技術事業会社に照準を当て、買収によって時間を稼ごうとした
ラザードのパートナーに誘われてシリコンバレーに出張した際目にしたハイテク企業を紹介、ジニーンにとって初の買収に結び付ける

第5章        ハートフォード保険会社買収劇(その一) ベア・ハグ計画
1968年 アメリカでもっとも古い部類の会社であるハートフォード・ファイアー・インシュアランスの買収を提案 ⇒ 初の敵対的買収。「ベア・ハグ(抱きつき作戦)=飴と鞭」というやり方で、相当のプレミアムを乗せた株価で買収することを相手経営陣に提示し、それを公開するもの(TOB?)2年かけて15億ドルで買収が成立したが、免税措置との関係でIRSが、事業統合の関係で司法省の反トラスト局が横やりを入れる

第6章        ハートフォード保険会社買収劇(その二) ニクソン大統領登場
ITTの取締役に就任(元世銀総裁のユージン・ブラックも取締役の1)
司法省は、ITTの将来の活動に一定の枷をはめることで、買収を承認したが、反対派がITTによる賄賂があったとの言いがかりで反トラスト局をたきつけ、反ニクソンの民主党が総攻撃、証券取引委員会までが乗り出す展開に
チリのアジェンデ政権転覆に関しても、CIAの関与が取り沙汰され、しかもそれを後押ししたのがチリの資産が国有化されるのを恐れたITTで、反対派に多額の寄附をした事実が暴露される ⇒ 聴聞会でも合衆国やITTの関与は証拠づけられないままに終わるが、続いて起こったニクソンのウォーターゲート事件に巻き込まれ、ハートフォード和解を専門に調査する特別ウォーターゲート大陪審も設置された
1977年 ラザードがSECと同意判決を結び、将来の情報開示要求に応えることを条件に無罪放免となる
ウォーターゲートの完全な議事録が公開され、司法省の承認はニクソン大統領の指示だったことが判明。政治の舞台の物騒さを実体験

第7章        ハリウッド征服の夢 ワーナー買収でシナトラと交渉
63年 サーノフの従弟リチャード・ロスと組んでハリウッドに買収を仕掛ける ⇒ 69年 新生ワーナー・ブラザーズを標的に、拒否権を持つフランク・シナトラの満足する値段での買収に成功 ⇒ 20年後にタイムとワーナーによる140億ドルの合併となって完結したが、その時にはスティーブは死去。享年65は惜しまれる若さ

第8章        ウォールストリート崩壊の予兆 手数料自由化
投資家にとってはばら色の60年代
69年にロハティンは、ニューヨーク証券取引所の理事に推薦 ⇒ 規制も監視もないと同然の市場に参入した中規模の投資会社の破綻を受けて、取引所会員が破綻した場合の顧客保護の目的で特別トラスト・ファンドの設立が決められる
ファンドの設立が健全な会員にとって無限責任になることを恐れたが、現実のものとなる
家族経営の投資銀行の先頭を切って上場したのがDLJ(ドナルドソン・ラフキン・ジェンレッテ)で、手数料を自由化し、そのためのバックオフィス体制を公開して調達した資金で賄おうというもの、会員の多くが反対する中で強行 ⇒ 2000DLJはクレディスイスに1120億ドルで売却
小規模の投資会社が破産、顧客口座はトラストファンドにより救済されたが、増大する取引量に処理能力が追い付かず、信頼する財務諸表もない状況は他の会員会社にも共通した大問題だった

第9章        「監視委員会」は「危機委員会」 ウォールストリートは大混乱
69年後半から70年にかけてダウ急落、過熱した60年代は終焉
ベトナム戦争が激化、カンボジアまで波及、経済政策は破綻、ペン・セントラル倒産
投資会社も破綻が続出、NYSE内に監視委員会(委員長にロハティン、後に「危機委員会」として知られる)設置、会員各社が資本比率規制(負債総額を資本の20倍以内とする)に違反した過小資本の状況をどう改善するかを議論

