フルベッキ伝  井上篤夫  2023.1.

 2023.1.20.  フルベッキ伝

 

著者 井上篤夫 作家。欧米各地で幅広い分野の人物を取材、ボストンに4年間在住。その知見に基づく数多くの評伝や翻訳を手がける。著書に『志高く 孫正義正伝 決定版』(ベストセラー)、『ミシェル・オバマ 愛が生んだ奇跡』など

 

発行日           2022.9.1. 初版第1刷印刷  9.8. 発行

発行所           国書刊行会

 

 

序章 フルベッキ写真

1895年、雑誌『太陽』にフルベッキが息子と並んで47人の維新の志士に囲まれている写真が掲載され、1974年と1976年の2度にわたって肖像画家が日本歴史学会の雑誌『日本歴史』に取り上げ、30年前のもので、若き明治天皇や西郷、大久保、龍馬などが勢揃いしていると披露したので、「志士の群像写真」として喧伝されたが、2013年に偽物との決定的証拠が出てきて、岩倉具視の息子2人が長崎を訪れ、佐賀藩が長崎につくった洋学校・致遠館(ちえんかん)の関係者が迎えて一緒に撮った写真であることが判明定、撮影時期も1869年末、大半は無名の佐賀藩士、現在20名近くが同定

ただ、フルベッキが重要人物であることは揺るがない。直接教えを受けた大隈や副島だけでなく、西郷や坂本龍馬までも接触があったし、高橋是清は終生フルベッキを「師」と仰ぎ、フルベッキの最晩年まで関係が続いた

日本に留まること40年、流暢な日本語が話せる稀な宣教師として日本人に愛され続けた

近代日本の黎明期、シーボルトやへボン、グリフィス、モースなど多くのお雇い外国人たちが日本の近代化に貢献したが、教育(学制)、政治、法律(特許)、国憲、音楽など広範にわたって業績を残したのはフルベッキ

グリフィスも、「フルベッキがいなければ、日本の近代化はあり得なかった」とまで言っているように、日本の変革期に立ち会い、新生日本の建設に多大なる貢献をした異色の宣教師であり、教育者であり、何より日本をリードする人材の育成をした恩人

 

第1章        ザイストから希望の国へ

l  生まれ故郷ザイスト

オランダ・ユトレヒト郊外の村が故郷で、裕福な家系の生まれ

l  コッペル

村長の6番目の子として「コッペル」と呼ばれる家に生まれる

母親のルーツはイタリア

l  少年時代

2歳の時、掘割に落ちて九死に一生を得る

質素だが高潔な暮らし

個人的にはドイツ語を使うが、子どものころから、蘭英仏独の4か国語を流暢かつ正確に使った。適齢期になるとモラヴィア派の学校で学ぶ

l  若きフルベッキの悩み

1830年は、ヨーロッパで最初の鉄道が建設された年で、この年が機械エンジニアにおける新たな時代の始まりと言われ、フルベッキもエンジニアが「有望な職業」としてその道に進むことになり、ユトレヒトの工業学校に入るが、音楽の道へ進みたく叔父の応援を頼む手紙を書いている。その結果は不明だが、音楽への情熱は、後に日本の「音楽の近代化」に大いに貢献することになる

唱歌や音楽教育に大きな業績を残した伊沢修二(東京師範学校長)の音楽への目覚めは南校時代にフルベッキが与えた1冊の本がきっかけだし、長野県県歌《信濃の国》作曲者北村季晴はフルベッキからオルガンを習っている

1852年、工業学校を修了、母が死去、先に移住していた姉妹の誘いもあってアメリカに

l  新天地

当時欧州では多くの青年が北米の新天地への移住が活発化、1850年代の10年間に260万以上がアメリカを目指している

名前をオランダ語から英語読みのフルベッキに変え、妹夫婦を頼って渡米したが、コレラから奇跡的に回復したあと神に仕えることを志す

l  訴訟事件

渡米のスポンサーになってくれたノルウェーの亡命貴族と鋳物工場を共同経営していた時にいくつもの訴訟事件に巻き込まれたことも、伝道の道を志すきっかけの1

l  「私は巡礼者」

1856年、オーバンの神学校入学。'59年まで2年半在学、最後の年には奨学金も授与

得意な言語と声楽に才能を発揮。彼の歌う讃美歌《私は巡礼者》の詩はフルベッキの心情とみごとに重なった――「巡礼者で寄留の身、目指す街にはわが贖(あがな)い主がいる」

l  アメリカ風オランダ人

礼拝堂に来る人の言語を使って説経している時に、ドイツ出身のマリア・マニョンと出会い結婚。将来の師となるサミュエル・ブラウンとも出会う

1549年、サビエルが布教を始めた日本のキリスト教は、信長政権下で南蛮文化をもたらしたが、肥前(三城城主)大村純忠が長崎をイエズス会に寄進したことを聞いて行き過ぎを懸念した秀吉がバテレン追放令を発布した長崎の教会領を没収、'96年には禁止令を出す

江戸幕府もキリスト教を邪宗として徹底的に禁じ、伝道を行わないオランダ人だけが居留を認められた

1858年、日米修好条約でアメリカ人による布教が認められたが、イギリスに先行したことで間もなく支那を征服したイギリス大艦隊がやってきたときに過大な要求から守った

ペリーの頃からアメリカの黒船は西から喜望峰を回って、最初の到着地長崎にやってきた

当初の日本政府の方針は、アヘンとキリスト教の進出さえ排除できるのであれば、外国人の要求する全ての貿易権益を許す気持だった

l  まだ見ぬ国

1859年、既に日本にいた宣教師の働きかけで本国からの宣教師派遣が決まり、フルベッキほかの一行数名が喜望峰回りで訪日。フルベッキは長崎に駐留。当時長崎は肥前藩が出入国を厳しく管理していたが、新しい知識への渇望は日に日に高まる

