ガラスの帽子  Nava Semel  2023.12.18.

 2023.12.18.  ガラスの帽子

Hats of Glass

 

著者 Nava Semel ホロコーストを生きのびた両親の元、1954年テルアビブに生まれる。テルアビブ大学にて美術史のMAを終了後、ジャーナリスト、テレビ、ラジオのプロデューサーを経て作家になる。数多くの小説、詩集、ミュージカルやオペラの脚本、児童書、YAは数か国語に翻訳され、各国のメディアで放送、上映、また舞台で上演されている。執筆の主な題材と源はホロコーストだが、体験そのものではなく、ホロコーストをくぐりぬけた親をもつ次の世代の人間模様を描いている。子や孫たちが受け継いださまざまな人生観や暮らし方を、〈ガラスの帽子〉と称して、決して見えはしないが、脱ぎ去ることのできない人格形成の重要な一部としてとらえてる。ほかに、「Becoming Gershona」、「Flying Lesson」、「Bride on Paper」「Love for Beginners」などの優れた作品がある。ナヴァ・セメルは2017年に63歳で病死するまで、イスラエル国内はもちろん、アメリカやドイツ、オーストリアなどの海外で、数々の文学賞ならびに演劇賞を受賞している

 

訳者 樋口範子 1949年、東京生まれ。立教女学院高校卒業と同時にイスラエルに渡り、2年間キブツ・カブリのアボカド畑で働く。帰国後、山中湖畔にある児童養護施設の保育士、パン屋、喫茶店運営を経て、現在はヘブライ文学の翻訳をライフワークにしている。訳書に『キブツその素顔』(ミルトス社)、『六号病室のなかまたち』『もうひとりの息子』さ・え・ら書房、『ぼくたちに翼があったころ』福音館書店、『もりのおうちのきいちごジュース』徳間書店などがある

 

発行日           2023.6.15. 第1刷発行

発行所           東宣出版

 

本書の翻訳出版にあたり、イスラエル大使館の後援を受けています

 

²  ガブリエルとファニー

(訳者あとがき) 191959年の著者の語る祖父母とその家族の超短編サーガであり、彼女の作家としての原点。結局、再婚した元夫婦は8年間を共に暮らし、先に夫が他界、その10数年後に亡くなったファニーの棺は、なぜか夫から少し離れた墓所に埋葬。本作品は、何事も課せられた運命だと受け入れ、あえて抗うことをせずに生き抜いた時代の女たちへの鎮魂歌

1919年、祖父は、祖母と生後6か月の子(私たちの父)をヨーロッパに残しアメリカに出奔。あの時代離婚も、死別と同様子どもには絶対聞かせてはいけない話題

アメリカはイディッシュ語で「黄金の国」と呼ばれ、ニューヨークには金融街があるという噂が飛び交い、暮らしが落ち着いたら呼び寄せるという約束だったが、約束は不履行

エリス島の移民博物館の当時の書類によると、ガブリエル・ヘルツィグはヨーロッパに妻を残したとの申告はあったが、1人息子のイツハクについての記載はなし

ルーマニアのブコヴィナで育った父は、父親の不在をからかわれて育ち、「孤児だった方がよかった」と述懐して、私は胸が痛む

祖父は、マンハッタンで別のアパートに住むカルラ・メンデルと30年以上にわたって付き合う。株売買の相場師となりエキサイティングな新世界を闊歩

祖母は、聖書に則り、事実上の寡婦で、息子について回り、息子は母を生きる望みのないドニエステル(ウクライナ国境の町)への移送から救い出し、無理矢理シオニストに変身させるが、祖父にとってパレスティナは全く眼中になかった

祖母は、第1次大戦に4年従軍した祖父を婚約者として待ち続け、1917年結婚したものの、再び乳飲み子と共に残されるが、夫への愛と忠誠は揺るぎなかった

1946年、ホロコーストを免れたイツハクは、若きシオニストの活動家として、パリ開催の青年シオニスト会議にて、ユダヤ系アメリカ新聞の記者インタビューを受ける。その記事を見たガブリエルは、初めて息子の無事を知り、居場所を突き止める。3年後キブツ(集団農場)での長男シュロモの割礼式に、祖父は息子と孫に会いにきて、家族は初めて顔を合わせたが、ファニーは出迎えなかった。祖父母の再会の証言はなく、2人が一緒に映る写真だけが残っている。正式は離縁状を手渡した祖父は、彼女を不安と孤独から解き放った

