津田梅子  古川安  2022.12.30.

 2022.12.30. 津田梅子 科学への道、大学の夢

 

著者 古川安 1948年静岡県生まれ。神奈川県育ち。'71年東工大工卒。帝人入社。’83年米オクラホマ大大学院Ph.D.(科学史)取得。'85年横浜商大商学部助教授。'91年東京電機大工学部教授。'04年日大生物資源科学部教授。現在総合研究大学院大学客員研究員。科学史家。化学史学会前会長。英国化学史学会モリス賞受賞。著書に『科学の社会史』『化学者たちの京都学派』など

 

発行日           2022.1.19. 初版

発行所           東京大学出版会

 

プロローグ

梅子と自然科学の関係についてはあまり語られていない。科学史や「科学とジェンダー」の視点から論じた研究はほとんどない

梅子はブリンマー大学で自然科学を学び生物学を専攻。大学からこの分野での能力を高く評価され、研究者としての将来を嘱望された。しかし、帰国後は科学研究者としてのアイデンティティを捨て、余生を日本女性のための英語教育と学校運営に捧げた。史実の掘り起こしとともに、そこから生まれる様々な疑問に私なりに解答を試みたのがこの論文

梅子と科学の関わりを当時の日米の科学・教育・社会の文脈から分析し、その意味を考察することを狙いとした

1章では、梅子に影響を与えた父・仙と農学との関わり、少女時代の梅子の最初のアメリカ留学、帰国から再留学を志すまでをたどる

2章では、ブリンマー大学の教育理念と特徴、アメリカ生物学の勃興を背景としたブリンマーにおける生物学教育、梅子の受けた教育の実態を分析する。明治期に華族女学校の女性英語教師がアメリカでなぜ自然科学、特に生物学を専攻したかが明らかにされる

3章では、生物学者への道の第1歩を踏み出した梅子の研究、帰国を前にしての梅子の葛藤、帰国後の梅子の生物学への執着と決別を論ずる。帰国後なぜ科学者への道を歩まなかったのか、あるいは歩めなかったのか、そもそも梅子の人生にとって科学とは何であったのか、を考察する

4章では、女子高等教育不要論のなかで創設・発展した女子英語塾の教育現場に目を転じ、梅子の教育と学生たちの反応、人間関係と別れ、梅子の死までを描く

5章では、梅子の後継者である星野あいのキャリアに焦点を当て、梅子の遺産は津田塾でどのように受け継がれ、科学の高等教育が実現されたかを時代状況の中から探る

エピローグでは、日本における女性科学者の歴史における梅子の位置を検討し、本書の論点を再確認する

 

第1章        アメリカに渡った少女

梅子の人生にいろいろな意味で大きな影響を与えた父・仙から始め、幼い梅子がアメリカに渡った経緯とアメリカでの人間形成、帰国後英語教師として自立する梅子、そして再留学の夢の始まりとその実現に至る過程をたどる

l  津田仙と農学

津田仙は、欧米の学術、精神を積極的に取り込み、かつ在野精神に富んだ農学者・教育者

佐倉藩の武士の家に生まれ、若くして蘭学やイギリス人医師から積極的に英語を学んだ

1862年、幕臣津田初子の婿養子となり、'67年幕府の通弁として福沢諭吉らとともに訪米

幕府崩壊に伴い官職を退き、築地の外国人居留地の外国人用ホテルに就職。客の嗜好に応えるため、麻布の自宅で西洋野菜の栽培を試行

‘73年、ウィーン万国博に随行、技術伝習生として西洋の農業技術を学び、日本の在来農法を西洋の学理で改良する「三事農法」の運動を起こす――人工的に受粉を助ける(媒助法)

農業の近代化のための人材育成機関として学農社農学校を創設、『農業雑誌』を発刊

ダーウィンの『種の起源』(1859)にも刺激を受け、自家受精より他家受精が有利な個体を生むことを論じたダーウィンの最新の研究成果を取り入れている

内務省の勧業寮は津田の上申を却下したため、以降津田はキリスト教に基づく自由主義思想を基に、反官僚主義的、・反権力的な農政批判を展開

1875年、メソジスト派のアメリカ人牧師から夫婦で受洗。農業改良における啓蒙活動は「官」に対抗するための「民」の運動であり、それを支える精神がプロテスタンティズムと考え、仙にとって両者は不可分。自らピューリタン的謹厳な生活を堅持し、禁酒運動を行い、晩年は足尾銅山の鉱毒反対運動に加わり、被害地の農民救済運動に奔走

教育にも注力、女子小学校(‘74年創立)、特殊学校('75年創立)、耕教学舎('78年創立、後に東京英学校)などキリスト教精神に基づく教育に関わる。女子小学校と耕教学舎は青山学院の、特殊学校は筑波大附属盲学校の前身

仙が築いた国内外の人的ネットワークは梅子の人生に深く関わる

l  少女たちのアメリカ

梅子の留学を決定したのも仙

女子を官費留学生としてアメリカに派遣することを建議したのは北海道開拓使次官の黒田清隆で、アメリカ視察の際、就学前児童にとっての母親の家庭における影響を重視、賢母養成のための女子教育、家庭教育の必要性を訴える。ヴィクトリア時代のアメリカの家庭観を反映しており、明治の啓蒙家の多くが共有していたもの

1871年募集開始、留学先はアメリカで期間10年、政府が旅費、学費、生活費全てを負担、年800ドル(現在価値で400万円)の奨学金支給、出発は同年末の岩倉使節団に同行

応募は5人、上田貞子(16)、吉益亮子(14)、山川捨松(11)、永井繁子(9)、津田梅子(6)で全員承認――いずれも実家は旧幕臣で新政府の下級官吏だが、十分理解しての決断

山川は会津藩士の娘、父は亡く、次兄の健次郎は一足先に開拓使の留学生として渡米、物理学を収め、のちの東京帝大総長

仙は、姉の琴子(8)を生かせようとしたが嫌がったため、梅子にお鉢が回ってきた

上田と吉益は、ホームシックにより健康を害し、1年以内で帰国

梅子は、日本公使館で森有礼のもとで書記をしていたワシントンDC近郊のジョージタウンに住むランマン夫妻に預けられる。典型的なヴィクトリア時代の白人中産階級のプロテスタント家庭で、梅子も8歳で受洗。78年私立の小学校を卒業、私立の女学校へ進学

捨松と繁子もニューヨーク州のヴァッサー大学に進学、繁子は3年制の芸術学課程を卒業して予定通り10年後の81年帰国。捨松と梅子は卒業まで1年延長。捨松は日本人女性初の学士号を得て帰国

l  華族女学校の英語教師

帰国した梅子たちに日本政府は何の受け入れ準備もなく、梅子は日本語に読み書きすら不十分だったため、私塾の桃夭(とうよう)女塾の下田歌子(18541936)から国語と書道を習い、代わりに歌子と女学校の生徒に英語を教えた

岩倉使節団で知り合った伊藤博文と再会、伊藤家に住み込みで夫人と娘の英語教師をする

永井繁子は、在米中に知り合った海軍中尉・瓜生外吉(後に海軍大臣)と結婚、東京音楽学校、東京高等女学校、女子高等師範でピアノを中心とした音楽教育に尽力

山川捨松は、東京女子師範の教職ポストに空きが出たが、日本語の不安から辞退、帰国の1年後大山巌(18421916)の後添いで結婚。「鹿鳴館の花」と呼ばれる

1885年、学習院の女子部が独立して華族女学校が誕生、梅子も同校の英語教師で採用されるが、女性の社会的地位の低さと、女性自身の問題意識の低さに驚き嘆く

l  再留学の夢とその実現に向けて

梅子の性格は、単純だが情熱的で頗る意志が強く、この頃から教師を生涯の職業と定め、独身を貫く決意をしたものと思われるし、仙も梅子の結婚について一切干渉しなかった

捨松や繁子のような大学教育を受けたくて再留学を夢見るようになる

捨松の留学先の娘で、捨松の計らいで華族女学校の英語教師だったアリス・ベーコンが積極的に支援。仙が招聘した英語教師の娘を通じてクウェーカー教の有力者に話が伝えられ、クウェーカー教系の女子大ブリンマー大学が丸抱えでの受け入れを承諾

梅子の学習院長宛の辞職願は、院長の大鳥圭介によって、宮内大臣宛の留学願い書に書き換えられ、1889年には給料付き在官留学が認められる――行き先は、ペスタロッチの実物教育で知られるオスウィーゴー師範学校かブリンマー大学となっている

 

第2章        ブリンマー大学と生物学

自らの意志でつかみ取った2度目の留学で、何を学び、それが梅子をどう変えていったか

l  ブリンマー大学の生物学科

1889年渡米、入試免除の特別生としてブリンマー大に入学。生物学専攻を決める

ブリンマー大は、1880年代までに東部で創立されたセブン・シスターズの1つ。1885年の創立、梅子は第4期生。大学は良妻賢母型教育というよりは、男性と同等に最高水準の学問を厳格に教育し研究させることを目的として、博士号を目指す研究者養成教育を重視

アメリカですら女子の高等教育が健康を蝕むものとされた時代に、自然科学教育に注力したブリンマーは異色の存在であり、生物学も医学から独立して専門学科として登場し始めた時代で、ブリンマーにも女子大として初めて設けられた。梅子と入れ替わりに帰国したのが、女子医学留学生第1号でペンシルヴェニア女子医科大(後のドレクセル大)を卒業し日本人女性初の医学博士号を取得した岡見(西田)京子(18591941)

l  ブリンマーの梅子

当時、華族女学校の教育に関しては、明治天皇のご親諭(内意)があり、良妻賢母育成のための実用の学科教育を行うべきとし、自然科学など「高尚」な学問に重きを置いてはならないとされていたにもかかわらず、梅子は積極的に生物学を選択している