 

第2章        長崎のフルベッキ

l  異境の荒野

アメリカ領事の保護下にあって、外国人居留地の外に借家を見つけ改装して住む

翌年長女が生まれ、生後2週間で昇天。エマ・ジャポニカと名付けた最初のキリスト教徒

l  英語教師

日本人への布教は禁止だったので、日本語の勉強をしながらその日に備える

l  バイブルクラス

1861年長男誕生

中国の宣教印刷所で印刷された書物の販売と配布を任され、聖書を学びたいという日本人のためにバイブルクラスを始め、それを通じて1864年には、長崎奉行所の洋学校語学所、後の済美館(せいびかん、旧長崎英語伝習所)の英語教師として招聘

佐賀藩の副島種臣や大隈重信らが1867年設立の英学校蕃学稽古所、後の致遠館の教師となるが、3年ほどフルベッキに英語を学んでいるので、当時すでに知り合っていたはず

l  相次ぐ外国人襲撃

1862年、高杉晋作が長崎にフルベッキを訪ね、南北戦争や中国の太平天国の乱について質す。高杉は翌年には御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き討ち。その前年には薩摩藩士による生麦事件勃発し、翌年の薩英戦争へと発展

1863年、次女誕生、長女と同じ名前を付けるが、外国人襲撃の恐れから上海に避難

その間、フルベッキは宣教印刷所で印刷技術を学び、後に日本で近代活版印刷術の祖と言われる本木昌造が活字製造法を修得する際、仲介を務める

l  済美館

同年10月には長崎・出島に戻り、翌年にはフルベッキの生徒だった何礼之助の私塾で英語を教える。何の私塾からは高峰譲吉、陸奥宗光、前島密、芳川顕正らが巣立つ

翌年、幕府が長崎に洋語伝習所(後の済美館)を開設、その教師としてフルベッキを招聘

南北戦争で本国からの支援が困窮するなか、アメリカ初代長崎領事がフルベッキの年俸として1200ドルを奉行所に要求し、フルベッキは本国支援を断り「自給の宣教師」となった

フルベッキの元には、世界の情勢や様々なアドバイスを求めて各藩の高官たちが訪ねてきた――伊藤博文、岩崎弥太郎などが軍艦購入の際の立ち合いを依頼

1866年、佐賀藩の重臣村田政矩らに受洗。受洗後村田は藩主の鍋島直大(なおひろ)にキリスト教入信を告げたが処分は受けていない。維新後佐賀の教会の源流を作る

l  致遠館

1868年のフェリス(ニューヨークの改革教会外国伝道局主事、フェリス女学院創始者)宛のフルベッキの書簡に、「1年余り前に副島と大隈に新約聖書と米国憲法を教えた」とある

幕末の英明な佐賀藩主として知られる鍋島直正は、1861年家督を直大に譲った後も洋学校設立に動き、'67年フルベッキを招聘して蕃学稽古所(翌年致遠館と改称)を発足させる

フルベッキは憲法講義を行い、民主政治の原点を教えた

1882年、大隈は東京専門学校を創立するが、その源流には致遠館がある

大隈が聖書を学んだことが、1868年大坂本願寺での浦上教徒弾圧事件に関する英国公使ハリー・パークスとの談判において、キリスト教解禁をめぐる激しい交渉の中で生きる。当時、参与職外国事務局判事だった大隈が、「キリスト教は博愛と言いながら血塗られた歴史を生んだ」と喝破してパークスを驚かせ、「内政干渉をするな」と迫る。この交渉が維新になって評価され、外務次官に上り詰め、明治政府の中枢を駆け上る

西郷の「敬天愛人」も、キリスト教的な真理に近く、少なくとも新約聖書を読んでいたことは間違いない。特に晩年は聖書に親しんでいた。西洋との交渉には聖書が必要と説く。'72年頃横浜で洗礼を受けたとされ、フルベッキと会った記録はないが、会った可能性は高い

l  「日本だま みがけやみがけ」

フルベッキは、日本人の海外留学生を斡旋する先駆けとなる

1866年、フルベッキの下で英語を学んだ横井小楠の甥兄弟2人をアメリカに送る

翌年に高橋是清とともにアメリカに留学した勝海舟の息子小鹿(ころく)4年後にアナポリスの海軍兵学校に斡旋。勝海舟とフルベッキが長崎時代に会ったという記録はないが、勝のキリスト教への関心は強く、東京の自邸を「耶蘇教講義所」として開放、赤坂の勝邸には徳富蘇峰、新島襄、内村鑑三、小崎弘道など著名なキリスト教徒が出入り

1868年、王政復古と共に長崎奉行所の済美館は明治政府により再編成され、「広運館」となり、フルベッキは引き続き教育に携わる

l  義弟への私信

1868年維新直後にニューヨークの牧師だった義弟に宛てた私信に本音が垣間見える

日本は中世的な封建制度を脱して、より輝かしい自由な近代の光に向かって進んでいるが騒動はまだ収まっていない。宣教師は政治的問題に関わることを避けねばならないと知っているが、日本人が日本を繫栄に導く対策を尋ねてくると、しかるべき忠告をせざるを得なくなる

l  新し時代へ

1868年、明治維新にあたり、より有望な宣教活動のできる土地へ行きたいという要望が聞き入れられ大坂へ視察に行くと、外国官副知事だった小松帯刀の補佐役だった何から、江戸幕府から接収した開成所を開成学校として再開するにあたりフルベッキを招聘するとの話を聞かされ、翌年、明治政府から正式な招聘が届く

何人もの僧侶が洗礼を申し入れ、禁教令に反した罪で獄に繋がれることになるケースも出来して、フルベッキを邪宗を広めようとする「最も危険な人物」とみなす者もいた

 