祖父は、建国直後のイスラエルに何の魅力も感じず、辺境にあって望みがないだけでなく、キブツは「共産主義の砦」と突き放し、シオニズムにいたっては「奇妙な冒険」だと言わんばかりで、息子に一緒にアメリカに行くか、自分が息子たちを置いて行くかだと言い放った

父にとってはイスラエルはただ1つの居場所であり、アウシュビッツから生還した母ミミにとっても同じで、他の選択肢はなかった。父は苗字をヘブライ語のアルツィに変える

それから10年後、祖父は突然戻ってきた。カルラから、ガブリエルがもうすぐ失明し、自分は介護する積りはないとの手紙が来て、6か月後に父が引き取った

祖父母の愛憎物語は、私たちの暮らしにも波風をたてる。ユダヤ教の戒律では離婚した祖父母は一緒に暮らせない。兄は祖母と、私は陰気なアメリカ老人の足元で寝ることになり、垂れ込める暗雲に窒息しそうだったが、祖父が祖母に復縁を持ち掛け、祖母が承諾。「若いカップル」はイスラエル法に基づいて格安のアパートを入手する権利があり、近くに居を構えた。祖父が持ち帰った新車だけが我が家に残った

祖父は絶望状態で不満ばかりを募らせ、祖母に悪態をついていたが、祖母は冷静に我慢強く受け止める。父も祖父を最後まで見捨てず、その寛容な姿には頭が下がった。父はイディッシュ語で「血は水よりも濃い」という代々受け継がれた格言を戸惑いつつ口にした

3年後、カルラが派手な格好で飛び込んで来た。祖母と同じく、子供がいなかったカルラも貞節を守ったというから、兄と私は彼女の孫同然だったに違いない

カルラは祖父母の家に数週間宿泊、女性2人はなぜかうまく付き合い、2人の女性を翻弄した男に対して2人は意気投合し、その報いを倍増して懲らしめた

この奇妙な愛のサーガによって創作の泉をもたらされた私は、幸せな娘ということか

 

²  ガラスの帽子

(訳者あとがき) ある生還者の1人称で語られ、1942年の強制連行から約3年間の収容所生活とロシア軍による解放が描かれる。従軍慰安婦だったクラリサという女囚人は、ナチスの女将校の愛人。彼女は逆境の中にあっても、自分が卑しめられても尚、同胞を深く思いやり、病に倒れたものの世話や看取りまで駆けつける。戦後、パレスティナに移民したであろうクラリサと主人公の2人が道ですれ違っていたとしても再会できないのはなぜか、読者には分かるに違いない

これは実話ではないが、長い年月を経て、実話からこぼれ落ちたきれぎれの記憶を私が集めたもの

終戦の3カ月前、3年間に結婚し共にハンガリーに住んでいた夫がすでに煙と化していたことなど知る由もなかった。私の中で丸2カ月の命を生きた胎児も消えた

わずか1世代後に、収容所跡を見に行った私の息子は、傷心を抱えて帰ってきれ、あの場所がすべて草で覆われていると言った。忌むべき場所を、創造主がなぜこんなにも早く忘れてしまうのかと自問。この場所を呪う者たちのその呪縛が解ける日まで、主は辛抱強く待ってはくれなかった

両親から受け継いだこの顔形で、ナチスの最後の選別から生き延びることができたのだろう。今自分の子どもたちのふっくらとした顔の輪郭を見るにつけ、かつての私が元気で、まだ十分に働けると思われたのがわかる。労働に耐え得るものとして選別された私たち女子500人は貨車に乗せられ、残った者たちの慟哭を聞いた。4日間貨車に揺られて着いたのはドイツの労働キャンプ。高熱を出した時に助けてくれたのが囚人の中に紛れ込んでいるスパイのクラリサ。彼女は時々夜中に看守の女将校に呼び出される。クラリサが、ロシア軍が近づいていることを教えてくれ、彼女は最早神のいないヨーロッパを離れて、親戚を頼ってパレスティナに行くという