留学の表向きの目的だった師範学校での勉強は、1年半の生物学の勉強の後、最後の数カ月間をオスウィーゴ師範学校に学び、その他の初歩の学校や女子大学を視察している

さらに1年延長願いを出し、生物学の研鑽に邁進

 

第3章        生物学者への道

l  ウッズホールの夏

1891年、ウッズホール臨海生物学実験所の夏期コースに参加。同コースには、ジョンズ・ホプキンス大学院で博士号を取得した渡瀬庄三郎(18621929)が講師として参加

のちにブリンマーで指導教官となるトマス・モーガンとも出会う

l  モーガンとの研究

モーガンは、渡瀬と同じくジョンズ・ホプキンス大で博士号を取得した弱冠25歳の動物学者で、実験発生学を始めたところで、梅子にアカガエルの卵割りの様子の観察を指示

1892年提出した論文は、2年後にモーガン初の共著『カエルの卵の定位』としてイギリスの学術雑誌に掲載。日本人女性で外国の学術雑誌に論文を掲載したのは1911年の保井コノ(18801971)とされるが誤り

最後の1年は学生助手として採用され、学生の指導にも駆り出される

l  葛藤と帰国

ブリンマーの教授たちの絶大な信頼を得て研究者として留まるようオファーがあったのを蹴って帰国、ブリンマーからは恩知らずと憤慨された

梅子を苦しませたのは、帰国して奉職するという義務感で、個人主義的な行動は梅子のモラルが許さなかった。国家の「近代化」に貢献するということを自らに課せられた役割とする認識を梅子は生涯持ち続けた。その1つの具体化が留学中から暖めていた、女子の高等教育を目的とする私塾を開設し、女性の地位向上のために尽くすという計画

1892年秋帰国、華族女学校に復職

帰国後も生物学の研究は続け、モーガンや渡瀬の指導教官だった東京帝大の箕作(みつくり)佳吉教授とは連絡を取り合っている

1898年、捨松の働きかけで梅子は女子高等師範の英語教授を兼任。瓜生繫子も音楽の教授。同行は前年に文科と理科、研究科が設置され、初の女子科学教育実施

l  生物学との決別

1900年女子英学塾開校し夢を実現

1917年頃から糖尿病で入退院を繰り返し、何度か脳溢血に見舞われたのち、'29年死去

モーガンは、1904年コロンビア大に移り、遺伝学に転じ、1933年「染色体の遺伝機能の発見」でノーベル賞を受賞

社会的性差の存在の自覚に繋がる明治啓蒙主義的な梅子の想いは、最初の留学後の日本での教職体験の中で胚胎し、ブリンマーでの原体験から揺るぎない信念へと変容したのは、生物学履修の中から形成されたものであり、その確信はアメリカ生物学の飛躍的な成長期にその最先端にあった大学で学ぶことから熟成された

 

第4章        英学塾の裏側で

尋常小学校終了後の女子教育は高等女学校(45)か女子師範(5)、その上は専門学校(34)か女子高等師範(4)に限られ、大学は男子に限定

l  女子高等教育不要論

女子教育の積極的な推進者は、津田仙以外にも、高嶺秀夫(高等師範)、成瀬仁蔵(日本女子大)、巌本善治(『女学雑誌』編集人、明治女学校長)、新渡戸稲造など多いが、女子高等教育不要論が大勢を占め、捨松の兄で後の東京帝大総長の山川健次郎ですら、高等教育は女子に精神的・身体的な圧迫を与え死亡率を高めたり受胎能力を低下させると主張、高等教育以上の教育は婚期を逸し民族の繁栄を妨げるとまで断言

l  熱血童女

女子英学塾は1903年米国の婦人篤志家の資金援助を受け麹町五番町に移転、寮も新設、翌年「専門学校」の認可も受け、中等教員無試験検定資格を認められて、学生数も急増

梅子は、学生たちに英語だけでなく、幅広い教養を身に着けることの重要性を訴える

教育を通して日本女性の意識変革と社会的地位の向上を目指しながらも、天皇制国家や階級社会には疑念を持たなかった梅子の保守性には、生徒の山川菊枝や神近市子らは反発

トルストイは宗教を捨て、作品も腐敗と堕落、無知と不道徳以外のなにものでもないとし、彼の書は読者の品性を破壊すると断じ危険思想だから近づくなと警告

l  別れの日々

1908年父仙死去、翌年母死去、1911年姉死去、1914年ランマン夫人死去

1919年、体調不良から塾長を辻(小此木)マツに引き継ぐ

1929年、稲村ケ崎の別荘を再建して移り住んだ直後に死去

 

第5章        塾から大学へ

梅子が塾の将来を最も託した直弟子が20歳下の星野あい。ブリンマー代に留学し、第2次大戦下、英語教育が存亡の危機に見舞われた時期に理科の創設によって学校を存続させ、戦後は新制・津田塾大学の初代学長として活躍

l  星野あいとブリンマー留学

星野は群馬県沼田の出身、横浜のフェリス和英女学校に学んだあと1904年女子英学塾を受験し、2年に編入学。歴史をブリンマーから帰った河合道に英語で教わる

河合道は、梅子がアメリカで寄付を募って創設した日本婦人米国奨学金の支援で留学し、後に恵泉女学園を創立

星野は、1906年卒業し、静岡英和学校の教師に赴任し、すぐにブリンマーに留学、生物と化学を専攻、後の塾の理科創設に繋がる貴重な原体験。1912年学士号取得して帰国

梅子は星野を後継者として育てるために、1918年コロンビア大大学院のティーチャーズ・カレッジに1年留学、教育学の修士号を取得させ、梅子の死後塾長に就任

1931年には小平移転、33年には財団法人化し、校名を津田英語塾に変更

l  戦時下の理科創設

女子専門学校の大学令に基づく大学への昇格は実現しないまま、大正期には設立ラッシュとなるが、依然として理科系統の教員養成は師範学校以外では日本女子大や東京女子大に限定。それを一変させたのが第2次大戦で、理科教員不足から専門学校にも理系の専攻が認められ、全国の女子専門学校に理科新設が広がる

津田英語塾の場合は、文部省も英文科の廃止までは言わなかったが、学生が社会の圧迫を感じざるを得ない状況となり、受験者数の激減に対処するために理科を新設

1943年、理科増設に伴い、校名も津田塾専門学校に変更。理科の新設は設備を整備するだけでも大変。理科全体の主任を務めたのはアインシュタインと親交があり、相対性理論の日本への紹介者として知られる桑木或雄で、九州帝大工学部教授、松本高校長を経て着任

‘44年、戦況悪化とともに学内に設けられた日立航空機の工場で勤労動員しながら勉学

'48年、新教育制度の下に津田塾大学発足

l  「真の大学」へ

終戦後、米国から教育使節団来日。星野らが中心となって大学昇格運動を展開

‘48年、津田、東京女子大、日本女子大、聖心、神戸女学院の4年制大学認可、梅子の「真の大学」の夢が実現

 

エピローグ

科学は男性の専門職であるという通念があった戦前期、それが女性であるは会い、しばしば「女流科学者」「女科学者」などと呼ばれて珍しがられ、研究に従事していること、博士であることが「女流科学者」の一般的イメージで、多くは教育者でもあった

梅子に最も年齢の近い日本の女性科学者は「女性化学者のパイオニア」とされる丹下ウメで、1873年生まれ、鹿児島の地元の小学校教師から、日本女子大の1期生として、自然科学の恵まれたカリキュラムの中で化学を学び、東北帝大が女子に門戸を開いた時に推薦で入学、卒業後も大学院生として研究室に残り、文部省・内務省の嘱託として渡米、ジョンズ・ホプキンス大で博士号を取得、帰国後は日本女子大教授の傍ら理化学研究所で鈴木梅太郎の研究室に所属してビタミンB2の研究を行う。丹下にもロールモデルはなかったが、科学者としての活躍の場は提供されており、自らロールモデルとなって後進のために道を切り開いた。梅子の時代とは背後の環境やメンターなどを含むインフラ構造が大きく変化

また、国費留学の目的として女性の自然科学研究は認められず、家政に関わる研究と偽装

初期の女性科学者は圧倒的に独身で、結婚生活との両立の難しさを示している

本書は、科学史の視座から描いた津田梅子の評伝だが、その観点からの評価をすることが主旨ではなく、明治時代を駆け抜けた一女性がアメリカで自然科学と出会い、それがその女性のその後の人生にどのような意味を持ったか、どのような葛藤や確執があり、どのような創造へと繋がったかに焦点を当てた。梅子の遺産がどう受け継がれてどう結実したかを科学史とジェンダーの視点から描くとともに、梅子のキャリアを精査することにより、女性科学者とは何かという問題にも光を当てた

梅子は、自然科学を捨てたというより、日本女性のための英語教育の道の方を自分には相応しいと思って選んだもので、女子英学塾を創立するが、英語は最終目的ではないことを強調、英語を通して欧米の世界、思想、学問、そして科学にも目を開かせる、それが日本女性たちに家父長制的な日本社会におけるジェンダー格差の大きさ、障壁の多さに目覚めさせることにも繋がるという信念をもって邁進した

津田梅子の評価は、梅子一代で完結するのではなく、梅子の遺した遺産、創った伝統、そしてそれが後世の世界に与えた影響を含めた上での評価であるべき

 

 

 

「津田梅子」書評 学問と別れ母国に尽くした矜持

評者: 須藤靖 新聞掲載:20220305

津田梅子 科学への道、大学の夢著者:古川 安出版社:東京大学出版会

優れた生物学研究者だった津田梅子。一次史料にもとづいて、科学史の視点からこれまでの伝記とは異なる津田梅子像を描出し、梅子と科学の関わりを、当時の日本の科学・教育・社会の文

