カティリーナ  ブリニョルフ・ビャルメ  2023.1.12.

 2023.1.12. カティリーナ (3幕のドラマ)

 

著者 ブリニョルフ・ビャルメ(Wikipedia参照)

 

 

22-12 〈内戦〉の世界史』(3)で、17世紀に最も人気を博したイングランドの悲劇」のもとになった物語として紹介

 

第1幕     ローマの国道筋。背景に町の塔や城壁がもうろうと大きく聳え立っている。夕方、カティリーナが物思いに沈み、左手の木に寄りかかっている

カティリーナ ローマは堕落と腐敗に浸っている。目覚めよ

アㇽレブローゲルの使節たち 自らの土地が平和で静かなように頼む

カティリーナ おれがその願いを聞き届けよう

ローマ市内の柱廊でローマ貴族の青年たちが談笑 事態はどんどん悪化していく

ヴェスタの神殿の場

カティリーナ キケロに公然と非難されても、危険に飛び込む

カティリーナの家の一室 カティリーナは妻に会い復讐をやめ、ローマを去る決意をする

地価の洞窟 

カティリーナ 復讐の女神が私の祈りを聞き届けてくれた

 

第2幕     カティリーナの家の一室

カティリーナは、不満を持って復讐をたきつける仲間の青年貴族たちに、ローマを去ることを告げるが、復讐の女神に翻意させられる

居酒屋で、仲間に翻意したことを告げる

 

第3幕     森林地帯にあるカティリーナの陣営

仲間の裏切りで窮地に陥ったカティリーナは、裏切った仲間を許して、自らは傷つき倒れる

 

 

 

 

 

 

日本人へ 第222回  塩野 七生 作家・在イタリア

2022/02/28 文藝春秋

 他の人のことは知らないが、私の場合の執筆の動機は、その人物の歴史上の重要度なんぞにはない。その人が言ったという一句に眼がとまり、このようなことを口にする男とはどんな人間であったのか、に興味を持ったことから始まるので、入り口は常に、学問的どころかすこぶる感覚的。

 冬のある日、翌年の春に東征に発つと決めたアレクサンダーは、出陣の挨拶に旧師を訪れた。50歳に達していたアリストテレスは、今ではマケドニアの王になっているアレクサンダーの少年時代の教師であったのだ。哲学者は、かつての愛弟子が、これだけは少年の頃と変わらない情熱で遠征の計画を話すのを聴いた後で言った。

「これまでは誰一人考えたこともなかった壮大な計画であることはわかった。だが数年にしろ先に延ばすのも悪い選択ではないと思う。その間に経験も積めるし、慎重に対処する利点も学ぶであろうから」

 21歳の若き王は、微笑しながら答えた。

「おっしゃるとおりでしょう。年齢を重ねれば経験も増すだろうし、慎重さも身についてくるでしょう。しかし、若いからこそ充分にある、瞬時に対応する能力は衰えてきます」

 こう言って大遠征を実行するのだが、旧師の心配は当然であったのだ。ギリシア内部は決して一枚岩ではなかった。アテネは消極的。スパルタに至っては敵方のペルシア側に立っていた。財政的にも借金漬け。常識人ならば、ギリシア内をまとめるのを先行すべきと考えたろう。だが、21歳は発ってしまう。

 後世の研究者たちはこのアレクサンダーを、無自覚・無謀・無鉄砲と批判する。しかし、彼ら常識には不足しない人々は、この無鉄砲な若者になぜ10年もの歳月、万を超える男たちがインドくんだりまで従いて行ったのかには答えていない。私が彼の生涯を書いたのは、それを知りたかったからであった。

 ローマがまだ共和政であった時代、反乱が起きそうな事態になる。とはいえ乱は芽のうちに摘めたので当初はまだ大事には至っていなかったのだが、なにしろローマの共和政とは元老院主導の政体のこと。自分たちが的にされたので事態を重要視した元老院は大騒ぎになった。