30年後の今60歳の誕生日を迎える朝、孫を連れてナチスに押し入られた家に行く。前の夫と暮らした家とはいえず、孫の祖父と連れ合うと決めた時、最初に愛を誓った男を記憶の奥深くに葬った。ナチスに仕返しをしたいとは願わず、ここに連れてきた孫に、ナチスの支配者たちは私に打ち克つ事は出来なかったのだと、自分の目で見て欲しかった

解放の前日、私たちは労働キャンプに取り残され、夜明けに待っているとロシア軍が到着、やせ衰えた女たちの姿は兵士たちに何の情欲も起させなかったようで、ロシア軍将校から私たちに最も大事な身分証明書類を手渡してくれた。行列の中にはクラリサが相手をしていた女将校が囚人服を着て紛れ込んでいた。すぐに将校に見つかり、泣き叫ぶと射殺

実家に戻ってみると、なんと両親は生き長らえていた

テルアビブに移る。暗黒が横たわっていても、そのうち消えるし克服できる、そのうち癒されると誰もが言う。私は太陽や新たに降り注ぐ陽の光には感謝している。しかし、哀しみや苦しみは、子どもたちの頭の上でほっと息をつくガラスの帽子、私にはそう見える

 

²  でも、音楽は守ってくれない

(訳者あとがき) 1970年前後にユダヤ教に改宗したドイツ人女性ヴェロニカが、結婚前夜に夫になるウリヤに宛てた手紙。ドイツの片田舎に生まれ育ったピアニスト・ヴェロニカは、幼い時に1冊の本を通してユダヤ人迫害を知り、同情心と加害者意識を募らせた。やがてイスラエルを旅して、ユダヤ人男性ウリヤと恋に落ち、実家の反対を押し切って結婚するが、ユダヤ教の神を知ろうとすればするほど。キリスト教とは余りにも違う異なる神の概念にとまどう。実際、ユダヤ教で聖書といえば旧約聖書のみを指し、キリスト教でいう父と子と聖霊の三位一体という概念も十字架の贖(あがな)いもない。ウリヤという名前は、旧約聖書サムエル記第211章に登場。あえてヒッタイト人ウリヤと人種名を記してあることに、著者がこの作品で、異人種間の結婚を裏付けたのではないかという解釈もできる。このほか、本文には創世記、ヨシュア記、詩篇、ヨハネ黙示録に基づく深層も見え隠れする。一方で、聖女ヴェロニカは、聖書には記述がない。受難の道行きでスカーフにキリストの顔が写ったというヴェロニカの逸話の最古の伝説は、2,3世紀に書かれた『ニコデモ福音書』『ピラト行伝』による。伝説とはいえ、実に存在感のあるローマ時代のエルサレムの女性だった。本作品に登場するドイツ人とユダヤ人の母親の、それぞれが抱える世間的な葛藤はともかく、ヴェロニカを思いやる真の母性が双方とも尊く描かれている

オーバーバイエルンの僻村で弁護士とピアノ教師の間に生まれた私は、ピアノ漬けの毎日

祖父は司祭でその弟はナチ党員。ユダヤ教の洗礼を受け、ユダヤ人の書物を読み始め、神秘主義に驚かされるとともに、自分の内面にある屈しない強さを見る

婚約者ウリヤの両親に紹介された時、父が国防軍の兵士だったことを告白すると、ウリヤの母親が、「あなたのお母さんは、その貨物列車が通った時、きっと何か演奏をされていたんでしょうが、でも、音楽は守ってくれなかった」といい、父親は私の手を握って捕虜かのように見つめ、「今でもピアノを弾くか」と聞くので頷くと、「ピアニストの手ではない」と言った。灰色の肉団子を出され、吐き気がしたが、ウリヤにせかされるように食べると味がしなかった。お母さんが「代々伝わる魚料理なの。私たちユダヤ人は伝統を守り、すぐに忘れたりはしない」と言った。両親にはとんだ重荷を背負わせてしまった