第10章     危機から危機へ――デュポン一族対ロス・ペローの対決
最初の破綻懸念先ヘイドン・ストーン社は、大統領まで担ぎ出して救済したが、第二第三が出るのは必至
危機委員会は、会員各社の無限責任を決定
デュポン一族の経営する会員会社の再建策に一族が強力を拒否したため、EDSのロス・ペロー(IBM社員、データ・プロセッシングの会社を始め、60年代に急成長し莫大な富を築く)に救済を要請し、危機を回避 ⇒ 投資家保護公社の設立と、手数料の自由化が決定
会員各社の会計帳簿や年次報告書の整備・監視に注力
メディアの存在は、問題解決の上で避けて通れない、いやむしろ役に立つ存在。彼等には真実のみ語れ、言い逃れせず、正直であれ、されば危機は遠のく

第11章     「ロッキードの危機」は「国防の危機」
ロッキード社が、OPECの原油禁輸措置による原油価格の高騰とそれに伴う不況で苦境に立たされ、さらに日本の古参政治家に対する巨額の賄賂が露見したが、まともな投資家グループの組成と真っ当なビジネスモデルの構築により乗り切る
1975年 ニューヨーク市の財政破綻に直面、その後18年間にわたってその支援策に関与することになる

第12章     UDC危機」は「NYC(ニューヨーク市)の危機」
高物価、高課税に苦しんだ住民が逃げ出す一方、自治体の雇用者が3倍にも膨れ上がり、共和党のネルソン・ロックフェラー知事は、銀行からの短期借り入れ急増で凌ごうとする
Urban Development Corpの債務不履行を機に、銀行が州の短期債券の引き受けを拒否
ワシントンも州知事の援助要請を拒否、破綻は目前だった

第13章     メルトダウンの危機 「ヘロイン漬けの不良娘」
ITT絡みのスキャンダルで傷ついた汚名挽回もあって、ケアリー知事を助けてニューヨーク市の再建支援に乗り出す

第14章     次から次への資金不足 「悪臭の都へようこそ」
州の独立機関Municipal Assistance Corp.を設け、債券発行に踏み切る ⇒ 市政府が予算カットしたが、各組合がストで対抗。清掃組合は「悪臭の都へようこそ」とポスターを張り出し、パトロール巡査組合はニューヨークが「恐怖の都市」になったと宣言。市長が折れたために市債は10%も暴落
MACの権限を強化するとともに、組合の協力もあって綱渡りを続ける

第15章     こんなゴミために知事が来てどうする?
起債にも限界があったが、州や市の基金を説得し、資金供出に漕ぎつけて、危機は回避
ただし、州の発行した証券に連邦政府が保証を付ける法案は却下

第16章     「フォード大統領から市へ告ぐ、死ね!」 これでニューヨークは救われた
20%にも及ぶ人員削減や、公共運賃の倍増等、長期的な財政健全化に向けた収支改善策に着手
その矢先、フォード大統領が記者会見で、「自治体の債務不履行回避のために連邦政府が緊急援助する法案に拒否権を発動する」と発言、新聞は一面に「フォードから死へ告ぐ、死ね」と掲載、発言に反発した市民の再建策への賛意が一気に高まる
1975年末 フォードがニューヨーク財政緊急事態法に署名 ⇒ ほぼ危機は回避
1976年 カーターのニューヨーク市での得票が大統領選勝利に大きく貢献
1977年 エド・コッチが財政抑制を公約にして市長に選出
1978年 連邦議会はニューヨーク州に対し連邦長期保証を供与するプログラムを可決
1980年 市が均衡予算を提出
1981年 市が債券市場に再参入
1985年 MACの債券発行が終わる(最終的には100億ドルを超える残高に) 
⇒ 2008年 すべてのMAC債償還
1992年 ロハティンは、MACの議長職辞任
政治家は、厳しい予算に適応する勇気を持たなければならない。さもなければ、悪夢のような歴史は繰り返す

第17章     マイヤー氏、逝く そしてジャンクの帝王ミルケン、ボースキーとの出会い
1977年 スイスで病床にあるマイヤーから呼び出され、後継を託されたが、ラザードの一族であるデイビッド=ワイル家の孫を頭に据えて、非公開会社として質の高い取引に傾注するとともに、経営の安定性とバランスをよくするために新たにアセット・マネジメント事業を開始
80年代に入って国際金融と米国の金融制度の基本構造が大きく変化、企業の拡大成長プログラムが活発化し買収が巨大化かつ敵対化 ⇒ 60年代までの合併や買収は友好的な土俵で行われたが、70年代に入ってモルガン・スタンレーがこの不文律の「社会契約」を破棄
敵対的買収が一般化する中で種々の買収手段も開発されたが、その1つがジャンクボンドで、フィラデルフィアの老舗銀行だったドレクセルが、70年代の危機を乗り切るためにバーナムと合併、ミルケンがほとんど独力で最強銀行に、驚くべき速さでのし上げた
市場に飛び交う買収情報を利用して大きな相場を張ったのがリスク・アービトラージャーのアイヴァン・ボースキーで、乗っ取り屋と結託して標的を定め、株を買い進めたところで、ミルケンが乗り出してめぼしい買い手に買収資金を提供、株価を吊り上げたところでボースキーは売り逃げる
インサイダー情報が筒抜けだったが、SECによって摘発されるのはほんの一部
ミルケンからもボースキーからも一緒に仕事をしたいとの申し出を受けたが、全く肌合いの合わない連中だった

