イタリア料理の誕生 Carol Helstosky 2023.1.15.
2023.1.15. イタリア料理の誕生
Garlic
and Oil 2004
著者 Carol Helstosky 専門はイタリア現代史、イタリア料理の歴史。現在米デンバー大歴史学科准教授。'96年、本書の元になった論文でラトガーズ大より博士号授与。著書に『ピザの歴史』
訳者
小田原琳(第1章、第2章) 専門はイタリア史、ジェンダー史。現在東外大大学院総合国際学研究員准教授
秦泉寺友紀(第5章、結論) 専門はイタリア社会論、ナショナリズム・エスニシティの社会学。現在和洋女子大国際学部教授
山手昌樹(日本語版はしがき、序論、第3章、第4章、エピローグ) 専門はイタリア近現代史、イタリア鉄道史、ファシズム。現在日本女子大文学部学術研究院
発行日 2022.8.20. 初版第1冊印刷 8.30. 発行
発行所 人文書院
日本語版はしがき
本書は、自由主義期及びファシズム期イタリアにおける食料消費を研究テーマにした博士論文を加筆修正したもの。筆者は1990年代に歴史学(近代ヨーロッパ史)専攻の大学院生。食料消費の過程に関心を持ち、何をどれだけ食べるか決定づけたのはなにか? 食品を選ぶ個人の自由を制限したのは何か? 食べ物を買う余裕がない人たち、あるいはたくさん買う余裕がない人たちは、なぜそのような状況に置かれたのか?
筆者の父はレストラン経営者
食は、愛情や誇り、怒りの表現方法であり、さらに人がどのように共同体に属しているのか表現する方法でもあった。不均衡な経済発展が個人の選択に与えた影響にとりわけ関心があり、専門とする20世紀ヨーロッパ史の中でも第1次大戦やファシズムの台頭に興味を抱いていた。そして2つの大戦とファシズムは住民に破壊的影響を与え、食糧は戦時中や不況期、それに権威主義的指導者の下で管理されるべき重要な資源になったので、筆者が食料消費を研究テーマに据えることは自然の成り行きだった
特にイタリアを選んだのは、1つにはイタリア人が数々の激しい政治的変化を経験してきたこと、文化的な観点では、イタリア料理が神話化され、写真満載の料理書や名の知れたシェフがそうした神話にお墨付きを与えていたことも影響
イタリアではちょっとした食材でも用途がたくさんあるうえ、イタリア人はごくわずかな量の食材からたくさんの料理を作ることが出来る天才
イタリア料理にまつわる神話はどこにでもあり、実際、誰でもイタリア料理について話すネタが1つや2つはある。その一方で、筆者は食料消費習慣が研究しがいのある、時に非常に難解なテーマであることにも気づかされた
本書は、19~20世紀イタリアで、何が料理や食習慣に影響を与えたのか、その数々の要因を明らかにする試みだったが、この中で筆者は、イタリア人の食糧消費習慣が経済的変化や文化習慣だけでなく、政治によっても形作られたことを議論した
国民の食生活が劇的に改善するのは、漸く政府が大半の国民の望みに応じた第1次大戦になってからだが、ファシズム政権になると、生存可能な最低限度まで下がり、ナチの戦争に協力するため禁欲生活を強いた時さらに悪化
一方で、イタリア料理の形成に多大な影響も与えている。ファシズム体制下で称揚された質素で自給自足的な食生活は、第2次大戦後も根強く残り、食品を購入することに控えめで、馴染みのある質素な食材を買って調理した
本書は、近現代のイタリアで政治がいかに食料消費習慣に影響を与えてきたかを強調したが、政治的決定が経済市場や文化習慣、社会動向に左右されることもまた指摘しておく必要がある
本書が、食の歴史や、政治と食料消費の関係、あるいは今日の生活で食の果たす役割について考えるきっかけになること願う
序論
イタリア料理を目にするが、その歴史を知らない
庶民の食事は、近現代の大半を通してわずかな食材で調理される手軽な料理と、肉や乳製品よりも穀物や野菜や果物が圧倒的に多い、いわゆる地中海料理から成り立っている
今日のイタリア料理は、ここ数十年になって創られたもので、19~20世紀のイタリア国民の大半が耐え忍んできた慎ましく不十分でさえあった食事とはほとんど共通点がない
当時は、パンもしくはポレンタ(トウモロコシの粉を練ったもの、粥か焼いて食べる、北部農民の主食で皮膚病の原因)を、玉葱やニンニク、アンチョヴィー、オリーヴ油などと食べていた。パスタ、豆類、ワイン、乳製品、野菜はほとんど食べず、肉やアルコールは特別な機会に限定。大半が山地であることを考えれば、穀類は育たない