子が生まれた時、その子の運命は両親には分からない。親がつけた名前は、願いを込めた一つの鍵で、そこに運命の道が隠されている

私達ドイツ人には、夫の両親を新たな肉親と捉える習慣がある。義理の良心を、「お父さん」「お母さん」と呼ぶ。ウリヤの両親とは共に人生の峠を越える前に、私たちは既に憎しみの柵に絡まっている。ウリヤの母親から呼び出され、恐る恐る行ってみると、ポシェットを差し出され、「もらってくださる? あなたにお返ししたいの」と言われる。家族の形見かと聞くと、「家族の思い出や形見はここにある」といって自分の頭を指さした。ポシェットは、ロシア軍に解放された時、ロシア兵がドイツ人から取り上げたものをもらったのだという

いずれ私にも子供が生まれる。音楽は守ってくれなくても、私はあなたに守られる

 

²  ルル

(訳者あとがき) 時代背景は、ベングリオン首相への言及から、1950年前後と推定。著者は肝心な動詞を省いているが、行間に隠れた少年と少女の本心は、きっと読者には読み取れるはず。アイスキャンディ―という、あっという間に溶けてしまう大衆冷菓が、当時の新旧及び世界各地に出自を持つ移民同士の距離感を、名脇役で演じている

子供の頃僕が女友達と一緒に浜辺で懸賞応募のために必要なアイスキャンディの棒を探していた時、移民でヘブライ語のできない少年を見かけて声を掛ける。懸賞応募に必要な22文字を集めようとしたが、日暮れになってお金を使い果たし、諦めかけたところ、最後に残った2本のアイスキャンディをお店の人がくれる。食べかけを移民の子にやったらおいしそうに食べた後のスティックに、最後に必要な22個目の文字が書かれて、見事に応募できたが、最終抽選に漏れた。女友達は日頃運が強かったが、この時ばかりは移民に軍配

 

²  2つのスーツケース

(訳者あとがき) ナヂノ戦犯ルドルフ・ヘスがシュパンダウ刑務所で90歳を迎えたという記述から、1980年前後の背景と推定。物語の要となる米司法省特別調査部は、イスラエルのモサドとは別組織で、19792010年実在。ここに登場する役人が何度カマをかけられても自分の出自を明かさなかったことからも、諜報部的活動をしていた可能性もある。この物語は母と子の間にある相矛盾した愛憎が描かれるが、ある意味、普遍的な母と子の心理だろう。特記すべきは、戦後しばらく、ホロコーストの生還者はイスラエル国内にあっても、現在のように同情、支援されるどころか、ナチの言いなりになった弱い羊だと侮辱と差別の対象であり、その屈辱の身を隠して暮らさなくてはならなかった事実である。主人公エイタンの妄想でもある夢の章で、「対象外」となった194285日以降という日付が、もしエイタンの生年月日だとすれば、当時彼は38歳。日付を1つの境として、それ以降を除外なり無効とするという考え方は、旧約聖書の出エジプト記第1章でも言及された、いわゆる生死を分ける選別条件だという解釈もある

両親がアメリカに旅立つのを見送った後、1人息子で大学で教えるエイタン博士は図書司書の彼女ヤルデナの家に行く。3年付き合いながら一緒にならないエイタンを、ヤルデナの友人たちは別れろという

母が渡米したのは、米国司法省の役人が、アメリカ市民権を得て暮らす元ナチス犯罪人訴追の為、戦時中の犯罪行為の被害者だった母を探して証言させるためで、エイタンは、母の老齢を理由に断ったが、母は証言するという

母の口癖は、「あなたは将来、私たちが失ったすべての人生を生きるのよ」デアリ、「私に課せられたのは、彼らの失った人生を埋めること」だとエイタンは認識しているが、息子に早く身を固めて欲しいという彼らの期待が裏切られたのは、私も彼らと同じ離散民だという辛い事実を隠していたからだということを両親は気づいていない