「津田梅子」 [著]古川安

 近代国家建設には男子を家庭で育成する母が重要だと考えた明治政府は、賢母のロールモデル育成を目的として、1871年、女子留学生を募集した。

 6歳から16歳の5人が選ばれた中で、最年少が津田梅子である。彼女らはアメリカで10年間学校教育を受けるとともに家庭生活の体得が託された。

 梅子は子供のいない白人中産階級の夫妻に実子のように可愛がられて育つ。女学校を卒業するため、1年間の留学延長が認められた梅子は17歳で帰国した。

 しばらく英語教師を務めた梅子は、女性の社会的地位の低さ、さらにそれに対する女性自身の問題意識の欠如に驚き嘆く。そして今度は自らの意志でアメリカへの再留学を実現させた。

 24歳で入学したブリンマー大学は創設4年目の私立女子大学。良妻賢母育成ではなく、男性と全く同様の最高水準の学問教育と研究を通じて、教師や研究者を育てる機関であった。

 なかでも梅子が選んだ生物学科には傑出した教授陣がいた。実際、梅子を指導し共著論文を発表したトマス・モーガンは後にノーベル医学生理学賞を受賞したほどだ。

 梅子は優秀さが認められ、奨学生として残り研究を続けるよう学部長に勧められるも、辞退し帰国する。葛藤の末、生物学者への道を捨て母国に貢献する人生を選択せざるを得なかったのは、明治エリートの矜持だったのだろう。

 悩みつつも生物学と決別した梅子は、日本の女性高等教育近代化にその人生を捧げた。育てあげた数多くの学生の一人、星野あいは梅子の後継者として津田塾大学を創立し、女性科学者育成の先鞭をつけた。

 本書は、新5千円札の顔となる津田梅子個人の評伝にとどまらない。彼女越しに見た女性教育近代化の歴史である。今夜放送のドラマ「津田梅子」(テレビ朝日系)と合わせて、梅子が日本社会の未来に託した願いを読み解いてほしい。

    
ふるかわ・やす 1948年生まれ。科学史家。元日本大教授。著書に『科学の社会史』『化学者たちの京都学派』など。

 

 

『津田梅子』古川安著(東京大学出版会) 3080

2022/05/20 05:20 読売

評・川添愛(言語学者・作家)

 津田梅子が幼少時に官費留学生として米国に渡ったこと、後に女子英学塾(現在の津田塾大学)を創立したことを知っている人は多いだろう。だが、梅子が20代で再留学し、生物学を研究していたことはあまり知られていないのではないか。

 本書は梅子の2度目の留学に焦点を当て、科学研究者としての経験が梅子に与えた影響を考察する。留学先のブリンマー大学に残された記録から、梅子が教授陣から非常に高い評価を受け、将来を嘱望されていたことが分かる。当時の梅子の師は、後にノーベル賞を受賞するトマス・モーガン。梅子は彼と共著論文を著し、日本人女性が海外の学術誌に論文を発表した最初の例となっている。

 優秀な研究者だった梅子が、生物学者の道を歩まなかったのはなぜか。その謎を追うと、当時の日本の女子教育の、絶望的とも言える状況が見えてくる。「高等教育は女性の死亡率を高め、受胎能力を低下させる」という言説まで流布する中、あらゆる専門知に開かれたオールラウンドな女性の育成に邁進した梅子。その苦労と情熱をありありと伝えてくれる一冊だ。

 

 

 

(日曜に想う)津田梅子が2人いれば 記者・有田哲文

20221225日 朝日

 歴史を学ぶと、ときおり変わった名前に出くわす。当時としては一般的だったのだろうと思うことが多いが、山川捨松だけは気になっていた。明治の初期、幼くして岩倉使節団に加わり、米国に留学した女性である。もともとの名は咲子だったと、最近知った。

 太平洋の向こうに送り出す娘を「捨てたつもりで、帰りを待つ(松)」という意味を込め、母親が改名したという。幼い身での異国への旅立ちが、どれほど途方もないことだったか。その捨松とともに海を渡り、生涯の友人となったのが津田梅子である。日本を発ったときには捨松11歳、梅子はさらに幼い6歳だった。米国の家庭のあり方を学ぶことが求められ、2人の滞米は10年余りに及んだ。

 再来年に5千円札の顔になる梅子は、女子英学塾、後の津田塾大学の創設者として歴史に刻まれている。しかしその人が20代に2度目の米国留学をして、生物学に打ち込んでいたことは、あまり知られていない。光をあてたのが、科学史家、古川安(やす)さんの研究である。

     *

 米国に滞在していた古川さんは、ブリンマー大学という女子大にかつて梅子が在籍し、もっぱら生物学を学んでいたことを知った。「どうして、と思いました。津田梅子といえば英語教育者のイメージだったので」

 大学に残る古い資料にあたると、当時の姿が浮かんできた。後にノーベル医学生理学賞を取るトマス・H・モーガンの最初の教え子だったこと。カエルの卵についての論文を共著で発表し、それが日本女性による科学論文の第1号となったこと。優秀さを見込まれ、助手として学生の指導までしていたこと。

 ブリンマー大学には全米でも先進的な生物学のカリキュラムがあった。英語の教育法を学ぶために留学した梅子だったが、現地で生物学に心引かれたのだろう。才能が開花し、大学に残って研究を続けないかと誘われるほどになった。

 しかし梅子はその申し出を断って帰国する。日本では女性が科学者となる道が閉ざされていた時代だった。官費留学の身でもあり、我が道を行くことにはもともと困難があった。そんななかでも梅子は生物学に打ち込んでいた。なぜか。

 古川さんは研究をまとめた『津田梅子 科学への道、大学の夢』(東京大学出版会)にこう記した。〈女性が科学者として生きることが不可能に近いとわかっていた時代状況の中で、敢(あ)えてそうしたのは、梅子なりの時代への挑戦だったのではないだろうか。(中略)タブーに挑戦し、不可能が実は可能であることの証(あかし)を見出(みいだ)そうとした〉のではないか。

 その後の女子教育への貢献を思うと、帰国の選択は正しかったに違いない。しかし、だからこそ考えてしまう。もしも梅子が2人いれば、と。もう1人の梅子は米国で道を切り開き、科学者をめざす日本女性のロールモデルになったのではないか。

     *

 大学での女子の科学教育で日本はいまも後れをとっており、経済協力開発機構(OECD)加盟国中、理工系女子学生の割合は最下位だ。米マサチューセッツ工科大学の学士課程での女子比率は48%にのぼるが、東京工業大学は13%にとどまっている。その東工大が先日、入学試験に女子枠を設けると発表した。まずは2025年度までに、入学者の女子比率20%超をめざすという。

 制度づくりに関わった尾形わかは教授は「『リケジョ』という言葉があるのは、世の中に『女子なのに理系?』という意識がまだあるからだと思うんです」と話す。ここで女子学生を増やし、何とか意識を変えたいのだという。ロールモデルが増えれば増えるだけ、社会は変わる。東工大が踏み出した一歩は決して小さくない。

 津田梅子は、大学で初めて触れた生物学にどれほど目を輝かせたことか。そんな輝きを遮るものがあるならば、一つひとつ取り除いていく。いまはまだ道の途中である。

 

 

Wikipedia

津田 梅子(つだ うめこ、18641231元治元年1231929昭和4年〉816)は、日本の教育者。日本初の女子留学生の一人。女子英学塾(現:津田塾大学)の創設者であり、日本における女子教育の先駆者と評価される。また、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である。聖公会の信徒。

初名はうめ(「むめ」と書いた)。戸籍上は梅であったが、1902明治35年)に父である津田仙の戸籍から分籍した際に梅子に改めた[ 1]

生涯[編集]

元治元年123日(新暦では18641231日)、津田仙(18371908)初子(18431909)夫妻の次女(7人姉妹、5人兄弟の上から2番目)として、江戸の牛込南御徒町に生まれる。父である仙は、小島家(下総佐倉藩上士、禄高は120石)の三男として生まれて津田家(幕臣)に婿入りした人であり[ 2]、梅子が生まれた時点では江戸幕府に出仕して外国奉行支配通弁(通訳官)を務めていた。仙は、梅子が3歳の頃には幕府の使節の随員として福沢諭吉らと共に渡米するなどしたが、元号が明治に改まるとともに官職を辞した。1869明治2年)、仙は外国人の旅行者のために設けられた「ホテル館」という洋風旅館へ勤めはじめ、津田家は向島へ移った。その頃から梅子は手習を始め、浅草まで踊りの稽古に通った。当時の梅子は踊りが好きで、その筋の良さを師匠も認めていたと伝えられている。

l  アメリカ留学[編集]

日本最初の女子留学生[編集]

サンフランシスコ滞在中の女子留学生5名、ならびにデ・ロング 駐日アメリカ公使夫人[15]新暦18721月。左から、山川捨松、上田悌子、津田梅子、デ・ロング夫人、吉益亮子永井繁子

1871(明治4年)に津田仙は開拓使嘱託となり、津田家は三田へ移った。同年10月、アメリカ訪問時に男女平等・女子教育の必要性を実感した開拓次官の黒田清隆正院太政官の最高意思決定機関)に伺い出て実現させた開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業に、仙は梅子を応募させた。

梅子が渡米の9か月後に書いた"A little girl's stories" と題する英文の絵日記(2022〈令和4年)現在、津田塾大学 津田梅子資料室 所蔵)には「父は、最初は姉の琴子(1862-1911)を留学に応募させるつもりでしたが、姉は拒否しました。その後で父から留学の話を聞いた私は、アメリカに行きたい、と自分の意志で答えました」という旨が記されている。