イタリア人の大半は消費者としての行動を経済的・政治的に制約され、十分に栄養のある食事をとることが出来なかった。自給自足的な農業や地域市場がイタリア農業を特徴付けた一方で、脆弱な国民経済のせいで都市労働者や中産階級でさえ消費の選択の幅は小さかった。歴代政権による国の介入が食習慣に与えた影響は最小限どころか損害さえも与え、また自制を求めるカトリック信仰のような文化的影響が元々慎ましく控え目だった習慣を強化。ただ、それらの事情を勘案しても近現代を通してイタリア人の食習慣がなぜそれほどまでにほとんど変わらなかったのかという疑問は残る
本書は、政治がイタリア人の食生活を形作ったことを論じつつ、政治の介入がいかにイタリア人の新たな消費傾向を生み出し、それを持続させたのかを描くことを目的とする
19世紀半ば以降ヨーロッパ諸国では、食料が秩序や健康、生産性を維持するため管理されるべき国の資源になったが、国の介入が消費者の選択や、食習慣と消費実践を通じて創出される国民意識に与えた影響についてはほとんど知られていない
消費習慣に国が介入するきっかけは第1次大戦。イタリアは戦争のための準備が不十分で、同盟国からの借款と小麦の輸入で乗り切ったが、消費者はそのお陰で助成対象になった安価なパンを受け取り、肉や牛乳、野菜を買う余裕が出来た。小麦やパスタは、トウモロコシや栗(粉にして食べる?)、米に代わる主食になったが、1921年パン助成金が打ち切られると国民の不満が高じ、ファシスト政権奪取への道を開く
1922年、ムッソリーニが権力を握ると、食料消費を統制し、イタリア料理を国民的なものにしようとしたが、食糧統制を通じて国民に節食を強い、自給自足経済の目標に沿うよう消費習慣を改めさせる道を選ぶ。あらゆる機会を通じて地中海料理が推奨され、エチオピア侵攻に対する国連からの経済制裁により、輸入食品熱は抑えられ、イタリア料理は統一されたが大きな犠牲を払った。第2次大戦中も戦時食糧政策の誤りから、深刻な食糧不足に苦しむ。戦時中に購入された食品の70%は闇市のもの
戦後も乏しい資源と栄養失調に対する懸念から、高度経済成長やヨーロッパ統合、アメリカニゼーションの魅力にも拘らず、国民料理の外形はほとんど変化しなかった。賃金が上がっても、それまで食べていた者の量を増やすだけで、イタリア料理に外国の影響が及ぶことは稀で、グローバル化と規格化された味覚に抗する(?)近年の国際的なスローフード運動がイタリアに拠点を置くことはなかった――マクドナルドの営業に長らく抵抗
イタリア人の食習慣は、ある料理法を奨励する一方で、別のものを妨げる政治努力によって形作られた。イタリアの場合特異に思われるのは、国が自覚的に国民の食水準を向上させようと努力し、この努力が国民全体によって激しく議論された点にあった
本書の研究を貫く最大の関心は、イタリア人がどのように、そしてなぜ料理を作り、食べているのかにあり、食料消費の歴史にある
第1章 食の貧困と国民統合(1861~1914年)
経済的困難が慈善を必要とさせ、欠乏の食文化を生み出した
イタリア統一は経済的変化にはほとんど結びつかず、'80年代の農業不況で、とくに南部はお荷物となり、’90年代には半島中で暴動へと発展
イタリアの消費倫理は節約と自制に力点を置いていたが、それは必要に迫られてのこと
第1節
社会問題としての食
イタリアの政治的統一はわずかな支配エリートのみを巻き込んだ上からの過程だったため、国民意識には結びつかない
パンにも3つの地域格差――小麦は贅沢品、トウモロコシ粉、栗粉の差がある
民衆の食生活に関する記述は、社会科学の研究であれ旅行記であれ、入手できる食べ物の単調さと不足をいつも強調。たっぷり食べられる唯一の機会は祝日
15世紀以降、富裕層と貧困層の間で、食糧消費における分岐が次第に大きくなり、16~17世紀にかけて民衆の食生活は、肉と野菜を基礎とするものから、ほとんどすべてを炭水化物を基礎とするものへと移行
農村部の悲惨的な状況は早くから報告されていて、農業改革が叫ばれたが放置された
栄養不足は知的発達にも影響
第2節
移民のイタリア料理
食糧消費習慣に基づくイタリアの社会的分断の現実は厳然たるもので、食生活の質の向上によって1つの国民を創ろうとしたが、そこには国家の介入が不可欠
1891年、アルトゥージの料理書『厨房の学とよい食の術』は当時のイタリア国民の料理を成文化し、分類し、創造したもの。イタリア料理関係の古典的なテキストとされ、趣味の良い食事の調理に必要な技術を適切に習得すべき新興中産階級のために生み出された