 執政官のキケロは、共謀者として逮捕されている5人の即死刑を主張する。そしてその意見のほうが大勢を占めた。ところがそれに、執政官にもなっていない30代のカエサルが反対の声をあげたのだ。その理由は、芽のうちに摘めたからにはまだ現実の反乱にはなっていないこと。ゆえに参加の意志ならばあったという人々まで即死刑に処したのでは、法治国家を任ずるローマの法に反してしまう、と。

 カエサルはつづける。

「後になってどれほど悪い事例と断罪されていることでも、それが始められた動機ならば善意から発していたのであった」

「法の実施に際しては、後々までどのような影響を及ぼすかまで考慮して成されねばならない」

 しかし、このときはカエサルが敗れ、キケロが勝つ。5人は死刑に処され、それに絶望したのか主謀者のカティリーナも実際に反乱を起したので、元老院も鎮圧軍を派遣するしかなくなる。こうして史上有名な「カティリーナの乱」も、ジ・エンドになったのだった。とはいえ元老院の強硬策に最後まで反対したカエサルは、元老院を出てきたところで袋だたきに遭う。ただし死にはしなかったので、この14年後にカエサルがルビコンを渡ったことを知った元老院の守旧派は、あのときに殺しておけばよかった、と言い合ったという。

 いずれにしても、「後になってどれほど悪い事例と断罪されていることでも、それが始められたそもそもの動機は善意から発していたのであった」という37歳当時のカエサルの言は、ローマ史以外でも諸々の歴史現象を見ていくうえで、私の胸に深く刻みこまれたのであった。

 西洋中世史最大の反逆児でルネサンス時代の草分けにもなる皇帝フリードリッヒ2世は、800年昔に、21世紀の今なお解決できていないパレスティーナ問題を、一時的にしろ解決した人である。神聖ローマ帝国皇帝というキリスト教世界の俗界の最高位者でありながら、それゆえに十字軍を率いている身でありながら、聖地イェルサレムの再復というキリスト教徒の悲願を、イスラム教徒の血を一滴も流さないで、つまり軍事ではなく外交でやりとげた人なのだ。

 その彼が、キリスト教徒の統治下にもどったイェルサレムに入城したときの話。聖都イェルサレムでの第一夜が明けた次の日の朝、皇帝は挨拶に現われたイスラム側の高官に問いかけた。

「昨日も今日もイスラム教徒に祈りのときを告げるモアヅィンを一度も耳にしなかったが、どうしたのか?」

 高官は、かしこまって答える。

「スルタンから、皇帝がいられる間はモアヅィンの自粛を命ぜられていますので」

 35歳になる神聖ローマ帝国皇帝のフリードリッヒ2世は、笑い出しながら言った。

「それならばあなた方がヨーロッパを訪れたときに、教会の鐘を鳴らせなくなってしまうではないか」

 この男がローマのカトリック教会から破門されキリストの敵とまで非難されたのは、聖都は再復できてもそれを、イスラム教徒の血を流さないで再復したからである。フリードリッヒは、キリスト教に反逆したのではない。彼が反逆したのは、この中世のキリスト教会に対してなのであった。

120日記)

 

 

Wikipedia

ルキウス・セルギウス・カティリナラテン語: Lucius Sergius Catilina, 紀元前108[1] – 紀元前621[2])は、共和政ローマ後期の政務官ルキウス・コルネリウス・スッラの下で頭角を現したが執政官選挙に落選、ローマ転覆を狙ったカティリナの陰謀を起こした。キケロの『カティリナ弾劾演説』や、サッルスティウスの『Bellum Catilinae(カティリナ戦記)』(邦題では『カティリーナの陰謀』)で知られる。

経歴[編集]