第3章        岩倉使節団

l  明治新政府への出仕

1869年、帝国大学設立を目的にフルベッキが召し出され、開成学校の語学及び学術教師となり、2年目からは学校の経営にも関与

外国人を嫌う殺人が横行するなか、宣教師仲間を集めてお雇い外国人とし、教育の質を高めていく

l  南校の教頭

1871年教頭。教育界の開拓者として多大な貢献をし、教え子の多くが近代日本を創造

l  使節団の成立

安政年間の不平等条約改正に向けて外交使節派遣が建議され、総勢100名を超える岩倉使節団が組成されるが、派遣の目的を書いた「事由書」の原型となるブリーフ・スケッチ(草案の概要)を作ったのがフルベッキで、外務省から条約改正の御用掛に命ぜられた大隈に建議する形で2年前に作成したものを復元・再検討し、その助言をもとに岩倉が外務卿が右大臣特命全権大使に任命され、2か月後には使節団が出発

l  ブリーフスケッチ全文

西洋文明を完璧に掌中のものとするには、目で見て、触れて見なくては把握しきれない部分が必ずある。文明の理論を十分に実現できるものとするためにも、理論を他の地域に転用するためにも、、個人の実体験による理解が必須

全権大使は、地位が高く信頼に足る人物でなければならない、随行者もまた同じ

通常の任務は、歴訪する国々の政府に日本の現状を伝え、望ましい外交関係樹立のため、日本政府の取るべき必要な方策や手段に関する意見を諸政府から学び取ること

ポイントとしては、法整備、西洋文明の受容、外国人受け入れ、信教の自由、海外外交拠点の設置などで、使節団も専門別に組織化しておく必要がある

l  宗教的寛容に関するノート

宗教の寛容とは、政府が信教の自由を認めるというようなものではなく、世界中の人々の普遍的な権利として信仰の自由が認められるということで、すべての人が学ぶべき価値観

1871年、使節団出発の直前、フルベッキは明治天皇に拝謁――南校での働きに対し勅語

1873年、キリスト教解禁

久米邦武編纂の『米欧回覧実記』の著述についても、フルベッキがマニュアルを提供

l  「行けや海に火輪を転じ……」

各国での条約交渉は基礎を作る程度に終わり、専ら友好・親善と、諸外国事情視察に注力

l  高札撤廃

留守政府を任された大隈は多くの国内改革を行う――太陽暦の採用、四民平等、娼妓解放、裁判の独立、徴兵令、教育令により全国に大中小学校設置、高札廃止、鉄道開設

高輪築堤は、線路敷設に兵部省が反対したため、大隈が海上の築堤に踏み切ったもの

1873年高札廃止――高札を作り変える費用削減を目的に、太政官令の掲示の方法を改め、以後は県庁などの役所の玄関に行うことに変更したが、キリスト教禁制を外すのが主目的

1873年帰国した岩倉が一番感銘を受けたのは、ワシントンの中央政府の力。共和国がどのようにすれば力が持てるのか理解できなかった

1875年、横浜外国人居留地の英仏軍が12年に及ぶ駐屯から撤退したのも、諸外国との交渉の成果だが、何より新国家の担い手が自分の眼で世界を見たのは大いなる成果

l  賜暇休暇

1872年、南校に天皇が行幸し、フルベッキが勅語を賜り、6か月の賜暇を得て帰米

1873年、開成学校退任。正院(明治初期の内閣)と左院(立法府、後の元老院)の翻訳局にお雇いとなり、法典の翻訳に従事

組織政治が浸透、傲慢さが目立つようになって、縁故や特権といった悪が巷にはびこる

フルベッキは岩倉に対し、日本国存立のために陸海軍と沿岸警備の増強の必要性を説く

 

第4章        お雇い外国人

l  グリフィスの来日

1872年、『御雇外国人一覧』刊行――1866年五箇条の御誓文と同時に発せられた勅諭「億兆安撫国威宣布の御宸翰」によって海外諸外国に並び立つために国家の態勢を早く整える必要から海外諸国から知識を得るための人材を取り込もうと外国人の雇用が始まり、最初が1868年の薩摩藩が雇用していた地質学者コワニエの招聘で、生野鉱山の開発に活躍。総勢214人、うち英国119人、米国16人。フルベッキも米国人として記載

1870年、福井藩から化学と自然科学、外科医師の教員斡旋を依頼されたフルベッキは、フェリスに2人の青年教師の派遣を要請、3年間、単身が条件――選ばれたのがラトガーズ大卒のグリフィスで、在学中にフルベッキの弟子の日本人留学生から日本語を習う

1871年から授業を始め、1年後の廃藩置県で藩が消滅すると、明治政府雇用となって東京の南校で化学、生理学、文学などを教え、'74年帰国

l  政府顧問

フルベッキは、行政組織がひとまず整うまで政府の最高顧問の地位にあった

教育制度確立にも深く関与――1872年の学制大綱に基づき全国に学校を設立し、学制を敷くが、その立案者は箕作麟祥(みのさくりんしょう)で、フルベッキとも親しく、フルベッキが諸外国の法典・分権の翻訳を通じて情報を提供

l  駿河台時代

1874年、駿河台に転居。居候していた高橋是清の名義で新たに洋館を建てる

1874年、箕作麟祥が「自由」についての論考を寄稿、「自由とは、奴隷制度による身分関係からの自由だけでなく、君主専横からの政治的自由を含み、議院の開設によって権利としての国民の自由が保障される」と説いたが、その基になったのはフルベッキが箕作の求めに応じて欧米での「自由」の歴史を回答したもの

l  国憲第1次草案

1876年、天皇から有栖川宮に国憲検討の勅語が下され、フルベッキと同僚の仏人ブスケが顧問となって海外諸国の憲法調査を開始、1か月後には第1次草案を起草

国憲取調委員の柳原前光は、1850年に公卿柳原大納言光愛の子に生まれ、維新後に外務省入省、'71年外務大丞として日清修好条約締結に立ち会い、その後駐露公使、、元老院議長を歴任、枢密顧問官となって皇室典範の制定にも関与、国会開設を唱え、進歩的な考え