世紀転換期の膨大な出移民による本国への送金と、イタリア国内での仕事の奪い合いが減少したことで、国民の生活水準が改善がみられ、同時に国外在住のイタリア人が慣れ親しんだ料理を再現しようと、乾燥パスタや缶詰トマト、オリーヴ油などイタリア産品の消費母体となって成長し、イタリア国内で特定の食品産業が大きく発展
1920年にはイタリア居住人口の約1/4に当たる900万人がイタリア国外に居住
移民によるイタリア産品の需要が本国人の消費を喚起して大量生産食品へと変え、イタリア全土で均質化した。パスタは南イタリアではよく食べられていたが、発動機付きの製粉機(1878年)と機械化された練り機(1882年)の発明により、対米の重要な輸出産品となり、アメリカでも乾燥パスタの製造所が設立され、缶詰パスタも開発された
イタリア人の食事の中で特定の料理が国民的なものになったのは、まさにイタリア人がイタリアを離れ、彼らの料理を再生産したいと願ったから
第3節
国民料理へ向けて
1890年代から第1次大戦までの時期は、国民の健康が経済的にも生理学的にも改善されたことを特徴とする――産業革命が生活水準を向上させる一方、病院改革と活発な自治体社会主義が慈善を通じて貧しい人々を支援し、健康を改善させた
国民の平均寿命は、1860年の30歳から、1910年には47歳に上昇、死亡率も1000人当たり31人から14.7人に減少したが、なお多くの家族は最低生活水準の近くで生来ていたし、地域格差は顕著
この時期の食生活の大きな変化は、小麦粉が多く消費されるようになったこと
20世紀初頭までに、より多くの食品が消費者の手に届くようになった――移民が近代的な食品産業の誕生を助け、アメリカ大陸の移民コミュニティがイタリア産食品の主要な消費者となる
缶詰トマトのチリオCIRIO社は1856年にトリノに大規模な加工工場を設立していたし、乾燥パスタのブイトーニBuitoni社も1827年創業で、'80年代には新工場を建設し生産を拡大したが、他のヨーロッパ諸国に比べれば生産量は限定的
20世紀になると、諸政党が安く栄養価の高い食料を入手できるよう食生活の改善に積極的になり、消費者の支援・保護が政治の重要事項として焦点があてられた
トウモロコシに依存した食生活が原因で拡散したペッラグラ病は、皮膚病に加えて消化器官や神経にも障碍を引き起こし、食生活の改善に取り組む
第1次大戦がすべてを変える――ヨーロッパにおける食糧消費史の分水嶺と考えられ、ヨーロッパ各国政府が物価統制と食糧供給に一層関与するようになった
ドイツは凄まじい食糧不足が抗議と食糧暴動を引き起こす一方、イギリスでは植民地からの供給で消費者は不便を経験しなかった。イタリアはその中間で、政府が小麦を輸入し、助成金を出したことで主食のパンが値下がり、民衆の食事は改善
第2章 第一次世界大戦と食の国家統制(1915~22年)
食料は決定的に重要な資源であり、食糧政策という形での積極的な政府の介入を通じて管理されることになった。第1次大戦はパンとジャガイモの戦争でもあった
戦時中の食糧政策に共通する特徴は、農業生産拡大キャンペーン、配給による消費の管理、輸出入の均衡の調整、物価統制だった
イタリアが参戦したのは開戦から1年後、アルプス山脈の国境地帯とアドリア海沿岸の領土を獲得するのが目的で、1917年には屈辱的な敗北を喫したが、翌年の終戦までに領土を回復――戦争の是非には議論の余地があるが、1つ確かなことは、深刻な経済危機と結びついた戦後の政治危機は、インフレと反対勢力を抑えることに失敗した自由主義政府に対する保守反動の道を開いた
戦争が食生活を近代化(=改善)したのは疑いない
第1節
大戦初期の消極的介入
開戦と共に小麦の輸入が制限され、参戦前から食糧供給に問題を抱え、抗議の動きが活発化したのを踏まえ、各県知事に小麦粉とパンの価格統制の権限を付与するが火に油を注ぐ
第2節
食糧供給の戦時体制
イタリアは潜水艦戦で圧倒的な敗北を喫し、1917年夏には備蓄食糧の相当割合を失い、追い詰められて連合国間の食糧供給協力体制に加わる。連合国からの貸し付けでイタリアは食糧危機を軽減したが、食生活の貧困が明るみに出る
軍における配給の危機は、イタリア食品産業の問題を露わにした。'17年のカポレットの大敗北は適切な栄養と軍事的遂行能力との関係をめぐる激しい論争を引き起こし。連合国委員会からも、イタリア軍の配給が生理学的に不健全と見なされた