ルキウス・カティリナは高貴な生まれ(nobilis)で、心身共に力がみなぎっていたが、その性根(ingenium)はねじれきっていた。若い頃から殺人や略奪に手を染め、不和の中に身を置き、肉体は信じられないほど頑強で、精神は偽り隠すことを好んだ。旺盛な物欲を燃え盛らせ、弁舌はあっても分別はなかった。

サッルスティウス『カティリナ戦記』5.1

出自[編集]

カティリナの出身であるセルギウス氏族アイネイアースと共にイタリアへやってきたとされる。直近の先祖に執政官はいないが、サッルスティウスはノビレスとしている[3]。古くはルキウス・セルギウス・フィデナス (紀元前437)フィデナエの戦い (紀元前437)に参加しており[4]マニウス・セルギウス・フィデナス紀元前404紀元前402執政武官に選出されている[5][6]

青年期[編集]

紀元前89の執政官グナエウス・ポンペイウス・ストラボの配下としての記録が残っており、恐らく彼の下で同盟市戦争を戦い、その後スッラの下でレガトゥスとして反対派のプロスクリプティオに加担した[7][8]キケロの古註によれば、ガイウス・マリウスと同じくアルピヌム出身のグラティディウス氏族から、マリウス家に養子に入ったマルクス・マリウス・グラティディアヌス英語版)の首を取り、スッラの元まで届けたという[9]。自身の妻や兄弟、親戚まで殺したといい[10]、彼のおじもスッラ反対派の粛清に加わっている[11]。また、アウレリア・オレスティッラという女性に溺れ、彼女と結婚するために邪魔だった自分の一人息子を毒殺したという話も残っている[12][13]

キケロによれば、カティリナはプラエトルとしてアフリカ属州を担当したとあり[14]紀元前68のことと考えられている[15]。その後紀元前66までプロプラエトルとしてアフリカに滞在した[16]

第一次陰謀[編集]

キケロの古註によれば、アフリカから帰国すると執政官選挙へ立候補しようとしたが、属州民たちは元老院でカティリナに対する不満をぶちまけており、ルキウス・ウォルカキウス・トゥッルス (紀元前66年の執政官)が彼の立候補を認めるかどうか元老院に諮って却下した[17][18]

サッルスティウスによれば、前66年の12月、執政官選挙に当選したものの選挙運動法(de ambitu)違反で取り消されたプブリウス・アウトロニウスと、貧困のためやけくそになったグナエウス・ピソと共に、翌前65年の元旦に両執政官を襲い、ピソをヒスパニアへ送り込む陰謀を企んだものの事が漏れ、元老院議員まで標的としたが準備不足で頓挫した。ピソはマルクス・リキニウス・クラッススの力添えでヒスパニア・キテリオル担当のクァエストル・プロ・プラエトレ(プラエトル権限)として派遣されたが、任期中にグナエウス・ポンペイウス派に暗殺された[19]。目的は、アウトロニウスらの有罪判決を覆すことであり、成功した暁には彼らがカティリナの紀元前64の執政官就任を後押しする予定であったという[20]

この陰謀の裏に、クラッススとガイウス・ユリウス・カエサルがいたという説がある[21]。この二人は、ポンペイウスに対する東方でのインペリウム付与法(ガビニウス法、マニリウス法)成立後に近づいたとみられ、スッラが東方からローマ市へ帰還した後の粛清の記憶も生々しく、彼らはポンペイウスに対抗するための軍を必要としていた。軍を駐屯させておくのにヒスパニアが最適なことは、当地でクァエストルを務めたカエサルらはよく心得ており、前65年にケンソルを務めたクラッススが手を回して、ピソを送り込んだという[22]。さらに彼らは、プレブス民会エジプト属州化する法案を護民官に提出させ、その長官にカエサルを据えようとしたが、これは同僚ケンソルのクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスが激しく反対したため失敗した[23]

ただ、この第一次陰謀は史料間の整合性から言って、カティリナが関与していた信憑性は低いという指摘もある[24]

執政官への野心[編集]