ヤルデナの妊娠を機に、両親がアメリカから戻ってきたところで、空港からユダヤ教のラビの事務局に直行し、母は白いスカーフをヤルデナの髪にそっと被せたが、手をかざしても髪には触れずキスも巣瀬、息子の手を取って、「あなたは今、神聖なる新郎よ」と言った

 

²  フォンダと同乗した日

(訳者あとがき) 著者自身の1980年の体験。当時夫の仕事の関係でアメリカに暮らす著者が、何かの縁で43歳のフォンダとリムジンに同乗。フォンダの幼時、父親ヘンリー・フォンダの浮気を苦にした母を自殺で失っている。以来、世間に知られているように、父親との長い確執があった。美しい名画《黄昏》が1981年で、父娘の和解の微妙な時期に、両者は出会ったことになる

26歳の私はジェーン・フォンダと同乗。フォンダとの接点は、フォンダがダッハウ生き残りのユダヤ人老女が幸せを築いた後でも、過去の幻影に悩まされるのを聞かされ、私も母が同じ幻影に悩んでいることを知ったのがきっかけ。私はフォンダに言う、「母の痛みは、母の胎内とその体を私たち子どもに通って伝わり、確実に受け継がれている」「子どもを生み、血の汚れや死の灰の臭いが子どもたちに沁みついているのではないかと、母親たちは不安にまみれている」。フォンダの母親もまた、苦しみから逃れられなかったので。母親は手首を切って命を絶った。血の汚れと死の灰の臭いが彼女の頭をかすめたに違いない

 

²  ファイユームの肖像画

(訳者あとがき) 9篇中唯一、ホロコーストの生還者だった母親が全く悪夢に触れず、いつも陽気でPTSDとは無縁だと信じていた、実に稀な次世代の内面が描かれている。物語に織り込まれた縦糸は次世代が先代から受け継ぐものは一体何か? 横糸は家族とは、国家とは、民族とは何か? という大きな問いかけである。主人公エリシャは、妻も子も自分のコレクションや夢を理解しないことに失望する反面、先代の叫び声を聞き逃した身勝手な自分を振り返る。また、アレキサンドリアの骨董店で、買い手のライバルを前に、女の肖像画と何としてでも手に入れたい主人公の「死んだというが、私は知らなかった」という発言は、コスモポリタンのユダヤ人独特の詭弁がかった生死感だと思われる。その直後に、アルメニア人の敵意ではなく恐怖に満ちた罵声を浴び、さらに店を出た後、気のいいアラブ人の「ホロコーストはあったのか?」という無邪気な問いに、主人公の内面に変化が起こる。焼きトウモロコシと焼き栗の時空を超えた郷愁にも、何かが呼び覚まされる。地中海に臨む同じ海岸線で、わずか600㎞しか離れていないアレキサンドリアとテルアビブの宗教や文化の違いを、著者は左右の命という1つの繋がりをもって表現する。読者には、検索ワード「ファイユームの肖像画」で、かつて古代ローマの属州エジプトで描かれた、鮮やかな肖像画に出会ってほしい

子どもが結婚する前から2人の間の愛は失せてしまい、私は書斎にこもって骨董を蒐集

ファイユームの3人の男の肖像画が宝物。母が少女時代か過ごしたギリシャのサロニカからの移民の道連れだったもので、子どもの頃棚から落ちてきたところ、少年の肖像画を一目見て心を奪われた。長年大事にしまっておいたところに、骨董仲買人から、女の肖像画がアレキサンドリアで売りに出たと聞かされ、胸が高鳴る。買い手のライバルがいたが、「不良品だ」といって直ぐに降りた。自分にはそのままで十分だった

 

²  ハルニレの木

(訳者あとがき) 1960年代のホロコーストをくぐり抜けた移民の、ある暮らしぶりが描かれている。ここでも肝心の動詞や名詞が省かれているため、「ハルニレの木」をはじめ、「休養」「縄跳びの紐」「世界中の森に生きる樹木」などの文言の真意が読者に届くことを願ってやまない。例えば、少女にとっての「鉛筆の削りかす」は、犠牲者たちの化身と思われる。この作品でも、光と影が単なる明るさと暗闇でないことが分かり、詩人でもあった著者の言葉の力に感じ入る