終戦の頃には、食糧不足は散発したものの、飢餓や栄養失調に陥ることはなかった。戦時中には多くの住民が助成価格によって酒、コーヒー、タバコといった栄養に関係ない商品を買うことができ、戦争が終わっても戦前の消費習慣に戻ることはなかく、欲しいものを確保するため、高い値段と高い税を払うことを選ぶ
第3節
欲望の統一
大戦によりトリエステや南チロルが併合され、食べさせなければならない民衆が増えた
イタリアはもはや栄養不良の状態を脱していたにもかかわらず、戦後のより多くの食べ物をより安く買うという期待の高まりは、戦後のインフレ状態の中で、食料や生活水準、福祉についての新たな不安を生み出し、食料消費の問題は国にとって解決不可能なジレンマに見え、1919~20年の「赤い2年間」には、インフレの混乱とスト、暴動などの大衆扇動の嵐に見舞われ、旧態依然の政府に対する忠誠心は自由主義的価値観と共に崩壊
戦時統制の解除と同時に起こったインフレが、既に危機的だった状況をさらに悪化させ、食料価格の急速な上昇が消費者の家計に破壊的な打撃を与え、物価と賃金との不均衡に対する住民の不安は、1919年の全国的な一連の暴動、略奪、暴力的衝突へと発展
政府は強引に価格を引き下げさせようとしたが、一連の暴動を通じて国民は自分たちの求める最低限の生活水準を明確に示し、生活水準が新しい政治課題として浮上
物価統制のために膨れ上がる財政負担解消に向け、パン助成の段階的廃止に向け政府が動き出す中、最後に声を上げたのが登場間もないファシストで、‘21年には小売部門に対する公的監視強化の必要性を説いてデモを組織、政府のインフレ対策への不満の受皿となる
第4節
食生活と政治の岐路
戦時中に国民の食生活が改善され、戦後もその水準の維持を求める国民の要求に対し、政府の対応は鈍く、1922年以降のファシズム体制も経済的自給自足と輸入制限を推進することを公式の政策としていく――人々は政府が食糧供給を維持し、公正な価格を保証することを期待していたため、ファシズム初期の食糧政策は自由主義と似通ったものになった
第3章 ファシズム料理(1922~35年)
ファシズム体制は、食を利用して治安や国民の健康、社会的平等を向上させようとした
彼らの目標は、国民の健康と生産力の改善、全国民の食習慣と栄養状態に関する統計及び科学的知見の獲得、さらなる自給自足体制の確立であり、調理や買い物といった日常的な活動を通じて、国民を団結させ、彼らを体制に結び付けるため、食をある種の接着剤として利用。国民も、食とともに、食を通じて、ファシスト国家に対する服従と義務を考えるよう規律化された
国産品のみを奨励し、動物性たんぱく質の代わりに炭水化物を基調とする既存の消費傾向を強化したに過ぎないが、それらを政治的忠誠や国民意識と結びつけた点に特徴
質素とイタリア人の気性の強さとの関係はすでに指摘されていたが、ムッソリーニはこの関係を強め、自制と節約の習慣を国民的美徳の地位にまで高めた
ファシズムが国民の食習慣に与えた影響には2つの側面があり、経済政策のせいで入手できる食品の量と種類が制限された反面、プロパガンダがあらゆる面で食と民族に関する新たな考え方を打ち出した
第1節
ファシズム支配の確立
生産奨励、物価統制、慈善事業といったファシズムの介入手段は自由主義期の政策と酷似するが、食糧政策の範囲と意図で異なる――範囲については、食糧供給を過度に統制しようとする一方、意図についても食糧供給者としてのムッソリーニを偶像化した
第2節
国民料理の誕生
1920年代末にはイタリアの自給率を高める食品を強力に奨励、米、ブドウ、柑橘類を勧め、小麦のような輸入食材の消費を減らすようキャンペーンをおこなう。’25年には小麦戦争を発動、小麦の輸入に高関税をかけ、小麦生産者向けの融資を拡大。小麦の消費量は生活水準の改善を示す重要な指標となっていて、各国とも増産や備蓄に重点を置いていた
消費を増加させるために努力がはらわれたのはブドウで、小規模ワイン生産の重要性に着目、ワイン啓発キャンペーンを始める
第3節
合意の料理
中産階級には、地域や階級の影響を受けながらも自身の望みを叶えようとし、その一方で自給自足を目指す運動が決めた範囲内でうまくやりくりしようとした形跡も見られた
ただ、耐久消費財は中産階級の家庭では稀で、第2次大戦勃発当時国全体で冷蔵庫は268台、電気オーブンは12万台、洗濯機は148台しかなかったと推定