トルクァトゥスコッタが執政官の年(紀元前65)、カティリナはプブリウス・クロディウス・プルケルから恐喝罪(de repetundis、属州における不法所得返還裁判)で訴えられ、キケロに弁護された[17]。裁判の結果、審判人のうち元老院議員は有罪としたが、エクィテスとトリブニ・アエラリィ(市民のうちの富裕層)によって無罪となった[25]

キケロはこの年7月のアッティクス宛書簡では、カティリナが裁判中のため立候補は無理だろうと予想している。続いての手紙では、

選挙戦での僕の思惑は前詳しく話したね。
今のところ、一緒に立候補するカティリナを弁護するつもりでいる。
訴追人とはうまくやっているから、審判人もうまく選べそうだ。
もし無罪を勝ち取れれば、僕の選挙にも協力してくれるだろう。
もしそうじゃなかったら、まあ我慢するしかないね。

キケロ『アッティクス宛書簡』1.2.1

この年の当選者はカエサルの遠縁であるルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前64年の執政官)であった。カティリナを訴追したクロディウスはクラッススの影響下にあり、おそらくクラッススの贈賄によって無罪を勝ち取ったのではないかとも考えられている[26]。キケロは、クロディウスがカティリナから金をもらって訴追したのだと後に追求している[27]

紀元前64の執政官選挙では立候補できたものの、キケロ他計7人の候補者が乱立し、恐らく因縁のあったキケロのネガティブ・キャンペーンもあって落選、キケロとガイウス・アントニウス・ヒュブリダが当選した[28][29]

第二次陰謀[編集]

詳細は「カティリナ弾劾演説」を参照

カティリナは着席すると、疑惑を否定しようと、
議員たちに向かって、うつろな目で懇願し始めた。
「これまで祖国に貢献してきた貴族である私が国を転覆させ、
それを救うのがあの外国人であるキケロだと!?
そんな馬鹿なことがあっていいものなのか?」
彼の言葉は罵倒の雨によってかき消された。
「よかろう、私を焼き尽くそうというなら、
その炎ごと滅ぼしてくれる!」

サッルスティウス『カティリナ戦記』31

キケロとヒュブリダが執政官の紀元前63、この年は債務不履行が問題となっており[30]、後のアウグストゥスが生まれた年でもあった[31]。再度執政官選挙に立候補したカティリナは債務帳消しを公約に掲げ、スッラの退役軍人や犠牲者からの支持を集めていた。カティリナは他の候補者に対しても威嚇的な態度をとっており、元老院で弁明の機会を与えられたものの挑戦的な態度に終始し、訴追すると脅したマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)に対しても、暴力的な反撃を示唆した。しかし元老院は決定的な処分を下さなかった[32]カッシウス・ディオによれば、キケロの主導によって贈収賄罪に10年間の追放処分が追加され、それを自分を狙ったものとみなしたカティリナは選挙当日キケロを殺害しようと計画したが、暗殺を怖れて胸当てを付けて選挙管理のために現れたキケロを見て、人々はカティリナに反感を抱いたという[33]

選挙は行われたが、またしても落選したカティリナは反乱を企て、共謀者のマンリウスはエトルリアで募兵を開始した[34]。カティリナはスッラの退役軍人に声をかけるためあちこちへ人をやったとされるが、マンリウスはケントゥリオで、恐らくエトルリアのファエスラエへの入植に失敗した人間ではないかとも考えられており[35]1027日に蜂起する予定だったという[36]。サッルスティウスによれば、この年ポンペイウスが東方遠征を行っており、イタリアには軍団がおらず、成功する可能性が高いと踏んだという[37]。それまで懐疑的であった元老院も、そのことを知ると元老院最終決議を行い、執政官キケロらに対して治安維持を命じた。ちょうどこの年、ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスに対する37年前の最終決議による処理を問う裁判があったところだった[38]