官費女子留学生(留学期間は10年)に提示された待遇は「日本政府が旅費・学費・生活費を全額負担した上で、さらに奨学金として毎年800ドル[ 3]を支給する」という破格のものであったが、10年間の留学によって結婚適齢期[ 4]を逃してしまう危惧もあり、官費女子留学生の募集に応じたのは、明治政府から冷遇されていた旧幕府側(幕臣または賊軍士族の少女5名のみであった。

上田悌子[ 5](幕臣・上田畯の娘、満14歳〉

吉益亮子(幕臣・吉益正雄の娘、満14歳)

山川捨松会津藩家老山川浩の妹、満11歳)

永井繁子(幕臣・永井玄栄の養女、かつ幕臣・益田孝の実妹、満8歳)

津田梅子(幕臣・津田仙の娘、満6歳)

各人の満年齢は、日本を出国した新暦18711223日現在。

開拓使は応募した5名全員を官費女子留学生に推挙し、正院にて承認された。

出発に先立ち、女子留学生5人は士族の女子としては歴史上初めて皇后への拝謁を許され、明治411月(旧暦)に他の官費留学生とともに岩倉使節団に随行して渡米した。

新暦18711223日(本節は以下新暦で記す)に横浜を出港し、1872115日にサンフランシスコに入港。同年131日にサンフランシスコを5両編成の貸切列車で出発し、大陸横断鉄道を経由してワシントンD.C. ヘ向かったが、40年ぶりとされる大雪により日程が遅れた(ソルトレイクシティ18日間待機)。225日にシカゴに到着、翌日の夜にはワシントンD.C.に向けて出発した。5人の女子留学生はアメリカに到着後もなかなか洋服を買ってもらえずにいたが、岩倉具視に談判の末シカゴでようやく洋服を買い与えられた[ 6]。シカゴで撮影した、洋装に着替えた5人の記念写真が残されている。

第二の両親、ランマン夫妻[編集]

新暦1872229日にワシントンD.C.に到着すると、梅子は吉益亮子と共に、ワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住むチャールズ・ランマン 英語版)(1819-1895)に預けられた。著名な画家・著述家・旅行家であった[ 7]ランマンは、当時、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)を務めていた[ 8]。ランマン夫人(Mrs. Adeline Lanman, 1826-1914)は、ジョージタウンの裕福な家庭に生まれ、高等女学校に相当する学校を卒業した女性であった[ 9]。新暦187251日には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた。同年10月末(新暦)には、上田悌子は体調不良を、吉益亮子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人は助力する(#女子英学塾を創設)。

2人の留学生の帰国を機に残った3人は再び別々にアメリカの家庭に預けられることとなり、梅子は再びランマン家に預けられた。梅子はそこで10年を過ごすこととなった。ランマン家は家計にゆとりがある文化的な家庭であり、ランマン夫妻は梅子を実の娘同様に慈しんだ[ 10]。当初はランマン家に梅子が預けられるのは1年間の予定であったが、期限が近づいた時期の、ランマン夫妻の書簡(出典には宛先の記載なし)には「仮に梅子の留学が打ち切られるようなことがあれば、私どもが梅子の養育費や教育費を負担して預かり続ける覚悟です」という旨が記載されている[51]。梅子自身もランマン夫妻を深く敬慕し、日本に帰国した1882(明治15年)から、ランマン夫人が1914(大正3年)に88歳で亡くなる直前まで[ 11]、数百通に及ぶ手紙をランマン夫人に書き送っている[53]

梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。渡米の9か月後には、アメリカへの渡航について詳細を述べた "A little girl's stories" と題する英文の絵日記(2022〈令和4年)現在、津田塾大学 津田梅子資料室 所蔵)を書けるだけの英語能力を身につけてランマン夫妻を驚かせた[54]。日本宛の手紙も英文で書くようになった。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、1873(明治6年)7月に特定の教派に属さないペンシルベニア州フィラデルフィア独立教会洗礼を受けた。梅子に洗礼を授けた牧師は「感性と表現力は幾つか年上のアメリカの子より優れている。」(原文は英語、古木宜志子による和訳、)と梅子を評した[ 12]1878(明治11年)にはコレジエト・インスティチュートを卒業し、私立女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語フランス語などの語学英文学のほか、自然科学心理学芸術などを学ぶ。ピアノはかなりの腕前に達し、帰国後は何度も人前で演奏した。また休暇にはランマン夫妻に連れられて各地への旅行を体験した。

モリス夫人との出会い[編集]

アーチャー・インスティチュート在学中の梅子は、父津田仙の知人であるウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの紹介により、1882(明治15年)2月または3月に、フィラデルフィアの資産家・慈善家・敬虔なクエーカーであるメアリ・モリス夫人(Mrs. Mary Harris Morris. 1836-1924. 夫はフィラデルフィア有数の大富豪であるウィスター・モリス)と知り合った。梅子は、日本に帰国した後も、モリス夫人と文通を続けた。

モリス夫人は梅子の良き理解者となり、梅子の2回目のアメリカ留学(1889〈明治22年〉から1892〈明治25年〉)の実現。

日本の女性をアメリカに留学させる「日本婦人米国奨学金」の創設(1892〈明治25年〉)。

梅子が日本で創設した女子英学塾(現:津田塾大学)を経済的に支援する「フィラデルフィア委員会」の設立(1900〈明治33年〉)。

のいずれにおいても主導的な役割を果たし、アメリカから梅子を支援し続けた。

l  帰国[編集]

開拓使からの1881(明治14年)9月までの帰国命令により、ヴァッサー大学音楽科(3年制)を同年6月に卒業した永井繁子は、命令通りに10月に帰国した。一方、アーチャー・インスティチュート在学中の梅子、ヴァッサー大学本科(4年制)在学中の山川捨松は、1年間の延長を申請して認められた。梅子と捨松は1882(明治15年)6月に各学校を卒業し、同年1121日に帰国した。

なお、1882年(明治15年)11月に帰国した時点で、梅子は日本語を完全に忘れていた(#生涯、母語は英語)。

l  帰国後の活動[編集]

アメリカ留学(1回目)を終えた梅子とその家族。1886(明治19年)94日、東京にて撮影。前列の左から梅子、上野琴子(梅子の姉)、津田初子(梅子の母)、津田ふく(梅子の祖母)。後列の左から3人目が上野栄三郎(梅子の姉である琴子の夫)、津田仙(梅子の父)。

帰国後の待遇[編集]

官費女子留学生を所管していた開拓使は、梅子と山川捨松の帰国に先立つ1882(明治15年)2月に廃止されており、彼女たちの管理は文部省に引き継がれていたが、11年間の留学を終えて帰国した2人に官職が用意されることはなく、両名は強い失望を味わった。梅子がそのことをアメリカのランマン夫人に書き送ると、梅子を実の娘同様に思う夫人は、アメリカに戻って来なさい、と梅子に返答した。梅子は、官費留学生としてアメリカに派遣された以上、日本に留まって恩返しをする「道義的責任」(Moral Obligation)があります、アメリカに戻る訳には行きません、とランマン夫人に再び書き送った。

l  山川捨松と永井繁子[編集]

山川捨松は、帰国前には日本に女子のための学校を設立する希望を持ち、就職先が見つからない中で、女子に英語を教える私塾を独力で設立する計画を立てたが実現には至らなかった。また、文部省より東京女子師範学校(後の女子高等師範学校、東京女子高等師範学校、現:お茶の水女子大学)への奉職を打診されたが、日本語能力が乏しい為に辞退せざるを得なかった。1883(明治16年)11月、捨松は政府高官(陸軍中将・参議陸軍卿)で18歳年上の大山巌と結婚し、政府高官夫人の立場で留学で得た学識を生かす道を選んだ。

一方、ヴァッサー大学音楽科でピアノを専攻した永井繁子は、西洋音楽とピアノの専門知識及び技能を有する唯一の日本人であり、日本語能力が乏しくてもピアノの演奏と教授は可能であることから、帰国の4か月後、1882(明治15年)32日付で文部省直轄の音楽取調掛(後の東京音楽学校、現:東京芸術大学音楽学部)の教師に採用され、日本最初のピアニストとして活躍した。繁子は、1882(明治15年)12月に、アメリカで出会った瓜生外吉(海軍大尉)と恋愛結婚したが、その後も教師としてのキャリアを継続した。

縁談を断る[編集]

帰国した翌年の1883(明治16年)、梅子はアメリカのランマン夫人、及び上野栄三郎(梅子の姉である琴子の夫)の二人から、アナポリス海軍兵学校出身の海軍士官(海軍大尉)で、「武人たる神学者」と呼ばれた敬虔なクリスチャンである世良田亮(せらた たすく。梅子より8歳年上。梅子は留学中に世良田と知り合っていた)との結婚を再三勧められた。瓜生外吉(海軍大尉。世良田とはアナポリスの同期生で親友。外吉と世良田は、同じ時期に同じ経緯でクリスチャンになった)・瓜生繁子夫妻も、二人の結婚を取り持とうとした。

ランマン夫人と上野は、いずれもアメリカ留学中の世良田に会って好印象を持ち、繁子がアメリカで出会った外吉と幸せな結婚生活を送っていることからも、世良田は梅子の配偶者にふさわしい、と考えた模様である。

しかし梅子は世良田との縁談を断り、ランマン夫人への手紙に

「どうぞセラタ氏のことはもう書かないで下さい。」(1883526日付、原文は英語、大庭みな子による和訳)

「もうこの話題は終りにしたい。私がもう一度掘りおこしたいと思うのでなければ、これが最後です。」(1883610日付、原文は英語、亀田帛子による和訳)