ファシズム時代のイタリア料理は味気ないもの。家事や料理に関する本が大人気を博したが、決して高級料理ではなく、わずかな食材で手軽に準備できるこの種の料理は、中産階級に好まれ、「合意の料理」と名付けられた――午後のおやつ、ミネストラでお馴染みの具だくさんのスープ(野菜スープのミネストローネとは別)、家計に優しい質素な肉料理、プディングやコンポートのような手軽なデザートが強く推奨された
当時の料理書にある理想的なイタリア料理は、主に穀類と青果から構成され、肉その他の動物性たんぱく質はほとんど含まれず、野菜や生鮮食品がビタミン源として重視された
「合意の料理」は、低賃金・低消費経済の下にある家族をいかにして養うかということに焦点を当てたが、その本質は、主婦や家政の専門家たちがファシストの命令に沿うよういかに調理するべきかを議論した、ややもすれば取捨選択の課程だった
1920年代を通して、民衆の食生活は惨めで、食糧供給の減少に重大な影響を与えたのは、輸入を無理やり激減させたムッソリーニの政策だったが、自給自足政策によって生み出された困難や不都合も、ナチと同盟したことで生じた問題に比べればたいしたことではない
第4章 軍国社会の節約料理(1935~45年)
1935年のブドウ祭の山車の最優秀賞は、ブドウで飾られた大砲にファシストの黒シャツ隊を乗せたグループで、食と軍国化を結びつけた象徴的なものとなった
その数日後エチオピアに軍事侵攻、ムッソリーニの新たな軍事的方針の結果、食の持つ政治的重要性は、慈悲深い政治体制を象徴するものから戦時下の断固たる体制と従順たる国民とを結びつけるものへと変化。国民は国に協力して倹約するよう求められ、全国的な禁欲生活へと様変わり。同盟国のナチ・ドイツにも労働力と食糧を収奪された
この10年間の食料消費の歴史からは、ファシズムの抜け目なく権威主義的な側面が浮き彫りにされるが、軍事的・政治的惨劇の中では、それだけを取り出しての評価は難しい
第1節
エチオピア侵略
エチオピア侵略は国連の対イタリア経済制裁を招くが、マスコミは食の話題に広く紙面を割いた。物価統制は続き家計のやりくりはさらなる困難を増した
第2節
禁欲生活
エチオピア戦争中、倹約と節食が国民の責務だったお陰で、イタリア軍の目標は達成
禁欲生活は、ファシズムの食糧政策が機能する上で不可欠。'31年には「節約の日」を制定
第3節
第二次世界大戦
エチオピア侵略がムッソリーニとヒトラーを急速に近づけた
ムッソリーニは、'38年のヒトラーの歴史的な訪問の直後、反ユダヤ人種法を制定して機嫌を取ろうとしたが、ヒトラーとの同盟を地中海支配の野望を加速させる道具と考えた
ヒトラーのポーランド侵攻の際、ムッソリーニは非交戦を宣言。軍隊の準備が整っていなかった上に、国王が強く反対したためで、食料の備蓄も増産もなかったことも要因の1つ
ドイツの電撃的で決定的な勝利を目の当たりにしたムッソリーニは、参戦の危険がないことを確信し6月に宣戦布告したが、'40年末には早期終戦の見込みがないことが明白となり、ギリシャへの侵攻に躓いて、さらに徹底した統制へ断固たる措置が必要になって来る
農業生産は落ち込み、徐々に食料の配給が広がる。物価統制の効果はなく、物価は急騰、買いだめが横行、食糧不足がごく普通の状態となり、ますますナチに依存
‘43年7月に連合軍がシチリアに上陸するころには特権階級でさえ食糧難に苦しみ、国王がムッソリーニを解任し、ナチが支持するファシスト陣営と、レジスタンス陣営に分断
食糧供給に関する完全な無能ぶりは、政治体制としてのファシズムの全体主義的特質や意図に疑義を生じさせ、ムッソリーニへの支持は急速に冷めた
第4節
人口戦争
ファシズムの全体的な構想においては、食糧供給と消費の問題は、人口や人種の問題と結びついていた――ナチ占領軍は、イタリアの地位が低下するにつれて食料と労働力を収奪
イタリアに大挙して外国人が流入することはなかったので、非イタリア人が人種的観点で問題になる恐れは全くなかった。一方、純粋なイタリア人種の起源を追求するとイタリア人がヨーロッパ、北アフリカ、中東に由来する人々の混血であることを発見。1920年代の人種理論はイタリアを繁殖と世界中に拡散することに長けた国民を持つ「プロレタリア国家」と定義したが、この人種観は帝国主義的野望に資したので、ナショナリストやファシストが取り上げ、特異な人種観はファシズムの出産奨励や帝国主義的傾向を支えるのに役立った。イタリアはすでにヨーロッパではルーマニア、スペインに次ぐ高い出生率を誇っていたにもかかわらず、ムッソリーニは子供をもっと生むよう促す人口戦争を発動