同委員の福羽美静(ふくばびせい)は津和野藩士で平田篤胤門下の国学者、明治天皇の侍講。国学者や神祇官僚となり、合理的な考え

既に国家主義的なプロシャ憲法を模範にした考えの岩倉や伊藤博文は、余りに自由主義的な立憲君主体制の草案を受け入れず、フルベッキも’77年には解雇され、関わりを断ち、以後は政治・外交・教育などそれぞれの分野の専門がお雇い外国人として多数来日

l  勲三等旭日中授章

1877年、政府の契約終了に際し、3度目の拝謁を賜る。前年から始まった叙勲では、宣教師として初めてだが、フルベッキは布教と叙勲とは峻別

l  日本を去る決断

1877年、日本基督一致教会が発足(改革派や長老派などの会派を合併)S.R.ブラウンが築地に東京一致神学校を設立、フルベッキはその神学講師に就任、同時に華族の学校(学習院)の役職に就くが、体調の悪化とお雇い時代の高級を失って生活が困窮したこともあり離日を決意、翌年家と蔵書を処分してサンフランシスコに向かう

明治維新以後10年で100人の日本人がキリスト教に改宗。絶対数では中国やインドと同数だが、人口比を勘案すると、日本での布教は成功、柔軟で受容性に富んだ国民性と評価

l  目立ちたがらない人

サンフランシスコでも生活に行き詰まり、1年後の’79年には日本に戻り、神学校と学習院に復帰。帝国大学の創設と教会の仕事に没頭、報酬の多寡にかかわらず献身的に働き、亡くなった時には「目立ちたがらない人の実例」として追悼された

米国聖書協会の旧約聖書翻訳の担当者として新たな一歩を踏み出す

 

第5章        聖書翻訳

l  新約聖書

聖書完訳に取り組んだパイオニアはフルベッキとともに来日したS.R.ブラウン(後に「鼻つまみ」として酷評)と、日本のキリスト教史に名を残したヘボン式ローマ字のヘボン

へボンは、もともと米国長老教会の宣教師で医師、'59年自費で来日し横浜で医療活動を行い、私塾を開いて近代医学を伝えた。キリスト教禁制時代には聖書翻訳に取り組む

1872年、第1回在日プロテスタント宣教師会議開催、新約聖書翻訳委員会が結成され、ブラウンとヘボンの作業を引継ぎ、’79年には作業を終え、順次出版

並行して’76年には旧約聖書全訳にも取り組み、フルベッキやヘボンらが中心となって’88年に完了、逐次刊行。フルベッキは翻訳に加え、翻訳事業を束ねる翻訳訂正委員にも選出

l  明治学院

1882年、日本におけるプロテスタント・ミッション史作成が企図され、宣教師全員一致でフルベッキに委嘱され、全19の会派の活動の詳細が上下2巻にまとめられ出版

1886年、一致神学校、ヘボン塾の後身である一致英和学校及び神田英和予備校の3校が合併して明治学院を創立、翌年開校。フルベッキも初代理事員に選出、神学部教授

当時の白金は人跡絶えた寂寥の地、旧南部藩の鴨池屋敷の大木が鬱蒼と立ち並ぶ。普通学部1年にいたのが島崎春樹(藤村)で、『桜の実の熟する時』に在学中の体験が綴られている、校歌を作詞。'88年には高輪の台町教会で木村熊二より受洗

l  詩篇

フルベッキが担当したのは、詩篇とイザヤ書。特に詩篇翻訳では音楽の素養が役立つ

ヘボンも彼の能力を高く評価

l  美しい文語文

当時詩といえば漢詩だったが、讃美歌は平易な表現で、七五調、押印の方による新体詩風に翻訳され、キリスト教徒のみならず多くの人に愛唱された

 

第6章        伝道者

l  信州伝道

フルベッキは、自ら「三事を能くす。曰く、教授、翻訳、演説」とし、中でも演説を最も好む。明治期の言論界の名士の番付表にも、東京専門学校の開校式の演説で「学問の独立」を提唱した小野梓や、「学問のすゝめ」を唱えた福沢諭吉とともにフルベッキも特別枠に記載

語学の才が最も発揮されたのが伝道活動で、公職退任後は地方伝道に情熱

1880年代、日本各地に自由民権運動が起き、その社会的地盤とキリスト教のそれとは著しく近似、互いに好意を抱くのは当然の成り行き

1879年、東京の大火では罹災したが、勲三等の勲章を所持していたお陰で助かった

1882年、信州に明治キリスト教の4”と呼ばれた田村直臣を伴って22日間伝道

l  群馬伝道

1883年、高崎に伝道。近くまで開通した鉄道を利用

各地に教会も設立

l  宣教への情熱

1886年、日本基督一致教会から新撰讃美歌委員に選任、’87年には明治学院神学部教授に

日本語を自在に操るフルベッキの演説が多くの人々の心を捉えたが、中でも神学校卒業生に語った「聖書の教えに従って行動することの大切さ」は、若者たちの心を揺さぶった

日本の古書も多数読破し、宣教師のために書いた日本語の会話における動詞の活用法『動詞活用法』では、貝原益軒の『養生訓』や『南総里見八犬伝』などが引用されている

‘8991年、家族と再会するため一時帰国、故郷オランダも訪れ、軽い心臓発作を起こす

米国政府国務省に米国籍取得と日本行き旅券を申請したが拒否され、無国籍状態が続き、収入の保障があれば一生日本に仕えたいと高橋是清に訴え、’91年には教え子たちの働きかけにより、日本国内で自由に移動できる特別の「特許状」が外相榎本武揚から家族共々公布され、事実上の「日本永住権」を確保し、フルベッキは喜びを手紙に残している

l  忍び寄る病魔

在日35年、元気だったフルベッキは、’91年日本に戻るころから前立腺肥大に悩まされる

l  フルベッキの日本人観

フルベッキの死後明らかにされた、彼が米国の長老教会のスピアに語った日本人観とは;