などと書き送った[ 13]

l  伊藤博文との再会[編集]

帰国してから半年が経った1883(明治16年)6月から6週間、瓜生繁子の口利きにより海岸女学校青山学院の源流)で夏季休業中の英語教師として働く。

同年113日、外務卿井上馨の邸で開かれた天長節祝賀パーティに出席した梅子は、岩倉使節団で同行して以来初めて伊藤博文と再会する[ 14]1126日、梅子は伊藤夫妻と共に、華族子女を対象とする私塾・桃夭女塾(桃夭女学校とも)を主宰していた下田歌子を訪問し、「梅子が下田に英語を教えること」、「下田が梅子に日本語を教えること」、「梅子が伊藤の妻と娘に英語や西洋式マナーを教えること」などが取り決められた。同年128日、伊藤邸での最初のレッスンを行った際、伊藤から客分として住込みの家庭教師を提案され、梅子は父親との相談の上で伊藤の提案を承諾、同年1220日頃に伊藤邸へ引っ越した。

伊藤家の客分となった梅子は、下田と英語・日本語を教え合い、伊藤家の家庭教師 通訳として働き、伊藤の娘にはピアノの指導も行った。1884(明治17年)31日からは、梅子は桃夭女塾に英語教師として出講した。伊藤は、自邸に滞在する梅子に様々なことについて意見を求め、討論した。

梅子は、母の初子が病気になったため、同年6月末、半年間の家庭教師生活を終え、自宅に戻った。梅子は、伊藤が自分に様々な便宜を図ってくれたこと、政府高官である伊藤が自分に対等に接してくれたことを深く徳とし、後年まで伊藤と伊藤家に対して厚誼を欠かさなかった。

l  華族女学校教授となる[編集]

1885(明治18年)には伊藤の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった(1885年〈明治18年〉9月、華族女学校教授補、宮内省御用掛、奏任官高等官)に准じ取扱い、年俸420円)。さらに1886(明治19年)2月には職制変更で嘱託に、同年11月には華族女学校教授となった(高等官6等、年俸500円)。同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監の下田歌子(年俸1500円又はそれ以上)と梅子のみであった[。梅子は華族女学校で3年余り教えたが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われる[要出典]

l  ふたたび留学[編集]

ブリンマー大学在学時(1890〈明治23年〉)。

1888(明治21年)に来日した留学時代の友人アリス・ベーコンに薦められ、梅子は再留学を決意。フィラデルフィアのモリス夫人に手紙で留学について相談すると、モリス夫人は、懇意にしているブリンマー大学ジェームス・E・ローズ英語版)学長に梅子の受け入れを要請し、ローズ学長はそれを即諾すると共に、梅子に対する「授業料の免除」と「寄宿舎の無償提供」を約した。また、華族女学校校長の西村茂樹は、梅子に同校教授としての規定通りの俸給を受けながらのアメリカ留学(2年間)を許可した[ 15]

梅子は1889(明治22年)7月に再び渡米。当時は進化論におけるネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はブリンマー大学で生物学を専攻する。梅子の2回目の留学は、当初は2年間の予定であったが、1年間の延長を華族女学校に願い出て認められた(但し無給休職の扱いとなり、代わりに1年分の手当として300円支給)。

留学3年目の1891(明治24年)から1892(明治25年)の冬に、梅子は「蛙の発生」に関する顕著な研究成果を挙げた。ローズ学長による、ブリンマー大学理事会への1891年度報告書は「ミス・ツダの蛙の卵の軸の定位に関する研究は、その優秀性のゆえに、特に言及しておかねばならない。」(原文は英語、亀田帛子による和訳、[)と特記している[98]。そして梅子の研究成果は、指導教官であるトーマス・ハント・モーガン博士(1933 ノーベル生理学・医学賞)により、博士と梅子の2名を共同執筆者とする論文「蛙の卵の定位」( "The Orientation of the Frog's Egg)にまとめられ[ 16]1894(明治27年)にイギリス学術雑誌 Quarterly Journal of Microscopic Science, vol. 35.に掲載された。梅子は、欧米の学術雑誌に論文が掲載された最初の日本人女性である[ 17]。モーガン博士は、帰国した梅子宛の手紙(1893〈明治26年〉1014日付)において「私たちはあなたにすぐにアメリカに戻って欲しいといつも願っています。」(原文は英語、亀田帛子による和訳)と、科学者としての梅子を高く評価する言葉を記している。

さらに、教育・教授法に関してはペスタロッチ主義教育の中心校として知られるニューヨーク州オスウィーゴ師範学校で半年間学んだ。

なお、アリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。アリスがアメリカへ帰国し、研究成果 Japanese girls and women[104]を出版する際に梅子は手助けした。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われている。留学3年目に入った梅子は、日本女性のアメリカ留学のための奨学金設立を発起し、講演や募金活動などを始めた(#日本婦人米国奨学金)。

l  教育者として[編集]

1892(明治25年)6月にブリンマー大学での2年半の修学を終えた梅子は、同学での生物学研究の継続を提案されたが辞退し、1892(明治25年)8月に帰国し、再び華族女学校に奉職した。教職を続けながら、梅子は自宅に寄宿させるなど女学生への積極的援助を行い、1894(明治27年)には明治女学院講師も務めた。1898(明治31年)5月、女子高等師範学校(後の東京女子高等師範学校、現:お茶の水女子大学)教授を兼任。同年6月にはアメリカのコロラド州デンバーで開催された万国婦人連合大会(GFWC International Convention)に日本婦人代表として参加するため私費で渡米。3千人の聴衆を前に日本の女子教育について演説を行ない、翌日には新聞に「小さな日本婦人の演説」と掲載されて反響を呼んだ。その後英国各地やパリを訪問し、英国ではナイチンゲールとの面会も果たし、翌1899(明治32年)7月に帰国した。1899(明治32年)の暮、梅子は高等官5等に昇格し、年俸は800円となった。

l  女子英学塾を創設[編集]

成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、1899(明治32年)の高等女学校令私立学校令による法整備で女子教育への機運が高まると、梅子は「自らの学校」を開く活動を開始。

フィラデルフィアのモリス夫人、ブリンマー大学学長であるM・ケアリ・トマス英語版)など、梅子の志に共鳴するアメリカの人々は、モリス夫人を委員長とする「フィラデルフィア委員会」(The Philadelphia Permanent Committee for Tsuda College)を1900(明治33年)春に組織して、梅子の学校(Miss Tsuda's School)を支える寄付金を継続的に集めて日本へ送り続けた[ 18]

1900(明治33年)3月、フィラデルフィア委員会からの最初の送金となる1500ドルが梅子に届いた。アナ・ハーツホン[ 19]は「フィラデルフィア委員会から届いた1500ドルが、梅子を大きく後押しした」という旨を後に回想している。

1901(明治34年)頃、女子英学塾の創設当時の梅子と協力者たち。左から、梅子、アリス・ベーコン瓜生繁子大山捨松

アリス・ベーコン(梅子を助けるためにアメリカから来日)、大山捨松[ 20]瓜生繁子新渡戸稲造[ 21]巌本善治[ 22]上野栄三郎[ 23]桜井彦一郎(櫻井鴎村)らの協力者[124][125][126]の助力を得た梅子は、1900(明治33年)7月、華族女学校教授 女子高等師範学校教授の官職(高等官5等、年俸800[ 24]。当時の36歳の日本人女性にとっての最高の職業的地位)を辞し[ 25]、私立学校令に基づく「女子英学塾」の設立願を東京府知事に提出して認可を受ける。同年914日、「女子英学塾」を東京市麹町区一番町(現:東京都千代田区三番町)の借家に開校、華族平民の別なき女子教育を志向して一般女子の教育を始めた。開校時の学生は10名であった[ 26]

女子英学塾は、それまでの良妻賢母主義的な女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となった。学生数10名で1900(明治33年)に出発した塾は、8年後の1908(明治41年)には学生数150名に達した[134]

一方で、塾の教育の厳しさも評判となり、開校当初は脱落者が相次いだ(#厳格な英語教師)。

梅子、アリス(1902〈明治35年〉4月に2年の任期を終えてアメリカに帰国)、ナ・ハーツホン1902〈明治35年〉5月にアリスと入れ替わりでアメリカから来日)らは無報酬で塾に奉仕していたものの[ 27]、授業料収入(学生1名につき年額24円)のみでは学生・教師の増加に伴う塾の拡張(土地建物購入)も見込めず、塾の経営は常に厳しかった。資金面で大きな助力となったのは、主にアメリカの支援者からの寄付金で、梅子は支援者への手紙を書き続け、一か月に300通を書いたこともあった。塾顧問を務めていた大山捨松を介して、ヴァッサー大学の同級会(クラス・オブ・82)から送られてきた50ドルの寄付金に対し、深く感謝を表し、使途の詳細を伝えた梅子の手紙(1902〈明治35年〉831日付)が残っている。

1905(明治38年)の女子英学塾卒業式にて。後列の左から2人目が梅子(40歳)、3人目がアナ・ハーツホン45歳)、4人目が河合道27歳)。

東京市麹町区一番町で1900(明治33年)9月に発足した塾は、東京市麹町区元園町(現:東京都千代田区麹町1901〈明治34年〉4月に移転)を経て、1903(明治36年)2月、新築落成した東京市麹町区五番町(現:東京都千代田区一番町[145])の恒久的な校舎に移った。1902(明治35年)夏の東京市麹町区五番町の土地建物購入時の代価は1万円で、ボストンのウッズ夫人(Mrs. Henry Woods)から寄せられた大口の寄付金で大部分が賄われた。1904(明治37年)には、聖公会が運営する立教大学立教女学校で校長を務めたジェームズ・ガーディナーフローレンス・ピットマン夫妻が東京市麹町区五番町に転居して、夫妻は女子英学塾で講師を務め、梅子と後まで交流が続くこととなった。