人口増加と食糧の輸入削減とは相矛盾するが、ファシズム体制は国民を国家によって管理され最終的には搾取される資源と考えていた
第5章 「経済の奇跡」から豊かな世界へ(1945~60年)
1950年代半ばまでには生活水準の劇的な変化を経験、食品の輸入が全輸入の1/3を占めるまでに増加し、家計に占める食費の割合は50%を下回る。農業社会から一気に工業社会、ポスト工業社会へと驚異的な速度で進み、経済復興が高い生活水準をもたらす
しかし、繁栄で手に入れた消費習慣は、消費される量は増えたが食べ物の種類や食習慣にほとんど変化を与えず、地中海料理に特徴的な食品を費消し、既存の習慣は強化された
戦後の数十年はイタリア人にとって、禁欲という過去の伝統と、新たに発見した消費者の自由との葛藤で、大量消費に折衷的な姿勢で臨む
本章では、現代イタリアの食習慣が、過去の政治的環境によって部分的に条件づけられた食についての考え方の産物であったことを示したい――20世紀を通して蓄積された国の介入の効果は、欠乏の料理を強化し、戦後の豊かな時代における家族や仕事、娯楽の構造変化を、食を通じて考えた。戦後のイタリア人は、馴染みの習慣や食べ物を新しい豊かな環境に適応させ、そこからインスピレーションを得た
‘48年選挙で政権を握った強力なキリスト教民主党は数十年にわたって国政を支配、マーシャル・プランの基金で火が付いた劇的な経済的変化や、その後のヨーロッパの経済統合は多くのイタリア人により良い暮らしへの希望を抱かせた
新たな消費文化が、新たな世の中でイタリア人アイデンティティを構築し、対抗した互いに相容れない階級を和解させる1つの方法だった
戦後の禁欲から豊かな社会への移行期に、国家も重要な役割を果たしたが、食習慣の不平等をなくす方法として貿易の自由化を選んだために、その役割は間接的なものに留まる
第1節
戦後復興
終戦直後の政府の最大の関心は食料の確保。社会的な平等と健康が主たる関心
連合国や国連の支援も得て食料供給網が整備されていくが、特に顕著な役割をしたのが社員食堂や大衆食堂での「外食」形態で、広く社会に受け入れられた社会実践になる
階級間での食生活の違いは、南部でより鮮明。南北差が階級差より顕著となるが、南部からの大量移民が地域格差。食習慣の差異は豊かさと共に加速
キリスト教民主党の食糧政策は、自給自足政策を拒絶し、高い消費水準、特定産業への特化、自由市場優先という明確にアメリア的な経済成長モデルを目指していた
イタリア政府は、農業の発展には関心はなく、国の秩序維持のため農村の貧困には取り組んだが、国民経済の方向性は農業生産とほぼ無関係。農業関連の権限も地方に移譲
第2節
大量消費社会の到来
戦後イタリア「経済の奇跡」は、購入や調理の点で消費者により多くの選択肢をもたらしたが、柔軟性に欠ける文化的制約によって、多くの人たちは慣れ親しんだ食品を購入し続け、食事の準備にも確立した方法を守り続け、思い通りのやり方で豊かな社会に踏み込む
注目に値する傾向は、肉をたくさん食べるようになったことと、軽食が簡単に手に入り好まれるようになったこと、間食が多くなったこと
もっとも人気のあった甘味はチョコレートとヘーゼルナッツの塗り物ヌテッラで、パンにひと塗りして食べる子供のしきたりが国民的流行にまで広がる
ブランド名を付けた多くの商品が目ざとい消費者に紹介され、加工食品がモダンな生活様式の一部として販売され、最初のターゲットは独自の生活スタイルを形成した中産階級
外食の普及で、地方料理を試す機会も増加、多くの料理人が標準メニューとして提供
第3節
イタリア料理の再定義
1950年代になると、地方の伝統や伝承を理解する手段として食に目を向ける。収穫祭、見本市、饗宴といった地元の食の催しが人気を博し、脚光を浴びる
アメリカの食品や流行(ピクニックやパーティーなど)はイアリアでも人気があったが、栄養と味の質の低下を懸念し、アメリカ人の習慣や製造方法を警戒
女性の社会進出も、食習慣の変化に影響を与える――既製製品や冷凍食品、持ち帰りの品に頼るようになり、購入するのもスーパーを利用するようになる
戦後数十年にわたる経済的成功の中で、イタリア人は新しい習慣を身に付けたが、一般的な食生活の基本は大きく変わることはなく、パスタやパンを青果や乳製品や肉と共に食べ続けてきた。戦間期にはやむを得ず欠乏料理を創り出したが、戦後の大きな変化に直面し、調理の手軽さや材料の少なさを強調することで、欠乏料理の特徴の一部を維持し、その一方で、トウモロコシの消費を減らし、肉の消費を増やすことで、別の特徴は捨て去った