母が重い病の床について長い。弟はヘルパーになつくが、私は気に入らない。世界の樹木を書いた本を図書館で借りてきて読みながら、ハルニレの木を描いて母の枕元に飾る

母さんを家から運び出す前日に事が起こった。ハルニレの木の絵は母さんの手に握らせて、その動かなくなった体を覆う時にもそのままにしていたと女は言ったが、今になってみると本当にそうだったかはっきりしない

 

²  家族写真

(訳者あとがき) 作者の1人称でリアルに語られる。この中で、彼女が息子に問いかける人間の愚かさは、2023年現在の殺伐混沌とした世界情勢にあって、まさに進行形であることが誰の目にも明らかになった。「地球全体が1つの大きなガラスの帽子をかぶっている。空にいる私には、それがよく見える」という著者の声が、訳者の耳にも届き始めた。そう、愚かさや哀しみ、惨めさや苦しみはもう、民族や地域限定ではなくなった

1941513日に撮った母の写真がある。私の息子は、おばあちゃんがどうやって生き延びたのか知りたくてたまらない。私の母は「丸顔だったから」、たしかにそう言っていた。その謎を解く手がかりは古い写真に隠されている。強制連行されて夢を奪われる前の写真だが、半分にちぎれた人生を数えられる人がいるだろうか

この数カ月後、あなたの祖母は連行され、窓のない家畜用の貨車に押し込まれた。酷な部分は今はすっ飛ばして話すことにする。そうやって私も守られてきたから、あなたをも怖がらせてはいけない。2枚目の写真は1950年代テルアビブで私と兄と母と撮ったもの

戦後の次世代に何が受け継がれたのか? 大人たちは指針を失い、途方に暮れていた。神がいるか?いないか? それはもはや重要な問題ではない。果たして人間がいるか?いないか? 人々はそのことをやっと本気で問うようになった

3枚目の写真は、私の3人の子供達と祖母が写る。やっとおばあちゃんに笑顔が戻った

選別者のナチスの医師が、母の丸顔を見て、少なくとも労働に耐えうると判断し、数秒ですべてが決まった

1988年、死の選別から約50年がたち、母の腕の中ではひ孫が眠る。同じ顔の輪郭があると分った時、自分の手がいくらか震え、私は深く息を吸い込んんだ

2001年、ひ孫は2人になり、万能スマホを通して家族から母に届く新しい写真に、私はほっと息をつく。そんなカメラ店も、私たち家族の顔形を変えたりは出来ないはずだ

母はほぼ90歳になり、愛に包まれ、私たちと共に互いに助け合って暮らしている。私たちは、初めからふっくらした丸顔の家族。これからもずっと

欄外追記

母マルガリータ(通称ミミ)は、20171118日、96歳で死去。その2週間後の122日、娘のナヴァ・セメル死去、63

 

訳者あとがき

本書は、1985年刊の『ガラスの帽子』に、2019年追加編集・刊行による短編集『ガラスの帽子』から選出した9

〈ガラスの帽子〉とは、ホロコーストをくぐりぬけた親をもつ子や孫が、決して見えはしないが無意識のうちに頭に被り、脱ぎ去ることのできない身体の重要な一部の比喩である。そして、そのガラスの帽子を目にする親たちは、図らずもいっときの安息を得るのだった。

この9篇にはホロコーストの光と影が書かれ、思いがけない光の存在を読者は知る。著者が常に目を凝らしたのは、左と右、表と裏、水面と水底という、ある時は似ているように見えて実は全く別の、しかし対になっている2項対立の不思議だった

用語解説として、「パレスティナ」とは、ペレシテ人を語源とする現在のイスラエルを含む、アラブ人、ユダヤ人、遊牧民が共に暮らしていたパレスタイン地域一帯をさし、パレスティナ自治区のみをいうのではない