第18章     史上最大のLBO劇、RJRナビスコ(その一)  KKR参戦
1987年 世界2位のたばこ会社R.J.レイノルズと、国際的な食品会社ナビスコが合併してできたRJRナビスコのLBOで、会社側の投資アドバイザーのシアソンに対し、ラザードとディロン・リードが株主側のアドバイザーとして委嘱 ⇒ 総額200億ドル超と史上最大の買収であり、経営陣が巨額の利益を手にすることが目に見えていた
有力かつ競争力を持ったLBO投資会社が2社 ⇒ KKR(元ベア・スターンズの社員3人により設立)とフォーストマン・リトル
相次いでこの2社が買収合戦に参入、投資銀行の大半を巻き込む
新たな企業文化が生まれた嚆矢となる案件

第19章     RJRナビスコ(その二)「この男、乗っ取りで1億ドルをくすねる」
強欲なナビスコの経営陣を批判する記事が載る ⇒ 取締役会も経営陣に批判的
最終的に、経営陣とKKRの真向対決となり、@109ドル(スタート時点では55ドル)KKRが落札 ⇒ 最終的には、資金調達のために発行した40億ドルの金利見直し条件付きのボンドの金利負担がかさみ、KKR4050億ドル余分に払う羽目になり、バランスシート上のお荷物となった

第20章     日の目を見なかったディズニー買収 入園料1ドル値上げでこと足りたのに
RCAGEの合併劇に参加したきっかけは、ロハティンの顧客だった比較的小規模のテーマ・パークが敵対的買収されかかったのを救ったことにあった
MCA(=ユニバーサル)がシーワールドの水上遊園地に狙いをつけた時、買収が不成立だったにもかかわらず、ハリウッドの帝王とも言われていたワッサーマンからMCA取締役会就任を要請され受ける ⇒ MCAの役員にボブ・ストラウス(民主党会長)とハワード・ベイカー(共和党元院内総務)がいたからで、ロハティンは、公共政策問題に関心を持ち、インフレなき成長達成に自信を深め、政府内部の公職に魅力を感じていた
1984年 事業に陰りが見えて乗っ取り屋の格好の標的だったディズニーの経営陣が、株の買い占めに対抗してMCAに合併を打診 ⇒ ディズニーの株価を超保守的に見積もって拒絶。あとで考えれば、入園料を1ドル上げれば株価収益率も魅力的になったのに、生涯最悪の見込み違いとなった
次いで、RCAMCAに買収を持ちかけてきたが、企業文化が違い過ぎて破談に
その見返りではないが、昔のよしみもあって、RCAの買収対象を斡旋しようと動く

第21章     RCAGE合併 「面白いですね」とウェルチは口走った
1985年 RCAも傘下のNBCの好業績にもかかわらず株価が低迷していたこともあって乗っ取り屋の標的となっていたため、その救済相手としてGEのウェルチに話を持ちかけ、60億ドルのディールを成功させる
ウェルチは、ロハティンが長いキャリアで一緒に働いた人の中でジニーンと並んで印象に残るCEO ⇒ 人間を見る目があったのみならず、投資銀行の買収はペイしないとの自分の忠告にも拘らず、ラザードを標的にし、結局キダーを買収、不振に陥るとペイン・ウェバーと合併させ、最後はUBSにとてつもない高値で売却した