極めて気紛れ、本質的な真剣さに欠け、やたらと軽挙妄動に走りがち。荘厳さや厳粛さにはほぼ無頓着で、宗教的忘我や霊性といった感覚もない。非常に移り気なので真実の魂の平安を知ることはなく、無神経なので冷淡な無関心から脱することがない。深い悲しみをほとんど知らず、彼らの言語には詩篇5(罪を悔い、神に哀れみと許しを乞う)は存在せず、彼らの歴史にはピューリタンも存在しない

l  最後のつとめ

1897年、心臓発作に襲われる

最後の仕事の1つが、完成した日本語訳新旧約聖書の天皇への献上であり、献上の際御前で読む式辞の準備だったが、自身の死去で果たせず

l  「さらに高き或るものに達せよ」

なお地方伝道を続けるが体調を崩し、ドクターストップとなる

25年回顧の教訓』と題して、回想録を寄稿、「さらに高き或るものに達せよ」と結ぶ

1898年、心臓発作で死去、享年68。芝の日本基督教会で葬儀と告別式が行われ、叙勲者の葬儀のため近衛儀仗兵に護られ、青山霊園内の外人墓地に埋葬。天皇から500円下賜

アメリカの新聞にも多くの追悼記事が掲載された

没後1年、教え子たちによる募金で記念碑が青山に建立

 

第7章        フルベッキ家の人々

l  家族の思い出

7人の男子と4人の女子を持った

父を看取ったのは二女のエマ(1863年生)’83年米聖公会の宣教師として雇用され、築地の日曜学校(立教女学校?)でクラスを持つ。’85年には東京女子師範附属高女の音楽及び英語教師、立教女学校でも地理、購読・英書、英会話を担当。'99年お雇い外国人の東京帝大教授と結婚、名前をエミリーと変える

長男ウィリアムは’61年長崎で生まれ育ったので、日本人と同等に日本語の読み書きが出来たほか、「武士道」に影響を受ける。高校から加州に移り、カリフォルニア大で法律を専攻、州兵となる(少将)。発明家、歌手、芸術家、法律家を目指し、’88年ニューヨークのセントジョーンズ・アカデミー(マンリアス・ミリタリー・スクール)の校長。69歳で没。結婚して生まれた長男は第2次大戦中レイテ島で日本と戦う

二男のチャニングは’65年長崎生まれ、1943年サクラメントで没、享年78

三男のグスタフは’67年長崎生まれ、1937年ニューヨークにて没、享年70。パリで学び、ニューヨークで挿絵画家となり、連載漫画で人気を博す

四男のギドーは’68年東京生まれ、1884年オークランドで没、享年16

五男のフーゴ―(アーサー)’71年東京生まれ、1918年サンフランシスコで没、享年47

三女のエレノア(ネリー)’74東京生まれ、1929年サクラメントで没、享年55

四女のメアリーは’75年東京生まれ、1876年東京で没、享年1

六男のバーナードは(バーニー)’80年オークランド生まれ、1880年日本に戻る太平洋船中で没、享年0

七男のジェイムズ(バーニー)’81年東京生まれ、1932年アラメダで没、享年51

l  子どもたちと日本

1909年、渋沢栄一を団長とする50名余りの実業家一行の米国訪問は、民間から日米貿易を促進しようとする画期的な渡米実業団として知られるが、タフト大統領に歓迎された後、ニューヨーク州シラキュースでミリタリー・スクール校長のフルベッキの長男が出迎え

長男の3番目の息子ウィリアム・ジョーダン・フルベッキは、ウェスト・ポイントを出て大佐となり、レイテで日本軍と戦った後、朝鮮戦争にも従軍。1950年来日時GHQの意向に反して靖國に参拝、レイテで戦った第1師団長片岡中将に会って上官に対する礼を取る

自らの連隊報告やルポルタージュを贈ったことで、最も整ったレイテ戦記が残る

2019年、長男の玄孫のギドー・フリドリン・フルベッキ4世は、最先端化学(ママ)の質量分光測定法の研究に従事

l  フルベッキが遺したもの

1886年、本郷青年奨励会でフルベッキは、「基督教は社会進歩のために必要なり」と演説

‘98年には、青山学院青年部の集会で、信教の自由の喜びと感謝の気持ちを述べる

グリフィスも、「彼が接した個々人の自尊心を尊重。彼の性格の特徴の1つは、他人の意志に影響を与える時に、彼の意志を押しつけることを非常に嫌ったこと。彼らに不当な影響力を行使し過ぎないように、彼らが自主的に行動するよう個々人の権利を尊重」と述懐

フルベッキは生涯にわたって、私たちに大きな足跡を遺した

 

 

 

 

(書評)『フルベッキ伝』 井上篤夫〈著〉

20221119日 朝日

 近代日本動かしたお雇い外国人

 ギドー・F・フルベッキの名は断片的に語られるにせよ、全体像は詳細に知られているわけではない。幕末から明治の後半まで日本に滞在し、近代日本の教育、政治、国憲(憲法)草案、外交、宗教などの分野で礎を築く役を果たした。「日本の恩人」と、徳富蘇峰は自身の雑誌(「国民之友」)に追悼文を書いた。