118日、最終決議を引き出したものの決定的証拠を掴めていなかったキケロは、ユッピテル・スタトル神殿で元老院を開催した。そこへ陰謀の首謀者であるカティリナも出席したため、キケロは彼を弾劾する演説を行った(『カティリナ弾劾演説』)。ローマ市を離れたカティリナはノビレスたちに自分の無実を訴える手紙を送り、行く先を偽装しつつアッレティウムへ抜け、ファエスラエでマンリウスと合流した。これを知った元老院は彼らを「公敵」と宣言し、執政官ヒュブリダに追討を命じた[39]

カティリナにはローマ市内にも共謀者がおり、執政官経験者のプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スラも含む5人が、123日キケロに逮捕され、追及された。彼らは罪を認め、125日、元老院で対策が協議された。まず翌年の予定執政官のデキムス・ユニウス・シラヌスが死刑を主張、同じく予定執政官のルキウス・リキニウス・ムレナが同調し、執政官経験議員たちも賛同した。しかし予定プラエトルのカエサルが裁判なしでローマ市民を処刑することの違法性などを指摘し、彼らを地方に隔離することを提案した。この提案にはシラヌスも賛同し、多くのものたちが同調しかけたところ、予定護民官の小カトが強硬に死刑を主張。結局これに議員のほぼ全員が賛同し、共謀者たちは執政官キケロの命令で処刑された[40][41]

最期[編集]

糧食に乏しい我々がどこへ向かおうとも、
剣によってその行く先を作らねばならないのだ。
・・・隘路に位置することで敵の包囲を受けることもない。
運命が味方しなかったとしても、一矢も報いずにおめおめとは死ねまい。
敵に捕まって家畜のように屠殺されるよりは、
戦士として、力の限り敵を屠ってから果てようではないか。

サッルスティウス『カティリナ戦記』58

その間、カティリナは2つの軍団を召集し、最大2万の兵を集めることに成功していたが、ローマでの処刑の話が伝わるとその数も減り、紀元前621月、ピストリアからガリアの地へ向かおうとした。しかし彼の地にはクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルがおり妨害したため、カティリナは背後から迫る元執政官(プロコンスル[42])のヒュブリダを迎え撃った。兵士たちの前で演説を行うと、最前列で奮戦し、勝ち目がないと見るや敵陣に突入して散った。彼と共に戦った3000の兵たちも、誰一人として逃げることなく戦死したという[43]。彼が行った演説やその最期からは、貴族としての矜持と道徳性すら覗え、本当にキケロが言う程の悪漢であった(とサッルスティウスが考えていた)のか疑問も呈されている[44]。サッルスティウスとカティリナの経歴の類似性も指摘されている[45]

この反乱では、元老院議員の一人が彼の陣営に走ろうとする息子を「カティリナのためにではなく、国のためにカティリナと戦うように育てたのに」として斬ったという逸話や[46]、反乱によって資産価格が暴落し、資産家であっても返済が滞るものが出たが、大口債権者の一人が「同胞の血で金を稼ぐものではない」と言って返済を猶予したため、彼に感謝する元老院決議が行われたという逸話が残っている[47]

 

 

ヘンリック(ヘンリク)・イプセンHenrik Johan Ibsen ノルウェー語[ˈhɛ̀nrɪk ˈɪ̀psn̩]1828320 - 1906523)は、ノルウェー劇作家詩人舞台監督。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」と称される[1]シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家とも言われる。

初期のペンネーム:ブリニョルフ・ビャルメ

代表作には、『ブラン』『ペール・ギュント』(1867年に執筆。1874年にグリーグに劇音楽の作曲を依頼する。)『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがある。自身はノルウェーを嫌い、長くドイツイタリアで生活したため、ノルウェーの国民作家という意識は薄かったが、現在は国の象徴、そして世界史上最も重要な劇作家の一人として尊敬され、長らくノルウェーの最高額面の1000クローネ紙幣にその肖像が描かれていた。

l  執筆言語[編集]