第22章     松下のMCA買収(その一) ハードとソフトの融合
ソニーが1988年にコロンビア映画を買収した時のソニー側の代理人だったマイク・オビッツに紹介され、彼から松下によるMCA買収の意向を聞かされる
ソニーのコロンビア以外にも、マードックがフォックスを、ジャンカルロ・パレッティ()MGM/UAを買収、アメリカ資本の映画スタジオは、ワーナー、パラマウント、ディズニー、MCA=ユニバーサルの4社だけになっており、ワシントンも神経質に
1987年のブラックマンデー移行株価が低迷、ラスベガスのミラージュ他幾つかのカジノのオーナーが株の買い占めに入る ⇒ 松下の友好的買収を受け入れへ

第23章     松下のMCA買収(その二) アメリカの偉大な文化資産の売却
1990年 総額66億ドルの買収が成立 ⇒ 非製造業の買収案件としては最大規模
95年 80%をブロンフマンのシーグラムに売却 ⇒ 企業文化の違いは埋めようもなく、MCAの事前の了解もなしにまたもオビッツが仲介、現金払いで総額57億ドル
           290ページ 1977年と誤記、価格も約60億ドルと大雑把
シーグラムは買収資金を、保有するデュポン株25%の売却で調達したが、それは81年にロハティンが尽力して手にしたものだった

第24章     幻だった連邦準備制度理事会副議長のポスト
1989年 タイムとワーナーの140億ドルの合併を実現させる
数々のM&Aに関与した後(生涯300件を超える)、多角化経営で自分の描く投資銀行の理想像―洗練された合議制の質の高い組織―とはかけ離れてきたラザードとは訣別して別の道を歩もうとしたところへ、96年にクリントン政権から世銀総裁の打診があり辞退、次いでFRB副議長に空きが出ることが分かり立候補するも、出所不明の中傷で断念 ⇒ その時「規律ある金融、強固な信用力、収支均衡、強い通貨、低インフレによる持続的成長」との持論を大統領宛に出したが、当時FRG議長のグリーンスパンは高い経済成長にインフレは必然的結果と主張していたのに、間もなくFRBの政策が変化し、技術先進性はインフレなき高度成長をもたらすという考えを強力に打ち出した

第25章     駐仏大使(その一) パメラ・ハリマンのたぶらかし
フランス駐在米国大使だったパメラ・ハリマンと食事した際、パメラのスキャンダルを暴いた本の著者による朗読会を、ロハティンの妻が館長を務めるニューヨーク・パブリック・ライブラリーで開いたことについてパメラが妻を非難したが、それを契機にお互いの仲が深まり、パメラからクリントンに自身の後任として推薦される
社会主義者のミッテラン大統領と会った時、MACでのニューヨーク市財政再建の時の経験談が大いに役に立つ ⇒ 自治体の労働組合に自己犠牲を納得させた体験はミッテランの到底考えの及ばないところだった

第26章     駐仏大使(その二) 裏切りと失望の末の勝利 
任命を待っている間に、パメラがプロの外交官(インド大使ワイズナーで、父親がCIAの創設者)を後任に推薦、97年パメラがリッツのプールで事故死
ワイズナーが引退してAIGの副会長になることで決着

第27章     駐仏大使(その三) 初仕事はダイアナ妃追悼
97.8. パリ着任、公邸で過ごす初めての晩にダイアナ妃が事故死
フランス人が市場資本主義に関して抱く胡散臭さを払拭し、大衆資本主義について解き明かすことを任務として組み入れ
98年 仏米地方都市美術館交流協会を結成、7カ所にAmerican Presence Postを設置して米仏地方都市間の交流プログラムを積極的に進める
98年 仏米ビジネス協議会の立ち上げ ⇒ 両国の企業間には驚くほど対話が少なく提携関係も稀だったが、自らの人脈を使って協調関係をお膳立て

エピローグ 人生は不思議、原点に戻る
05年 ケネディ・スクールで講演、「強欲は今やアメリカ市場資本主義と投機活動の強力な推進力になってしまった」「今の財政政策が続けば、グローバルな金融危機がいつ起こってもおかしくはない」と警告
324/335ページ リーマンの会長 フルド
06年 リーマンのファルドからの誘いで、彼等のヨーロッパの投資事業のコンサルタントを引き受け、リーマンの中にオフィスを持つ
直面する危機から脱出する道
   市場の投機性の検証と巨額の報酬という不均衡の是正
   金融規制の強化と、セーフティネットの確立
   きちんと規制監督された市場資本主義の実践
ラザードに復帰