 著者は作家としての関心で、生地オランダから東京・青山の墓地まで訪ね、資料を掘り起こし、一族の取材を進め、フルベッキを蘇らせた。いくつかの興味深いエピソードも確認できる。例えば、幕末に彼が英学を教えた大隈重信らは新政府の要人になったこと、岩倉使節団への適切な助言、英和対訳辞書の刊行への尽力、さらに大学南校(現・東京大)の教頭としての功績で明治天皇に拝謁したこと、近代日本の指導者の殆どと面識を持っていたことなど。たしかに新政府の「最高顧問」として日本を動かした人物である。

 日本語を自由に操り、オランダ語、英語、ドイツ語、フランス語に通じ、新政府の翻訳局で法典の翻訳もしている。明治91876)年、元老院の国憲取調(とりしらべ)局顧問として、国憲第一次草案の起草に協力した。オランダやベルギーの憲法を参考にし、基本的人権も明記していた。しかし岩倉具視、伊藤博文らはプロシア憲法に固執し、草案は採択されなかった。

 明治11年にアメリカに住むが、生活が苦しかったのか、翌年日本に戻る。そのあとは宣教師、伝道者の役に徹し、聖書翻訳や賛美歌の編集などを行う。その文語訳は石川啄木、夏目漱石らに影響を与えた。

 本書によって素顔が明かされたお雇い外国人の軌跡から、近代を支えた日本人の動的エネルギーの発露が見えてくる。形而上学的発想の弱さを指摘しつつ、現実適応力の鋭さに感心するフルベッキの日本人観は、当たっている。同時に「最も親切で明朗な人々」というのは実感であろう。

 評・保阪正康(ノンフィクション作家)

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 『フルベッキ伝』 井上篤夫〈著〉 国書刊行会 3520

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 いのうえ・あつお 作家。欧米で取材し、評伝や翻訳を手がける。著書に『志高く 孫正義正伝 決定版』など。

 

 

Wikipedia

グイド・フルベッキことギドー・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(: Guido Herman Fridolin Verbeck、あるいは: Verbeek[注釈 1]1830123 - 1898310)は、オランダ出身[注釈 2]で、アメリカ合衆国に移民し、日本キリスト教オランダ改革派宣教師として派遣され活躍した法学者神学者宣教師

名前表記[編集]

日本で発音されやすいようフルベッキと称したことから、現在に至るまでこのように表記されている。ブエルベッキとも表記された[1]

詳細は「フェルベーク」を参照

l  生涯[編集]

初期[編集]

1830年にオランダユトレヒト州ザイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた[注釈 3][3]。フルベッキ家は代々モラヴィア派に属していたので、フルベッキはモラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語英語ドイツ語フランス語を習得している。また、同派で洗礼を受けた。ただしザイスト市の資料では、家族全員がルター派として登録されている[4]。フルベッキはモラヴィア派の影響で、宗派的な対立には寛容であったとされる[4]。少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教(1844年の中国宣教師を育成する「福漢会」の資金調達のための講演、ロンドンではマルクスも聞いている)の話を聞き、海外伝道に興味を持っていた。モラヴィア派の学校を卒業後、ユトレヒト工業学校に進学し、工学を学んだ(このような詩記述もあるがザイスト市史料には鍛冶屋の弟子など、学校で工学を学んだか疑問もある)[3]

アメリカ移住[編集]

185292日、22歳のフルベッキはニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。ウィスコンシン州にはモラヴィア派のオットー・タンク(南アフリカ・スリナムでは「奴隷解放のパイオニア」とも)がコロニー設立のために土地を買っていて、モラヴィア派の宣教師を乗せるために汽船を作っていたとか、オットー・タンクが汽船を使ったビジネスを考えていたとか。またオットー・タンクは1849年にザイストで結婚式を挙げていて、そこからフルベッキの親類が交流し、義弟がオットー・タンクの援助を受けていた関係からウィスコンシン州にきたという[3]

1年後にニューヨーク(ブルックリン)に移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。同じ時期に南部奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。アーカンソー州はミシシッピ・デルタという綿花とアフリカ奴隷が非常に多い場所であった。またフィルモア大統領による1850年協定によって南部の奴隷を主に返す妥協をピーチャーが批判していたのを恐らくフルベッキは共感。

その後1854年の夏にコレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓った。奇跡的に回復したフルベッキは渡米最初に来たオーバンに戻り、1855年にニューヨーク市にある長老派オーバン神学校英語版)に入学した。神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウン(オーバン神学校からマカオのモリソン記念学校で教え、シンガポールでヘボンと合流し共にニューヨークに帰国)の牧会するサンド・ビーチ教会で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。

1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズと一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれた。直後の322日長老教会で按手礼を受けるが、翌日改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。418日にマリア・マニオンと結婚し、57日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出帆した。

長崎時代[編集]

上海に一時寄港した後、ブラウンとシモンズは別で先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して1859117日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。フルベッキは長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。長崎では聖公会ジョン・リギンズチャニング・ウィリアムズに迎えられ、崇徳寺広徳院に同居した[5]。その後、1219日に妻マリアを上海より呼び寄せた。1860126日には長女を授かり、エマ・ジャポニカと命名するが、生後2週間で死去する。フルベッキ夫妻は崇福寺近くの住居に住んでいたが、妻が神経痛となり、原因が寝室の湿度の高さにあると説明され、ハインリッヒ・シュミット医師の薦めで、18601115日に環境の良い崇福寺広福庵へ転居した。広福庵は、最初の住まいであった崇福寺広徳院と同じ境内の高台にあった。1861118日には、長男チャールズ・ヘンリー・ウィリアム・ヴァーベック(フルベッキ)が生まれた[6]