結論 欠乏料理
人々の消費習慣の形成や、欠乏を特徴とするイタリア料理の形成に政府が与えた影響力は認めざるを得ないし、文化的な伝統よりも。政府の介入の方が食習慣の形成に意味を持った。イタリア人は皆、可能であればポレンタのような「伝統」を喜んで捨てただろう
イタリアの経済発展や政治的地位地位に関連して変化した、政府の国民に対する見方を検証――国の発展の重要な指標として国民の健康と安定性を用いたのは他の欧州諸国と変わりなく、帝国の実現に適した国民を育成するため、優生学から学校給食に至るまでのすべてを動員したが、食生活に関する問題の解決策は散漫で、ムッソリーニが経済的自給自足へ政策転換したことで解決を見たものの末期には破綻
多くのイタリア人は第2次大戦後まで、何世代にもわたって、不確定要素の多い市場や環境や政治体制に左右されながら、間に合わせや、なしで済ませることで何とかやりくりしてきたので、現在我々が讃美するイタリアの伝統やレシピは創られた伝統に過ぎない
本書を通じて、消費文化がいかに国民や歴史、そして何より政治の文脈の中で展開してきたのかを深く知ることが出来た
豊かな生活ではなく欠乏こそが食の創意工夫のみならず国民料理も創り出したという立場から、本書は、消費者の選択よりも、消費者や専門家、国が直面した制約や障壁に焦点を当ててきた。十分な量がなかったために、食は個々人で異なる意味を持った
エピローグ
ほんのつい最近まで漠然とした国民意識しか持たなかった国民にとって、パスタは集合的アイデンティティの証
今日イタリア料理の手軽さは、典型的な特徴だった質素に代わるものになってきている
今日の高級化したイタリア料理の発見は、イタリアが1980~90年代に観光地として再発見されたことを反映
1985年、ボルツァーノでイタリア初のマクドナルドが開店した瞬間から、マクドナルドをめぐる論争が続いている――反グローバル、反アメリカ感情の避雷針
イタリア料理にとって現在脅威となっているものに遺伝子組換え食品がある――EUの中でも最も反対の声を上げる国、食品そのものよりも農家の苦境が問題
イタリアでは、携帯電話が広く利用されていることについて論争はなく、インターネットの廃止を求めて団結することもないが、ハンバーガーや冷凍ピザ、遺伝子組換え大豆に関する論争は、より大きな政治問題を論議する手段として食が中心的役割を担っていることを示している
食習慣は、生活水準や国内総生産の如く、イタリアの政治的地位や経済的健全性、それから将来への希望を象徴するようになったし、今もそうなのである
解説 秦泉寺友紀
1. イタリアの食に関する先行研究
先行研究でも、イタリア料理が今日、世界中で親しまれている背景には、とりわけ19~20世紀にかけてイタリアから外国への移民が果たした役割が指摘され、移民との結びつきにおいて食を検証する研究が、イタリアの食に関わる研究の中で大きな位置を占める
2. 本書の位置付けと意義
方法論的側面と内容的側面――前者での最大の特徴は、食を国や政治の介入という観点から捉えようとした点にあり、後者の特徴としては、国民料理としての「イタリア料理」が第1次大戦からファシズム期の国や政府の介入によって形成されたという指摘があげられる
「イタリア料理」とは、穀物を主とし、野菜や豆類、オリーヴ油などが補うというシンプルなもので、著者はそうした料理の特徴を「欠乏」や「禁欲」と言い表している
3. イタリアの食をめぐるその後の状況
本書が論じたのは2004年頃までの状況
その後もグローバル化と食の関わりはますます強くなり、2010年にはイタリア、ギリシャ、スペイン、モロッコ合同申請により「地中海料理」が、2017年には「ナポリのピッツァイオーロ(職人)の技」(空中で生地を回しながら整える技術)がユネスコの無形文化遺産リスト入りしたり、2015年にはミラノ開催の万博のメインテーマが「地球に食を、生命にエネルギーを」となり、食がイタリアをアピールする際の重要な要素となっている
マクドナルドは順調に出店を増やしているが、イタリア産品の使用が義務付けられるほか、メニューもイタリアの食習慣に合わせた商品を提供。同時に、「イタリア文化」中核を想起させる空間への出店はしばしば強い抵抗に遭っているのも現実
スターバックスも似たような軌跡を辿っている
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イタリア料理は「政治」と「空腹」がつくった?