1903(明治36年)3月に専門学校令が公布されると、塾は翌年の1904(明治37年)3月に専門学校(旧制)としての認可を受け、同年9月には、「社団法人女子英学塾」の設立許可により社団法人に移行した[150][ 28]。さらに1905(明治38年)9月、塾は私立女子教育機関としては初めて、無試験検定による英語教員免許状の授与権を与えられた[ 29]

1905(明治38年)1017日、梅子を会長として日本基督教女子青年会(日本YWCA)が創立された。1915(大正4年)8月には、軽井の夏期学校で「日本の婦人運動」(Women's Movement in Japan)と題して講演、長時間議論を行った[154]。その要旨は「ジャパン・アドバタイザー」で紹介され、後に米国の「クリスチャン・サイエンス・モニター」に掲載された。

l  長期の闘病、死去[編集]

1917(大正6年)の春ごろ、52歳の梅子は体調を崩して入院する。2か月後に退院したものの、その後も入院と退院を繰り返した。

梅子は、この時期の日記(英文)に下記のように記した。

自分自身のことをいつまでも思い煩うまい。事物の永遠の成立ちのなかで、わたしやわたしの仕事などごく些少なものに過ぎないことを学ばねばならない……新しい苗木が芽生えるためには、ひと粒の種子が砕け散らねばならないのだ。わたしと塾についてもそう言えるのではなかろうか。その思いが念頭を去らない。津田梅子、1917(大正6年)613日付の日記より、原文は英語、川本静子および古川安による和訳

3度の入院を経て、これ以上塾長を務めることが難しいと自覚した梅子は、1919(大正8年)の1月初めに塾の社員会に対して辞意を示した手紙を送った。同年2月、辻マツが塾長代理に就任し、梅子は塾長としての実質的な活動を終えた。

1919(大正8年)の10月ごろ、親戚一同の計画で建てられた北品川御殿山(現:東京都品川区御殿山の付近)の住居が完成した。4度目の入院をしていた梅子は退院後ここに移り住み、以後10年間この家で過ごした。

1928(昭和3年)1112日、昭和天皇即位の大典に際して勲五等に叙され、瑞宝章を授けられた[162]1929(昭和4年)1月、甥の津田眞(梅子の弟である津田純の四男)を養嗣子として迎えた[162]。同年7月には、鎌倉の別荘に移り住んだ。

1929(昭和4年)816脳出血のため死去。満64歳没。梅子の葬儀は、東京市麹町区五番町の女子英学塾講堂での校葬(キリスト教式)として行われ、会葬者は約1千人に上り、昭和天皇皇后から祭祀金一封が下賜された。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。

l  塾のその後[編集]

塾は、広い校地を得られる郊外への移転、さらには早くからの梅子の念願であった「真の女子大学の設立[ 30]」を目指して、1922(大正11年)に東京府北多摩郡小平村(現:東京都小平市)に25の校地を取得し、塾の拡張・女子大学の設立を目指す募金活動を開始した。しかし、1923(大正12年)の関東大震災で、大火災に見舞われた東京市中心部に位置する麹町区五番町の校舎は全焼し、女子大学の設立どころか塾の存続すら危ぶまれる窮境となった[ 31]。この危機に際し、既に63歳になっていたアナ・ハーツホンは、急遽アメリカに帰国し、梅子の実妹、かつ塾の卒業生でサンフランシスコに在住していた安孫子余奈子(1880-1944)の協力を得て、50万ドル(公定為替レートで100万円)を目標とする募金活動を展開した。3年間に渡るアナの献身的な努力により、塾は目標金額を達成する寄付金(総額は85178412銭、利子を加えると100万円を超えた)を得て、塾の復興と小平キャンパスの建設を果たした。

塾は、1931(昭和6年)に落成した小平キャンパスに移転し[ 32]、梅子の死去から4年が過ぎた1933(昭和8年)に梅子を記念して校名を「津田英学塾」に改めた[[ 33]。塾は太平洋戦争の戦禍を乗り越え[ 34][ 35]、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、梅子の女子教育への思いを今に継承している。

紙幣肖像に採用[編集]

2024令和6年)上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まった。

日本婦人米国奨学金[編集]

梅子は、1回目のアメリカ留学(1871〈明治4年〉から1882〈明治15年〉)の際に、ペンシルベニア州フィラデルフィアの資産家・慈善家であるメアリー・モリス夫人(Mrs. Mary Harris Morris. 1836-1924)の知遇を得ていた(#モリス夫人との出会い)。

2回目のアメリカ留学(1889〈明治22年〉から1892〈明治25年〉)中の1891(明治24年)に梅子が日本女性をアメリカに留学させるための奨学金の創設活動を始めると、梅子の訴えに共鳴したモリス夫人は募金委員長を引き受けて8千ドルの基金を集め、1892年(明治25年)に「日本婦人米国奨学金」(American Scholarship for Japanese Women)が発足した。この奨学金は、基金の利子によって3-4年おきに1名を日本からアメリカに留学させ得る規模であった。この奨学金は、1976(昭和51年)に発展的に解消するまでの間に、計25人の日本女性のアメリカ留学を実現させた。

後に著名になった受給者として下記の5名が挙げられる。

松田道 - 1号受給者。1893(明治26年)に渡米し、1899(明治32年)にブリンマー大学を卒業[ 36]1922(大正11年)に同志社女子専門学校(現:同志社女子大学)校長となった。

河井道 - 2号受給者。1904(明治37年)にブリンマー大学を卒業。のちに恵泉女学園を創立した。

鈴木歌子 - 3号受給者。1900(明治33年)の女子英学塾発足時の教員の一人であった鈴木歌子は、1904(明治37年)から1906(明治39年)にブリンマー大学で学んだ。のちに女子学習院教授となった。

星野あい - 4号受給者。1912(明治45年/大正元年)にブリンマー大学を卒業。梅子の後継者として第2代女子英学塾塾長となり、その後の塾の変遷と共に津田英学塾塾長、津田塾専門学校校長、津田塾大学学長を務めた。

藤田たき - 1925(大正14年)にブリンマー大学を卒業。のちに津田塾大学学長に就任し、女性初の国連総会日本政府代表も務めた。

以上のように、この奨学金によって留学した多くの女性が、日本における女子教育の指導者となった。

また、梅子の母校であり、奨学金留学生を受け入れたブリンマー大学の卒業生には、レオニー・ギルモアなど、日本で英語教師となった者もいる[要出典]

l  人物像[編集]

生涯、母語は英語[編集]

「梅子の英語力は、母語話者と全く同等であった」旨を、梅子の2回目のアメリカ留学(1889〈明治22年〉から1892〈明治25年〉)の際に梅子と親交のあった2人の学者が証言している(#生物学者としての可能性#古川安の考察)。

しかし、完璧な英語力を得た代償として、幼少からの11年間のアメリカ留学(1回目)を終えて1882(明治15年)11月に帰国した際の梅子は、日本語を完全に忘れていた。留学時に梅子より年長であった山川捨松永井繁子は、比較的早期に日本語を取り戻したが、梅子は日本語の習得に苦しんだ。生涯を通じて、梅子の話す日本語は外国人風の発音で、梅子の母語(思考の言語手段)は英語であった。捨松の娘の証言によると、捨松・繁子・梅子の3人同士の会話は常に英語であったという。

現存する梅子の書き物は、公的書類に「津田梅子」と漢字で署名したようなケースを除き、ほとんど全て英語である。生涯を通し、梅子が自らの名で発表した日本語の刊行物は少なくないが、いずれも梅子が自ら書いたものではなく、梅子が話すのを編者・記者が口述筆記したものと考えられる。

l  厳格な英語教師[編集]

英語教師として女子英学塾の教壇に立つ際は、極めて厳格であったことを示す逸話が多い。

開校当時の女子英学塾では、あまりの厳しさから脱落者が相次いだ。塾が開校した6年後の1906(明治39年)に刊行された女学生向けのガイドブック[ 37]には「女子英学塾の教育は極めて厳しく、並大抵の勉強ではついて行けない」旨が記されている。厳しさの背景には、高等女学校の英語教育のレベルが一般的に低い状況において[ 38]、塾における3年間の教育で、英語教員免許状を取得できるレベルまで学生を鍛え上げねばならない、という事情もあった。

塾の学生たちに対しては「自学自習が基本であり、授業は疑問を解決する場」という方針を示し、学生たちは完璧な予習を求められた。英語の発音指導は特に厳しく、”No, no! Once more! Once more!” と、正しい発音をできるまで何十回でも繰り返させた[ 39]

塾の第1回卒業生の一人は、下記のように述べている。

私はあのやうに身にしみた授業を受けた事は曽てなく、……、先生は何事も何事もいい加減な事はお嫌ひでありました。……自分で辞書の隅から隅まで探し、適訳を見つけさせました……—出典には氏名の記載あり

女子英学塾塾長(第2代)・津田塾大学学長(初代)を務めた星野あい1906〈明治39年〉女子英学塾卒業)は、下記のように述べている。

先生から直接指導を受けたのは一年半に過ぎなかったが、その授業の徹底、少しのごまかしも許さぬ厳しさは身に沁みて今に至るも忘れることは出来ない。1955(昭和30年)、星野あい