長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。また1861年から1862年にかけては佐賀藩大隈重信副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。1862年にチャニング・ウィリアムズジョージ・スミス主教の寄金と居留外国人の献金によって長崎・山手居留地内に完成した英国聖公会会堂(日本で最初のプロテスタントの教会)の初代チャプレンとなるが、2代目チャプレンはフルベッキが務めている。フルベッキとウィリアムズは盟友となり、フルベッキの子供たちはウィリアムズより洗礼、堅信を受け聖公会員となった。フルベッキの次男はチャニング・ムーア・ヴァーベック(フルベッキ)と命名している。1863年(文久3年)に、のちに聖公会の婦人伝道師となり、立教女学校(現・立教女学院)、立教学校(現・立教大学)で教師を務める次女エマ・ジャポニカが生まれる。同年、生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。また大隈重信副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている[7][8]。大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している[9]

1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所済美館広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキは教師として幕府に雇用された。また、この幕府の英学所「済美館」とともに、佐賀藩が設置した致遠館でも教鞭を取っており、彼に師事して集まった学生達の姿はフルベッキ群像写真上野彦馬撮影[10])として継承され、現在も長崎歴史文化博物で展示公開されている。

済美館の教え子には何礼之平井希昌がおり、また大山巌も学生の一人であったといわれている[11]。大久保利通や伊藤博文(おそらくアーネスト・サトウつながり)も教えを受けたとも。

何礼之はその後私塾を開き、前島密陸奥宗光高峰譲吉安保清康山口尚芳らを輩出した[12]。何礼之私塾の塾生はフルベッキのアドバイスや援助も受けていた[13]

慶応3年(1867年)11月、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩がフルベッキを雇用することになった[14]。しかし佐賀藩が外国人の立ち入りを認めなかったため、フルベッキのために長崎に藩校「蕃学稽古所(慶応4825日以降は致遠館)」[注釈 4]が設立された[14]。英語、政治、経済などについて講義をしている。また、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造活字印刷術にも貢献している。同年には佐賀藩家老の村田若狭と弟綾部恭に洗礼を授け、1868年には仏僧清水宮内に洗礼を授けた[15]伊藤博文はフルベッキの門弟だったといわれることもあるが、伊藤は長崎に長期滞在したこともなく、直接の関わり合いを示す文書は残っていない[16]。しかし伊藤はフルベッキが滞在していた大徳寺に宿泊したことがあり、フルベッキの弟子である何礼之の弟子、芳川顕正を大徳寺に呼び寄せて英語を学んでいたことから、両者の間に何らかの接触があったと見られている[17]。またほかに相良知安山口尚芳本野盛亨らを輩出している[18]

慶応3年(1867年)から4年(1868年)にかけては薩摩藩土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している[18]明治元年(1868年)には岩倉具視の子、岩倉具岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ[19]。致遠館での校長、教頭の関係や学生時代の子弟関係から、大隈重信はフルベッキを師と仰ぎ、大隈が創設した早稲田大学でもフルベッキを建学の基礎的感化を与えた人物として讃えている[20]

東京時代[編集]

上京前のフルベッキと致遠館の学生(ルベッキ群像写真)上野彦馬撮影)。この写真は1974年(昭和49年)に島田隆資によって慶応元年(1865年)の幕末の志士たちの集合写真であるという説が唱えられるようになったが、現在では明治元年(1868年)頃に撮影された写真と見られている[16]

1869年(明治2年)213日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。

フルベッキ邸には、森有礼によって教師をしていた高橋是清が住んでいて、フルベッキの世話をしている。高橋是清は一時この邸宅を抜けているが、ダビッド・モルレー(マーレー)との交代の為、教師を辞めたフルベッキの相談を受けたり、晩年のフルベッキとも親交を持っている[21]

18686月にフルベッキは大隈重信(小松帯刀より外交に関する官職を引き継いでた)に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、187111月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。フルベッキの案においては、浦上四番崩れなどの関係のキリスト教理解などがメインであったが、岩倉の案では国家的使命を帯びている。また、当初は大隈重信が渡米する予定であったが留守政府側になっている[22]1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。

18692月より東京大学の前身に当たる開成学校(旧幕府開成所)の教頭[23]を務めながら(高橋是清や小村寿太郎が入学)、学校の整備を行い、186912月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。

大学南校在職中の187010月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。大学南校在職中の1871年(明治4年)105日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わる。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレー文部省より督務官として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。

1873年(明治6年)に政府左院において翻訳顧問となり、1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで元老院に職を奉じた。この間の1874年(明治7年)にラトガース大学より神学博士の学位を授与された。しかし、宣教師としての活動に意欲を見せるようになり、1877年(明治10年)9月に官職を退き、東京一致神学校や華族学校(学習院)の講師を務めた。

18787月には一時アメリカに帰国するが、翌1879年には宣教師として再来日する。

1886年(明治19年)明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学英語版)の教授を務めている。1888年には明治学院理事長を務める。

1884には高崎に、1885には板垣退助の仲介によって高知に渡り、伝道活動をした。また、長崎にもたびたび伝道旅行をした。18834大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演した。1878年には日本基督一致教会中会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書詩篇などの翻訳に携わった。18882月の旧約聖書翻訳完成祝賀会では、フルベッキが聖書翻訳の沿革について講演した。

1890年(明治23年)、高橋是清がペルーから帰朝したとき横浜でフルベッキと会う。二度目に宣教師としてこられたときは宣教師仲間にあまり受けが良くなかった(一度目も手厚い給与をもらっていたため仲間からは妬まれていた)ため悲惨な境遇だったという[21]

死去[編集]

1898年(明治31年)310日昼頃、フルベッキは赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のために急死した。葬儀は、313日に芝日本基督教会で行われ、ディビッド・タムソン宣教師が司式し、ジェームス・ハミルトン・バラが説教をした。遺体は青山墓地に埋葬されている。

l  子孫[編集]