 

(書評)『ガラスの帽子』 ナヴァ・セメル〈著〉

2023812 500分 朝日

『ガラスの帽子』

 次世代に続くホロコーストの傷

 海辺に座り砂をさわっていると、中から色とりどりの宝石がぽろぽろ出てきた。そんな読書体験だった。

 ナヴァ・セメルという作家をこの本ではじめて知った。冒頭を飾る超短編「ガブリエルとファニー」は、彼女の祖父母の名前を冠した一族のサーガだ。

 20世紀初頭、祖父はヨーロッパに妻と生後6カ月の息子を残し、アメリカに移民した。暮らしが落ち着いたら呼び寄せるという約束は、彼がニューヨークで株の相場師になったところで果たされなかった。別の女性ができたのだ。それから戦争があり、ホロコーストがあった。戦後、祖父は建国したばかりのイスラエルにやって来て、迫害から生還していた妻と再会し、離婚する。ところが10年後、病で失明すると、祖父はのこのこと舞い戻ってくる。世話をする義理などないのに、祖母はそれを受け入れる。あまつさえ、祖父からの二度目のプロポーズも。

 このときの結婚式の写真がある。祖父母に挟まれて無邪気に笑っている幼い少女が著者だ。彼女はこの長大で濃密なユダヤ人のファミリーツリーを、たった10ページで描き出した。

 1985年に初版が刊行された本書は9つの物語から成るが、いずれもテーマの重さと複雑さに反し、簡潔に短い。著者は54年イスラエル生まれ。ホロコーストを生き延びた両親を持ち、「第二世代」という自身のアイデンティティに小説で向き合った。

 「ガラスの帽子」とは、腕に番号が刻まれていなくとも、生還者の子や孫がみな、生まれながらに戴いている、目には見えないものの比喩。「わたしたちは恥辱に閉じ込められた生き物の次世代です」「子どもというのは新しくできた傷であり、親を慰めることはできません」の言葉に、この世代の苦しみが凝縮されている。戦争はたとえ終わっても、受けた傷は何世代にもわたって継承される。

 救いのない歴史だ。その憎しみ合いの渦の中で、しかし女同士は深く連帯している。収容所での惨絶な日々を描く表題作で、慰安婦クラリサが見せる囚人たちへの崇高なまでの慈悲深さ。結婚のためユダヤ教に改宗したドイツ人女性と、ホロコースト犠牲者である義母との絆。冒頭の祖父母の元に実はある日、別れた女性がアメリカからやって来るのだが、ここでも女二人は奇妙に結託していたというのが、まことに小気味良い。

 著者は2017年に63歳の若さで他界している。訳者の尽力により、ヘブライ語で書かれた物語は今、極東の島国にたどり着いた。

 評・山内マリコ(小説家)

     *

 『ガラスの帽子』 ナヴァ・セメル〈著〉 樋口範子訳 東宣出版 2420

     *

 Nava Semel(19542017) ホロコーストを生き延びた両親のもと、イスラエルに生まれる。ジャーナリストなどを経て作家に。小説や脚本を数多く手がけ、国内外の文学賞やドラマ賞を受賞

 

 

イスラエル大使館 文化部

ガラスの帽子

訳:樋口範子 20230615日 定価2,200円(税抜き)東宣出版

イスラエル女性作家による心に沁みる9つの物語

戦後30年以上経てもなお、アメリカ合衆国司法省特別調査員がかつての個人の戦争犯罪を追求する「二つのスーツケース」、キリスト教からユダヤ教に改宗したドイツ人女性ヴェロニカが、結婚前夜に夫になるウリヤに宛てた手紙「でも、音楽は守ってくれない」、イスラエル建国当時の世界各地に出自をもつ移民同士の距離感を子どもの目線で描く「ルル」、1942年の強制連行から約3年間の収容所生活とロシア軍による解放を綴った表題作「ガラスの帽子」など、ホロコースト生還者とその次世代がかかえる心の傷(PTSD)を、詩情を湛えた文体でリアリスティックに描いた傑作短篇集。

 

 

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