訳者あとがき
1970年代ニューヨーク駐在。マイヤーの孫息子と親しくしていたこともあってラザードに出入り
ロハティンの基本的な考え方
   人は、摩訶不思議な運命に手繰られ、寄り道をしながら、思いがけないところに連れて行かれ、そこで大きなサプライズを経験するという考え方
   資本市場経済への礼賛と、その一方で要求される倫理規範の問題 ⇒ 規制・監督・倫理を強調するが、今日の行き過ぎた資本主義を助長した先駆者こそロハティン
   政府は大きな経済危機に際して介入すべきという、ニューディール的施策の信奉者



日本経済新聞 書評 2013.1.6.
1940年にナチス占領下のフランスを脱出し、米国で活躍した伝説的な投資銀行家が波乱に満ちた人生を綴った。株式委託手数料の自由化、RJRナビスコを巡る巨額買収騒動、現パナソニックによる米映画会社MCAの買収――裏方としてかかわった出来事は、ウォール街の歴史に欠かせないものばかりだ。70年代にニューヨーク市の財政危機を解決し、同氏の名声をとどろかせた一件についても述べている。


YS/2001.12.13
    ビッグ・リンカー達の宴(うたげ)-6
ロハティンとロッキードとエンロン
 次世代主力戦闘機「JSF」の発注先企業に決まったロッキード・マーチンは、1994年に最大手のロッキードと第4位のマーチン・マリエッタが合併して生まれた会社である。このロッキードは、1970年代には再三の経営危機に陥ったことがある。
 現在のエネルギー大手のエンロン破綻問題や同時多発テロをきっかけに世界的に始まった航空業界の再編成を見る上で参考としていただきたい。
 1971年にロッキードはL-1011トライスター機の生産のため、バンク・オブ・アメリカ(現在ネーションズバンクが吸収合併し、新バンク・オブ・アメリカ-BOA)とバンカーズ・トラスト(現在ドイツ銀行により吸収合併)を共同主幹事とする24行からなる銀行団により4億ドルの回転信用枠を設定していた。
 このトライスターの最大の発注先であるイースタン航空(89年破産宣告、91年操業停止)は、その購入資金と見られる3億ドルの信用協定をチェース・マンハッタン・バンク(現JPモルガン・チェース)をエージェントにファースト・ナショナル・シ
ティ・バンク(現シティー・グループ)、ケミカル・バンク(現JPモルガン・チェース)などからなる融資団と締結していた。
 しかしこのイースタン航空が経営危機に陥り、トライスターの納入延期を申し入れたことからロッキードは再び財務危機に見舞われる。
 この時、慌てふためいたのがロッキードとイースタン航空の大口債権者であるバンク・オブ・アメリカ、バンカーズ・トラスト、チェース・マンハッタン・バンク、ファースト・ナショナル・シティ・バンクなどのマネー・センター・バンクであった。
 ここで登場してくるのがラザードのフェリックス・ロハティンである。
 ロハティンが折衝役となってそれぞれ3千万ドルの融資枠を引き受けた7行からなる「再建委員会(代表はバンク・オブ・アメリカ、バンカーズ・トラスト)」を設立し、当時の有力コングロマリットであったテクストロンにロッキードを買収させる計画を打ち出す。しかし、この計画は、テクストロンからの買収条件に銀行側が難色を示し、753月に挫折する。
 再度ロハティンが登場し第二次ロッキード再建計画を練ることとなった。
 その内容は、新たに設定した6億ドルの融資協定を75年末から77年末まで延期し、非政府保証分の一部をロッキードの優先株、普通株、転換社債に銀行側が振り替えようとするものであった。その矢先、日本をも巻き込んだ大事件が起こる。ロッキード事件である。
 19758月、米上院銀行・住宅・都市問題委員会(プロクシマイヤー委員会)で、ロッキード不正海外支払い問題(2200万ドル)が明らかになり、銀行側は大きなショックを受け、足並みが乱れることになる。シカゴ・ファースト・ナショナル・バンク(現バンク・ワン)のロバート・アブド会長は、親友である米上院外交委員会多国籍企業小委員会のパーシー上院議員に実情を確認し、バンカーズ・トラストのリアリ副社長に最後通牒をつきつけた。ロッキードのホートン会長-コーチャン社長ラインを解任しなければ、ロハティンの第二次ロッキード再建計画への参加を撤回するという内容である。