塾の教え子の一人は、下記のように述べている。

先生は日本婦人に稀にみる熱と力の人で、その熱と力を集中しての訓練は、峻厳をきわめ、怠け者や力不足の者は学校に居たたまれぬほどであった。
その代わりに学生の態度が真剣で熱心であると、人一倍喜ばれた。はなはだしい愚問でないかぎり、生徒がいくらくどく質問しても、決していやな顔をされず、得心のいくまで教えられた。時には生徒が先生を言い負かすようなことがあっても、怒られぬのみかかえってその意気を喜ばれた。教え子の氏名などは出典に記載なし

女子英学塾の第10回卒業生であり、1910(明治43年)前後に梅子の授業を受けた山川菊栄は、下記のように記している。

津田先生にとつては教へることが最大の快楽であり、唯一の趣味であるとさへ見えた。どんなに暗い、ムツツリしたお顔で教室へ入つて来られた時でも、授業の進行と共に、先生のお顔は晴れやかに輝き、最後には快活な笑ひ声と共に、凱旋将軍のやうに意気揚々と、恰かも又ほしい物をあてがはれた赤児のやうに、満足し切つて出て行かれるのだつた。山川菊栄、塾同窓会『会報』第35号「津田梅子先生記念号」、1930〈昭和5年〉7月、

同じく山川菊栄の回想(『山川菊栄集 8 このひとびと』〈岩波書店1982〉)によると、良家の令嬢が集う華族女学校や女子高等師範学校の教授を務めていた時の梅子は、アメリカの習慣通りに鞭を持って教室に現れて令嬢たちを驚愕させた、という。

l  素顔の梅子[編集]

女子英学塾の第5回卒業生である岡村品子(1882〈明治15年〉1984〈昭和59年〉)の、1981(昭和56年)における回想によると、塾の教壇に立つ時の梅子は基本的に和服姿(着物に)で、懐中時計を常に帯びていた[ 40]。梅子は岡村より小柄であった。岡村は塾の寄宿生で、塾に住み込んでいる梅子と寝食を共にしていたが、教壇を降りた梅子は朗らかで良く笑う人であり、アメリカ育ちとは思えないような、日本的かつ質素な生活をしていた。雑談をするときの梅子は、本題は英語で話し、次いで日本語で説明をする、といった、英語と日本語を随時切り替える話し方をした。

古木宜志子は

華族女学校に就職してから一、二年間、梅子がおしゃれに気を使い、名士と交わり、鹿鳴館で踊ったことがあったとは信じられないほど、二度目の留学後はすっかり落ちつきを見せ、塾設立以後、学生の思い出が語る梅子は禁欲的なまでに奢美をさけた生活を送った。古木宜志子

と述べ、清貧を尊び平等主義を旨とするクエーカー[ 41]の梅子への影響を指摘している。

l  生物学者としての可能性[編集]

中沢信午の見解[編集]

中沢信午(生物学者)は、下記のように述べている。

津田梅子がもしも、そのまま動物学者の生活を続けていたならば、どうだっただろうか。モーガンと協力して研究を続けたとしたら、おそらくモーガンと肩をならべる偉大な動物学者となったであろうことは、彼女の後の活躍ぶりから想像される。中沢信午

古川安の考察[編集]

古川安は、「梅子が1892(明治25年)以降もブリンマー大学に残って生物学の研究を続けたらどうなったか」について下記のように考察している。

トーマス・ハント・モーガン(ブリンマー大学での梅子の指導教官、1933 ノーベル生理学・医学賞)とM・ケアリ・トマス英語版)(ブリンマー大学学部長(Dean、のちに同学学長)の2人は、いずれも梅子の生物学者としての前途を嘱望していた。同学の他の教授たちも、学業優秀な梅子を高く評価していた。

モーガンは、梅子の英語は完璧であり、母語話者と何ら変わりなかった、と駒井卓(モーガンの弟子)に語った。エドウィン・コンクリン英語版)(生物学者)も同様のことを述べている。

梅子はブリンマー大学で学士号と博士号を取得し、モーガンの弟子としてアメリカでキャリアを重ね、いずれ大学教授のポストを得たであろう。

梅子と同世代の、アメリカの2名の女性生物学者のキャリアが参考になる。ブリンマー大学で、梅子と共にモーガンの実験助手を務めたアイダ・ヘンリエッタ・ハイド英語版)(1857-1945)はカンザス大学教授となり、2022(令和4年)現在も「アメリカにおける女性科学者の先駆け」として著名である[ 42]。梅子より10年ほど後にブリンマー大学で学んだアリス・ミドルトン・ボーリング英語版)(1883-1955)はマウント・ホリヨーク大学教授となった。

l  人物評[編集]

寺沢龍の評[編集]

寺沢龍は、梅子を下記のように評している。

その頑固さと実直さは父親ゆずりのものであり、妥協を許さない潔癖な性格であった。人柄は地味で表立ったことを好まなかったが、内心には熱く一徹なものを秘めており、正義感と責任感がつよく、いったん思い込むと容易に信を曲げなかった。気短で癇癪のつよいところも父親に似て、感情が直截にあらわれたともいわれている。寺沢龍

大庭みな子の評[編集]

大庭みな子は、梅子を下記のように評している。

いったい梅子は幼いときから、日本人、アメリカ人、女性、男性を問わず、どうしてこうも次つぎとめぐり逢う有力な人びとに助けられる運命にあるのか。まず、チャールズとアデリン・ランマン夫妻、伊藤博文森有礼大鳥校長、西村校長、アリス・ベーコン捨松繁子、モリス夫妻、それぞれの立場で助力を惜しまなかった。そして冒頭に述べたアンナ・ハーツホンなどはまさにその一生を津田塾のために捧げたといってよいくらいである。大庭みな子

実際梅子には私利私欲というものがほとんどなかった。大庭みな子

梅子自身に聊かも私心がないだけに、この素直すぎるといえる援助を願う気持ちは不可思議に相手の心を動かした。大庭みな子

梅子は塾の創立を含め生涯に亙ってこの種の基金を集める教育事業家としても異様な才があった。彼女は自分のためには信じられないくらい質素で、集められた金は全て後進の女性を育てるために使われた。それ故にこそこれほどの浄財が彼女のもとに寄せられたのである。大庭みな子

山崎孝子の評[編集]

山崎孝子は、梅子を下記のように評している。

既存の資料を整理し、梅子の教えを親しく受けた人々から思い出などを聞きつつ、私が知ったことは、梅子がみずから語ったごとく、稀にみる「ふしぎな運命」を受け、選ばれた女性の栄光に満ちた道をたどりながらも、名利を求める心がいささかもなく、虚栄・虚飾から遠い地点を苦難を負って歩んだ、ということであった。梅子に関する資料が少ないことも、こうした梅子の美質と無関係ではない。多少あった現資料も、関東大震災・太平洋戦争の戦災などで焼失した。梅子の住んだ家・別荘の類も何一つ現存しない。ただ私どもの眼前に津田塾大学が現存し、同大学の東北隅には梅子の墓所がある。これが梅子が世に遺したすべてであった。19623 山崎孝子

 

l  栄典[編集]

位階

1887(明治20年)325 - 正八位

1893(明治26年)520 - 従七位

1897(明治30年)930 - 正七位

1900(明治33年)120 - 従六位

勲章等

1915(大正4年)1110 - 勲六等宝冠章

1928(昭和3年)勲五等瑞宝章[226]

外国勲章佩用允許

1919(大正8年)7ベルギー王国勲章

l  著作[編集]

共著

『女子大正りーだず Girls' Taisho Readers』シリーズ (共著:熊本謙二郎 東京開成館、1916年。

『女子新大正りーだず Girls' New Taisho Readers』シリーズ (共著:熊本謙二郎) 東京開成館、1921年(修正3版)。

『ぱーる、りーだず Pearl Readers』シリーズ (共著:熊本謙二郎) 東京開成館、1925年。

英訳

『国文英訳 花がたみ Leaves from Japanese literature』(註:南日恒太郎 英文新誌社、1906年。

校訂・編集

Selected Stories in English』(for Japanese students arranged with notes "The Present English" Office1900年。

『名家小品 English Stories』(selected for Japanese students 文武堂、1901年。

『英文 希臘神話 Old Greek Stories』(by James Baldwin 英学新報社、1902年。

『英文 頓機翁物語 The Story of Don Quixote』(retold by Calvin Dill Wilson; adapted and abridged for Japanese students、解説:畔柳都太郎 英学新報社、1902年。

『英文 法螺先生 The Adventures of Baron Munchausen』(retold by Ume Tsuda and Anna C. Hartshorne 英学新報社、1902年。

『英文 氷洲の少年 The Story of Jon of Iceland』(by Bayard Taylor 英学新報社、1903年。

『英文 二都譚 A Tale of Two Cities』(by Charles Dickens 英学新報社、1903年。

『英語小品 Easy English Stories』(adapted for students of English 英文新誌社、1905年。

『ハリファックス John Halifax, Gentleman』(by Miss Mulock; adapted for Japanese students 三省堂1909年。

ミゼラブル Les Misérables』(by Victor Hugo; adapted and abridged for Japanese students 三省堂、1912年。

『英文小品五題 Five Stories』(by Miss Edgeworth 丁未出版社、1910年。

『英文小品』 全14題、丁未出版社、1918年。

系譜[編集]

生家の津田家は、桓武平氏織田氏流で織田信長とは同族[227]。晩年に甥にあたる津田眞を養子に迎える。津田眞の娘・あい子と西郷隆盛の曾孫・西郷隆晄の次男として生まれた写真家津田直は祖父・津田眞と養子縁組をし、2000津田梅子家当主を継いだ。また、司法通訳翻訳論者、社会学者、フィリピン研究者の津田守は又甥にあたる。梅子の伯母にあたる母 初の姉 武子/竹子は徳川家達の生母。梅子の祖母フクは栗沢汶右衛門(千人同心)の実姉と言われる。

l  注釈[編集]