アメリカへ渡った移民の存在と二つの大戦、そして戦後の消費文化が食に及ぼした影響を辿ることで、「イタリア料理」成立の歴史が見えてくる。多様な史料をもとに複雑な食糧政策と庶民の反応を鮮やかに描く、食のイタリア現代史。
「「イタリア料理」、またひいては国民料理とはいかなるものなのかは、それ自体、論争の対象である。しかし、国民的な広がりをもって消費されていることは、そのひとつの重要な契機、指標と位置づけられよう。こうした要素に注目して「イタリア料理」を捉え直し、国や政府の介入に焦点を合わせた本書は、「イタリア料理」の歴史をめぐる議論に一石を投じるものといえる。」(訳者解説より)
「イタリア料理の誕生」書評 食の欠乏がもたらしたこだわり
評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2022年11月05日
イタリア料理の誕生著者:キャロル・ヘルストスキー
発売⽇:
2022/08/24
アメリカへ渡った移民の存在と2つの大戦、そして、戦後の消費文化が食に及ぼした影響をたどることで、イタリア料理成立の歴史が見えてくる。複雑な食糧政策と庶民の反応を鮮やかに描…
「イタリア料理の誕生」 [著]キャロル・ヘルストスキー
風味豊かなオリーブオイル、色鮮やかなパスタ、地域で異なるチーズやワイン、極上のジェラート、そして香り立つエスプレッソ。
タイトルから、こんな料理の背景にある豊かなイタリアの自然、古代からの伝統、卓越した料理人の技などを期待する人も多いだろう。だが、本書は全く趣を異にする。行政文書やレシピを読み込み、本書がたどりついた「イタリア料理」誕生の最大の背景は、なんと食の欠乏だ。ここから考えないと、なぜあれだけイタリア人がマクドナルドの出店に抵抗したのかが説明できない、と著者はいう。
19世紀半ばに日独と共に遅れて近代国家に仲間入りしたイタリア王国は、混乱の中で貧困に喘いでいた。庶民のほとんどは肉を口にできない。トウモロコシ粉を練ったポレンタや、質の良くないパンやパスタで空腹を凌ぐ。世紀転換期に経済状況が改善しても、人びとは質素な食べものにこだわり続けた。第1次世界大戦では、政府が食料価格や配給に介入したおかげで、兵士になれば、良質な食事に馴染むことができた。
そして、本書の白眉はファシスト政権下の分析である。ムソリーニたちは食物の自給自足を目指すために、国産品を食べるよう指導し、消費者には節約と、何より工夫を求めた。こんなファシズム的な食、すなわち「合意の料理」は戦後の経済成長の中でもあまり揺らぐことはなかった。自宅や、ファシズム時代から続く社員食堂や公衆食堂などで共通の保守的な食事を食べ続け、少ない国産素材で工夫する料理文化は守られていく。
言われてみれば、イタリア料理は素朴である。ペペロンチーノがその代表だ。あるいは、パスタの形の多様さは、同じ分量の小麦でも毎日違った感じで楽しもうという工夫の結晶と言ってよい。こんな政治史と権力論に味付けされたイタリア料理本なのに、読後に無性にパスタが食べたくなるのが不思議だ。
Carol Helstosky 米デンバー大准教授(イタリア現代史・料理史)。著書に『ピザの歴史』。
藤原辰史(ふじはらたつし)京都大学人文科学研究所准教授(食農思想史)
1976年生まれ。著書に『ナチスのキッチン』(河合隼雄学芸賞)、『給食の歴史』(辻静雄食文化賞)、『分解の哲学』(サントリー学芸賞)など。2020年10月より書評委員。
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