フルベッキは74女をもうけた。来日して間もなく生まれた娘は日本にちなみエマ・ジャポニカ・フルベッキ(1860126-186022)と名付けられた。短い生涯を閉じたこの娘は、稲佐悟真寺国際墓地に埋葬された。エマの他に同じく夭折した四女Mary Anne Verbeck(愛称マリー、1875年東京生、1876年東京没)Barnard Verbeck(愛称バーニー、1880年オークランド生、同年日本に向かう途中の太平洋船中で没)も一緒に横浜外人墓地に埋葬されている。

息子のグスタヴ(Gustave Verbeek1867 - 1937)はアメリカに渡り、漫画家となって『ニューヨーク・ヘラルド』紙などに寄稿した。一方、同じく息子のウィリアム・ヴァーベックは、アメリカ陸軍准将となった。その子供のウィリアム・ジョーダン・ヴァーベックWilliam Jordan Verbeck1904 - 1965[24])は陸軍士官学校を卒業後、アメリカ陸軍24師団歩兵第21連隊英語版)長として太平洋戦争に従軍、レイテ島・リモン峠で1師団と戦った[25]大岡昇平の『レイテ戦記』に紹介されており、それによると朝鮮戦争に従軍した関係で1950年に来日し、靖国神社に参拝したほか、レイテで第1師団を率いた片岡董と面会してその善戦を称えたという[25]

l  略歴[編集]

1830 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。1852 し、ニューヨークに移住。コレラに罹ったが一命を取りとめ、献身を決意すると、1855ニューヨーク州オーバン神学校英語版)に入学。1859には上海からの海路、サミュエル・ブラウンと共に来日し、長崎へ到着する。長崎では済美館の教師となり(1864)、村田政矩が尋ねて来て聖書の教えを請う(1866)。佐賀藩が長崎に建てた英学校致遠館1868から教鞭をとるが、上京し(1869 )、大学南校(後年開成学校に改称)の教師となる(1873まで)。語学・学術においての功績が喜賞され、1871明治天皇から勅語を賜る。大学南校を辞職したフルベッキは、政府左院翻訳顧問となる。

1878には元老院に在職し、旧約聖書翻訳委員を務める。板垣退助の仲介(紹介状を所持)によって高知に渡るのは1885で、伝道活動を行う。翌1886明治学院の理事となるとさらに次の年、明治学院神学部教授となる(1887)。

フルベッキは1898赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された。

l  著述[編集]

著作[編集]

ヴヘルベッキ(述)『仏国森林法同執行法令』(河内信朝、光増重健 記、矢代操 校、明治15年、元老院)。doi:10.11501/796418、インターネット公開。

フルベッキ(述)『耶蘇教証拠論』(和田秀豊 訳、1885年、和田秀豊)。doi:10.11501/825226、インターネット公開。

フルベッキ(閲)『英語発音秘訣』(菊池武信 編、清水彦五郎 訂、1886年、菊池武信)。doi:10.11501/869900、インターネット公開。

「奇跡論」『日本全国基督教信徒同盟会演説集』(杉山重義、山鹿旗之進 []1887年、警醒社59-65doi:10.11501/824989、インターネット公開。ジ・エフ・フルベッキ名義。

『基督教不廃物論』(高橋五郎 訳、1888年、東京聖教書類会社)doi:10.11501/824319、インターネット公開。

フルベツキ『人の神を拝むべき事由』(高橋五郎 訳、1888年、高橋五郎。doi:10.11501/825071、インターネット公開。

『フルベッキ書簡集』(高谷道男 編訳、1978年、新教出版社)。フルベッキの肖像あり、「年譜」秋山繁雄(編)385-408頁。2007年再版。

ラフェリエール(纂輯)、バドビー(訂正)『欧州各国憲法』(田中耕造、ヴヘルベッキ、齋藤利敬 訳、2001年、信山社出版〈日本立法資料全集〉別巻 207)。明治21年刊の複製。Laferrière, Edouard(英語) (1841-1901)Batbie, Anselme Polycarpe(フランス語) (1828-1887)

改題、復刻版。ラッパール(著訳)『佛朗西和蘭陀ノテール〈公証人〉規則合卷 : 司法省藏版』(黒川誠一郎、ヴェルベツキ、松下直美、中村健三、杉村虎一 訳、2018年、信山社出版〈日本立法資料全集 別巻1179〉)。

翻訳[編集]

エスグバク(Eschbach, Louis Prosper Auguste)(フランス語)『法学指鍼』(ヴェルベッキ 訳、忘筌社 記、1877年、金港堂)。和装、2 (51, 52) ; 22cm全国書誌番号:40021742

ヨハン・カスパー・ブルンチュリ英語版)『国会議員選挙論』(ブエルベッキ 口訳、武者小路実世 筆記、1879年、博聞社)(74頁)

前書きに「此書ハ原名ヲ『ポリチーク・アルス・ベヒセンシヤフト』ト云ヒ」と記載されてはいるものの、目次構成も頁数もブルンチュリの Politik als Wissenschaft(意: 政治の科学、664頁) とは全く異なり、日本国内で女性に選挙権を与えることの是非などを論じた書籍。

l  伝記[編集]

井上篤夫『フルベッキ伝』国書刊行会2022

l  注釈[編集]

1.    ^ オランダでは蘭: Verbeekでフェアビークと呼ばれていた。アメリカ移住のとき、アメリカ人が発音しやすいように: Verbeckと変えた(村瀬寿代 2003, pp. 56)。一方で青山墓地のフルベッキの墓碑銘はVerbeekと刻されている(村瀬寿代 2003, pp. 71)

2.    ^ フルベッキはオランダに長い間帰国しなかったのでオランダ国籍を喪失した[要出典]。友人グリフィスも著書で彼を「国籍のない人」と言っている。

3.    ^ フルベッキ家は裕福なアムステルダムの商人で、ドイツ人オランダ人の名家の婚姻によって生まれた家である[2]

4.    ^ 舎長副島種臣、その補佐が大隈重信。

 

 

 

 

 

 

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