1.    1884(明治17年)までの初回米国留学に関する公文書(アジア歴史資料センター)では「津田梅」が使用され、1885(明治18年)922日付官報・官庁彙報欄では「宮内省御用掛被仰付奏任官ニ準シ取扱候事 津田梅子」と表記されている(明治期の女性名での子の使用については「 (人名)」参照。論点については「ノート:津田梅子#本名」参照)。また、1916(大正5年)に梅子が上梓した英文書籍 Girl's Taisho Readers, Tokyo: Kaiseikwan, 1916. では、梅子のフルネームは ”Umé Tsuda” とクレジットされている。津田塾大学・小平キャンパス構内にある梅子の墓所(1931〈昭和6年〉に建立)の墓碑銘は ”UME TSUDA / DECEMBER 31-1864 / AUGUST 16-1929” である。

2.    武士としての知行と身分を継げるのは長男のみであり、次男以下の男子は、独立した武士として生計を立てるには、他の武士の家に婿入りするしかなかった。

3.    毎年の奨学金として官費女子留学生に支給された800ドルの価値について、高橋裕子は「1871(明治4年)当時の800ドルは、管理職たる官吏の年俸に匹敵する、一家を1年間養って余りある金額であった」という趣旨を述べている。

4.    1871(明治4年)当時の日本では、女性は10代で結婚するのが普通であった。

5.    上田悌子(安政4年〈1857〉生まれ。昭和14年〈193917日に死去(享年85)。)については、「上田貞子」と表記する文献()もあるが、開拓使の公文書には「東京府貫属士族 外務中録上田畯女 未十六歳」と記載されている。

6.    瓜生繁子(旧姓:永井)が晩年に記した回想記に「洋服は二、三日でできあがってきて、私たちは幸せだった」(原文は英語、亀田帛子による和訳)と記載されている。

7.    チャールズ・ランマン 英語版)の著書は30点を超えるが、特に Private Life of Daniel Webster, 1852. が有名である。チャールズ・ランマンは、アメリカ東部の著名知識人の一人であった。

8.    当時、ランマン家には画家の川村清雄も寄宿しており、滞在中に梅子の看病を行ったという記録も残っている。

9.    アメリカにおいて高等教育を受ける機会が女子に与えられ始めたのは19世紀半ばを過ぎてからである。ランマン夫人は、1826生まれのアメリカ女性としては十分なレベルの教育を受けていた。

10. ランマン夫妻には子供がなかった。

11. 現存する、梅子からランマン夫人あての最後の手紙は、1911(明治44年)のもの。

12. 梅子に洗礼を授けた牧師が、梅子の洗礼について新聞に寄稿した。新聞の名称などは不明[。梅子が新聞の切り抜きを後年まで所持していた。

13. 梅子は、世良田亮との縁談以外に、神田乃武(英学者)、中島力造(倫理学者)の2名とも縁談があったという。

14. 伊藤博文は、岩倉使節団の大使の一人であり、使節団と共に渡米した、梅子たち女子留学生の面倒を親身に見ていた。

15. 古川安の研究によると、梅子は2回目の留学にあたり辞職願を華族女学校に提出していた。古川は、学習院院長大鳥圭介と華族女学校校長西村茂樹の取り計らいにより、留学から帰国後も華族女学校に勤務するという条件で、同校教授としての俸給を受けながらの2年間の留学が認められたのであろう、と推測している。

16. 1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガン(弟子及び孫弟子8人がノーベル賞受賞)の指導の下、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い、1892年春に成果をまとめた。モーガンは1893年春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として全5章からなる論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された。

17. 古川安は、「保井コノ1911(明治44年)にイギリスの Annals of Botany に論文を発表したのが、日本人女性の論文が欧米の学術雑誌に掲載された最初の事例である」とする論述が散見されるが、それは誤りであり、梅子は保井に17年先んじている、と述べている。

18. オーシロ・ジョージは、女子英学塾を支援し続けたフィラデルフィア委員会に参加した人々の多くが、梅子と親しかった新渡戸稲造・メアリ夫妻の人脈に連なる人々であったことを指摘している。

19. 1900(明治33年)3月当時、アナ・ハーツホンはフィラデルフィア委員会の書記を務めていた。

20. 1900(明治33年)に梅子が女子英学塾を創設した際の新聞広告や報道記事には、必ず「女子英学塾 顧問 侯爵夫人大山捨松」と記載されている。捨松は同年914日の開校式に出席し、『私立女子英学塾日誌』の記事には「大山侯爵夫人臨席」と特記されている。

21. 新渡戸稲造は、女子英学塾が開校した1900(明治33年)9月にはアメリカに滞在していたが、1901(明治34年)1月末に日本に帰国すると、塾での課外講義を何度も担当した。

22. 巌本善治は、二週間に一度、塾での課外講義を担当した。巌本の講義は、塾の学生から人気が高かったという。

23. 上野栄三郎は、梅子の実姉である琴子の夫、クリスチャン、実業家。現役の実業家として塾の経営と経理財務を指導し、自らの社会的信用と人脈を駆使して、塾のために何度も資金を調達した。

24. 高橋裕子は「1900(明治33年)当時の800円は、2022(令和4年)現在の貨幣価値に換算すると1600万円程度であろう」という趣旨を述べている。

25. 梅子が「華族女学校教授 女子高等師範学校教授、高等官5等、年俸800円」の地位を放棄したことは、周囲を当惑させ、驚愕させたという。

26. 1900(明治33年)911日から13日までの3日間で「入学試験」を梅子とアリスの二人で行った。ただし、この「入学試験」は、選抜試験ではなく、それぞれの学生の学力を把握して、適切なクラス(学年)に振り分けるための試験であった。

27. アリスは兼任していた女子高等師範学校嘱託としての報酬で、梅子は女子高等師範学校講師としての報酬、山階宮家岩崎家三菱財閥)での家庭教師としての報酬で、それぞれ生活していた。梅子とアリスは共に塾に住み込んでいたが、アリスは「家賃」を塾に支払って苦しい経営を助けた。

28. 社団法人女子英学塾が1904(明治37年)の設立された際の理事は津田梅子、大山捨松2名。社員は巌本善治元田作之進新渡戸稲造桜井彦一郎上野栄三郎、阿波松之助の6名。

29. 無試験検定による教員免許状の授与権は、高等師範学校帝国大学・官立高等学校・官立専門学校、及び、「文部省が認可した公立学校・私立学校」に与えられていた。

30. 1922(大正11年)の時点で、日本に「大学令に基づく女子大学」は未だ存在しなかった。女子英学塾を含め、日本の女子高等教育機関は、専門学校令に基づく旧制専門学校のレベルに留まっていた。

31. 関東大震災で東京市麹町区五番町の建物や什器を全て失った塾の財産は、五番町の校地・東京府下小平村の新校地のみであり、塾の基本金(株式会社純資産に相当)は5万円に満たなかった。

32. 1931(昭和6年)の8月末に小平キャンパスの校舎や寄宿舎など主要な建物が竣工し、同年9月から小平キャンパスでの授業を開始した。全工事が完了したのは1932(昭和7年)130日、新築落成式が挙行されたのは同年521日であった。

33. 女子英学塾の英文校名は創設当初から”Tsuda College”であり、日本国内でも「津田塾」と通称されていた。

34. 1935(昭和10年)頃からのアメリカ・イギリスとの関係悪化による「英語不要論」の台頭により、全国の高等女学校の英語科が全廃に近い状態になったことは、アメリカと深い縁を持ち、1900(明治33年)の創設以来、「英語科教師の育成」を第一にして来た塾にとって強烈な逆風となった。塾の卒業生の主な進路である英語科教師の需要は激減し、塾への入学志願者も激減した。津田英学塾塾長を務めていた星野あいは、1942(昭和17年)に、理科(数学科と物理化学科)を増設して、校名から「英学」を外して「津田塾専門学校」とすることを決定して認可を申請し、1943(昭和18年)1月に認可された。

35. 塾の小平キャンパスは、1945(昭和20年)当時の東京市街地、軍需工場、軍事施設のいずれからも遠く離れており、太平洋戦争末期の空襲による被害を免れた。

36. ブリンマー大学の卒業生一覧に名前の記載がある。

37. 中村千代松『実地精査 女子遊学便覧』(女子文壇社、1906国立国会図書館デジタルコレクション)。

38. 塾の開校から10年以上が過ぎた1910年代半ばに塾で学んだ卒業生は、自分の卒業した高等女学校の英語教師が「本校での英語教育の目的は、結婚後に夫の洋書を本棚に逆さに並べないようにすること、輸入品の缶詰の中身が何なのか分かるようにすることである」という旨を言っていた、と回想している。

39. 梅子が自ら塾の教壇に立っていた時代(1900〈明治33年〉の開校から、1916〈大正5年〉頃まで)、梅子のような「英語の正しい発音を教える能力」を有する英語教師は稀であった。

40. 津田塾大学 津田梅子資料室には、梅子が愛用した金側の懐中時計が所蔵されている(津田塾大学デジタルアーカイブ「津田梅子の懐中時計(金時計)」、ファイル名:12_01)。

41. ブリンマー大学はクエーカーが作った大学である。梅子の最大の支援者であるモリス夫人、盟友であるアナ・ハーツホンは共に敬虔なクエーカーであった。

42. ブリンマー大学で梅子と共にトーマス・ハント・モーガンの実験助手を務め、後に生物学者として大成したアイダ・ヘンリエッタ・ハイド英語版)は、1924(大正13年)に来日した際に、梅子が創立した女子英学塾を訪問し、日本の女子教育に対する梅子の貢献を高く評価した。

 

 

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