イプセンの執筆言語は「ノルウェー語[2]」、「デンマーク語[3]」、「デンマーク・ノルウェー語[4]」、「ブークモール[5]」、「リクスモール[6]」などと言われる場合があるが、これは19世紀までノルウェーでは宗主国の言語であるデンマーク語が書き言葉として使用されていたためである[3]。言語学者のクヌート・クヌーツェンは19世紀後半に書き言葉を徐々にノルウェー化することを提唱し、この言語はやがてリクスモール、のちにブークモールと呼ばれるようになった[5]。イプセンはこのデンマーク語がノルウェー式に変化しつつある時代のリクスモール(のちのブークモール)で著作を執筆していた[5][6]21世紀に使用されているノルウェー語とは大きく異なるため、ノルウェーで上演を行う時も戯曲テクストを現代の観客にわかるよう変更する必要がある場合が多い[7]

l  世界への影響[編集]

イプセンの劇は同時代の多くの人にスキャンダラスと考えられた。当時は家庭生活や礼儀についてのヴィクトリア朝的価値観がヨーロッパで大きく広まっており、それらに対するいかなる挑戦も不道徳的で非常識とされていたためである。イプセンは生活状況や道徳問題についての批評的な眼や疑問を紹介するため、主に現代劇に基礎を置いた。ヴィクトリア朝の演劇には、悪の力に立ち向かう高潔な主人公が期待されており、あらゆる劇は善が幸福をもたらし、不道徳は苦痛のみをもたらすという、道徳的にふさわしい結末で終わった。イプセンはこの考えと当時の信仰に挑み、観客の持つ幻想を破壊した。

日本の新劇運動はイプセン劇の上演から始まったといえる(参照:市川左團次 (2代目) 文芸協会)。『人形の家』の主人公ノラ(ノーラ[8])は当時の「新しい女」として語られた。その作品群は今日でも演劇界に影響を与え続けている。中国においても、『新青年』第四巻六号(19186月)がイプセン特集を組むなど、五四運動期に熱狂的に紹介され、女性解放運動に大きな影響を与えたほか、話劇の形成にも直接の影響を与えた。

2007年にはノルウェー政府により国際イプセン賞が創設された。

l  作品[編集]

カティリーナ(Catilina, 1850年)

勇士の塚(Kjæmpehøjen, 1850年)

ノルマ、または政治家の恋(Norma eller en Politikers Kjaerlighed, 1851年)

聖ヨハネ祭の夜(Sancthansnatten, 1852年)

エストロートのインゲル夫人(Fru Inger til Østeraad, 1854年)

ソールハウグの宴(Gildet paa Solhoug 1855年)

オーラフ・リッレクランス(Olaf Liljekrans, 1856年)

ヘルゲランの勇士たち(Hærmændene paa Helgeland, 1857年)

愛の喜劇(Kjærlighedens Komedie, 1862年)

王位請求者たち(Kongs-Emnerne, 1863年)

ブラン(Brand, 1865年)

ペール・ギュントPeer Gynt, 1867年)

青年同盟(De unges Forbund, 1869年)

皇帝とガリラヤ人(Kejser og Galilæer, 1873年)

社会の柱(Samfundets støtter, 1877年)

人形の家Et dukkehjem, 1879年)

幽霊(Gengangere, 1881年)

民衆の敵En Folkefiende, 1882年)

野鴨(Vildanden, 1884年)

ロスメルスホルム(Rosmersholm, 1886年)

海の夫人(Fruen fra havet, 1888年)

ヘッダ・ガーブレルHedda Gabler, 1890年)

棟梁ソルネス(Bygmester Solness, 1892年)

小さなエヨルフ(Lille Eyolf, 1894年)

ヨーン・ガブリエル・ボルクマンJohn Gabriel Borkman, 1896年)

わたしたち死んだものが目覚めたら(Når vi døde vågner, 1899年)

 

 

 

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