 そして翌年19762月、米上院外交委員会多国籍企業小委員会でロッキード不正暴露第二弾が出るに及んで、ニューヨーク4大銀行(バンカーズ・トラスト、ファースト・ナショナル・シティ・バンク、チェース・マンハッタン・バンク、モルガン・ギャランティー・トラスト)が一斉にロバート・アブド会長の主張に合流しはじめ、ホートン会長-コーチャン社長ラインは辞任することになる。ホートン会長は後任としてアンダーソン財務担当副社長を指名したが、失敗に終わり、ニューヨーク財界で評価の高かったロッキードの社外取締役ロバート・ハーク氏が暫定会長兼経営最高責任者に就任する。
 同時にホートン、コーチャン両氏は、カリフォルニアの諸銀行との取締役兼任も解かれることになり、西部財界におけるいっさいの地位も失う。これは、両氏と強いつながりを持っていた共和党のニクソン元大統領にとっても大きな痛手となった。
 結果としてロッキードにおける西部財界の影響力は弱体化し、代わってニューヨークを中心とする東部金融界の強い影響下に置かれることになる。
 ウォーターゲート事件でニクソン大統領を辞任に追い込んだワシントンポスト紙とロッキードと東部金融界を結びつけていたのが、ラザード・フレールであり、その中心にいたのがアンドレ・マイヤーとフェリックス・ロハティンであった。
 しかし、これだけではラザードを分析したことにはならない。ロッキードとロールスロイスとの深いつながりは、ロンドンのラザード・ブラザーズを知る必要がある。
 なおエンロンの本社はテキサス州ヒューストンにある。ブッシュ大統領の地元である。そしてエンロンとそのケネス・レイ会長自身は、ブッシュ大統領の最大の献金者であった。
 エンロン破綻で1050万ドルの損失を出したアマルガメーテッド銀行は、エンロンの幹部ら29人に対して、インサイダー取引の疑いで提訴したのに続き、1211日にはエンロンの最大の債権者であるJPモルガン・チェースも対象資産21億ドルを超える債権の回収を目指し、ニューヨーク州の連邦破産裁判所で訴訟を起こす。
 そしてワシントンポスト、ウォール・ストリート・ジャーナルなどが一斉にエンロンとブッシュ政権の関係を追及する動きを始める。
 登場する名前が奇妙にも一致しているようだ。カリフォルニアとテキサスを置き換えれば、今回のエンロン破綻問題が「ブッシュ-テキサス包囲網」と見ることもできる。
現在のフェリックス・ロハティン-
 「ディナーの場には目的があるのよ。」
 こう言い残したのは、19972月に死亡したパメラ・ハリマン駐仏米国大使である。「宴」に最もふさわしい女性であった。彼女の名前はとても長いのである。パメラ・ベリル・ディグビー・チャーチル・ヘイワード・ハリマンという。英国貴族出身のパメラ・ベリル・ディグビーは、生涯3人の男性と結婚しその名に刻まれた。チャーチル英首相の息子ランドルフ・スペンサー・チャーチル、ブロードウェイのプロデューサーであったリーランド・ヘイワード、鉄道王であり、ブッシュ家と深いつながりのある名門投資銀行ブラウン・ブラザーズ・ハリマンで知られるハリマン家のW・アヴレル・ハリマンである。また、彼女は恋多き女性としてバロン・エリ・ロスチャイルドやフィアットのジアンニ・
アニェリとも浮名を流したこともある。
 「大変美しい女性で、見事な大使で、おそらくベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファソン以来の最高の大使の一人だ」とシラク仏大統領は、最大級の弔意を表明し、国家元首級に贈られるレジオン・ドヌール章の最高位グラン・クロワが授与された。
 19977月、クリントン前大統領は、このパメラ・ハリマンの後任としフェリックス・ロハティンを駐仏米国大使に任命する。フランスといえば、ラザード・グループ出身の地であり、総本山であるラザール・フレールが今日でも一大帝国を築いている。
 今年73歳になるフェリックス・ロハティンは、第2章で紹介したパウエル卿がいるルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー(LVMHーフランス本社)とこれまでに再三登場した自動車大手フィアット(イタリア)の取締役である。また外交問題評議会(CFR)のメンバーであり、戦略国際問題研究所(CSIS)の理事にも選ばれている。
 仏伊米にまたがるラザード・グループの中心に位置するビッグリンカーであるが、現在、ロハティンが取締役を務めるアメリカ企業は、21世紀の主戦場の渦中にある。


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